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「む」


1999年鑑賞作品

ムーンライト・ドライブCLAY PIGEONS
1998年 104分 アメリカ カラー
監督:デヴィッド・ドプキン 脚本:マット・ヒーリー
撮影:エリック・エドワーズ 音楽:ジョン・ルーリー
出演:ホアキン・フェニックス/ヴィンス・ヴォーン/ジャニーヌ・ギャロファロ/ジョージナ・ケイツ


1999/7/9/金 劇場(シネマライズ)
なんなんでしょう、まったくこれは。常にトンがった作品を配給し続けているプレノン・アッシュだけれど、これは、一見トンがっているように見えて、イライラと退屈で死にそうになる映画。友情を盾にとって殺人を繰り返す狂気のシリアルキラーというステロタイプなレスター役のヴィンス・ヴォーンは、予想通りのステロタイプな演技の域に大人しくとどまっててつまらない。主人公であるクレイは役どころからすでに不可解で、最初に正直に告白していればよかったものを、ごくごく弱い理由づけの脅しで、簡単に陥落してしまって、これじゃ「町一番のナイスガイ」とはとても思えませんな。ただ気が弱いだけだろう……演じるホアキン・フェニックスは徹頭徹尾陰気で、カラフルでポップな映像とクールな音楽が(これもどこかやけくそ気味なほどだが……)作品カラーを狙ったものなのだとしたら、彼の演技プランは(あるいは監督の演出は)完全に失敗である。苦悩している中にも、おバカでくだらないところがあるような、愛すべきキャラに工夫してくれれば、きっとヒップな作品になったと思うのに……。

クレイの不倫相手の夫が、あてつけに自殺するところから始まる。使った拳銃も自殺場所の草原まで来た車もクレイのもの。つまりはクレイの計画的な殺人に仕立て上げることで復讐を果たそうというかの男のもくろみだったわけで。そして困惑してこの不倫相手、アマンダ(ジョージナ・ケイツ)に相談すると、自分は未亡人だから、どっちの言い分を世間は信用すると思うのだ、とクレイを脅して事実を隠蔽させる。もうここからして??なのだ。まず、使った拳銃がクレイのものでも、最後についてる指紋はこの男のものであり、ま、百歩譲ってクレイがあとからこの男の手に握らせたという形になっても、拳銃の発射角度と傷の関係で、彼が殺したのではないことくらい、現代の鑑定ではすぐに判るはずなのだ。では、クレイがアマンダの脅しだけに怖じ気づいたのだとしたらこれもおかしい。後に殺されることになるこのアマンダは町の保安官が「淑女とはいえない女だった」と述懐しているし、同じくこの保安官がクレイが町でも屈指のナイスガイだというのが世間的な認識なのだとしたら、どっちの言い分を信じるかなんて、火を見るより明らかではないか。それともクレイがアマンダと同じように、不倫のレッテルを貼られることで世間から後ろ指をさされることを恐れて自殺を事故に見せかける行為をしたのならば、こいつはナイスガイなんかじゃないんである。

そして登場してくるシリアルキラーのレスター。陽気なシリアルキラーというキャラを出しとけば、タランティーノチックになるとでも思っているかのような単純さがこっぱずかしい上に、当然そう簡単にはいかないんである。レスターがクレイに友情を感じて、彼のせいにして殺人を繰り返すという、そのサイコな感じが全くないのだもの。えらく淡白で、クレイに対する執着心がただ口だけにしか聞こえず、せっかくホモセクシュアルなキッチュさが出そうなところが上っすべりなだけに終わってしまって。シリアルキラーと言いつつ、彼の殺人シーンはワンシーンしかなく、しかもナイフを振り下ろす直前にもうカットが変わってしまう。それがどう効を奏しているのかは判らないのだけど、ともかくそのアマンダ殺害シーンの時、彼女が「ママのところへおいで、ボーイ」てなことを言い、その言葉に反応して彼は彼女を殺すわけなのだけど、そしてその後、彼にマザコン的なトラウマがあるらしいことがちらっと言われるのだけど、その要素が、全くいかされないのだ。じゃあ何で、そんな暗示的なことを、しかもまるで気づかれないようにしているくらいにちょっとしか触れないのかが判らず、消化不良のまま終わってしまう。

大体、この邦題からして訳判らんものなー。原題は“CLAY PIGEONS”粘土製標的という直接的意味から転じてか、マヌケとか騙されやすい人という意味の慣用句になっていて、これがクレイの名前と引っかけてある。あるいは役名のクレイのフルネームにもなっているのかもしれないが。そんで、「ムーンライト・ドライブ」とは一体全体どこから出てきたんだ!?月夜にドライブするシーンすらもなく、暗示的な意味も全く汲み取れない。イメージを喚起させるにはあいまいすぎるタイトル。

それと、チラシやポスターに使われているアマンダとレスターのツーショットも解せない。話の1/3も出ていない、最初のきっかけにすぎないアマンダが、主人公であるクレイさえも差し置いて、まるで最重要人物のように扱われているなんて、ジャロに訴えるぞ!?結局は、ある種の扇情的な……恋愛ですらない、セックスの匂いを漂わせないことには宣伝にもならないというのか。なんという陳腐な!主題である、クレイとレスターのアブナイ友情(にはなってなかったけど)を喚起させるものにしてくれなきゃ意味ないでしょう。これじゃ観客の方がイヤな騙され方になってしまっている。観終わって劇場をあとにする観客が皆、貼ってあるポスターのツーショットを見て、首を傾げていたのだぞ!★☆☆☆☆


霧笛が俺を呼んでいる
1960年 80分 日本 カラー
監督:山崎徳次郎 脚本:熊井啓
撮影:姫田真佐久 音楽:山本直純
出演:赤木圭一郎 葉山良二 芦川いづみ 吉永小百合 深江章喜 西村晃

1999/2/20/土劇場(新宿昭和館)
これが「第三の男」を下敷きにした映画だとは知らなかった。赤木圭一郎をこの作品で初めて見る。……うーむ、和製ジェームズ・ディーンにはちと遠いが……。吉永小百合がカッコ付きの新人としてクレジットされていて、ということはこれがデビュー作なのね!だからか彼女の演技はつたないが、でも思い返してみても、こないだの「時雨の記」と対して変わんない演技力だったりして……。やっぱりあんまり上手い人じゃないのよね。

バーで赤木圭一郎に注がれるビールが4分の3以上泡なのが笑える。などとくだらないことに言及しているのは、あんまり面白くなかったからなのよね……というか、赤木圭一郎自体に魅力を感じられなかったんだもの。顔に覇気がないし、喋りも重たいし。バーの歌姫である芦川いづみはそれなりに可愛いが、あくまでそれなり。ま、強いて言えば最初死んでいると聞かされ、実は生きていてヤクを残酷な手段でさばいていた浜崎を演じる葉山良二の方が、ちょっと青っちろい感じはするもののいい感じだったけど。

杉(赤木圭一郎)が浜崎を自分が自首させてみせると言って、どうするのかと思ったら実にストレートに「自首してくれ」と言うだけだというのが笑える。それを拒み(そりゃそうだろ)、警察の手から逃げて窓掃除用のゴンドラに乗ってバランスが取れなくなるあたりはちょっとハラハラしたけど、それもあっさり次のカットで窓から救出しちゃって、早いわ!と突っ込みたくなる。その後、売人側の追手の銃撃に応戦するために銃を抜いた浜崎に勘違いして彼を撃ってしまった杉から逃れ、非常階段に逃げ出したはいいが、たかが腕を撃たれたぐらいで非常階段の手すりを乗り越えて落下するほどバランスを崩すものだろうか……。ま、というわけで浜崎は死んでしまうのであった……うーむ。脚本が熊井啓だというのにちょっとびっくり。山本直純だけあって、全編を彩る渋いジャズ(主題歌除く)がカッコいい。★★☆☆☆


無法松の一生
1958年 105分 日本 カラー
監督:稲垣浩 脚本:稲垣浩 伊丹万作
撮影:山田一夫 音楽:團伊玖磨
出演:三船敏郎 高峰秀子 芥川比呂志 飯田蝶子 笠智衆 多々良純 田中春男 中村伸郎 宮口精二 中北千枝子 有島一郎 左卜全 高堂国典

1999/10/19/火 京橋フィルムセンター
名作として名高いのは同監督'43年のモノクロ版。それは観ていないけれども、これも相当イイでしょう。ケンカっぱやい無学な車引きだけれど、とことんピュアな心根の無法松を、豪快かつ繊細に演じて素晴らしい三船敏郎、早世した夫をいつまでも愛していて、無法松の好意をなんの疑うこともなくまっすぐに受け止める吉岡夫人の高峰秀子、登場シーンは冒頭だけと少ないながらも、無法松、吉岡夫人双方の心のひっかかりになるだけあって、最後まで存在感を残し続ける、吉岡大尉の芥川比呂志は容姿、性格とも男っぷりがいい。

吉岡大尉の忘れ形見を立派に育て上げ、不憫な奥さんを手助けする。無法松にはこんな真心以外、考えもしなかったのだろう。意識下で常に燃えていたであろう奥さんへの思いに対して、きっと無自覚だったに違いない。だからこそ切ない。もう頭に白いものが混じってきた無法松が、ある夏の夜、図らずも奥さんと二人きりになり、彼女の美しさに狼狽し、自分の思慕の念に、今更のように気づいてしまう……そう、あの時に初めてはっきりと自覚したんではないだろうか。真正直な無法松は自分の心を隠しとおすことが出来なくて、でもそんな自分が汚く思えて、触れられるのも触れるのもおびえるように飛び出してしまう。このシーンの三船敏郎、入魂の演技!そしてある冬の日、雪野原に行き倒れるようにして永遠の眠りにつく……この高潔な死!雪の中の死って、ほんとに聖なるものを感じてしまう。「鉄道員(ぽっぽや)」もそうだし。

でも全体としては結構笑わせてくれるのだよね。特に車を引いていた無法松が道の途中泣いている少年を見つけて客をほっぽって面倒を見てやるシーン、画面の右手前で無法松と少年、左奥の隅っこで、豆粒のように小さくなりながら、ほっとかれた客が無法松を呼び返そうと全身を使ってパフォーマンスよろしくバタバタアクションをおこしているのをえんえん映しているワンカットは爆笑もの!このお客は有島一郎だったかなあ?まわりを固める脇の中でも一番笑わせてくれる。無法松の、これは多分親友なんだろう、吃音の男や、無法松の母親のような、彼の心根の良さをよーく承知しているおかみさんが印象的。

ああそれにしても、三船氏、めちゃ良かった、カッコ良かった。いやー、これぞ、男!でしょう。少年の連れてきた学校の先生に見せるために、彼が飛び入りで叩く祭り太鼓、蛙打ちから乱れ打ちから、力強く見事なばちさばきをみせて、観衆からも拍手喝采、ほんとこの時の三船氏ときたら、半裸になり、たくましい腕を振り上げて、全身ものすごく楽しそうに打ちまくって、もう見惚れてしまうカッコ良さ。こういう使える筋肉のつきかたした体の人って、なかなかいないんだよね。特に今は全然見ないよなあ。

いや、ほんとに三船氏、良かった。彼はその体躯からくる存在感が圧倒的だから、演技力は二の次みたいに言われがちだけど、そんなこと絶対ない!ぼんぼんと呼ばれるのを嫌がるようになった少年を吉岡さんとでも呼んでくださいと夫人に言われて「……なんか他人様みたいじゃのう」と戸惑ったような寂しい表情を見せるところなんか、ふと胸をつかれてしまう。

無法松の死後、彼の荷物の中から夫人と少年のために貯えられた貯金が出てくる。鳴咽する夫人。あの夏の日に夫人は無法松の思いのたけを知ったけれども、でもやっぱり最後まで夫人にとっての無法松は、もちろん親子にとってかけがえのない大切な人ではあったけれど、それ以上でも以下でもない、亡き夫の代わりにはなれない存在だった。彼女もまたずっと夫を思い続けているから。無法松も吉岡夫人も、純粋一途な愛情を曲げられない。だからこんなに切なくなってしまうのだ。★★★★☆


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