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「て」


2025年鑑賞作品

Dear Stranger ディア・ストレンジャー
2025年 138分 日本=台湾=アメリカ カラー
監督:真利子哲也 脚本:真利子哲也
撮影:佐々木靖之 音楽:ジム・オルーク
出演:西島秀俊 グイ・ルンメイ


2025/9/21/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
えーっ!ちょっと待って!何そのオチ、というか、ラスト、というか、真実、というか!いつも通り即オチバレでアレだけど、賢治が殺した、ということで正解なの?
でもどうやって、というか、即、ドニーの跡を追えたように見えなかったのに。そして運転しながらつぶやいている台詞は、ドニーの居所が判らない等々と言っていたように聞こえたのだが(日本語のところは字幕にならないから、自信ない)、そうだよねと思っていたのだけれど、あれは自身に言い聞かせている言い訳とか、警察などに聞かれた時に申し開きするための筋書きだったということ?

あぁ、自信ない。だって、絶対に賢治じゃないって、誤って子供が拳銃を発射してしまったと思っていたから、だって実際、その場にいた、ドニーの彼女がそう証言していたしさ。どーゆーことー!?
あの奥に、既にドニーの遺体があったということでしょ?最後の最後に、謎解きをするように、賢治の息子、カイが入ってくる場面、それは既に示されていたのだが、それがもう一度繰り返される時、少しだけ時間が巻き戻って、ドニーが銃弾に倒れる。

でもさ、賢治が撃っている様子は映されないし、もしかして自殺?とも見えたし、でも賢治が自供したのならば、そうなのか。カイが何も言わなかったのは、大好きなパパが人を殺したのを見てしまったからなのか。あぁもう、判んない!!

……すいません、絶対やっちゃいけない最初っからオチバレを、とゆーか、事実関係を正確に理解できているかも判んないから、何とも言い難い。
そして、そんなことはそもそもの問題ではないのかもしれないし。加速度的に崩壊していく先に、その衝撃があったということなのか。もう、動揺しすぎて、どう書いていっていいのか……。

賢治とジェーンはニューヨークで暮らす夫婦。幼い一人息子、カイとの三人暮らし。賢治は大学で建築学、その中でも廃墟の研究で教鞭をとっている。ジェーンは人形劇団のアートディレクターである。
クリエイティブなオシャレ夫婦。お互いの仕事へのリスペクトもあるし、子育てや家事も分担している、理想的夫婦。近くに暮らすジェーンの両親との関係も良好。確かに、ひとつひとつ見てみれば、そうである、というか、そう見える。でもなんだか……。

まず観客の目に判りやすくほころび始めが見えるのは、ジェーンが妙にいら立っていること。両親は子供の面倒を見てくれたりもするのだからありがたいのだけれど、父親は認知症を発症し、母親はその世話にかかりきり。
それもあるのだろう、ジェーンに対して、私は自分のやりたいことなどできなかった、あなたには自己犠牲が足りない、だなどと言うもんだから、この母と娘の関係はかなり悪化している。

こんなこと、言っちゃダメだ。単に時代が違うというんじゃない、それは、長い時間かかってようやく女性たちが勝ち得た、それでもまだまだ足りない正当な権利なのだから。女性の自己犠牲がデフォルトであった時代を美徳にしてはいけない、絶対に。
だからジェーンの苛立ちはとても良く判るので、最初のうちは彼女の方に肩入れする気持ちだった。でも……なんだか段々と、彼女の苛立ちが、それだけではない、というか、そのジェーンを理解し尊重している筈の賢治も、なんだかそれだけじゃない、というか。
この二人の間に積み重なっている不穏さが一体なんなのか、それが薄々判ってくるのだけれど……。

不安を掻き立てることが、次々に起こる。ジェーンが手伝っている両親の経営する小さな雑貨店に、いきなり強盗団が押し入る。とっさに息子のカイをかき抱いてやり過ごしたジェーン。
まぁ当然、そうだとこの時は思ったけれど、その後、スーパーで買い物をしている時、仕事の電話をかけながらもカイを目の端にとらえて、言ってみればちょっと過剰なぐらいに気にしていたのかもしれない。

いや、それは親として当然、そしてニューヨークという場所なのだから更に当然なのかもしれないけれど、その後、カイがさらわれることになるシークエンスでも、こちらでは賢治が、これまた自身の仕事場に連れて行き、関係者と挨拶をしながら、ひっきりなしに息子を視線の先にとらえている。
これは……日本だったらここまで過敏にならない、ニューヨークだからか、いや、やっぱり、カイが二人の子どもではない、賢治の血ではないってことがあったのかと、後から思うと、凄く、感じてしまって。
こんなにも知識レベルの高い夫婦なのに、カイが行方不明になると、てゆーか、その前からだけれど、カイを原因のようにしながら、どんどん不信感をお互い高め合ってしまっているのが、もう見てられなくて。

賢治は廃墟、ジェーンは前衛的な人形劇に没頭している。ジェーンの母親は、娘の仕事を単なる趣味か夢ぐらいに思っている節があって、まぁいかにも、アジア的家父長制度に隷属した女性の哀しさゆえで、この時代と価値観の分断、賢治たち夫婦は、特に賢治は私と同年代あたりなので、とても良く判る、判っちゃう。
理解してもらいたいけど、到底無理だという絶望も感じてしまう。まして、遠い異国で先に苦労したのはこの両親なのだから。認知症の父親がどう思っているのかが判らないのが歯がゆいが、少なくとも母親は、賢治のことはめちゃくちゃ信頼しているらしい。つまり、妻の仕事と言う名のワガママを理解してくれる優しい旦那様だと。

賢治の仕事は確かに順調だし、本を出版するまでに成功もしているんだけれど、息子行方不明事件から明らかになったあれこれが流出してしまうと、廃墟を愛する彼の偏愛が、攻撃的な保守(ヘンな言い方だが、まさにそんな感じ)の聴衆から怒りの鉄槌を喰らうことになる。
賢治の廃墟愛は、そうね、廃墟文化というのは、まさに日本の近年の独特の偏愛文化であり、諸行無常、という価値観は、同じアジア人であるパートナーのジェーンも共有できるものだったのだと思う。
ジェーンが没頭している人形劇も、独特の質素な、どこか怖いような表情の人形たちで、団員たちが操作する様もシンプルで、賢治の愛する廃墟にまさしく通じるものがあると思った。だからこそこの夫婦は理解し合え得る理想の夫婦と思ったのに。

両親の店を手伝っていた時に強盗に襲われ、父親から闇市で手に入れたという拳銃を託されたジェーン。家に置いておきたくないからと、ポンコツ車のトランクに入れておいて、と言った時、賢治はかなり強烈に拒否反応を示した。
それは、そうした防衛文化のない日本人だったからなのか、闇市から手に入れたということだったのか、……結局この拳銃がすべての悲劇を引き起こしたことを考えると、賢治がそれを、ジェーンがすべて計画的にしたことだったと思い込むのも、いやまぁ、ムリがあるにしても、判らなくもない、かもしれない。

ずっとずっと、賢治は恐れていたのか。カイは彼の息子じゃない。ジェーンの元カレ、ドニーとの息子。それを判ってて結婚した。お互い愛し合って、信頼していたならそれで良かった。
なのに……いつから賢治はそうじゃないのかもと思っていたのか。ジェーンがずっとドニーを想っているんじゃないかと、それどころか、会っていたんじゃないかと、思っていたのか。

正直、そのあたりの真実は判然としない。賢治とジェーンは物語の最初から、何もコトが起こっていない時から、かすかにだけど、なんだかぎくしゃくとしていたから。
彼らの関係がガラガラと崩れていく途中のシークエンスで、ジェーンが賢治に、私たち、最後にセックスしたのいつ?と赤裸々に問いかける。答えられない賢治。お互い、表面的には仲のいい夫婦、会話をしているけれど、セックスしてない。

セックスしてるかどうかが関係性を決定する訳じゃない、もちろんそうだけれど、それを突っ込まれて動揺するっていうことは、夫婦の義務として、家事、育児、社会的行動をしていれば事足りると、つまり、愛の義務を怠っていた。
というか、そもそも範疇の外、相手を欲する欲望すらお互いの中から失われていたことを、二人は瞬時に、この時、突きつけられたんじゃないのか。

この書き出しで、私がもう動揺しまくりながら、えーっえーっ!賢治がやっちまったの!?と言いまくったが、やっちまったのは確定と、こうしていろいろ考えあぐねれば、今ならすとんと心に落ちて、そうなると、賢治が、哀しすぎる。
ジェーンの心の中に、元カレのドニーの存在がずっと消しがたく残っていたことを、賢治は知っていたから、ってことだよね?どうしても同性の気持ちで、ジェーンの方に肩入れしてしまうが、いやそれでも、ちょっとジェーン、それはないとも思っちゃうが。

ドニーの子を妊娠して、ドニーと決別して、賢治と一緒になったジェーン。賢治はその時のことを、ジェーンのことが好きだったから、とてらいなく言う。てらいはないけれど、哀しそうに言う。
ジェーンが言うところによると、ドニーはジェーンの妊娠が判ったとたんに逃げ出したんだと。でもドニーの言うところによると、その途端に連絡が取れなくなったんだと。ドニーはカイを自分の息子だからと、誘拐した。誘拐した先でも、優しく遊んだりして、どこか、何か、哀しそうに優しくしていた。

この事件を捜査する、ザ・ベテラン刑事は、最初から賢治がドニーを射殺したと、判っていたらしい。
本作はいわば、どこか哲学的というか、瞑想的というか、賢治が研究する廃墟、ジェーンが主催する人形劇、どちらも神の領域、超越的な世界である。だからこそ二人は共鳴し合っていたと思うのに。賢治の血ではなくても、二人ともカイを愛していたのに、なぜ上手くいかないのか。

自身の罪を自供できないままにさまよう賢治が、ニューヨークの街中で、妻の主催する人形劇の、メインの、非現実的なほどに大きな、人形と出会う。それは彼の幻影なのだけれど、ニューヨークという雑踏のリアリティに出現する非リアリティの化学反応がすさまじくて、クラクラする。
賢治の愛する廃墟、異世界を感じさせる人形劇。めちゃくちゃ通じあえる夫婦なのに、なぜなの。ジェーンが元カレのドニーを、ずっと心の中に住まわせ続けていたことを、賢治がどうしようもなく判っちゃっていたから。それは……確かにしんどい。

お互い母国語じゃなくて、だから、本当の、リアルな心情を判り合えることが出来ていないのかもしれない、と二人とも思っている。
英語が全然出来ない大抵の日本人にとっては、英語を駆使して生活しているだけで神様だし、それぞれ母国語を持つお人とパートナーになるだなんて、神様オブ神様なのだが、それプラス、お互いの国ではない場所で生活しているだなんて、ヘレンケラー以上の三重苦四重苦で、まじありえん、と思っちゃう。

お互いの文化の違いだけで大変なのに、住む場所の文化の理解、あぁあれこれあれこれ、気が狂いそう。
母国語だからこそ繊細なところまで描出できる本音が、異国で通じないのは仕方なしではあるけれど、パートナーにも通じないとは、哀しすぎる。そして、そのパートナーも、同じ苦しさを持っている。

賢治がジェーンと最初に出会った、今は閉館してしまった映画館に忍び込んで拳銃をぶっ放したり、公演前に人形をメンテするといういわば言い訳で、ジェーンが薄暗い稽古場に忍び込んだり、なんかさ、似たもの夫婦だしさ、なのになんで、ハッピーな結末になれないの、と思って……。
なんか、結末の感じでは、賢治が恐れていたように、結局ジェーンは、ずっとドニーを想い続けていたのかという印象がある。もしかしたら自分の息子のカイが誤って殺してしまったのかもということに心を痛めていて、そのことで賢治とケンアクになったりしてしまう。
で、賢治が、ドニーの彼女が運転する車に追突されて、なんかもう、観念しちゃって、自分がやりました、と自供しちゃうでしょ。このあたりのシークエンスで、あれこれ実証されるからそうだとは飲み込めるものの、冒頭でいきなり言っちゃうぐらい動揺してしまって、なんかさ、なんかさ……。あまりにも、可哀想、と思って。

いやその、まさかドニーを賢治がぶっ殺しちゃったとは思っていないままここまで来ちゃったから、なんだか気持ちが整理できないんだけど。なんなの、なにこの幕切れ。あんまりじゃん。ジェーンがカイと共に、ドニーのお墓参りをしてラストだなんて。
ジェーンは結局、彼女のことを愛している賢治を利用して、カイとの家族を形成し、その間ずっとドニーのことを想い続け、その死を悼んだのか、とまで言ってしまうのはあまりにランボーだろうか。
賢治がドニーを殺したことが明るみになったラストでは、カイを連れてドニーの墓参り。つまり、血のつながった家族オンリー。賢治は??なんて残酷なラスト。辛すぎる。

賢治は、カイを息子として、愛しているんだということを必死に示そうとしていた。ジェーンを愛していることの証明としても。それがとても、辛かったなぁ。★★★★☆



2023年 108分 日本 カラー
監督:吉田大八 脚本:吉田大八
撮影:四宮秀俊 音楽:千葉広樹
出演:長塚京三 瀧内公美 河合優実 黒沢あすか 中島歩 カトウシンスケ 畑遊 二瓶鮫一 橋洋 唯野未歩子 戸田昌宏 松永大輔 松尾諭 松尾貴史

2025/2/3/月 劇場(テアトル新宿)
この作品を観て、どう自分の中で決着をつければいいのか自信がなくて、ついついあれこれ探ってしまったのはちょっと後悔している。いつも同じ後悔してるなぁ……。
原作小説のざっくりとした筋は出ていて、あぁ、映画作品はほぼ同様に描いているのだと。そうなると、本当に、これは、観客一人一人にゆだねられちゃう。時に原作はインスパイアという言い訳の元にまるで違う物語に仕立て上げられる場合もあるから、そうなると映画の作り手側の解釈というか答えがあって、それを探し出す旅となる訳だけど、本作は、そうじゃないんだ……。
あぁ、どうしたらいいんだろう。きっと原作小説を読んでも、同じように不安になったんだろうなぁ。

あちこちさまよっていてうっかり、これはボケ老人の視点からの物語だと、明快に斬っているサイトもあって、これこそ、ああ、探らなければ良かったと後悔した。もうそんな解釈を読んでしまったら、そういう風に見ちゃう。でもきっとそうじゃない、少なくとも私はそれに納得していない。でもそれが何なのか……。
確かに老境に入った大学教授、インテリである彼がボケ老人という括りで解釈されるのは、ある種一つの、新鮮なスタンスかもしれない。でも私はそれを、人を単純にカテゴライズする暴力だと思ってしまうのだ。そして少なくとも映画作品となった本作は、そんなスタンスでは描いていない、と思う。でもだったらどういうスタンスなのか、それを必死に私の心の中で探しているのだけれど……。

長塚京三氏が、今は退官したフランス文学の大学教授だという役柄であり、彼の経歴を考えるとこれ以上ないハマリ具合。まるで彼に当て書きをしたような。
渡辺儀助、77歳。端正な風貌。気品のあるたたずまい。妻に先立たれ、古民家で静かな生活を送っている。粛々とした自炊生活。朝はハムエッグ、昼は麺類、夜はささやかな晩酌に、網で魚を焼いたり、肉を串にさして焼き鶏をしてみたり。

彼を気にかけてくれるデザイナーの友人とバーで酒を酌み交わしたり、かつての教え子は家屋の修理を買って出てくれたり。
そしてもう一人の教え子……麗しき女性。ワインを開け、終電ギリギリまで、危うい会話を交わす女性の登場には、確かに、これは違うぞ、なんか違うぞ……という感覚は、あった。でもそれならば、彼女だけが儀助の妄想だったのか、でもそれじゃぁ、妄想だとしても他の人物に対しての差別ではないか。なんか上手く言えないけれど……

これが、儀助と関わるのが、その麗しき教え子だけなら、話は簡単なのだ。それこそボケ老人の一人称小説だと言ってしまってもいいかもしれない。でも、上記のように彼に過去から関わる、彼を尊敬している様々な人たち、そこに若い女性が加わるあたりもまた確かに危ういけれど、ご近所トラブルなんぞもあって、そこからさらに不穏な空気が漂ってくる。
犬の糞をそのままにしたと、散歩させている女性を罵倒するおじいちゃん、可愛らしいワンコを連れているその女性は、私じゃないと激烈に反論、そんなシークエンスにぼんやりと巻き込まれる儀助。そしてここに……敵が。北から攻め入ってくるという敵というものが、彼らの間でまことしやかにささやかれる。

タイトルがまさにそうだし、儀助のパソコンに入ってくる奇妙なメールが、その、なんだか判らない”敵”の存在を、切迫した文章で伝えてきたのだった。儀助は決して、こうしたいわゆる詐欺メールに引っかかるようなことはない。ずっとパソコンを使って仕事をしてきたんだし、怪しげなメールが届いても一瞥してさっとゴミ箱に捨てるスマートさがあった。
でも、北から敵がやってくる、というメールに、最初はスルーしていたけれど、ご近所さんの噂にも持ち上がって、ある日、詳細はこちら、みたいなリンクをクリックしてしまう。
うっそー!それ絶対やっちゃダメなヤツ!!と思ったらまさにそのとおり、パソコンはブラックアウト、後にザザザーッと文字メッセージが高速で流れ出す。読めない外国文字なのか、不明文字の中に、日本語のメッセージは、とにかく北から敵が来る、真っ黒い顔をして突然やってくる、みたいな……。

昨今の、移民問題とか、それに対する排除感情とか、そして某国の無茶な攻撃とか、あらゆることが原作の筒井氏が感じている危機感として描かれているのだろうと思う。
でもそれを、そのまんまじゃなくって、先述したような、言ってしまえばボケ老人の夢の中で描くことが、むしろそのざわざわとした危機感をあぶりだしているように思う。

もしかしたら儀助以外の登場人物は、そろそろ恍惚の領域にじわじわ足を踏み入れている彼だけに見えている、この静かな理想の生活の中のキャストなのかもしれない。
でも、敵が来る、と、いわば外の世界からの客観的視点で教えてくれた、近所の老人や犬を散歩させている女性の存在は、それもまた儀助の妄想の中なのかもしれないけれど、でも彼が家の中で接する、彼のプライドを判ってくれている人たちとは、はっきりと一線を画しているのは確実。

でもその、プライドを判ってくれている人たち、という領域もじわじわ冒されていく。もう大学教授じゃない、それでも講演や連載のオファーはある。儀助は決しておごらず、自分が今後慎ましく生活していくだけのことを計算して、安過ぎずの講演料金を譲らずにいる。
預貯金を計算して、今後何年暮らして行けるのかを判っていれば、メリハリのある生活を送れるんだよと、彼より若い友人のデザイナーに語ったりするんである。

この感覚は、ちょっと判るというか……。儀助はどうやら、子供はいなかったらしい。先立たれた妻を一途に思って生活をしている彼の姿は、女子的にはぐっとくるものはあるし、それでも男性的欲求が抑えられず、かつての教え子に対してよこしまな感情を抱くのだって、当然だと思う。むしろ健全だと思う。
でもそれが、先述したような、いわばボケ老人的な夢と現実が判らなくなった、というだけで断じられるのはあまりにも哀しいと思う。むしろ、亡き愛妻が彼の夢の中に現れ、彼の浮気心を糾弾するだなんて、なんて愛があるんだろうと思う。

でも、難しいな……その事態をいわば複雑化する形で、他人が、そう、夢か妄想か、っていう中に、入り込んでくるんだから。
かつての教え子で、ずっと儀助に雑誌の連載を頼んでいた編集者、でも、夢か妄想かの中で、その時同席していた、いかにもやる気がなさそうな部下の編集者が、ぶしつけに突然儀助宅を訪ねてくる。いいにおいを嗅ぎつけて、鍋をがつがつごちそうになる。
この場には今は亡き妻がかいがいしく給仕をしていて、儀助の教え子、麗しき彼女もいたたまれない感じで同席している。もうさすがにさ、このあたりに来れば、あぁ、もう彼は妄想の中にいるんだと判るし、彼自身も、そのことを判っているんだという切なさを、感じるのだ。決して決してそれは、ボケ老人の自覚を持ったということじゃなくて。

儀助は早くから、遺言書を書き綴っていた。預貯金を生活資金で計算して、きれいに使い切る、つまり自分でゴールを決めていた。デザイナーの友人から、講演料のアドバイスを受けても、せめてものプライドと、生きていくための資金のせめぎ合いを、本当にきちんと計算して語っていた。だからこの場面では、むしろ彼のように計算して納得して生き切れたら理想だと感じていたんだけれど。

いや、理想だと思う、本当に。儀助もそれを、まっとうしたと思う。彼の中に入り込んだあらゆるまぼろし……亡き妻が登場したり、麗しの教え子とあらぬ関係寸前まで至ったり、何より北から”敵”が攻め入ってきて、ご近所さんが銃弾に倒れてしまったりといったような、それは、彼以外の、どんなに親しくしている人たちにさえ、判る訳がない秘密なのだ。
ボケ老人、と断じられたことに、なぜしっくりこない、というか、むしろ憤りさえ感じたのだろうというのは、ボケていようといなかろうと、自分で制御できようとできなかろうと、自分の中にある世界、人間関係、会話、愛、性愛でさえ、その自分だけのもので、他人から侵食されるものではないから。

確かにこの作品、原作小説は、そうした視点の転換の新鮮味があったと思う。ボケ老人、だと言ってしまってもいいのかもしれない。
それを踏まえた上で、どの立場から、どんな世界が見えているのか、それはその人にとっての真実だということを、尊重できる社会になるべき、ということだと、あれこれ逡巡して、私はそう、思った。

今最も旬な河合優実氏が、バーでバイトをしている女子大生を演じている。儀助は彼女がフランス文学に、いい塩梅に傾倒しているのを好ましく思い、どうやら経済的余裕がないらしいことを察知して、まぁいわば、騙されて金をとられちゃう。
彼女が読んでいた本にしおりのように、授業料滞納の通知が挟んであり、儀助はそれを発見してしまって、てことなのだが、もうこう書いてみただけで、いやいやいや、あんなんいくらでも偽造できるし、わざと挟んどったんやろ。
今やフランス文学を語れる学生がいるとは、というかつての老大学教授を喜ばせるぐらいの知識は、今はいくらだってネットで得られちゃう。そして儀助は彼女に数百万の援助をしてしまい、その後行方をくらまされ、そのバーさえも閉店してしまうのだ。

めちゃくちゃ、何度も、こういう図式、映画で見てきた。なぜ老いた男は、若い女の単純なウソに騙されちゃうのか。セックスさえさせてもらってないのに、と言っちゃったらオシマイだが、なんかさ、あの麗しき教え子とは、その立場の違いがハッキリしていて、なんていうのか……若い女子の方が、騙す勢いというか、彼女は結局全く感情がなかったのだろうことが明らかになって、それがすごく切ないんだけれど。
でもだったら、あの麗しき教え子が、儀助にそうした感情があったかどうかは、判らないんだよ。儀助の妄想がどこから発生していたのか、最初からなのかという問題もあって、儀助が夢の中で責められるように、もう最初からセクハラだったのか、そんなこと、思いたくない!勿論セクハラはサイアクだけど、そうじゃないことを、そういうことがあることを、今現在の世間は、全く認めてくれないから。

あぁ、結局、全然本作のそもそもの魅力というか、本質から外れたことばかり言ってしまった気がする!!だからフェミニズム野郎はダメなんだ……ごめんなさい。
でも、久々に現代映画でモノクロの挑戦を、表現として、そして解釈してもらうそれとして見られて、とっても刺激的だった。★★★☆☆


デコチン DECO-CHIN
2025年 91分 日本 カラー
監督:島田角栄 脚本:島田角栄
撮影:笠真吾 音楽:劉智英
出演:松永天馬 永岡佑 中田彩葉 古市コータロー 小林雅之 仲野茂 プリティ太田 ゆってぃ NYチーズケーキ TOKYO FRIDAYNIGHT 鳥居みゆき seico 川本三吉 佐渡未来 森由月 大川裕明 奥井隆一 逢瀬アキラ リカヤスプナー 泉水美知子 飛麿 風谷南友 あやめえりか ナマコラブ サンジュナ ハララビハビコ

2025/5/1/木 劇場(新宿K's cinema)
うわー……凄いものを観てしまった。フリークス映画、などとひとくくりに言ってしまうのも違うとは思うのだけれど。でも、こうしたアングラな映画は、それこそ原作者の中島らも氏が活躍していた80年代、90年代には百花繚乱であったような記憶がある。だから少し、甘く懐かしい感じもした。
タイトルがそのまま、主人公のラストの状態を示しているのだけれど、まさにそのままなんだけれど、まさか、思いもよらない。デコにチン。そんなばかな!

鑑賞後、公式サイトにあがっていた予告編を見たのだけれど、予告編にはまるで、まったく、本作の本作たる要素は見せてない。見せられない、ということなんだけれど……。
フリークスバンドのメンバーたちさえ予告編に登場しないのかと、少し寂しい気がした。でも彼らを、対外的にはあえてアンタッチャブルにし、タブーにした予告編ということが、逆に本物感をマシマシにしたのかもしれない。

おかっぱ頭で難しいことを言う松本は、その風貌から最初は、コミカルというか、ふざけた男なのかと思った。でもクソ真面目、真面目ゆえに、大好きだった音楽の世界から転落してしまう男。
しかしまぁ、バンドの練習場面はダルダルなクソ演奏で、後に松本が売れ線バンドをクソミソに言うのはなかなかにシュールなんだけれど。つーか、もう全編、すべて、一秒隙間なく、シュールな世界であるんだけれど。

松本が冒頭、飲み屋のカウンターで話している外科医の友人、彼だけがこの世界の中で唯一マトモに見える人物だが、しかし最終的に松本の、常識的に考えれば狂っているとしか思えない懇願に負けて、信じられない外科手術を引き受けるのだから、彼もまた狂っている、のかもしれない。
松本は身体改造をひとつのカウンターカルチャーとして発信している雑誌の副編集長をなりわいとしている。そんなカルチャーに外科医の友人が眉をひそめるのに対し、彼に負けないアカデミックな論戦を張って、グロテスクな身体改造をする人たちを擁護する。

でも、松本自身は五体満足、きちんとネクタイを締めて、今日もまた、一見して刺激的な、彼にしてみれば一過性で退屈な取材に出かけてゆく。ことに音楽、バンドに対しての松本は辛辣で、作り上げられたアイドルバンドをクソミソにけなすシーンは、その緻密な罵倒っぷりが最高である。
中島らも氏の著作は恥ずかしながら未読なのだけれど、彼が活躍していた時の、オンリーワンっぷり、ランチキに見えて、深い理解と知識に裏打ちされている、これぞ真の、プロのオタクであるオーラを浴びていたから、音楽に対しての、それもアングラ音楽に対する愛と造詣の深さはとても感じていたから、めちゃくちゃ説得力がある。

そもそも本作のキャスティングが独特過ぎて、監督さんも私初見なので、フィルモグラフィーを拝見すると、本当に独特。音楽から映画へのアプローチ。昨今はこういう思いもよらない化学反応を見せてくれる作品に出会えるのが本当に楽しい。
きっと、こうしたカウンターカルチャーシーンの音楽が好きな人たちにとっては凄いキャスティングなんだろうし、普段映画を見ないそうした人たちを劇場に呼ぶのだろう。そして私のように、その全く逆の観客もいて、絶対に出会わない人種が、小さな映画館にひしめいているのが、本当に面白くて。

その、松本がくさす、ビーチボーイズのエセパンド、ピーチボーイズのボーカルを担当しているのが、うわびっくり!ゆってぃ氏で、全然ワカチコじゃない!音楽活動しているんだ……知らなかった。
そして松本が衝撃を受けるフリークスバンドには、私でもお名前を見たことがある手練れのミュージシャンがキャスティングされていてビックリする。中島らもというビッグネーム、でも今の時代には刺激が強すぎるアングラカルチャー、それを体現するために召集されたこれまたビッグネーム。音楽畑の監督さんの、私たち古い映画ファンには思いもよらない作り方に、衝撃ばかり。

そして、フリークス、なのだ……。映画ファンの間ではまことしやかに語り継がれる見世物サーカス映画。
でもしっかりエンタテインメントだし、まさに、人間の神髄を描いている。なのに、タブー、アンタッチャブルとして、いまだに位置付けられている。あの伝説のフリークスに対するオマージュ、どころか、真っ向斬り込んでいる。

三本腕の超絶テクのドラマー、三つのギター(一つはウクレレかな)を抱えて演奏する2メートルを超す大男。逆に小人症で、短い腕と指を独創的に使って演奏する男。
そして……何より、このフリークスバンドのメイン、双頭、いわゆるシャム。そうね……らも氏の年代、私は彼より20下だけれど、ギリギリリアルに聞いている世代。ベトナム戦争、ベトちゃんドクちゃん。萩尾望都の傑作、半神。悲劇の象徴でしかなかった、一つの身体に二つ命と魂が宿っている。そう、悲劇でしかないと思っていたのに。

ああ、とあああ。そう自己紹介する妙にセクシーな彼女たちは、そのお名前同様に、最後には、フリークスのメンバーとなるべくデコチンとなった松本と、官能的な、これは3Pなのか、通常セックスなのか、という関係を持つ。
セックスが、あらゆる形でのセックスこそが、その人のアイデンティティの一つの表現である、という価値観は、なかなか得られにくいと思うのだが、その価値観こそがアングラのそれだったし、だったらそれは、現代では失われてしまうのは仕方のないことなのだろうか??

カウンターカルチャー雑誌の副編集長という、まぁ世間的には特異な職業とはいえ、いわゆるサラリーマンに落ち着いてしまった松本は、取材先はことごとく個性的、というより狂っている状態だから、見ているこちとらとしては普通とは思えないんだけれど、でも彼は鬱屈を抱えていた。
そこに、突然遭遇したフリークスバンドに雷に打たれたように衝撃を受け、メンバーになりたい、それが無理なら裏方でもいいと懇願するも、アンタはフリークスちゃうやん、とはねつけられる。

そこで松本は、自分が命を賭けたい、そのための手段として迷いない、という身体改造、というより、身体損壊だけど……の世界に身を投げる。信じられない。両腕両足を切断し、まぁそこまでなら判る、いや、判らないけど、そっから先があまりに信じられないから、ここで判ると言うしかないっつーか。
松本は、勃起した状態のペニスを脳の神経とつなげて、おでこから勃起ペニスが生えてる状態に手術してほしいと、友人に依頼したのだった。

デコチン。デコにチン。えーと……。この経過だけ書くと、単なるアホなナンセンス、いや、そのとおりなんだけど(爆)、そのとおりだし、ここまでシュールでアバンギャルドな極彩色カウンターカルチャーを、でもやりすぎではなく、丁寧に描いて見せてきてくれるもんだから、なんだか納得しちゃう。ちょっとそれが怖いというか(爆)。あぁ私、納得しちゃうんだ、と思って……。

松本が衝撃を受けたフリークスバンドの、圧倒的なパフォーマンス、シャム姉妹の天使のハーモニーが凄くて。美女でベッタリメイクだから、ギャップが凄すぎるしさ。
しかもラストには、デコチンの松本と3P、いや、身体は二人なのだけれど、こんなカラミ見たことない!というエッチシーンが繰り広げられる。えーとね、まぁその、おでこに勃起したペニスが移植されていて、両腕両足が失われた松本が、双頭の美女とくんずほぐれつのまぐわいなんすよ。あぁ、でもそんなことが、きっとあるだろう。きっとどこかで、繰り広げられているのかもしれない。

自分を肯定するために。身体改造や、フリークスのバンドメンバー、そして何より、それを追求するために生真面目な友人を説得して、信じられない外科手術を施した松本。
これは、あまりにも過激だけれど、いい感じに、薄めて、解釈すれば、自分が望む自分自身でいられるための勇気、という物語。それを示すにはあまりにも過激だけれど。

フリークスバンドが、宣伝も告知もせず、突然出没して、演奏する。その姿勢にこそ、松本は感動したのかもしれないと思う。彼らの見え方はまさに見世物小屋的で、もちろんそれがビジュアルの魅力であることは当然だけれど、それを踏まえた上で、彼らがそれを捨ててのパフォーマンスを選んでいることが、最高にカッコいい。
彼らに魅せられた松本が、メンバーに入りたいと言って、はねつけられるのは、この経過を思えば当然であるんだけれど、まさか、じゃぁならば、と松本が決断するとは思わなくて。いやぁでもこれを……肯定する形で書き記すのは、なかなか難しいのだけれど。

ヘンな宗教団体、チンケなヤクザ事務所、川に流れている豚の模型から血だらけになりながらワンピースやギターを撮り出す奇妙なMV、全編、奇妙なシュールさに満ち満ちていて、唯一無二、ということは、認めざるを得なかった。認めざるを得なかった、だなんて、言い方おかしいかな。でもそう表現するしかないんだもの。
おでこの勃起ちんぽから、ライブ演奏の興奮でたらたら射精しちゃっているモザイクかかってのラストは、いーやー、なかなか厳しいっすけど、性的じゃなく、承認欲求の興奮であっても、ペニスからの射精で描くのが相当、ということなのかなぁ……?女子にはなかなか理解しがたいけれど……。★★★★☆


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