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遠い山なみの光
2025年 123分 日本 カラー
監督:石川慶 脚本:石川慶
撮影:ピオトル・ニエミイスキ 音楽:パベウ・ミキェティン
出演:広瀬すず 二階堂ふみ 吉田羊 カミラ・アイコ 柴田理恵 渡辺大知 鈴木碧桜 松下洸平 三浦友和
心あるレビューアーさんが丁寧に解説してくださっていて、あ、いいんだ……とホッとするも、そのレビューで、英文である原作と日本語翻訳での違いなども知り、凄い、原作、翻訳、映画化、と、その対比で論文書けちゃってる、凄い!とめちゃくちゃ感心し、逆に更に不安になる。
そりゃいつでも原作と映画化作品は別物と心得えていて、それはいい意味でも悪い意味でも、ではあるのだが、そもそもの物語がとてもシリアスで社会派だから、しっかり受け取れているのかという不安がとてもあって。
時代と舞台設定が二つ同時進行する。この原作が発表された80年代半ばのイギリスと、戦後間もない長崎である。原作当時のリアルな現代であった80年代が、そこから実に半世紀近くも経ってしまった今描くことの、明らかな意味合いの違いも絶対にあるだろうと思う。
本作は原作者のカズオ・イシグロ氏がエグゼクティブプロデューサーに入っているのだから当然、そうしたあれこれは石川監督と綿密に打ち合わせているのだろう。
80年代、私の子供時代。でもイギリスだから、またいろいろ違うだろうけれど。悦子の娘のニキが、大学を中退して、ライターの道に進もうとしていて、妻子ある人と不倫状態にあるらしくて、妊娠したかもと怯えてて、みたいなことって、もちろん今の時代でも全然ある設定。
でもその中で、当時の若い女性のスタンスって、しかも、まるで日本の地方社会みたいなイギリスの郊外では、子供の頃からやっていたピアノをやめちゃったの?とか、いつまでも親の庇護のもとにいて、結婚して子供を産む、みたいな女の子像が当たり前にあったと思われ、それは当時のリアルタイムと、今、今でもまだまだそういう部分はあれど、声をあげることが出来ている今と、やっぱり全然違っている。
そして、戦後間もない長崎、である。悦子はお腹に赤ちゃんを宿していて、団地でダンナと二人暮らし。妖艶な謎の女、佐知子と、彼女の娘の万里子と出会う。
ダンナの父親が何日か滞在する間、ダンナは居心地が悪そうである。この父親は今は退官しているけれど元教師で、いわゆる軍事教育が決して間違ってはいなかったと、今でも思い続けている、思い続けていたい人らしいんである。
かつての教師たちが、生徒たちに間違ったことを教えていたと苦悩するというのは、朝ドラでも描かれていたし、総じてそうなんだと思い込んでいたが、そりゃぁ、一方で、勝手にアメリカに正されただけで、しかも敵だったアメリカなのにと、その考えを正せないままでいた教師も、そりゃぁいたのかと思い至ると、そんなことは考えもしなかったから暗然とする。
かつての生徒から糾弾され、新しい世界、変わらなければいけない、と言われる年老いた教師。これは、キツいな。年をとればとるほど、信じていたものを若者から否定されると、何のために今まで生きてきたのか判らなくなる。
一方悦子は、ダンナに秘密を抱えている。ダンナは彼女が、被爆しなかったと思っている。てゆーか、悦子がそう言ったんだろう。
放射能がうつるとか、万里子が子供たちにはやされているのを見ても、それは判るし、東日本大震災の時のことを思えば、あぁ、本当にもう、判っちゃうのだ。
で、このあたりでオチバレ言っちゃうと、悦子が出会った佐知子とその娘の万里子というのは、存在しない。いや、佐知子と万里子は、悦子と生まれ来る娘、景子である。いや、そう言い切るとまた違うのかもしれないのだが。
悦子と佐知子の不思議な友情関係が、どこか不穏さをはらみながらずっと進行し続けていて、佐知子が娘の万里子と渡米しようとするその前夜に、くるりとひっくり返り、佐知子が悦子に溶け込むように、そして万里子は彼女の娘としてなぞり返したもんだから、仰天しちまったんであった。
この仰天に際した時に思ったのは、悦子の妄想だったのかという感覚だったんだけれど、同時進行される、劇中では現在の時間軸である80年代半ばにおいて、次女のニキに語る悦子の物語なのだから、置き換えて、というか、そのまま自分を直視するんじゃなくて、というか、架空の誰かに演じさせて、というか、なんかいろいろそんな、二重三重の着ぐるみ状態があったということなのかなぁと思う。
悦子が佐知子に出会った時の描写は、カラフルなファッション、米兵と親しくハグしたりして、近所の女たちにヒソヒソささやかれるような、パンパンとまでは言わずとも、そんな目線で見られていた。
それとプラスして、これは先述した、優しく解説して頂いているところで知ったことだけれど、戦後の整備が途絶え、川のこちらとあちらで分断が起きたのだと。佐知子と万里子の親子が住んでいるのは、ぎりぎり川のこちらの際で、あちら側の、誰も住んでいないと言われている広大な荒野は、暗闇に沈んでいる。
それでなくても、悦子たちが住んでいる団地の建ち並ぶエリアとは違い、取り残された壊れかけの木造家屋に住んでいる佐知子たちは、ほんのりとした電球がせいぜいの、雰囲気がイイと言えば聞こえがいいけれど、なにかが出そうな薄暗がりなのだ。
これは、悦子、そして実際は悦子の中で醸成されていた佐知子の心象風景だったのだろうか。物語の冒頭、子供たちが誘拐され殺害される新聞記事が示される。
だからこそ悦子は、いつも一人で遊んでいるアウトローな雰囲気の万里子を心配しているのだが、これが悦子が作り上げた物語だと判れば、結果的に自殺してしまった長女の、その心の中を、なぜなのか、私が悪かったのか、ずっとずっと考え続けていたのか。
どうなんだろう……本作は、そもそも長崎の原爆という、決定的に大きなファクターがあって、その悲劇を直接的に描くんじゃなくて、被爆による差別、特に女性子供における、という部分がある。
そこから救い出してくれるのが、いわばその元凶であるアメリカ、米兵である恋人に頼って、佐知子は偏見に満ちたこの日本を脱出しようとする。でも、その佐知子は悦子が心の中で仕立て上げた分身であって、実際の悦子は、アメリカではなく、イギリスに向かうのだ。
お恥ずかしいんだけれど、世界史が苦手で、あの大戦で決定的な敵はアメリカであり、ぐらいの感覚。そうか、イギリスも連合国軍の中に含まれてるんだよね、とか思って。この当時の、日本のイギリスにおける感覚ってどうだったんだろう。アメリカとは明らかに違うのはそりゃそうだとは思うけれど。原爆、それが、決定的にあるから。
ビックリのひっくり返りまで、同時進行される80年代の悦子と娘のニキの物語があったから、あの時お腹にいた長女は、後に自殺してしまった、戦後まもなくのシークエンスでの新婚生活が、つまりは破綻した訳だ。
そののちに、イギリス人の夫と出会う、どういう経過なのかなぁとののんびり見ていたもんだから、そもそも悦子のくだりこそがまるまる、娘に語る上でのウソってことだったんだろうか……。あぁもう、判らない。
そんなことに拘泥する必要はないのかもしれないのだけれど。本作はあくまで、戦後間もない長崎、そしてそこから半世紀近く経った異国で暮らす日本人、ヒロシマは有名だけれどナガサキは、ということもちらりと触れられたり。
悦子の娘として、“80年代の今”を生きるニキ、彼女こそが、このミステリーを暴く、いわば語り部である。自殺してしまった姉の景子に対するくぐもった想いをずっと抱えている。
景子がなぜ自ら命を断ってしまったのか、それはどうやら原作でも明確にはされていないらしい。そしてニキは、姉との関係は良くなくて、ずっと自分はお姉ちゃんにさいなまれてきたと語る、思ってる。
凡百の作品なら、姉の事情も妹の事情もしっかりきっかり明らかにして、ごめんね、判ってあげられなくて、みたいにしっかとハグして涙涙、みたいな展開になるのだろう。でも、そうはならない。景子の死の真相は判らないまま、原爆なのか、日本人であることなのか、明らかにはされない。
ニキが家庭内でぎくしゃくしていたのは、この姉と上手くいかなかったのか、姉のように親からかまわれなかったからなのか、明確にはされない。明確な理由が一つ明らかにあるという訳ではないだろうし、そんなことを今さら明らかにしても、という思いもある。
でも……何か、何かさ、戦後の長崎の、決して踏み入れてはいけない闇の向こうに何かがあって、それを、悦子が語る、彼女の中の佐知子、そしてその娘の万里子が、見ていたのだ。
物語の冒頭、新聞で報じられる子供の誘拐、殺害の記事、あれも悦子がニキに語っていたまぼろしのことだったのか、あるいは……。
悦子の中の佐知子、妖艶な佐知子を演じる二階堂ふみ氏の、あの当時の自信満々な女の独特のエロキューションにノックアウトされる。娘の万里子はてんで不愛想で、ボッサボサの髪の野生児といった感じで、時に男の子を泣かせたりもするのだが、その時カッとなって万里子を擁護したのは、母親の佐知子ではなく悦子だったというところで、もう答えは出ていたのかもしれない。
佐知子に頼まれて仕事をあっせんしたりと、二人の関係は詳細に紡がれていくけれど、愛する娘のためにあくせく働いていた自分を客観視するために、謎めいた妖艶な女、佐知子を、悦子の中で登場させていた、ということなのか。
佐知子の娘である万里子としての展開において、万里子があまりにも表情も感情も見せず、どこか不気味ともいえる怖さだったのが、思い返しても、なんだかよくわからなくて、というより哀しい、と思った。
突然反転して、佐知子が実は悦子だった、という映像マジックの転換点から、あんなにも不愛想で悦子に心開かなかった万里子が、ニッコニコのベッタリ娘ちゃんになる。悦子もまた、佐知子を投影しているとは思えない、優しいママである。
突然の反転の場面は、渡米が急に決まったと、佐知子が慌ただしく準備していて、万里子が連れて行っていいと約束したのにと、子猫を抱いて抵抗している。
佐知子は、その子猫を、……あぁやだ、書くのもイヤだが、佐知子言うところの、万里子が見てしまった過去のトラウマ、赤ちゃんを水に沈めて殺した女の情景を再現するように、佐知子は箱に入った子猫たちを、川の水に沈めた。
もう、耐えらんない、と思ったら、反転したんであった。耐え切れず飛び出した万里子、探し出したのは悦子だったけれど、母親として、彼女に声をかけた。景子、と。アメリカに行く筈だったのに、イギリス、と言ってる。突然。
えっ、えっ、ちょっと待って、いきなりすぎる。てゆーか、万里子がその前に失踪したシークエンスの、なんか誘拐されたのか、ひょっとしたら言いたくない目にあったのか、というのもほんのり示唆したりして、気になりまくる!!
でも、もう、判らない。長崎、イギリス、そして戦後まもなくと、80年代半ばいう絶妙な昔感覚。80年代のイギリスに生きる悦子を演じる吉田羊氏が、誤解を恐れずに言えば、彼女らしからぬ、あいまいな答弁、政治家か(笑)みたいなさ。
原作の英文描写が、あいまいな描写で問いかけるスタイルだと、先述の優しきレビューアーさんが解説してくれていたので、そういうことなのか。難しいけれども、面白い。そして……戦争は、いつまでも終わらない。★★★☆☆