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「こ」


2024年鑑賞作品

告白 コンフェッション
2024年 74分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:幸修司 高田亮
撮影:木村信也 音楽:宅見将典
出演:生田斗真 ヤン・イクチュン 奈緒


2024/6/2/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
ヤン・イクチュン!もう飛び上がって足を運んじゃう。デビュー作以来、監督作品にお目にかかれていないのが寂しいが(私がリサーチ出来てないだけかも)、役者として何度も日本の作品に呼ばれるのが本当に嬉しい。
んでもって本作は生田斗真氏と、なぁんと(ほぼ)二人っきり。思いもかけない掛け合わせで、もう一体どうなっちゃうの!とワクワク。

公式サイトでも予想通りかなり注意喚起しているし、オチバレ絶対ダメというのは判っちゃいるが、さすがにまだ言わないが、でもここではいつもそうなように、まぁ早めに言っちゃうであろう(爆)。
そのオチに向かって、というか、浅井が密かに抱えていた秘密が、彼自身がなんとか封じ込めていたそれが、爆発するまでの間の時間をひたすら埋めるかのような二人のバトルという構成。

ほぼ、9割と言っていいぐらいの尺をとってる。本作が74分という短い尺であることを考えると、オチを明かしちゃえば、ああそうだよねということになっちゃうから、ひたすら引き延ばしているような感もなくはない。
ジヨン(ヤン・イクチュン)に怯えて逃げ惑う浅井、という図式から段々と、浅井が、彼に殺されるかもしれないという、いわば恐れを言い訳にした逆殺意によって怯えながらも反撃していくという図式。
雪山、山小屋での、二階、梯子、一階と二階をつなぐ床ドア、トイレ、倉庫、もう縦横無尽に追いかけっこなんである。

おっと、そもそもの物語を記さなければ。生田氏演じる浅井、ヤン・イクチュン氏演じるジヨンは大学の山岳部仲間。同じサークル仲間である奈緒氏演じるさゆりが遭難し行方不明になってから10数年、毎年二人で慰霊登山を続けてきた。
猛吹雪の雪山、足を怪我して動けなくなったジヨンは死を覚悟して、衝撃の告白をした。さゆりは遭難したんじゃなく、自分が殺したんだと。

後から思えば、本当に死を覚悟したから告白したのかな、実は彼は、その先のオチも知っていたんじゃないかと思ったりもする。
だってあのまま放置した彼女の遺体が、何故誰からも見つからなかったか、という不審が残るんだもの。だからといってその先の浅井の行為からの先、が示される訳じゃないのだが。

あわわ、早くもオチ言いそうになってしまった。もう言うだけムダだけど、もうちょっと我慢。
浅井はジヨンの告白に驚愕し、もうここで死ぬんだと諦めモードのジヨンを励まし、吹雪の隙間に見えたすぐそこの山小屋に、助かるぞ!と肩を貸し、なんとか二人で山小屋に転げ込むんである。

こんなことを言っちゃったらアレだが、あんな結末になるのなら、浅井はここで、ジヨンの言う通り、彼を助けるのを諦めてしまった方が良かったのかもしれない。
いや、そんなことを言うのは良くない。浅井が自分も危なくなる危険を冒して“親友”を励まし、山小屋までたどり着いたのは人道的に正しい選択に違いない。ただ、彼はそもそも過去に人道的ではなかった訳で……あわわ。

うーむ、難しい。オチを避けて語るのは難しいな。もうちょっと頑張ろう。“親友”などとカッコ付きで書いちゃったのは当然、その危うさが暴かれるから。
確かに、浅井は、そりゃまぁこんな衝撃の告白をされたらさもありなんとは思いながら、それにしてもおどおどしすぎだとは思っていた。なぜ今更そんなことを告白するのだ、という戸惑い、という以上に怯えというか、恐怖と言ってもいいぐらいの感じを受けた。

確かに、ちょっとそれはおかしいのだ。そりゃ、遭難したと思っていたのが実は殺されていた、しかも親友にというのは、衝撃に違いない。でも、親友が、死ぬかもしれないから告白した、というのならば、驚きながらも許容して、じっくり話を聞く、というのが流れだったのだろう。
そのことに気付くのが遅れた、というか、気づかなかった。遭難しかけた雪山というシチュエイションで、テンパっているのがまぁそれはそうだよねと思ってしまっていた。浅井のうろたえぶりが、殺人の告白を受けたんだからそりゃそうだよねと思ってしまった、思わせられたことがワナだったのだ。
親友親友と繰り返し、なのに聞かなかったことにする、なんて言葉を優しさのように発しながらそれは苦しみの吐露を受け付けないという絶対的拒否そのものだし。このおかしさに、何で気づかなかったのかなぁ。

もう、そろそろ、いいよね。浅井はジヨンがさゆりを絞殺していたのを見ていた。いや、絞殺まで、行かなかった。息を吹き返したさゆりを、更に首を絞めつけてとどめを刺したのが浅井だった。
だから、真の殺人犯は浅井なんである。浅井がジヨンの告白にひどくおろおろしたのは、ジヨンがそれを知っているんじゃないかと思っていたからじゃないのか。だって、そうじゃなかったら、あんなにも恐れるだろうか。

てゆー、オチが示されるまでの本作のメイン展開は、ドリフとシャイニングの混合試合と言いたい。ヤン・イクチュンがね、まさに悪鬼と化して、浅井が逃げ惑うそこここにヤァー!!とばかりに現れるのよ。その恐ろしさはシャイニングのジャック・ニコルソンそのもの。だってさ、斧で扉をガンガン破ったり、シャイニングまんまやん!!と嬉しくなってしまう。
ドリフというのは、あれよ、志村後ろ!よ。ジヨンが後ろにぼんやり控えているのを、浅井は気づかない。そんな展開が何度もあって、うわー、これ、ドリフじゃん、って。どちらもさ、監督さんは私と同じ世代だから、この読みは当たっているんじゃないかと思ってるんだけど、どう、どう?

だからね、結構な尺を使う二人のおっかけっこバトルの間は、浅井の恐怖にひきつった顔と、ジヨンの悪鬼と化した顔、めちゃくちゃドシリアスではあるんだけど、結構ニヤニヤしながら見ちゃってて。
だから……大オチが来るのは、なんとなく予測はしていた。だって、最初にオチが来てあとはバトルのみで終わるってことはさすがにないだろうからとは思ったけれど、なんか、精神的懺悔な感じなのかなと思っていたから、驚きであった。

さゆりは、妊娠していたんだという。それを、浅井はジヨンから、彼女を殺してしまったジヨンの懺悔から聞いた筈なのに、すべてが夢だった、みたいなところから覚めた浅井がジヨンにうっかり吐露すると、ジヨンはきょとんとした顔をしたんであった。
心底、ゾッとした。どこまでが本当なのか。あんなにも恐ろし追っかけっこバトルをしていたのが、まさかすべてが夢オチだというんなら、そりゃねーよと映画ファンとしてクレームを入れる気マンマンである。

でもどうやら……そうじゃないらしい。シャイニング&ドリフな追っかけっこバトルはひょっとしたら悪夢だったのかもしれないけれど、遭難しかけた時の告白はきっと本当で、そこから浅井は自分の罪を呼び覚まされた“親友”を正当に殺せる理由を模索しての、この妄想だったのか。

ジヨン、演じるヤン・イクチュンは、劇中9割は悪鬼のごとき形相で浅井を追い回す。それ以外の場面でも妙に冷静に、救助を待っている。ラスト前、この恐怖の追っかけっこがすべて夢だったんじゃないかみたいに浅井が目覚める前までのジヨンである。
つまり……シャイニングであり、ドリフであるジヨンは存在しなかったんではないかということなんである。浅井が見ていた悪夢は、彼がしでかしたことがベースになっているから。でもそれは、もう死ぬかもしれないとジヨンが思って告白した殺人があって……。

こうして、図式を組み立て直して考えると、あぁ、ジヨンは、浅井に対して疑念も殺意もなかったのに、告白されたことで浅井が逆恨みというか、なんで言っちゃったんだよ、俺が見逃してやってたのに、みたいな。
ああでも、判らない。冒頭言ったように、ジヨンもまた、浅井がジヨンの行為を覗き見ていたように、ジヨンも、浅井が彼女にとどめを刺したところを見ていたんじゃないかって気がしてしまう、その感覚がぬぐえないのは、……浅井の後ろめたさに感応してしまっているからなのか。

ヤン・イクチュンの次第に狂気しまくっていくのはまさに、ヤン・イクチュン!!というスリリングさだが、私だけじゃないと思う、ヤン・イクチュンは、その素朴な可愛らしさに胸キュンしちゃうのだよ。
留学生時代の彼の可愛らしさ、主にさゆりを殺してしまう場面に終始しちゃうのがツラいのだが、それでも、それでもなぜか、いや、だからこそなのか。孤独の中にいた彼が、友情と恋愛という純粋なエリアの中に、蔑みやプライドといったどす黒いものが紛れ込んで、それが……混ざりあって分離できないまま、今この雪山に来てしまったのが、あの素朴な可愛らしい彼が、しっかりこの場面の、悔悟と憎悪につながっちまってるってことが、すんなり判っちゃうってことが、ツライなぁと思って……。

でも、結果的に、というか、基本的に、エンタメなんだよね。最後の最後のシーン、高山病で目が見えなくなったり、妄想だか夢だか判らなくなった先に、救助隊の目の前でジヨンをザクザク刺し殺している浅井。
つまり親友の告白によって動揺してしまったことで、自ら妄想の先の狂った世界に身を投じて、ふと気づいてみたら親友をブサブサ殺してしまっている、という結果に陥っている、というこの流れ自体、完璧なエンタメ。すべてが妄想だと言ってしまうことも出来るという、ちょっとズルいなと感じたりもして。

韓国からの留学生、彼の年齢を考えればふた昔前ぐらいの。今はきっとそうじゃない(ことを信じてる)だろうけれど、ジヨンが言うように、憐み蔑み、利用され、そこに恋愛感情が絡んだら……ああ、と思う。
今はジヨンは浅井に怒りと憎しみをぶつけるしかないけれど、それは、さゆりを殺してしまって、彼女が今はもう、いないからなのだ。同じ感情で彼女を殺してしまったとしたって、それを肯定してしまったら、もう自分自身、生きていけない。だから、浅井にぶつけるしかないんだ。
そう考えたら、なんて辛いんだと思うし、ふた昔前に、こんな感情を抱えた留学生たちが、きっと他にもいたんだろうと思って……。★★★☆☆


52ヘルツのクジラたち
2024年 135分 日本 カラー
監督:成島出 脚本:龍居由佳里
撮影:相馬大輔 音楽:小林洋平
出演:杉咲花 志尊淳 宮沢氷魚 小野花梨 桑名桃李 金子大地 西野七瀬 真飛聖 池谷のぶえ 余貴美子 倍賞美津子

2024/4/3/水 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
指定席というのはうらめしい。チケットとった時にはお隣にいなかったのに、埋まってしまった。こんなことなら一列前にすれば良かった。いや、いつもなら、ちょっとあーあとは思うものの、観始めてしまえば全く気にならないものだが、今回は……お隣さんに先に泣かれてしまった。
泣きの映画だと思っていたし、結構あっさり泣くオバハンの私も、泣く気マンマンで出かけていたのだが、一緒に見に来たわけでもないのにお隣ですんすん泣かれてしまったら、涙が引っ込んでしまった。
お隣さんはそこから最後までずっとハンカチを目に当てていたのだが、そのおかげというか……なんか妙に、冷静に見れちゃったのは良かったのかどうなのか。

素晴らしい役者さんたちばかりの素晴らしいお芝居なのは間違いないのだけれど、それこそスクリーンの中で節目節目に本気泣きされるごとに、それこそお隣さんが呼応してハンカチを使うたびに、どうなんだろうなぁ……という気持ちが積み重なっていったのは、何故だったのか。
彼や彼女は本当に辛い目にあい、必死にアイデンティティを保とうとし、愛を求めていいのかと逡巡し、その姿にケチをつけるなんて、確かにとんでもない、のだけれど、共感できるのかと言ったら、どうなのか。

いや、良くない良くない、誰しもが強くなんかないし、後悔ばかりの人生じゃないの。でも……節目節目に泣きじゃくる彼や彼女に、そこに至るスタンスに、余りにもの弱さを感じてしまったから……それは、きっと、映画の尺の問題もあるのだと思う。
現代社会の流行り言葉のようにさえなっている多様性という人物像が、数多く登場する。一人一人で一本の映画が出来るぐらいなのだから、それが複数存在して、絡み合う物語となったら、原作となった小説ではまた違った味わいだったのだろうかとも思う。

奥歯にものが挟まったような言い方ばかりじゃしょうがないから、私のもやもやを最初から検証したい。情報に当たっていなかったから、志尊淳氏が演じるのが、元男性なのか、元女性なのか、彼がそうなのだと明示する、自ら注射をしている場面に至っても、決定的な場面になるまで判らなかった。
今の男性の見た目から、女性になろうとしているのか、その逆なのか。それが判ったとてどうともないのかもしれないけれど、彼の同僚でヒロインの親友は知っていたのか……知らなかったんだろうなぁ。親にも言えなかったぐらいなんだから。

あぁもう、訳が判らない。話を整理しなければ。杉咲花氏演じるヒロイン、貴瑚が小さな海辺の町に引っ越してくるところから始まる。いかにもワケアリな彼女は確かにワケアリ、その事情は細かく刻んでさかのぼる形で小出しにされていく。
この海辺の町で貴瑚は口のきけない少年と出会う。少年、とは思わなかった。髪が長かったから、とは古臭い価値観だけれど。髪を伸ばしている理由も後に明らかになるのだけれど、この子のそんな描写もまた、トランスジェンダーである安吾に投影しているのだろうと思う。男か女かなんてことじゃなく、一人の人間として生きていくのだと。

この少年の名前はしばらく判らない。喋れないってこともあるけれど、シングルマザーである彼の母親が毒親で、体中にあるあざを貴瑚が発見し、貴瑚は自らそういう目に遭っていたから、この母親と対峙するんである。
この毒親である母親が、なんつーか、めちゃくちゃ既視感があるというか、望まない出産をして子供にそのストレスをぶつける無責任な母親という造形で。

ひと昔、いや、ふた昔前ならば、こういうキャラ造形に対してひでー女、母親の資格なし!と共感ポイントを得られたと思う。
でも今では……彼女の苦しさを、暴力をふるってしまう心の内を、それをこそ治していくべき、そうでなければ社会は同じことを繰り返すのだから、という段階に来ていると思うから……この母親の描写は、ミニスカで男に色目を使ってとか、なんか懐かしいほどに古臭いことに対して、腹立たしかったんだよなぁ。

貴瑚は父親(しかも義理のだ)の介護をワンオペで押し付けられ、母親と共依存の状態であった。父親が誤嚥性肺炎になり、その責任をなじられ、貴瑚は発作的にトラックの前で棒立ちになった……ところを助けたのが安吾だった。
一緒にいた同僚の美晴が貴瑚の学生時代の親友だったという、ちょっとありえない偶然にはまぁ、目をつぶっとこうか。この美晴がめちゃくちゃイイ子で、もう最後まで、この優しく勇気のある親友に貴瑚は助けられっぱなしなのだ。

黙って姿を消した貴瑚に、死んだかと思ったよ!!と心配した美晴。本当にそうだよ!!
結局貴瑚は、確かに彼女はめちゃくちゃしんどい思いをしたし、親友が自分を心配していることなど考えられないほどの状況に陥ったのだろうけれど、基本、友達の心配を想像できない人を、私は信用できないと思うんだよなぁ。

そんな風に思うほどに……貴瑚はなんつーか、愚かなんだもの。あぁ、こんなことを言ってはいけない。だって、共依存の母親から愛という名のもとに虐待され、自分が死んだらいいのだと思い詰めるほどの前半の人生だったのだから。
そこを菩薩のような安吾に救い出される。公的機関をまわってきちんと整え、貴瑚を地獄から救い出す。当然貴瑚は恋心を抱くし、安吾の献身っぷりも観客側にそれと予測されたのだけれど……。

もう冒頭で、なぜあなたは先に行ってしまったの、と幻の安吾に語り掛ける貴瑚、なのだから、彼の死の真相にたどり着くまでの旅なのだと提示される辛さ、なんである。
そしてその真相は予想以上に辛く、ハッキリ言って、貴瑚、おめーのせいだろ、と言いたくなる……いやいや、違う違う、貴瑚の交際相手のクソ男、新名のせいだ。
判ってる。でも……貴瑚が、このクソ男の元に結果的に最後まで帰っていったから、なんでこの男の元に帰っていくのかと歯噛みしていたから、お隣さんが何度も目頭を押さえても、共感の涙を流す訳にはいかなかったのだ。

いやそれも、少し違う、気がする。確かに新名はクソ男。貴瑚が安吾の助けを得て自立の道にたどり着き、職を得た会社の御曹司。言ってみれば安吾が送り込んだ場所と言えなくもない。
会社でのちょっとしたケンカに巻き込まれてけがをした貴瑚、居合わせた新名。謝罪する新名に恐縮する貴瑚。あっという間に親密になっちゃう。初めてなの?とか言って、貴瑚の部屋に入り込んじゃう。

本性を出していない前半部分は、誠実な青年に見えた、確かに。でも、二人のための場所だと、バブリーな高層部屋を用意した時点で、いやいや、そもそも貴瑚が、それまでの人生で味わったことのないセレブリティなデートを重ねている時点で、これはないなと思った。
貴瑚の恩人と会いたいと、安吾に会った時、女性だと思い込んでいたというのはそうなんだろうけれど、男性ならば、即そういう関係性を疑った。……まぁ実際、彼の差別的な直感は当たっていた訳だ。貴瑚と安吾は、結ばれないまでも両想いだったんだから。

嫉妬というか、プライドに狂って新名は安吾の秘密を暴いてしまう。いや、それは、安吾が、新名と対峙して、コイツは貴瑚を幸せに出来る男じゃないと確信した安吾が、あまりに素直過ぎる、貴瑚と別れろという直談判に至ったから、なんだけれど。

てゆーかさ、新名が、最初から貴瑚を愛人にするつもりだった、親が決めたから仕方ないとか言って、ずっと付き合ってきた恋人との結婚を自分は被害者だからみたいな顔して言う時点で、こんなクソ男から離れるのが当然だったのに。まさに安吾の言う通りだったのに。
その後もズルズルとこの男の口車に乗って、貴瑚があのセレブな部屋に戻りつづけているのがはぁ??とこっちは思っちゃって、今更節目節目に泣いても、共感できるか!!とイカっちゃうしさ。

うーん……でも、安吾側も、ちょっと微妙な部分は、ある。これは冒頭に逡巡して書いてしまったこと……誰しもが強い訳じゃない、親に虐待された過去を持つ人や、トランスジェンダーの人の、数少ない、メディアに出て語れる人たち以外に、たっくさんの、苦しんでいる人たちがいることは判っている。
でも、だからといって、こうした人たちを描写するにあたって、肝心な決断の時に、一番ダメな答えを出し続けて、そして周囲を心配させ、泣かせて、なのにあなたは頑張ったね、なんて着地させるなんて、しょうがない、弱い人たちなんだからと、言っているようなもんじゃないのか??
無責任なことを言っているのは判ってる。だって私は当事者じゃない。友人知人にもいない。でも、出会いたいと思っているのに、こんな風に拒絶されてしまったらさぁ……。

安吾の母親の気持ちに、私たちは最も近いかもしれない。打ち明けてくれなかったことに、心を痛めている。安吾が自殺してしまったことに、母親は、あなたのままでいいんだと言えばよかったと後悔した。女には戻れないの?という一言を死ぬほど後悔したんだろうと思う。
でも、そもそも打ち明けられていないところに突然娘が息子になっていたんだから。そして、新名によって残酷な暴露をされたんだから。

でも、でもさぁ、貴瑚が安吾に決死の愛の告白をした時、そしてその後だって、やっぱりやっぱり、安吾は、いや、安さんは、貴瑚に、打ち明けてほしかったと思う。
貴瑚の幸せを願うことが彼の幸せなのだというのは重々判る。彼女の幸せが、自分の愛によっては叶えられないと思い込んでいることが、正直、今の時代でもダメなのかと、絶望する。

確かに、LGBTQ+や多様性の時代と言われ出したのは最近であり、当事者たちにとってはまだまだハードルが高いのだろう。
でも、創作物の中では強さを出してもらいたいし、むしろ、人間としての弱さばかりを強調して、それによって泣きの共感を得ようとしている気さえしてしまう。本気の泣きの芝居節目に挟まれちゃうから余計に、さぁ……。

だって、だってさ、いくらなんでも安吾が自殺すること、ないじゃん。クソ男の新名によって自身が女だったことが明らかにされ、母親を呆然とさせ、安吾は獣のような咆哮をする。
ちょっとね、釈然としなかったんだよね。だって、覚悟を持って自身の性自認の男として生きていく決意をして、田舎を捨ててまで、今いるんでしょ。母親にカムアウト出来てないのは判るけど、それを暴露されて、死ぬのはどうなのかなぁ……。

だって、母親は困惑はしたけれど、愛をもって我が子を受け止めたのに。死んでしまったら、母親も、貴瑚も、彼に関わったすべての人が、傷つくのに。
自殺って、めちゃくちゃ覚悟をもったことだし、責めるべきことじゃないけど、安吾の、本作の、彼が選択したことは、全然共感出来なかった。これを、性自認で悩んでいる人の結末として描写するのはサイアクだと思った。
当事者じゃないけど……だからこそ、きちんと想像をはたらかせるべきだと思ったし、死んじゃダメなんだよ!死ぬことで、その描写で、泣かせるとか、泣ける映画だとか、絶対ダメなんだってば!!

そして、この期に及んでも貴瑚が新名の元に戻っていくことが、本当に訳が判らん……。確かに新名宛の遺書はあったけれど、それを渡す必要があったとは思えない。新名のせいで安さんが死んでしまったのだと言いに行ったのか。
案の定、これで厄介払いが出来たとばかりの新名は遺書を読みもせずに焼き捨て、絶望した貴瑚は包丁を自らの腹に突き立てる。なぜそうなるのだ……。彼女の腹の傷の事情はどこで明かされるのかずっと待ってはいたけれど、これはないよ。しかも新名は泣き叫ぶばかりで全然救急車呼ばないし。死んじまうだろ。

貴瑚が保護した虐待されていた少年、その後の貴瑚の奮闘、親友の美晴や地元の青年とその祖母とのシークエンスは、未来を感じさせた。
こういう感覚が、結婚、事実婚、シングルマザー、シングルファザー、夫婦別姓、あらゆることが少しずついい方向に向かっていってほしいと思う。本作は、役者さんたちの演技は素晴らしかったけど、泣きに騙されないぞ!と思っちゃうような……女はいつも、闘いモードなもんだからさ。★★★☆☆


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