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「よ」


2024年鑑賞作品

夜明けのすべて
2024年 119分 日本 カラー
監督:三宅唱 脚本:和田清人 三宅唱
撮影:月永雄太 音楽:Hi'Spec
出演:松村北斗 上白石萌音 渋川清彦 芋生悠 藤間爽子 久保田磨希 足立智充 宮川一朗太 内田慈 丘みつ子 山野海 斉藤陽一郎 りょう 光石研


2024/2/17/土 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
「原作にオリジナルの要素を加え」などと解説されているとにわかに気になってしまうが、未読のこちとらが何を言うあれもないんだけど。
原作にないオリジナル、ということが今まで数々の映画を破壊してきたことを考えると、やっぱりついつい気になってしまって、ちらと原作のあらましを検索してしまったりしたが、なにか決定的な、クラッシャー要素が加わった訳ではなかったのかな。そんなことを気にする必要もない、胸がいっぱいになる作品だったのだから。

PMSという言葉を聞くようになったのは本当に最近である。生理前のあらゆる症状に関しては、女子同士でさえ、なにか同族嫌悪のように触れない空気があった、のは、女性が社会から差別される一つの要因であったことを痛感していたからなのだと思う。
その場合本当にすべき行動は逆で、助け合い、闘わなくてはいけなかったのに、症状としての名前がつくようになってようやく認知され始めた今日まで待たなければいけなかったことを考えると、忸怩たる思いがする。就業規則に記載されている生理休暇を、一体どれだけの女性社会人たちが取得できているのだろうか、などと。

藤沢さん(この呼び方がいいな。オフィシャルサイトの解説でもそうだから)は、PMSで精神不安が抑えられず、薬もなかなか合わなくて、前の勤め先を気まずさたっぷりに辞めざるを得なかった。本当ならば、こうした辞め方をさせてはいけない社会であるべきなのだけれど、会社側が一応建前で理解ある立場をとったとしても、本人があまりにもいたたまれない、というこの状況が、すんごく、キツくって、胸が痛くなる。
多様性と言われ、理解し合おうという認識は産まれてはきたけれど、山添くんの抱えるパニック障害もそうだし、その多様性を抱える人たちが、カミングアウトすることが前提になってしまっていて、それが、辛いのだ。だったらどうしたらいいんだろう。

この物語に、その答えが、ハッキリと示されている訳ではないんだけれど、そしてその答えを探し求めている途中に、今の社会はあると思うんだけれど、とにかくなんだか、あたたかかった。
藤沢さんと山添くんが転職先として努めるのは、栗田金属という小さな会社。子供向けにプラネタリウムや顕微鏡といった工学系キットを製作、販売していて、日々の業務はその管理や荷造り発送など地味で、藤沢さんと山添くんも、なんだか無気力そうに仕事をしていたし、周囲のベテラン社員たちも、お菓子なんか食べながら気楽に仕事をしているように見えたのだった。でも違ったのだ。

そもそも、藤沢さんと山添くんが、それぞれに辛い症状を抱えた彼らが、この栗田金属に転職してきたこと、藤沢さんが入った経緯は明らかにされないけれど、山添くんに関しては、彼の元上司、辻本と栗田社長が、思いがけないところでの知己なんである。
自死遺族の会。辻本は姉を、栗田社長は弟を亡くしている。栗田社長の弟はこの会社の社員で、後半に描かれる、移動プラネタリウムに尽力し、場内アナウンスのあたたかな原稿とカセットテープが掘り出されて、その人となりがぐっと身近に描写される。

でも、亡くなっているのだ。今はいないのだ。でも……。その境界線は、ほんの紙一重だったのかもしれない。社長の弟、辻本の姉、そしてこの遺族の会に集まっている人たちの大切な人たちが、自ら命を絶つ、その境界線は、周囲の人たちの目に見えるか見えないか、そしてそのタイミングも。
藤沢さん、山添くんが、そうした境界線の上で危うくそろそろと歩いているようだから、栗田社長も、辻本も、きっと放っておける訳がなかったのだ。もう二度と、そんな思いをしたくないから。

それは、偽善か、自己満足か、そんな風に言われるのかもしれない。身内であれ友人であれ、恋人であれ、本人の苦しみは判りっこないと。
そりゃそうだ、でも、だからといって、大好きな人たちを放っておける訳がない。大丈夫だよと、言ってあげたい。すべてを理解は出来ないけど、それでも、ここにいてほしいと、言ってあげたい。

だって、すべての多様性を、深く理解することなんて、出来る訳がないんだもの。藤沢さんが症状改善のために通うヨガ教室で、何気ない会話のどこかがいら立って、それまで親しく会話していた女性を戸惑わせるくだりがあるけれど、同じ女性でも、同じヨガ教室に通っていても、それなりに親しくしていても、……コミュニティのすべてでカミングアウトなんて、出来ないもの、そんな、すべての場所に全裸で行くような覚悟を持てというのか、ってことだもの。

栗田金属の穏やかな社風は、きっとそれまでも、いろんな人たちを受け入れてきたんだろうと思わせた。気を遣って外回りから帰るたびにお菓子を買って帰ってくる藤沢さんに、やんわり諫めながらも、ありがとうね、と嬉しそうに受け取ってくれるベテラン社員たち。
冒頭のこの時点では、いかにも藤沢さんは、この会社に溶け込もうとして必死の努力をしているのが見えたし、後から思えばベテラン社員さんたちが、それを判って、くみ取って、じんわりと見守っているのが判るのだった。

山添くんは、ちょっとプライド高めである。辻本が上司の、オシャレなオフィス、クリエイティビティな雰囲気満載のその会社で、きっとバリバリ働いていたんだろうと思われる。
突然、パニック障害に襲われた。キッカケも何もなかった。突然、食べていたラーメンの味がしなくなった。電車に乗れなくなった。そして、徒歩圏内である栗田金属で、モチベーションのない社員たちを軽蔑しながら、そんな自分にいら立ちながら、勤務している。

藤沢さんが山添くんに急にキレたのは、もちろんPMSの症状が爆発したからだけれど、おやつをおすそ分けしても無造作に断る、部活で取材に来た中学生の放送部員の子たちに挨拶もしない、そんなことが許せなかったところに、彼が飲んでいる炭酸水の、キャップを開ける音が、何度も何度も耳について、それが引き金を引いたんであった。

藤沢さんは、またやってしまった……と落ち込むし、山添くんは何がなんだか判らず、かつての上司に愚痴ったりする。
この時には、山添くんは元の職場に戻る気でいたし、上司もそのために動いてくれていると言っていた。実際はどうだったのか……。最終的には山添くんはこの会社にやりがいを感じて残ることを決め、藤沢さんは更なる転職を決めることになるんだけれど。

山添くんには、元の職場の同僚であった、恋人がいる。メンタルクリニックに同席し、心配げに寄り添う。無粋ながら、藤沢さんとバトっちゃうかも、などと心配してしまった。
でも、藤沢さんと山添くんは、それぞれの疾患に寄り添って理解し合う、いわば同志で、友達ですらないというか、こういう関係性、めちゃくちゃ理想、と思う。

藤沢さんは山添くんが過呼吸になった時に探していた薬、落としていたそれが自分が使っていたものと同じであることで、彼の状況に気付く。そこから二人は急速に近づいていくんだけれど、でもその最初、山添くんは、お互い頑張ろうねと声をかけた藤沢さんに、本当に理解できないという顔で、違いますよね?と言った。PMSとパニック障害、違いますよね、と。
違うのは当然そうなんだけれど、藤沢さんが敏感に感じ取った、彼の苛立ちは、彼女自身のそれにも感応した。PMSまだまだだね、としょんぼりと言い置いて去った藤沢さんの気持ちは推し量って余りある……生理だからイライラしてんだろと散々侮蔑されてきた女子の、その根源を、えぐられた気がした。

この前提があるからこそ、山添くんが、通っているメンタルクリニックのお医者さんにPMSのことを聞いて、その書籍を何冊も借りていくのが、ああ、ありがとう!という思いなんである。
本作は、そうした、小さな掛け違えに気付いて、少しずつ乗り越えていくことの繰り返しで、あぁ、こうでなきゃ、と思っちゃう。

山添くんの恋人と藤沢さんは、彼のアパートの前で遭遇する。凡百のドラマならすわ修羅場だが、彼のことを心配している同士、同僚である藤沢さんは、彼に届けたお守りのほかに、職場のみんなにたんまり買ってきたのをおすそ分けするから、この恋人も、いや、もう藤沢さんのたたずまいですんなり呑み込めたのだろうと思う。彼のことを受け入れてくれてありがとう、と。
もちろん、彼女、そして上司の辻本、かつての同僚たちだって、受け入れていただろう。でも、山添くんは職場から去るしかなかったし、そのことを、彼女も、上司も、同僚たちも、苦しく思っていた。
その絆は、ラストシークエンス、移動プラネタリウムという大イベントに、栗田金属の誇り高き社員として、かつての仲間たちを迎える山添くんの、すっきりとした表情で報われるんである。

藤沢さんは、地元に帰る形での転職である。母子家庭ということだったんだろう。しょっちゅう食べ物やらなんやらを送ってくれる母親が、病気か事故か、身体が不自由になった。介護のために、実家に帰ることを決めた。
藤沢さん、そしてその母親はまだまだ若いし、福祉の手を借りながらリハビリ頑張っているし、そもそも、家族が介護しなければならないといういまだにの日本の現状に、私は憤っている。
福祉の手を借りれば、一人生活も可能なのかもしれない、その上で、藤沢さんは、この選択をしたのかもしれない。そう思いたい。そうじゃなきゃいけないと思う。ごつごつとぶかっこうなミトンを編み上げる母親は、もうすっかり大人である娘にしょっちゅう荷物を送るような、いわば子供をいつまでも子供扱いしているのかもしれない。そういう読みとり方もできなくはない。

でも、藤沢さんが抱え続けているPMSの苦しみを、娘が訴えていたかどうかは判らないけれど判っていたに違いないし、その上で何も言わず、荷物を送ったり、していたのだろう。
荷物を受け取って藤沢さんが電話すると、いつも留守番電話だった。寝ている時を狙って、留守番電話になるのを狙っていたのかもしれない。藤沢さんは、お母さんに、受け取ったよ、ありがとう。また電話するね、と言って、電話を切っていたのだった。

お互い発作が出るたびに、忘れ物を届けたり、送っていったり、山添くんの髪の毛を藤沢さんが切ったり、それで失敗しちゃったり。本当に、凡百の映画だったら、恋人になるやろ、というところだが、決してそうは、ならないのだ。いい時代になったと思う。これが、全然違和感がないんだもの。
同僚として、移動プラネタリウムのイベントに尽力する。思いがけず休日出勤に居合わせて、土日休みで月曜がしんどい、と共感し合ったりする。PMSを勉強し、理解した!と藤沢さんを過剰にサポートしようとする山添くんに藤沢さんが困惑したり、あぁ、いいなぁと思う。
栗田金属の社員さんたちのように、すべてを理解しきれないことを自覚した上で大きな愛で受け入れるのもアリ、山添くんのように、理解しようと努めて、時に相手を困惑させるのも、大事な大事な理解し合いの一歩なのだから。

藤沢さんが去り、山添くんが残って、ラストクレジットに重なる、のんびりとした、キャッチボールをする社員、取材に来た中学生の男の子と女の子、植木に水をやる社長、ほんの一角、小さな会社の昼下がり、これが人生なのだと思った。
山添くんがかつて勤務していたようなオシャレなオフィスがドラマや映画で跋扈しているけれど、これよこれ、これが人生なのよ、そして、排除されず、ゆっくりと受け入れる場所はここなのだと、思ったのだった。★★★★★


夜のまにまに
2024年 116分 日本 カラー
監督:磯部鉄平 脚本:磯部鉄平 永井和男
撮影:小林健太 音楽:kafuka
出演:加部亜門 山本奈衣瑠 黒住尚生 永瀬未留 辻凪子 岬ミレホ 木原勝利 日永貴子 川本三吉 時光陸 大宅聖奈 辰寿広美 緒方ちか

2024/12/4/水 劇場(新宿シネマカリテ)
割としばらく、これが大阪が舞台になっていると気づかなくて。主人公二人に訛りがなかったからなんだけれど、よく耳を澄ませてみるとその周辺は結構きちんと?大阪ことばだったので、これはひょっとして彼らの異邦人な雰囲気を示しているのかもとも思った。
映画館が重要な舞台として出てくるから、東京だと思っていたから、これどこの映画館だろ、どことも似てるけど違うような……と、そりゃそうだ、東京じゃないんだから。
でも当然、大阪も大都会で、誰もが浮遊しているようなこの感覚は共通してて、その中にぽっかりと落とし込まれる映画館というところは、似てるけど違うような、そんなふわっとした違和感までも、彼らが出会う最高の場所だったのだろうと思う。

ここで出会うのは二人じゃなくて三人。若い二人にプラスされるのはもう人生もだいぶ後半戦の落ち着いたマダム。死に別れた夫の日記を読んでしまって、どうやら浮気相手とこの映画館に来ていたらしいのだと。
浮気相手、浮気、というのがどこまでを言うのか。ヤボな感覚ではヤッてるか否かだが、このマダムはきっとそうじゃない。夫の日記に見つけたのは、映画館に行っていたということと、夫から漂っていた香水の匂いだけ。

散歩している時間が多くなっただけでは、そこまでは至らなかった……と思いたい。いや、だから、そうじゃなくて(汗)、長い夫婦生活の中で共にしたことのなかった映画館という異空間を、誰かと共にしていたという、気持ちを共有していたという、それこそが彼女にとってはショックだったに違いなく。

そこで出会う三人。新平はまず、指定席だったけれど誰もいないもんだから最後列に席を移動した。そしたらそこが偶然、マダムの席だった。
慌てて謝って移動しようとすると、一緒に映画を見てくれないかという。そこへやってきた佳純もまた、そこは自分の席だと言い、この三人で貸し切り状態だから、三人で一緒に映画を見ようということになる。

こんな奇跡の偶然、あるだろうか、いやない(反語)。でも今や風前の灯火であるミニシアターという場所は、この異空間では、あるかもしれない、と思う。
あるいはマダムにしても佳純にしても、本当に彼女たちのチケットがそこだったのかとも思っちゃう。とっさに、一緒に映画を見ようという、ほんのささやかな運命共同体みたいなものを、それこそ女の直感的に行動したんじゃないかとも勘繰ってしまう。

でもその後、佳純は姿を消してしまうのだよね。映画の後、三人で焼肉をつつくまでに盛り上がったのだから、当然連絡先を交換しているんじゃないかとも思ったけれど、そういう訳ではなかったのか。新平はマダムと映画館デートを続けていたけれど、それはあくまで映画館での待ち合わせ、というアナログだったのかもしれないし。
なのに突然、佳純は新平のバイト先に新人としてやってくる。こんな偶然あるかと思う。しかも佳純は新平のことを覚えてない風なのだ。そんな訳あるかい。結局は夜同士一緒にいて、彼女の方から突然のチューまでしかけたのに。

本当に、不思議な二人。オチバレで言っちゃうと、結局、恋までにさえ、行かない。
佳純が新平のバイト先に入ってきたのは絶対に、ぜぇったいに偶然ではないと思うけれど、でも新平が彼女に惹かれるのをブロックするかのように、佳純は自分には彼氏がいる、でも浮気しているらしいからその真相を突き止めるための張り込みに協力してほしい、という展開になるんである。

これがね、なんだか自然に新平が巻き込まれる展開にはなってる……佳純が集積所のごみを漁っているのを新平が偶然見てしまったという図式なのだけれど、これもまた偶然だったのかどうか……。
佳純が言い募る、彼氏の浮気を突き止めたい、というのは、フツーにだったら直接彼氏に問い詰めろよ、とも思うし、彼女が言うように実際に女を連れて部屋に入っていってるんだから、もうチェックメイトだろ、と思う。

なのに佳純はまるで偶然かのように、実際に彼女の目の前でその場面を見ることはないのだ。トイレに行っていたり、新平の実家にうっかり訪ねちゃったりしちゃって。
それは、偶然だったのだろうか。新平の見えない友達のように、佳純もまた、妄想の恋人を作り上げていたんじゃないんだろうか。

あぁ、これよ。新平の見えない友達。後から思えばファーストシーンから彼はいたのだった。見えない友達、新平以外には見えない友達。まさかそんなこと、思いもしなかった。とても自然に、他にも見えているように、存在しているように描写されていたから。
その冒頭、同棲していた元カノが引っ越していく、という場面があって、幼なじみでもあるこの元カノの咲が本作のキーマンであるのね。見えない友達、ということが判らないままだったこともあって、咲はめんどくさい女の子だなと思っていた。幼なじみだということを言い訳というか武器にというか、そもそも別れた後もずっと同棲生活を続け、やっと引っ越したのに合鍵を返さず、愚痴を聞いてもらいたいときには自由に部屋に入り込んでいる、だなんて。

でも、見えない友達、ということが明らかにされると、ああ、咲は、本当に新平のことを思っていたんだ。告白したのも別れを切り出したのも、何もかも私の方だと、後に佳純に明かす咲は、恋をしていたのも本当だったけれど、幼なじみとして、友達としての気持ちも本当だったのだった。
でも佳純はずっと、そんなこと信じられないでいた。新平に、友達としての元に戻るなんてありえないと、その出会いの時に吠えていた。それは、恋人に浮気をされていたから、というスタンスだったからなのだけれど、先述のようにそれは果たして本当だったのか。

結果的に、本当に佳純は謎である。新平のミステリーが解明されるための本作であったようにも思う。佳純の彼氏を監視する夜のパトロールに、巡回中のおまわりさんが不審がったり、その窮地を新平のお姉ちゃんが助けてくれたりする。
このお姉ちゃんはコテコテの大阪ことばで、お母さんもそうで、実家になかなか帰ってこない新平を、広場で太極拳しながら女二人でやいやい言うのが、……これまた後から思えば、色々抱えまくってる新平を追い詰めず、軽い感じで帰って来いやー、と言うことで、私らはあんたの味方やで、いうことを示していたんだと、後々、本当に、後々、判るのだ。

じわじわ示される新平の事情は、明確ではないけれど、シングルマザーのお母さんが亡くなってしまって、お母さんの姉か妹が引き取ったという形だと思われる。
小学生の時から10数年なのだから、本当のお姉ちゃんとお母さん、という感覚になってもおかしくないし、ほとんどそうだと思うんだけれど、でもこのお姉ちゃんとお母さんには、判っているのだ。新平にしか見えない友達がいる、それがきっと、彼が亡くなったお母さんのことを含め、あらゆる哀しさから飛び立てるための、いわば試金石だと。

本当に、気づかなかったから。新平にしか見えない友達だなんて。めんどくさい元カノだとしか思えなかった咲が、新平にようやくできた新しい彼女だと思った佳純に、でもそうじゃないと知っても、この事実を確かめようと思ったのは……今の新平の母親も姉も、そして元カノも、新平を愛して、本当に心配しているのだよね。
新平が元カノの咲に合鍵を返してもらえないことに観客はイライラしていたし、見えない友達も怒っていたけれど、咲は新平が本当の意味で現実に立ち向かうのを見届けるまで、これはあくまで友達として、大切な友達として、捨て置けなかったということなのだ。

こんな、関係性があるんだということを、今の時代なら、確かに信じられる気がする。なんつーかね、昭和の私らは、男女間の友情なんてありえないという価値観を押し付けられていたから、そんなことない!!と思っても、強く主張できなかった。
でもここ10年、いや、20年ぐらいかな、今の若い人たちのフラットな価値観にとても助けられている。勿論、あらゆる多様性に対する理解が進んでいるということもあるし。

結果的になのか、そもそもなのか、新平と佳純が恋として成就しなかったことが、凄く意味があった気がする。二人が出会ったのは、二人きりじゃなかった。人生の大先輩のマダムから、夫という、公的契約パートナーの浮気かも話を聞かされ、しばらく佳純は脱落していたけれど、新平はマダムのデートに付き合い続けた。
その後、バイト先で再会する佳純はあまりにもミステリアスで、マダムを交えた再会までめちゃ時間がかかった。それは……いろいろ考えられるけれど、あくまで作劇的なことで、マダムと新平の、お互い個人的な想いを含みつつ、それが交差しない心地よさ、性差でも年齢でも交差しない、何も話さなくてもいい、ただ、オールドクラシックな映画を見て、ちょっと盛り上がって話せればいい、ということなんだとしたら……こんな素敵な関係はないと思う。
そして確かにここに、いかに年齢がかけ離れていても、同性が、しかも今現在同じく、ホレたオトコの気持ちが判りかねている佳純が同行していたら、辛かったかもしれないのだ。

複雑だなぁ……先輩女子として、マダムは佳純にアドバイスは出来たと思うのだけれど、でも、新平側がなかなかのストレスがあったから。薄々判りかけていたところで、ああやっぱり、という、母親の葬儀。新平が見ないようにしまっていた大きな花弁が開いた印象的な絵画、母親が画家だったのか、登場しない父親がなのか。
結局はなにも明らかにはされないし、そんなことは何の問題でもないのだ。こういう、親がどうかとかいうやつさ、シングルマザーなのかファザーなのか、どーでもいいのに、いまだとらわれるのは、今の日本がまさにいまだにあらゆる家父長的、勝手に妊娠する女、てなクッソ偏見が蔓延しているからなのだ。

あぁ、これを言っちゃオシマイかな?本作にはそぐわないかな?でも、私ら世代は、そういう立場から支えたいと思う。それしか出来ないから。★★★☆☆


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