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「わ」

2024年鑑賞作品

笑いのカイブツ
2023年 116分 日本 カラー
監督:滝本憲吾 脚本:滝本憲吾 足立紳 山口智之 成宏基
撮影:鎌苅洋一 音楽:村山☆潤
出演:岡山天音 片岡礼子 松本穂香 前原滉 板橋駿谷 淡梨 前田旺志郎 管勇毅 松角洋平 菅田将暉 仲野太賀


2024/1/7/日 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
私、本当にお笑い無知で、マジでボキャブラで止まってるもんだから(爆)、この原作者さんの世代、30代半ばから40代にかけての、今一番バリバリに活躍している世代の芸人さんたちをほぼ知らないまま過ごしていたことを、ちょっと今後悔している。
すっごく当たり前にベタなことを言ってしまえば、表舞台に出ている芸人さんたちは、明るく笑いさざめいていて本当に楽しそうで、そりゃ裏話として苦労やキツいエピソードを語っていたとしても、それもまた笑い話として話してて、やっぱりどこかで、判っていなかったというか。それこそ劇中で語られる、地獄というものを。この地獄で生きていくしかない、ということを。

お笑い無知でも、なぜかケータイ大喜利は見ていたので、劇中ではデジタル大喜利というタイトルに変えて出演者も微妙な変更をなされているが、これって、ケータイ大喜利だよね!!ペンネームは変えているけれど、侯爵というのがつく名前は憶えていて、後からMURASON侯爵、レジェンド!!覚えてる!とコーフンする。

でもこれって、やっぱり実名は使えないのか。だってツチヤタカユキという彼の名前はそのままに岡山天音君が演じているのに、ケータイ大喜利も、そこで使っていたペンネームも、ツチヤ氏を呼び寄せた芸人さんも、実名は使えないのか。
と思うのはヤハリ、ついこないだのドラマ、去年だったよね、「だが、情熱はある」、ですべて実名で役者さんたちも演じ切って、とても感銘を受けた記憶があったから。
ツチヤ氏の名前だけが実名というのが……彼だけは真実だということなのか、例えばツチヤ氏を呼び寄せた実際の芸人さんに許諾がとれなかったとか、いやそんなつまんないことはないだろうけれど。

それこそつまんないところにつまづいてしまってごめんなさい。それだけ、天音君の熱演もあいまって、凄く……その、この、ね、裏側の事情、表ではあんなにも笑い転げて楽しそうなのに、地獄を生き抜いていかなければならない事情に戦慄したから。
いや、でもそこは、もしかしたらツチヤ氏が特異なのかもしれない、などと思っちゃうのはそれこそ、凡俗の凡人のこちら側だから。ケータイ大喜利のレジェンドになるのに命を削り、レジェンドになったけれど、レジェンドだらけなもんだからそこにも失望、意を決してネタ帳を携え劇場に入り込み、作家見習いになるも、上手く入り込むことができない。

確かに才能さえあれば、認められ、成功する筈だとツチヤ氏は思っていただろうし、外野ののんきな観客もそう思っている節はある。もちろん運やタイミングはあるけれども、本当の才能は当然認められるはずだし、売れる筈だと。
でもそれをことごとく打ちのめされる。それが、ツチヤ氏が自嘲する、「人間関係不得意」という言葉では言い表せないほどのあれやこれやが、あれやこれやどころじゃないものが、あるというか……。

シンプルにまるっと言ってしまえば、ツチヤ氏はいわゆる社会性というか、世間的常識というか、そうしたものが完全に欠落している人物として描かれている。多少は誇張もあるのかもしれない、などと思ってしまうほど、ちょっとないな、と思っちゃう、こんな人が例えば職場にいたらマジで困る、といった人物像。
実際、数々のバイト先で疎まれ、クビになり、しかしどうやら彼はそのことに対しては落ち込んだり悩んだりしてない、らしい。当然だ。彼にとってはお笑いこそが大事、それだけしかいらない、生きる糧として苦手な人間関係にも歯を食いしばりながら、働いていたにすぎないんだから。

バイトしている間も常に、一秒たりとも落とさずに、お笑いのことを考えている。ネタを書きまくり、投稿したラジオを勤務中もイヤホンで聞いているから、当然仕事は滞りまくる。接客業なんてサイアクに相性が悪い。
……そう、こんな同僚がいたらマジ困ると思うが、だったらどうすれば良かったのだろう。色々あって、今ツチヤ氏は作家として成功しているのだし、良かったのだと言えなくもない。

本作の中で、彼を理解、というのはちょっと違うかな、なんていうか、この才能を、この情熱を、この社会の範疇に収まり切れないというだけで見捨てる訳にはいかないと、二人の人物が引き上げる。
特にそのうちの一人、売れっ子芸人の西寺は、自分のラジオ番組に送ってきていたハガキ職人のツチヤ氏、バツグンに面白くて、彼のネタばかり採用していた。ツチヤ氏とコントを作りたいと、公共の電波から呼びかけて、運命が回り始めた。

一説によればこれはオードリーの若林氏だという。劇中で描かれている番組は当然、オールナイトニッポンに違いない。凡百の成功物語を想像しちゃうこちとらとしては、不器用で人間関係がうまく築けないツチヤ氏であったとしても、徐々に成長し、この東京で成功するまでのスタンスを描くのだと、思っていた。
そうじゃなかったから、動揺した。思えばその前のスタンス、劇場に見習い作家として入った時も、そういえばほとんど同じだったのだ。彼の才能を見抜いている人はいたけれど、だからといって上手く行く訳じゃなかった。がむしゃらに頑張るがゆえに、過去のネタを知らずに引用していたことさえ自覚がなかったのか、盗作疑惑で劇場を追われてしまう。

ツチヤ氏が周囲と上手く行かないのは、彼自身が自嘲する「人間関係不得意」というのはもちろんそうだろうけれど、誤解を恐れずに言っちゃえば世間知らずというか……彼自身が信じているお笑いという神格化された一本の道のようなものを、少しでも汚されることが我慢ならないというか、その恐ろしいほどのストイックさが、当然周囲と相容れない訳で。
確かにそれは天才肌であり、彼の才能を見抜いた売れっ子芸人の西寺が彼を呼び寄せ、迷惑をこうむりまくりながらも最後まで見捨てないのもそうなんだけれど……。

難しい。結局は、西寺は東京に呼び寄せたツチヤ氏を、周囲と衝突しまくった彼をかばいきれなくて、ツチヤ氏も限界が来て、大阪に舞い戻ってしまった。先述したようにのんきな観客であるこちとらは勝手に、それでもその後、東京に戻って成功した姿が見られるのだと思っていた。
映画の結末は挫折して戻った大阪の、オカンと二人暮らしの狭い団地の一室で、またネタを書きまくるところでエンドなのだが、きっとその先は東京での成功があるのだと思っていた。

ツチヤ氏はそのまま大阪にとどまり、新喜劇や新作落語の作家さんになっているという。もちろん、成功だ。東京での成功がハッピーエンドだと思っていた自分が恥ずかしくなる。
でも……西寺が、業界でのあいさつのイロハから教育し、もちろんツチヤ氏の苛立ちを理解した上で、自分にはけ口を持ってくればいいから、と辛抱強く、彼の才能にほれ込んでいたからこそ辛抱強く、ツチヤ氏を庇護し続けたことを思うと……。
だから実名には至らなかったのかな、だなんて、あまりにも凡俗な考えだけれど、そして東京でなきゃとかいう価値観が、特にここ近年本当にくだらないことであることも判っているけれど、なにか切ない気持ちになる。

しかし本当に、こんなにも不器用な人がいるのかと思う。自身のお笑いの才能への確信が、それだけがよりどころであることにしがみついている焦燥。お笑いなのに、面白いネタを考えているのに、彼はちっとも笑わないし、面白そうじゃないのだ。自身のネタを採用されればよっしゃ!!と喜ぶけれど、それはトーナメントを勝ち抜いたアスリートのようなのだ。
そういえば……演じる天音君は、なんかしょっちゅうパンイチ姿なのだけれど、バキバキではないけれどいい感じに筋肉がついていて、こんな風に部屋にこもってネタばかり書いているような、ヒョロでもぽっちゃりでもないのだよね……ちょっと気になっちゃった(爆)。

でもそう、本当に、全然楽しそうじゃない。芸人さんの舞台も、周囲は爆笑しているのにしかめっ面して眺めてる。念願のプロとしての現場に行くと余計に戦闘態勢で、お笑いが好きで仕事にしたいと思っているのならば、あまりに悲しすぎるスタンス。

西寺(仲野太賀)の長年の相棒である作家さん、かつては芸人(本人は今でも、と言っているけれど)の氏家(前原滉)に対する憤りが最も顕著だった。ツチヤ氏にとって氏家は、何のために現場にいるのか判らない存在だった。つまり、才能がないのに、その場を回すだけでのうのうと存在している、みたいな。
氏家が作家という肩書でなければ、そこまでこじれなかったかもしれない。そしてツチヤ氏には氏家がどんな立ち位置でどんな仕事を、見えないところまで含めてやっているのか、若く、経験がない以上に、プライドと焦燥と人間関係不得意が沸騰しまくっている彼には、判らなかったのだ。

ああもう、これを客観的に見ると、マジでこーゆー人困る!!と思うのに、西寺だけは見捨てなかった、というより、こだわり続けた。この当時彼も(つまり多分、若林氏も)若かったし、一人の才能をすくい上げるんだというプライドもあったんじゃないかと勝手に想像してしまう。
でもきっと、絶対にそれだけじゃなく、本当に、この才能をつぶしてしまうことが、お笑い界の損失だと思ったのだろうし、そしてきっと、これまた凡俗な考えだけれど、自身がたどってきた生きづらさも当然投影していた筈で。

それは、最後の最後、二人の最後の邂逅、スタッフと衝突して大阪に舞い戻ったツチヤ氏を、西寺が自身のコンビ、ベーコンズのライブに招待し、ツチヤ氏の作ったコントが披露され、大ウケし、スタッフクレジットにツチヤ氏の名前が記されているという大クライマックス。
ツチヤ氏が大衝突していた作家、氏家と同列で記されていたことに、彼はどんな思いでいたのだろうか。周囲のすべての人間にかみつき、自分で自分を苦しみの底にぶち込んでいたようなツチヤ氏。
対して氏家は、上手く世間を渡っていたように見えていた、そうして西寺をはじめ業界内の人間と調和し、自分をうまいこと取り込んでいたように見えていた氏家を、……まぁすべての人間に対してほぼ憎悪な感じだったけど、氏家に関しては本当に、複雑も複雑、軽蔑しつつ悔しくて。仕事を回してもらっているのに、自分のネタをうまいこと利用されているみたいな生意気な焦燥感に駆られていて、そして、爆発したから。

でも改めて考えてみると、この当時のツチヤ氏の実年齢は、相当若いんだよな、と思うと……。ケータイ大喜利の時代、その後のハガキ職人(ハガキなのか…?メールの今でもハガキ職人というのだろうか……)も、10代から20代そこそこだと考えると、そりゃ、そりゃあさ、と思う。
そりゃあ、その年頃は、プライドマンマンなことが健全だ。その後、世間的には社会人のお年頃になると、あっという間にプライドはぶっ潰される。その年表を重ね合わせて考えると、そんなにおかしくないか、とも思うが、そうなると、その年代であった当時の自分を考え合わせて、ギャーッ!と思わなくもないのだが。

オカンと二人暮らし。オカンの恋人に毒づいたり、男をとっかえひっかえ、と母親を揶揄したりする。実際、男とイチャイチャしているところに、息子であるツチヤ氏がキーッとなる場面もあるけれど、その時、彼はレジェンドになったことに高揚しているし、恐らく10代だし、そしてここからオカンのことなどかまってられないほどの、彼自身の苦悩の人生がスタートするのだ。
でも結局、自立生活能力も薄く、挫折すればオカンの住む団地の一室に帰ってくるしかない。仰ぎ見るほどに巨大な、白くそびえたつ団地を映し出すカットは、ここに無数に暮らす人たちの中に、ツチヤ氏だけではなく、きっと他にも才能があるのにチャンスをつかめずにあがいている人たちがいるんだと思わせる。そして、才能がなくったって、そうした人たちを見出し、支えられる人間になるチャンスは、凡人にもあるのかもしれないと思う。

それを象徴したキャラが、菅田将暉氏演じるチンピラ、ピンクであり、彼は特段ツチヤ氏を引き上げるとかはないんだけれど、うっかり出会ってしまって、なんだかいろいろ人生経験させてくれるんである。
彼がいなかったら、オカンと二人暮らし、部屋に閉じこもって壁を蹴って穴をあけているだけの、視野めっちゃ狭い独りよがりだっただろう。オカンから人生経験をイマイチ学べてないようなのはもったいない気がするけれど、実際はそうじゃないかもしれんからね。

ドムドムバーガーの店員の女の子とイイ感じになるのは、花を添えた程度かなぁ。結局ツチヤ氏、お笑いに地獄の人生を突っ込んだ彼にとって、女の子は、ファンタジーに過ぎなかったのかもしれない。★★★★☆


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