home!

「な」


2025年鑑賞作品

中山教頭の人生テスト
2025年 125分 日本 カラー
監督:佐向大 脚本:佐向大
撮影:沖村志宏 音楽:Dflat
出演:渋川清彦 高野志穂 希咲うみ 渡部秀 高橋努 櫛田遙流 太田結乃 大角英夫 矢部玲奈 笹木祐良 田野井健 川面千晶 橋本拓也 足立智充 安藤聖 大鶴義丹 風間杜夫 鷹森真希


2025/6/22/日 劇場(新宿武蔵野館)
これは……!2週間限定上映(私が足を運んだ劇場は)だなんて、もったいない!ちょっと、凄い完成度の作品を見てしまったなぁ……。
いわゆる教育現場、それも、まだまだ人格が固まらない小学校という、私たち大人から遠く時間が隔たってしまったがゆえに、把握することが本当に難しいコミュニティを、こんなにも緻密に、ミステリアスに、辛辣に描いた作品を、ちょっと他には思いつかない。

本作の中には巧妙に隠されたいじめの問題も徐々に浮かび上がってくるんだけれど、それこそ学校という狭い社会の中でのいじめの深刻さを扱った映画はいくらだって思い浮かぶし、素晴らしい作品は沢山あったけど、でも本作は全然違う。
一面的ではない、というか、そうか、今までのいじめを扱った映画に時々感じた違和感、とまでは言わずとも、そんな感覚があったのは、いじめる側といじめられる側というハッキリとした図式の一面的さにあったのかもしれないと思えてきた。

いやいや、そこにとらわれていたら話が進まない。だって主人公は教頭先生。演じるは渋川清彦氏。彼の名前を見て私は足を運んだのだから。渋川氏ならではのペーソスにじみ出る教頭先生、何でもかんでも頼まれちゃう、持ち込まれちゃうのは、頼りがいがあるんじゃなくて、何でも押し付けられてしまう流されやすい性格、と確かに思えていたし、そのとおりでもあるのだろう。
でも、以前は熱血教師だった、とかつての上司たる元校長(今や教育委員会の重鎮)から明かされる彼は、実際にきっと、信用され、頼られる存在であったと思うのだ。

それを彼自身も、そして周囲も、軽んじているだけで。本作はかなりシビアな展開、事実の開陳が次々に押し寄せて、胸が痛い場面の連続なんだけれど、渋川氏の持つチャーミングさがあいまって、そして優れた脚本は要所要所でクスリと笑わせるタイミングをしっかり用意していて、とてもイイんである。

中山教頭先生は、校長試験を控えている。現校長からの推薦がなければ試験だけでは難しいのだが、いかにも鉄の女な校長はまさに独裁者のごときに君臨しており、只今それどころじゃないんである。

5年1組の担任であった女性教師、椎名先生は何か問題を起こしたらしく、担任から外れているのだが、なんだかやけにこの校長から毛嫌いされている風。代わりに担任になった男性教師、黒川先生は、児童たちに対してひどく威圧的で、大人である観客の私たちでさえ、見ていて冷や汗が出るぐらい。
子供たちが彼を嫌うのは充分すぎるほどに判るし、事情は判らないけれど、元の担任であるはつらつとした椎名先生に戻ってきてほしいというのは当然、と思っていたんだけれど……。

こうして改めて展開を思い返してみると、本当に巧妙、騙された訳ではないけど、ヤラれた!という感じなんだよなぁ。ウソを言っている訳じゃない。確かに椎名先生が児童たちに好かれるのは判る。まっすぐな情熱を持っていて、子供たち一人一人に心を寄せている。
一方で黒川先生は、母子家庭の女の子に辛く当たったりと、本当に冷ややかでコイツー!と思うし、ちょっと上からつつかれたら体調不良で長期休暇を取りますとか、キーッ!と思うんだけれど……。

結局、椎名先生はそれこそ一面的にしか子供たちを見ていなかったことが後半の展開で判っちゃったり、黒川先生が児童全員に嫌われていた訳ではなく、それはどうやらスター女子の操作もあいまっていて、彼に恋している女の子がいたぐらいなんだから、それこそ、一面的では判断など出来ないことばかりなのだ。
あの黒川先生の評価さえ裏返るとは思っていなかったから、本当にビックリしてしまうのだ……。

このクラスの子供たちの複雑な関係は、最初は全く見えてこないだけに、どんどん明らかになって、えーっ!と思う。全く見えていない、というのは、大人の目から全く見えていない、ということである。
子供たち、このクラスの全員が、そのすべてを目撃している。成績優秀で、優しい性格の愛里沙は、確かに彼女は、ひねくれた映画観客の疑惑を誘う存在ではあった。まずその、1人だけ水際立った美少女っぷりが、このキャラクターの出来すぎ感をマシマシていたから。

でも、とても緻密に、丁寧に、彼女と、その父親であるPTA会長とが、教師たちに対して、特に中山教頭に対して常識ある、理解ある立場をとり続けていたもんだから、なんだか段々と、教師たちと共に観客も懐柔されてしまっていたのであった。

やっぱりこの子がキモだったのねと明かされた時に、キーッと思うぐらい、はぐらかされていた。彼女の父親が誇らしげに言っていた、自分は違うよという自信満々で言っていた、自分の子供のこととなると周りが見えなくなる、というのは、あんたもな、というオチは、それだけ切り取ればいかにもありがちなのに、この優秀な美少女の優し気な雰囲気に、徐々に徐々に飲み込まれてしまっていた。

といういわば謎解きは、後半になってである。中山教頭は、意外にその思惑から外れたところにいたと思う。彼は今、校長試験の受験勉強が最優先で、なのに教師間の軋轢や、児童の親、児童同士のトラブルに巻き込まれて疲弊している。
巻き込まれて、という言い方になるのは、前半の段階では彼は教頭先生であって、ある程度管理的な立場にいる筈なんであって、それでももう巻き込まれているけれど、臨時担任となっちまうもんだから、最前線に立たされてしまうんである。

愛里沙はクラスメイトの中のもう一人の優秀な男子、健人にライバル心を燃やしていて、彼を貶めるために自分に好意を寄せる男の子や、友情をちらつかせて実は手下でしかない女の子を使って、教科書を捨てさせたり,ケンカをしかけたりする。
後に暴かれると本当にクソ女なのだが、このコミュニティの中で彼らが愛里沙の絶対的優位性をきちんと理解していて、あるいは本当に惹かれる部分もあって、時に卑劣な自己保身に至ったり、逆に自己を貶めたりしていたことが明らかになる後半は、本当に、本当に、衝撃なのだ。
愛里沙と優秀さで争っていた健人が、教科書を忘れたと言った時、見せてあげなさいと教頭から言われた隣の女子が目をそらした時、まさかこんな深くキツい事情があっただなんて、思いもしなかった。

一見して児童たちに大人気の椎名先生は、児童の親とも親しい関係を築いていることからトラブルがあって、謹慎めいた処分を校長から受けている。一見して、と書いてしまったのは……物語の中盤ぐらいまでは確かに、そう思えていたから。
教育委員会長がクサすように、融通の利かないオバハン校長とも見えていたが、でも、このクサす場面、なんか懐かしい昭和的、接待料亭な場面にオッサン教育関係者たちがさしつさされつ、てな感じだったから、これはマユツバだぞというサインは感じてはいた。

実際、この教育委員会長はわっかりやすく掌返しをして、使えないとクサしていた黒川先生を、校長を貶める“使える男”として招聘するのだし、あぁ、やだやだ、大人の世界!!
それが判れば、ワガママ校長とも見えていたのが、見方が変わってくる。年若い人気取りの女性教師に嫉妬めいた処分を下していたと思えていたのが、変わってくる。最後の最後には、私の若い頃にソックリ、とつき物が落ちたように椎名先生に校長は言う、それが確かにそのとおりなのだろうと思える。

おっと、主人公は中山教頭なのに、中身が濃すぎて、なかなか行けないわ。彼は今、父子家庭で踏ん張っている。奥さんを数年前交通事故で亡くした。恐らくそれまでは、いわゆる家庭を顧みない系の、昭和オヤジだったのだろう。
思春期の娘をかかえて、校長試験の受験を控えて、学校内の問題に忙殺されて、へろへろの日々を送っている。

交通事故で急死してしまった奥さんの死に目に、仕事(授業)を優先して、会えなかったらしいことが、娘ちゃん、そして当時の上司であった教育委員会長によって明かされる。娘ちゃんは反抗期ということもあるけれど、仕事人間の父親、それも児童たちを家族と言うことへの反発もあり、教師としての最高峰を目指している父親に対して、それが時間的経済的余裕を産むのだからと言われても、お母さんがどういう想いだったか、と反発する気持ちはめちゃくちゃ、めちゃくちゃ判るだけに……。

本作は百点満点ではあるけれど、児童や保護者との軋轢、教師同士、教育委員会との探り合いという、現場での厳しさで正直お腹いっぱいなところがあるので、娘ちゃんとのそれは、少し、少しだけ、ステロタイプに感じてしまったのはもったいなかったような気もする。
ひょっとしたらちょっと彼氏を連れ込んだ?なシーンの、おどおどした男の子とのやり取りとか、思春期親子の微笑ましいシークエンスはとても良かったので、ここは難しいところかなぁ。中山教頭のそもそものモチベーションは、家族にあるのだから余計に、物足りなさを感じてしまって。

クラスのスターである愛里沙、彼女が目の敵にしている健人、この二人がいわばメインキャストであり、彼と彼女に翻弄される第二次、第三次の子たちが、それだけでアイデンティティを失われる危機ぐらいの瀬戸際に立たされる。
それで言えば、ちょっとそこから離れた、母子家庭の中で苦労している礼央奈は、児童たち、そして中山教頭を始めとする教師たちを動かし、成長させる存在だったのだろうと思う。

本当に、目が印象的。黒川先生がひるみがちに言うように、なんだその目は、と。久々に聞いたわ、この台詞。昭和的スパルタドラマで出てくる台詞。でもそんな台詞が出てくるのもうなづける、三白眼気味の、迫力のある下から目線。
判りやすく水商売系の、判りやすくゴミゴミしたアパート暮らしのイカツい母親は、これまた騙されるのだ。こういう母親ね、と。可哀想に、娘ちゃんと。そしてそれは、先述のように、それもまた間違ってはいないのだと思う。クソ母親である一面は確かにあるのだと思う。

椎名先生に心配される礼央奈は、先生の存在に救われているのは確かに確かに、である。でも椎名先生が、そして中山教頭もきっと思っていたように、礼央奈がこの威圧的な母親を嫌っているとか、この母親から切り離した方が礼央奈のためだとかいうのは、そんな単純なことじゃないんだということをしっかり示してくれる。
礼央奈が一時グレちゃって、そこから戻ってきて、でもそれ以前からきっと一貫して母親を思っていたんだろうことを丁寧に描いて、あぁ、単純な観客、ゴメン!そんな簡単なことじゃないよね、自分に置き換えたら判るのに、愚か、自分!!とか思って……。

愛里沙に翻弄されて礼央奈を貶めたことを悔いて訪ねて来る茉莉が吐露する、彼女と愛里沙との苦しすぎる女王と奴隷シークエンスが辛すぎた。
中山教頭がのんびりプランターに水をやっている光景に突然落ちてきたハサミ、愛里沙が慌てて降りてきて、カーテンの糸を切ろうとして、と言い訳した場面で、こりゃぁそうじゃないなとさすがに思ったけれど、このあたりの場面を起点に、どんどん子供たちの、大人たち、先生たちには決して言えない秘密が次々現れてくる。

あれだけ子供たちに慕われていたように見えていた椎名先生も、まったく見えていなかった子供たちの社会、そもそも椎名先生を慕う図式でさえ、すべてとは言わずとも、半分ぐらいは愛里沙の戦略の上だったのだから。
あれだけ客観的にも嫌われ、問題があると思われたスパルタ黒川先生ですら、そうだったのだから。彼が言ってもいない問題発言を、優秀な愛里沙とその手下の茉莉が証言することで、見事彼を追いやってしまっていたことが明かされた時は、本当に驚愕した。

でも……きっと、忘れてしまうのだろう。特に愛里沙は。そして、大人たちも。きっと覚えているのは、健人や茉莉、そしてさらに彼らの手下的立場の悠馬。健人は決して悪気はなかったにしても、大人しい悠馬を、悠馬も守る意図であれ、彼を犯人に仕立て上げてしまった。
悠馬が発達障害だからとかいう保護者の口さがなさまで取り上げてしまって、ここを消化しきれないところは難しいなと思ったけれど……。

あぁ、言い切れないし、もうこうなったら、主演の筈の渋川氏は子供たちにのまれちゃう。校長試験でカンニングしちゃってる場面にはハラハラしたが、試験に落ちたことでホッとしちゃうのはそれはそれでどうなのかな。でもそれできっと良かったのだ。
ワンマンと思われていた女校長は、横領の疑いでいなくなる。でもそれは、マイナースポーツである、母校のウエイトリフティングにたった8万円の寄付を摘発されたんだという。

それを暴いたのが呼び戻された黒川先生。校長となった中山と椎名先生が、校長が母校のウェイトリフティングコーチとなったところを訪ねると、つきものが落ちたようににこやかな彼女は、本当に、別人のよう。
椎名先生に、昔の私にそっくり、だからこそ心配している気持ちを表すシーンは、あぁ、あれだけ対立してたのに。これぞ、新旧の、かちこちの古い体質と新しい正義のそれだと思っていたのに。世代交代は、実はこんな形でなされているとは。

ラスト、試験には落ちたけれど、校長の欠員が出た形で、うっかり校長になった中山が、でも前途多難よ。
登校して来る子供たちは、死ねとか逝けとか唱えながらという不穏さ。頼りにしている手帳をなくして不安げに朝礼に立つ中山新校長、カットアウトしてのその先は、一体どうなるのか。

いやぁ……子供も大人も、誰もがこれとジャッジできない、正義とも悪とも判断させない、それが人間、大人も子供も、というのが、凄かった。
勧善懲悪はウソだと思いながらも、どこかでそれを、その気持ちよさを望んでいたけれど、やっぱりそんな訳ないんだよなぁ。だって自分自身を顧みなさいよ、ということなんだもの。あぁ、見ごたえマックス。凄かった。★★★★★


夏の砂の上
2025年 102分 日本 カラー
監督:玉田真也 脚本:玉田真也
撮影:月永雄太 音楽:原摩利彦
出演:オダギリジョー 石あかり 松たか子 森山直太朗 高橋文哉 篠原ゆき子 満島ひかり 斉藤陽一郎 浅井浩介 花瀬琴音 光石研

2025/7/8/火 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
ここまでがっつり地方言葉の映画を観るのは久しぶりのような気がする。長崎弁。舞台は現代だけど、どこか……少し前の、昭和、とまでは言わないまでも、そんな錯誤感を感じるのは、彼らの言葉の端々に、今ならば差別的と感じられるようなあれこれがあるからかもしれない。どうせ男(女)が出来たんだろう、やっぱり血筋は争えないな、とか……。
嫌悪、というよりは、本当に懐かしい感じがしてしまった。思わず、あれ、これって現代のお話、なんだよね?スマホ持ってるし、レジはバーコード後のセルフ決済だし、だなんて……。

しかも、今はすっかり見なくなった、小さな出窓におばちゃんが座っている(声だけで見えないけど)タバコ屋があったりして、オダギリジョー氏演じる治は坂の途中にあるこのタバコ屋で、何度となくタバコを買う。
でも、そのタバコをふかしている時は、まさにふかしているという感じ……全然美味しそうじゃない。持て余した時間を少しでも紛らわそうとしているように見える。

坂、そうだ、長崎はまさに坂の町。遠くに海が見えて、巨大な重機が見えて、治が勤めていた造船所はつぶれてしまったという、それはあの中にあるのだろうか。
真夏、セミがひっきりなしに鳴いている、影も出来ないほどの真夏は、画面からそのじりじりとした暑さが伝わってくる。でも今はセミさえ鳴かないほどの酷暑に見舞われている現代だから、なんだか久しぶりにセミの声を聞いたような気がしてしまう。そんなところにも、不思議な懐かしさを感じる。

そもそもが、この長崎の街のたたずまいが圧倒的に、懐かしいのだ。ごちゃごちゃとひしめく家々が坂にしがみつくように建ち並んでいて、なのに誰も出てこない、誰も住んでいないかのような静けさ。
治にとっての家族か元職場の同僚かその係累しか登場してこない、家々がひしめくのに、この圧倒的な孤独がそうやってあぶりだされてくる。

冒頭こそは、雨が降りしきっていた。長崎の平和の像に土砂降りが降り注いでいた。それは、治の幼い息子が命を落としたあの時の時間を示していたのだろうか。
ピーカンとなって、別居中の嫁、恵子(松たか子)が訪ねてきて、息子の位牌を持っていこうとしている。軽い口争い。そこへ、治の妹、阿佐子(満島ひかり)が高校生の娘、優子(石あかり)を連れてやってくる。
エアコンが壊れているこの家は、昔懐かし扇風機でしのいでいて、汗でべたつくのをバタバタと忙しくあおいで、それも含めてみんながせわしなくなっている感じも、なんだかやけに懐かしいのだ。

阿佐子のキャラこそ、なんか久しぶりにこういう感じ見たなぁと思って……。女手一つで娘を育てている、という言葉のイメージから遠い、ザ・おミズ、男が持ちかけるウマい話(客観的に見ればいかにも薄っぺらい話)にほいほい乗ってしまう。
そしてそのたび、自分は悪くない、その男たちや他人のせいだとあっさり切り替えてしまう、ある意味強いともいえる女性。昭和ドラマでこういう女性、よく見かけたなぁと思ったりする。今でもいるのかもしれないけれど……。

そして、そのウマい話が整うまで、娘の優子を預かってほしいというんである。治は待てよ待てよと言いながら、全然このじゃじゃ馬妹を説得できる筈もない。
位牌をとりに来ただけの恵子は、とりあえず優子を空き部屋に案内してあげながらも、でも私は帰るから、と去ってしまう。かくして叔父と姪の奇妙な同居生活がスタートする。水道が止まってしまうぐらい、カラッカラの真夏の長崎の街で。

石あかり氏演じる優子は、妙に眉が薄いメイクと、無気力なキャラクターで、……これはちょっと言いづらいんだけれど、白痴的というか、それこそ昭和的、男につけ入れられそうな隙があるように見える。
実際、スーパーのバイトの先輩、立山(高橋文哉)の誘いに不愛想ながら、まぁ断る理由もないか、みたいな雰囲気でなんとなく付き合い、結構アッサリ一線を越えたであろう示唆もあったりする。

優子はなかなか判りづらいというか……結局彼女は、どう考えていたんだろう。優子のキャラクターは、いつでも第三者からこういう子だろう、と推定されているようなそれに見えるような気がする。奔放な子、傷ついている子、可哀想な子……でも実際は、どうだったのか。
叔父の治と姪の優子の物語、という一面は確かにあるけれども、でもこの二人ががっつり、その心の内を見せ合うことはないし、治の嫁の恵子、妹の阿佐子、恵子の恋人の陣野、かつての同僚の持田などなど、身内、係累から派生していく関係性が、この作品の魅力だとも思うから。

治がこんなに生きる気力を亡くしてしまったのは、幼い息子を亡くしてからなのか、勤務先が潰れてしまったからなのか。同時期だったのか、ずれていたのか、嫁の恵子が治のかつての同僚、陣野と恋人同士になったのはいつの頃からなのか。
そりゃ客観的に見ても、いわばすべてを周囲のせいにして生きる気力を失っているダンナの元になんていたくはないわさ。その情けない有様を、いわば部外者によってあらわにし、観客に提示する役目を負うのが治の妹とその娘であるんだけれど、治にとってまずこの妹は、先述のように世間知らずで身勝手。つまり自分より下に見ている。

でも、観客からしたら、そしてこの時同席していた恵子から見たって、騙されやすくたって、世間の荒波に立ち向かって、図太くその都度立ち上がっているこの妹の方が、嫁や同僚たちから心配というより呆れがちにされて、見放されている治より、数倍、百倍、素晴らしいんである。

でも確かに、その子供という存在は、未成年であればなおさら、親という、大人という自分勝手さに翻弄される。かといって治や恵子が、優子のそんな立場を慮る余裕がある訳もなく、優子は訳も分からぬまま、じりじりと暑い長崎の夏を、1人きり取り残された叔父と過ごすことになる。
こんなイイ男の叔父と、コケティッシュな姪の二人暮らしだなんて、ついついいけない妄想をしてしまうが、そんなことはなーんにも起こらない。つまんない。

てゆーか、先述のように、彼ら二人の関係性は一つのそれでしかなく、夫婦、かつての同僚、その奥さん、といった、小さなコミュニティの広がりを見せ、いかにも面倒見がよさそうな感じで登場した、そして治もいかにも頼りにしている感じだったかつての上司、持田(光石研)が、何故なのか、理由は明かされないけれど、突然死んでしまって、その葬儀、という展開になるんである。

理由は明かされない、のだから、自殺とかそういうことじゃなく、本当に、突然死的なことなのだろうなぁ。こういうことって、ある。突然、えっ、なんで?っていうことが。大人となればなるほど、ある。年若い時には、それこそ、この作品中の優子のような子たちには思い描けないような、そういうことが。

優子は、一応はバイト先の仲間たちと飲み会に行ったり、それなりに溶け込もうとはしているものの、そもそもその欲望がないんだろうから、上手いこといかない。治が後にアドバイスするように、一緒にいたくない人たちと無理に一緒にいることはない、というのはまさしく、大人になれば判る処世術だけれど、お酒を飲むこともできない未成年の優子にとって、そしてどうやら今まで、母親によってあれこれ連れまわされていたらしいことを考えると、相当、難しかったんだろうなぁ、と思って……。

クライマックス、これまでカラッカラの日照りだったのが突然土砂降りの雨が降り、優子ははしゃいであれこれなべかまを持ち出して水をためる。まるで踊りながら。雨水を飲んで美味しいとはしゃいで。
このあたりは、もともとは戯曲、舞台であったことをほうふつとさせる感じがする。つまり、こんなことやらんだろ、と思っちゃうんである(爆)。ただ……先述したように、どこか優子に、白痴的なキャラ付けをしているように感じたのが気になっていたので、この無邪気な感じが(それは時折、他者に対する攻撃的なそれに変わるのだけれど)、それを裏付けるようにも思ったんだよね。

ちょっとね……未成年女子、大人男子にとって自分を見返す材料となる処女的乙女な存在、というのは、もう古今東西、マストキャラとしてあるからさ。フェミニズム野郎としては、そこんところはめっちゃアンテナ張っちゃう訳。
オミズで身勝手なシングルマザーを持つ一人娘、というキャラ設定は、危険危険。こんな風に、孤独に酔ってるオジさまの癒しに使われちゃうわけさぁ。

正直、なぜ優子が治に同情的な感情を寄せたのか、同性としてよく判らないのだ。ないないない、この年の女の子が、イケオジとはいえ、おじさまに寄り添うだなんて。
治が関わるコミュニティ、特に男性側の言動が、私が10代の頃にイラッとしていた感じなんだよなぁ、とずっと感じ続けていた。原作となった戯曲がそれほど古いものではないと思うし、これはもう拭い去れない、日本の男性視線モノなんだろうか、それとも、九州という土地柄がそれを強く感じさせるのだろうか??

全編がっつり長崎の言葉と、じりじり日照りの真夏。治が歩く坂道や路地に、やたら猫が行きかう。ラストには、恵子と離婚し、彼女は陣野と共にこの地を離れる。
陣野の嫁に治がめっちゃ詰められる場面もキツかったが、あれは、何かワイドショー的で、同性としてはみっともないからヤメてくれよ、というのが正直なところだった。

こういう場面は、それこそ昭和のドラマではよく見ていた。本作に良くも悪くも昭和の匂いを感じるのは、ここでもそうで、女性が、やっかいなものとして定義される前提である社会に、私は生きてきて、本当にそれに、イカってきたから。
本作はその点において微妙なんだよなぁ。絶妙に、そうじゃない、配慮してますよ、という雰囲気は感じるけれど、でも違う!男が勝手にひよってるだけでしょ!とも思うからさ……あぁ、男女の思惑の差は、埋まらない!!★★☆☆☆


ナマズのいた夏
2024年 88分 日本 カラー
監督:中川究矢 脚本:平谷悦郎 中川究矢
撮影:金碩柱 音楽:吉村和晃
出演:中山雄斗 架乃ゆら 松山歩夢 渡辺紘文 河屋秀俊 グエン・ティ・ザン グエン・ティ・バオ 山岡竜弘 川瀬陽太 西尾信也 古林南 岡村洋一 林田麻里 高崎二郎 清なおみ まなこ 平岡明純 大瀬勇希 細谷隆広 柴田愛之助

2025/2/20/木 劇場(新宿K's cinema)
タイトルのナマズはアメリカナマズ、外来種としての様々なメタファーを背負わされる存在。ナマズだけではなく主人公が飼っているピラニアとか、そこここに物言わぬ彼らの動きを印象的にインサートしてくる。
外来種、というのは、主人公の達生がこれまでの苦しい人生のあれこれ……学生時代のいじめ、ピラミッド構造の社会をそこに照射させる意味合いもあり、なかなかに深い。

この町には“中途半端に大きな”川がゆうゆうと横たわっていて、そこで釣り糸を垂れるのが達生の、先が見えない彼のヒマつぶしの時間。いや、ヒマつぶしだったのか、後にも先にも行けなくて、どうしようもなくて、そこでただ釣り糸を垂れるばかりしかなかったのか。

とはいえこれは、群像劇でもある。まず最初に登場するのは主人公の彼ではない。この田舎町、お仕事に向かうデリヘル嬢の結衣である。地元のおじさまを上手におしゃぶりする彼女は、そのととのったおっぱいといい、もう見たとたんにプロのセクシー女優さんと判っちゃう。
いや、いいんだけど(爆)。結構こういうのって、キャラの見え方に影響すると思うから少し気になったけど、それは私がフェミニズム野郎すぎるのが良くないのかもしれない……。

結衣は登場シーンでデリヘルドライバーから、この土地の都市伝説を聞かされている。この大きな川には殺された男の子が投げ込まれていて、その死肉を食べている大きなナマズがいるのだとか。
後に彼女と合流する達生や彼の友人の哲也は都市伝説だと笑い飛ばすけれど、……いや、笑い飛ばしてはいなかったか。達生は東京に出ていたのに結局はここに戻ってきてしまう、何もない、何にもないこの地元で、その都市伝説が産まれたいわれを、誰よりも身に染みて感じているのだから。

いじめられっ子だった自分の身代わりに、ターゲットをすげ替えられて、自殺してしまった友達。しかもその死はなかったことにされてしまう。いじめっ子は代議士の息子だったから。
そして、達生の父親はしがない工場の経営者で、この地元のしがらみから抜け出せなくて、教師もまたそうで、達生の訴えは握りつぶされた。少なくとも彼はそう思っている。だから父親を疎んじ、会話さえしようとしない。

この作品の大きな特徴は、達生が父親をこんな風に一面的に見ているように、あらゆる人間関係、人間同士に、そうした単純な価値観の植え付けがあって、でもそれはそうじゃないんだと、その人それぞれに事情があって、それぞれに苦しんでいるんだということが立体的に示される。
今の時代はみんなが正義を振りかざして、自分の見えてる正義以外許せなくて、実はそうじゃなかったと示されたら、さっと姿を消してしまう。言葉だけで人の気持ちを殺し、姿を見せない卑怯な時代。

でもそれが、こうした時間が止まったような地方都市では、小さな頃から顔見知りで、抜け出せなくて、憎しみだけが増長してしまう。その、それぞれの事情を察知することも出来ずに。
達生はたまりかねて東京に進学したけれど、卒業後のことも見えずに地元に戻ってきた。ここには苦しい思い出しかないのに。

その達生と無邪気にたわむれ、無邪気に真なる正義を教えてくれるのが、地元の友人、哲也である。彼は本当に愛しい存在。いい意味で、単純。人それぞれに事情がある、ということは、達生なら判っていた筈で、でも自分自身の子供っぽい苛立ちでそれを封じ込めてた。
なのに哲也はそのことに接すると、まるで、世界にはそんなことがあるんだとばかりのピュアな反応をし、愛すべき反抗心で、凝り固まった大人たちに立ち向かっていく。

このひとときの夏を計画したのは哲也で、憧れの年上の女性にアプローチしたのが空振り、結果達生と、達生のかつてのバイト仲間の結衣との三人で、旅行に行く計画さえも頓挫し、達生の父親が経営する工場の寮になっているアパートの空き室に寝泊まりして、釣りをし、ナマズを喰らうんである。

本作の、もう一つの大きなテーマは、外国人技能実習生なんである。めちゃくちゃ痛ましいニュースが聞こえてきていたから、そしてこのテーマが織り込まれる映画作品には初めて遭遇したから、ドキドキした。
一見、夫婦かしらと思えた男女の実習生は、そうではない、んだよね?女性の方は母国に子供を残しているという。そして、友人の子供だという幼い男の子を仕事の合間に面倒を見ている。

いつもはメガネをかけている彼女が、オフの日にはかけずに現れて、全然雰囲気が違ったから、違う人なのかと思って、しばらく混乱してしまった。職場では、そして信頼できる人以外の場では、大きなメガネをかけて表情を隠して、感情も隠して、自分をガードしていたのかもしれない。
男性の方は、改めてお顔をじっくり見てみると、とても幼く見えた。細くて、風に吹かれたら倒れそうなのは、体格だけじゃなくて、職場のパワハラに疲弊した果てであったと思われた。

正直このパワハラの図式はめちゃくちゃ判りやすくて、達生の父親である社長は実習生を受け入れるためのあっせん料も払っていて、工場自体がキュウキュウであることから、いわばこのパワハラを見てみぬふりをし、残業代も払わずにいる。
達生はそんな父親を、子供の頃から拒否反応を示していながらも何も言えず、そこに事情を目の当たりにした哲也が憤って、いわば関係ない立場なのに斬り込んでいくのがスカッとするし、こんな存在がいてほしいとも思う。

でも……結局はね、先述したように、人にはいろいろな事情があって、という立体的構造が徐々に示されてきて、パワハラをしていた現場責任者には、彼がひとりで面倒を見ている老いた母親がいて、達生の父親である社長はなんとか資金をやりくりして残業代もいずれ払おうと奔走して、てなことが示唆される。
これはね……判るんだけれど、多面的、立体的ということを盾にして、今苦しんでいる人たちを置き去りにしているような気もしてしまう。言い訳のように聞こえてしまう。

優しく辛抱強い実習生たちは、最後の最後、工場を畳むことになって、他に働き先も出来て、謝罪してきたパワハラ責任者と和解はするけれど、それこそ自殺したシゲルのような道を選んでしまっていたら、取り返しがつかないのだ。そんな事情など斟酌される筈がないのだ。
正直、こうした言い訳めいて見える事情を示されると、だったらあのいじめっ子や、その親御さんや、彼らに怖気づいて事実をもみ消した人たちにも、それなりの事情があったからねと言われかねないと恐ろしくなってしまう。

ところで、デリヘル嬢の結衣である。彼女は母親が亡くなった後、居心地の悪い親戚のところに”捨てられて”、まぁつまり父親を恨んでいる。興信所に頼んで父親の居所が判ったのだけれど、訪ねることを躊躇している。
そんなひとときの間に、まさにひと夏の青春で、達生、哲也、ベトナム人実習生の二人、男の子と楽しいひとときを過ごすんである。

アルコール度数の弱い、甘い缶飲料で酔っぱらっちゃって、結衣は、まぁあれは明らかに誘った形で、もう少し飲む?なんて言って達生の部屋に転がり込み、ヤッちゃう訳である。
いいさ、全然いいさ。こうやって恋が始まることもあるし、酒の力を借りて突破しちゃったってことは、双方にそれなりの気持ちがあったってことさ。

なのに、達生が、まぁ言い方がいけなかったのかなぁ。先にこんな風になっちゃったけど、結衣のことが好きだったんだとつぶやくと、なんかもういきなり、はぁ??みたいに結衣は怒っちゃう。一回ヤッただけで彼氏気取りかよぐらいな勢いである。
いやいやいや。あんたが誘ってこうなったのに、これぞ典型的な逆ギレやろ。確かに単純にのぼせ上った物言いの達生は幼いなぁとは思うけれど、決して彼の気持ちはウソではなかったと思うし、結衣の術中にはまってセックスして爆上がりして、なのに斬って捨てられるだなんて、そりゃないんじゃないの……。
一体結衣はどうしてほしかったの。ただ単にセックスしたかっただけ?そうかもしれないけれど、だとしたら、百戦錬磨の筈のあなたがとる態度じゃないよなぁ。

……すみません。フェミニズム野郎なもんで、女の子には常にプライドを持ってカッコよくいてほしいのさ。
でね、結衣は、あれこれ悩んだんだけれど、結局父親に会いに行く。再婚した女性と子供たちと幸せに暮らしていると思っていた、だから、憎んでいたし、躊躇していた、なのに、訪ねた父親は若年性アルツハイマーでもう恍惚状態で、しかもそれは、結衣が捨てられたと思った直後からのことだというんである。

父親は結衣を引き取りたいと言っていた、だけど再婚相手の女性が、彼の発症もあってそれを拒否した。そして長い時間が経って、結衣はこんな思いがけない状態に直面し、物語の最後には父親の葬儀の後、喪服姿であの大きな川べりを歩き、ベトナムのあの可愛い男の子が駆け寄り、手をつなぎ、歩いてゆく。

自分の定規ではかり、憎み、恨んだ人たちにも、それぞれの人生がある。頭では判っていても、実際にこうして直面することはほとんどない。だから、だから……先述したように、言い訳に聞こえちゃう、感じちゃうんだと思う。
だって、誰だって、言い訳したいもの。失敗しちゃって、誰かに迷惑かけて、辛い思いをさせて、でも大抵は言い訳することなんて許されないのだから。本作は、言い訳許されまくりで、優しいとは思うけど、それが出来ないから人生は辛く苦しいんじゃないの??

哲也がそれを優しく緩和してくれていたけれど、彼はそれこそ、自分でも自覚していたように、無自覚に無責任に(というのは、達也に接して彼自身が自戒したに過ぎないのだが)、死んでしまった友人、シゲルのことを忘れていて、忘れていたことを後悔したことさえ偽善かもと思っていただろうことは、達生には通じていなかった訳でさ。
だから、人間はみんな自分勝手なのさ。それをね、否定的じゃなくって、前提として、ありきとして、いなければ、人間関係なんて、崩壊してしまう。

結衣の父親にしても、達生の父親にしても、死なせなくても良かったんじゃないかと思うのは、死なせちゃったら、そうした懐疑、モヤモヤを、なんかハートフルストーリーの中に閉じ込めてしまって、親世代と子供世代でその想いをぶつけ合えないままふんわり終わらせてしまったんじゃないの、という気持ちが起こってしまうから。
判らない。どうなんだろう。私は、親きょうだいに恵まれていたから、こんなぬるいことを言っているのかもしれないけれど。★★☆☆☆


トップに戻る