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父と僕の終わらない歌
2025年 93分 日本 カラー
監督:小泉徳宏 脚本:三嶋龍朗 小泉徳宏
撮影:柳田裕男 音楽:横山克
出演:寺尾聰 松坂桃李 佐藤栞里 副島淳 大島美幸 齋藤飛鳥 ディーン・フジオカ 三宅裕司 石倉三郎 佐藤浩市 松坂慶子
でもなんか、イギリスというよりはアメリカンな雰囲気。舞台を横須賀に設定し、父、哲太と息子、雄太が派手な外車を飛ばす陽気な商店街や、海にまっすぐに浮かぶ道路といい、まるで日本じゃないみたい。
商店街がにぎやかで元気だなんて、昨今の日本映画ではさっぱり見なくなったもの。それは、事態をネガティブにとらえたがる日本人が、ことさらにシャッター商店街の社会問題を取り上げるからかもしれないけれど。でも横須賀なんだからそもそもそんなさびれたこともないかなぁ。
街の人気者の父、哲太がアルツハイマーに冒され、次第に自我を失っていく中、大好きな歌を歌う時だけは自分を取り戻すことに気付いた息子、雄太が、何気なく撮影した動画がバズり、思わぬ展開を見せていく物語。
イギリスで実際にあった実話が原作で、ちらと見た動画を切り取ったワンカット、車中で楽しそうに息子と一緒に歌う老父、本作のそれにきっちりと踏襲されているけれど、寺尾聰の方がチャーミングだと思っちゃうのは私がファンだからかしらん。いやでも、これは寺尾聰であるからこそ、な感じがしたなぁ。そもそもの素養が本当にピッタリなんだもの。
楽器店を営んでいて、陽気なジャズが好きで、歌が得意で、茶目っ気たっぷりの彼は街の人気者。冒頭からそれが示されている。雄太の幼なじみの聡美の結婚式に親子が急ぐ冒頭、派手な外車が狭い商店街をぶっ飛ばす、息子はハラハラしているが、商店街の皆さんは哲太だと判ってるから、ニコニコで手を振ったりする。
まさに、もうここで、すべてが示されている。哲太はこの街に、そしてバズってからは全世界に受け入れられている。息子の雄太は、ゲイである自身のアイデンティティをまだ両親に完全には受け入れられていない状態で、必要以上にナーバスになっている。だから奔放で自分勝手(に見える)父親に、まるで自分が糾弾されるかもみたいな縮こまり方をしている。
父親がアルツハイマーで、息子がゲイ。どちらも珍しいことじゃない。特にここ数年は、びっくりするぐらい多様化の理解が全世界的に進んで、それは保守的なこの日本においても、世界が進んでいくと迎合しちゃうというヒクツさはあるにしても(爆)、飛躍的に進んだと思う。
だから正直言うと、本作の、その両者の描き方は、ひと昔前っぽいなぁ、と思ったりもする。実際、イギリスの原作がひと昔前なんだから合ってるのかもしれないのだが。
横須賀ということでアメリカンな雰囲気が充満しているけれど、実際の原作はイギリスなんだから、そこらへんも保守的な感覚が残ってしまっている要因なのかもしれないと思う。
海の向こうの音楽を愛し、自由さを謳歌しているように見える父、哲太が、息子がゲイであることを、10年前に初めて知った時から、アルツハイマーとなって何度もそれを忘れては突きつけられ、ショックを受けるという展開は、イギリスの保守的な父親っぽいなぁ、と思い、その違和感が最後まで気になってしまう。
これが、昔の日本の、ザ・昭和な父親ってんならフツーに判るのだけれど。もちろん、何度も何度も引き戻されて苦悩する父と息子、という図式こそが本作の一つのキモであるのは判るのだけど。
それよりも気になった、というか、今の時代、現代で、まだこんな描写するのか、と思ってしまったのが、アルツハイマーになった父親への接し方。
これは、そうでなければこの物語自体が成立しない部分があることは判ってはいるけれど、当事者ではない私のようなイチ観客ですら、これって絶対言っちゃいけない、やっちゃいけない対応でしょ、というのを父親に対してバンバンするもんだから、最終的に感動のステージで泣かされても、基本の勉強しといてよ……と思っちゃったのは事実。
最初こそはね、まさに当事者の父親はあっけらかんと明るかった。母親もまたそうであった。病名がついて良かった。お父さんとお母さん、二人でゆっくり暮らすよと。まさにそれが、理想の対応だと思った。
決定的な治療法はないにしても、リハビリをしながらゆっくりと暮らしていく、ポジティブにとらえてそうしていく、そういう気持ちが彼らから感じられたから、教科書通りだな……と一瞬不安には思ったけれど、でもこれがそのとおりだからと思ったのだけれど。
教科書通りにはいかない、ということではあるけれど、展開が急速に過ぎて、ついていけなくなる。それは、息子の雄太がそもそも、父親の病状を理解し、今後どう接していけばいいかということを考えていなかったとしか思えない、そう見えてしまうことが、原因であるように思う。
アルツハイマーという診断を下されたのなら、息子である自分をはじめとして、古くからの幼なじみを忘れてしまうことは真っ先に想定するべきことである。だから、父さん、しっかりしろよ、なんで判らないんだよ、と、まるで自分がショックを受けてるように父親を責めるなんて、責めている訳じゃないんだろうけれど、父親にとっては、この状態の父親にとっては、混乱と恐怖でしかないことが判るから、絶対にやっちゃいけないことなんだよ!と叫びたくなってしまう。
凄く、辛くなる。こういう時に、想像力という言葉が頭に浮かぶ。人間関係のあらゆる場面、自分の理解の範疇を超えた時に、相手を責めるんじゃなく、相手はどう思っているのか、どう感じているのかという想像力。その力が、人間関係のどんな場面でも必要になるんだと。
友人、きょうだい、親子、仕事場、それぞれの場所で違うと思われがちだけど、同じだと思う。違うと思われがち、思いたがるから、何度でも、この苦しい行き違いが産まれるのだと思う。
本作は、父親と息子、演じる寺尾氏、松坂桃李氏のダブル主演という形ではあるけれど、結局は息子である雄太の視点、頑張ったね、雄太、みたいに見えるような気がして、それが少し……いやだな、私はいやだな、と思った。
アルツハイマーを患って、周囲をどんどん不安にさせていく父親の哲太は、特に仲良し夫婦であった妻は苦悩してしまって、息子の雄太は見ていられなくなって、施設への入居を勧めるくだりがある。
施設入居は全然いいよ。老々介護が当たり前になっている日本は本当に問題だし、福祉サービスはもっともっと多様化し、充実していくべきだと思う。本作においては、哲太がこの高齢者施設に慰問ライブに定期的に訪れているというエピソードが描かれ、老後のライフスタイルのいい感じがそれなりに描かれもする。
施設主任を演じる大島美幸氏がとてもいい印象。穏やかに楽しく暮らすこの場所を全肯定している感じが。でも、もう手に負えなくなった父親をここに入居させようと母親を説得して連れてこようとした雄太だけれど、母親は、最後まで夫のそばにいたい、と拒否するんである。
愛、愛だけれど、確かに。結果的には、なんかいろいろハートフルに決着はついちゃったけど、中盤、我を忘れて暴力的になっちゃう哲太をどうしようもなく、傷つくばかりのお母さんを心配した雄太が、父親の施設入居を決意するのは当たり前だし、それをお母さんが、犠牲的精神で拒否して、更に結果的にそれが報われちゃった、オッケーだという結果になってしまったことが、私はなんか、なんか……良くないなぁと思ってしまう。
献身的に、犠牲を払って、そうすれば遠い未来に幸せな結末が待っている。だから家族はそうあるべきだと、まさに昭和的アナクロニズムで結論付けているように思えてしまって。
そんなんじゃないのに。とてもチャーミングなお父さんで、冒頭の結婚式のシーンでサンバチームを招き入れて演奏するシーンからもう、引き込まれたのに。なんかね、すべての展開が突然すぎて、言ってしまえば雑で、ちょっと待ってよ!と何度も思ってしまったんだよなぁ。
幼なじみの結婚式、アルツハイマーの発症、突然の暴力的態度、自身のゲイを父親に何度も問いただされること、動画のバズり、勝手な憶測による心無い中傷、それによるレコードデビューの頓挫、ライブ配信による起死回生の復活。うっわ、こう書いてみても、盛沢山すぎるわ!!
何度も何度も自身を消失するお父さんを、先述のように、なんで判んないんだよ、といら立つ息子の雄太に、こっちこそ、観客のこっちこそ苛立ち、でも結局は、感動のライブシーンに持っていくんだから、なんかズルいなぁ!!
私がひねくれているのかな。素直に受け止めればいいのだろう。商店街のメンメン、個性的なキャスティングでとても良かった。施設主任の大島美幸氏も凄く良かった。
冒頭の結婚式で新婦として登場する、雄太の幼馴染役、佐藤栞里氏と大島氏が、公開前にラジオ番組に出ているのを聴いていて、普段は役者活動はしていない二人が、この現場のこと、特に寺尾氏のやわらかなたたずまいや、かけられた言葉を語っているのが凄く印象的で。これを聴いて見たせいもあったかもしれないけれど、いわゆる、手練れの役者たちの中で、新鮮な魅力があって、凄く良かった。
栞里氏の夫役の副島淳氏もまた、めちゃくちゃ良くて。何度も言うけどこの保守的な日本において、インパクトのある外見を持つ彼は、役者活動においては難しいと思うけれど、凄く良かったなぁ。
あのふわふわのアフロヘアはそりゃぁ、触りたくなるよね!!と常々思っていたのを、我を忘れた哲太、寺尾氏が、おんぶされて彼のふわふわヘアを思う存分ぐしゃぐしゃしているシーンがサイコーで、これはさ、絶対に、触りたかったんだよね!!と思っちゃったからさ!!
雄太のパートナーが、ずっと電話の向こうで聞き分けのいいことばかり言っているから、これは絶対にクライマックスでぶちかますと思っていたら案の定、でも情報を入れてなかったから誰なのか知らず、おぉ、おおぉ、ディーン・フジオカ氏とは!!う、美しすぎる……。
ライブチャットでは暗いとくさされまくっていたけれど、ピンチヒッターとして時間稼ぎをしたピアノ弾き語りの美しい歌声よ!!うっとりしちゃう!!
結論としてはやはり、展開が急すぎて、丁寧さに欠ける感じがしてしまって、現代における価値観におくれを取っている印象もあったのが、正直なところ。★★★☆☆
ヤクザ世界は組だの弟分だの義兄弟だの、頭の悪い私にとってその構造を書き表すのはひと苦労なのだが、まぁそれは気にしない気にしない。
今回腐女子的に嬉しいのは、心ときめくカップル(ではないが)が二組いること。これはちょっとお初ですよ。大体メインの一組ですよ。いや、それを言ったらもう一組いるかも、三組かも。菅原文太氏が二人の男と取り合い、いやそんな話じゃないが、彼のために命を投げ出す男が二人。あぁ尊い。
菅原文太演じる辰夫は、渡世人というよりチンピラである。舞台は戦後間もない混乱期。ムチャな強奪を繰り返してりゃそりゃーパクられる。ムショにぶち込まれたそこで、運命のやつらと出会う。
同じくチンピラの団七(待田京介)とは最初からケンツクしあって犬猿の仲、のように見えながら、ムショでの日々を季節を追って窓の外からのカメラワークで映し出すと、二人はまるで男子校の悪友同士のように、ケンカしながらもいつもぴったりくっつくぐらい一緒にいるんである。
おいおいおい、もうこの時点でカップル成立確定だが、でも後から考えるとこのカップルは本命ではない。なんか書いててどんどんおかしくなるが、許しておくれ。
団七は確かに、辰夫を逃がすためにハチの巣になるが(おっと、思いっきり先走ってのオチバレすまん)、辰夫はその語、他の男と斬りこみに行く、鼻血ブーな任侠の男二人の道行き、その相手が、あぁ、なんと、高倉健なのだから、これはもう、勝てないでしょ!!
どーいう話なんだ、整理せよ。辰夫はムショでもう一人、重要な人物と出会っている。侠客の神崎政吉。演じる葉山良二がイイ男すぎる。
若き頃美青年で青春映画に出ていた男優さんたちは、後に任侠映画に出てくると、いい感じに恰幅が良くなり、そしてお顔立ちは美しく、何とも言えぬ色気を発する。これが私、大好物でねー!
菅原文太は役柄的にも年齢的にも若くチンピラの血気盛んで、侠客の世界、義理こそ大事な世界がまだ判ってない。つーか、最後まで判んないまま死んじゃうんだけど(爆)。
政吉はムショにいる時から彼らチンピラに比してずーっと大人で、温かく彼らを見守っていて、出所後の辰夫たちがまたしても暴れて、ヤクザたちに目をつけられたところを救ってくれた。その男気を見込んで、中国人ヤクザの東洋会に苦しめられている別府の松井一家に紹介してくれるのだが……。
中国人ヤクザ、なのよね。演じるのは日本人の役者さんたちで、安っぽいチャイナ服、組員たちは背中にタイガーが施された赤いジャージ。ダ、ダサい……。日本人が考える中国語なまりで喋るあの感じとか、今の時代から見るとかなりハラハラしちゃう。
今さ、まさに、南京事件から80年の節目で中国で反日感情が再燃しているっていうニュースを聞いてさ、うわわ、この映画、中国の人たちには見せられないわ……。
義理なんてまるで考えていない、非情な東洋会をザ・悪として、そして東洋会は対ヤクザだけでなく、温泉街のいわば素人衆、旅館や芸者たちをもくいものにしていて、つまりみんなから嫌われているという図式。
もう、ザ・悪人。そしてさらにヤバいことに、あの三国人たちが!という台詞も出てくる。三国人、中国だけじゃなく、韓国、朝鮮、台湾と一緒くた。でも登場するのは中国人(の設定)だけ。
ヤバいねー……当時ならではの差別意識とはいえ……。でもこれぞまさしく、戦後の時代に近い時に製作された、近い感覚、なんだよなと思い……。
時代が遠く離れると、客観的な視点は産まれるけれど、当時のリアルな感情や感覚は失われてしまう。当時の日本人、あるいは日本の侠客から見えている中国マフィアの存在って、自分たちが負けた国の劣等感もあって、まさにそこを詰められているし、中国マフィアの絶妙な安っぽい描写も、そんな感情が作用して出来上がっていたのかもしれないし。
で、そうそう、高倉健よ。私ら世代になると、高倉健も菅原文太も等しく大スターだが、この映画の当時は高倉健が既にスター、だからこそ特別出演として迎えられているし、正直、キャラ的にもとって付けた感がある。
高倉健氏が演じる、子連れの侠客、勇次郎は正直いなくてもいいし、いない方が物語としてすっきり成立してしまう感はあるのだもの。
勇次郎の登場は、もうこれぞ任侠映画よね、玄関先での口上から始まる。いわゆる自己紹介、長々とした物言いに政吉が優しく遮るのが、ちょっとめんどくさく思ったのかもとか思って楽しい。
めちゃくちゃ可愛い幼い男の子が、重そうに白い布に包まれた骨箱をかかえてて、勇次郎が突然訪ねてきたのは、この子が熱を出してしまっていたからなんであった。
腕に覚えありの勇次郎は、松井の親分の危機を救ったりもするのだけれど、子連れだということを心配され、迷惑だとウソをついて一度は退出するんである。
この物語の中で、一人だけ何のしがらみもなく突然入ってきた感があり、そして突然出ていっちゃったから、特別出演って、こーゆーことなのかなぁとも思ったのだが。
高倉健氏の再登場までには、まぁめちゃくちゃ展開があるんである。政吉を応援に来た、大和久である。
どうもこのあたりの義兄弟、組同士の関係はよく判らんが、とにかくまぁ、この二人は義兄弟の契りを交わしていて、大和久と松井組との関係、松井の先代組長への義理で政吉はムショに入っていたという関係性、ということらしい。
あぁ、任侠の世界は難しいが、まぁとにかく、この二人が一組目の腐女子キャーキャーカップルなんである。二人ともいい感じに恰幅のいい、和服の似合う侠客、私好み。
高倉健氏、菅原文太氏のような、細マッチョも素敵だけれど、ヤハリ和服となるとその体形だと貧相に見えちゃう。この恰幅のいい、しかも濃い顔の美男二人が、卑劣な東洋会との、勝つ見込みのない戦いに、芸者たちや旅館関係者といった一般の人々を街から出すことをまず優先して、その後、まさに卑怯千万、ぶっ殺されちゃうのがさ……。
政吉は最初からそうなると覚悟していて、大和久もそれは予感していたけれど、でも愛する、愛する!!弟分が目の前でなぶり殺されていくのを……正気を失って、あの場面はヤバかったなぁ。
血だらけの政吉を抱き起し、キスするんかいというぐらい顔を近づけ、抱き起した政吉の頭に添えられた手の、指の、動きよ!愛し気にひと指ごとに動くのさ……あぁヤバヤバ!……そして大和久もその後、無残に殺されてしまうのだ……。
女たちも、キャラは立っているが、腐女子の目からはついつい排除されちゃうな、いけないいけない。団七の妹、ムショに入っている間も妹からの手紙に涙していた、そのスミ子は、辰夫にいち早く会っている。パンパンとして……。
東洋会が仕切っている売春宿で、気丈にふるまっていたスミ子は、でも再登場した時には東洋会のコマとして、人質として、団七の動きを封じ、なんたって愛する妹、無垢な妹だと思っていた団七は、奈落の底に突き落とされるのであった。
スミ子はかなりあっさり東洋会の銃弾に倒れちゃって、彼女を含め、女性キャラたちは、……まぁ任侠映画は仕方ない、女任侠ものでない限りは、女は添え物なのは仕方ないけど、腐女子的にも、まぁ女が重要なポストにいられると成立せんからとは思うけど……死んじゃうとねぇ、さすがに、ツラいなと思っちゃう。
辰夫と悪友同士から、いつしか腐女子が妄想するぐらいの相棒になった団七にしたって、そうである。女好きの彼は、そこここで女性にちょっかいを出し、最終的にはまだおぼこ娘な女の子に、おっぱいでかなったら嫁になるかとか、今じゃぜぇったいにアウトなこと言っちゃって、嫌い!!とスネられるのは当然なのだが、なのにこの子、結局団七にホレちまって、死の道行きを覚悟した団七に涙涙だというのが……。
辰夫とイイ感じになる旅館の女将もそうよね。ぜんっぜん、そんなシークエンスなかったのに、東洋会に苦しめられている旅館、芸者衆の代表みたいな感じで対峙していたのに、運命のクライマックスになると突然、団七がいつの間に?と驚くぐらい、いつのまにやらイイ仲になってるって、そらねーだろー。
てな具合に、女の扱いはテキトーな訳。まぁ仕方ない。腐女子が喜ぶ展開があるなら、男女の仲はジャマなんだもん。
団七の妹が死に、松井の親分が死に、政吉、大和久も死に、手ごまの数も少ない辰夫たちが、飛び道具も持っている東洋会に太刀打ちできる筈もないのに、男たちはバカだから、三途の川で会いましょうとか言って、東洋会へのムチャな闘いを決意する訳。
つーか、話し合えよ、日本人同士の任侠も確かに、話し合うこともない抗争はあるけれど、本作は、時代設定、日本人と中国人、戦争の勝ち負け、植民地問題、それが、戦後近い時代に作られた映画として、ムチャなリアリティとでもいった押し出しの強さがあって。
クライマックスは妙に様式美があって、それまでの、それなりの物語性というか、任侠映画の進め方はあったんだけれど、最後、子供は亡き妻の里に預けてきたと言って突然助っ人に現れる健さん登場。
ズルいわー、あんた基本、この話に関係ないのにさ!みーんな死んじゃった後に出てくるの、ズルいわー。
でもしゃーないさ、腐女子的には、許すしかないさ。辰夫は、みんなみーんな死んじまった後、しかも、自分を生かすために団七は死んでしまって、それを知らずに病院で手術を受けて目覚めちゃったなんて、もう最悪の状況でさ。
一人っきり、もう、誰もいない。そこに、すっと入り込んでくる一匹狼の勇次郎。ズルい!
美しき細マッチョの男二人が東洋会の巣に切り込むクライマックスは、ズルいぐらいに美しい。てかさ、今までは東洋会の圧倒的な人数と武力にボロ負けだったのに、たった二人、クラシック任侠映画スタイルで刀のみで乗り込み、バッタバッタと切り倒す、メチャ強いって、なんなのさ。
いや、それが任侠映画スタイルなのは判っちゃいるが、戦後の復興、新興の強さ、何度となく相手と闘った時のボコボコにされ加減、それまでは当時の現代的リアリティがあっただけに、ラストで突然、敵がみんな刀を振り下ろすのを待ってくれるだなんて。
ただ、このラストシークエンス、東洋会のアジトは、長い長い廊下とか、丸くくりぬかれた窓から見え隠れしたり、その窓から飛び込んで逃げたり、エキゾチックで洗練された戦闘アクションが素敵だった。
で、驚きなのが……特別スターとはいえ、ゲスト出演である高倉健氏が、主演の菅原文太氏含め、すべての登場人物が死んじまった後一人生き残って、苦しく哀しい表情でラストカットを締めくくることである。まーじーでー。それだけ当時の高倉健のスターとしての存在は凄かったということなのか……。★★★☆☆