home! |
誰よりもつよく抱きしめて
2025年 124分 日本 カラー
監督:内田英治 脚本:イ・ナウォン
撮影:山田弘樹 音楽:小林洋平
出演:三山凌輝 久保史緒里 ファン・チャンソン 穂志もえか 永田凜 北村有起哉 北島岬 竹下優名 酒向芳
まず、映画作品としては、20代半ばと思しき同棲中のカップル。良城は強迫性障害による潔癖症に苦しめられている。月菜は書店員をしながらそんな彼を見守っている。良城は絵本作家としてデビューしたものの、新作も描けていなくて、就職した先でも上手くいかず、今はリモートで画力を生かした仕事をしている。
月菜は良城に治療をしてほしくて病院を紹介するが、「俺は頭がおかしくなんかない!」と取り乱されちゃう。一方で月菜は書店に客として訪れたイケメンシェフ、ジェホンと、彼が携帯を忘れていったことがきっかけで、なんとなく近づきになる。良城は月菜の勧めた病院にかかり、そこで出会った同じ障害を持つ女性、千春と親しくなり、それを目撃した月菜との仲がぎくしゃくしてしまう……。
まずね、ジェホンさんが気になってしまったのよ。彼が忘れて行った携帯に恋人から電話がかかってきて、別れの言葉を告げる。それを月菜が聞いてしまう。ジェホンさんは後に、この恋人のことを愛してはいなかったと、そもそも本当に愛し合っているカップルなんてこの世にほとんどいないのだと、愛していなくても付き合うことは出来ると言った後に、僕と試してみませんかだなどというんだから、そりゃ月菜が怒るのも当然である。
いや、でも月菜もいろいろ引っかかるところはあるのだが、それはまたおいとくとして、この流れでこんなこと言ったら、そりゃセフレになりませんかと言ってるのと一緒じゃん。それを聞いた友人が指摘したようにさ。
でも実はジェホンさんは真実月菜を愛していて、そのからくりが過去へと遡って描かれるのだけれど、それを切り札のように掲げられていてもハテナマークが浮かんじゃう。だったらあんなうがった説を掲げなくてもいいじゃんと思っちゃう。
そしたら原作では彼のキャラクターは同性愛者で、自分を偽って恋人と付き合っていたんだからその葛藤は当然であり、なぜこれを異性愛者に変換してしまったんだろうと思う。韓国人にする必要もよく判らないし、これはスターをキャスティング出来たからということなんじゃないかと勘繰られても仕方ないじゃない?
原作のカップルが結婚して結構経っていて、30代だということを知ると、本作のカップルの若さが、キャスティングありきだったんじゃないかとどうしても思えてしまう。
良城がカウンセリングで出会った同じ障害を持つ千春との仲に月菜が嫉妬してケンアクになっちゃう、というのは、若いカップル間におけるありがちなケンカ要因、つまりヤボにしか思えないから、だって良城はここに病気を治すために来て、それをあんたが後押しした筈なのにさぁ、と思ってしまう。
判る、判るよ。良城はぼんくらっつーか、恋人を持っている男子として失格っつーか、恋人の前で他の女性と親しげにしたり、こともあろうにその女性を、恋人と同棲している部屋に招いて二人っきりになっていたりするだなんて、あり得ないもの。
これが原作小説でどう描かれていたかは判らないんだけれど……若いカップルに設定してしまったことで、これまで二人で良城の苦しみに向き合ってきた筈なのに、若さが勝っちゃって、あり得ない男の行動にキレちゃう女、ありがち若いカップルの痴話げんかを見せられているように感じてしまって。
良城が月菜から病院を勧められた時、俺は頭がおかしくなんかない!と絶叫したのが、本人はそういう風に言われているように思ったんだろうし、それは哀しいことだけれど、これを、そういうことじゃないんだという示唆を誰も何もしないまま、何をキッカケか判らないまま良城が病院にかかることを決心した、というなんとなくの流れになってしまったのがひっかかるんだよね。
この台詞、当事者の苦しんで出た台詞だとは判るけど、でもそれを否定しなきゃいけない。頭がおかしいんじゃないと、否定しなきゃいけない。そういう偏見に怯えていることこそが、治療を遅らせ、哀しい結果になっていくのだから、ここは、どういう形にでも、否定しなきゃいけない。
もちろん診断が下されるんだから否定されているとは言えるけれど、彼自身がこれは病気なんだときちんと納得している描写もないし、月菜も、そして主治医も、病院にかかって薬を飲んでカウンセリングして頑張りましょう、みたいな、さらりとした感じで、良城がここで救われたとしたら、それはカウンセリングで出会った千春の存在としか見えないんだよね。
つまり、観客にとっては良城がここで運命の相手の千春に出会ったとしか映らない。だって月菜は良城の苦しみを本当の意味では感じられないし、だからこそ千春に嫉妬して、良城の無自覚な行為に怒った、それがめちゃくちゃ理解できちゃうから、もうダメじゃん。
月菜は良城のことを真に理解出来ない、寄り添えないし、良城も月菜のそんな心持を判らずに無邪気に千春と仲良くしちゃうんだから、もうダメって思っちゃう。
ちょっとね、私は無知で不勉強だから、この障害の詳しいことが判らないし、個人差もあるんだろうからとも思ったんだけれど、その描写の雑さも感じてしまったんだよね。
良城はリモートワークで家にいるから、料理当番として月菜を迎える。これがまた、月菜を早く帰らなきゃ、外で食事なんかできない、という束縛につながってもいるんだけれど。
良城はその潔癖ゆえ、執拗に手を洗う。何度も洗う。だからめっちゃあかぎれである。当然ビニール手袋は必須である。そして、料理する野菜も洗う。めっちゃ洗う。洗剤も使って何度も洗う。食器用洗剤は基本、野菜も洗ってOKなのは知ってはいるけれど、野菜を洗剤使って洗うことを私はしていないし、それを何度もやるし、切ってちょっと時間が経った野菜を捨ててしまう描写もあるから、月菜同様、観客のこっちも辛くなる、見ていられなくなる。
でも一方で、外で食事をするときに、ビニール手袋をしてカトラリーは念入りにウェットティッシュで拭くけれど、他人が作った料理は平気なのが不思議で……だって、自分が料理する時は野菜をあんなに洗剤でごしごし洗っていたのにとか、調理器具をラップでガードしまくっていたのにとか。
もちろん、その矛盾も含めてのこの病気の難しさなんだろうけれど、その難しさを観客側が優しくくみ取らなければいけないのは、違うと思うんだよなぁ。月菜が、自分はガマンしてきたのに、と良城に爆発した時に、これこそが原因だろうと思うもの。
自分がガマンしてきた、これは絶対に言っちゃいけない言葉だし、正直それ一発で、この二人は壊れてしまうと思った。その後、月菜を抱き締めているジェホンさんを目撃して、良城は色々考えた末、自分から別れを切り出した。
正直、お前が別れようとか言うなよ、と思った。月菜がいない時に二人が同棲している部屋に千春を招き入れ、それを月菜が目撃して拒否反応を示した時、月菜の態度を糾弾したあの場面で、あーダメだこの男、と思った。
同じ障害を持つ者同士の救いやつながりというのは勿論判るけれど、超えてはいけない一線はある。カップルが暮らしている部屋に、たとえなんの下心がなくったって、異性を招き入れちゃいかんのだ。
今は性嗜好の多様性の理解も広がっているから一概には言えないけれど、異性愛同士のカップルで同棲してる前提ならば、これは絶対にやっちゃいけないルール違反。これを、障害を抱えて苦しんでいる物語の中に、まるで違う、安っぽい恋愛モノみたいに放り込んでくるのが、なんかちょっと、許せなくて。
これが、原作の設定のように、夫婦だったら、どう感じたんだろうか??一緒に暮らしているという意味が、恋人同士としての同棲と、夫婦としての生活とはやっぱり全然違うと思うし……。
月菜が勤めている絵本専門店のオーナーで、良城の祖父が、良城がお勤めしていると思っていた職場を辞めて、リモートで、いわば祖父にとっては引きこもって生活していることを知って、怒髪天の勢いで乗り込んでくる。苦しんでいる良城を引きはがすように連れて行こうとする祖父を、月菜は毅然として止める。
でも、この時月菜は、前述のように単なる恋人同士の痴話げんか状態にあるし、なんていうか……説得力がないんだよな。これが、原作のように、30代で、10年近く一緒に住んでて、そのほとんどの時間を苦しみぬいてきたというからこそ、なんだと思う。この設定の弱さが、二人が単なる若いカップルの痴話げんかに見せちゃうし、障害に対する苦しみが、ラブストーリーの単なる味付けに感じちゃう。それは、ライバルをイケメン韓国人シェフというキャラ設定にしてしまったのもそうで。
月菜はそもそも、海外に出てバリバリ仕事がしたかったのだという。時折書店の仕事を手伝ってくれる大学時代の友人から、そうしたバリバリ同級生の話を聞き、卒業以来一度も会おうとしないよね、と図星を刺される。だったらそれをしんねりと進言するこの友人はどうなんだと言いたくなるし、ラストシークエンス、この友人が昭和的幸せな子持ち結婚生活に収まっているのを単純に示されるもんだから、イーッ!!と言いたくなっちゃう。
だってこの友人、早智子は、その時点でも、現在の時間軸でも、何の仕事をしているのか、書店を手伝える状況はどういうことなのか、結局男を捕まえて主婦に収まるのが目的だったのかと思えるような描き方で、フェミニズム野郎はイーッ!!となっちゃう。
自分だけが傷ついたような感じで月菜に別れを切り出した良城、という図式にありえん、と思いつつ、飛び出した月菜がジェホンさんの豪華マンションに囲われて、一緒にマルセイユに行かないかとかいう展開に、いつの少女漫画だよ!と?然とする。
良城がどう考えを改めて月菜のいるジェホンさんのマンションを訪れたのか、正直このシーンでは、ジェホンさんがたしなめるように、良城が勝手でワガママとしか思えなかったのだけれど、あーもー、月菜は思い悩んじゃう。
正直これ以降の、やたら土砂降りのなかでのエモーショナルを演出したりとか、そもそものきっかけであった携帯を渡してこれを返すか、一緒にマルセイユに行くか、という駆け引きをしたりとか、あー、もう特上カルビはいらんいらん、胸やけがキツい!と思っちゃう。
でも何より、はぁ??と思ったのはラストというか、決着で。結局月菜はジェホンさんの誘いを断った。この時に、実はジェホンさんがずっとずっと昔、月菜がまだ高校生でバイトで入っていた時に、日本語がおぼつかず、それ以外にもいろいろ思い悩んでいた時ふらりと入ったこの書店で出会っていたことが描かれるんだけど、でもそれでもはぁ??だよね。
だったら最初からそのことは言うべき。マルセイユに連れて行きたいんだったら、その時からの思いを伝えなければ勝負にならないじゃん。これはさぁ……単なる作劇上のドラマチックのために寝かせといたとしか思えず、この切り札をここまで温め続けていたことに不自然さしか感じない。原作が同性愛者ならば、このくだりはなかった筈だから余計に。
でもいっちばん、不自然を感じたのはラスト。これを、感動のラストとし受け止められなかったら、もう終わりだと思う。もちろん、そう受け止められたらとてもハッピーな映画体験であり、この作品はその観客にとって忘れがたいものとなるだろうし、そういう評価は沢山あるだろうと思う。
でも、私、気持ち悪いと思っちゃったのだ。別れた恋人を、その間何の連絡も取っていなかったのに、何の約束もしていなかったのに、そして、軋轢が生じた時の、話し合いもなく、納得しあったってこともなかったのに、待ち続けていて、再会したら、上手く行くって思っていた良城のことを、気持ち悪いと、思っちゃったのだ。
でも、実際,何年も経って再会した月菜は、それを嬉しく思って、待っててくれたの?とか言い、ハッピーエンドになっちゃう。いやこれ……ありえないと思うのは、おかしいの??
だって、月菜が良城からくらったのは、特に20代だった彼女にとってはあまりにも屈辱な体験だったし、しかも、月菜が見ていないところで良城は、千春とその苦しさを共有もしている。正直許せないと思う。まぁ月菜の方もイケメンに揺らいだからイーブンだけれど、だったら余計に、もうこの二人はないでしょ、と思っちゃう。
原作の設定のようにそもそも夫婦だったら待ってたよ、というのはありかもしれんけど(離婚してなければね)、恋人同士の状態でお別れし、何の連絡も取らないままであり、月菜は学生時代からの夢だった海外での、途上国の子供たちを支援する仕事に奔走する。つまりはさ、自分の夢を叶えられなかった恋人との時間から飛び出して、人生を生きている、それでいいじゃん。
なのに、友人から良城の現状を聞き、あの書店に向かう。したらさ、良城が店長として勤めている訳よ。なんじゃそりゃだよ。良城の深刻な障害がどうやって克服されたのか、それこそが二人を隔て、二人が苦しんできたのに、数年後となったらあっさり解消され、その経過がなんも示されない。
月菜は待っていてくれたのと涙ぐみながら言うけれど、いやいやいや、ないわ。何度も言うけど、夫婦の設定なら判るよ。その関係性を解消しないままなら、その台詞が出るのは判るよ。でも、同棲はしていたけれど、何の契約もない恋人同士でお別れし、良城の状況が判ってなかった月菜の様子からすれば、連絡をとっていたとも思えないからさ。
そう考えると……月菜の方に心が残っていなければ、良城は結構怖いストーカーだよね。あるいは、作り手側、もしかしたら原作でもそうなんだとしたら、男性側のちょっとうぬぼれっつーか、現実は女子は覚悟を決めて環境を変えたら、自分を苦しめた元カレによろめいたりしないと思うんだけどなぁ。
あー、イライラした。フェミニズム野郎は純愛にケチつけ気味だね。でも、みんな後悔なく人生を送りたいんだもの。お互い、想いをきちんとぶつけあって、幸せになってほしい。★☆☆☆☆