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「し」


2024年鑑賞作品

地獄のSE
2024年 72分 日本 カラー
監督:川上さわ 脚本:川上さわ
撮影:アガツマ 音楽:honninman
出演:綴由良 わたしのような天気 瞳水ひまり 海沼未羽 るかぴ 橋村いつか  斉藤天鼓 矢野昌幸 幡乃美帆


2024/11/6/水 劇場(ポレポレ東中野)
うわぁあー、どうしよう、判らない。脚本を全部読ませてください、どう受け止めたらいいの、どうしよう!と思っていたら、上映後トークがあるとのこと。すがる思いで川上さわ監督と、お相手しているこちらもお若い女性の映画監督のトークを聞いてみたら、なんだかホッとした。
判んなくてもいいのだ。自分の思うままに受け止めればいいんだ。そしてこれは、一編の詩なのだと。映画は自由で、何をしたって良くて、どんなふうに感じ取ったっていいんだと、判っていたつもりなのに、だから映画が大好きだった筈なのに、正解を当てなければダメな気がしていた、いつの間にか。あぁ、半世紀も生きて、私ゃすっかり年をとってしまったんだなぁ。

予告編ではクリアな映像に見えていたんだけれど、ホームビデオか、かつての8ミリを思わせるような絶妙にやわらかなピントの映像に、どこか別の星での出来事を取材報告されているようなとぼけた感覚にとらわれる。
そもそも始まり方がとても変わってる。画面いっぱいに物言わぬモノローグとでも言いたい彼の心情がズラーーーッ!と滝のように流れてくる。そのバックには何とも気になる画がおかれているようなのだけれど、その文字を追うのに必死で全然確認できない。
電車の中で狂っていた男が平然と街に出て行ったこと、姉が死んだこと、その狂いを彼自身がどうしようも出来なかったとか、そんなことだったと思うが、咀嚼するひまもなく、この唯一無二の個性オンリーワンな映画は始まる。

彼、と言ったけれど、確かに彼なのだけれど、主人公の天野モモを演じるのは確実に女性の綴由良氏であり、その友達の吉行も確実に女性だし、天野が恋する早坂さんもは女子生徒でそのまんま女性。
あれ、これは宝塚みたいにすべてを女性が演じるのかしらんと思っていたら、校長や担任教師は男性だし、後半、文化祭のシークエンスで登場する生徒たちは普通に男の子たちがいるんである。こんな思い切った世界観をぶちこんでくる才能には初めて出会う。

しかも、天野が恋する早坂さんにならってやたらといじくりまわすのが、使用済みの生理用ナプキンという生々しさで、こ、これは…凄いフェティシズムぶっこんできた!!と驚愕する。
まさかホントの使用済みではなかろうが、そう思えるぐらいに生々しい出来具合で、天野はそれをスース―して、あの時なんて言っていたか……ひとんちのトイレの匂いと言っていただろうか、もう衝撃的過ぎて脳が追いつかない。

それは……女子にとって絶対に外に出す訳もない、だって“汚物”なんだもん、とこう書いてみちゃったら、あれ、これっておかしい、というか。
だって生理現象だし、赤ちゃんを産むため、赤ちゃんのもとと言ってもいいものなのに、汚物、汚物入れに入れられる使用済みナプキンであり、ひめごとであり、女子以外、つまり男子がそれを目にすることがある訳がない、究極の忌みごととしてきたのだ。忌まわしきこと、ぐらいにさ。

あぁ、なんということだ確かに、それを男社会は忌み嫌って、寿司職人にも、杜氏にも、女性はなれなかったのだ。
……すみません、クサレフェミニズム野郎は、そーゆー方向に受け取ってしまった。でも自由に受け止められることが映画だからと、安心をいただいたからさ!

そう、汚物入れに入れられる、忌み嫌われる使用済みナプキンと思っていたことが、こんな思いがけないフェティシズムで外の世界に出され、しかもそのフェティシズムを表明しているのは女の子が演じる、女の子なのだ(なんかややこしい言い方だが)。
そして、その女の子、早坂さんを恋している天野を演じているのも、はっきりと女子であって……一見して腐女子が喜びそうな図式に見えなくもないけど、でも天野は、女子が演じているけど、男子で、使用済みナプキン、どころじゃなく、女子便に忍び込むことだって秘密の大冒険なのだ。

使用済みナプキン……これにばかり、とらわれてしまう、ドキドキとしてしまう。女子にとっては見慣れたものだけれど、それが男子、どころか、映画として映し出されるなんて思いもしなくて、動揺してしまう。
女子にとっての最後の秘密だったのかもしれないと思う。そしてそれが早々に暴かれて、そしてそれこそが尊いもののように持ち出されることに、驚きしかなくって。

てゆーか、中学生だったんだ、とも思って……。女の子が、髪も長いままに学ランの男の子を演じているし、交わされる会話がなんつーか、とらえどころがないというか、哲学的というか、形而上学的というか。
だもんで、これが、台詞にすべて字幕がついていて、ありがたい、と思いながら見ていたんだけれど……字幕がついてて、すべてがしっかりと読みとれるのに、全然ついていけなくて、もうなんか、彼ら彼女らの会話について考察してレポート提出しなきゃいけないっていうレベルなのだ。

ちょっと変わった女の子である早坂さんに対する恋心を、親友である吉行は牽制し、そこに上位チームっていう感じの島倉君(これまた女子が演じてる)が突然乱入してまるでジャイアンのように彼らを下に見て罵倒しまくり、なのに島倉君は突然、……恐らく自殺で死んでしまう。
あまりにもの目くるめく展開に息も絶え絶え状態だが、でもそもそも、本作はその最初から、死というものがとても身近に、言ってしまえば親しみやすいぐらいに手近にあって、それ以上に喪失感が満ち満ちていた。非現実的なほどに。いや、そもそもこの世界観がザ・非現実的なのだから、そう言ってしまうのもアレなのだけれど。

校長先生の朝礼を聞いているのは天野と吉行のたった二人。だからなのか校長先生は次第に保護猫を飼い始めた話などし出す。面白い、というか、奇妙なのは、これを二人は、世間によくある校長の長い話と受け流しているのだけれど、かすかに聞こえているのはそんな話で。
そしてその後描写される学校の様子は、時折普通の教室の様子にも見えるんだけれど、でも最終的に、まさにこの朝礼の様子こそがこの学校そのもの、ほぼすべての机に一輪挿しの花瓶が置かれ、保健室の先生がこれが日課なのですとでも言うように、花束から一輪一輪、花瓶に投げ入れてゆく。

いじめられて死んだ子の机に、残酷な後追いの嫌がらせとしての一輪挿し、それが、教室のほぼすべての机に行き渡っているという画は、思いもよらなかったし、とても怖いのだけれど、でもそれさえも本作の中の異世界的ライトな描写として点描されていく。

そもそもこの保健室の先生が、後に自ら命を断ってしまう教師の悩みを適当に受け流していたり、ラストシークエンスで猟奇的殺戮シーンに遭遇しても、ありゃりゃとつぶやきタバコを一服つけたり、彼女が一番怖かったかもしれない。
いや、一番怖かったのは、それは絶対に、ラストシークエンスで突然皆を殺しまくる早坂さんに違いないのだが、早坂さんが殺したはずの彼女のラブの相手の女の子は、内臓飛び出しているのに生き返ったりしちゃうんだもんなぁ、もうシュールすぎる!!

天野もまた、早坂さんへの想いをこじらせまくって、命を断ってしまう。その亡骸をようよう背負って、吉行は早坂さんと対峙する。このシークエンスは、学校中が華やかな筈の学園祭なのだが、こんな具合に学校中が機能していないし、この学園祭のシークエンスに至って、何か突然発生したように男子生徒が現れ、軒並み早坂さんに殺されちゃう。
それが、何とも乾いた感じで淡々と行われるというのが、しかも死体の数々はあっさり土中に埋められて、何にもなかったことにされちゃうっていうのが、フェミニズムおばさんの私は、なんだか妙に意味づけしたくなってしまう。

そんなツマラナイ意味合いはきっとないんだと思うけれど、なんていうのかな……女の子世界の残酷さ、いや、イコールするところの強靭さを、それを特に自覚せずに、胸の中に湧き上がる画を思うがままに取り出したのだと思うから。
つまんないこと言っちゃってゴメンなんだけれど、でも、でもさ、まだまだ固まらないやわらかな意識の中に、でも外にのぼらせなければいられない、というのが、それがイコール才能というものなのだと思うから、どうにかして、そこにアクセスしたいと思っちゃうのさ。

この小さな町(に見える)ところから、小さな、漁船のようにさえ見える船で、離れていく。そもそもの、このユニークな作品が綴られた場所がどこだったのか。天野と吉行が立ち寄る小さな商店や、地方のショッピングモールにありそうなプリクラ、でもそこで、男の子同士はダメだと店員に言われ、これもまたフェミニズム野郎のアンテナを刺激し、しかも演じているのが女子、というのがシニカルな批判精神を感じたりもして、あぁそれも、フェミババアの良くない深読みなのだろうけれど。
でも、でもさ、ババアだけれど、でもありがたい経験をさせてもらったと思うのは、まさにその、時代の変わり目を見させてもらえたから。

なんかホント、ツマラナイ解釈してしまった。本作の、そしてこの驚くべき才能を持つ監督さんの魅力は、そうしたあらゆる映画における既存の概念から、いい意味で、いや違うな、まったく違った意味で、逸脱していることだと思う。
映画というものが、私のようなロートルによって概念化されているのだとしたら、映画ではない、ホント、詩なんだと思う。すべてから解き放たれた純粋なる芸術の詩。★★★☆☆


熟母・娘 骨まで愛して(熟母・娘 乱交)
2006年 55分 日本 カラー
監督:深町章 脚本:河西晃
撮影:長谷川卓也 音楽:
出演:藍山みなみ しのざきさとみ 里見瑤子 岡田智宏 川瀬陽太

2024/8/30/金 録画(日本映画専門チャンネル)
牡丹灯籠を下敷きにしていると知ってへぇーっと思う。有名なタイトルだけれど案外ちゃんと話知らないなぁと思って少し調べてみると、基本どころはきちんと押さえてあって、物語がしっかりしていて面白い。
でもそれ以上に、ぼんぼんである章太郎と彼のお付き的な半蔵の関係性がたまらなく良くて。この二人と、半蔵の奥さんの峰子のお名前まで元ネタにそれなりにシンクロしているのが嬉しくなっちゃうんだよなぁ。

章太郎は岡田智宏氏、半蔵は川瀬陽太氏。言わずと知れたピンクの売れっ子&今やベテランの男優さんであり、特に岡田氏は私一時期、その色気にヤラれてめっちゃキャーキャー言ってた記憶が(爆)。細面で色白美男で、それがこんな、世間知らずで子分従えてのんびりしているボンボンだなんていうキャラを与えられるなんて想像もしなかったけど、これがたまらなく、イイ!メチャ可愛い!!
社長と部下という関係なのに、若旦那、半ちゃんと呼び合うのも牡丹灯籠の時代世界を映し出してて、それが現代だから、彼らの生活力のなさっつーか、いや、なんたってボンボンだから金はあるんだけど、暇もあるという、これが、めちゃくちゃ、イイの!

冒頭の、ぜぇったい何にも釣れる訳ないと思われる、よどんだ川に釣竿をたらし、だらだら寝ころびながら、額に葉っぱをはっつけて、旗本退屈男なんぞをおちゃらける若旦那に、当たりが来てたのに!と半ちゃん、あーあ、変わり身の術とふざけ合うこのやり取りで、この直後に出会う、この世のものではない女たちのことを、実は示唆していたのかと、深い深い!!

ほぉんとに、岡田氏がチャーミングなんだよなぁ。若旦那と呼ばれる、社会を知らなさそうな感じ。ふんわりおリボンを首元で結んだお上品な白いブラウスにベストという、一歩間違えたらおちゃらけ芸人になりそうなファッションを、育ちの良いおぼっちゃんに見せる端正な顔立ち。
幽霊である真夕美とのセックスに溺れ続けるうちに、どんどんやつれていく、という設定が、まぁそこは役作りしてるヒマもないピンクだから、メイク一発で示すんだけれど、お顔めっちゃ水色(爆)。ちょっと笑っちゃうんだけれど、それもまた愛しく可愛らしいのがズルい!!

彼の相手となる真夕美役の藍山みなみ氏といい、半ちゃんの奥さん、峰子役の里見瑤子氏といい、アイドル級に可愛い二人を贅沢に据え、それもまたもちろん堪能させてくれるものの、章太郎と半ちゃんなのよ、この物語は。
BLというんじゃない。決して、そうではない。章太郎は真夕美に、まさにとりつかれるまでに恋してしまったのだし、半ちゃんは奥さんの峰子と、これはカラミ要員とは決して言いたくない、いつまでも恋人みたいに仲の良い夫婦の幸せセックスが明るく展開され、あたたかな気持ちになるしさ。

でもやっぱりやっぱり、章太郎と半ちゃんは、バディというか……立場の違いはある。なんたって、章太郎は社長で、半ちゃんは部下。なんの会社なんだか判らんし、峰子言うところによると、いつまでお盆休みなの、というぐらい、お気楽経営みたいだし。
そもそもこの二人が働いている姿が想像できない、まさに、時代劇か落語の中の、日がな一日仕事をサボってるのに、あーヒマだヒマだと言っている二人そのものでさ。

章太郎が真夕美との妄想を昼日中おっぱじめて、そのお相手がいつも一緒にいる半ちゃんであり、男同士のキスされてぺっぺっと半ちゃんは拒絶するけれど、章太郎は、そんな嫌がらなくても……みたいに軽く傷ついているのが可愛く可笑しく、だからやっぱり、本作は、この男二人のなんだか可愛い友情というか、切っても切れない縁というか、それこそがキモの物語なんだよね。
半ちゃんは愛する妻と、セックスライフも充実しているけれど、どうやらボンボンである章太郎は、童貞とは言わないまでも、真夕美にのめり込んだのは、経験の少なさはあったのかもしれない。そりゃ半ちゃんがいれば、いいもんねとついつい思う腐女子(爆)。半ちゃんみたいにオープンに男女の話は出来ないよ、と恥ずかしがる章太郎、その時点ではもうのっぴきならないところまで来ていたんであった。

なんかいろいろすっ飛ばしている気がしてきた(爆)。そもそも真夕美とその母親の美佐子と出会ったのが、その冒頭、ぼんやり釣り糸を垂れてヒマを持て余していた二人、章太郎が望遠鏡で、美しい母子を見つけ、覗き見ていたら娘の方が昏倒し、慌てて駆けつけたのだった。
章太郎の、ムダに大きなお屋敷に迎え入れた。一時休んで、彼女たちは辞したのだが、母親の方の話から、真夕美は小さなころから身体が弱いことを聞かされたのだった。
後に、余命3年だと医者に告げられていたという展開になるのだが、もうその時点では、死んじゃってたんだよね。章太郎のお屋敷から辞去して、すぐに真夕美が急変して亡くなった、ということを、半ちゃんが聞きつけて、すっかり亡霊にとりつかれてやつれた若旦那に進言する。

望遠鏡で、美しき母と娘を見つける、この、これぞ映画ファンタジックがたまらない。
確かに現代設定の物語なんだけれど、章太郎と半ちゃんも、真夕美と美佐子も、それぞれに、経済的裕福さ、病弱が故にゆったりしている、という、それぞれにまったく違う理由ながら、なんだか波長だけは妙に合っちゃって出会っちゃうのが、しっくりきちゃうというか。

そもそもが牡丹灯籠から来ているからしっかりフィクショナルな前提があるし、先述した、男子二人のラブと見まごう仲良しっぷりとか、夫婦なのに恋人以上にラブラブな描写とか、しっかり作られたエンタテインメントとしていう感じがするんだよなぁ。
章太郎がセックスしている、と彼は思い込んでいるのがガイコツ、というのが、いい感じにリアルじゃない、おもちゃ感というか、絶妙な可愛らしさがあって。半ちゃんは大好きな若旦那を救うためにお屋敷のドアに梵字のお札を貼りまくるんだけど、これがまた、なんかダウンロードしてプリントアウトしたみたいな、可愛らしい安っぽさが、愛しいんだよなぁ。

その中で、妙にリアリティを思わせるのが、真夕美の母、美佐子、ということなのかもしれない。男を知らないまま死にゆく運命の娘を不憫に思って、お互い惹かれ合っているのを見て取ったから、章太郎に娘を抱いてほしいと請うた。
一度でいいから、と言ったのに、結局章太郎は、生気を吸い取られるがままに、真夕美を抱き続けることになる。お札を貼られて入れなくなった娘を、これまた母は不憫に思い、半ちゃんにターゲットを変える。熟女の魅力で彼を陥落させちまうんである。

いや、こう書いちゃうと、いかにもピンクな展開になっちゃう。それはそれであったはあったんだけど(爆)、半ちゃんの前に積み上げられた大金が、彼の理性を迷わせた。
その上で、熟女がはらはらと着物を脱ぎ始めたもんだから、もうそれは!てなもんで、まぁ恐怖に打ち勝つための言い訳だったんだと思ってやることにしよう、ってところなのだが。

美佐子の幻惑で、愛する妻、峰子を絞め殺してしまうという最悪の展開。半ちゃんは恐怖に打ち勝つことが出来ず、最愛の相棒の若旦那を裏切って、というか、見限って、というか、お札を、あんなウソっぽいお札だけれど、真夕美がメチャクチャ怖がってて、中に入れなかったあのお札を、はがしてしまった。

結局さぁ、生き残ったのは半ちゃんだけ?生き残りたいがために、彼はお札をはがしちゃって、ゴメンと謝りながら、はがしまくって、そしてその後、章太郎は結局、真夕美とのセックスに死の道行きを託したのだから。
恐らく逃げてしまった半ちゃんが、なし崩し的に許されてしまった形になったのことは、あんなに夫を愛していたかわゆいかわゆい里見瑤子奥さんが、彼女自身が訳も判らず殺されてしまったという理不尽さもあって、ちょっと捨て置けない気持ちは正直、あるのだが。

なんか妙に、愛おしい、好きだなぁと思うんだよね。なんだろう……そもそもの、牡丹灯籠の時代感、世界観のゆったりとした、愛の解釈のシンプルさ、なのかなぁ。
でもやっぱりやっぱり、ちょっとBLを思わずにはいられない、若旦那と半ちゃんの、絶妙に妙齢男子二人の関係性こそなのよ。ピンクでこういう……いわば腐女子的感覚を刺激される関係性を感じたのは、正直初めてだった気がする。

やっぱりピンクは女優さんが絶対的圧倒的華だし、それを支えるために、男優さんの息が長い、というのが、フェミニズム野郎としてはなんか上手く説明が出来ない悔しさだったんだけれど……。
まさか腐女子を刺激されるとは、ですよね!正当な需要を供給した観客としての男子が、本作をどう思ったのか、気になるなぁ。★★★★☆


冗談じゃないよ
2024年 89分 日本 カラー
監督:日下玉巳 脚本:日下玉巳
撮影:寺本慎太朗 音楽:グッナイ小形
出演:海老沢七海 太田将熙 辻 大橋未歩 日下玉巳 アベラヒデノブ 高橋雄祐 サンディー海 鈴木武 佐藤五郎 佐野岳 松浦祐也 竹下景子 グッナイ小形

2024/6/5/水 劇場(テアトル新宿)
音楽担当のグッナイ小形氏がラジオに出演されているのを聴き、がぜん興味がわいて足を運ぶ。レイト上映だったのが公開が延長となって、思いがけずみられる時間帯になったのも運が良かった。こういう時、ホント映画って縁だなと思う。出会うタイミングはどこに転がっているか判らない。

実際、グッナイ小形氏の歌声とトークがとても良かったこともあって、ちらりと出演もしているという彼の姿を拝みたいというのもあった。予想していた訳じゃなかったけど、予想とは違うお姿だった……インパクト絶大。昭和を感じさせるというか……それはこのお名前から感じていたけれど。
そしてその彼が音楽を担当したというのがうなづけるというか、その姿を主人公の江田丈はあまりもあまりにも投影していたのであった。劇中、路上ライブをしているグッナイ氏に遭遇する場面がまるで、分身に出会っているんじゃないかと思うぐらい。

江田丈を演じる老沢七海氏が企画として名を連ねていることに、彼自身の役者人生を投影しているのかと思ったら、それはもちろんそうなんだけれど、なんたって脚本、監督が、江田丈の彼女役という思いっきりメインのキーマンとして出演もしている日下玉巳氏だということを知り、大いに驚く。
そうか、彼女の、女の子の悔しさだったのかと。それを男子に投影したのは……私が彼の物語をすんなり受け入れちゃったように、いまだに、自由に夢を追って自由に傷つくことが出来るのは、いまだに男子なのかと。

そうだ、こんだけフェミニズム野郎だと自負しているのに、思わぬ足元に気付けていなかった。夢を自由に追って、それがかなえられないことに勝手に自尊心を傷つけられて、勝手に挫折出来るのは、男子の弱さ(という名の特権)だと思い込んでいた。
それを皮肉な形で、切って捨てる形で、自由気ままな男子を捨て去る恋人役として出演もしているだなんて、なんて覚悟が決まっているんだろう!!

江田丈、といちいちフルネームで言いたくなるのは、後半、ミドルネームがあることが明かされるからである。クオーターであるということは明かしていた。実際それを、それなりにオーディションの武器にもしていたんじゃないかと思う。
クオーター、絶妙な設定。日本人と言われればそうとも思えるような、でも濃ゆめのお顔立ち。しかもファッションがまた絶妙、というか、どこでその柄見つけてくるの、という……主張と色彩とフォルム強めで、決して洗練はされていない、みたいな……。それこそ、なにか、昭和なのだ。グッナイ氏の昭和フォークシンガーな雰囲気が、この作品全体に充満している。

いや、正確に言うと、江田丈と彼女だ。脚本監督を担う日下玉巳氏演じる彼女。江田丈と同棲していて、保育園か幼稚園かの先生をしているらしい雰囲気。
やわらかなパーマ姿や、狭い部屋で一緒に鍋をつついたりする慎ましい生活っぷりが、四畳半フォークを思い起こさせる、のは、やっぱりグッナイ氏の世界観が貫いているからなのか。

とても仲がいいし、江田丈は彼女の前では自然体で、それこそこのアクトをオーディションで出せたら一発合格するんじゃないかというようなあたりが切ないんだけれど、とても微笑ましい恋人同士だった。
いつか主演映画が決まって、そしたら結婚して、だなんて彼氏のプロポーズめいた言葉を鍋をつつきながら嬉しそうに聞いていた彼女だったから、本当に、彼の夢を一緒に追いかけているんだと思っていた。

いや……どうなんだろう。妊娠を告げる時に、彼女は賭けたのかもしれない。彼の反応を見て、決めようと思ったのかもしれない。江田丈の反応はパーフェクトだった。100%だった。喜んで、これで結婚だと言った。なんの傷もなかった。
でも……一瞬の、躊躇はあったかもしれなかった。少なくとも観客であるコチラ側には、一息の呼吸が感じられてしまった。本当に彼女を愛していて、いつか結婚して子供が出来る、そう本当に思っていたとしても、それには自分の成功が不可欠で、それは当然のように叶えられる、そう思っている彼氏に対して、そりゃあそりゃあ、彼女さん側は理解を示しつつも、優先順位、私や生まれ来る子供はかなり後だよね……?と思っちゃうことは、想像に難くなくて。

それにしたって、観客側がビックリするぐらい、唐突に彼女は消えた。そもそも、江田丈はオーディションでなかなか上手く行かないまま20代中盤を迎えていたところで……子供を宿した恋人が、消えてしまった。
そこまでもさ、オーディション場面で江田丈の、自信マンマンの芝居っぷりが監督さん側にインパクトを与えていても、……いやそれは、どこか失笑気味で迎えられて、受かることはなかった。小さな役を与えられても、同じく分不相応な主張やアドリブばかりかまして、現場に迷惑をかけ倒して排除されるというイタさだった。

でも、だったら、どうしたら良かったのかと、江田丈は思っていたに違いない。せっかく得たチャンスを、無難に終わらせたら次はない。オーディションだって、爪痕を残さなければ印象にさえ残らない。そう思って、がむしゃらにしか出来なかったのが、裏目に出るばかりで、恋人にも去られて、30手前にまでなった。
再び同じ監督さんのオーディションを受け、当時一緒に受けていた仲間はスターになっていて、そして江田丈はまた、受からないのだ。若い頃には出来なかった、受けの芝居だって出来るようになった筈だった。若い時にはそれが出来なくて舌打ちされるぐらいの勢いだったのに、いざ今、その受けの芝居が出来るようになると、それでも落とされる。あの頃の江田さんはがむしゃらだったから良かったとか言われる。そりゃぁ……江田丈、ガックリ来るのは当然であり。

なんだろう……不器用なのか、タイミングなのか。でも、江田丈は、スターとなっていった新垣、今も一緒にオーディションを頑張っている進、田舎に帰る決断をした池田といった仲間たちには、総じて評価されているのだ。彼がいるから頑張れた、いつか一緒に仕事がしたかった。なのに……。

正直言って、確かに、見るからに、江田丈は色々逃している。うっかりオーディション慣れしているもんだからベテランヅラして不遜な態度をとっちゃったり、バイト先でも指示される相手が年下で、その態度が生意気だと激高したりする。
あんなにも彼女とはラブラブで、彼女とのコミュニケーションには全力対応していたのに、そして仲間たち、先輩も後輩も彼のことを好いていて、慕っているし、心配しているのに、おめーが判ってないだけだろ!!となんだか腹が立ったりもしちゃうけど、その矢先に、彼自身が自分自身の勝手さに気づいて、落ち込んで、雨の夜の濡れた子犬のように謝りに出向いたりしちゃうもんだから、ズルい、もう!!と思ってしまったり。

彼女との会話の中だっただろうか、子供の頃の同級生、エドの話が出てきたのは。エドはハーフ、自分はクオーター。エドはいじめられていたけれど、自分は、みたいな話だったと思う。
江田丈が実は持っていたミドルネームを、ラストシークエンスでエドと再会した時に明かしたのが、つまりはそれまで、江田丈は江田丈だけではパーフェクトな彼じゃなかったんだと思わされた。かつての同級生が、ミドルネームでこそ自分自身を成り立せたことでいじめられ、その中で闘っていたことが、江田丈の中で、彼自身知らぬまま、トリガーになっていたんじゃないかと思った。

そんなに、簡単には言えないけれど……ただ、エドと再会したのが、まるで夢の先のようで。江田丈が、もういろいろ、オーディションも落ちるし、仲間たちとも別れちゃうし、ワーッ!!ってなった先で、自転車で突っ込むように走る、それは冒頭からつながるんだけれど、そして、なにか、不思議な儀式のような中を通り過ぎる。かつての記憶が走馬灯のようにめぐりながら、奇妙な、白装束の音楽隊が江田丈の忸怩たるこれまでを通り過ぎる。
砂に自転車の車輪をとられて、目が覚めたら、どことも知らぬ野っ原。しかしそこに通り過ぎようとした軽トラの運転手に見覚えがあって、躍り出たのだった。それが、エドだった。

正直、エドが、かつてのイジメられていたハーフの同級生のエドが、話にしか出てこなかったエドが実際に登場するとは、思っていなかった。しかも、思いっきり地元に根付いて働いている。江田丈よりもはっきりと外見からガイコクジンと判る彼が、地に足をつけて働いている。
いや、そう言っちゃうと、役者稼業がうわついていると断じているようでアレだけれど、江田丈はそれこそが、自信が持てないところであっただろうと思うから。

実家にも、長らく帰っていなかった。誰も彼もに追い抜かれたように思って、自分でも思いがけないように実家に帰った、あの時の江田丈の呆然とした様子が忘れられない。
母親(竹下景子!)が驚いて迎えて、ずっと帰ってこなかった息子だし、何を言っても感電したみたいに激高する息子に手こずる彼女にこそ同情心が沸いてしまうのは、年齢として近いこともあるだろうが、恋人が去った気持ちもまた判ってしまうのだから、やっぱりここは、性差もあるのかなぁ……思いたくないけど……。

かつてはバイト先の工事現場でもイライラしまくっていた江田丈が、今は後輩をたしなめるぐらいのベテランになっている。休憩中、車から降りてきた男が自販機で飲み物を買っていくのをぼんやりと眺めていると、その後部座席に、幼い女の子と共に座っているのは、まごうことなきかつての恋人!つまりその幼い女の子は、その時妊娠していたと告げられていた自分の子供!
江田丈は自転車で必死に追いかける。吠えて吠えて、自転車を捨てて全力疾走するけれど、当然追いつけない。

このラストは、どう受け止めればいいんだろう。江田丈はずっと、彼女が自分との子供を得ていることを思って今まで来ていたに違いないし、なのに彼女がなぜ自分の元から去ったのかも、思い続けていたに違いない。その答え合わせが出来なければ、彼にとってあまりに辛い。
だから、ちゃっかり(という言い方もアレだが)幸せな人生を得て走り去る彼女に、そりゃないよとも思うけれど、でも、誰もが、自分が一番幸せになる選択をするべきだからなぁ……。

でもやっぱり、感覚としては最初に戻っちゃうかもしれない。自由に夢を見て、自由に傷つけるのは、いまだに男子なのかと。ズルいと。そして母親がそれを受け止めて、これまた息子に傷つけられるのだ。
そんな甘えたことは娘はようせんよ。いや、しないとまでは言わんが、これはやっぱり、男の子の、母親に対する特権のように思っちゃうなぁ。★★★★☆


衝動
2021年 117分 日本 カラー
監督:土井笑生 脚本:土井笑生
撮影:茅野雅央 音楽:Day on Umbrella
出演:倉悠貴 見上愛 見津賢 錫木うり 工藤孝生 池田朱那 川郷司駿平 山本月乃 佐久間祥朗 三村和敬 村上淳

2024/1/12/金 録画(日本映画専門チャンネル)
名前を失った少年、声を失った少女、なるほど、この惹句は確かに魅力的かもしれない。都会の路上で出会ったハチとアイ。二人を演じる倉悠貴氏と見上愛氏はビジュアルも良く体当たりの演技に好感度大だし、彼らを取り巻く若き役者さんたちは誰もが才能に溢れている。
倉氏は特にここ数年、スクリーンで何度もその存在感に遭遇していて、3年ほど前のこの作品が、その片鱗を見せ始めた時なのかしらんと思うとワクワクもする。

とても意欲的な物語と構成だとは思うけれど、正直ちょっと、盛り込み過ぎかなぁと思うのは、もちろん私がアホだからに違いないのだが(爆)。
もうあっさりオチバレしちゃうけれど、兄が無差別殺人犯で、それ以来名前を自ら失ったハチ、父親にレイプされて以来声が出なくなったアイ。そして二人が出会うのはコロナ禍真っただ中の社会で、マスクをしないことに神経を尖らせている。

後に知れるところとなるのは、兄の罪によって追い詰められた両親が自殺、ハチも地元を出奔、ハチ、というのは彼が従事しているクスリの運び屋のエリアからの通称名。
アイはデリヘル嬢で、それは父親からのレイプを塗りつぶすために他のおじさんとセックスを繰り返すためだという。普通のセックスが出来ないと絶望する男ショウヤと、彼にべったりくっついているユウコという女は、ハチを中年ジジイにレイプさせ、興奮のるつぼに陥る。アイが働いているデリヘルの元締めの男、サワダは、死にたいと願うハチの願望の中に、でも生きたいんだな君は、と見抜いてくる。

……詰め込み過ぎじゃなかろうか。コロナ禍での人々の苛立ちというだけでも大きな要素で、それこそこの頃、2020年にはクリエイターたちはこぞって、自らの焦燥を叩きつけるように作品を作り出していた。
本作は、そのバックグラウンドが、めちゃくちゃ重く濃いバックグラウンドが、モリモリに盛り込んだ要素の中でかすんでしまう。クスリの運び屋とかデリヘル嬢というのは、社会からふりおとされたワカモンが陥る判りやすい落とし穴で、それだけで記号的な感覚をどうしても感じてしまう。

ハチを気に入っているのか憎んでいるのか、凌辱させてコーフンしているショウヤという男がセックスにも愛にも絆にも絶望したんだよ!とこれまた記号だらけの台詞をまき散らし、彼にくっついているユウコという女は彼以上に劇場型のキャラで、舞台チックな台詞回しでハチとアイをいたぶりまくるんである。

しかもその、悪夢のような凌場場面に、ただ一人、重鎮キャラのムラジュンが、君は生きたいと思っているんだな、とまるで生霊のように、バックからバッコンバッコンされているハチにささやくという、これは道徳映画なのだろうか……。
サワダはハチを救いたいの?よく判らん……てゆーか、ここまで書いてきて、全然物語判らんね、アホの自分を隠蔽したくてただただ愚痴っているだけかも。

ハチのお兄ちゃんが無差別殺人犯だということが、じわじわと、なんとなく、観客側に示されていく、その要素が軸になっている。それに至るまでには、ハチは東京の都会の雑踏によくいる、テキトーに生きている、ように見える、若者に過ぎない。ネットカフェで生活し、身分証もないからメンバーズカードの更新もままならない。
ネットカフェ難民、というなんだか懐かしい言葉が発せられる。そう……なんだかね、こんな具合に、誰か知らぬ年配の人たちに説明するかの如く、社会問題になっている言葉を記号のようにちりばめている印象が、ずっと、あるんだよね。

アイとの会話は、彼女が手帳にさらさらと書く、いわゆる筆談である。とても魅力的な画なのだが、次第に、書くの早いな……慣れてるにしても……これは、元から書いてるところに書いてる感じの動きをつけてるんだろうな……実際に書いてるところを紙面を映さないもんな……などと、つまらんことが気になってしまう。
とゆーのも、アイのキャラクター造形は、なんか読めちゃうんだよな。声の出ない少女、風俗業に従事している、その時点でなんとなく薄々、そして父親は死んだ、と書きなぐった時点で、こらーレイプされてんなと。いやその(爆)。そういう良くない意味でのベタな物語造形、散々、あったからさ。

もちろん、そうした辛い思いをしている少女たちはあまたいる。それは事実。
でも本作では、先述したようにモリモリに盛り込んだ要素はどれもが、今社会で話題になっている(問題になっている、というよりは、そうした軽さを感じる)事件や情勢を記号的に取り込んでいるように感じてしまうから、アイが父親にレイプされていた、と筆談で告白した時、あーやっぱりね、と思ってしまう、のは、私がダメなんだろうなぁ。

今は声が出ていないアイが、きっとラストには声が出る、それがクライマックス、物語の大きな転換点になるんだろうな、というのも予測できちゃったもんだから……。
本作はかなりね、尺も長い。じっくりと、意欲的に描く。運び屋であるハチが関わる若者たちは総じて魅力的だが、やはり総じて、テレビのワイドショーで報じられているような、現代の都会の闇にはまってしまうサンプル例のように判りやすく、演じる役者さんたちが皆熱演しているだけに、もったいないと感じてしまう。

ハチの同僚で、お互いそこそこ仲がいいと思っているナイキはあやしげなドラッグの売買に足を突っ込んで、遺体で発見されたとニュースで報じられた時、ハチは初めて彼の本名を知る。
死にたいからとクスリを発注した女の子は甘えた様子でハチに殺してと言うと、さびついた包丁をつきつけたハチは、死ぬのは本当に、めちゃくちゃ痛いんだよと、脅している形なのにまるで諭している。
それは当然、兄の犯罪が彼の背中に張り付いているから。簡単に死にたいとか甘えたこと言うなと、思っているから。

と、そんな風に、感じられたら良かったんだけれど……難しいな。殺人犯である兄への葛藤が、もちろんこの尺の中でじっくりと、丁寧に、描かれてはいるんだけれど、だったら、他のモリモリ要素ジャマじゃないかと思っちゃったもんだから……。
だって、それだけで、あまりにも重いんだもの。ハチはお兄ちゃんのことが好きだった。少なくとも、その記憶を大事にとっておいていた。
お兄ちゃんが殺人犯になってしまって以降、両親は自殺し、殺人犯の弟として地元を追われ、ニックネームハチとして都会の雑踏で暮らす彼の、その境遇だけで一本の映画撮ってくれよ、と思った。

父親にレイプされて声を失った少女、アイもまた、彼女だけで一本の映画、撮ってくれよと思った。
いや……やりようだとは思う。この二人で、構築することはできたと思う。でもそれ以外のキャラのバックグラウンドを、チラ見せしただけで重すぎて、咀嚼しきれないもんだからさぁ……。

しかも、こんなあり得ない偶然、ヤメてよ。ハチの兄が犯した無差別殺人、その被害者の一人が、アイの父親だったなんて。
アイは自分をレイプした父親を憎んで憎んで、死んでくれよと願って、その願いが叶ったのが、思いがけない、無差別殺人事件の被害者としてだった。その事実を知ったハチは、いや、その事実を知ったからという訳ではないのか、とにかく、なんか、……この時点でショウヤとユウコにラブホに監禁され、サイテーな凌辱されまくっていたから、もう見てられない状況になっていたから。

身分を証明するものがないと、普通のバイトにつくこともできない、ということなのだろう、もしかしたら、本作のそもそもの最重要事項は、そこだったのかもしれない。きっと、根が真面目なハチはそう考えて、運び屋なんていう闇に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
それでも、根城にしているネットカフェでは、身分証がなくったって、まぁつまりは、テキトーな店長の胸先三寸で、手数料ぼったくられたとしても、入り込めちゃう。それは、都会の優しさというべきか、どうなのだろう。

ハチは、いや、この時点では、彼は自分の名前を口にしていた。ネカフェのメンバーズカードに書いた本名、その苗字で特定されるんじゃないかときっと恐れていた、ちょっと珍しい等々力という苗字。
犯罪者の家族が陥る地獄、古今東西、あるのだろう。でも、いまだにあるのかとも思う。あまりにも犯罪が多数、多様、そして、人々は他人に無関心。犯罪者の家族だということに関して、それなりの情熱というか、関心を傾けるという熱量を、今の社会がどれだけ持っているのだろうと思う。

それは、単純にいいことなのかは判らないけれど……。その点でも、少し考えるところがあった。ハチが顔中に人殺しの弟とか落書きされてる描写。めちゃくちゃ判りやすい、そう、何度も言っちゃうけど記号めいていて。
判らないよ、そりゃ判らないんだけど、高校生、だよね?こんな子供じみたこと、高校生がやってたら、この社会、この国、ヤバくないか。彼ら世代なら、ある意味もっと心理的残酷な、存在を亡き者にする無視を決めこむってのが、常道じゃないのだろうかとか思ったり……。いやそれの方がヤバいのか。もうなんだか判らなくなる。

あれこれ文句をつけてしまったけれど、なによりラストシークエンス、あれはないわと思った。ハチがなんかさ、妄想の中に迷い込んでしまって、ショウヤとユウコを襲う妄想、それもヤバいけど、そっからなんか、もうもやもやとして、行きずりの誰とも知らん通行人をメッタ刺しにしちゃう。
おいおいおいおい!!何それ!!そんな展開、いる?いらんやろ!!いや、別にね、未来への展望があるべきというんじゃないよ。でもさ、自らの意志ではない、なんでこんなことをやっちゃったんだろ!?なんてさ、そりゃないよ。これまで苦悩しまくってきたのに、うっかりしらん間にやっちまった、だなんて、納得できないよ。

ハチが刑務所にいるお兄ちゃんに面会に行く場面が、本作のキモだったと思う。お兄ちゃんを演じる川郷司駿平氏の、繊細なイケメン、その繊細さに鳥肌が立つような恐ろしさを感じた。
お兄ちゃんの抱えている、現代社会で生きていくための常識的価値観への圧倒的な否定の感覚、それを、異常だと断じるか、理解し合う努力をするのか。
川郷司氏の絶妙に繊細な芝居に背中がゾクゾクし、セクシャルな魅力すら感じた。お兄ちゃんが抱える、超絶異端なセクシャルな本能が本作の最も重要なキモだったのだと思えば、ショウヤが抱えていたそれなんて、可愛いもんだと、その対照が明確に出来れば、良かったのかもしれないけれど。★★☆☆☆


勝利と敗北
1960年 116分 日本 カラー
監督:井上梅次 脚本:須崎勝弥 井上梅次
撮影:中川芳久 音楽:奥村一
出演:山村聰 川口浩 三田村元 本郷功次郎 新珠三千代 若尾文子 野添ひとみ 安部徹 船越英二 友田輝 花布辰男 見明凡太朗 高松英郎 伊東光 浦辺粂子 潮万太郎 村田知栄子 星ひかる 村上不二夫 藤山浩一 守田学 大山健一 津田駿二 藤巻公義 立花宮子 南左斗子 小原利之 金子繁治 白井義男 郡司信夫

2024/4/8/月 録画(日本映画専門チャンネル)
近年はやたらボクシング映画が作られ、そのどれも秀逸だけれど、映画黄金期のこの時代のボクシング映画を観る機会はなかなかなかった。オープニングのキャストクレジットに、東洋バンタム級とか全日本フェザー級とかチャンピオンがずらりと7人も並ぶのが、なるほどこの時代は日本人ボクサーの活躍黄金期でもあり、だからこの企画が通ったのかとも想像されたり。
相変わらず某データベースは実際の物語とは齟齬があって、最初の脚本から大分変ったらしいことがうかがえる。どうやらそもそもはウェルター級だったんだね。それがライト級のボクサーたちのお話になったのは、若きボクサーたち、特に川口浩氏が華奢なことが原因だったのかしらんと勝手に想像しちゃう。

でも、そんな若きボクサーたちの物語かと思いきや、いや確かにそうなんだけれど、主役は違うのだった。ずっと若きボクサーたちの物語と思いながら見ていたから、それにしちゃぁタイトルクレジットのトップは山村聰なんだよな。
これはベテラン役者だから並びの序列なのだろうかと思っていたら、違う違う、ホントに山村聰氏が主役なんである。なんというシブい!今で言えばゲキシブ!

有望なボクサー二人を抱え持つジムのオーナー。もうけにもならないとバーのママに愚痴りながらも、彼らを子供のように愛し、いつくしむ山村氏のなんというシブさよ!!彼に比べたら当時の川口浩氏以下、若いボクサーたちなんてもう青い青い、ケツが青いのよ。
でもそれぞれに切ない事情を抱えてる。むしろ、最終的には山村氏演じる峰岸オーナーこそが、ボクサーたちのために愛する女を諦めたんだから、一番の青春小僧だったのかもしれないんである。

冒頭、それまでのライト級絶対王者が、試合に勝ったにもかかわらず引退を表明する。網膜剥離。冒頭からボクサーのそうした切実な事情が明かされることは、後から思えば物語全体、それぞれのボクサーたちに影を落とすことになるんである。
突如空いた王者の座に10人もの候補がひしめく。直前にウェルター級に変更してしまった者、緊急手術になってしまった者、勤め先が決まって奥さんからももう年なんだからとたしなめられた者……。
本作の中には彼らボクサーの恋人や母親が数多く出てくるんだけれど、総じて彼らのストッパーになっちゃってるのが歯がゆいというか……現代ならむしろその描写が、責められるだろうなぁ。男に、息子に、ぶらさがっている女という図式になっちゃうから。

川口氏演じる山中もまた、長年付き合っている恋人、志津子から、最終通告を突きつけられている。若尾文子様である。小学校教師だなんて。色っぽすぎだろ。
山中の妹、葉子に言わせると、なんと幼稚園時代から付き合っているという。それは、付き合いが幼稚園時代からであって、実際に付き合ってた訳ではないのか、でもいまだに手も握ってないなんて信じられないと暴露されるんだから、幼稚園時代からマジに恋人同士なのか……。
今なら確かに信じられないが、当時の男女ならこれぐらいのプラトニックはアリだったのだろうか。いやいやいや。同じきょうだいとは信じられないほどの葉子のユルユルさを思えばそんなことはないか、いや、彼女はちょっと愚かすぎるのだが。

本作の一つの面白さは、葉子のあまりにもの軽さ、オバカさにある。演じるのが野添ひとみ氏で、後に夫となる川口氏ときょうだい役というのが面白い。
最終的に山中と王者を争うことになる旗(本郷功次郎)と、恋人である吉川(三田村元)の間で揺れ動くのだが、揺れ動くとゆーより、遊び慣れた旗にあっさり陥落されたくせに、淳ちゃん(吉川)が悪いんだから!!と言い放つとは。

しかもその中身がね……。まぁあのさ、やっぱり現代に照らし合わせると信じられないこと満載なのさ。バイク2ケツで後ろの女の子がノーヘルって、事故ったら女の子だけ死ぬわ。
しかも葉子は、飛ばして、飛ばして!旗を追い抜いて!!と恋人の吉川をけしかけ、エンコしてしまった吉川を罵倒し、追いついてきた旗に茂みの奥に連れていかれ、ビールを口移しされ(!!バイク乗ってきたし!!しかも、キスでの口移しじゃなくて、上からジャーて!エロじゃなく汚い……)、そもそもこの時点で葉子が誘ってきたのは確実なのに、ビールジャーもとろんとした目で受け入れたくせに、組み伏せられるとイヤイヤとか、ありえん!!

そして吉川が探しに来ると、枯草だらけで登場の二人。これは、明らかにヤッただろ!!なのに、いろいろあった後に(すいません、あまりにもいろいろあるもんだから、吉川が事故に遭うとこは割愛)、三人が和解して葉子が吉川の元に戻っていくと、さっぱりと、こらーまいったな、みたいに何のあとくされもなく戻っちゃうって、なんなん!
あれはヤッたんじゃなかったんかい、私の心が汚れているのか??ただ茂みでゴロゴロしていただけなのか??そんなバカな。

うーんでも確かに、ヤッちまってたら、つまりはレイプだから、それで葉子が旗さんを好きになっちゃったとか言うのはあんまりか……そうでなくてもあんまりだけど……。
しかも葉子ったら、淳ちゃんが悪いのよ!の繰り返し。飛ばせなかったから、追い越せなかったから、って、バカかお前!

難しい……当時の映画の描写をどこまで汲み取っていいのか。それはおいといて。旗である。キーマンである。かき回しまくる、結局は幼い男の子、素直な男の子ということだったんだろう。
山中とは同門で、相撲と同じく、同門対決というのが難しいってこともあって、実力があったのに王者挑戦候補から外れてしまってグレてしまって、候補者のジムに乗り込んで相手をスパーリングでケガさせちゃったり、ボクシング界を牛耳るヤクザ的な男に目をつけられて杯をかわしちゃったり、もうとにかく、幼いヤツなの。

でもモテるのは判る。川口浩とは違って(爆)ガッチリボクサー体形だし、南国系のちょっと濃いめの味付け。まだいくらでもチャンスはあると、若いことで後回しにされていら立つのも判る。
そして、義父と折り合いがつかないってあたりも幼い。連れ子である息子を夫の手前かばいきれない母親の登場までさせるあたり、本当に幼い。

こーゆー、母親の描写は、山中側にもあるし、今でもきっと拭い去れない、息子をカンガルーのようにポケットに入れたがる母親の姿、なんであろう。
山中の母親なんてさ、浦辺粂子氏なのよ。今の感覚から言えば彼の年齢の母親とは思えない、祖母ぐらいの雰囲気は、浦辺氏だからというのもあるけれど、この当時はこういう感じだったんだろうなぁ。彼女自身の人生なんてない、母親としての人生しかない、息子の彼女さんの方にこそ同情して、拳闘なんてやめろというけれど、でも試合を見れば応援してしまう。

そう、拳闘、なのよ。ボクシングとは言わないのよ。で、ボクシングジムじゃなくて、峰岸拳とか近藤拳とか言うんだよね。なんか、酔拳みたい!!
でね、そう、問題は旗である。関係者の誰もが旗の実力を認めているけれど、同門選手の兼ね合いなどあって推薦出来なかった経緯もあったから、彼自身が候補選手をケガさせてしまったりという経緯があっても、結果的に旗が王者候補へと繰り出されてくる。

そうなりゃぁ、当然軋轢が生じてさ……。いっちばん気の毒だったのは、いわば旗に狙い撃ちにされた丘野である。候補から外れてやけになっていた旗は、スパーリング相手になるといって丘野をボッコボコにして怪我をさせ、結果的に彼のボクサー人生を経ってしまった。
この時点ではまだまだ事の重大さに気づいていなかった旗が、物語も後半になって、自分がしでかしてしまったあれこれが判ってきたところで丘野に襲撃されるシークエンスがあるんだけれど、これが、辛いの、切ないのよ。

ずっとずっと頑張ってきたボクサー人生を断たれた丘野の想いも判るし、それを、やっと理解した、今までおばかさんだった旗の気持ちも判るし。だからこそ、ここに察知して分け入ってきた峰岸の、彼らの気持ちが痛いほど判る、ゲキシブさんには彼らは勝てない訳さ。
特に丘野の…お前の気持ちは判ると峰岸に言われて、たまらない顔で仲間とともに踵を返すシーンは辛かった。こんな風に、どうしようもない思いを残して去っていったボクサーたちが、きっと無数にいたんだろうと思わせたから。

若尾文子先生演じる志津子もまた、切ない。自分から別れを切り出しながら、彼の試合をそりゃあ気にせずにはいられない。
当時は自宅にテレビを持っているような時代じゃないのだ。かといって街頭テレビで皆が群がる試合でもない。喫茶店で息をつめて見ていたのに、後から押し寄せてきた女子高生たちにチャンネルを変えられてしまう。蕎麦屋や床屋に頼んでも、困惑気味に断られてしまう。

最後、電気店で、もう試合は終わったと、ボコボコにされたと聞いてすっかり恋人が負けたんだと思い込んだ志津子が、彼のお母さんの元に訪ねるシーンもまた切ない。
負けたから、自分の元に帰ってくると思って、でも、負けたことも哀しいという、アンビバレンツな気持ちを抱えて訪ねてみたら、彼は勝っていたんだと。だから、最終決戦が待っているんだと。

この、男が試合に勝つか負けるかによって女の人生が変わるという展開は、まさに現代の、ギャグ気味にさえ言われるコンプライアンスの元では完全にアウトだし、マジにはぁあ??ともそりゃぁ思う。思うけれど……。
先述したように、地味だけどやっぱり彼が主人公、峰岸がバーのマダム、小夜子と交わしたそれこそが、究極のソレなんであった。

もうぉおおお、バカバカバカ!!大人過ぎるっつーの!!峰岸はね、旗の身請け金の相談をするのよ。先述した通り、旗はバカな子供、自分の才能を買ってくれたと浮かれて、ヤクザな男から杯という名のおこずかいをもらっちゃって、峰岸は旗を奪い返すために法外な金を要求される。
追い詰められて、小夜子に相談するのだが……追い詰められた金の相談を愛する女にしかできないというのが切なすぎるし、その解決策は、ライバルである男から借りることしかないというのが、もっともっと、切なすぎる!!

この、ライバルの男、バーで行き合う男、須磨氏が、イヤな男だったら良かったのにさ。めちゃくちゃスマートでイイ男なんだもの。バーで行き合うだけだし、彼ら二人がそもそも小夜子とどこまでの関係を結んでいたのか。小夜子はなんたってプロのママだから、上手にあしらっていただろうけれど、峰岸が借金を申し込んだ時には、マジな交渉をしていたから……。
あぁ、またしても私は心が汚れておるのか。ママが、金を用意するために須磨さんにカネを借りて、私が須磨夫人になる、と。その交換条件に私を抱いて、と峰岸に言うのだった。
そら、そらぁさ、抱くっつーのは、そーゆーことだろ、逡巡してんじゃねーよ、峰岸!!とか思っていたら、ホントに、抱き合うだけで終了するもんだから、えっ……私、やっぱり心汚れっちまってるのかと。だってだって、こちらも色っぽすぎる新珠三千代だよ。ほの暗いバーで、心の内を見せ合い、なのになのに……ああ、昭和のプラトニックは忖度多すぎて判らん!!

なんか、結果的に、全員いい人になっちゃうんだもん。旗をおこずかいで手なずけて、杯交わしたんだからと脅し、身請け金として100万を請求、更に興行権まで要求してきた郷田でさえ。
てかそもそも同門同士の対決に持ち込んで、どちらかの選手に肩入れすることで分裂することをもくろんでいたのが、峰岸の人徳で、彼は選手たちにすべてを打ち明け、旗を信頼する他のジムに預けて、正々堂々、山中と百パーセントの力で闘うことを選択。その歴史的な試合に悪徳ヤローもあっさり陥落しちゃって、大団円になっちゃうんだもん!!

あんなに強欲に、スター選手になるであろう旗の興行権まで主張していた郷田だったのに、いい試合だったから、あばよ!!みたいに急にいい人……でもそれでホッとしたけどね。そして、私の父親が勤めていた、廃業してしまった大会社が試合のスポンサーになってて、会場でもテレビ画面でもめっちゃロゴが大写しになるのが、それもまた昭和の遺産で、エモかったなぁ。★★★☆☆


新・したがる兄嫁 ふしだらな関係
2001年 59分 日本 カラー
監督:上野俊哉 脚本:小林政広
撮影:小西泰正 音楽:山田勲生
出演:宮川ひろみ 佐々木ユメカ 江端英久 佐藤幹雄 飯島大介 新納敏正

2024/1/28/日 録画(日本映画専門チャンネル)
ラストに、ああやっぱりそうだったのか、と思うと、でもひょっとして初めからだったんじゃないかとも思う。階段から落ちての記憶喪失、だなんて、出来すぎたフィクションそのものだったし、彼はあの時、なにかを思いつめながらその階段に座っていたのだから。

階段、神社へと続くのであろう長い長い石段。とても画になる。その階段は冒頭にもう登場する。ぼんやりとした顔で買い物袋をさげて通り過ぎる明子(宮川ひろみ)。要所要所でこの石段が使われる。
幸一の弟、大スターである真二(佐藤幹雄)が、いかにもチャラついた芸能人っぷりで「相変わらずしけた町だぜ」などとぬかして現れる場面。そして初めに書いた、幸一(江端英久)がぼんやりと夜の空を見上げながら座っている場面。
そしてそこで幸一は階段から転げ落ちる。記憶喪失となった彼と暮らすことになるクメ子(佐々木ユメカ)が真二とすれ違い、これは大スクープだと目を見開く場面、そして……もう一度幸一が階段から転げ落ちる場面では、この四人が勢ぞろいしている。

こう思い返すと、本当に要所要所で現れる、キーパーソンならぬキープレイス。幸一がつぶやくように、それは鎌田行進曲のあの場面を思い出させる。実際、役者崩れの幸一は、「あんな役がもらえたら、俺、死んでもいいと思ったもんな」とまでつぶやいた。そして弟の真二は、大河ドラマの主演、宮本武蔵役を「ホンがつまんなくてな」と蹴って、事務所まで辞めて、この田舎町にやってきた。
役者兄弟なのだ。弟は大スターなのにつまらないプライドなのかなんなのか、すべてを棒に振って兄夫婦の住む田舎町にやってくる。そして劇団員である兄は、もう三年も役をもらえず、「一切の労働を拒否して、主役抜擢に賭けてたのに」とか意味の判らないことを言って、ヒモ生活を続けていたんである。

冒頭、明子のモノローグで、この家の家賃も生活費も私が払っている、と語られる。結婚して三年、夫は役がもらえないまま、つまり何もせずに一日家でゴロゴロし、酒をかっくらっている。その家というのも、一軒家ではあるけれど、きのこが生えそうな古い木造家屋で、古びたふすまとかヤバいぐらいである。
それとハッキリと対照になるのが、記憶喪失になった幸一と暮らすことになるクメ子の住まいで、ちょうどこの木造家屋の玄関先を真下に見下ろすこじゃれたマンションなんである。

冒頭のシーンでの、幸一の幼稚な言動に、こりゃー明子がうんざりしてる図式かと思った。タイトルから、弟が来て、そのうっぷんをぶつけるのかと、思った。
でも違った。明子は幸一のことを愛しているし、幸一もまたそうなのだ。だから哀しいのだ。

幸一は座長の女である明子を奪う形でこの状況に至っている。まぁ、役がもらえないのは、後に弟から言われるように単に芝居がヘタだからかもしれんが、幸一はそんな自分がふがいないし、明子もまた、彼をスターにしたいとずっと思ってきたから、そっけない返事を続けた先で、こらえきれずすすり泣いてしまう。
そして二人は幸せそうなセックスをする。愛し合っているんだということが判るような。でも、明子は幸一が役者を辞めるのかと、まだうじうじとつぶやいている。

だから、もう、この時点で幸一は、明子のためにも、彼女の前から消えてしまった方がいいんじゃないかと、思ってたんじゃないかって、思えたのだ。
それはぼんやりと、妄想のようなものだったかもしれないけれど、思いがけず長い長い石段から転がり落ちてしまったのだった。それも、憧れの鎌田行進曲のことを夢想していた時だったのだから。

幸一を突き落としてしまった形になったクメ子は、常識的に考えて救急車呼べよとも思うが(爆)、記憶を失った幸一にショックで泣いてしまいながらも、彼と暮らし始める。
はじめに書いたように……この時本当に、幸一は記憶を失っていたのだろうかと、思うんである。クメ子と明子との邂逅があって、四人が顔を揃えた時に幸一はもう一度階段から転がり落ち、クメ子はこれで記憶を取り戻してしまうと怯えるのだけれど、状態は変わらない。

この時記憶を取り戻していたのにそうじゃないフリをしたのか、最初の階段落ちの時から記憶喪失というのがウソだったのか。
ラストシーンで弟の真二が、「あんたってホント芝居ヘタだよな」と暴いて笑い合うのだけれど、確かに真二が目撃したのは二度目の階段落ちの後の兄貴であり、その前は見ていないから何とも言えないのだが、でもやっぱりやっぱり、最初からそうだったんじゃないのかなぁ。

だって幸一は、クメ子のマンションのベランダから、明子が玄関先を掃除しているところを眺めていた。クメ子が、あの奥さん熱心ね、と声をかけるけれど、きっと幸一はその前からずっとその姿を眺めていたに違いないと、後から思えばきっとそうなのだと思っちゃう。
愛する妻の望むスターになれなかった自分。実際のスターである弟が転がり込んできて、本が気に入らないから降りたとか言って、彼の心が動揺したんじゃないかと思っちゃう。妻は、自分がスターになることを夢見ていた。3年も経てばそりゃぁ……重荷になるに決まってる。

クメ子側は、どうだろう。田舎町に住んではいるけれど、瀟洒なマンション、勤め先は大都会の編集部。大スターのスクープ企画を上司に持ちかけるキャリアウーマンである。そのビルの清掃員である明子と行き合うというのは偶然過ぎるが、まぁそこは気にしない気にしない。
ビルの清掃員……それは、プー太郎第二号として転がり込んできた真二に幸一が提案した仕事だった。当然、真二は拒否し、幸一が失踪した後もまるで兄の後を継ぐかのようにプー太郎生活を貫いている。
明子はもともと、近所のラブホテルの受付の仕事をしていたんだけれど、オーナーにレイプされてしまって、そのショックから、ちょうど幸一が明子を探しに出ていたタイミングで、真二に「私を犯して!」と無理強いしてしまう。

正直、このシークエンス、ピンクのカラミパーセンテージのためのムリヤリとも思えなくもないが、明子が真二に、手込めにされた、と古風な言い回しをするのが、なんかグッときちゃうんである。

ほんの20年ほど前の作品なのだが、冒頭から明子のたたずまいは昭和の専業主婦感マンマンだったし、働かない夫のために働く場所としては、オーナー自ら給料が安いからいつかない、というぐらいの職場、来客にカギを渡すぐらいの業務で、のんびり本を読みながら、というんだから、「私が家賃も生活費も払ってる」と言う割にはのラクチン加減。
この職場を離れ、その後勤めるのが、過酷さの代名詞である清掃業であるというのが、愛していた筈の夫との生活の時より、真二との生活によって人間としてスキルアップしているのがアリアリであるのが、なんか切ないというか。

幸一もまた、である。やっぱりきっと、最初から、記憶喪失なんかじゃなかったんだと思う。クメ子と出会って、彼女を愛してしまって、身体だって最初から何ともなかったんじゃないか、それでも一ヵ月静養してみせて、仕事への意欲を見せた。
それは、クメ子とセックスできたタイミングでもあった。自分が何者でもないのだからそんなことはできない、と拒んでいたのは、本当に記憶喪失であったかどうかによって、その意味合いは大きく変わってくるから……。

あんなにも自分を愛してくれた、その可能性を信じてくれていた妻、明子を、その期待を裏切ってしまった、その決定的ないわば修羅場が冒頭の場面だったのだ。
そう思うと、もう劇団を、役者を辞めたいと思っていたのに、辞めるのかと湿っぽく聞かれてしまったら、私のせいよねと言われてしまったら、そりゃ、そりゃぁ……自分を全否定して、無き者にして、消えてしまいたくなったとしたって、ムリはないのだ。

でも双方、新しいパートナーと愛を育むスピードが速すぎるけどね(爆)。幸一が失踪して一ヵ月、それぞれのカップルは愛を交わした。お互いの事情を知らず、クメ子は明子と、お互いのパートナ―を交えての飲み会を約した。
その直前に、あの石段で四人は遭遇してしまう。明子のパートナーが真二であることにクメ子は驚き、明子と真二はクメ子のパートナーが幸一であることに驚く。
この時の幸一の表情は……もうさ、もう一度階段から落ちるしかない!!だったのかもしれんね。だって、二度目の階段落ちなんてさ、もはやギャグだもん。ちょっと引きでごろごろ転がる幸一の画は、笑っちゃうもん。

幸一の記憶が戻ってしまうことを恐れていたクメ子が、なんか胸に来るんだよなあ。バリバリのキャリアウーマン、なのに不思議に田舎町に住んでいて、でも、都会のようなマンション生活。ねじれたプライドが見え隠れするというか。
そんな彼女に飛び込んできた、何もかも失った無防備な男性である幸一が、知らず知らず、彼女が求めていた存在だったんじゃないかって。
クメ子は二度、号泣する。自分が突き落としてしまった幸一が、記憶をなくしてしまっていることを知ったのが一度目、記憶を取り戻すことを恐れていたのが、二度目の階段落ちでもそのままの状態だったことを知った二度目。

時間が経過し、幸一は配送の仕事をしている。そこに、タクシーで真二が通りかかる。明子に語ってた。三島由紀夫の金閣寺、これをやりたいと。
幸一はそのドラマを観たと言い、真二が礼を言い、そして……「なぁ兄貴、これで良かったんだよな?」ふと真顔になる幸一。

二度目の階段落ちの時、幸一は、明子と真二が誰だか判らないと言ったのだった。だから、この台詞で顔色を変えるなんて、無い筈なのだった。
この、幸一と真二の顔のアップのカットバックでのラスト、強烈なインパクト。芸能界とか、大河ドラマとか、いわば大風呂敷を掲げていながら、非常にミニマムな人間ドラマという、ダイナミックなギャップが、ピンク映画でしか私は見たことないと思うぐらい。
思い切ったバックグラウンドを見せ切る自信がなければ出来ない。それが、この印象的なカットバックにこめられていると感じた。★★★★☆


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