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「い」


2025年鑑賞作品

いきもののきろく
2014年 47分 日本 カラー
監督:井上淳一 脚本:井上淳一
撮影:鍋島淳裕 音楽:
出演:永瀬正敏 ミズモトカナコ


2024/3/17/月 劇場(テアトル新宿)
今回ばかりは情報を入れずに行ったことを、かなり後悔したなぁ。作品の立ち位置、というか、そうしたものがまるで判ってないと、ただ時間があったから飛び込みました!というには済まされない作品だった。
実に製作から11年経っていることすら知らず、永瀬氏はそれでなくてもあまり風貌が変わらないし、モノクロとなるとさらに年齢差が判らない。全然、気づかなかった。

2014年、に作られたと知れば、東日本大震災からさほど時が経っていないのだから、本作が描こうとしたものは、2025年の今作ったとするよりまるで、全然違った色合いになるのは当然な訳で、でもそのことを私は鑑賞中に判ってなかったから、後悔したのだった。
こればっかりはちゃんと判って臨まなければいけなかったと。でも、映画との出会いって、やっぱり偶発的なものだと思うからさ……(言い訳)。

だから、何も判ってなかったから、そしてポスターのクレジットで永瀬氏原案というのは見ていたから、わー、いかにも永瀬氏が作り上げそうな世界観だなぁ、めっちゃ、ぽい、とか気楽なことを考えていた。これが東日本大震災にそれほど遠くない時に作られたものと知っていたら、全然違ってた。
でも、確かにその気配は薄々感じていた。危険地域、立ち入り禁止の立て札、みんな生活の一部だったんだ、とつぶやく男(永瀬氏)の言葉、がれき、あくたは皆、死んだような運河の水面にはき寄せられている。

そもそもこの運河を題材とした企画がスタートだったという。場所は東北でもないし、永瀬氏がそもそも作り上げた物語は、震災のことをイメージしてはいなかったらしい。
「誰もいない街の廃工場でひとり筏を作り続ける男の話だった。そこにひとりの女が訪れる」という短編映画のプロット。まさに、これぞ、永瀬氏という感じ。ぽい(また言ってしまった……)。

むしろこのイメージは、一篇の詩のようであった。その筏でどこへ行くのか、そもそもごみのような切れっぱしで作った筏でどこへと行くことなんて出来るのか。
人っ子一人いない、まるでどこか他の星にワープしてしまったかのような、空ばかり広い倉庫街の片隅で、子供の工作みたいな当てのない筏を作り続ける男、それは本当に詩的で、そこに彼を惑わす魅惑的な若い女が現れると純粋な詩的さは壊れゆくけれど、それもまた、退廃的な魅力があると思った。

どれもこれも、後から経緯を知ってしまったがゆえに後付けに思うことだから良くないとは思うんだけれど、ちょうどこの時、というタイミングがあったがために、東日本大震災のモティーフとなったことが、私のようにぼんやり足を運んでしまった観客にとっては、不幸なことのように思えた。

東日本大震災をモティーフにした映画に関しては、凄く複雑な気持ちになってしまう。直後、数年後、10数年後、途切れなく作られ続けるいわゆる“震災映画”は、ドキュメンタリーの形をとってヤラセが発覚したり、震災オンリーじゃなくて何より原発があったから、時に心無い描写をされもした。
震災や原発をテーマに映画を作ることが正義だという態度の暴力にしか思えなくて、一時期、“震災映画”を避けてしまうことさえ、あった。

だからなんか、なんというか、本作に対しては、まるでそう思ってなくて対峙したから、やっば!と思ってしまったんだよなぁ……。でも、見ている時にはちゃんと認識していなかったから、後からかなり、焦ってしまった気持ちは、あった。
見ている時には……そうね、彼らの行動になんらかの決着がつくのをずっと待っている感じだった。しかも、台詞がない、というか、サイレント映画の字幕スタイルで進むから、あぁなんか、アート映画だなぁ、だなんて思ってぼんやり眺めていた。

がれきで筏、というか、正直前衛アート作品を作っているように見えるんだけれど、その淡々とした作業シーンと共に、どこか、がらんとした、捨て置かれた廃墟の建物の中の空間に、演劇的な、鼓舞する台詞を、巨大な白布に書きなぐるように書かれた、それが誰に見られることもなく、ずらっとはためいている。
現代アートっぽい……つまり観客の感性が試される、どう答えを出すかが試されるのを感じて、次第に息苦しくなってしまって。

今までずっと、一人きり、この星に放り込まれたかのような男が一人きりで(こういう雰囲気、永瀬氏バツグンに似合う)何の当てもなく筏を作っていたのが、突然女が現れて、私にも作ってという。
寝袋を持ち込んで彼のそばで寝泊まりまでするもんだから、最初は彼は寝袋に入った彼女をずるずる引きずって移動させたりなんとも冷たいのだが、なんだか次第に、一緒に作品を作り上げる仲間、みたいな感じになって、結局彼女からアプローチ受けて、セックスしちゃう。

うーむ、別に肉体関係いらなくね?と思っちゃうのは、あの震災当時にはまだまだこうした、いわゆる男子の妄想を叶える描写が放置されていたのが、ここ数年一気に多様化という価値観が進み、ようやく、ようやく!女子の性的欲求をきちんと多面的に理解する傾向に来たなぁと思っていたから。
そうね、そうね……だって、11年前なんだもん。ここ数年の急速を思うと、ほんっとこれまでがおっそい!と思ったし、それに比したら、11年前は、そりゃ取り残されているのだ。

彼女が彼にセックスを挑みかかった真意が今一つ判らない……愛しいと思ったのか、単に性欲だったのか、どちらなのかということは、とても重要だから。
見事なおっぱいを見せて、それを中年男性にモミモミさせる画で釣ってるとちょっとでも感じさせちゃったら、まさに今の時代、アウトなのだ。

最後の最後、二人は、それこそ大林映画のタイムリープさながらに、それまでの、違う星の取り残された二人、みたいなところから、突然抜け出る。それまで、サイレント映画状態だったのが、音声を獲得する。
でもそれは、それまでは、シリアス気味ながらも、詩的、哲学的であっても双方向の会話であったのが、都会の雑踏の中に放り込まれた画になり、型通りの、体温のない、いわゆる日本語の紋切り型の挨拶が数々披露される。

もちろんこれを、日本語のおもてなし的、繊細で種類に飛んだ挨拶の数々ととらえることもできるけど、そうだった可能性の方が高い気もするけど、私はそうとらえるのが難しかった。
それはまるで……これが、震災が起きて、原発事故が起きて、人っ子一人いない世界に放り込まれた男女の物語なのだとしたら、そこから、救い出されたのか、投げ出されたのかは判らないけれど、無造作な挨拶だけが飛び交う街に、いわば、“戻ってきた”ことが、彼らにとって幸せだったのかどうか、ということに見えた。時が経てばすべてを忘れてしまう、今の世界への皮肉のように見えた。

凄く、難しかったなぁ。47分という短い尺だけれど、モノクロ、サイレント字幕、震災を思わせるのをどうとらえたらいいのか。
男女、それ以上のジェンダーの価値観はここ数年で急速に変わったから、11年前の本作が、それに対応しきれていない感覚は正直、あった。そんな時代が来ると思わなかったから、それにビックリしているところもあるんだけれど。★★☆☆☆


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