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ホーホケキョ となりの山田くん
1999年 104分 日本 カラー
監督:高畑勲 脚本:高畑勲
撮影:奥井敦 音楽:矢野顕子
声の出演:朝丘雪路 益岡徹 荒木雅子 五十嵐迅人 宇野なおみ 柳家小三治 ミヤコ蝶々 中村玉緒 矢野顕子
多分エピソードの積み重ねから来る印象の散漫さが、普段やたらと起承転結でまとまった映画を観慣れているせいで、最初そうした感覚を持ってしまったのだと思うけど、そう思ってしまった自分が、ああ、いわゆる既成概念にとらわれてしまっているのだなあ、と恥ずかしくなる。映画はその、既成概念がないところが魅力なのに、いつのまにか頭が固くなってしまっている。だって、これはもうこの、水彩画タッチの手法からして他の何にも似ていないのだから、そのらくーな姿勢で観なければ、せっかくのチャームを取り逃してしまうのだ。
中は確かにエピソードの積み重ね。柳家小三治の渋い語りの俳句がいくつかのエピソードに添えられている。しかしまず私たちの前に展開されるのは、いきなりのスペクタクル!?どんな題材でもちゃんとお得意の飛行シーンを見せるあたり、さすがである(ま、「もののけ姫」は飛びはしなかったけどね)。山田くん=たかしさんとまつ子さんの披露宴で挨拶しているという設定のミヤコ蝶々の語りが素晴らしい!素晴らしすぎる。結婚生活の、そして家族の素晴らしさをいろいろなシーンにたとえながら、ミヤコ蝶々の味わいある語りに乗せて描く胸のすく冒険譚。それはその後におこるさまざまな小さくておかしくて、だけど心に染み入る様々なエピソードを、人生讃歌、家族讃歌として前もってきちんと肯定していてくれる。なんだか、この語りだけでちょっと涙モードに入りそうですらある。
いしいひさいち氏の原作から一歩、二歩すすんだ、高畑氏の結末のつけかたがとてもいいのだ。いしい氏だって、実はこんな優しげな続きがあるだなんて思いもよらなかったんではなかろうかと思われるほど。雨の日にお迎えを頼んだたかしさんが逆に「バラ肉300グラム」を頼まれ、「バカヤロ!」と電話を切る、原作はそこで終わっているのに、映画では律義に肉も買ったたかしさんをまつ子さんと子どもたちが迎えに来てくれる。あー、なんだか泣きそうになってしまうのだ。そして入院した友人を訪ねていったおばあちゃんのしげさんが、他の見舞い客の不倫関係やら、食堂のうどんやら自販機のコーヒーにうんちくをかたむけるその友人に「それで、あんた一体どこが悪いんや」と問いかける。原作はそこで終わっているのが、映画ではその友人に一言、悲痛な叫びにも似た「……しげちゃん!」という泣き声を聞かせる。……これは、ひどく心が震えた。この家族自体に死の影を忍ばせるわけではないけれど、家族で暮らしていればいずれは来てしまう、この死の問題を、原作からはみ出したたった一言で表現してしまう高畑氏、そして声の中村玉緒さんに舌を巻く。
ちょっと見るとこの山田くん=たかしさんは、世間で言われる疎外された父親に見えなくもない。……でもやっぱりちょっと違うのだ。それはこのたかしさんを、まつ子さんも、子どもたちも、まつ子さんのお母さんであるしげさんも、ちゃんと“見て”いることである。父親として、一家の大黒柱として“立てる”よりも、これって凄く大事なことなんじゃないだろうか。いつだって視線の中に入っている、存在している、意識せずに当然のメンバーとして。とかく出来ていないと言われがちな親子の会話もちゃんと出来ている。それが味噌汁にご飯を入れるか、ご飯に味噌汁を入れるかという話題でも、いやだからこそ素晴らしいのだ。くだらないことで言い合えるほどの絆の深さ。とかく言われがちな夫婦の対話もちゃんと出来ている。それがチャンネル争いで見せる壮絶なアクションバトル(これは大爆笑!)であっても、いやだからこそ素晴らしいのだ。こんなくだらない争いを大まじめにやれるほどの絆の深さ。信頼しあっている、などと気障な言葉をわざわざ言う必要もないほど、ちゃんとつながっている。私たちの家族でそれが出来ているだろうか?凄く、うらやましい。
のぼるくんが振り回されてしまう男っぽい喋り方をする同級生の女の子がちょっとお気に入りである。この二人はけんか友達というか、くされ縁みたいに描かれているんだけど、やっぱりなんだか淡いものを感じてしまうのだ。……この男言葉だからこそ、逆に可愛らしく感じてしまう、この女の子。
それにしてもこの画のタッチ、心地よく観てしまうけれど、よーく考えてみると、やっぱり凄まじく凄い。はみ出し加減の色合いの水彩画が、筆の描線が柔らかく動いてしまうというこの凄さは、まさに革命である。ま、でもその技術の凄さを宣伝材料に使うのはどうかと思うけど。やはり、その努力を声高に言わずに、その出来上がったものの魅力だけで感じたい。そしてこの「テキトー」な家族たち、そしてそして矢野顕子の明るいのに涙が出てしまう名曲!な主題歌(ラストに聞くと、なんだか泣けてしまうのだ)はもちろん、彼女の手がけた全篇の音楽……「もののけ姫」よりも、世界に見せたい日本世界だ!そう、こういう日本の良さを世界に見せたい!……うーん、やっぱり、時間がたつほどに、やっぱりいい作品だなあ、と思えてくる、不思議。★★★★☆
しかしこの父親、ゲイのようでもあり、ゲイではないようでもある。ゲイとかストレートとかいうことすらも意識にのぼらず、彼自身足場が固まっていないように見える。欲望すらもおぼつかなく、欲望があったとしても、それをどう振り向けていいのか判らないのではと思わせるような。それは他の家族たちの固まらなさとはちょっと違っていて、例えば息子が試しに自分はゲイだと言ってみたり(ほんとに試しに言ってるみたいなんだもん)、娘が試しに窓から飛び降りて下半身不随になってみたり(ほんとに試しに飛び降りたみたいなんだもん……)、母親が試しに長男と寝てみたり(ほんとに試しに寝てみたみたいなんだもん…………しつこい)、一応はなにか行動を起こしているのに(かなり間違った行動だけど)彼はそれすらもしない。彼がするのは、ネズミをレンジであっためて食べてみることくらいである(げげげ)。
冒頭に示されて、てっきりそれが悲劇の結末となって突っ走るのかと思われた、彼が銃をぶっ放して家族を殺戮する場面も、ただの悪夢、幻想だったことが示される。彼は固まらない粒子のまま漂い、食ったネズミに簡単に支配され(彼の中に固まった意志がなかったことの顕れか?)、巨大ネズミとなる。そして家族に襲いかかるところは、あるいは彼の中の漠然とした願望がようやく具現化されたというところだが、下半身不随になった娘にグサリとやられて昇天する。フリークス同士の、しかも親子の殺し合いというブラックさ。
このアホウな家族の中でも際立った存在感を放っているのが、この自殺し損ねた娘で、その中空を見つめている瞳や、小さな前歯、白い肌、何を言い出すか、やらかすか判らないところなど、ちょっとだけ葉月螢をほうふつとさせる。車椅子生活となってからも、依然としてそのふてぶてしい態度は全く変わらず、また思いつきのように天井からぶら下がっている首吊りロープに(なんで当然のごとく下がってるんだ!)首を突っ込んでみたりする。そこに帰ってきた長男と、その姿勢のまま、普通の会話を交わす。しかし娘も娘なら、その姿を見て少しも動揺しない彼も彼だが……つまりいつものことということか。しかし何か、その“思いつきのような自殺”は判るような気がしないでもないけど。自殺の実験じゃないけど、なにかそうした好奇心のようなものというか、あるいは死の持つ甘美さというか、そこまで積極的ではない、芥川龍之介の言っていた「ぼんやりとした不安」なのか、「幻の光」のようにふらふらと誘われるものがあるのか……いずれにせよ、自殺とはいつでも強烈な死への逃避行というわけではない気がするのだ。
奇妙な乱交パーティーに参加する人たちが現れるたびに鳴らされるドアチャイムが、非常にコミカルな音を立てる。その音がそのままこの作品の空気を物語っているような。この家族を見守るかのようにネズミが登場するけれど、彼(?)の持つ、俯瞰的な乾いた視線のイメージが、この音にも込められている気がする。
車椅子に座っていた娘もまた、松葉杖ながらも立って歩き、父親の墓の前に全員集合して明るい笑顔を見せるところで終わる。彼らにとっての内面の凝固材が、この一家の大黒柱(であったと思っていた)男の死によってもたらされたということ……家族の、そして人間の位置づけの何という不安定さ。可笑しさ。★★★☆☆
初めての原作ものなのだという。不勉強ながら私は読んでいないハーマン・メルヴィルの『ピエール』。しかしまるでカラックスのために存在するかのような、彼が前世に書いたかのような物語世界。危うい血のつながりに常に揺り動かされ、そしてじりじりと堕ちていく。“深く、もっと深く、深く降りて”ゆく。監督言うところによると、これまで描いてきた三作、ボーイ・ミーツ・ガールな物語のヒロインたちも、みな魂の“姉妹”という意識で描いていたのだという。自分の半身、それは他者にはとうていつとまり得ない。判る気がする。夫婦は結局は他人といって、子供との血のつながりを重視してしまうようなところが人間にはある。だったら最初から運命の相手は血がつながっている方が……しかしこれは袋小路。人間の発展の輪はそこで完全に閉じられ、二人手を取り合った時、その重力は上に飛翔することはない。重く重く堕ちていくしかない。
文字どおり“城”に住み、富裕な財産によって何不自由なく暮らす美貌の青年、ピエール・ヴァロンブルーズ(ギヨーム・ドパルデュー)。アラジンの名の覆面作家という顔を持ち、近々結婚する可憐な婚約者、リュシー(デルフィーヌ・シュイヨー)がいる。何も落ち度はない、と思いかけたところに、ピエールが母親(カトリーヌ・ドヌーヴ)をファーストネームのマリーと、しかも慈しむように呼びかけているのに遭遇しておや、と思う。城に帰ったピエールとマリーは優しくお互いを愛撫しあいながら時を過ごす。おやおや、と思う。マリーは母親というには美しすぎる。ピエールの前で豊かな胸をはだけてしどけなく風呂につかっていたりする。実際的な行為はしてないにしても、少なくとも母親はピエールを息子の範疇からそれて愛しているし、ピエールもそれを不自然だとも思っていない。おやおやおや、と思う。
そこに現れた長い黒髪の女(カテリーナ・ゴルベワ)。ピエールの視線をかすめるように、たちのぼるようにして現れる彼女は、全編を通してだけれど、特に前半はその黒髪や闇の中に顔が隠れてよく確認できない。なにか、ゾッとする。ピエールは自分の中のデ・ジャ・ヴュに引っ張られるようにして彼女を追う。暗い森の中を追う。ここは、照明を使っていないのだろうか。暗闇の中を、やっと体の輪郭が確認できるほどの二人が駆け抜けてゆく。追いついたピエールに彼女は言う。「私はあなたの姉のイザベル」だと。なぜかホラー映画なみに怖かった……そう、俺はお前だよ、とそっくりな自分に言われた男の話、なかったろうか、あんな感じの戦慄。
森の茂みとその暗闇は、なにか性的な暗いエネルギーを突きつけてくる。彼女自身のうっそうと覆われた長い黒髪も。どこか呪われた運命の、しかもその中でもセクシャルな部分を。後半に出てくるピエールとイザベルの愛し合うシーンも、暗闇の中、目を凝らしても見えないくらいの輪郭の断片で描出される。婚約者、リュシーとの場面では、まばゆいくらいの光のもとで、真っ白なシャツがその光に発光していた。ピエールとリュシーの金髪も輝いていた。でも、ピエールとイザベルは常に闇の中だ。しかも、底無しのようにどんどん堕ちてゆく。ピエールとイザベルが身を寄せることになる、前衛バンドをしながら武装訓練をしている集団(!)が潜伏する廃虚。そこでピエールは、子供の死など、暗い出来事によって、何度となく急くようにらせん階段を駆け下りてゆくこととなる。その降りていく回数が増えるたびごとに彼らのいる位置はより一層深く、深くなっていく……そんな気がしてならない。
ピエールが出ていった後、母マリーは突如としてバイクにまたがり疾走する。その間の彼女の変化は何一つ語られることなく、おそらくは相当放心状態だっただろうが、まるで何かに憑かれたように夜の暗闇の中を暴走する。……夜の暗闇の中を!ピエールが見つけてしまった血の暗さを、血のつながりを通じてマリーもまた受け取ってしまったかのように。バイクはクラッシュし、道路に仰向けに倒れたマリーに向かってスピンして近づいてくる。このシーンの戦慄することときたら……。ピエールがリュシーと結婚していたなら、彼女にとって問題なかった。血を分けた運命の相手としての地位は揺るぐことはなかった。しかし、ピエールが姉であるイザベルを選んだことで彼女の存在理由は唐突になくなってしまった。富も名誉もある暮らしの中で、しかし彼女はピエールによってのみ生きていたのだ。
血のつながりといえば、ピエールの同胞であり、良き理解者のはずであったもう一人のヴァロンブルーズ家の末裔、ティボーもまたそうなのだけれど、彼はピエールがリュシーもマリーも家も捨てていってから一変、彼を排除する。運命の相手とともに堕ちていった、ピエールに対する嫉妬かもしれない。彼は結局ピエールに頭を吹っ飛ばされて、死ぬ。ピエールの立場は究極のものだ。それを脅かしたり揶揄するものは、いらない。ピエールはもう堕ちることはない。堕ちきってしまったから。彼が書きなぐるようにして執筆していた小説は完成したのだろうか……。
ピエールとイザベラが血の海の中でおぼれる場面などはまさしくそれだ。血の呪い。血は、一方でセクシャルな、エロティックなものをも喚起する。血とともに生まれいずる人間の、そして性の歓喜の時の女性の膣の感覚。血にまみれたホラーやサスペンスがどこかエロを思わせるのはそのせいだ。むしろ血のつながりをこれほどまで執拗に描出しているのは、こちらの血の感覚を強調しているのかもしれない。
これがカラックスの心の中の真実。これほどの痛みに嘘がありようはずもない。私は好きになることはできない映画だけれど(この場合の★★★☆☆の評価は「普通」ではなく、好きにはなれないから★★★★☆以上はつけられない、ということ)。カラックスは映画を作り続けなければならない……どんなに寡作になっても……そうしなければ、たまる一方の痛みを映画に分け与えなければ、彼はきっと死んでしまう。★★★☆☆
そうだ、……ツァイ・ミンリャン監督が、こんな作られた時間設定をつくるなんて、ちょっと驚きなんである。とはいえ、まだその前には三作品しかないけど、その三作でミンリャン監督の絶対に動かない根幹の部分の作家性が確立されていたと思っていたから、そこから考えれば、ちょっと信じがたいのだ。そしてもっと信じがたいのは、突然ミュージカル!という展開。ヒロインの心象風景なのだろうか、しかし、最後まで違和感ばかりがつきまとう。まるでその作品の中にしっくりとなじまず、生きてこないのだ。この歌や踊りによって、一体何を表現したいのか……ああ、ほんとに、それ以外はまさしくミンリャン監督の真骨頂なのに。泣きたくなるほど孤独でどうしようもないけど、その辛さがいとおしくてたまらない、だから、それをジャマして何の実にもならない(私にとっては)ミュージカルシーンに首を傾げてしまう。
ほんとは、プレノン・アッシュ配給と知った時からその違和感はつきまとっていたのだよね。ウォン・カーウァイ独占配給に象徴されるような、先鋭な情報発信的映画、ま言ってしまえばちょいとおしゃれなシブヤ系映画を配給してきたプレノン・アッシュが、ツァイ・ミンリャン監督作だなんて……と。「愛情萬歳」は知らないけど、前作の「河」はユーロスペース配給で、「青春神話」は大映配給だったけど、やはりユーロスペース公開だった……それは非常にうなづけたのだけど。このミュージカルシーン、ミレニアムを視野に入れた設定、ラブストーリーということで触手が動いたのだろうか、宣伝展開もそれっぽく、リー・カンションのファンクラブを結成してみたり、ヤン・クイメイの劇中のカリプソ・ダンスをパパイヤ鈴木に習おう企画を立ち上げてみたり、おーい、違うだろう、てな扱い方なのだ。チラシデザインもイメージイラストで、それは作品の“イメージ”どころか何も伝えてこないただおしゃれっぽいだけのものなのも気になる。
そしてそれ以上に気になるのが、タイトルだ……これは、映画祭出品の時に使っていた英語タイトルなのかなあ、どちらにしろ、原題は「洞」これまで「愛情萬歳」「河」と、ちゃんと原題通りの(「青春神話」はちょっと意訳の日本語タイトルだったけど)公開をしてきたのが、ここにきてプレノン・アッシュの宣伝展開に沿ったとしか思えない公開タイトルになってしまった。違和感。「洞」ってことは、この公開タイトルである「Hole」……のぞき穴のことではなく、ほら穴、洞窟とか、そういう、閉じられた空間のことでしょ。もちろんこの上階と下階にあいてしまった穴が重要な役割を果たしているわけだけど、監督が注目しているのはやはりその孤独感をあおる洞窟の方なのだと思うんだけど……こののぞき穴の方をタイトルにしてしまうところが、この作品をラブストーリーとしてとらえている(としてしかとらえていない、と言った方が正しいか)姿勢がありありなんだよなあ。それとも台湾では“洞”ってこういう穴のことをさすのだろうか。
もう、雨漏りどころじゃない雨、雨、雨。騒音になるほどうるさいどしゃ降り。ほんと、水圧のカーテンのよう。いや、実際そうした意味も含まれてるんだろう。外界との遮断。だって、ほとんどこのマンションとあとは男の経営する店付近しか出てこないんだもの。あとはテレビからこの世紀末のニュースが流されるだけで。壁紙はずるずるはがれるし、水吸い取り用のぼろ布はおきっぱなしでじくじくと水をたたえているし、ほんと、見ていていい加減イヤになってくる。水には伝染病菌が蔓延し、特にこの一帯にはゴキブリ病が蔓延している。……うっわ、ゴキブリ病!もう、ほんとゴキブリしかこの状態は歓迎しないだろう……この伝染病にかかってしまった人たちは、まさにゴキブリのごとくはって歩き、光を恐れ、暗くて湿ったところに逃げ隠れる……うー、もう、ほんと、イヤ!立ち退き要求をされても、他に行き場などない……知り合いも友人もいないといったこの界隈の人々は、窓からゴミはガンガン捨てるわ(マンションの通路を歩いてると、上から始終ゴミ袋が降ってくる)で、ナゲヤリ状態。そう、このマンションの通路に、ずらりと並んで消化器が設置してあってなんだか可笑しい……いらないだろう、こんなに雨が降ってちゃ。この湿気で火事を起こそうというのすら無理な気がする。
ほとんど神経質気味にちり紙を買い続け、部屋に山盛りにしている下階の女、彼一人だけがいまだ営業を続けている食料品店を経営する上階の男。ある日、まったく唐突に二人の間を分けていた床=天井に空く穴。水道工事人が空けたまま帰ってしまったというが、そんな描写、あったかしらん。最初のうち、この穴は二人の戦いの穴である。上階の男はこの穴に向かってゲロを吐くし(凄いリアリティのある吐き方でもんのすご気持ち悪い)、下階の女は殺虫剤を撒き散らす。二人はそれぞれが孤独だが、その孤独のままにいたいのだ、最初のうちは。ふたりども何かというと湯を沸かし、カップラーメンを食べる。ほとんど似た者同士。上階の男がヤカンに水を溜めている間は、下階の女の水道が出ないなど、知らず知らず互いが一対になっている描写に気づく。
風邪かと思われた症状で寝込んだ彼女がふと気づくと、部屋にはこれまで以上にひたひたに水が浸食している。泣き叫ぶ彼女に胸がつまる。それは、一見すると水に対する不安や恐怖から泣いているようにも見えるが、いや、違う!彼女の孤独が、ここに来て一気に噴出したのだ(ああ、「愛情萬歳」のラストの彼女を思い出す!)……ついにゴキブリ病にかかってしまう彼女。床をはいまわり、山と積まれたちり紙の中へとゴソゴソと入り込む。そのことに気付いた上階の男、これまた泣き叫び、穴をガンガン叩く。穴はだんだんと大きくなる。叫ぶ。そして男の声が届いた時、彼女はゴキブリ病を脱するのだ!
ゴキブリ病とは、あるいは孤独の病だったのかもしれないな……と思う。穴から男がコップに入れた水を差し出す(ここの場面はもっぱら彼女側で、男は腕だけが映っている。それがいい!)。それを飲み干した後、彼は彼女に向かって手を差し出すのだ……アホな私は、コップを返してもらおうとしてるのかいな、と思ったが、違うって(笑)。あるいはほんとはそうだったのか??(笑)。とにかく、女はその手につかまって、上階へと引き上げられるのだ。もう、名場面中の名場面。これだけで、すべての不満を払拭してもいいくらい!暗い彼女の部屋を穴からの光が、ほんと天からの一筋の光明のように照らし、高みへと引き上げられるこのシーンには、本当に本当に胸が熱くなってしまう。
実はだから、ここで終わって欲しかったんだけど……そのあと、そのくだんのミュージカルの駄目押し、彼と彼女が見詰め合ったダンスが繰り広げられるのだ……うーん、でも、それまでのミュージカルシーンよりは功を奏してるし、なかなか可愛らしくていいんだけど、でもやっぱり、その前、あの名場面で終わってくれた方がもっと良かった、絶対良かった。
世紀末の伝染病、ということで、ふとレオス・カラックス監督の「汚れた血」を思い出した。あれもまた、愛のないセックスによる伝染病という設定で、やはり孤独感を煽っていたのだよね。そして、ハレー彗星が地球に近づいているため夜が暑い、という設定だった。本作でもちょっと気がついたのが、登場人物(といってもほぼこの二人だけど)が完全に夏の格好をしてるのだ。2000年まであと7日という設定ということは、季節は冬のはずなんだけど、降ってるのは雨だし、なんだか見るからにジメジメと蒸し暑そう。世紀末で、暑くて、孤独で、その孤独を反映したような病気が蔓延する都市……そして救われる方法は孤独ではなくなること。……愛。
ところで、リー・カンション、ツァイ・ミンリャン監督作では何でいっつもランニングにブリーフなのかなあ……しかもあのガフガフのブリーフ!……正直、毎回、やだなあ、この格好……って思ってるんだけど(笑)。なんでも、リー・カンションはミンリャン監督の“同志”で“永遠のパートナー”なんだそうで、えっ、ということはもしかして、彼らはゲイなの?だから、ああいうしどけない姿を撮りたがるのかなあ(笑)。誰か知ってる人いたら、教えて!★★★☆☆
幼なじみでゲイの三人が肩寄せ合うようにして共同生活をしている。広告プランナーのホイ(ラウ・チンワン)、売れない俳優のガウ(エリック・コット)、脚本家のファー(ウォン・ジーワー)。そしてホイがゲイだと判っていながら積極的に近づいてくるやり手のキャリアウーマン、フクメイ(ン・シンリン。生成りのオフホワイトでフェミニンないでたちがよく似合う美人!)。ホイはプレイボーイを自認していて、男との別れ話の尻拭いをガウにさせる始末、ファーは恋人との仲が不仲になり仕事も上手く行かず荒れて、これまたガウに迷惑をかける。ガウは役者としての誇りはやったらあるものの、ま、はっきり言ってしまえば大根役者で、それでもめげることなく、二人の面倒をよく見るイイ奴。で、“大根役者”を演じるエリック・コットが大根役者などであろう筈もなく、一生懸命で友達思いで、強くて、弱くて、もう、どうしようもなく愛しいのだ。
ガウはゲイゆえに父親と断絶状態にあり、弟、妹が彼を慕ってこっそり会いに来るも、猛り狂った父親がつれ帰りに来る。「お前のせいでわしは世間に顔向けが出来ん!」ガウは叫ぶ。「僕がホモならあんたはホモの父親だ!ホモの父親!ホモの父親!」思わずガウの頬を殴り、気まずそうに行ってしまう父親の車に向かってなおも叫び続けるガウ。「どうしようもない、生まれつきなんだ!」……悲痛な叫び。他の二人も似たような状況にあるのかもしれないけど、彼だけことさらその家庭不和が描かれるのはなぜかというと……
ガウはエイズポジティブの診断を受けてしまうのだ。恋人も今までいたことがなく、「ハメをはずすのは年に2、3回だけ。そう簡単にエイズにはならない」と思っていた彼は愕然となる。今まで自分の事で悩んでばかりで、彼に精神的な面で頼り切っていた二人が、その診断書を見つけてしまう。沈痛な面持ちでガウを出迎えると彼、「盗み見は駄目だぞ」と、二人の座っているベッドにわざとおどけて逆立ちから倒れ込む。泣きむせぶ二人……。
その診断を受ける前だったか、ガウはテレビ出演することになる。ゲイの立場から発言する、しかし顔は簾で隠されている。「爬虫類が好きな人やなんかでも堂々と生きて行けるのに、ゲイだけは顔を隠さなければならない」そして、自ら簾から出てきてカメラの前に姿をあらわし、「僕は化け物じゃない、普通の人間です」と声高らかに宣言するガウに見に来ていたホイとファーの二人、そして会場全員から大きな拍手。しかしそこでガウは倒れてしまう。彼を介抱するホイにガウは息も絶え絶え「生放送だ、君たちがゲイだってバレてしまう」「かまうもんか」とホイは言うものの、その通りになり、ゲイだということを仕事場で隠していたホイは、辞表を提出してしまう。
確かにその時の同僚の視線は冷たいものだったけれど、上司は彼を引き止めたそうだった。彼はここでふんばり、ガウのようにゲイである自分を恥じることなく、堂々と居残るべきだったのかも。そしてきっと今だったらもっと状況は違っていたのかもしれない。これは1994年度作品。「フィラデルフィア」でトム・ハンクスが、やはりエイズにかかり死んでしまうゲイの役を演じたのが1993年。エイズが出てきたことで、そしてエイズがイコールゲイの病気だという認識が流布していた時であり、それ以前よりももっとゲイへの風当たりが強かった時期だ。今でも特効薬、有効治療こそ確立されてないものの、エイズ=即、死ではないし、エイズ=ゲイの病気でもないということが判ってきている。この時期のゲイたちが一番辛かったのだろうと思う。
そう、エイズはゲイの病気とされていた時代に、そして不治の病だった(これは今でもまあそうだけど)エイズにかかってしまったガウ、彼のためとことさらに銘打ったわけではないけど、三人と、フクメイ、そして旧知の仲間を集めて仮装パーティーが開かれる。パイナップルの格好をして「パイナップルライスだー!」などとビデオカメラに向かってはしゃぐガウ。そしてソファにガウを中心にしてみんなが集う。「本当に楽しかった。ずっと仮装パーティーをやってみたかったんだ。みんなのこと、ずっと忘れない」思わず涙を流すガウに、ホイもファーも、そしてその他のみんなもたまらず泣き出してしまう。ここが最大の落涙ポイントかと思いきや……。
ガウはガス自殺をはかってしまうのだ。悲嘆に暮れるホイとファー、そしてもう一人の旧友があの仮装パーティーのビデオで陽気なガウを見ていると、そのビデオの終わりにガウの遺言が収められているのだ。思わず身を起こす三人。「このまま枯れて、醜く死んでいくのがいやなんだ。ガス自殺は死体がピンク色でキレイなんだって。ホイ、フクメイはイイコだ、お前にぴったりだ。大事にしろよ。俺が女でもお前の女房はゴメンだ。ファー、あんまり悩むな」と最初は笑って言うも、次第に泣き笑いに変わっていく。「……でも死ぬのは怖い。……仮装パーティー楽しかった。みんなのことずっと忘れないよ」同じセリフなのに、ここで一人ビデオカメラに向かって言ったガウの事を考えると、もう胸が痛くて、泣かずにはいられない。この時のエリック・コットはまさしくベストアクト、いつもいつも明るくふざけているような、でも面倒見のいい女房役だったガウの見せる泣き笑いの表情がたまらない!
ガウの遺言にしたがって、旅に出たというフクメイを追いかけるホイは、バスターミナルで偶然同僚に出会い、彼との言い合いから、彼女に本当に惚れてしまったことを大声で言ってしまう、と、と!そこにフクメイが!ガラスの向こうで嬉しそうににっこりと微笑む彼女とやり取りするジェスチャーでの会話と、何回もするガラスごしのキス、画面の外で本物のキスをしているであろう二人を予想させながら、ガラスに残ったフクメイのルージュのキスマークを画面にとらえたままエンドクレジット。三人の中で一番メインであるホイが最後にストレートになってしまう(フクメイに対してだけだが)という幕切れは、まだまだゲイに対する偏見のあった時期ゆえかなあ、という気がする。多分、ゲイの人は、こんなこと絶対ないと言うんじゃないかなあ。ストレートの人に置き換えて考えればそれはすっくりと理解できることで。
前半のエピソードで、まだ自分がゲイだと明かしていないホイにフクメイが、ガウがホイを好きなのではないかと尋ねると「あいつはゲイだけど、理解しあっている親友同士なんだ」みたいなことを言い、それに返してフクメイが、「『金枝玉葉』の関係ね」と返すのが、言い得て妙!と思ったが、ゲイだということを隠していながらもガウとの関係をそんな風にホイが言ったことは女性を好きになる結末に対する伏線だったのかも……。ホイはつまりは真正ゲイではなかったということか。それで本物の相手にめぐりあえずに男をとっかえひっかえしていたのか。ガウがそのたびに尻拭いをさせられ、その心の奥で、ホイの本物の相手になりたがっていたのではないか。
最後までゲイである自分をさらけ出したガウが死んでしまって、ストレートになった(で、あったと言うべきか)ホイの明るいハッピーエンドで終るというのはほんと、そのゆがんだ認識を持っていた時代を象徴している。あのビデオの中でガウは「心残りなのは一度もデートをしたことがなかったこと」という。笑いながら言ってるけど、心に突き刺さった。ファーは別れたとはいえ恋人がいたし、ホイはゲイとしていろんな男を袖にしたプレイボーイ、そしてフクメイと結ばれた。やっぱりガウはホイが好きだったんじゃないかな、と思うのだ。ホイにつきまとう男を振り払うために彼の女房役ばかりやらされていたガウだけど、役者として演じているんだ、という隠れ蓑の下でガウはなんだか嬉しそうだった……。★★★☆☆
相変わらずひっついてくるユーロンに扮するコハルことチャン・シウチョンがやっぱりいい!レズの女の子、オーに恋してしまって(「ダウン・タウン・シャドー」ではあっという間に死んでしまったテレサ・リー。可愛い!)「20年間一緒にいた君ともお別れだ。でも君を嫌ってるんじゃない、彼女が君を嫌ってるんだ」なんて言うから、えええ?全くの友情でウィンと結ばれてると思ったのに、彼女のことが好きだったわけ?と思ったら、なんとすね毛のことだった(笑)。むだ毛処理して、はては女装までしてオーに恋焦がれるユーロン。これほど女装の似合わない人もいないが、女装したとたんユーロンと関係してしまうオーも凄い。この女装するに至るまでユーロンは何とか男である自分に振り向いて欲しいとかき口説くのだけど、全く落ちなくて、挙げ句の果てには「半分だけでいいから」と(しかもベッドに二人で座っている時に!)言う始末。オイオイ、半分だけってなんだよー!オーも「半分だけって、何よ」と笑いながら聞き返すと、「ベッドに一緒に入ってただ寝るだけ(ジャスト スリープ)」と来たもんだ。そういう意味じゃなかったろうに(笑)。このオーという名前が可笑しくて、彼女を呼ぶときにみんな声が裏返り「オー、オー!」というものだから、なにか別のことを想像してしまう。フォンが街を去る時、あっさり彼と別れてしまったオーだけど、いざ船で街を去る時に「なんで寂しいのかしら」と言う。自分では気づかないうちに彼を好きになっていたのだと思う。でも、オーとフォンは最終的にいつまでも一緒にいる伴侶なのだろうな。
どーう見たってやっぱり女の子にしか見えないウィンに扮するアニタ・ムイ。フォンに惹かれていく自分に戸惑いながら、彼女にサムのことを相談するウィンの泣き顔はフォンならずとも胸をかきむしられるほどの切なさ、可愛さ。フォンの言う“白ウサギのような純真な少年”というのがまさしくウィンのことを言い当てている。ウィンに惚れたフォンの気持ちはウィンが女の子だと判った後も変わらず、「あなたが男でも女でも愛している」と前作のレスリーの台詞をそのままいただいて熱烈なキスシーン(劇中映画の撮影の中で、しかもウィンが女装(?)フォンが男装をして)を披露!ウィンも、サムとフォン、どちらも本当に同じくらいに好きなのだと思う。彼女が最終的にサムと元のさやに戻れるのは、フォンが身を引いたからであって、あとほんの少し、彼女に対する気持ちの方が勝っていたら、ウィンはフォンを選んだんじゃないかなー。と、そう思わせるほどきっちりとフォンとの愛情を描いているのが嬉しい。そうでなければこの種の物語は、同性愛がキワモノだと主張しかねないものになってしまうもの。そのへんをさすがチャン監督は判ってらっしゃるのだな。
部屋の模様替え(というより内装工事)に来ている若い職人二人が、サムが通るたびにヘンテコな踊りで行く手を阻むからなんなんだ??と思ったら、「同性愛者に励みを与えてくれたあなたに対する感謝の気持ちを踊りにしていた」って、何だそりゃ!この二人といい、冒頭のオーディションに出てくる、サムに色目を使う男性といい、結構同性愛をおちょくっている描写があるにもかかわらず、それがギリギリ嫌みにならないところで踏みとどまっているのは、先のキッチリ描いている部分があるから。
前作のラストに対応するように、今度はサムがウィンを追いかけて走る走る!今しもアフリカに旅立とうとしている彼女を捕まえ、目と鼻を真っ赤に泣きはらしているウィン(めっちゃ可愛い!)をかき抱き、「結婚しよう」と言うサムの目にもまた涙が……。かなりお決まりのハッピーエンディングな台詞だけれど、二人の泣き顔にグッときてしまう。この時の、ウィンを口説くサムの、開いた胸元が色っぽいんだ。★★★☆☆
言わずと知れたベストセラー短編集の映画化。この中の様々な作品が争奪戦になったと聞くが、先に公開されている「ラブ・レター」が私の中では大コケで、原作ものを、それも短編を二時間の映画に成功させることの難しさを痛切に感じたので、今回も正直危惧していた。私の苦手なタイプの監督さんだし。ただ、高倉健、大竹しのぶ、広末涼子の三人の名前を聞いた時、これはイケルんじゃないかという思いがわいた。さらに予告編が流れるようになり、ネタばらし(涼子ちゃんふんするユッコのゴーストが健さん扮する乙松に「お父さん」と呼びかけているシーン……これは最後に明かされて感動モードを盛り上げる一要素だから……)しているのが少々気になったが、その予告編を見ただけで不覚にも落涙しそうになったのでその確信はますます強くなった。
そしていよいよ公開。初日の前日、舞台挨拶を待つ人々(ほとんどが涼子ちゃん目当ての青年たちだったが……)でまわりを取り囲まれていた丸の内東映、いつもはガラすきのこの劇場が整列入場をさせている驚き!本編が始まる前に鉄道員(ぽっぽや)関係の宣伝……本とか北海道への旅行とか……をやたらと流していたのが鼻についたが、本編が始まったとたんにそんな気分は吹き飛んだ。
まず、雪景色である。その中を突っ切る蒸気機関車のショット、モノクロ。いや、あえてモノクロにしなくたってモノクロかとみまごう雪景色。その中に幌舞駅の駅長さんである佐藤乙松に扮する高倉健が、重そうなロングオーバーコート、ロングブーツ(共に黒色)に身を包み、たたずんでいる。一両列車が入ってくる。生真面目に「ほろまいー、ほろまい」と乗客など誰も乗っていない列車に知らせる乙松。なんという絵になること!今までは映画に出ている健さんはあくまで健さんだったが、そしてここでももちろんそうなんだけど、それより先に、完全に乙松なのである。頑固で融通が利かなくて、生真面目なぽっぽやでしかいられない男。それがこの一瞬だけで充分すぎるほどに判るのだ。
最初は健さんがこっちの役をやるはずだったという乙松の親友、仙次役の小林稔侍が素晴らしい。仙次は物語の語りべとなる役を担っている。駅の事務室にひとりぼっちで住み込んでいる乙松。正月が少し過ぎたある日、ささやかなおせちを重箱につめ込んで仙次が訪ねてくる。ここでの二人のシーンはとても素敵だ!実際に高倉健との関係性で乙松と仙次そのままだという二人の醸し出す親密で、陽気で、どこか滑稽な、泣きたくなるような男同士の友情の空気。「オトさん、俺はずっとオトさんと一緒にいたいんだよ」と定年後のことなど考えてもいないガンコ一徹の乙松を自分と同じリゾート地に再就職させようと説得することに失敗し、泥酔して仰向けにひっくり返った仙次が乙松の胸倉をひっつかみ、顔を寄せてそうささやく。稔侍さんが「「昭和残侠伝」の秀さんと重さんのようなホモチックさを……」と言ったということを匂わせるような、なかなかいい位置どりである。ふと蘇るかつて若かった頃の二人……。
というようにあるシーンや登場人物にあわせて随時過去のシーンへとフラッシュバックしていき、そのことで短い原作をふくらませている。若かったころもそのままのキャストで演じているわりには違和感は感じないし、おおかた成功しているとは思うが、日本戦後史を語っていく、といったような教科書的、教訓的な色合いが多少気になる。あくまでこの物語は不器用なぽっぽやの、そして彼が最後に体験する奇蹟の物語であるのだが、その後半のクライマックスに至るまでには、その説教臭さの方が色濃く感じられてしまうからだ。
志村けん扮する炭坑夫が炭鉱事故で死に、その遺児敏行が成長し、青年となる役を安藤政信が演じている。彼もまたとてもいい。控えめでいてその世界にしっくりとはまり込んでいる。正直安藤政信がここまでいい成長の仕方をするとは思っていなかった。役者としての色をちゃんと持っている。
予期してはいたけれど、大竹しのぶの素晴らしさは言わずもがなである。長年子供が出来なかった彼女が妊娠し、素直に喜びを表現しない乙松に抱きついてはしゃぐ彼女、その子供をすぐに死なせてしまって、「あんたはこんな時でも……」とぽっぽやの仕事をまっとうする乙松を言葉少なに責める彼女、そして病弱な彼女と乙松の最後の別れである列車の窓を挟んだ手と手の触れ合い……。長身の健さんの腕の中にすっぽりとおさまる大竹しのぶの、愛らしさとはかなさが涙への伏線をつくる。
その死んでしまった娘、雪子(ユッコ)。乙松は実は病気持ちで、本人も、そして観客もそうとは知らず死期の迫っていた彼のもとへ、彼女が三段階の成長を見せてあらわれる。正直言って6歳と12歳の子役の二人はクサイ演技で、ああ、どうして日本の子役っていまだにこうなのかなあ……いやいや、かつては子役だった吉岡秀隆と中嶋朋子はあんなにも上手かったのに……などと嘆息してしまうのだが、12歳の子はちょっともうけものである。なんたってかの健さんとキスしちゃうんだから!それで「ちゅーされた」という健さん=乙松も可愛い。そして17歳の雪子の登場である。広末涼子。すでに「20世紀ノスタルジア」で充分に映画女優としての魅力を発揮させていた彼女、ここではクライマックスの、物語の要(かなめ)の、そして泣かせる唯一絶対のポイントともなるべき超絶重要なシーンを健さんと二人任されるわけで、相当な重責なのだが、なんともはや素晴らしい!あいかわらずその独特の表情の作り方のなんというチャーミングなこと、そして奇蹟の、永遠の少女を体現するそのたたずまい。近所の里帰りしている子供だと思っていたその少女が、自分の死んだ娘だと知った乙松=健さんの慟哭と彼女の一筋の涙がたまらず観客の胸を熱くし、落涙させる。……しかしこのシークエンス一つだけ残念、乙松に夕ご飯を作ってあげた雪子が、彼にビールを持ってくるところで開けた冷蔵庫、庫内に電気が点いてない……さぞかしぬるいビールだったことだろう。それに鍋から湯気一つ出ていなくて、当然よそったお椀からも湯気は出ず……こんな感動的な場面なんだからこの辺までも丁寧に描写して欲しい!
そしてもうひと山。次のシーンで白々と夜が明けており、除雪のラッセル車が幌舞駅にむかって雪を撒き散らしながら進んでいる。小さな幌舞駅のホームに、黒い影が翼を広げたような格好で雪に埋もれている。ハッとする。そう、それは乙松!うつぶせに倒れたまま絶命し、そこに雪が降り積もったのだろう……広がったオーバーコートだけが埋もれているように見えるその姿は、すでにその中には肉体がないように感じられ、天使として降り立った雪子とともに旅立ったかのように見える。突然、胸を突かれたように私は鳴咽をもらしてしまった。静かに、静かに小さな駅から運び出される乙松の遺体。もう廃線になってしまう古ぼけた一両列車に乗せられる。親友の遺体を乗せて運転を勤める仙次。そう、この列車も乙松とともに消えていくのだ……。もう私はたまらずただただ滂沱と涙を流していた。
原作小説はもっとなまりが強いけれど、どちらにしても舞台設定位置のわりには南よりのなまり……極端に言えば津軽弁か、函館弁のように聞こえる。まあ、私にとってはその方が郷愁をそそっていいけれど。この北海道弁のせいで泣かされた部分も大きいかもしれない……北海道の人にはかなり訴えるものがあると思うなあ……だから内地の人がこれほど感動するのかどうかは判らないけど……。
高倉健、大竹しのぶ、広末涼子、小林稔侍の各氏、もう彼ら以外には考えられないキャスティング。もう今年のベストワンは決まりでしょう!主演男優賞、助演男女優、ぜひ取って欲しい。劇中でメインテーマとなっているテネシーワルツ、そしてこの映画のために作られた(というのって最近少ないんだよね)主題歌「鉄道員(ぽっぽや)」が大、大名曲!ああもう、すべてを思い出すだけで泣き出しそうだ!★★★★★
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