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「わ」

2024年鑑賞作品

若き見知らぬ者たち
2024年 119分 日本 カラー
監督:内山拓也 脚本:内山拓也
撮影:光岡兵庫 音楽:石川快
出演:磯村勇斗 岸井ゆきの 福山翔大 染谷将太 伊島空 長井短 東龍之介 松田航輝 尾上寛之 カトウシンスケ ファビオ・ハラダ 大鷹明良 滝藤賢一 豊原功補 霧島れいか


2024/10/16/水 劇場(丸の内ピカデリーA)
うわぁ……後味悪い映画来た……もちろん、力作、傑作だと思う。でもこの後味の悪さが辛くて辛くてしょうがない。一体どうすれば良かったのか。彩人がなぜ死ななければいけなかったのかはもちろん、そこに至るどこで、どうすれば良かったのか。
だって子供の頃からつながっている。どこかで突然、そうなった訳じゃない。いや、突然の出来事も、事件も、あるけれど、そこからどんどん加速度的にどうしようもなくなっていくのだけれど、どこかでブレーキを踏むことって、なんでそんなに難しいのか。

死ななければいけなかったのか、というのは、大オチではあるけれど、オチばらしじゃないんだよね。作品の解説というか紹介でもうバン!と示されている。ひとりの名もなき若者が死んだ、と。
名もなきって。そんな。名前はあるじゃない。誰にだって名前はあるじゃない。ゴダイゴの名曲、ビューティフルネームが歌うように、1人にひとつずつ名前があって、誰にも侵されない人生がある筈。なのに、やっぱり、世間的には、名もなき若者が死んだと、その原因も、理由も、関わった人たちの都合によって隠蔽されてしまう。

ということが、きっと日常的に、そこここで起こっているのだということを、描こうとしたのだと思う。死人に口なしと言ったら身も蓋もないけれど、本当にそう。
彩人は死んでしまった。無慈悲にリンチされて、それを警察が一緒くたに仲間だと捕らえて、瀕死の彩人の口にタオルを突っ込んで、連行している間に、呼吸を失った。

警官と加害者以外、誰も見ていない。誰も証言できない。彩人が泥酔していたんだとウソを言って逃れた警官に、彩人の家族や身内は呆然とするばかりで何も言い返せない。
でもさ……事件性のある死で泥酔していたかどうかって、病院で明らかになるんじゃないかと思うんだけれど、ちょっとそこは気になってしまったけれど。

ああもう、後味悪しで、それをなんとか自分の中で解消したくって、訴えたくってたまらないもんだから。整理整理。
彩人は母親と弟と暮らしている。弟の壮平は総合格闘技の有望選手として日々トレーニングに明け暮れている。

母親は昔風に言えば恍惚の人。脳に障害があるらしく、誤解を恐れず端的に言えば、幼児のようである。手づかみで食事をしたり、万引きしたり、よそ様の庭を荒らしたり、それをたしなめられると火がついたように暴れてしまう。
いつもどこかぼんやりと遠くを見ているような彼女は、でもこの状態になったのは、この兄弟がそれなりに成長してからだったらしかった。

絶妙に差しはさまれる回想、金を使い込んだ父親に母親が責め立てている、という図式が早めに示され、つまりその時には母親は恍惚の人ではなかった。
そしてさらにさかのぼって、幸福だった時代もあった。一軒家式のカラオケスナックをオープンした、兄弟もまだ幼かった頃は、幸せそのものだった。
ギザギザと、まるで舞台のように、カメラがパンすると過去回想が入り込んでくる。彩人はその過去をことあるごとに想い出し、飲み込み、今まで生きてきたのだろうか。

本作は、空想というか妄想というか、拳銃が使われて死んでしまう描写が出てくるんだよね。
二カ所だったと思う。彩人が自転車をこいでいる途中で自分のこめかみに当てて発射して倒れて死んでしまう。そして、彩人を死に至らしめたクサレ警官が、現場で物思いにふけっている時に、パーカーのフードをかぶった誰かが近づいてきて、頭部に発射して即死。
でもそれも本当のことじゃなく、警官はその場を普通に去ってゆく。

彩人も、その警官も、その時、そんな風に、死にたいと、殺してくれと、思っていたということなんだろうか。でもそんな、浪花節的な解釈をはねつけるように、本当に、まったく、その描写に対して触れてこないのだ。それ以外は冷徹なまでに現状描写の辛さだから。

彩人には看護師をしている日向という恋人がいる。彼女はこの家庭の事情をよく判っていて、食事を作ったりしてくれる。でも、これも、なんて言うのかな……優しさって、どこまでが有効なのかなって。
日向は確かにこの家庭の事情を理解しているし、職業柄、彼らの母親に対する対応も心得ている。

それで言えば弟の壮平は彩人や日向に比して母親の、いわば奇行に対して対応しきれてなくて、もううんざりというか、自身はそれほど関わっていない感じなのにお手上げという印象がアリアリだから、一見して日向の存在はありがたいようにも思えるんだけれど……どうなんだろう。
彩人との恋人関係も未来が見えないまま、かといってこの家庭の事情をどうにかするという意識もないらしい日向は、一見して理解ある恋人のように見えるけれど、彼女の存在は本作における……一種の転換点、キーマンだったかもしれないと思う。

すんごく単純に、凡俗に、オバチャンは思っちゃう訳よ。福祉とつながりなよ、あなたには抱えきれないんだよ。家族だからという義務感、責任感は、それだけの力のないあなたが感じるには、いわば傲慢なんだよと。
でもそれは、当事者でないのは勿論、人生経験を積み重ねて、平らかに社会というものが見えてきているトシヨリだから判ることであって、そして、ひとつひとつを切り分けることなどその渦中にある当事者が出来る訳もなくて、それは判っているんだけれど。
でも、だからしょうがないと、彼らのような家族が、沢山、沢山いるに違いないのならば、それを救い出せるだけの社会が、少しは今、出来ていると思いたいのに。

救いは、彩人にはいい友人がいるということなんである。結婚パーティーを控えている大和は、目尻を下げながら我が子の動画を彩人に見せつける。彩人の家庭状況を判っている上で、そんな風にのろけられるっていうのが、本当の、真の、友情だと思えて胸が熱くなる。大和だけじゃない。同時代の同級生たちはみんなつながっている。

後に、そう、彩人が死んでしまった後に、その真相を究明したいと大和が警官に詰め寄った時、警官は、彩人の表面的なデータでその人となりを断じたもんだから、大和はさらに激高したのだった。
学生時代、部活での選手生活、その後の不幸な家庭環境……もったいないですね、と簡単に切って捨てた警官に、大和は激高した。何が判るのかと。そのとおりだ。履歴書から人となりなんて判りっこない。でも、家族や友人でなければ、確かにそんな材料でしか人を判断できない。そしてそれが……人を死に至らしめた原因を明らかに出来ない障壁にもなってしまう、だなんてあんまりだ。

彩人は母親の奇行で迷惑をこうむったご近所さんに謝り続けた。君が謝ることなんてないと言う人もいたしそのとおりなんだけれど、だったらどうしたらいいいかなんて、そう言ってくれる人にだって判らないのだった。
おかしい、ここがおかしい。こういうひとつひとつを、こうして無駄に年を食ったシニア世代ならば、客観的に見られるプロフェッショナルならば、チョイスして判断できると思うのに。
ひとつひとつじゃないから。すべてが連なっているから。彼らが子供時代から続いていることだから、だから、見えなくなっているんだよと、言ってあげられるのに。

弟君がね……気になったのだった。切れ切れに回想を差しはさみ、時に先述したような空想的事象も挟んでくるから、この兄弟の状況というか、関係性がなかなか見えてこない。
決して、仲がいいようには見えない。母親の後始末をしているのは常に兄の彩人のようだし、弟の壮平は決して冷たい訳じゃないけれど、試合に集中したいこともあって、この状況にどこかイライラとしている感じがする。

壮平の同級生が警官となっている。というより、おまわりさんと言った方が正しいような。この彼と、彩人を死に至らしめた傲慢な警官コンビは判りやすく対照的に描かれるけれど、だからといって、何かが解決する訳じゃない。
同級生の警官はいかにも力がなく、でも同じ警官として友人を死に至らしめただろうことを思ってだろう、辞表を提出する。

その後の、結局は空想であったフードをかぶった誰かが、隠蔽した警官を銃殺するシーンは、この流れだから、当然この同級生の警官だと連想されるのだけれど、結局は空想だし、彩人が自らを打ち抜いて死んでしまうシーンも空想だった。
それが彼らの深層意識下で望んでいたことだったのかもしれないけれど、もはや検証することさえできない。

大オチを知らなかったから、これだけオフィシャルサイトでも明言されていたのに知らなかったから、彩人が大和の結婚パーティーに行こうとしていたのにチンピラに絡まれてリンチされて死んじゃうという展開にビックリしてしまって……。
そりゃたまにはある、主人公が死んでしまってビックリはたまにはあるけどさ、彩人の死は、あまりにもあまりにも、放置されてしまうんだもの。

閉店しているというのにムリクリ入ってきた酔客にボッコボコにされる。だから店に流血の跡があるのに、警察はおろか、彩人が死んでしまった後、訪れる友人も、弟も、その決定的証拠を、まるで見えていないかのようによけてとおり、掃除をし、きれいさっぱり消し去ってしまうことにボーゼンとするのだ。
なぜ、なぜ!!だって友人の大和は本当に憤って、真相を明らかにしたいと食って掛かっていたのに、こんな決定的現場を見逃がすなんてありえないじゃないの!

……これは、どういうことなのだろう。さらに弟の壮平が掃除してしまって、跡形もなく証拠を消し去ってしまったことにも呆然としたけれど、弟はどこか傍観者な感じが終始していたから、だから友達という、私たちがしがみつきたくなる価値観が、途中まではめっちゃ機能していたように思ったのに、実は、やっぱり、自分の生活が大事なだけなのが、人間ということ、なのか……。
本作は、そうしたイジワルなトラップがめっちゃあると思う。防犯カメラをチェックすれば簡単に捕まるだろうと思われる加害三人組が、笑いながらすれ違うラストは判りやすく最たるものだし。

ラストシークエンス、彩人の痛ましい死の後、壮平の華々しいファイトがやってくる。めちゃめちゃ尺を割いていて、めっちゃリアルファイトの迫力で、だけどきちっと振り当てられているのが判る緻密さ。
壮平はギリギリのところで逆転する形で勝つ。この試合シーンは本当に丁寧に尺をとって、息をのむ迫力で、試合一本を目の前で見ているかのような迫力なんである。

壮平は……兄が訳も分からず死んで(殺されて)しまって、母親は状況が判ってなくて、……今まで判ったような口をきいて家を遠ざけていたけれど、でも……ああ、こんな風に言っちゃったら、本当につまらない浪花節だ。家族に科せられるものなんてないのだ。なのに、なのに、……。

そもそも、父親に鍛え上げられた格闘技だった。尊敬する父親だったに違いない。でもそれも虚像だったことも後半になって、まるでついでみたいに、放り投げられるように示される。
立派な賞状までもらった犯人逮捕が誤認であったこと、追い詰められた父親はどうやら自分のこめかみを撃ち抜いてしまってしんでしまったこと。
夫婦喧嘩の過程にこんなキッツイ事実があったなんてことを、本当に、最後の方になって、放り投げられて、茫然とする。壮平のたったひとつのアイデンティティが、こんな形で積み上げられていたなんて、なんという苦痛だろう。

壮平の試合シーンがめちゃくちゃ迫力があって、しかもすっごくしんねり長くって、これがきっと、意味があるんだと思った。怒っている、ということなのかなって。
怒るよ、そりゃあ。この状況を、この苦しさを、すべて説明しなきゃいけないの?って。その一点こそが、この単純な一点こそが、根本的な問題な気がしてきた、かもしれない。★★★☆☆


わたくしどもは。
2023年 101分 日本 カラー
監督:富名哲也 脚本:富名哲也
撮影:宮津将 音楽:野田洋次郎
出演:小松菜奈 松田龍平 片岡千之助 石橋静河 内田也哉子 森山開次 辰巳満次郎 田中泯 大竹しのぶ 田中椿 三島天瑠

2024/6/14/金 劇場(新宿シネマカリテ)
初見の監督さん。幻想奇譚の作風なのだということを事前に知っていれば、本作に対する心構えというか覚悟を決めて対峙できたかもしれないと、いつものように何の情報も仕入れずに足を運んでくらってしまった自分が悔しい。宵闇のシーンも多く、贅沢に使うロングショットが魅惑的であるのは確かなのだが、必死に目を見開いていないと、時々気が遠くなりそうになる。
……ちょっと寝不足だったかもしれない。悔しい、ごめんなさい。凄く神秘的で美しいことは感覚として受け止められるのだけれど、体力として受け止め切れなかった。こういう時に、映画一本にかけられた時間やコストや熱量を、普段軽視して軽々しく臨んでいることに気付かされる。もったいなかった、本当に。

そんな言い訳を言いつつ、それでも感想は書き綴りたい。舞台となっているのが佐渡島だというのは、劇中でハッキリと触れられることはない。そりゃそうだ、だってここは、死者が集まる場所なのだから。
不自然にぱっくりとV字の切れ込みが入った緑のお山は、かつて金山として欲深い人間たちによって切り崩された跡なのだという。無宿人と呼ばれる戸籍のない人たちが放り込まれた過酷な労働場所であったことは、劇中でもちらりと触れられるけれど、でもあくまでここは死者がはき寄せられるさまよえる場所。死者、それもきっと、現世に想いを残して死んでしまった人たち。

小松菜奈氏と松田龍平氏が心中をするオープニングから始まる。二人が飛び降りる張り出した場所も緑深く、ファッションもいつの時代なのかしかと判らない感じ。
生まれ変わったら今度こそ一緒になろう、だなんて、半世紀ぶりくらいに聞いた少女漫画か聖子ちゃんの台詞みたいだ。でも、あの場所がもしかしたら、生まれ変わるまでの猶予を与えられる場所なのだとしたら。そんな感じがした。一番の古株、キイさん(大竹しのぶ)が、ここから出て行かなければならないと告げられたのが、49日後だったから。

この緑深い、掘削の町が荒れ果てた場所で、高い天井から光が降り注いでいるところで、彼女は目覚める。生まれ変わったら一緒になろうなんて壮絶な愛の言葉の末に死んだというのに、彼女は何も覚えていない。
後にその相手に会うというのに、お互いに想い出せない。ただ惹かれ合って一緒に時を過ごすのだから、その愛の感情が彼らを引き寄せるアンテナになっているのかもしれないけれど。

名前も思い出せない彼女は、彼女を見つけてくれた古株の女性、キイさんと、姉妹のように見える(けれど、他人なのだろう)女の子たちととともに暮らし始める。
彼女たちに、ミドリと名付けられる。後に登場する石橋静河氏演じる押し出しの強い女性はムラサキであり、ミドリの生前の心中相手はアオである。この緑深い神秘的な森や山の中で、色の名前で呼び合う彼らは、しかもその会話の感じもまるで皇族のように丁寧至極で、現実離れしている。

かつては金発掘に沸いたであろう、それだけに欲深さにまみれ、奴隷のようにこき使われて死んでいった人たちもあまたいたというこの緑深き場所の中に、かつての坑道も存在し、ちゃんと電気もつき、今にもゴールドラッシュのかつてがよみがえりそうなのに、もちろん今は誰もいない。
肌が爛れた男が徘徊しているのをミドリは気味悪がるけれども、アオはあの人は何もしないから大丈夫だという。肌が爛れた男、というのは、掘削に関係しているのか、それとも、かつてのハンセン病への差別を示しているのか。先述のように金山の歴史にちらりと触れたりするあたり、社会派の雰囲気もなくはないのだけれど、現実の場所ではないという舞台設定だから、そんな思いが指の間からさらりと落ちて行ってしまう感じもして。

現実社会、あれは現実社会がパラレルワールドのように、薄皮一枚の隣りあわせに描かれているようなシークエンスがあった。メイクが好きな男の子。生まれ変わったら女の子になりたいと言った。生まれ変わりたい、そうだ……この要素はまさに、本作のテーマであった。
でも今、現実の彼は、生きている場所に、いるんだよね??いつの時代も残酷な子供たちは、“女みたい”な彼をからかい、証拠を見せろとズボンを脱がし、嘲笑いながら去っていく。ゲロがでる醜悪さ。

彼の母親を演じるのは内田也哉子氏。手話で会話しているシーンは静謐で、どうやら母子家庭と想像される彼らが濃い絆でつながっているのは確かなのに、だからこそ、彼は母親にアイデンティティが否定されている苦しみを打ち明けられない。

彼が自殺しようとする場面にアオが遭遇するシーンも、じっくりしんねり、尺をたっぷりとって描かれる。まるでストーカーかと思うぐらい、じっくりしんねり、アオはこの少年をつけていく。こうした描写方法で、かなり体力が削られるのだが……それは私の年のせいかもしれない(爆)。
この少年は、つまり死を選ぶのだから今生きている訳で、アオの世界線とは違う筈なのだけれど、なぜアオは彼の世界線にいる、というか、見えているのだろうか。見えているだけなのか。この少年はアオの呼びかけはどうやら聞こえていないらしいのだから。

石橋静河氏演じるムラサキは、一体どういう存在だったのかなぁ。彼女もすっかり記憶はなくしている風なのに、なぜかアオに、あんたの女だから、みたいなオーラで最初から接する。
この時点でアオとミドリは、デート、というか、山門で待ち合わせては、一緒の時を過ごしていて、そんな中現れた突然の女に、あんた誰よみたいな態度をとられるもんだから、困惑、というか、バチバチになるのだった。
なんつーか……このシークエンスだけ、突然、凡俗というか、三角関係どろどろなのに、男が判っていないことに女二人がキー!となっているみたいな図式で、なにこれ、これ必要?突然異物感強いんですけど……と思っちゃう。

今更ながら言っちゃうけど、私は本作が、結果的には苦手で、ゴーモンだったわと思って……。
ごめんなさい、なんていうかね、美しいし、画はすべてが完璧だし、問題意識あるし、とても個性的な独特の脚本だし、素晴らしい役者さんたちを揃えているし、こう書いてみると確かに素晴らしいことしかないんだけれど、辛かったのだ。付き合わされてる感満載というか……。

ああ、ここまで言わずにガマンしていたのに、言ってしまった。これがね、現代芸術というか、そういうスタンスの作品だったなら、違ったと思う。むしろ、そうした方向性の作品だと思う。
でもこれを、101分というしっかりとした尺で、劇場公開されるとなると、こういう作品だという覚悟と構えがないと、遠くで奏でられている音楽を、うつらうつら聴いているような、そんな感覚がしちゃうのだ。

ああ突然、本音を言ってしまった(爆)。ガマンが切れてしまった(爆爆)。難しいんだよ。昔から、本当に、10代の頃から思っているんだけれど、映画だけが、劇場公開されるという同一のスタンスの下で、あらゆるジャンルが同じ土俵でジャッジされるという無理があるって。
他の芸術……音楽、絵画、演劇、文学などなどは、その中で様々にジャンル分けされて、それぞれのファンに向けて発信されて評価の土壌もそれぞれあるのに、映画だけは、そらまぁこれらに比べれば新しいジャンルだと言えど、産まれてからそれなりの時が経ったのに、いまだに映画!とぐちゃっとひとまとめにされるから、こーゆー事態が発生するのだと言いたいのだ。

だってさだってさ、本作には現代舞踊家のレジェンド、田中泯氏が、まさにそのレジェンドの舞を披露する、これまた贅沢な尺も用意されている訳で、そうした需要も絶対にある筈だけれど、私みたいなねむねむな観客にそれは、届かないし、届くべき層に届いているとも思えないし。
改めて、昔から思っていたことだけれど、いまだに、いまだに、映画が若いジャンルとして放置されて、こういう事態に陥っていることに、すんごく、歯がゆく悔しく思ってしまった。自分の無力さを棚に上げて見ないふりして(爆)。

脱線しまくり。もう元に戻れない(爆爆)。作品に対する自分の準備の足りなさがとにかく悔しいけれど、フラットに映画に出会いたいと思っているからというジレンマもあり、こうした個性的な作品に出会うと、考えちゃう、迷ってしまう。
そして、改めて、映画って何だろうと思わされる。分析や解析といったアカデミックなことも楽しいけれど、時にはそこに踏み入れたりするけれど、基本的には、ただ自分ぜんぶで受け止めたい、と思っているらしい。ただの映画ファンでいたいんだろうな、私。★☆☆☆☆


若武者
2024年 103分 日本 カラー
監督:二ノ宮隆太郎 脚本:二ノ宮隆太郎
撮影:岩永洋 音楽:imai
出演:坂東龍汰 橋里恩 清水尚弥 木越明 冴木柚葉 大友律 坂口征夫 宮下今日子 純乃あみ 土屋陽翔 新名基浩 小林リュージュ 須森隆文 島津志織 大河内健太郎 五頭岳夫 矢野陽子 矢島康美 木野花 豊原功補 岩松了

2024/5/26/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
今もっとも新作を待っている監督さんではなかろうかと思われる。寡作だけれど、毎回本当に驚かされる。本作は……辛い、彼らの、いや、ほぼ一人の若者の台詞が聞いててしんどくて、腹が立って、仕方がなかった。なのにその中身を反芻し、果たして彼は間違ったことを言っているだろうかと思い、実際彼は、俺、間違ったことを言ってます??と得意顔で言うのだった。
そしてそんな彼をはじめとしてつるんでいる三人は、若い……若武者、というタイトルは、威勢を借りているだけのようにも、丸腰で闘っていかなければならない悲哀のようにも思えるような、皮肉かつ、複雑なタイトルだけれど。

絵のように美しいのだ、どこを切り取っても。こんなにも、胸クソ悪い“正論”をぶちかまされるというのに。
秋の季節。紅葉と青い青い空。舞台となる小さな地方の町、どこだろう。彼ら三人がうろうろするのはいつも決まった路地裏、半世紀も前から変わっていないような、小さな飲み屋が立ち並ぶ一本道。あるいは閑散としてやけに広々とした公園、施設の入所者の老婦人を散歩に連れていく小高い場所には、それこそ目の覚めるようなさんざめくような紅葉が降り注ぐ。

画角が、狭いというか、昔のテレビサイズというか。いわゆる横長のスクリーンの比率ではなく、その中に、人物を右手前に配置して余白の空を広々ととったり、土手の奥に二人座って、上には遊歩道が通っていて、二人はそのままほとんど動かない、印象派の絵のようなのに、一人は散々くだらない持論を展開している。
一本道を三人がそぞろ歩いて、興奮して武勇伝を喋っている一人を、それまでほとんど声を発していなかった一人が思いついたように酒場の前に置いてあったビール瓶で殴って、殴られた彼は倒れて、そのまますたすたと一本道とか、いちいち画になって、もう言い出したら止まらないのだが。

その中でこの若い三人が、特にそのうちの一人、ロン毛の英治がくだ巻きまくる、一見正論に思えるけれど、その芝居がかった上から目線の煽りまくりがほんっとうに腹が立ちまくり、あぁ、ワナにはまった、まさに英治がカモにした人たちと同じように憤っている自分にこそ腹が立つ。
そして、その英治を二人の友人はかたや静観し、かたや時に加担して暇をつぶす。そう、暇をつぶしているのだ。特に英治はヒマだヒマだと連発するし、暇つぶしに行きずりの他人を正論ぶって煽って怒らせて、あーあヒマだな、という感じなのだ。

だけど、彼が主人公じゃないんだよね。三人の中では最も寡黙、ほとんど喋らないような男の子、渉が主人公。それは、彼が父親との確執を抱えていて、結果的に思い返せば、きっと渉はずっとずっとそれを思い続けていて、だから英治にからかい気味にお前の父親殺しに行くか、と言われて憤ったのだ。
死んでほしいと思っていいのは自分だけだ。そしてそれを言える筈もなく大人の一歩手前まで来ていることにずっとずっと悶々として来ていたのだろうと思われるから、この友人の絡み方が許せないのだ。

そして、もう一人は、介護施設に勤める光則。彼だけが、その登場が働いているシーンで、あと二人の職場の紹介はそれぞれのタイミングが絶妙で、本当に上手いと思う。
木野花氏扮する入居者の女性、富子が、トイレの介助を彼に頼むシーンから始まり、それは……つまり、「自分で出来る限りした」あとの手助けであり、どんなに年を重ねても女は女であり、信頼していなければ異性にこんなことはゆだねられないのだ。
坊っちゃん、と呼びかける彼女が、光則と散歩に出かけた時、この仕事をしているとしょっちゅう偉いと言われる、興味があってやっているだけなのに、とつぶやく彼に、それが偉いわよ、と重ねて言う。

光則の語る興味が、彼が言うところによると人と違う、自分はヘンだから、というけれど、そうだろうか。詳細を語らないから、なにか生ぐさい興味かもしれないけれど、自分はヘンだと言いたがるというか、思いたがるのが、一つの若さの特権であるようにも思う。
彼はきっと、人徳者とか、優しいからとか、そんなんじゃなくて、本当に純粋な職種を極める、人間観察とかあるのかもしれないし、彼の中での、慈善事業ではない、興味がある、という自負があるのだろう。そして、介護の仕事を偉い偉いと言われるこの社会に危機と不満を持っているのだろう。

彼はこの三人の中では中庸で、英治にも渉にも適当につきあっているしたたかさがあるのだけれど、家に帰るとお母さんの作るカキフライに喜び、タルタルソースを市販にしてないよね?と、本当に仲の良い、いい息子で、表情も柔らかで。母親にとっての自慢の息子に違いなく、友人といる時の、仕事場での彼を見たらひっくり返るだろうなぁ……。でもどちらも、同じ彼なのだ、偽っていない、彼自身。
そうなんだよね、三人とも、友人といる時はシビアで、職場ではフラットで、そして……ああ、渉は、たった一人の家族の父親とは、一体何があったのか判らないのだけれど、英治がちょいちょいちょっかいだすように、ぶっ殺したいぐらいの確執があったんであった。

私が再三腹立つー!!と憤りまくっている英治だけれど、確かに最後まで腹立ちまくりなんだけれど、いきなり挿入される彼の仕事、居酒屋でのお仕事シーンでは、別人28号……ほんとうに、感じのいい店員さんで、この居酒屋私行きたい、と思っちゃうような、この店員さんと今日のお勧めを聞いたりしたいと思っちゃうような、これが本当に……衝撃で。
光則は最初から仕事シーンが登場していて、その後の三人とのシーンでじわじわとギャップがしみ込む感じだった。渉は、最初から最後まで、仕事シーンも含めてギャップがない感じ。工場勤務のシーンは、彼自身は淡々と勤めてて、先輩バイトさんの、自分の不備を叱られた先輩のヒステリーこそがおかしいと転嫁する、この先輩こそがヒステリックに持論を展開するのを黙って聞いていた。
そう、渉君はいつだって黙って聞いているのだった。彼自身が何をどう思っているのか……でもそれは、喋りまくっている英治や、そつなく立ち回っている光則だって、そんなこと、判りっこない。

彼らにはもう一人、学生時代つるんでいた仲間がいるんである。墓参りに行くことでそれが知れる。人助けをして、助けることもできず、双方命を落としてしまった。
墓参りにまで来たというのに、またまた口さがなく今は亡き友達のことを罵倒する英治にはほんっとうに腹が立つが(私も単純だな……してやったりだろうさ、ちっくしょー)今、惰性のように、おざなりのように、とりあえず三人でいるのは、もう一人の記憶が消せないからなのだろうか。

ずっと、なんで一緒にいるの、って思ってたのだ、怒ってたぐらいだ。この墓参りシーンは割と序盤に登場するんだけれど、その関係性を理解してさえ、特に渉に対して、英治のことを友達だと思っているのかと、何で一緒にいるのかと、イライラし続けていた。
仕事はそつなくこなす三人。友達同士でのこんな会話を聞いたなら、きっと同僚たちはビックリ仰天するであろう、社会人として問題ない三人。だから、見せないで、こんなん!!と心底叫んでしまいたくなる。

居酒屋で、施設で、ワレラ中高年以上の使用者たちに対して、気持ちのいい対応をしてくれているワカモンたちが、行きずりの他人を引っかけ、いかにもな正論で煽り、罵倒し、笑いながら謝って、あーヒマだヒマだだなどとぬかしやがっているなんて。
見たくなかった、見たくなかったと思いつつ、私だってそうだったかもしれないけれど、若い頃にそうだったかもしれないけれど、だったらなぜ、いまそれを忘れちゃってたんだろう。今なら絶対やらない、いや、やれない。それは……それを回収できるだけの未来がないから、間違いのないマニュアルを踏襲しているのだ、知らず知らずに。

死ねとか、殺すぞとか、相手を煽って誘い出した言葉に英治が、こっわーい、そんなこと言っちゃうの、犯罪だよ、小学校の時習わなかったけ、やれるもんならやってみろや、とか、硬軟メリハリつけて煽りまくるのにはほんっとうに怒り沸騰になる自分の大人げなさにこそ腹が立つのはそうなんだけれど、妙に納得しちゃう部分があるのも確かにあって。
英治は確信をもって相手からその言葉を引きずり出し、言ってみれば子供のようにやーいやーいと相手をはやして怒らせただけなんだから、乗っちゃう相手が大人げないということなのかもしれない。
そしてこの、死ね、殺すぞという言葉がカジュアルに使われてしまうことこそが確かに大きな問題なのだと、次第に思わされてくることが、なんだか悔しいのだが、確かにそのとおりで。

こんなに腹を立てさせる英治が、恋人とのシークエンスでスウィート極まりない男子なんだから、またしても、もうー!!と思っちゃう。いきなりキレッキレに踊り出した彼女に、永遠に見てられるわ、だなんてキラーワード爆発だし、彼女が話す、いわばどーでもいい話に、彼女と同じテンションで革命だわ、と同調する、めっちゃ最高の彼氏。
あぁ、どう飲み込めばいいのか。考えてみれば、英治は、いわば幼なじみである光則と渉、そして、ある意味一期一会としてもう二度と会うことのない行きずりの人たちに対してひどく暴力的なのに、職場の居酒屋での仕事ぶりや彼女に対しては、百点満点の好ましい男、なのだよね。

いやそれは、英治だけじゃない。光則もまた、英治のノリに乗っかって彼といきなりキスをし、ヤバいよね〜とつぶやいちゃった通りすがりの女の子二人を引っかけ、差別だなんだと煽りまくる片棒を担ぎ、サイアクのヒマつぶしを観客に見せてくれちゃうんである。
光則はそういう主体性のなさがズルいと思わせる。渉が英治に我慢ならなくなり、ビール瓶で殴り倒した後に仲介役となる光則は、散々渉をサイコ扱いし、黙ったままの渉に、こっわーい、みたいなおどけな侮蔑を見せる、のは、英治ソックリなんである。

渉は……本当に、何も、喋らないから、いわば友人たちにも不安を抱かせるのかもしれない。でも……英治は特にだけれど、光則もそうだ、相手がどう思っているか、こんなことを考えているか、勝手に先回りしてとうとうと語って、それに対してそんなこと思ってないよと答えてしまったら、もう負けじゃないの。
だからあまりにも卑怯だと思うんだけれど、負けになるから、言えなくて。そんな図式が何度も何度も現れるから辛くて、これは、これが出来るのは、若いから、といってしまえばオシマイだけれど、やっぱりこの年の私には出来ない。なぜできないのか悔しいと思うのがおかしいのだけれど。

渉が、散々英治からいじられていた、父親に会いに行く。俺が殺してやろうか、と笑いながら英治が言った時、本当に渉は怒った。死ねよと言った。実際相対して、死んでくれないかと言ったぐらいだから、代弁してくれた訳だけれど、許せなかった。
これが……本当に、親友で、判ってくれてて、俺が殺してやろうという台詞が、本当にそれが出来なかったにしても、その真意が感じられたならば、そんな対応はしなかっただろう。
一人若くして欠けた一人がつなぎとめていたのか、それにしてもこの三人がなぜいつまでもつるんでいるのか、友達、友達なんかじゃない。でも、友達って、定義ってなんなのか。そもそも彼らは友達を欲しているのか。友達はいなきゃダメなのか。

彼らがたむろする喫茶店のマスターは、汚い話題をまき散らす(主に英治だが)彼らに出て行けと叱責するが、ここでも英治、そして光則の小生意気な正論にめんどくさげに、クソガキが……と取り合わなくなってしまう。
でもその後、渉が一人、この店に訪れると、一人なんて珍しいなと対応し、一人になると妙に神妙、というか……。そもそも喋る声を聞くこともそうそうなかったかもしれない渉とマスターの会話は、ほぼほぼマスターの余命いくばくもない切ないストーリーだけれど、それに対して渉が妙にセンシティブに反応して、マスターが受け止め切れずに、でも、よく判らないけど、素敵だなと。素敵って言葉、この年になって初めて使ったと、あんなにもクソガキと唾棄していたのに、って。

渉はいつも、英治からも光則からもバイト先の先輩からも、マウントとられて価値観を押し付けられて、そう思わない?と連発された。そう思わない?疑問形だけれど、そう思うにきまっているという強烈な押し付けであるこの言葉が、私は大嫌い。
渉の中にその重たい石がどんどんたまっていくのが見えるような気がした。だから突然、英治を殴りつけた時、驚いたけど、……それを私は待っていたような気もした。

見るからに狭い狭い町から、出ることすら考えにも上らない三人が、なのにこの中でめっちゃ吠えて、この小さな世界こそ宇宙ぐらいの反り返りで。
でもそれを信じさせちゃうほどの、時が止まっているかのような、美しさ。秋を選んだのは、クレバーな選択だったと思う。時折目に染みる黄色とオレンジのグラデーションが、長めのシークエンスの後にばっつりとカットアウトされるたびに、目の奥に焼き付けられる。

赤と黄色の落葉が、宝石のように散らばって、それが風にさぁっと吹き寄せられる。でもそこはアスファルトが舗装されたところ。そんな風に時々、思わされる。
紅葉が輝くような地方都市であっても、くたびれた飲み屋街でうろうろしてても、誰も見てない、誰も知らない、今ここで私は生きている、生活しているんだって。
なぜあんなにも、どうでもいい承認欲求があったのだろう。古くからの友達には、それを判ってもらえると思っていたのかと。いや……正直その感覚は判らないけれど、だからこそ渉から英治は返り討ちにされたんだろうけれど。

めちゃくちゃイライラしたし、コイツー!!と思ったし、なのに目が離せなくて。その苛立ちの中に、目を奪われる紅葉や空の青さの美しさがあって。この時代の若者だから、とは思わないよ。そりゃあそれはあるけど、自分の中に覚えがあるからイラっとしたのは判ってるから。だから悔しいのだ。★★★★★


笑いのカイブツ
2023年 116分 日本 カラー
監督:滝本憲吾 脚本:滝本憲吾 足立紳 山口智之 成宏基
撮影:鎌苅洋一 音楽:村山☆潤
出演:岡山天音 片岡礼子 松本穂香 前原滉 板橋駿谷 淡梨 前田旺志郎 管勇毅 松角洋平 菅田将暉 仲野太賀

2024/1/7/日 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
私、本当にお笑い無知で、マジでボキャブラで止まってるもんだから(爆)、この原作者さんの世代、30代半ばから40代にかけての、今一番バリバリに活躍している世代の芸人さんたちをほぼ知らないまま過ごしていたことを、ちょっと今後悔している。
すっごく当たり前にベタなことを言ってしまえば、表舞台に出ている芸人さんたちは、明るく笑いさざめいていて本当に楽しそうで、そりゃ裏話として苦労やキツいエピソードを語っていたとしても、それもまた笑い話として話してて、やっぱりどこかで、判っていなかったというか。それこそ劇中で語られる、地獄というものを。この地獄で生きていくしかない、ということを。

お笑い無知でも、なぜかケータイ大喜利は見ていたので、劇中ではデジタル大喜利というタイトルに変えて出演者も微妙な変更をなされているが、これって、ケータイ大喜利だよね!!ペンネームは変えているけれど、侯爵というのがつく名前は憶えていて、後からMURASON侯爵、レジェンド!!覚えてる!とコーフンする。

でもこれって、やっぱり実名は使えないのか。だってツチヤタカユキという彼の名前はそのままに岡山天音君が演じているのに、ケータイ大喜利も、そこで使っていたペンネームも、ツチヤ氏を呼び寄せた芸人さんも、実名は使えないのか。
と思うのはヤハリ、ついこないだのドラマ、去年だったよね、「だが、情熱はある」、ですべて実名で役者さんたちも演じ切って、とても感銘を受けた記憶があったから。
ツチヤ氏の名前だけが実名というのが……彼だけは真実だということなのか、例えばツチヤ氏を呼び寄せた実際の芸人さんに許諾がとれなかったとか、いやそんなつまんないことはないだろうけれど。

それこそつまんないところにつまづいてしまってごめんなさい。それだけ、天音君の熱演もあいまって、凄く……その、この、ね、裏側の事情、表ではあんなにも笑い転げて楽しそうなのに、地獄を生き抜いていかなければならない事情に戦慄したから。
いや、でもそこは、もしかしたらツチヤ氏が特異なのかもしれない、などと思っちゃうのはそれこそ、凡俗の凡人のこちら側だから。ケータイ大喜利のレジェンドになるのに命を削り、レジェンドになったけれど、レジェンドだらけなもんだからそこにも失望、意を決してネタ帳を携え劇場に入り込み、作家見習いになるも、上手く入り込むことができない。

確かに才能さえあれば、認められ、成功する筈だとツチヤ氏は思っていただろうし、外野ののんきな観客もそう思っている節はある。もちろん運やタイミングはあるけれども、本当の才能は当然認められるはずだし、売れる筈だと。
でもそれをことごとく打ちのめされる。それが、ツチヤ氏が自嘲する、「人間関係不得意」という言葉では言い表せないほどのあれやこれやが、あれやこれやどころじゃないものが、あるというか……。

シンプルにまるっと言ってしまえば、ツチヤ氏はいわゆる社会性というか、世間的常識というか、そうしたものが完全に欠落している人物として描かれている。多少は誇張もあるのかもしれない、などと思ってしまうほど、ちょっとないな、と思っちゃう、こんな人が例えば職場にいたらマジで困る、といった人物像。
実際、数々のバイト先で疎まれ、クビになり、しかしどうやら彼はそのことに対しては落ち込んだり悩んだりしてない、らしい。当然だ。彼にとってはお笑いこそが大事、それだけしかいらない、生きる糧として苦手な人間関係にも歯を食いしばりながら、働いていたにすぎないんだから。

バイトしている間も常に、一秒たりとも落とさずに、お笑いのことを考えている。ネタを書きまくり、投稿したラジオを勤務中もイヤホンで聞いているから、当然仕事は滞りまくる。接客業なんてサイアクに相性が悪い。
……そう、こんな同僚がいたらマジ困ると思うが、だったらどうすれば良かったのだろう。色々あって、今ツチヤ氏は作家として成功しているのだし、良かったのだと言えなくもない。

本作の中で、彼を理解、というのはちょっと違うかな、なんていうか、この才能を、この情熱を、この社会の範疇に収まり切れないというだけで見捨てる訳にはいかないと、二人の人物が引き上げる。
特にそのうちの一人、売れっ子芸人の西寺は、自分のラジオ番組に送ってきていたハガキ職人のツチヤ氏、バツグンに面白くて、彼のネタばかり採用していた。ツチヤ氏とコントを作りたいと、公共の電波から呼びかけて、運命が回り始めた。

一説によればこれはオードリーの若林氏だという。劇中で描かれている番組は当然、オールナイトニッポンに違いない。凡百の成功物語を想像しちゃうこちとらとしては、不器用で人間関係がうまく築けないツチヤ氏であったとしても、徐々に成長し、この東京で成功するまでのスタンスを描くのだと、思っていた。
そうじゃなかったから、動揺した。思えばその前のスタンス、劇場に見習い作家として入った時も、そういえばほとんど同じだったのだ。彼の才能を見抜いている人はいたけれど、だからといって上手く行く訳じゃなかった。がむしゃらに頑張るがゆえに、過去のネタを知らずに引用していたことさえ自覚がなかったのか、盗作疑惑で劇場を追われてしまう。

ツチヤ氏が周囲と上手く行かないのは、彼自身が自嘲する「人間関係不得意」というのはもちろんそうだろうけれど、誤解を恐れずに言っちゃえば世間知らずというか……彼自身が信じているお笑いという神格化された一本の道のようなものを、少しでも汚されることが我慢ならないというか、その恐ろしいほどのストイックさが、当然周囲と相容れない訳で。
確かにそれは天才肌であり、彼の才能を見抜いた売れっ子芸人の西寺が彼を呼び寄せ、迷惑をこうむりまくりながらも最後まで見捨てないのもそうなんだけれど……。

難しい。結局は、西寺は東京に呼び寄せたツチヤ氏を、周囲と衝突しまくった彼をかばいきれなくて、ツチヤ氏も限界が来て、大阪に舞い戻ってしまった。先述したようにのんきな観客であるこちとらは勝手に、それでもその後、東京に戻って成功した姿が見られるのだと思っていた。
映画の結末は挫折して戻った大阪の、オカンと二人暮らしの狭い団地の一室で、またネタを書きまくるところでエンドなのだが、きっとその先は東京での成功があるのだと思っていた。

ツチヤ氏はそのまま大阪にとどまり、新喜劇や新作落語の作家さんになっているという。もちろん、成功だ。東京での成功がハッピーエンドだと思っていた自分が恥ずかしくなる。
でも……西寺が、業界でのあいさつのイロハから教育し、もちろんツチヤ氏の苛立ちを理解した上で、自分にはけ口を持ってくればいいから、と辛抱強く、彼の才能にほれ込んでいたからこそ辛抱強く、ツチヤ氏を庇護し続けたことを思うと……。
だから実名には至らなかったのかな、だなんて、あまりにも凡俗な考えだけれど、そして東京でなきゃとかいう価値観が、特にここ近年本当にくだらないことであることも判っているけれど、なにか切ない気持ちになる。

しかし本当に、こんなにも不器用な人がいるのかと思う。自身のお笑いの才能への確信が、それだけがよりどころであることにしがみついている焦燥。お笑いなのに、面白いネタを考えているのに、彼はちっとも笑わないし、面白そうじゃないのだ。自身のネタを採用されればよっしゃ!!と喜ぶけれど、それはトーナメントを勝ち抜いたアスリートのようなのだ。
そういえば……演じる天音君は、なんかしょっちゅうパンイチ姿なのだけれど、バキバキではないけれどいい感じに筋肉がついていて、こんな風に部屋にこもってネタばかり書いているような、ヒョロでもぽっちゃりでもないのだよね……ちょっと気になっちゃった(爆)。

でもそう、本当に、全然楽しそうじゃない。芸人さんの舞台も、周囲は爆笑しているのにしかめっ面して眺めてる。念願のプロとしての現場に行くと余計に戦闘態勢で、お笑いが好きで仕事にしたいと思っているのならば、あまりに悲しすぎるスタンス。

西寺(仲野太賀)の長年の相棒である作家さん、かつては芸人(本人は今でも、と言っているけれど)の氏家(前原滉)に対する憤りが最も顕著だった。ツチヤ氏にとって氏家は、何のために現場にいるのか判らない存在だった。つまり、才能がないのに、その場を回すだけでのうのうと存在している、みたいな。
氏家が作家という肩書でなければ、そこまでこじれなかったかもしれない。そしてツチヤ氏には氏家がどんな立ち位置でどんな仕事を、見えないところまで含めてやっているのか、若く、経験がない以上に、プライドと焦燥と人間関係不得意が沸騰しまくっている彼には、判らなかったのだ。

ああもう、これを客観的に見ると、マジでこーゆー人困る!!と思うのに、西寺だけは見捨てなかった、というより、こだわり続けた。この当時彼も(つまり多分、若林氏も)若かったし、一人の才能をすくい上げるんだというプライドもあったんじゃないかと勝手に想像してしまう。
でもきっと、絶対にそれだけじゃなく、本当に、この才能をつぶしてしまうことが、お笑い界の損失だと思ったのだろうし、そしてきっと、これまた凡俗な考えだけれど、自身がたどってきた生きづらさも当然投影していた筈で。

それは、最後の最後、二人の最後の邂逅、スタッフと衝突して大阪に舞い戻ったツチヤ氏を、西寺が自身のコンビ、ベーコンズのライブに招待し、ツチヤ氏の作ったコントが披露され、大ウケし、スタッフクレジットにツチヤ氏の名前が記されているという大クライマックス。
ツチヤ氏が大衝突していた作家、氏家と同列で記されていたことに、彼はどんな思いでいたのだろうか。周囲のすべての人間にかみつき、自分で自分を苦しみの底にぶち込んでいたようなツチヤ氏。
対して氏家は、上手く世間を渡っていたように見えていた、そうして西寺をはじめ業界内の人間と調和し、自分をうまいこと取り込んでいたように見えていた氏家を、……まぁすべての人間に対してほぼ憎悪な感じだったけど、氏家に関しては本当に、複雑も複雑、軽蔑しつつ悔しくて。仕事を回してもらっているのに、自分のネタをうまいこと利用されているみたいな生意気な焦燥感に駆られていて、そして、爆発したから。

でも改めて考えてみると、この当時のツチヤ氏の実年齢は、相当若いんだよな、と思うと……。ケータイ大喜利の時代、その後のハガキ職人(ハガキなのか…?メールの今でもハガキ職人というのだろうか……)も、10代から20代そこそこだと考えると、そりゃ、そりゃあさ、と思う。
そりゃあ、その年頃は、プライドマンマンなことが健全だ。その後、世間的には社会人のお年頃になると、あっという間にプライドはぶっ潰される。その年表を重ね合わせて考えると、そんなにおかしくないか、とも思うが、そうなると、その年代であった当時の自分を考え合わせて、ギャーッ!と思わなくもないのだが。

オカンと二人暮らし。オカンの恋人に毒づいたり、男をとっかえひっかえ、と母親を揶揄したりする。実際、男とイチャイチャしているところに、息子であるツチヤ氏がキーッとなる場面もあるけれど、その時、彼はレジェンドになったことに高揚しているし、恐らく10代だし、そしてここからオカンのことなどかまってられないほどの、彼自身の苦悩の人生がスタートするのだ。
でも結局、自立生活能力も薄く、挫折すればオカンの住む団地の一室に帰ってくるしかない。仰ぎ見るほどに巨大な、白くそびえたつ団地を映し出すカットは、ここに無数に暮らす人たちの中に、ツチヤ氏だけではなく、きっと他にも才能があるのにチャンスをつかめずにあがいている人たちがいるんだと思わせる。そして、才能がなくったって、そうした人たちを見出し、支えられる人間になるチャンスは、凡人にもあるのかもしれないと思う。

それを象徴したキャラが、菅田将暉氏演じるチンピラ、ピンクであり、彼は特段ツチヤ氏を引き上げるとかはないんだけれど、うっかり出会ってしまって、なんだかいろいろ人生経験させてくれるんである。
彼がいなかったら、オカンと二人暮らし、部屋に閉じこもって壁を蹴って穴をあけているだけの、視野めっちゃ狭い独りよがりだっただろう。オカンから人生経験をイマイチ学べてないようなのはもったいない気がするけれど、実際はそうじゃないかもしれんからね。

ドムドムバーガーの店員の女の子とイイ感じになるのは、花を添えた程度かなぁ。結局ツチヤ氏、お笑いに地獄の人生を突っ込んだ彼にとって、女の子は、ファンタジーに過ぎなかったのかもしれない。★★★★☆


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