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レイブンズ/Ravens
2024年 116分 フランス=日本=ベルギー=スペイン カラー
監督:マーク・ギル 脚本:マーク・ギル
撮影:フェルナンド・ルイス 音楽:テオフィル・ムッソーニ ポール・レイ
出演:浅野忠信 瀧内公美 ホセ・ルイス・フェラー 古舘寛治 池松壮亮 高岡早紀
で、そう、やっぱついつい調べちゃう。深瀬昌久という人がどういう人だったのかを。本作はとてもアーティスティックな表現でこの稀代の写真家を描いていて、実際の人物だというのは勿論判っているけれども、事実をもとにはしているけれど、いわゆる史伝という描き方じゃないんだろうという感覚が最初から、あったから。
実際の人生の節目の出来事や、彼が実際に撮った写真を元に、その撮影風景を再現したりとかはするけれども、それはこの深瀬氏という人物を描く上での定点スケッチのようなもので、監督さんは、もちろん深瀬氏に魅せられている訳だけれど、そのやり方は、深瀬氏そのものをリアルに造形するんじゃなく、監督さんの中の深瀬氏を醸造させて、湧き出てくるものに虚構性を加えて、事実性よりも、精神性、掘り下げられる哲学のようなもの、のように感じた。
そう感じちゃったから、何にも知らなかったから、実際はどうなのかと気になっちゃったのだ。こういうのは良くない。たとえ実際の人物が描かれていたとしても、映画は映画、その一つの作品の中にしか結論はないのだから。
でも知りたいと思った。被写体として撮り続けた愛妻、洋子さんのことを。そして深瀬氏自身のことを。本作のタイトル、レイブンズ=鴉は、深瀬氏自身の重要なモティーフの一つであり、それは洋子と別れてから撮り始めたものなのだけれど、本作においてはそれがもうひとつ昇格、というか、深瀬氏の分身のように、前衛的というか、怪奇的というか、独特の造形で彼の前に現れる。しかも、若き日の彼、写真を学ぶために大学に行くあたりの頃から、この奇妙な鴉が彼につきまとい続ける。
実際は、鴉のモティーフを深瀬氏が撮り出したのは洋子と別れた後だし、彼自身の写真家としての人生の最初からつきまとっていた訳ではないことが、鑑賞後、こんな風にくだらない検索しちゃって(爆)判っちゃうのだが、ここが難しいところなんだよなぁ。
あくまで深瀬氏を、実在の稀代の写真家の深瀬昌久という人物を映画作品という創作のモティーフとして、監督さんのフィルターを通して、ひとつの芸術作品に仕上げているということなのだから。
確かにこの鴉というモティーフはとても魅惑的だ。地獄の死者のようにも見えるし、孤高の哲学者のようにも思える。
終始酒におぼれている深瀬に幻影のように見えているという存在として、こんなにも悪夢的で魅惑的なものはないと思う。洋子と別れた後に出会ったモティーフとはいえ、最初から彼の中にあったのだと、分身だったのだという置き方にしたくなるのは判る。
いや、もちろん、そんなことではないことは、作り手側も判ってる。恥ずかしながら上っ面検索をしただけでも、深瀬氏が被写体とした妻にしても猫にしても鴉にしても、すべてが結局は自分自身を覗き込むための反射板のようなものだったのだということは、既に指摘されているのだから。その点を本作は、これぞ虚構という形をとって描いていたということなのかもしれない。
終始酒におぼれている、ということが、ひとつ気になっていたことではあった。酒好きとしては、酒や、酒飲みをこんな風にクソみたいに描くのが、正直、許せないのだった。だからそれが気になって、wikiをはじめあれこれ検索したんだけれど、確かに泥酔してバーの階段から転げ落ちて脳挫傷となり、その後活動することはなかったことは事実にしても、ずっと酒飲み状態だった、というのは確認できなかったんだよね……これが、すっごい、気になってしまって。
映画となった本作では、もうどうしようもない酒飲み。酒に失礼なぐらい、酒を浴び、ランチキパーティーをし、仕事に穴をあけかけて後輩を慌てさせる。ザ・破天荒な芸術家描写で、これホントなの??と思っちゃったから。
演じる浅野忠信氏に、合わせたというか、インスパイアされての作り込みだったのかもしれない。この独特な俳優さんは、それなりに合致する役柄はこれまであったけれど、彼自身が「自分にしか出来ない役」と言うように、本当にそのとおり、知らなかった筈の稀代の写真家、深瀬昌久氏が、目の前でのたうち回っているとしか見えない。
正直言うと、父親との確執は、なんていうか……判りやすいというか、ステロタイプというか、それこそざっと検索した限りでは確執があったかどうかを確認できなかったもんだから、酒におぼれる、親との確執、って、めっちゃ判りやすいゲージュツカが陥る穴じゃんと思っちゃうから、どうなのかなぁと思って……。
母親は理解があって、婿養子である父親とは相いれない、というスタンスは、いまだ悪しき家父長制度が根付く日本において、めっちゃくちゃ、ものすっごく、重いテーマなんだけれど、だから日本はダメだよね、というところにとどまってしまったかなぁ。
深瀬氏のまさにミューズとなる洋子を被写体として撮り続ける。映画の中で再現されている、団地、あぁ、めっちゃ近しい草加松原団地、あの団地に彼らは住んでいたんだ……。
ベランダからカメラを構えて深瀬氏が、下にいる愛妻、洋子を撮る。映画内でも、実際に撮られた写真でも、本当にめちゃくちゃ良くて、ガバッと笑った顔を夫にあお向けているのが、本当に良くて。
当時の、細眉メイクの、社会にたてつく気概のある若者のファッションで二人並んでのツーショットもあって、幸せそうだった。でも、確かにうがっていえば、夫の深瀬氏が、ベランダという上からの視点で、下にいる愛妻を撮るという図式が固定されているというのは、当時はまだ見えなかったけれど、今、もういろいろ細かい時代になっちゃうと、いろいろ見えてきちゃう。
色々検索しちゃうと、洋子と別れてから別の女性と再婚していたのだけれど、本作ではそれも明かされない。やっぱりそこは、別れて、他の男性と結婚してでも、洋子だけが彼の唯一のミューズとして描かれる。確かに判りやすいのだけれど……。
これは、映画として美しく成立しているのだから余計なことは言わない方がいい、のだろうが、希望的観測としてね、前提として女性が、いやいやいや、そんな恋愛体質じゃないよ、さっぱりと生きていきたいわさ、と思うだろうなぁと思うから……。
洋子さんが妙に習いものやりたがりで、夫の稼ぎを食いつぶす、というシークエンスが、何これ??と思っちゃった。これは何が言いたいの……まるで、ワガママな妻をやれやれと養っているとでも言いたいみたい。あるいは、子供の習いごとならまだしも投資と思えるが、という嘆息に聞こえる。意味不明だなぁ……。
子供に対してなら投資と思えるからオッケーなのだろう。そう思うんだったら、妻自身の稼ぎでやらせればいいさ。女はしたたかだから、その理屈は当然判っていても、夫が出してくれるんだったらしれりと乗っかるよ。そんなところでつまづいているんだったら、そもそもこんなエピソードを入れ込んでこないでと思っちゃう。
本作はね、そもそもとってもとっても、美しい作品、美しい映画、なのだ。実力者の浅野忠信氏、瀧内公美氏、そして他のキャストたちも、日本が誇る演技派が集結しているし。
でも、なんだかしっくりこないのは、私がフェミニズム野郎だからなんだろうなぁ。古き良き、と言ってしまったらもう負けだと思う。そんな感覚がある。祖父の時代から続く写真館を継ぐことを強制する父親との確執が、本作のメインテーマとなっているけれど、調べた限りではそんな確執はなさそうなんだもんなぁ。
こういう部分が、ホントムズかしいとは思う。こんなことばかり気になってしまって、ラスト一体、私はどう受け止めたのだろうってことさえ、定かじゃないから。★★★☆☆