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王女メディア/MEDEA
1970年 110分 イタリア カラー
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:エンニオ・グァルニエリ 音楽:(構成)ピエル・パオロ・パゾリーニ/エルサ・モランテ
出演:マリア・カラス/ローラン・テルジェフ/ジュゼッペ・ジェンティーレ/マルガレート・クレメンティ
カメラがある限り、それが例えドキュメンタリー作品であったとしても、作家、あるいはカメラマンの主観というのは入ってきてしまうわけで、それを排除する一つの方法としてはありなのかな、と思う。徹底的にメディアの主観で描くこと、それが真実かどうかはさて置いてということ。彼女の中で大して影響のなかった時間は省略され、人生の重要なファクトは繰り返しフラッシュバックされる。ラスト、自ら火を放ち、子供たちとともに炎の中に消えた彼女を、確かにカメラのこちら側からとらえてはいるものの、見切れるほどの接写で顔は火の熱さと精神の苦痛で歪み、そしていきなりカットアウトされるシーン、彼女の主観と言っていい表現なのでは?
後半はそうした描き方なのだけど、困ったのは前半で、まあ、ここまで台詞なしに行かれるとねえ……しかもしかも、時々ある台詞が訳が判らないものだから、余計に困ってしまったりして。イアソンを冒険へとけしかける(?)父親代わりの半身半獣が最もわけが判らない……成長したイアソンの前に現れる時にはなんだかいきなりドッペルゲンガー!?ま、それもエウリピデスのギリシャ悲劇を勉強してれば判るんだろうけどさ……でもパゾリーニは、それとはほとんど関係なく撮ったと言ってるらしいけど??
折々、メディアを面白い切り取りかたをする。壁画の古代彫刻にあるみたいな、真横の横顔のまま固定するやり方。あるいは、斜めの角度からの顔のアップなんかも、そのまま微動だにせずに喋るメディアは、やはりさながら頭部だけの彫刻のようなのだ……。夫、イアソンと睦みあっているときのメディアは人間的な上気した美しさを感じるのに、こうしたシーンに象徴される彼女は、やはり美しいけれど、不気味。
一番気になったのは、全編に流れている音楽だ。この時代、この地域の民族音楽のようにして流れる、原始的な弦の響きとあいまいな発音の呪文的な人間の声による旋律、これが、日本の民族音楽にそっくりなのである。東北地方か、あるいは上越地方かどこかで、こういう民謡のような、詩吟のような、もっと伝統的に古い原始的な音楽を確かに聞いたと思えるくらいに。それよりも雅楽に近いかもしれない。笙のような響きもあった気がするから。偶然の一致?それとも本当に実際に日本の(あるいは中国とか、東アジアのどこかかも知れない)伝統音楽を使ったのだろうか。
メディアの魔法にかけられて(?)死んでしまう城のお姫さまが、ビビアン・スー似でちょいと可愛かった。★★★☆☆
別に物語を語ってほしいと思っているわけじゃない。観客が受け取るのは物語ではなくて、映画が発する“力”のようなものだと思っているから。でも今まで黒沢監督の映画にはどちらかといえばストーリーはあったと思う。これが例えば北野武監督の映画のように、設定と結末だけが用意されていて、あとはそれに見合ったエピソードというよりはショットの積み重ねと言ったらいいか、そうして映画を構築するタイプの監督では、黒沢監督はなかった。本作はそうした北野タイプの映画のように見えるのだが、北野映画がそのショットの積み重ねによって、なかったストーリーが出来あがっていくのに対して、黒沢監督は多分意図的にストーリーが出来上がるのを拒絶しているように感じる。ハル(武田真治)とミチ(唯野未歩子)の二人がただそこにいる、そのショットの積み重ねによって彼ら二人の関係性と、その方向を示唆していくような、そして二人を通してその世界を語っていくような意図なのかと思う……けれど……
でもそれが観客の中に結実しただろうか?それとも何も受け取れなかったのは私だけなのか?時は“世紀末の喧騒も、新世紀を迎えた高揚も過ぎ去ってしまった”2005年らしい、うん。ミチは郵便局で国際郵便の小包管理をしている、ハルは音楽関係の仕事をしている、うん。判るのは、そこまで。非常ベルが鳴る中女が駆け込んできたり、女やミチがビルから飛び降りたり(「神田川淫乱戦争」のラストショットに似ている)、不安定な模様をつけて壁に色を塗ったり、海にガイコツが流れついたり、それを見たミチが「ねえ、このまま終っちゃうの?」と泣き出したり、サッカー応援団の楽隊が街に繰り出すと黒服の集団とはち合わせたり、その黒服の集団にハルやミチが鉄パイプで殴られたり……と並列的なエピソードを記していくとキリがないのだけど、とにかく、そうしたショットのすべてが意味があるように見えながら理解の範疇を超えてるし、その積み重ねによって二人の関係が見えてくるかといえばそうでもないし、ハルとミチが大なり小なりの不安を抱えているということが予想できる(判る、ではなく)ぐらいで。
本作のメインともいうべき、花粉症の話。大量の花粉が街中に舞い、人々はガスマスクのようなものをして歩いている。一人の男がハルに話し掛ける。「花粉症の新薬がある」その薬の副作用は生殖機能が失われること。ハルは別に気にすることなくそれを飲み続ける。そしてミチもまた服用していることが判る。二人の愛は結婚でも、セックスでも、それによる子供を作ることでもないという帰結なのか。別にそれはいい。愛がそんなものじゃないと言うのはいいとは思う。でも二人の“愛”はそこに存在しているのか?それまで映画で、あるいはもっと一般的に世間であるようなタイプの愛ではないというのかもしれないが、ハルとミチに私はどんな形にしろ愛を感じることは出来なかった。ただ戸惑っている、特に、ハルが。ミチを演じる唯野未歩子はある意味あきらめてしまったかのように淡々と動きをつけているという感じなのだが、ハルを演じる武田真治は、どうにかしてそこから何かをつかもうとしながら、でもつかめなくて、あの軽く微笑んだような戸惑いの表情を浮かべてさまよっている。それが魅力といえばそうだが、映画とは関係ないところのチャームであるし……。ここでの唯野未歩子はどこか少し前の深津絵里を思い出させる。頼りなげな細いうなじ、きゃしゃな肢体。
ハルはよく、“消えて”しまう。ハルの周囲で交わされる会話、ジャマな人間に対して「消えろよ」「消えて」「いいから消えてください」と、特に考えもせずに発せられる残酷な言葉、それに過敏に反応するように。外の緑に吸い込まれるように、壁に溶け込んでしまうように、消え入ってしまう。しかしそこから何を感じ取ればいいのか?正直言って、画像の特殊処理に対する、へえー、といった程度の感想しかもらすことが出来ない。
ハルとミチの他に特筆すべき人物を出してきていないせいなのだろうか。もちろんそれは意図的にではあるのだろう。ハルとミチがそこにいることを一番大事にしているのだとは感じるけれど、触媒となるような人間がいないことで、二人の距離は一向に縮まる気配を見せない。なんにせよ、私は前述の、ハルを演じる武田真治のような表情で戸惑うしか出来なかった。判らないから、けなすにしてもどうけなしていいのか判らない。もしこれを傑作だと皆が言うなら……私には映画を感じ取れる力、読解能力がないのだとあきらめるしかない。★☆☆☆☆
ちょっとちょこんとした鼻が完璧な美少女になるのを妨げていて、それが逆にとてもキュート。中盤、髪を切ってからの彼女はこれまた輝くようにチャーミングで、真心ブラザースの挿入歌(タイトル、何でしたっけ……)に乗せてトオル(南野公助、この子のぶっきらぼうなのに優しい感じ、良かったなあ)と自転車に二人乗りして疾走するシーンは心の中で“可愛い可愛い可愛い……”と呪文のようにつぶやいてしまった。
カメラを見据えるちょっと不安気な瞳、つぶやくような可愛らしい大阪弁、もうとにかく私の琴線に触れまくりなのだが、それ以上に驚くのは、彼女の演技力で、いかにも上手い!という演技っぽい演技をしない、ナチュラルな、それでいてリアルな、口先ではなく全身でそれをやってのける、まさしくテレビではなく映画女優!
勿論、沢田研二と田中裕子はもう素晴らしいなんてもんじゃなく、この劇中でも、そして実際にもなんて素敵な夫婦なんだろうとドキドキしてしまう。沢田研二扮するりゅう介はあかんたれだけど、冴えない芸人で、カッコもだらしないけど、やっぱり色気があって、例えばそう、彼が姿を消す直前、池脇千鶴扮する若菜に「お父ちゃん、カスか」と問い掛けるあの声の微かに漂う枯れた感じの色気にゾクゾクしてしまう。
そしてそして田中裕子!やっぱり彼女は最高なのだ!小作りな顔と頼りなげな首がたまらなく可愛らしく(年関係なく美少女のカテゴリーに入れたいくらいだ!)、アホな夫を罵倒しながらも支える姿のけなげさと凛々しさに涙が出てしまう。全く彼らの漫才を聞いていないいわゆる営業の席で、りゅう介が昏倒してしまう、その時に見せる二人の見えない結びつきがたまらなく素敵。「あんたが終いなら私も終いや」と言うはる美(田中裕子)にりゅう介が足で彼女の頭をなでるユーモラスなシーンが、なぜだか感動してしまう。りゅう介が失踪し、彼を探していた若菜が戻って来て目にする、愛人の子供を抱いたはる美と若菜の弟が怪我をしたりゅう介のベッドにたたずんでいるシーンもまた……。そしてりゅう介の望みどおり、二人並んだ、夫婦漫才やってるようなお墓を注文し、その上お線香あげに来た人をセンサーで感知して二人の漫才を聞かせるという装置までつけたはる美に泣き笑いしてしまう。愛人さんには申し訳ないけど、彼女以外にりゅう介の伴侶は考えられないのだ。
脇役陣も皆とても素敵なんだけれど、やはりちょっとの出演ですっかりさらってしまったミヤコ蝶々に尽きるでしょう。「一度住んだらどうしても大阪でなくてはいかんようになってしまうんや」……その切々とした口調、市川監督でなくても、超アップで撮りたくなる不思議な魅力、それを聞きながら涙をためる池脇千鶴(ミヤコ蝶々の魅力に負けてない!)のアップを交互に映し出すこのシーン、なぜこんなに感動的なんだろう!
市川準監督はもう本当に激ラブなんだけれど、今までも充分魅力的ではあったけどやはり少し静謐すぎた感じだったのが、そして前作「たどんとちくわ」でそれを払拭しようとしたのか、でもそれも空回りだったのが、この「大阪物語」での明るさ、そして切なさ、そして勿論市川監督の独壇場である静謐な魅力もしっかり発揮してて、いい意味での大衆アピール度大幅アップである。市川監督が真心ブラザーズや尾崎豊の歌を効果的に使うなんてびっくりだし、いやそれよりも前に、あれほど東京にこだわりのあった監督が大阪を舞台に、それもこんな素敵な作品を撮っちゃうことにひたすら感動した。やはり脚本家、犬童一心氏の力は大きいだろうなあ。彼もまた、東京人でありながら大阪映画の傑作「二人が喋ってる。」を撮り上げた人だし、そこでの主役、トゥナイトや素晴らしき脇役坂田利夫氏らもしっかり顔を出していて嬉しいのなんの。コテコテにならない大阪弁の魅力を描ける犬童&市川は最高のコラボレーション、大阪ものに限らずぜひまた組んで欲しい!★★★★★
冒頭は、前作でもっとも感心したオースティン芸の一つ、急所隠しをこれでもかと見せつける。ま、前作の方が粋な感じ(!?)だったけど。前作でめでたく結ばれたミス・ケンジントン(エリザベス・ハーレー)が実はフェムボット(何でもアメリカの人気テレビ番組の中に出てくるロボットらしい……またしても乳波動だ!)だと判明するも、オースティンは「これでまた独身じゃーん!」と、懲りない。宿敵、イーブルがオースティンのパワーを奪うために、オースティンが冷凍保存された二年後に、タイム・ワープ!オースティンもそれを追い、またしてもおバカなバトルが始まるわけだ。
冒頭もう一つのエピソードとして、まあ、こりゃ、みのもんたの番組か、バラ珍かなんかかい?と思わせる、これまた90年代を象徴するようなテレビ番組に、イーブルの息子が出て、世界征服を企む父親との不仲の悩みを切々と訴える。ラストもしっかりこの番組でシメて、今度は意外な人物が母親であったことが明らかにされ、感動の(笑)親子の対面がなされるわけだ。ま、それは置いといて、このイーブルと息子との対話シーンの抱腹絶倒さは今作の出色だ!息子が何かを言おうとすると、イーブルが「シッ!」と執拗に封じ、「www“シッ”jp.com.」なんぞというんだから、もう大爆笑!“日本語のつもり”でたらめ語を話して、ここに字幕が出てる、と言うのも笑った。今作に関しては、オースティンよりもイーブルのキャラの方が立ってた気がするなあ。あ、でもテントの影絵で、オースティンの尻から色んなものが次々に出てくるように見えるギャグは笑えた!ちょっとしつこく出てくるあたりがイイのだ!
そうそう、タイム・ワープといえば、タイム・パラドックス。冷凍保存されている60年代のオースティンのところに90年代のオースティンが駆けつけるだけでもその肉体が二分されてしまう矛盾があるのに、さらに10分後のオースティンを助けるために10分前にタイムワープする、なんてことまでやり、その二人でそろって90年代に戻ってしまうというムチャクチャさ。一緒に90年代についてきたCIAエージェントのフェリシティー・シャグウェルと3P状態になっても、お互いがハンサムと認め合う(笑)本人同士だから気にしないというあたりもスゴイ。しかし、これだと冷凍保存されていたオースティンの肉体が置き去りにされている気がするけど……いやいや、それを言ったら、この時間差の二人が同時に存在してること自体がもうオカしいんだからなあ。でもでも、ならばなぜ、イーブルにはその現象が起こらないんだろう!?過去にタイム・ワープしたイーブルを若かりし頃の部下(bQの若い頃がロブ・ロウだ!)がちゃんとお迎えにあがってて、若いイーブルが存在しないのは何故!?
今回のオースティン側のヒロインは、ヘザー・グラハム。前作のエリザベス・ハーレーが90年代の女性だったのに、60年代にいるはずのヘザーよりも60年代ぽくてクールだったな。そして、イーブル側の新キャラは、イーブルの1/8版だというミニ・ミー。何がどうして1/8にしなきゃいかんのよ、というあたりからしてもう可笑しいのだけど、ほんとにイーブルの性質からしぐさからまんまコピーのこのミニ・ミーとイーブルのコンビぶりは、予想通りの面白さ。調子に乗って、二人でピアノを弾き、ラップまで歌っちゃう。このミニ・ミー、単独でも面白い。オースティンとの一騎打ちになる場面では、鉄柱にガンガンぶつけられてもベシャッと投げ捨てられても、全然ダメージを受けないのが恐ろしく可笑しい。
拡大公開になったせいでもないんだろうけど、やっぱり、前作にあった、いい意味でのカルトっぽさ、60年代イギリスに対するオタク感覚が、それよりかはキャラ重視になってしまって、全体の印象が薄まってしまったかな、という気はする。そう、今回、オースティン、イーブルの他にファット・バスターというこってりデブもマイヤーズは演じているんだけど(全然判らなかった!)、ここまで出してしまうと、そうした全体を覆うテイストがキャラによって殺されてしまう。そのオタク感覚を取ってしまえば、本当にただのおバカしか残らないものなあ。いや、それだけでも充分面白いんだけどさ。うーん、それともただ単に、最初の新鮮な感覚には勝てないということなのかなあ。オースティンがシャグウェルに90年代のことを聞かれた時、それなりに面白い(あまり個性のない)年代、みたいなことを言っていたように思うのだけど、ほんと、そうなのだよね。60年代、70年代、80年代、とそれぞれどこか泥臭さを持ちつつも個性的な時代であったのが、その泥臭さが消えて、なんだか薄ぼんやりした“洗練”さの時代になった。すべての良さを内包しているとも言えなくもないけど、やっぱり90年代はエポック・メイキングなものをついに持ち得なかった時代なのだ。オースティンワールドが薄まってしまうのも当然なのかもしれない。
やはり、観る側も、単館公開の時にはバカバカしさに対して肯定的に面白がっていたのが、妙に認知されて、ポピュラーなカルトさ、とでもいう矛盾した状態になると、やっぱりともいうべき否定的見解が出てきたりして、ケンケンガクガクやってて、ああ、こんなのって、違うよなあ、と映画そのもの以外のところでなんだかちょっとガクッときてしまう。まあ、とはいうものの、すでにオースティンワールドにからめとられている当方としては、やはりごひいきにせずにいられないんだけど。前作でたまらなく好きだった場面の転換ごとに出てくる、オースティンのボーカル率いるバンドの演奏が、今回は、ただオースティンとオネエチャン達が踊りまくっているだけだったのがちょっと残念。★★★★☆
悪夢。夢の中で夢を見る。デジャ・ヴュ。全て私たちの身に確かに覚えのある体験。そう、悪夢って、いかにもな、地獄を描写するようなものではなくて、身近な人が出てきて、その言動に傷つけられることだったりするのだよな……信頼しているはずの人だからこそ、その思わぬ言葉に傷つく。私も今まで見た中で一番の悪夢は、母親にけなされた夢だったもの。
一度寝た女とは二度と寝ない、自由で、裕福で、ワガママな人生を送っているセサールが、ある日ストーカーまがいの女の車に乗せられて車は暴走、女は死に、セサールの顔はめちゃめちゃになってしまう。色男で通してきた彼に降りかかる突然の悲劇。医者に当たり、荒れ、恋人や親友からもすげなく扱われる彼は、その辺りから夢と現実の境い目が狂い出す。彼は何度も何度も目覚め、デジャ・ヴュを体験し、よりを戻した恋人とベッドインの最中、その恋人は死んだはずの女になり、直ったはずの顔を鏡に映すとやはり醜く崩れている。しかし女は本人だといい、彼の顔は崩れてなんかいないという周囲の言葉に、セサールは次第に本当の狂気に陥っていく……。
実は彼の人生はこれらが語られるなかばあたりでいったん終了していて、彼はいわゆるコールドスリープ会社と契約、その中にある契約事項“死んだ事実をさえ忘却させる”ことによって生じた副作用とも言うべき悪夢を体験しているということなわけだ。その事実を突き止めたセサールの目の前には、街は広がっているけれども、人は必要な登場人物以外誰一人おらず、音さえもしない。目の前にはニヤニヤと笑いながら立っている、この夢会社の社長が一人。
最も怖いのは、セサール自身の体験ではなく、彼の悪夢の登場人物に設定されている人物だ。夢の中の登場人物の一人にすぎないとこの社長に言い放たれて、そんなはずはないと頭を抱えて苦悩する、セサールの顧問弁護士は、やはりただの登場人物にすぎない。しかし彼には彼自身がそう思い込んでいるだけにせよ、彼自身の築き上げてきた人生があり、それが幻想にすぎないと、お前が主人公の人生などないのだと言われることの恐怖は想像を絶する。パチンと指を鳴らしたら消え去ってしまうのだ、と言われることの、お前などいらないと突き放されることの、これ以上ない恐ろしさ。夢を管理しているマスターが存在し、夢の主人公であるセサールの意志が夢の展開を容易に左右する。主人公の意志によって……という辺りは違うが、思えば本当に「トゥルーマン・ショー」にそっくりだ。制作年度は本作の方が先。ひょっとしたら、「トゥルーマン……」にヒントを与えているかもしれない。
ある意味、こんな単純な発想の作りの映画はないかもしれない。映画は夢、フィルムの光の明滅はほぼ半々の割であり、私たちはその映像の半分の時間しか体験していないという。いわば半分は眠った状態であり、その時間は、体験した映像を記憶でつなぎあわせていく。そこに観客それぞれの解釈や、違った見方があらわれるともいえる。映画はそういう意味で、ただひとつの、同一作品ではないのだ。そしてその映画を供出する監督がいて、右往左往している観客を見て楽しんでいる。そして映画に出てくる登場人物はどんなにリアルに見えてもただの登場人物にすぎず、実在の人間ではない。演じる俳優をそのキャラに重ね合わせて見ることは許されない。まさしく本作の展開そのものが映画の本質と言える。
しかし本作で描かれる夢は、自分がモンスターだと思い込んでいるとか、死んだ女が蘇るとか、ちょっと幼稚かと思われるほどの展開なのだ。もうこのあたりで、これって夢だというオチなのかな、と思うのだけど、いやまさか夢オチだなんてそれじゃあんまりだ、と思ってたら、ほんとに夢オチで、正直ガクッとしてしまった。これで東京国際映画祭のグランプリとはやや首を傾げてしまうのだが……それに監督はまだ20代と、恐ろしく若い。ちょっとこの評価は先走りすぎていないだろうか?もともとビジュアル的なものである悪夢の構築やその映像化にそれほど高い評価を与えるべきなのだろうか。もっと難しいことにチャレンジしている人がいると思うのだけど……。★★★☆☆
中村雅俊扮する修がある日突然、理不尽な人事を受け、疲れた心をなぐさめる意味もあって、少年時代を過ごした那須高原へとやってくる。途中、家族からのけ者扱いされて心を閉ざした少年、直樹と出会い、修は少年時代を回想しはじめる。映画の主軸は、この少年時代のオサムの物語。東京からの疎開である坊ちゃんがりにしたオサムは、いがぐり頭の土地っ子にいじめられっぱなし。唯一味方であった一人の少年も父親の仕事についてその土地を離れてしまう。オサムの父親はいまだ夢見がちな自称絵描きで、「インスピレーションがわいた」といっては、契約途中の東京の印刷工場から帰ってきてしまうありさま。このオサムの父親を演じているのが、まさしく絵描きでもある榎木孝明というのがいい。少々夢見がちなところも妙に似ている(失礼)。
そしてこのかいしょなしの夫に悩まされ、一人家計を切り盛りする母親が手塚理美。この手塚理美が微妙でいいんだ。彼女、結局坊主頭になってしまうオサムに「みっともない、東京じゃそんな頭をしている子なんて誰もいないよ」と言うんだよね。それは、オサムのプライドが屈してしまったことに対する憤りのようにも聞こえるけれど、彼女自身の、自分はこんな所でこんな生活をしている人間ではない、というオゴリの方を強く感じるのだ。確かに彼女は気丈に二人の子供を育てていて、生活のためにとマッサージの資格を取るんだけど、その先生であるマッサージ師といい仲になり、うちを出てしまうのだ……置き手紙には、絶対に迎えに来る、とは書いてあったけれど……。オサムの兄はそうした母親の“女”の部分をやっぱりオサムよりは察知することができるから、苦々しい思いでそれを見ている。そういうことに対して興味と嫌悪感を同時に持つ難しい年頃であるこの兄の苦悩の方が大きかったかもしれない。
女の部分が見え隠れしているのがオサムの母親なのだとしたら、女のフェロモン大爆発しているのが川の上流に美容室を構えている、昼でも夜でも晴れでも曇りでもいつでも真っ赤な傘をくるくるまわしてらんらん歩いているマチコ(春風ひとみ)。このマチコはケッサク!どうやら彼女は“こども”に対してなみなみならぬ思い入れがあるらしく、まさしく妖女、そのものの目つきで、オサムが頭を刈りに美容室をおそるおそる尋ねると、待ってましたとばかりに撫で回し、オサムを恐怖のドンゾコに突き落とす。しかし、こういうちょっとオカシイ人がすんなりと共存していたのが昔の日本、だったのだろうなあ。どんな人にも居場所があって、存在意味があった。今では言ってみれば平凡な人々にだけ手狭な領域が確保されているだけ、という気がする。
そしてこれもまた、そうそう、こういう先生いたよなあ、と思わず嬉しくなってしまう、おっかなくて、ええかっこしいの男の先生、石橋蓮司!もう、あまりにはまり役過ぎる。授業参観の時だけ完璧な授業を演出しようとする先生をまんまと裏切って校庭ではしゃぐ生徒達、この痛快さ!こういう先生もまた、必要だったのだ。そう、まさしく文字どおりの反面教師。ある人間の側面を実に明瞭に見せてくれるという意味で、まっこと人間くさい、いい先生だ!
オサムに、自分にはたった一人味方がいる、それは自分自身だ、と教えるきっぷのいい青年、原田龍二。彼は具体的な形で生き方や、生き物の生き死にを教えてくれる。オサムが可愛がっていた犬、レオが、突然姿を消し、林の中で死んでいたのを発見すると「誰にも迷惑をかけずに死んだんだ、えらいやつだ」と自分の自慢だった闘鶏の隣に葬ってやる。哀しい時や辛い時には「ふんばるんだ、オサム!」と叱咤してくれる青年。結局この言葉がこの映画の最大のメッセージになっているのだ。少年時代を懐古することではなく、今の自分に居場所を見つけてやること。現代の傷ついた少年である直樹を元気づけるために話しはじめたはずの少年時代の思い出が、修自身にこの言葉を蘇らせることになる。学歴地獄に陥っている直樹が、そんなに簡単に立ち直れるとも思えないけれど、ま、それはそれ、奥の手である“少年時代の修とレオ”の幻まで見せたわけだし、そんなツッコミは野暮というものか。
そう、そんなツッコミをするのは許されないほどのまっすぐなピュアさがありながら、先述した“女”の部分や、金が人をさもしくすること、表面をとりつくろう人間の愚かさもしっかり描いている点で、これは単なる風景映画やノスタルジー映画ではない(もちろん、そうした側面も魅力的だけど)、正しい意味での誠実な作品。しかしそうした人間をもまた、愛しいものとしてとらえているのが素晴らしいのだよね。そう“どんな人間にも居場所がある”!居場所どころか、堂々と、威張って生きていく場所を確保していていいのだ。これがこの映画のテーマだと思うなあ。学生時代の私に聞かせてあげたい……。★★★☆☆
戦争ものだが、まさしく“教えられなかった戦争”なのである。この事実は多分沖縄の人なら普通に知っていることなのだろうけど、それを、いわゆる本土の人たちが全くの無知であるということの恐ろしさ。沖縄基地問題から発展するさまざまな戦い、ベトナム戦争までも孕んで繰り広げられる人間のエゴの恐ろしさ。戦争による残虐さは、戦争中にだけ起こることではない。いやむしろ、戦争が終わった後に、自国や敵国が取る対応によって、いかに無関係の人々が理不尽な事態にさらされるか、ということのほうが恐ろしいのだ。なぜなら、戦争中のパニック状態とは違って、そこにはもう既に冷静に考えられる状況があり、それでもなおかつ見て見ぬふりをされてしまう、見捨てられてしまうという事実ほど人間を不信に陥らせるものはないから。
アメリカと日本が世界のGNPのほぼ半数を占めているというこの事実を、一体どれだけの人が知っているのだろう、そして、その安楽さにあぐらをかくだけでは物足りなくて、さらに安楽な生活を求めるために米軍基地とそこから発生する土地問題、理不尽な逮捕、虐殺にさえ目をつぶる……日本は、あの戦争によって平和の大切さに目覚めたのではなかったのか。こんなことを知ってしまうと、あの二発の原爆を得意になって掲げて、その裏に沖縄問題を隠しているようにさえ思えてくる。いや実際そうなのだ。
それにしてもアメリカという国はなぜそんなに戦争をしたがるのだろう。それに裏で荷担している形の日本も最低だが。阿波根さんが言うように、日本中、世界中の人が戦争に反対だといえば、世界に戦争は起こらないはずなのに、そして誰一人だって戦争を望んでいるはずはないのに、まるでアメリカはすべての戦争が正義のもとに行われていると言わんばかりなのだ。ベトナム戦争に従軍していた海兵隊員が述懐する“ベトナム人を人間だと思わないように洗脳された”事実には本当に慄然とした。だって、それはほんとについ最近、20数年前の出来事なんだよ!?近代社会になって以降にまでそんなことが平気で行われるなんて信じられない。
アメリカは第二次世界大戦で勝ったことで、戦争が悪だという意識がないのだろうか。そしてベトナム戦争、朝鮮戦争、湾岸戦争と繰り返す。そしてそのすべてが正義のもとに行われていると固く信じている、これ以上恐ろしいことがあるだろうか。特殊部隊が沖縄の基地で訓練を受けているという事実にもショックを受けた。しかも鳥居基地である。神様がいるはずの鳥居の中で、なぜそんな事が行われてしまうのか。
それにしても語りべである阿波根さん(アハゴン、と読むのね……じゃあ阿波根綾乃も本当はアハネじゃなくてアハゴンなのかなあ)には本当に驚嘆する。彼はこの沖縄問題のために天が授けてくれたとしか思えない。御年いくつだったかちゃんと見なかったけど、80、90は軽く越えているというのに、そのおぞましいものに対する記憶力には戦慄すら感じる。そしてその独特のリズムの話術の素晴らしさ!物語の全編にわたって語り尽くすというのにちっともペースが乱れない。この人いてこその、この映画だろう。★★★★☆
最初っからアリスの浮気が描かれるのでニコラの狂気(?)も仕方ないのかな、と考えそうになるのだけど、このニコラ、ちょいとやっぱり問題アリかもしれない。彼、いつでもちゃんとワイシャツにネクタイといういでたちなんだよね、これが。洗濯してても、掃除してても、食事作ってても、もちろん外に出るときも、妙にきっちりした格好をしている。だから最初は彼は仕事の合間に家事もこなす、理解ある夫なのかな、と思ったら、彼は一日中家庭の雑事に専念しているのだよね……それならもっとラフな格好すればいいのに、とこのニコラにちょっとばかし不信感を抱く。それはアリスの愛人であるスポーツ・カメラマンのガスパール(アントワーヌ・シャビー)が仕事柄、カジュアルな格好をしているのとの対比なのかと思えなくもないけど、やはり何か不自然だ。ニコラは今でも昔の仕事にこだわりを持っているのかもしれないし、“専業主夫”が時代を先取ったと思いきや、そうでもなかったことに対する臆した気持ちがあるのかもしれない……どこか神経症的な感じを与えるのだ。
友人夫婦の破局劇が一つのきっかけになって、アリスの浮気に感づいてしまうニコラ。クラシックな足こぎバイクに違法の速度アップエンジンを搭載して、二人乗りオートバイを必死こいて追跡するニコラの滑稽さときたら、もうほとんど戦慄の域に達している。夫の浮気が原因で破局した友人夫婦の妻ジュリエットの発作的なセーヌ川への飛び込み自殺未遂は悲壮な色合いだが、それをまんま真似こいたニコラの飛び込みは、まさしくパロディの趣で観客の爆笑を誘う。しかししかし、その実謀略に満ち満ちているこの“自殺未遂”が発端となって、ほとんどストーカーと化してアリスの浮気を破綻させようと躍起になって先回りするニコラは、可笑しいだけに恐ろしい。自分を神父だと偽り、アリスの浮気相手と親友状態にまでなってしまうニコラ。アリスに虚偽の脅迫状を送り付けるなんてことまでやってしまう。ガスパールの部屋で暴れまくり、調度品をなぎ倒し、壁紙(?)を次々に破り捨てていくニコラが、その部屋を見てボーゼンとなった彼に留守を頼まれている間、また元どおり部屋をきれいにしてしまうあたりなんぞ、完璧な心理操作。
だってなんたって、ニコラは元々有能な弁護士だったんだから。彼の正体がバレて、二人のいる部屋の窓の外で「アーリスー!!!」と絶叫して警察に連れて行かれるも、その見事な弁舌で次々とギャラリーを集め、あっさり釈放されてしまうところなんか、この映画の白眉である。もともとアリスだって、こういう“常軌を逸した”ロマンティックなニコラに惚れていたんだから、本当に愛しているのは誰なのかと、心揺れる。そういう意味ではアリスだって、充分常軌を逸した女性だよな。こんな、偏執狂とも言えるほどのニコラに恋して結婚したこともそうだけど、劇中彼女が担当している、浮気が発端となった殺人事件の弁護も、彼女自身のみょうちきりんな論説のせいで、奇妙な恋愛哲学を生み出してしまうし。
本当に悲しみにくれているのに、ニコラとアリスにすっかりダシに使われている友人ジュリエットがお気の毒。若い女と半年に及ぶ浮気を隠され、突然別れを言い渡された彼女は、まるでニコラに指針を与えるかのような存在である。アリスと別れさせようとニコラにガスパールとのデートをしくまれるがそれもうまく行かず、お互いのさみしさを抱えて、ニコラと間違いまで起こしてしまう。そして何の説明もなく、別れたはずの彼女の夫と熱く抱擁とキスを交わしているラスト直前のシーン、これがまたニコラとアリスに揺さぶりをかける。そう、ラストはニコラを訪ねてきたアリスが、何かを言おうとして何も言えなくなり、走り去ってしまうのをニコラが追いかけて突然のカットアウト。この唐突で、結果を出さないラストにボーゼンとしつつも、観客それぞれに物語を作らせるという映画の一方の要素をこれ以上ないわかりやすいやり方で示すのに、むしろ気持ちよさを覚える。……私は単純だけど、やっぱりアリスとニコラの復縁を支持しますな。“過剰ロマンティック”という点で、似た者夫婦ですよ、この二人は。★★★☆☆
上野の焼き鳥屋で隣り合わせた証券マン、富永(米倉斉加年)と意気投合した寅さんが、彼の美しい妻、ふじ子(大原麗子)に惚れてしまうのだが、富永が突然行方不明、彼を必死に探しつつも、富永が帰ってこなければ……と思ってしまう自分の醜さに落ち込む寅さん……人間の深層心理に立ち入る、結構重い内容なのだけれど、そこは「男はつらいよ」である。とにかく寅さんの一挙手一投足が可笑しくてたまらない。飲み屋で知り合った大手の証券会社の富永を訪ねるのにこともあろうにバナナを手土産に持っていったり(それを会議しながら食べる社員も社員だが……)、ふじ子とともに富永を探しに行った先の旅館で、粋なセリフの後に部屋を出て行こうとして押し入れを開けてしまったり(予測できるのになんであんなに可笑しいんだろう!)。それとこれはもちろん脚本の秀逸さなんだろうけど、タコ社長とケンカする寅さんが「おっぱいペタンコで粉ふいててスルメそっくりの女房じゃないか、スルメがタコを愛してるだってさあ!」と言ったり、海岸でふじ子とバーベキューをしようという時「焼くもんなかったら、あのばあさん焼いて食っちゃおう」とか、言葉にしてみればかなりどぎついのに、寅さんが言うと、そのリズミカルさ、絶妙な間、ライトな感覚で、吹き出さずにはいられないのだ!それにこれって、渥美清氏のアドリブがかなりあるんじゃないかと思わせるのだけど、どうだろう?
最盛期、といいながらも、この時点でもはや34作め、とらやのメンメンもすっかり家族みたいになっているのだろう、とにかくその息の合いかたは驚異的。大人のことに首を突っ込む満男(吉岡秀隆)のすれてないこどもっぷりも、タコ社長の娘で何かというと夫婦喧嘩して実家に戻ってくるあけみ(美保純)も実にイイ。それにしても感心してしまうのは、もうこちらが寅さんの話術に抱腹絶倒に笑い転げているのに、まじめなかおしてたしなめているさくら(倍賞千恵子)である。よく、笑わないでいられるなあ……いや笑ったらNGなんだから、何度かNG出してるのかもしれないけど。
結局富永がなぜ行方不明になったかは明かされないのだけど、彼が行方不明になる直前、通勤途中の人々で混雑する交差点で人とぶつかって転んでしまい、立ち上がると今まで向かっていた方向と反対へと歩いていく。そして道路が見渡せる喫茶店に座り、半ばヒステリックに同一方向へ早足で歩いていく人たちをぼんやり眺めている一連のシークエンスは、彼の目線から見る勤め人の顔のなさというか、ある種の狂気じみた会社人間達が、本当に恐ろしく見えて、彼がそれと寅さんの自由さに触れたことでふらりと行方をくらましてしまう気持ちがなんだか痛いほど判ってしまって切なかった。「学校V」でもそうだったけど、証券マン、ひいてはいわゆる会社に身をささげた人って痛ましい、よなあ……。★★★★☆
イタリア、トスカーナの、風景的にはこれ以上ないほど開けっぴろげな、しかし村的にはこれ以上ないくらい閉鎖的な、小さな田舎に住む会計士、レヴァンテ。小さな頃から何事も数学的に考えるのが好きな彼は、この街で唯一といっていい、スーツを着た人物。「ワインにつきものといったら何だ?レヴァンテ、消費税だろう!」とからかわれるほどのワーカホリック。といっても日本人の感覚から見りゃ、さほどでもないけど。町の半数近くの店の経営状態を把握している彼は、それゆえに町の私的な出来事にもこれ以上なく通じている。「噂はあっという間に広がるが、翌日にはみんな忘れてしまう」というイタリア人気質の町とその生活を気に入ってはいるけれど、新しい出会いなんぞ望むべくもない生活に、どこか嘆息しているような彼。
そんな中、壊れた標識のせいで、彼の家をホテルと間違え、スペインのフラメンコダンサー御一行さまがなだれ込んでくる。まさしくセイテンノヘキレキ。陽気で哀愁のあるスペイン音楽が響き渡り、セクシーでキュートなダンサーたちが踊りまくる。その中でも一番華やかなカテリーナに一目で恋する彼。マネージャーの男の不手際でひとときこの町に滞在することになるこの陽気な女神たちは、半永久的に同じ生活を繰り返すはずだった町に大きな振動を与えるのだ。
監督とともにこの主演をつとめるレオナルド・ピエラッチョーニがもおおお、イイのだ!広大なひまわり畑の中を、ペダルを交互に踏んで進むキュートなスクーターに乗って通勤する彼。穏やかな笑顔、愛しい気弱さ。ま、イタリア人だから女を口説く術にはそれなりに長けてはいるが、でもイタリア人にしてはウブな方に入る部類で、男と別れた直後のカテリーナを慰めつつ口説き落とそうとするも、情緒不安定な彼女から「出てって!」と怒鳴られると即座に椅子をたたんで出てくところなんか最高にいとしい!そう、全てにつけて動きが自然に軽やかなのがいいのだ。カテリーナの投げたブーメランを顔で受けてしまうようなコテコテギャグも、素直に笑えてしまう。駅にカテリーナを追っかけていって声をかけようとした瞬間、彼女が恋人と抱き合っているのを目撃してくるりと身を回転させ、見知らぬ人と会話しているフリをする場面も好きだなあ。
彼の妹でレズビアンである妹、セルヴァッジャも実にいい味。こんなに開けっぴろげなレズビアンを映画で観るのは初めてではなかろうか。一応現在の恋人との不仲に悩んではいるものの、このダンサーたちに遭遇するやいなや、もう破顔一笑、レヴァンテ言うところの「よだれ垂らして」彼女たちの寝込みを襲おうとするんだから!しかし類友というやつか、ダンサーの中にもやはりレズビアンがいて、それがセルヴァッジャも一番お気に入りなダイナマイトボディー。ちょいといい仲になっちまうんである。
そしてこれまたまたいい味出してる弟、リーベロ。神と死の意識に取りつかれている、ちょっとオタク系入ってる彼。「神は存在するか?」という同じテーマの絵を何枚も描きまくる。とにかくオトボケ野郎でぶどう畑に緑青をまくタイミングを逸して農場主から怒鳴られると、もう緑青まきにばかりとりつかれ、常に背中にそのタンクと放水管をしょっているというありさま。しまいには、このダンサーに対する口説き文句が「僕と一緒に緑青まかない?」なんだからもう爆笑もんなんである!緑青オタクなんて、あんただけだよ……。ダンサー来襲後、彼が描く絵に少々の変化が現れている。「神は存在するか?」ではなく「神は存在した」に変わっているのだ。ちょっと、イイではないか。
恋人と一緒にいるカテリーナに対抗して、幼なじみで全身これイロモノのカルリーナを連れてレヴァンテが彼女たちの食事に乗り込むシーンが出色。もう、思ったとおり、カルリーナは暴走、ありもしないレヴァンテとのセックス話をテーブルをぶるぶる振動させながらノリノリで喋りまくる。いたたまれなくなってトイレに駆け込み、何度となく顔を水で冷やすレヴァンテの可笑しさ!このカテリーナの恋人の男というのも一見まともそうに見えながら、その実狩猟オタクで、サイをしとめる話でこれほど思いっきり周囲を引かせるというのも一種の才能だあな。それでこの夜、カテリーナはこの男とケンカ別れし、一晩かかって口説き落としたレヴァンテと数時間におよぶキスをかわしてめでたく二人はハッピーエンド。
とはいうものの、まだ難関は残っている。この田舎町での会計士の仕事を天職と思っているレヴァンテが、スペインに拠点を持つカテリーナと最終的なゴールインを出来るか否か。しかしこれまた拍子抜けするほどあっさりとクリア。レヴァンテの方が彼女の住むスペインに赴くというのも好ましいよなあ。しかも、それが語られるのは一年後で、別に悩んでいる描写も見せず、しごくあっさりと牛の群れをバックに牛の注文の不備を業者とケンケンガクガクしているレヴァンテが登場するのだから!しかもしっかりカテリーナは妊娠しているし。この作品だからこそ、この単純なアッケラカンさが許され、しかも活きているのだ。
ひまわり畑の向こうの一軒家に住み、通勤の朝夕に大声で呼びかけるレヴァンテに応答する、声だけの存在である彼の祖父、ジーノが忘れがたい。そう、声だけなんだけど、その受け答えはいつでもウィットに富み、レヴァンテがスペインに行くことを報告した時には一言「オーレ!」と返してくれるというのも粋ではないか!生まれた子供にジーノと名付け、その日に祖父のジーノは死んでしまうというエピソードも、ま、ありきたりではあるけど、心に残る。
スペインの要素が入っているにもかかわらず、いい意味で、思いっきりご当地映画な雰囲気がたまらなくいいのだ。あ、そうそう関係ないけど言わずにはいられないこれ!ダンサーたちが来た夜、最初にカテリーナを口説く場面で着ているレヴァンテのTシャツ!白地に赤の文字で、日本語で“癇癪持ち”と書いてあるのだ!しかもきっちり正しい漢字で!しかもしかも、その文字の上には、あの朝日新聞のマークとそっくりの真っ赤な朝日ロゴが……一体、これはなんなんなんだ!?もう、そのTシャツを見たとたん、場内大爆笑!それに意味を持たせているとは思えないし、まさか日本人を笑わすためでは、ないだろう!?★★★★☆
彼女の写真作品を見たことはないので何とも言えないのだけど、このネクロフィリア感覚はどうかいなあ、と思う。ネクロフィリアに期待するような耽美的な美しさというよりも、もう殆どスカトロのようなおぞましさ。いや、ほんとそっちの方でしょう。あるいは死体趣味よりは人形趣味。もともと医学用の人形のパーツを使って写真を撮ってたらしいから。地下室に累々と配置されていく人間の死体は、さながらおままごと遊びのよう。ネクロフィリアというと、死体に性的な興味を持って接するという色合いがあるのだけど、それが全くない。あるいは、その死体一人一人(?)に対する思い入れもない。死体は人形であり、生前の人格は殺人者である彼女には何の興味もないようなのだ……それが気になる。
リストラの憂き目にあって、在宅パートになったドリーン(キャロル・ケイン)。最初の殺人こそはずみだったけれど、救急を呼ぼうとしてやめた彼女には充分動機があった。それが殺人を重ねるうちに次第に希薄になっていく。……女社長を殺したあたりまではまだあるように見えた動機が、自宅に寄付金を募りに来たガールスカウトや、彼女を理解しようとしてくれていた人事担当のノラを殺す(最初は未遂)までにいたっては、もう殆ど手当たり次第の殺人マシーン。ドリーンには父親に性的いたずらをされた過去があり、父親が死んで母親が半身不随になってしまったのは彼女が原因の事故であったというトラウマは一応描かれるものの、ちっとも彼女に同情する気になれないのが困りもの。実際ドリーンの自意識過剰気味の病的なしぐさや、思い切りダサダサの服装、通販で買ったようなこれまたセンスのかけらもない靴と、外側からも内側からも観客にまで嫌われるよう仕向けたキャラクター。台所で見つけたネズミを、そのしっぽをつまみ上げ、ディスポーザーにかけるという吐き気のする場面が、冒頭にいきなりあって、彼女の陰湿な部分がまず披露されるし。しかも彼女、社内でネズミ女と陰口を叩かれているのだよね……このイヤな符合!
それでも、きっと徐々に彼女が魅力的に感じられていって、彼女の殺しに一種のカタルシスを感じるようになるんだろうなと(それも問題なんだけどね)思ったのだけど、さっぱりそれがない。最後まで彼女に対してはイヤーな気分を持ち続けてしまう。ああこれが!同じブス女(失礼)ものでも例えば「ウェルカム ドールハウス」の主人公ドーン(ヘザー・マタラーゾ)が次第に愛しくてかわいくてたまらなくなったのとは全くおもむきを異にするのだよなあ。監督自身が、別にドリーンをそういう風に見て欲しいと思ったんじゃない、ということなのかもしれないけど……。
最後まで後味の悪いものになっていたのは、描写がコメディにもシリアスにもなりきれていないからなのかもしれない。このまさしくイヤーな感じが監督のネライなのならば正解なのかなあ。私はイヤだけど。やっぱりここはキッチュなノリで行ってほしかった。そうすれば、ドリーンの意味なき殺人もフィクションの面白さとして許容できただろう……これは、ま、私の個人的趣味になっちゃうけど。そう、ドリーンのキャラ、感情移入できない理由は、彼女ステロタイプなんだよね。コントに出てくるキラワレもののおばさん、あれそのもの。個性がありそうでないのだ。ラストシーンではいきなりブロンドのウィッグをかぶり、オープンカーに乗って、自分の生きがいを見つけた女性に変身しているのだけど、そのあまりの唐突さに頭がついていく暇もないままエンドを迎えてしまう。……それにしてもこのラストもちょっと陳腐でしょう。なんか勘違いしたウーマン・リブっぽくてやだなあ。それを考えれば、社内イジメにあってる女が殺人を繰り返していくというのも“女性に喝采を浴びる”と勘違いしたストーリーっぽいし。監督が女性の割には、ツマラナイ描き方をする。今の女性はもっとしなやかだと思うけどなあ。
ひっさしぶりに見たモリー・リングウォルドに、またちょっとずつ見るようになったジーン・トリプルホーンにおおおー!と思う……それくらいでしたね。★★☆☆☆
その画面に合せるかのように、いつもグレーを基調にした、露出度の極端に少ない尼僧のような服を着る片足引きずる大女、ヘスター(パメラ・レイブ)と、彼女が溺愛するまさしくファム・ファタル、痩せぎすのキャスリーン(ミランダ・オットー)の着る扇情的な服もこの画面に溶け込む淡い色合い。ヘスターが隣人のパーティーにキャスリーンに着せようと縫い上げるドレスは目にも鮮やかなヒマワリ色だが、それを見たキャスリーンの表情は明らかに“なにこのダサイ服”と言っていて、ここで明らかにヘスターとキャスリーンの愛情度のギャップが現れて観客を戦慄させるのだ。案の定、はっきりわざとドレスを汚すキャスリーン。デザインはともかくとして奔放な性格のキャスリーンが意外に派手な色合いの服を着ないことで彼女の内的孤独に思い当たるのだ。
ヘスターが自分にはっきりコンプレックスを持っていて、その分だけキャスリーンに執着しているのが判りすぎるほどに判り、せつなく息苦しい。ヘスターに扮するパメラ・レイブの、キャスリーンのリアクションにいつもハラハラしている微妙な表情がまったく素晴らしい!オープニングは二人が起こす事故。そして時間がさかのぼり、ヘスターがキャスリーンを家政婦に雇うところから再度始まる。だからそのあとの二人のつかの間の至福の時も、あのオープニングに確実に向かっているのが判るから、この不思議な色合いの画面も、おとぎ話の美しさだけではない冷たさを持っていることをひしひしと感じ続けなければいけない。
自分たちがはねてしまい、井戸に落とした男が生きていると頑強に言い張り、その男が自分を愛しているとまで言うキャスリーン、自分たちが起こしたことの重大さと、キャスリーンの言葉への嫉妬に我を失うヘスター。落ち着いて考えればもっといい解決法があったろうと思うのに、どんどんどんどん破滅へと向かうスリリングさ。
ヘスターの嫉妬は次第に常軌を逸し、一足早くキャスリーンが自分を裏切る夢まで見る。その夢も同じ色合いで語られているから、どんどん現実と狂気の世界の境が判らなくなってしまう。キャスリーンは狂ってしまっているのか、本当のことを言っているのかこの時点では判らない。井戸が完全に封鎖された後、家を出ていく彼女のバッグに、井戸に落とした男が盗んだと思われていた大金が映し出される。すべては彼女の芝居だったのか?でもちょっとこれにはガッカリした。えらく通俗的な謎解きだと思ったからだ。青の画面に感情と幻想で語られるミステリアスさが魅力だったのに、一気に通俗小説に落ちてしまった感じがして。判らないままキャスリーンが消えてしまっていたら完璧だったのになあ……。それに男同士の話の時にはそうでもないのに、女同士の時は、どうしても男の影が入ってくる。これもなにか残念というか、納得できない。
しかしヘスターとキャスリーンの別れもまた凄絶だった。「何より我慢できないのは、この古臭い音楽よ!」とクラシックがかかったヘスターのラジオをテーブルに叩きつけるキャスリーン。そりゃ、別々の部屋でロックのCDを聞いているキャスリーン、クラシックのレコードを聞いているヘスター、という描写はあったけど、ヘスターのピアノと一緒にキャスリーンもあんなにはしゃぎまわっていたのに……。でも、ラストの、キャスリーンの策略に思いが及ぶと、まさかとは思うけど、もしかして、ヘスターの父親が死んだのもキャスリーンが……いやいやまさか!★★★★☆
成田三樹夫賛美でストーリーも何も訳が判らんが、とにかくこれは初めて観るシリーズ。いかさまのサイコロがどうなっているかとか(単に目の数がごまかしているサイコロだけでなく、可動性の針が仕込んであってつぼをゆすることで中のサイコロを動かすことが出来たり)、サイコロをすりかえる手際や、つぼから手を放してから丁半を尋ねるとか、賭場のハウトゥーものにもなっていて面白い。面白いといえば主人公の江波杏子が最初ディスクサービスという会社で、有線みたいにリクエストでレコードをかけるという結構当時最先端っぽい職に就いていたのに、賭博師になって、いきなり時代が逆行したように周りの雰囲気まで変化するさま。父の形見だからと男物の着物をやはり男性の着付けで着るあたり、やおいの匂いもぷんぷんする。
死ぬ時になってお銀の姉だということが判明する(そして成田三樹夫と密かに想いあっていたということも)緋牡丹のなんとか(これも役名忘れちゃった)という女賭博師の、妹や想い人への複雑な思いを秘めた、人生の辛苦をなめてきた女っぽさが目をひいた。久しぶりに成田三樹夫と出会う時、すごく嬉しいんだけど抑えた感じで一瞬の視線の交錯と通りいっぺんの挨拶だけで終わる切なさ。ここで彼女が成田三樹夫を好きなんだということはすぐ判ったけど、彼の方はなんたってポーカーフェイスなものだからさあ……(そこが素敵なんだけど)。全く触れないことから判るように、主人公の江波杏子に関しては特に感慨なし。たんに成田三樹夫との共演がうらやましいだけ。それにしてもところどころにかかる挿入歌の女性の(江波杏子?)のほとんど悲痛な絶叫といった歌声が物凄かった……。★★★☆☆
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