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「せ」


1999年鑑賞作品

[SAFE][SAFE]
1995年 119分 アメリカ カラー
監督:トッド・ヘインズ 脚本:トッド・ヘインズ
撮影:アレックス・ネポンニアスキー 音楽:エド・トムニー
出演:ジュリアン・ムーア/ザンダー・バークレー/ピーター・フリードマン


1999/3/23/火 劇場(ユーロスペース)
社会派映画のようでもあり、ホラー映画のようでもある。なんともジャンルに当てはめにくい作品。化学物質過敏症という実際の現実を描いていながら、その病気そのものよりも“他人から隔絶される恐怖”に重きを置いているからだ。冒頭のセックスシーンで、やたら声を上げる夫と対照的に、何も感じていないような涼しい表情で天井を見上げている妻、そのシーンから何か尋常ではない。突然彼女に襲ってくる吐き気やめまい、出血に何とか理由をつけようとしまいには実際に苦しんでいる妻を責め立てる夫。その理由が見つからずに自己嫌悪にすら陥っていく妻。しまいには精神科医にまでかかるのだけど、その精神科医でのシーンは、豪華な椅子に座った医者と、黒い皮張りのソファに座った彼女を交互に映し、セラピーというより威圧感の充満した面接のよう。そう言えば彼女の家に間違って届いたソファも黒で、白っぽい世界の中で重い存在感で横たわる黒はひどく不安な気分にさせる。
白っぽい……、そう、彼女の住む世界は全く生活感がないのだ。自分の家だけのインテリア・デザイナーである、という彼女、お手伝いさんを雇っているというのもそうだし、生活の匂いを消すためにいつでも塗りたくったり噴霧したりしているような寒々しさ。そのペンキの匂いや、クリーニング店で噴霧されている消毒用スプレーで昏倒してしまう彼女の方が実は正常な気がしてしまう。
友人のバースデーパーティーに出たりと、一見全く問題なさそうに見える人間関係も、遠いカメラ位置からとらえるショットで突き放した冷たい印象を受ける。プレゼントをもらってはしゃいでいる声も、わざとらしく聞こえるほどに。そこで彼女が発作を起こしてしまうのも納得できるような……そう、そこでの発作はその空々しい空気を感じ取ったかに見えるのだ。発作を起こす時に聞こえてくる忍び寄る轟音が恐ろしい。
彼女が安全の場所であるコミューンに移ってからも、その離れた位置からのカメラショットがかもす冷たさは続く。しかしここでその空々しさを受け止めるのは観客だけで、当の彼女が、この場所をまるで天国のように思っているのが逆におそろしいのだ。散歩している彼女が、往来を通り過ぎるトラックから慌てて逃げ出す描写に、治療というよりここでの環境に完全に閉じ込められてしまった彼女に絶望を覚えてしまう。同じ病気を持つ者同士で、まるで傷をなめあうように仲良くなっていく様も、不安感ばかりを煽るのだ。鏡(自分)に向かって「愛している」を繰り返す彼女の姿でカットアウトされるラスト、印象的。★★★★☆
セレブリティCELEBRITY
1998年 114分 アメリカ モノクロ
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:スヴェン・ニクヴェスト 音楽:
出演:ケネス・ブラナー/ジュディ・デイヴィス/ジョー・マンテーニャ/ウィノナ・ライダー/シャーリーズ・セロン/レオナルド・ディカプリオ/メラニー・グリフィス/ファムケ・ヤンセン/ベベ・ニューワース/マイケル・ラーナー/ハンク・アザリア/グレッチェン・モル

1999/9/9/木 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
最初に全然関係ない話。この「セレブリティ」と同時期公開だったデンマーク映画「セレブレーション」、タイトルが似てるだけでなく、チラシのデザインの色の配色(黒を基調に赤がアクセントで入って、白抜き文字)もそっくりなんだよねー、偶然だろうけど(そりゃそうだ)。「セレブレーション」にいかにもコギャル風な女子高生二人組が観に来ていたけど、彼女らまさかレオ目当てで「セレブリティ」を観ようとしてて間違ったわけじゃ……ないよねえ(笑)。

なんか、みんなえらいケチョンケチョンに言ってるんだけど……ケネス・ブラナーはニューヨーカーには見えないとかさ。ニューヨーカーに見える必要がそれほどあるんだろうか?それに洗練されたイギリス人にしか見えないなんていう論まであって、それは固定観念を持ちすぎている、受け取る側が悪いんではないか、としか思えない。ウディ・アレンが毎年きちんきちんと作品を送り続けていて、しかも毎回、自分自身ともいうべきキャラクターを本人が演じ続けていることで、すっかりそうと決め付けているのではないのだろうか?やたら言われているのは「なぜいつもどおりウディ・アレンが自分で演じなかったのか」というものなんだけど、ならばなぜ、自分で演じなければならないのだろう?あるいは“自分で演じなかった理由”をもっとよく考えてもいいはずだし、あるいはそれをケネス・ブラナーにやらせた理由の方を考えたっていいはずだと思うんだけど……。

私はK・ブラナーの快演っぷりにおおいに笑わせてもらったけどなあ。逆にこれが前述したことを言われる原因でもあるのだろうけど、これが驚くほどにウディ・アレン(が今までに自身で演じたキャラクター)にクリソツなのだもの!いつでも必死に言い訳をしているような、とにかくしゃべくりキングなんだけど、言ってることは何一つ実のない、早口で、どもりぎみで、ナサケなーいキャラ。この確信犯的な演技に、それを演出しているウディ・アレンがカメラの向こう側にいるかと思うと、それだけで笑いが止まらないんだけど。もちろん、いつもどおりこれはまさしくウディ・アレンそのもののキャラクターだ。そして今回自分自身が演じていない、ケネス・ブラナーという達者な役者に演じさせることによって、突き放して語る意図と感覚が感じられる。それはテーマが、彼自身が特に近年振り回され続けたセレブリティ(有名人)をめぐる虚飾の物語であり、皮肉をどーんと織り交ぜてフィクション味たっぷりに語るために、アレンがこちら側にいないことは、おおいに成功だったと思うし、それに応えてまさしくアレンそのものを、卓抜した技術で“模倣”したブラナーは素晴らしいと思う。

ただ、私はアレンの作品はもっとハッピーなものや優しげなものが好きなので……そんなことを言ったら、それはアレンの本質じゃない、とか絶対ぜーったい言われそうだけど。そう、「世界中がアイ・ラヴ・ユー」や、「カイロの紫のバラ」とか、ああいう“毒のない”アレン映画のファンなのだ。あるいは「ウディ・アレンの重罪と軽罪」はシニカル味たっぷりだったけど、これも、根底に流れている何ともいえない優しさの方に心惹かれていた。本作は主人公が有名人になりたがっている男だし、出てくるのは有名人か、そのおこぼれにあづかりたがる人たちばかりだし、個人的にあんまり関心ないなあ……と思ってしまうのだ。ここのところアレン映画にはやたらと豪華キャストが大挙出演していて(回を追うごとにどんどん増えてる)、そして今回も実に巧みにそれをさばいてはいるんだけど、そうした楽しさにぎやかさよりも、ウェットな優しさを見せるアレン映画が好きなものだから……。

しかしやっぱり好きだなあ、ジュディ・デイビス!もうすっかりアレン組のこの個性派女優、もしかしたら彼女の方にも、いや、より彼女の方にアレンの神経症的なキャラを負わせているのかもしれない。夫、リー(ケネス・ブラナー)からもたらされた突然の離婚話に取り乱し、思わぬ場所での再会の時も、ヒステリックになってしまうカトリック育ちの女性、ロビン。偶然出会ったテレビプロデューサー、トニー(ジョー・マンテーニャ。出会うところが美容整形医院!)によって、図らずもテレビキャスターとして彼女自身がセレブリティになっていく。ヒステリックになっても、どこか可愛らしさを失わないファニーさが彼女のスゴいところ!あれだけ公衆の面前でヒステリーをさらした彼女をますます気に入ってしまうトニーもスゴいが、それもなんとなく納得出来てしまうだけのものが彼女にはあるのだろう。

この“完璧な恋人”を失いたくなくて、ベテラン娼婦(ベベ・ニューワース)のもとにテクニックを伝授されに行く場面は最高!「まずはフェラから」(まずはって……)とバナナを相手に(笑)自分のやり方を見せるロビンに先生である娼婦は言う。「何を考えてやっているの?」ロビン曰く「……キリストの磔よ。育ちは隠せないわ」(爆笑!)そして娼婦の先生がお手本を見せるのだけど、「こうして奥まで入れて……」なんてやっているうちに、バナナをのどにつまらせてしまう!ロビンが彼女の腕をバンザイさせたり(なんで!?)してやっとの思いで助け出すこの場面、もう抱腹絶倒!

モノクロで撮られた本作は、でも、その白黒画面が甘い感じがする。これだけ登場人物がひしめいていて、にぎやかに展開するのに、こんなぼんやりしたピントの画面だと、正直ツライ。モノクロの意味と魅力が感じられないのだ。シニカルさには確かにモノクロはハマると思うけど、妙にソフィスティケーションされたような……悪く言えばメリハリなくはっきりしないモノクロ画面では、ピリリとした感覚は味わえない。これだったら、カラーで柔らかい色合いの方が似合ってた気がするなあ……。私はアレン映画はそうしたソフトなカラーがすごく好きだからよけいにそう感じる。アレン映画でモノクロがいいと感じたことって、ないもの。

ご乱行を展開するワガママアイドルスター(なんでもジョニー・デップがモデルなんだとか?)を演じるレオナルド・ディカプリオは、ああ、よかった、体型ちゃんと戻ってます、なんか、嬉しそうというか、楽しそうに演じてますねえ。何とか彼に取り入ろうとするリーをいいようにあしらう様は、本来は演技派の彼の本領発揮といったところ。また、リーを口でイカせる熟年セクシー女優役のメラニー・グリフィスや、全身性感帯のシャーリーズ・セロンなど、脇役陣は総じて楽しい。そして全篇にあふれるジャズ!音楽のクレジットはないから、既成のジャズナンバーを使ってるのかな?これがとてつもなくセンスが良くて、キモチイイのだ、

キャストが増えれば増えるほど、ここ近年のアレン映画は同じような印象を残す作品が続いている気がする。……面白いからいいんだけど、でもそれも本作当たりが限界といった気も。ミア・ファローをヒロインにしていたころのような、楽しさだけでなく、切なさが横溢しているようなアレン映画をまた観たい。……ダイアン・ウィーストあたりをヒロインで、どうでしょう?★★★☆☆


セレブレーションFESTEN/THE CELEBRATION
1998年 106分 デンマーク カラー
監督:トマス・ヴィンダーベア 脚本:トマス・ヴィンダーベア/モーウンス・ルコー
撮影:アンソニー・ダット・マン 音楽:ラース・ボー・イェンセン
出演:ウルリク・トムセン/ヘニング・モリツェン/ビアテ・ノイマン/トマス・ボー・ラーセン/パプリカ・ステーン/ビャーネ・ヘンリクセン/トリーネ・ディアホルム/ヘレ・ドレリス

1999/9/3/金 劇場(ユーロスペース)
「今日の映画に見られるある種の傾向に対抗する映画救済活動」としてセットを組んでの撮影や、フィルター、人工的照明、メイク、小道具、アフレコなどすべてを禁じ、時間的、空間的に飛躍することも許されないという10戒律を定め、映画本来の原点に立ち返ろうと結成された「ドグマ95」の第一弾作品という本作。しかしそんな事は何一つ知らなくっていい!ここに起こっていることのべらぼうな面白さに目を見はりながら、どんどん引き込まれていけばいいのだ。

しかし、最初は本作が何らかの条件の下に作られているらしいといったぼんやりとした知識があったものだから、実験的な、訳のわからない、つまらない作品なんじゃないかとか、ついつい思ったりして、思わず知らず遠ざけていた……ユーロスペースだとそういうの、折々ありがちだし。しかし、とおんでもなあい!最初、あ、これはどうやら、照明は使ってないし、カメラも手ぶれ起こしていて、これがその条件下のもとでの撮影なのだな、と感づき、それによって自己満足的になったり、わざとらしいドキュメント臭が鼻につかないかな、と危惧したんだけど、そんな事は微塵もなかった。

これを見ていると、照明って、そんなに大事なことだったっけ、という気すらしてくる。もちろん、これが美術的な側面を打ち出してくる作品だったら照明は大事なものになってくるし、本作がいわゆる家族ドラマであることで、照明なしということが、逆に功を奏しているのだけど。でもほら、最近女優さんをきれいに撮るために、必要以上に顔に照明を当ててしわを飛ばして顔がハレーション気味になっている人とか、いるではないですか。最後の方の「極妻」の岩下志麻さんとか。ああいうのに疑問を持っていて、役者なら、外見にそんなにこだわることなく、内面から出るもので勝負すべきではないのだろうか、と思っていたものだから、照明を否定するこのやり方にはなかなかに感動を覚えた。そうは言うものの、実際に見ている光の加減と、照明なしでカメラで映して映像にした時の明るさって違うし、本当にありのままを再現したいのなら、逆に照明って必要なことなんじゃないかな、と思わなくもないのだけれど。でも、カメラを通した時にまた別の世界が現れるという点での映画の魅力を考えると、そうした意味も含めての、照明なしはやはり意義ある事なのだろう、と思う。そう、そんなことをつらつら考えたのは、照明が当たっていないことが、イコールドキュメントタッチになるかというとそうでもなくて、逆に微妙な画面の粒子や、影の暗さ、シーツやバスタブのどこか不気味な白々したほの明るさが意味深遠さを際立たせていたものだから……。

デンマークの鋼鉄王と呼ばれたヘルゲ(ヘニング・モリツェン)の還暦を祝うパーティーに彼の子供たちをはじめ、親族や友人がぞくぞくと集まってくる。なんだか最初から不穏な空気。祝いの席なのだから、リンダが死んだ話は蒸し返すなと父親にくぎをさされる長男のクリスチャン(ウルリク・トムセン)。彼の妹のリンダがこの家で自殺していたのだ。長女であるヘレーネ(パプリカ・ステーン)は、その死んだ妹の部屋に泊まることになる。「どうしてか、あの娘とクリスチャンが双子だということをみんな隠すのよね」と言うヘレーネ。……子どもたちと両親がちっともしっくりいっていない様子や、亡霊が住み着いているような屋敷の雰囲気に心がさざなみをたてはじめる。

祝いもたけなわという頃、スピーチに立ったクリスチャンは、本当に、全く唐突に、「僕と双子の妹のリンダは父親にレイプされた」とぶちまける。前後に何の力む所もなく、するりと、言ってのける。本当にびっくりして口をあんぐり開けてしまった。不穏な空気どころではない!しっくりいっていないどころではない!そしてそれを母親も見ていたはずだとすら言い放つクリスチャンに、一同が呆然となる。一時は彼の錯乱と決めつけられて、クリスチャンは場を追いだされ、森の中に縛りつけられまでするのだが、彼は見事に縄ぬけをして(スゴい)、再三にわたって父親の罪を責め続ける。ここで凄いのは、父親のみならず母親も、クリスチャンのことを、自分のことだけを考えて他に気をくばらない出来損ないの子、みたいに公然と非難することなのだ。これまでに、親を批判する場面は映画でも小説でもテレビドラマでも漫画でも、いくらだって見てきた。でも、親が子供をこうまで憎々しげにおとしめる言を放つなんて、見たことがない。どんな子供だって、その親にとってだけは可愛いのではないかと思っていたのは、まったく私の甘い甘い考えだったのだ。あるいは、自分の保身のためなら、息子を狂乱者だと決めつけることなんて平気なのだということだ……親がどうこうというより、人間としてのあり方を、痛烈に考えさせられる。

ただならぬことになってしまったパーティーから他の客たちは帰ろうとするものの、この屋敷の使用人達が出席者の車の鍵を隠してしまったことから、客たちは全員、この家族の確執に最後までつきあうことになる。困惑ととりつくろいの表情を交錯させるこの客たちの、これまた自分の事しか考えていない人間の愚かしさ。……そうこうしているうちに、ヘレーネが、その妹の部屋から遺書を見つけ出す。彼女達が子供の頃、「暖かごっこ」と称して遊んでいた方法で……リンダの死んだバスタブに身を沈め、天井を見上げると、彼女の記した矢印があり、次々とたどっていくと、電気シェードの裏側に隠されていたその遺書。。そこにはクリスチャンが暴露したのと同じ事実が……。双子の兄であるクリスチャンに対する愛と、出ていった彼に電話一つかけられないまま死を選ぶしかなかった彼女の、痛ましい最後の言葉は、ヘレーネによって、その祝宴で読み上げられることになる。

クリスチャンもまた、自分一人がリンダを置いて家を出ていってしまったことに心を痛めていて……彼ら二人の間に何かがあったのか、なかったのか、何も言及はされないけれど、どうしても忘れられないヘレーネのあの言葉。クリスチャンとリンダが双子だということが、なぜか触れられていなかったことが。クリスチャンとリンダは多分、一心同体、感情も共有していた特別な二人だったのではなかったか。クリスチャンが、始終、苦渋の表情を浮かべているのは、父親にレイプされたという事実だけではなく、いやそれ以上に、リンダに死なれたということ、半身がちぎりとられるような状態にされているからではないのか。彼の前に、リンダの亡霊が現れる。チカチカした炎に見え隠れして、1人で行ってしまったことをクリスチャンにわびる彼女は、一緒に行きたがるクリスチャンに微かに笑って首を振る……この描写、やはり兄妹というより、恋人同士のそれのように感じられるのは、考えすぎだろうか?いや……。

祝宴が終わり、朝になり、朝食会でヘルゲは自らの罪を認め、それでも子どもたちを愛しているという。次男は自分の子供を父親に抱かせるのを嫌がり、父親に退席してくれと言い、それに従うヘルゲ……母親は、私はここに残ると言う。この夫婦の、冷たい関係性はどうだ!彼ら二人は、この屋敷の威厳を保つためだけにお互いを存在させているとしか思えない。それにヘルゲの言葉をいまさらどう受けとめろというのか。白々した朝の光が、静かな食事会のすみずみまで照らしわたしている、この脱力したラスト!★★★★☆


1999年の夏休み
1988年 90分 日本 カラー
監督:金子修介 脚本:岸田理生
撮影:高間賢治 音楽:中村由利子(アルバム「風の鏡」より)
出演:宮島依里 大寳智子 中野みゆき 水原里絵(深津絵里)

1999/8/2/月 劇場(ユーロスペース)
いやあー、いいねいいね、耽美だね。まだ性的なことにどちらかといえば嫌悪感の方を強く持ち、精神世界でのみ思考、構築されている少女によって演じられる少年の世界。少年の中にある少女への憧れも、少年の中にある少年への憧れもいっしょくたに内包している不思議な透明さ。もちろんモチーフである萩尾望都の「トーマの心臓」は、この年頃の少年にもそうした透明さはあるという前提のもとに描かれたわけだけど、やはりそれは一種の理想であって、少女の方にそれがより顕著なのだと思うから……萩尾氏だって、ある種少女のそうした気分を少年の世界に託している部分だってあるんじゃないだろうか?少女の持つ残酷さを排除するためにも、少年の世界はうってつけなのだ。

「トーマの心臓」はモチーフだけど、原作ではない。借りられているのは隔絶された寄宿学校と、メインであるキャラクター達……自殺した少年トーマ=悠、彼にそっくりな転入生エーリク=薫、トーマに愛されていた上級生ユリスモール=和彦、ユリスモールが好きなオスカー=直人、そして……則夫の位置づけがいささか判然としないけど、これはやはり、オスカーに恋してたアンテかなあ?でもここでは直人が好きなわけじゃなさそうだけど……。とにかく、借りられているのはこの要素ぐらいで、原作で重要なものとなっているユリスモールの罪の意識や、善と悪、神の愛、無償の愛、そして家族などなどのテーマは一切語られない。ま、中途半端に語られるよりは良いけど、だからこれを決して「トーマの心臓」と比べたりしちゃいけないのだ。比するには「トーマの心臓」はあまりに傑作すぎるし、この映画が目指す方向性は全く違うのだもの。

なにより悠と薫が最終的には同一人物……半永久的に生き続ける悠だというのが、この映画が「トーマ……」と違うということを決定づけている。これはファンタジーなのだ、美しい少年=少女の時をとらえた。そして少年を少女が演じるからこそあらわれる、少女ゆえの残酷さが別の魅力を付する。直人=オスカーならば、薫を殺そうとすることなんて絶対に考えられないけれど、直人を演じているのが少女だからこそそれが成立するのだ。「トーマの心臓」にある少年の愛は、恋がたきだといいながらも、彼らの純粋な仲間意識と愛とが両立していたけれど、少女ではそうはいかない。他の誰かを愛しているのなら、そのライバルを殺す、それが少女なのだ。そしてだからこそ少女は魅力的。和彦が死んだ悠にそっくりな薫を好きになるような、ちょっと信じられない変わり身の早さも同じ。少女は移り気なものだ。

とはいえ、悠と薫が同一人物だというのは、ある意味「トーマの心臓」の底に流れている本質をとらえているとも言える。何かとトーマの影を身辺に感じ、ユーリを好きになったエーリクが、トーマと自分とが同化していくような感情にとらわれたり、何よりエーリクが現れたことによってユーリがトーマを愛していた自分に決定的に気づくなど、やはり、トーマあってのエーリクであるのだから(哀しいけれど、逆はありえない)。

学校が舞台といいながらも、設定を夏休みにし、登場するのが生徒四人だけだというのも大きな違い。いくらなんでも監督する先生を一人も置かずに、夏休みの学校をそこに残る数人の生徒達に任せっきりにするなんてちょっとリアリティに欠けるのだが、ま、そこはファンタジーだからカタイことは言いっこなしだ。それに、ユリスモールやオスカーにだったら、確かにそこまで信頼して任せちゃう気もするしね……。そう……夏休み!夏休みに設定された映画を観るたび同じ事を思う。子供時代の夏休みは永遠なのだ。この映画の年齢はギリギリ、15歳前だと思うが、それ以降になると夏休みの時は永遠ではなくなってしまう。しっかりと時を刻んでしまう。和彦を好きな直人が彼を見つめるために「この夏休みが永遠に続くことを願っていた」という。そこに薫がやってきて、その望みは断たれたかに見える。しかし薫は悠であり、今度は和彦を伴って湖に“飛んで”しまう。和彦は助かり、薫はまたしても死んでしまったように見えながら、また同じように夏休みの学校に戻ってくるのだ……そう、恋神(アムール)である悠は神ゆえに永遠であり、彼の世界に遊ぶ三人もまた永遠の時を刻む。もしかしたら現実世界では三人は悠とともに死んでしまったかもしれない。ここはすでに別の永遠世界、パラレルワールドかもしれない。

愛憎劇の輪から取り残されてしまったかに見える則夫だけれど、実は結構重要な役回りだ。彼がガラステーブルに五人(悠を入れて)に見立てて怪獣フィギュアを置き(後に金子監督がガメラシリーズを撮ることを考えるとなかなか興味深い)下から磁石で動かす。輪から外れているがゆえに見える彼らの関係性。一人だけガキっぽいやんちゃ坊主みたいな則夫を演じる水原里絵こと深津絵里、確かに面影はめちゃくちゃあるけど、なんとまあ、本当に少年そのものではないか!劇中、何度となく青虫からさなぎになり……というイメージショットが挿入されるのだけど、その後の彼女のことを想定しているわけでは無論ないにせよ、本当にその変貌ぶりには驚かされるのだ。……そうだこの青虫とさなぎのショット、決して、蝶になるところまでは映さなかった。やはり、閉じられた永遠性を暗示していたのだろうか……?

これ、アフレコで声を別の人が当てているのも面白い。悠と則夫は本人だけど、悠と同一人物である薫以下、和彦や直人は別の、それもモロ、アニメ系の声優さんが当てている。これもまたファンタジーであることをことさらに強調しているせいなのだろうか。ま、和彦や直人は則夫より少し年かさのイメージだから、低い声を出しにくい彼女たちのかわりに、ということもあるのかもしれないけど。

劇中、薫がヘッセの「デミアン」を引用する。「トーマ……」の中では授業にちらっと扱われる程度(ドイツが舞台だったから、いわゆるご当地作家ね)だったけれど、ヘッセもまた、少年世界の透明さを描くのに長けた作家だったから、ドンピシャで、ちょっと嬉しい。だって、個人的に、もおおお、ヘッセは大好きなのだもの!

おおおー!監督助手に篠原哲雄の名前を見つけて私は狂喜してしまった!うーん、こういう作品に篠原監督がついていたというのはまさにイメージぴったりで嬉しい。少女で、夏で、ゴーストで、月が輝いていて、ファンタジー。篠原監督そのもの!いいではないですか。

元ネタを考えれば浅薄だの、掘り下げ浅いだの言いたくならないこともないけど、実写だからこその、そして少女だからこその、この耽美さは素晴らしい。しかもこの制服!膝丈より少し上のズボン、紺のハイソックスを落ちないように止めているガーターみたいな靴下止めがやたらそそられる。この少女期のきゃしゃな、棒のように痛々しい細さの足だから一層耽美なのだ。うーん、いいねえ。★★★☆☆


全線GENERALINAYA LINYA:STAROYE I NOVOYE
1929年 84分 ソ連 カラー
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/グレゴリー・アレクサンドロフ 脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/グレゴリー・アレクサンドロフ
撮影:エドゥアルド・ティッセ 音楽:――(サイレント)
出演:マルファ・ラプキナ/M・イワーニン/ワーシャ・ブゼンコフ/I・ユーディン/コーシャ・ワシーリエフ/ミハイル・ゴロモフ

1999/8/16/月 劇場(銀座シネパトス)
エイゼンシュテインを初見。代表作である「戦艦ポチョムキン」さえも観ないで、これは無謀だったかもしれない……。サイレントであることさえ認識外だったものだから……。

時代もあるし、この地方の人はいまだにそうなのかもしれないけど、この諸手を挙げての社会主義ばんざい、みたいな、えーと、そうそう、プロバガンダって言うんですか?その感覚が強くってかなり腰が引ける。国の政策……コルホーズだのソフホーズだの……ことを無視して農場経営をやることに疑問を感じた一人のオバサンが孤軍奮闘する物語。内容があまりに現代感覚と共有するものがないもんで、引いてしまう。

それでもこの作品、圧倒的な力を持っているのは判る。ろくに意見もせず、せせら笑った、侮蔑の表情を浮かべてこのオバサンを見下ろしている村の人々のアップの迫力(少女さえも!)。サイレントならではの、文字画面の字の大きさを自在に変えた畳み掛けるような挿入。新しい機械であるバター製造機を息を飲んで見つめる場面のスリリングさ。

しかし……そう、コルホーズなんていう言葉が出てきたとたん、思わず地理の授業時間を思い出してしまってコトッと反射的に眠くなってしまった私。眠っちゃってラストどうなったか知らないのだ(笑)。★★☆☆☆


洗濯機は俺にまかせろ
1999年 102分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:松岡周作
撮影:上野彰吾 音楽:村山達哉
出演:筒井道隆 富田靖子 小林薫 百瀬綾乃 田鍋謙一郎 染谷俊 鶴見辰吾 菅井きん 橋本功

1999/5/5/祝 劇場(BOX東中野)
ああっ!篠原哲雄監督!あなたって人はなんだってこうも私の琴線に触れまくりの映画を作る人なのだろう!上映館を追いかけに追いかけた「月とキャベツ」から2年、ようやく観たかった篠原監督作品が来てくれた……!とはいうもののその間には「悪の華」があって、フィルモグラフィには加えられているものの、篠原監督を語る時には無視、あるいは腫れ物か何かのように避けて通られているんじゃないかと思うほど触れられていないけれど、それもむべなるかなで、どう考えてもあれは失敗だったもの。篠原監督のカラーじゃない。そりゃ、一つのタイプに括られるのは危険かもしれないけれど、やっぱりその人にはその人の個性ってものがあって、その中でどれだけ冒険できるか、勝負できるかが問題なのだから。かの大林監督だって、いずれも見事に大林ブランドな映画だけれど、驚くべき冒険をいつも見せてくれるもの。そして今回の篠原監督の新作はまごう事無き篠原ブランドで(と言っても「月とキャベツ」「草の上の仕事」ぐらいだけど……)かわいくて、切なくて、あったかくて、どうしようもなく心揺さぶられてしまうんだ。

この人こそ篠原ワールドの住人だ!とキャスティングを見た時からワクワクしていた筒井道隆氏。まったく、この普通なのにつかみ所がなく、とぼけているようで、優柔不断なのにまじめという得難いキャラクターをここでも存分に発揮してくれる。オープニングで、洗濯機修理に没頭している筒井氏扮する木崎が、暴走した洗濯機にしがみついて止めるのだけど、その後その洗濯機君はボンッと音を立てて後ろから火を吹き、白煙をあげる。そしてクレジットがポップな字体であらわれ、これまた筒井氏をイメージしたようなとぼけた、ほのぼのした音楽が重なっていく……。この音楽!全く篠原監督は音楽家に恵まれているというか、いい音楽家と親交があるというか、「月キャベ」の山崎まさよしのアコースティックな音楽もピタシだったけど、このどこか懐かしさをそそるような、牧歌的な音楽を作る人をどこから見つけてきたのか、全くこの世界観にしっくりはまってくれるのだ。

すでに貫禄の域に達する出戻り娘を演じる富田靖子どの。筒井氏とはそれほど年は違わないと思うのだけど、彼のとぼけた味わいもあいまって、そしてやはり演技のキャリアなのかなあ、彼女の迫力勝ちである。しかしやはり少女の面影をいつまでも残している彼女、あつかましいだけの出戻り娘になるはずもなく、あつかましさをあえて演じているのを演じている(ややこしいな)ところがなんともいいんだよなあ。そしてこの中古電器店の元従業員で、富田靖子扮する節子とはワケありの仲、今は借金で首が回らない大紙を演じる小林薫のこれまたとぼけた、ダメ中年の味わいが忘れがたい。彼と節子の、これは本当の別れになるんだろうと思わせる抱擁とキスのラブシーンは、ベテラン同士さすが出色で、後に木崎が「あんな節子さんの顔、はじめて見た」というのに首肯できるほどの、絶妙な泣き顔を見せてくれる。

「月キャベ」ではなんたって鶴見辰吾が素晴らしかったけれど、今回の脇キャラの出色は田鍋謙一郎!どこかアリキリのちっちゃい方(名前なんだっけ?)をほうふつとさせるような小柄な身体に、関西弁。東京に出てきて何一つ上手く行かないんだけど、どこか笑いを誘ってしまうような陽性を持つ関西人がとにかく絶妙なのだ。筒井氏は多分関西出身ではなくて、その関西弁もアクが強くないんだけど、この田鍋氏はさすがネイティブ関西という感じで、筒井氏と一緒のシーンでは筒井氏までちゃんとネイティブ関西弁に聞こえてしまうのだから不思議(普通逆だよね……人の力を引き出す力があるんだろうなあ)。しかし市川準の「大阪物語」もそうだけど、非関西人が描く関西の人って、優しい響きを持っていて、また違った魅力があるんだよね……。田鍋氏扮する吉田の実家はお好み焼き屋だけど、自分は本格的な料理人になりたくて、でもどこのレストランも長続きしない。料理の腕は天下一品で「これはな、フランス語で“口に飛び込む”ちゅう意味なんや」というオハコ料理で木崎をうならせたりする。いよいよどうにもならなくなり、裏ビデオの販売を始めた彼、届けた先で夫婦が盛り上がってコトをおっぱじめ、どうしていいかわからず硬直している彼を見た夫の方が「お兄さんのもしゃぶってあげなさい」と妻に言い(!)、そこですかさず手を縦にして小刻みに振るのとか、妻が襲ってくるのを(!)「ダメですて!」と言いながら必死に逃げ惑うとか、とにかく彼の出ているシーンは可笑しくてたまらないのだ。

何といっても良かったのは、彼が猥褻物販売でとっ捕まり、木崎が仕方なく迎えに行った帰り道の土手で二人の様子を撮影車にすえたカメラで自在にパンしながら追っているシーン。「また“口から飛び出る”食べさせてな」と慰める木崎。「お前、それは“口に飛び込む”や。口から飛び出るって、それじゃいつまでたっても食われへんやん」と返す吉田。もう大爆笑の会話のリズム。「ちょっと待って、メット忘れてきた(というか、途中興奮して落としたままにしてたんだけど)」と言って、今まで歩いてきた道の奥の方に走っていく吉田を見て、あ、ワンカットだ、と気付く。ワンカットというと、なにか緊張感を強いることで観客に感心させるようなところがあるんだけど、こんなすがすがしいワンカットワンシーンは初めてみるような気がする。

脱水が手回し式の(それを試した木崎がぺたんこになった靴下を見て「するめみたいやな」と言うのが可笑しい!)古い洗濯機を、今まで丁寧に使ってきたおばあちゃんが老人ホームに入るために木崎に託す。このおばあちゃんがなんと菅井きん。「この家で穏やかに死にたかったけどねえ」といってふっと黙り込み動かなくなってしまうおばあちゃんに「うそやろ、おい」と焦る木崎。揺り動かされてパチッと目を覚ましたとたんに鳴る柱時計(要するに居眠りしてたんですな)。ありきたりのギャグシーンなんだけど、菅井さんと筒井氏の絶妙ぶりできっちり笑わせてくれる。そこでお茶菓子として出されて、そのあとも老人ホームに入った後に手紙とともに筒井氏のもとに送られてくる干し柿。おじいさんが好きだったというその干し柿はとても丁寧に作られているのがとても良く判るもので、「月キャベ」で鶴見辰吾が毎年丁寧につけている梅酒を即座に思い出す。こういうアイテムに愛情を感じるのがまた篠原監督なんだよなあ!そしてこの洗濯機、スタジオ借りる金がないからと、いつも橋の上で練習しているサックス吹きの青年(染谷俊。彼、とてもよかった!)が安い洗濯機を捜していて、彼の元に行くことになる。「かっこいいっすね」とその洗濯機を大八車にのせてミュージシャン仲間の友人とともに去っていく彼の後ろ姿に、ああ、この人の元で大事にまた使われるな、と感じて心底嬉しくなってしまう。

ラストは、信州のラジオ局に行ってしまった節子のDJシーンで、彼女が木崎=コミック・ショーに曲を捧げているシーンと、節子が「自分みたい」と言った半自動の洗濯機を直している木崎のカットバック。そして直し終わった洗濯機をトラックに積んで木崎が出かけるところで終わる。……私、これは絶対節子の元に届けるんだと(ラジオで“まだ洗濯機だけがないんです”と言わせてるし、このカットバックだし……)確信したんだけど、ちがうかな?ああでも……私また観に行っちゃうんだろうなあ……。★★★★★


セントラル・ステーションCENTRAL DO BRASIL
1998年 111分 ブラジル カラー
監督:ヴァルテル・サレス 脚本:ジョアン・エマヌエル・カルネイロ マルコス・ベルンステイン
撮影:ヴァルテル・カルバーリョ 音楽:アントニオ・ピント ジャック・モルランボーム
出演:フェルナンダ・モンテネグロ/マリリア・ペーラ/ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ

1999/3/24/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
ほんとうに、驚くほどこの主人公の一人である代書屋のドーラ、「グロリア」に似ているんだ。風貌が似ている。役割も似ている。性格がひねくれているというか、一筋縄で行かないところも似ている。なんたって、代書屋をやっているのに、その手紙を査定して破って捨てちゃったり、そうでなくてもまともに投函しないんだもの。もう一方の主人公である母親を突然の事故で亡くした少年、ジョズエ。ドーラが一時の金欲しさで養子縁組斡旋所に売り飛ばし、実際は臓器売買組織であることが判って命からがらジョズエを救い出し、そこから少年の父親を二人の旅が始まる。このジョズエ、最初のうちは全く笑わず、いじらしいけれど、大して可愛い子には思えなかった。それが、途中、無一文になって、彼のアイディアで街角でドーラに代書屋をさせ、自分は呼び込みをするところになって、はっとするような花開いた笑顔を見せる。実際は本当に可愛い子なのだ。でもこの子、母親を亡くしてドーラに助けを求めたくても言い出せず、ただ立ち尽くしている時や、ドーラに置き去りにされそうになってバスから降り、カフェでぼんやり座っている時などの、本当にまっすぐとめどなく流れる、本物の涙に打たれてしまう。全身から本物の本物なのだもの。それに対するドーラ役のフェルネンダ・モンテネグロ、ブラジル映画を観るのはおそらく初めてなので、当然彼女も初めて観るのだけど、上手い、めちゃめちゃ上手い。言われなくても大女優だと判る、こちらは演技者の本物。
途中トラックに乗せてくれた殉教者であるという男性に惚れかけるドーラ。あからさまに邪魔物扱いにされ、寂しげに遠くから見守るジョズエ。男性を口説きかけた後、お手荒いで口紅を塗って出てくると、男はトラックで走り去るところだった。滑稽で哀れなドーラの慟哭。しかしその時のジョズエがいいのだ「あの人は弱虫だったんだね。いいことを言ってあげようか。さっき口紅塗って出てきた時、すごくきれいだった」少年の中にふと見える本物の男のきざしがたまらない。この時からドーラとジョズエが男と女に見えてくる。そう言えばその前からジョズエにはそんな所があった。「父親に会ってもらうんだから」とドーラに(自分にもだけど)ブラウスを買うように言うところ。そしてこの男との別れがあった後、代書屋で稼いだ金で、「僕が買ってあげるよ」と彼が手にしたのが、空色の、細かい模様が女らしいワンピース。生意気なー!と思いつつもドキドキさせられる。そしてこの時からドーラも明らかに変化していくのが判る。代書屋で書いた手紙もきちんと投函するあたりがその現れだ。
結局父親は見つからないけれど、彼の息子二人、つまりはジョズエの兄達に出会う。最初に現れた長兄、パッと見からとても好印象で、即座にドーラとジョズエの別れが予感されてしまう。ああ、この人ならジョズエと一緒に暮らすと、判ってしまうのだ。家に着いてみると、もう一人の兄はちょっと神経質そうな感じだけれど、ジョズエに大工仕事を見せてやったり、三人でサッカーに興じたりしている姿は、もうすっかり本物の仲良し兄弟で、ドーラの表情にすっかり出ていく決心が見えるのが切ない。
明け方、ジョズエにもらったワンピースを着て家を出るドーラ。ドーラがいないことに気づいて懸命に追いかけるジョズエだけれど、追いつけない。ああ、ドーラのワンピース姿を、ジョズエに一目見せたかった!バス停について、もうドーラが行ってしまったことを悟ったジョズエが、彼女と二人で撮った写真を(小さな箱のようなものの中を覗きレンズで見るようなもの)見て泣きながら見せる笑顔に、ほっと救われるのだ。ああ、この子は判っている、って。その同じ時、ドーラも同じ写真を見ている。まだ字の読めないジョズエに手紙を書いている。ジョズエはドーラの手紙を読むために一生懸命読み方を勉強するだろうな。でも、その手紙の内容は、ジョズエはもうすっかり判っていることなのだ。手紙なんか書かなくても、ジョズエとドーラには永遠のつながりがある。
ドーラの若い友人である女性(役名忘れた……)がマリサ・トメイみたいなチャキチャキでとてもいい味を出していたなあ。★★★☆☆
千年旅人
1999年 114分 日本 カラー
監督:辻仁成 脚本:辻仁成
撮影:渡部眞 音楽:Arico (監督)辻仁成
出演:豊川悦司 yuma 大沢たかお 渡辺美佐子

1999/11/28/日 劇場(シネマ下北沢)
とてつもなく打ちのめされてしまった。一日中その気分をひきずってしまうほどに。辻仁成監督が(ついにメガホンを取るとか言われているけど第一作で「天使のわけまえ」撮ってるのに何故?)こんな世界を描く人だとは。死生観、すぐそばにいる神様、孤独な魂、倒れ、朽ち、死に行くものの神聖な美しさ。どうしようもなく心が揺さぶられる。

荒ぶる日本海、海岸のすぐそばに切り立った崖、そこに寄りかかるようにして、誰からも忘れられたような古い民宿がひっそりとたつ。そこにやってくる死の諦念を体中にまとわりつかせた旅人、ツルギ(豊川悦司)。誰からも忘れられたといえば、この町自体がそうなのだ。取り壊し寸前の学校、全てが木造の、誰も住んでいる気配のないような古い家々が迷路のような小路の両脇にひしめいている。ツルギが、すでに鬼籍の人である彼の愛する洋子とふとすれ違う。そんなこともちっとも不思議じゃない、死と共存しているかのような町。

その洋子の娘であるユマ(後にツルギとの間の子であることが洋子の母(渡辺美佐子)によって明らかにされるのだが)が、ツルギに母親の墓はどこかと問われて彼を崖の上へと連れて行き、海を指差す。この町の慣習で、死者は舟に乗せて海へと送り出されるのだという。そうすれば、その人の魂が返ってきてこの土地に住み続けるのだと。そうだ……日本は死者に神様を重ねる国だった。そして自然に。海や山は空と接点を持っている。だからそこに神様が降りてくる。日本はどこにいても山を望むことが出来る土地だから、ことに山に神様を見ることが多いのだけど、能登半島で撮影されたというこの土地は、山もそうだがそれ以上に海が圧倒的な力を持つ。まさしく外界から隔絶する荒々しい波。寒々しい色。

民宿を切り盛りする祖母と一緒にこの海辺でひっそりと暮らす少女、ユマ(yuma)。彼女は片足が義足である。母親が死んだ交通事故の時、彼女は母親だけではなく、片足までなくしてしまったのだ。彼女は海の向こうに舟が通りかかる度に大急ぎで小さなさびついたやぐらに駆け上がり、紅白の手旗信号を送る。“こちらはユマ、16歳。この海辺の監視員です。”そして“私はここにいます。”……私はここにいます、ここにいます!この誰もいない海辺で何年もずっとずっとそう信号を送り続けていたユマを思うと胸がつまる。彼女はここから外の世界へ出たことがない。出たいと思っているわけでもないし、母親の魂が住むこの場所は彼女にとっての唯一の場所なのだろう。でも、この強烈な孤独感はどうしようもない。誰か答えて!私はここにいるのに、だれも気づいてくれない!そう叫ぶ彼女の心が見える。

でもユマはとても快活な少女なのだ。オーディションで辻監督自ら選びだしたというこの少女、大正解だった。中肉中背の好ましい肢体、顔立ちはいたって普通である。普通……今時こういう“普通の顔”はかえって見なくなった。健康的にふっくらとした顔に、おかっぱの髪。彼女は母親が残したという(実はツルギがその彼女の母親に贈った)アリアをいつでも声高らかに歌っている。その何のてらいもない無垢な歌声に胸をつかれる。そしてきれいな発音の日本語がなにより素晴らしい。彼女は時々ドキッとするほどきれいな表情を見せることがある。ツルギの自転車の後ろに乗って、背中で寄りかかりながら目をつぶるその顔、自殺志願のトガシ(大沢たかお)を窓越しに見つめる柔らかな微笑、そして何より、初めて祖母に化粧してもらって、死に瀕しているツルギの手を握り締めて涙を落とす姿が。けがれのない少女。

そのツルギを演じる豊川悦司。“演じる”というのがはばかられるほどの凄まじさ。もともとそういうタイプの役者さんだとは思っていたけど、その役の人物になり(なりきり、ではなく)その役を生きてしまう彼は、だから死相が出ているようにさえ見え、本当に死んでしまうのではないかと恐ろしくなるほど。彼はある日唐突にこの海岸を歩いてやってくる。民宿とは名ばかりで、宿泊客などほとんどやってこないのだろう、海辺で歌を歌っていたユマは驚いて、走って祖母に知らせに行く。伸び放題の髪、よれよれの薄い茶色のコート、白のシャツをボタンをとめるのもうっとうしそうに胸元を軽く開けてやっと着ているといった風情の彼。再三、彼が自ら注射をうっている場面が出てくる。ヤク中かと思いきや、そうではなく、彼は余命一ヶ月の診断を受けて、痛み止めの薬をひと月ぶんカバンにつめこんでこの土地へと帰ってきたのだ。……死に場所に。

浜辺に朽ちた舟が打ち棄てられている。ロングショットでその舟にゆっくりと近づくツルギを捕らえる。息を飲むほどに美しい場面。朽ちて荒れ果てた舟が何故これほどに美しく感じるのだろう。彼はその舟の修理を始める。最初は何故彼がそんな事を始めるのか判らない。しかし、彼が見る、死者の舟を送り出す夢が何度も挿入される度に、彼が自分の棺を作っていることに薄々感づいてくる。

そんな中、自分の娘と知らないながらもユマとつかの間の幸せな時間を過ごすツルギ。彼女に手旗信号を教えてくれと言うツルギにユマはうなずき、手本を見せる。「なんて言ってるんだ?」彼女はニコリとして「ワ・タ・シ・ハ・ツ・ル・ギ コ・コ・ニ・イ・マ・ス」無意識にも孤独感を共有する二人はもはや孤独ではない。ツルギがここにいること、ユマがここにいること、それをお互いちゃんと判ってる。海辺で二人手旗信号の練習をする場面のなんと美しいことか。

死を覚悟するなどという段階をとうに過ぎ、死を受け入れたツルギと対照的に、死にたくてたまらない(少なくとも表面上は)トガシが唐突にこの土地にやってくる。彼は携帯電話を何度もかけているがつながらない。この地形だと無理もないと思いつつ、いや、そうではない、この土地は死者の、神様の降りる土地だからだと思われる。彼は海に入っていったり、手首を切ったりして死のうとするが、そのじたばたした動的エネルギーは、殺しても死なないほどにパワフルである。ユマはそんな彼が好きになる。無自覚的にもユマの父親のような感覚を持ちはじめるツルギは、そんな彼女を心配する。そりゃそうだろう。彼女はあきらかに今まで祖母以外誰もいなかった自分の生活に人がいることにはしゃいでいるのだ。自分は近々否応無くいなくならなければならない。見るからに風来坊のトガシがいずれ去ってしまうのは目に見えている。しかし、死の直前、ツルギはトガシに、ここを去らないでくれ、と請う。トガシは覚悟を決めた顔でそれにうなずく。……トガシはその後姿を消してしまうのだけど……。

ツルギやトガシといった、今までいなかった人がいることによって、その人たちが再びいなくなることを意識し、今まで以上の孤独を感じるユマの痛々しさがたまらない。彼女は縁日でトガシがとってくれた金魚を「外の世界が見たいでしょ」と瓶に入れて海に流す。外の世界に憧憬を感じているのは彼女自身なのだ。瓶に入っている金魚はまさしく彼女の象徴。そして自分の聖域である、“神様からの贈り物”である漂流物を無数に飾り、ピアノを置いた洞窟で、「お前だけはここにいるよね」と漂流してきたフランス人形の片足を、自分と同じようにハサミで切り落とす……絶望的なまでの孤独感。そうか、漂流物だ。ツルギとトガシは、今までと違って“行ってしまう”漂流者なのだ。

トガシが力尽きたツルギに替わって舟を仕上げる。出来あがったその日、それまで寒々しい曇り空ばかりだったのが、まるで南国の夏の空のように真っ青に晴れ渡っている。ああ……ツルギを迎えに神様が降りてきたのだ……きっとそうだ。その棺となる舟が白く飾られ、そこについに力尽きたツルギが安置される。海岸を、白装束の長い長い一列がロングショットで捕らえられる。静かな静かな、白い葬儀。死に対する悲しみではなく、その壮絶ともいえる神聖(神性と言うべきか)な美しさに落涙を抑えることが出来なかった。燃やされる白い舟。高く、赤々と燃え上がる舟。

冬が過ぎ、再び夏がやってくる時、新しい義足の調子も良く、元気になったユマ。そして海岸のずっと向こうから男が一人歩いてくる。そう、トガシが戻ってきたのだ。おそらくすべての物事を片づけて、ツルギとの約束どおり、ユマのそばにずっといるために。……それが、冒頭、ツルギがやはりこの海辺に来た時と同じような色と丈のコートを着て海岸線を歩いてくるのである。輪廻。本当に震える思いだった。またしても落涙である(涙腺弱し)。

日本人の、いや人間の魂の根源を、その孤独が美しいということを、その思いをスクリーンに映し出すことができるのか……神様が宿る映画というものがあるならば、きっとそれはこんな優しさに満ちたものなのだろう、と思う。★★★★★


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