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「に」


1999年鑑賞作品

肉屋THE BUTCHER
1998年 83分 イタリア カラー
監督:アウレリオ・グリマルディ 脚本:アウレリオ・グリマルディ
撮影:ロマーノ・アルバーニ 音楽:ギャンカルロ・ローレンジ
出演:アルバ・ピアレッティ/ミキ・マノロヴィック/アレッサンドラ・コスタンゾ/マリエーラ・ロ・ジュディーセ/ロレンゾ・マジョノーニ


1999/9/6/月 劇場(銀座シネパトス)
なんなんでしょうね、一体これは……。ま、タイトルからして、エロ映画というのは一目瞭然だが(?)まあ、つまんないったらありゃしない。エロにつきもののスリリングさがない。恋の感情なんかあるはずもない。女はもちろんのこと、男の感情もサッパリ見えない。ほんとにこれは映画なのか?ただの洋モノAVなのでは?と疑ってしまうほど。

チラシデザインがしゃれているわりには、その内容がヤケクソとしか思えないのには思わず笑ってしまった。メインを書いてる某A評論家もそうだけど、それぞれにコメントを寄せているのが、プレイボーイだの週間女性だのFLASHだのといった、こういう映画を取り上げそうな所ばかりで、一様に“肉”に対するエロのことばかりを挙げているのには苦笑。ま、確かにそれだけで成立しているような作品だもんね。

とはいうものの、一応意味ありげなストーリーは、ある。最終的に肉屋のオッサンにおぼれてしまう、見るからに扇情的な半開きで厚ぼったい唇の人妻は、夫がカタブツのオーケストラ指揮者で、あまりセックスに関心がなさそうなことに不満を抱いているらしい。二人は養子をもらおうと計画しているのだけれど、それは子供が出来ないという以前に、本当に二人はセックスをしているのか?という根本的な問題にさえ思えるのだ。劇中二人は夫の演奏旅行のためずっと離れていて、一緒にいるのは冒頭のほんのちょっとにすぎない。

体調不良で医者を訪れた彼女が、食餌療法として毎日肉を食べるようにうながされ、その精力絶倫、肉屋のオッサンとのご対面となる。店の天井から無数に釣り下げられるウサギや鶏の死体、牛の赤身肉や、鶏肉を包丁で叩いて柔らかくする手際、それを潤んだ瞳で見つめる彼女、その彼女をこれまた見つめ続ける肉屋のオッサン。ある日彼女は店でこのオッサンと奥さんが解体中の血だらけのブタに囲まれてファックしているのを目にする。たまらずその場を離れた彼女が再び店を訪れると、天井から一滴の血が……つるされたウサギの口からたれた血。

……とまあ、面白くないこともないけど、やっぱり面白くない展開。肉屋、エロ、から予想されることが逐一出てくるという感じ。何一つ、外れることがない。肉に肉欲を暗示させるなんて、あまりにベタすぎる……それを言っちゃ、おしまいなんだけど。

しかし、面白くないのはここからで、このヒロインと肉屋のオッサンが情事にふけるのは、彼女の家なんだもの。ま、夫がいない間の家で……というのがイイというのかもしれないけど、それなら別に肉屋のオッサンでなくたっていいわけで。肉を肉欲と不可分なものとしてここまで描いてくるなら、やっぱり場所は肉屋の中でしょう。肉屋から離れたとたんに、このオッサンはすでに肉屋ではなく、ただのツマラナイ間男でしかない。だから、洋モノAVと言いたくなるのだよ。用意した設定を生かさずにあっさり放棄しちゃうんだもん。エロ映画だから、エロシーンを見せさえすればいいだなんて、それこそ××××御用達のただのAVではないか。

そう、この養子のエピソードとか、彼女の元恋人で仕事上のパートナーであった友人男性との関係とか、そんなにすげなくするにはもったいない要素があるのに、見終わってしまえばツマラナイエロだという印象しか残らない。そうそう、この肉屋のオッサンとは全くと言っていいほど言葉を交わさず、ただひたすらファックしまくるんだけど、キスは、しないんだよね。しそうにもなるけど、してない。そこは思わず注目してしまいましたよ。なぜって、そのちょっとの登場の冒頭の旦那とは、熱烈なキスシーンがあったから。でもそれは、彼女側からの一方的という感じのキスで、やはり彼女の感情が空回りしているのを感じるんだけど。「プリティ・ウーマン」でジュリア・ロバーツ扮する娼婦のビビアンが、情が移るから客とキスはしない、と言った台詞を聞いてからだと思うけど、男女の感情がどう絡んでいくかをキスシーンを一つの決め手にして観るようになった。それで言ったら、彼女はカラダとココロの分離に悩んでいたわけで、肉屋のオッサンはその本能のはけ口だったわけだ。……見たままだなあ、ほんと、つまんない。★☆☆☆☆


虹の岬
199年 115分 日本 カラー
監督:奥村正彦 脚本:中村努
撮影:坂本典隆 音楽:
出演:三國連太郎 原田美枝子 夏八木勲 中江有里 すまけい 内野聖陽

1999/4/22/木 劇場(有楽町スバル座)
やっぱり不倫ものというのはこれぐらい苦悩してくれなくっちゃ困るんである。「コキーユ〜貝殻」や「時雨の記」といった、設定だけ不倫に持ってきてその実、たあいない悲恋ものを臆面もなく描く最近の不倫映画にかなり辟易していたので、この作品の噛みごたえにしっかり満足。

時代設定がまだまだ封建的な昭和初期で、これが実話だということもあるのだろうが(私は知らなかった……おーい、それで日本文学専攻だったのかい!)、夫のこと、子供のこと、世間のこと、etc、etc……と様々なことに苦悩しまくるので観ているこっちが疲れ果てるくらいなのだが、そこまで苦悩しても一緒にいたいくらい惹かれあっている切なさがずんずん伝わってくるので、とにかく説得力があるのだ。

演じる俳優、三國連太郎、原田美枝子の両ベテランのなんという素晴らしさよ!二人がお互いに惹かれあっていくのを、まさしく身体全体の演技で描ききる。その目線、表情、身体全体から立ち上るとまどいの感情が蓄積された上で至る、竹林の中、矢も楯もたまらずくちづけあうシーン。台詞だけ追っていけば唐突のように感じられかねないところを、感情の高まりを身体言語で充分に語っているからこその名ラブシーンなのだ。

この御年で少年のような空気さえをまとい、独特の可愛らしい口吻で愛を語る三國連太郎はすこぶるチャーミングで、祥子(原田美枝子)ならずも私でも惚れてしまう!原田美枝子のなんという美しさ……しっとりと着物を着こなし、はんなりとした京ことば、小走りに川田(三國連太郎)を追いかけるその姿に、川田ならずも私でも惚れてしまう!ほっそりとしたうなじにてんとう虫が入り込んでしまって、川田が背中に手を入れて虫を取り出すシーンの、顔を紅潮させてうつむく彼女がとても素敵で……まさしく和服ならではのラブシーンなのだ。そう、この昭和初期の風情の美しさは格別で、和服や割烹着の清冽さ、古寺の閑寂なたたずまい、木造家屋やその中の小さな風呂場の質素な落ち着きなど、それだけでホオーッとなってしまう。

川田との恋愛に賭けて、彼についていく祥子だけれど自分をないがしろにする夫はともかくとして、子どもたちに未練が残り泣き伏してしまう。そして子どもたちも……。ここで長女を演じる中江有里がとにかく泣かせる!「どうしてこんなことになったの、普通の女の子の私にも判るように説明して!」と泣きながら嘆願する尚子(中江有里)に何も言えない祥子。でも尚子はお母さんがやっぱり大好きで、祥子が夫にされる仕打ちも見ているし、そして何より年頃の女の子だから、母親の女としての選択に懸命に理解を示す。「もうお母さんは帰ってこないの、これからは私があんた達の面倒を見るから」と泣きじゃくる妹と弟を抱き、一緒になって泣いてしまう尚子。川田とともに新生活へと東京に旅立つ祥子を駅に一人見送りに来る尚子は、泣き出すのを必死にこらえて目に涙をたたえ、思いの丈を手紙に託して気丈に祥子を送り出す……ここは号泣ポイント!その後、列車の中で祥子が手紙を読む時に、三人の子どもたちがバックにオーヴァーラップされるのはちょっと気恥ずかしかったけど……。

祥子が自ら川田に「結婚してください、私をずっとお側に置いてください」とプロポーズし、めでたく結婚となる前、一人苦悩する川田は自殺を図る。その場面が映画の冒頭におかれ、そしてまた時間がさかのぼり、その悲劇の場面に向かって進むものだから、この話は川田の死によって終わってしまうのではとハラハラしてしまう。しかし、そこで終わったらそれこそただのお涙頂戴悲恋もので、そこからひと山もふた山も苦悩の展開がてんこもりなのだ。川田から遺書を受け取った祥子が、その後の騒ぎを充分判っていながら川田を探して奔走する。一命を取り留めた川田に「どうして私と一緒に死のうとしてくれなかったのか」と考える祥子は同時に「どうして私と一緒に生きようとしてくれないのか」という強さを持っていて、祥子の年若い友人の女性が“一緒に死ぬ”心中を選んだのとははっきりと対照的。自らプロポーズして新しい生活を切り開く祥子の凛々しさ!

二人のアドバイザーとして谷崎潤一郎が出てくるのも嬉しい。今までの不倫ものにはなかった、希望に満ちたラストもすがすがしい秀作!★★★★★


25年目のキスNEVER BEEN KISSED
1999年 107分 アメリカ カラー
監督:ラジャ・ゴズネル 脚本:アビー・コーン/マーク・シルヴァーステイン
撮影:アレックス・ネポムニアスキー 音楽:デイヴィッド・ニューマン
出演:ドリュー・バリモア/ジョン・C/ライリー/デイヴィッド・アークエット/ミシェル・バルタン/モリー・シャノン/ゲイリー・マーシャル/リーリー・ソビエスキー/ジェレミー・ジョーダン

1999/7/7/水 劇場(みゆき座)
ラストの大ハッピーエンド直前のジョジー(ドリュー・バリモア)の姿を冒頭映し出す。野球場のマウンド、ピンクのワンピースの後ろ姿で彼女は佇んでいる。それがなんなのか全くあかされないまま、時間がさかのぼる。最年少コピーエディターとしての才能は確かながらも、真面目〜で地味〜な25歳を体現する冒頭のドリューは圧巻。ぽちゃっとした体型と、ナチュラルな顔立ち、そしてもちろん彼女自身の演技力が効を奏して、同年代女優の中じゃ、ドリューにしか出来ない芸当だと思うほど完璧なブスになりきってみせる。企画は次々に採用されるものの、記者になりたい彼女の希望は叶わず、悶々としていた日々が、ある日突然、社長の気まぐれでハイスクール潜入ルポを命じられて状況がひっくり返る。失敗すればクビが待っているという、最初で最後のビッグチャンス。

高校時代、ブスのジョジーとからかわれ(この高校時代のドリューもまた、完璧なまでにブスで冴えない女の子に扮していて唖然とするほど)、暗い青春をおくってきた彼女にとって、そういう意味でのセカンドチャンスでもある。全身白づくめという、太めがさらに強調される目も当てられない格好で初登校、「私は高校生、17歳」を連呼する彼女はどう見てもアヤシイ。現代若者の風俗を探ろうと潜入したパブではトリップしてステージにあがり、マフラーで股をこする(!)というパフォーマンスまで披露する凄まじさ。しかしシェイクスピアの授業ではさすがの才能を発揮し、外見などは気にしない、あるいは自分と同じ匂いを感じ取った、計算クラブの真面目な女の子、アルディス(リーリー・ソビエスキー。可愛い!)と友達になる。

どんなに外見から取りつくろっても、本質(いい意味でも、悪い意味でも)は隠しようもないというのが実に良く出ている流れである。学校の意地悪軍団から身を守ってもらうことを条件に提示され、計算クラブに所属することになったジョジーはそこでの計算大会でも頭角をあらわすなど、実に楽しそう。だがしかし、彼女に与えられたのは現代高校生の扇情的な記事を書くことであり、それは決してこの計算クラブにいては得られないものなのだ。真面目な子、さえない子にとっての意地悪軍団が、学校の人気者であるという皮肉。私も前者に属していたから、この感覚、判りすぎるほどに判る。しかし、ジョジーは仕事でここに来ているのであり、彼らに近づかないことには待っているのはクビである。

弟ロブ(デイヴィッド・アークエット)が自らの夢(野球選手になる)も賭けて、この高校に編入し、あっという間に人気者になり(コールスローの一気食いで!)、ジョジーをもクールな女の子として認知させることに成功する。ほんとに、唖然とするほど単純にひっくり返る価値観。人気者か、負け犬(ルーザー)か。あるいはクールかサエないかは、結局人の認識一つなのだ。まさしく、世間の流行事情と全く同じで、ハイスクールだろうとなんだろうと、ただたんに、そこには人間の縮図がすでにあるだけの話である。ジョジー自身は何もかわっていない。いや、人気者になってからは確かに変わった。しかしその変わり方は、背伸びしたハデな格好から、ナチュラルな装いに変わり、しかし、それが自信を持って着ているから、とてもしっくりとよく似合って感じがいいのだ。以前のジョジーなら、“地味な格好をした冴えない女の子”という認識の中に埋没してしまったことだろう。事ほどさように人の先入観とは恐ろしい。

ここで人気者グループにからめとられることになったジョジーは、当然、アルディスのグループからは遠ざかることになってしまう。そしてプロムナイト。学校一の人気者のパートナーとなって、シェイクスピアのヒロインに扮したジョジーはそこで見事クイーンの座を射止めるのだが、そのアルディスが人気者グループに陥れられようとしているのを阻止し、激昂して自分の正体をバラしてしまう。

ここで実際ジョジーだけが誰よりも1人群を抜いて魅力的なのはなぜかということにふと考えが行く。鼻につく派手さと人を見下した態度を持つ人気者グループの子達も、彼らに対する軽蔑と心のどこかにもった羨望で頑なになっている真面目な子達も、それぞれに相手のことのみならず自分自身のこともよく理解できていない子供。しかしジョジーは双方の立場からものを見ることが出来た大人。だからこそ得た彼女だけのナチュラルさが彼女を輝かせているのだ。自分のアイデンティティを持つことの重要さが、言葉ではなく、彼女の存在、肉体で提示される。そう、学生時代って、両極二つの価値観しかないと思い込んでいる部分は確かにあって、その中で自分だけの価値観を持つのはとても大変なのだ。いや、学生時代に限らず、社会に出たってたいして変わらないかもしれない。事実、ジョジーもこの潜入ルポを体験する前は、そうした価値観の中に自分を押し込めていたために、学生時代のサエないまま来てしまった部分もあると思う。自分自身を、自信と自覚を持って表現することの難しさ。

彼女のみならず自分のクビがかかっていることもあって、叱咤激励する上司ガス(ジョン・C・ライリー)、オタクな部下(これは誰だろう?)、(恋愛ではなく)セックスに目がない同僚(モリー・シャノン)アニータ(しかし、彼女もまたジョジーに揺さぶられて、ガスとの、感情を先行させた恋愛を暗示させている)などなど、脇役陣も楽しい。

ちょっとドタバタしすぎの描写が気になる、カルい話に見えつつ、自分の存在意義を確認するというテーマが見え隠れする本作は、実は結構かみごたえがあったりするのだ。その中に無理なく、シェイクスピアの先生(なかなかナイスガイ)との恋も織り込み、ラストはその先生から人生初めてのキスを受けるため、マウンドで待つ彼女という冒頭で示されたクライマックスである。ま、ここでハッピーエンドにならなかったら、この作品のカラーからも外れるので、この大団円も実に気持ちいいわけで。遅刻させてハラハラさせるお決まりもお約束。しかし初めてのキスのわりには、随分慣れた感じで受けてたけどなあ?★★★☆☆


日本侠客伝
1964年 98分 日本 カラー
監督:マキノ雅弘 脚本:笠原和夫 野上龍雄 村尾昭
撮影:三木滋人 音楽:斎藤一郎
出演:高倉健 中村錦之助 藤純子 南田洋子 三田佳子 長門裕之

1999/2/18/木 劇場(新宿昭和館)
日本侠客伝シリーズの第一作め。同シリーズだったかどうかは判らないけどストーリーがすごく似ている話があるんだよね……。身うけされている女の借金を払うために組のもの(ここではハンテン)を質に入れるとか、そのためにその男が命を落とすとか、戦争から帰ってきた健さんがボスがちょうど死んでしまった後の組を任されるとかそのシーンの運び(小頭の印の入ったハンテンを渡されるところと「俺なんてとんでもない」と言う健さんにみんなが「やってくれよ!」と懇願するところも)や何か、そっくりなんだよねー……ま、いいけどさ。

これ、毎回言っている気がするんだけど、若い時の長門裕之、桑田圭介にほんとにクリソツで驚いちゃう。基本的に顔の造りは変わっていないにもかかわらず転転。芸者の女に惚れてしまって(その女は健さんに惚れている……そこんところも同じなんだよな)彼女の借金のために命を落とす。ほんとこの長門裕之は素晴らしく、軽口を叩くその間合いはまるで藤山寛美ばり。女に恩をきせるのを恐れながらも「いつまででも待ってるからよ」と言わずにはいられない切ない思い、その時にためらいがちに女の肩に手を触れて引っ込める動作がまた切ない。女が「今あんたに惚れちゃったみたいって言っても信じないでしょう。明日にするわ」と言って格子戸を閉める粋さ!でもその直後に彼は殺されてしまうのだ……。

そしてこれは顔が今一つはっきりしないけど中村錦之助かな?組に出入りしているいわゆる用心棒、妻と子供のためにカタギになろうとしているが、組や健さんへの恩義を捨て切れず、たった一人、敵に斬り込みに向かう。組に迷惑をかけないために組への絶縁状を用意して。ドスを懐に入れ、酒を飲もうという夫に妻はすべてを察知して涙する。もうこの人は帰ってこないのだと……。この辺は定石とはいうものの、やはり泣かせる。三田佳子はどの人?この妻かなあ……。どうも顔に面影があるようなないような……。

たった一晩で木材を運搬しなければならないために町中の男達を果ては乞食まで動員して運び出す様はスペクタクルさながらでやはり見せてくれる。最後の斬り込みがやや長すぎてちょっと退屈してしまった。大好きな藤純子がいまひとつで残念。★★★☆☆☆


日本大侠客
1966年 95分 日本 カラー
監督:マキノ雅弘 脚本:笠原和夫
撮影:山岸長樹 音楽:菊池俊輔
出演:鶴田浩二 藤純子 木暮実千代 大木実 近衛十四郎 岡田英次

1999/6/17/木 劇場(新宿昭和館)
鶴田浩二の甘さが苦手なので、彼主演の作品はどうも観る気がしないのだけど、まあ脇役でいい人が出ているからねえ。ここでは大、大、大好きな藤純子が彼女の当たり役、緋牡丹のお竜の原型であるというお竜さんとして物語のカギを握る。緋牡丹のお竜は博徒だったけれど、ここでは高級芸者で、緋牡丹のお竜さんの凛とした美しさとはまた違って、女の色香を画面のこちらがわにまで匂わせる女っぷりが圧倒的。ヴィヴィッドな日本人形といった感じの驚異的なしなやかなからだのラインに釘付けになってしまう。ピストルが似合うのも彼女ならではで、まるでエンピツかハサミみたいに軽く構えて撃ちまくるのがサマになっているんだよなあ。

もう一人、短い出演シーンながらも鳥肌が立つほど素敵だったのが、肺病やみの剣士、岡田英次!私はどうやら「座頭市物語」の天知茂といい、こういうキャラに弱いようだ……。だって色っぽいんだもん!えてしてこういうキャラは色男にやらせるしねえ……。自分の病気を治す金欲しさに鶴田浩二演じる磯吉の命を狙う雇われ刺客に扮する彼は、もう力も入らず、咳をした側から血を吐き、逆に鶴田浩二に助けられてしまう。「あんたはおかしな人だ。自分の命を狙おうとした男を……」と病院のベッドで弱々しくつぶやく彼に「自分の命を狙ってきたあんたがなんだか兄弟みたいに思えてね」と訳の判ったような判らんようなことを言う鶴田浩二。その男気にホレていざ斬り込みという時に、ふらりと加勢にやってくる彼のシルエットでもうゾクゾク来てしまう!「人なんかもう信じないと思ってたんだが、どうやらあんたに惚れちまったらしい」なんて言ってくれちゃって、鶴田浩二にはもったいない台詞じゃ!この人、役名も与えられていないところもまたイイ。落ち着いた声がとてつもなく素敵である。やっぱり敵にやられて死んじゃうところまで最高である。ああっ、岡田英次!

驚いたことにこれはノンフィクションらしく、九州の侠客議員として知られた吉田磯吉の息子が書いた自伝が原作なのだという。北九州の港町、若松(知らんな……)が舞台で、全篇味わい深い九州弁がまた魅力、その中でひとり東京もんの岡田英次が喋るおちついた標準語がまた素敵!お人好しの遊び人だった吉田磯吉が、父親の死によって大吉楼(芸者小屋?食べ物屋?)をつぎ、いつしか町の人に慕われる親分に成長していく。警察をもその懐にまるめこんだ悪徳ヤクザとの対決がメインになるわけで、そこでは前述した岡田英次と、鶴田浩二との恋に敗れたお竜=藤純子の死に気を取られて鶴田浩二どころではないのである。あ、それでなくても鶴田浩二は目に入ってないけど……。★★★☆☆


日本黒社会 LEY LINES
1999年 105分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:龍一朗
撮影:今泉尚亮 音楽:遠藤浩二
出演:北村一輝 田口トモロヲ 李丹 柏谷享助 哀川翔 竹中直人 サムエル ポップ エニング

1999/5/25/火 劇場(中野武蔵野ホール)
思えば三池監督の作品を最初に観たのは「極道黒社会 RAINY DOG」だった。これで三池監督と、哀川翔にいっぺんに惚れたんだっけ。そして三池監督の劇場デビュー作である「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」を観て、その傑作ぶりにまたしても震えた。しかし三池監督が“黒社会”三部作を考えていたなんてついぞ知らなかった。なんでこんないかつい題名をつけるのかなあ、といつも不思議だったんだけど……いまでも不思議だけど、三部作の共通タイトルであることと、敬遠するならしろ、観る奴は観ろ、ということなのだろうか。デビュー作の「チャイナマフィア戦争」を撮った時から、考えていたんだろうか。

そして本作である。記念すべき北村一輝の初主演作。彼はやはりただ者の俳優ではない。奇妙に歪んだ美しさを持ち、狂暴で切ない目をしている。先頭に立って切り開いていくくせに、そのやり方はあまりに無鉄砲で、彼の行く先に悲劇が待っていることを観客に予測させてしまう。いつも殴り掛かっていく用意をしているような傾いた、針金のような身体。そんな龍一役、しかも自分の中の中国の血をもてあましているようで、意識せずにいられない青年の役が、ハマる。彼は何を求めて東京、新宿にやってきたのか。あまりにあいまいな自由への渇望。そして自分の血が導くように上海マフィアのたむろする新宿にたどり着き、怪しげなトルエン売りの男(哀川翔。久しぶりにきちんと出演している彼を見た……こういうどこかユーモラスで、かつコワい役が似合うんだなー)からおろしてもらったトルエンを売りさばく。彼の行く先にまともな道などなく、まともな道を行けるとも思っていない。高額でパスポートを手に入れ、ブラジルに行こうなどと夢見る。あまりにも、実現不可能な夢。

彼を憧憬し、ついていく同級生の田口トモロヲ氏。同級生というにはあまりに年が離れているが(そして実際の年齢設定はどのくらいなのか判らないけど……童顔のトモロヲさんだからせいぜい5〜6才違いどまりかな)少し足りないような頭を一生懸命動かして喋る張に扮する彼は、相変わらずのテンションの高さで随所で笑わせてくれるけれど(死の直前まで、がばっと意識を取り戻したりして笑わせるのだけど、それが余計に切ないという不思議さ)、その非業の死に、悲哀がつのる。

龍一の弟の俊霖。扮するは三池組初参加の柏谷享助(かしわやみちすけ……難しい読み方だ)。彼がいいのだ。直情型で非現実的な兄、龍一に比して、こつこつ勉強する姿が冒頭に映されることに象徴される、地味で大人しい性質。その彼が、東京に出る兄と張の乗った電車をバイクで追ってくる。彼もまた龍一への憧憬の念が募っているのが判る。でも彼はやっぱり大人しくて、金稼ぎのトルエン売りもままならないのだけど、いわばこの三人の中の良心で、いつでも一生懸命正しい方向に導こうとする。彼が街中で、自分たちから金を騙し取った娼婦アニタ(李丹。「酔夢夜景」なんかより格段にイイ!)がボロボロになってさまよっているのを見つける。彼女は彼に身体で金を返そうとする。それを困惑しながらも黙って受入れ、静かに彼女を抱いて畳敷きに横たわる彼。あるいは重傷を負った龍一が、意識がもうろうとしながらも勃起しているのを見て、張がアニタにやってあげてくれと頼むのを、部屋の隅で膝を抱えて、最初は複雑そうな表情から次第に笑い出してしまうところとか、なんとも繊細な存在感を放っている。張が死んで、彼の遺志である「母親に金を渡したい」というのを無視しようとする兄に殴られ、蹴飛ばされながら「友達だろ!」と必死に食らいつく俊霖、そしてその役目をおい、帰り道追ってきた上海マフィアに殺されてしまう彼……張に続いて俊霖にまで去られ、呆然と単線電車に乗る、龍一と彼の背にしがみつくようにしているアニタの姿が本当に忘れられない。

冒頭の、いじめられっ子だった兄弟の幼少シーン、泥の湿地の中に佇む二人。オレンジの画面がピシピシと飛ぶ、ノスタルジックながらもすでに戦慄を予感させる。彼らが暮らす、日本のどことも知れない田舎町。広々とした風景に一本の線路、無人駅。出て行く方法はただ一つ。この電車に乗っていくことだけ。しかしその先には破滅が待っている。そこに暮らす人々は無意識ながら、あるいは暗黙ながらそれを知っていてここから出て行こうとはしないのだろう。完全に閉じられた村。そこにまるで産道のように狭く狭く開けられている道が単線の線路。

そして彼らが村を出て行き、新宿で様々な目にあうのを淡々と描写する中盤までは、正直じりじりした気分も味わうのだけど、龍一がトルエン売り仲間の黒人、バービーから手に入れた銃で上海マフィアから金を奪おうと言い出したところから物語が回り出す。その計画を廃虚ビルの屋上のへりに座って話している三人。うかれた張がラーメンを持ったままそこに立ち上がり、バランスを崩して下に落ちてしまう!彼が落ちた下を見やる龍一と俊霖。しばらく呆然とした後、なにげなく話を続ける。えええちょっと、張はどうなったの!と思ったところへアニタの「私も仲間に加えて!」という声が下から聞こえてくる。一段下にクッションとなる張り出しのベランダ(?)があったのだ。彼女の足元には手に持ったラーメン丼が手から離れて壊れ、もう片方の手にはまだ箸が握られ、カエルのような姿勢でうつぶせに倒れている張!むくと起き上がった張の額からは血が……。笑えるのに、笑えるのになぜか、泣きたくなるような、不安で仕方ないような気分になるのは、その後の張の死を予感させたからか、彼らの無鉄砲な計画の結末を案じずにはいられなかったからか。

張が死に、俊霖も死に、たった二人でブラジルへと向かうため小さな桟橋に向かう龍一とアニタ。そこへ追いつく上海マフィア。大勢の敵にもかかわらずおそろしくカッコよくその場を切り抜け、海へと飛び込む二人。カットが変わると血の混じった水が寄せては返し、寄せては返ししている。カメラが引くと、小船に乗った二人が希望と疲労の入り交じったような顔で櫂を漕いでいる。それまでの粒子の粗い、暗い色調とはうって変わって白々とした光に満ちている。カメラが次第に引く。ぐんぐん引く。大海原にたった一艘揺られている小船。もっともっとカメラは上に上にと引いていく。しだいに船は米粒ほどになる。息を呑む。ついには海の光の中に没して見えなくなる。そしてラストクレジット。ローリングではなく、一枚の黒地の画面にすべてのスタッフ、キャストが白字抜きで書かれた(細かくてとても読めない)それが現れ、数秒。……震える思い。いや、実際震えた!

差別用語なのかエロな言葉なのか判らないけれど、削除するなんてことはせず会話の中に堂々とピー音をいれる確信犯ぶりや、ボカシなんてやわなことはせず、自らフィルムを鉄筆で削り独特の画像効果をもたらすなど(これは「極道黒社会 RAINY DOG」の時、立ちションしているトモロヲさんのシーンでもやってたな)、三池監督だよなー!と嬉しくなってしまう。ああそれと、このアコーディオンの哀切な響きときたらたまらない!ウマいところで随所に聞かせてくれるのだけど、あのとんでもないラストシーンにかぶさるあの響き……たまらない!★★★★★


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