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「く」


2001年鑑賞作品

クリスマス・イヴ
2000年 81分 日本 カラー
監督:雑賀俊郎 脚本:最合のぼる
撮影:遠藤政史 音楽:神尾憲一
出演:黒坂真美 山村アキラ 佐伯俊 佐井仁美 玉木宏 渡瀬美遊 東城えみ 小柴亮介 下條アトム


2001/4/27/金 劇場(新宿シネマ・カリテ)
……もう!こういう映画にもなっていないような映画に遭遇すると、本当に腹が立っちゃう。たった一週間の上映の最終日、思いがけず舞台挨拶に遭遇し、ほとんど黒坂真美ファンの集い、みたいな独特の雰囲気にのまれながらキャストや監督、脚本家の思わせぶりな言葉にちょこっと期待しつつ観てみたら……。監督は「「2001年宇宙の旅」みたいに、一度だけじゃわからなくて、三度くらい見たら判るようになるので……」などと冗談まじりなのか、そんなことをのたまっていたが、あああああ、ホントに冗談じゃないわい!!こんなん三度も見てたまるか、大体こんな、何かがありそう、みたいなことをやたらと匂わせながら、その実なーんもないという映画ほどイライラさせられるものはない。怖がっているのは劇中の登場人物たちばかりで、観客のこっちはやたらとモザイク上にさせられた思わせぶりな映像にただ疲れ果てるだけ。81分なんて短いはずなのに、おっそろしく長く感じてしまう。ほんとに途中で出てやろうかと思ったが……。

20世紀最後のクリスマスを、友人たちと雪山の中のサプライズ・パーティーで盛り上がろうと車を走らせる敦子と喬ニは友達以上の関係を抜け出せない二人。しかし到着してみるとそこには友人の惨殺死体が。軽ワゴン車に乗った顔の見えない無気味な殺人者から逃げ回る彼ら、合流したもうひとりの友人、賢志と、雪山の中ひっそりと暮らしている老人、辰野とともに、その殺人鬼に立ち向かうのだが……。

ああ、なに、これは一応原作があるの?原作はもうちょっと何とかなってるのかなあ。それにしても“劇場映画デビュー”の監督に限って、正攻法な映画を作らないというのは、一体どういうことなのかなあ。まあ、新人だからこその破天荒さやフレッシュさで、暴れるということなのかもしれないが(だからやたらとホラーでのデビューが多いんかね)、ただイタズラに、ほとんど趣味的に物語を揺らされても、凄く困る。監督自身がちゃんと把握してるのかどうかも疑わしくなっちゃう。役者たちだってそうでしょ。その意味を本当に汲み取らずにやってなかったら真に迫らないのも道理だよ。……でも、ああ、その辺は判んないな。上手い役者なら訳が判んなくて演じてても、しっかり真に迫っているわけだし……(ものすごーくレベルが違いすぎるけど、マギー・チャンとかね)。

そう、もうね、上手い役者がひとりもいないのがキビしすぎるんよー。ヒロインの黒坂真美、ただキャーキャー叫んでるだけで、ちっとも怖そうに思えません。しかもしっかり文字どおり「キャーキャー」叫んでるんだもんなー。普通にキレイなだけじゃ、スクリーンの間(ま)は保てませんよ。そこがテレビと映画の違いなの。しかしこれはやっぱり作品自体の問題なのかも。だって、ベテランの筈の下條アトムも今ひとつ響かないんだもん。これじゃね。しかもなあんか画面自体に力がない。実際に雪山で撮影したというリアルさが全然ない。すごーく平板なの。ロケなのにカキワリみたいに薄っぺらな印象。これはなんでなのかなあ。ロケだということに頼りすぎて、美術がしっかりしてないってことなのかなあ。それとも役者のせいでそんなふうに見えるのかなあ。なんにせよ、映画の命は画面の吸引力。それは役者の力でも、美術の力でもいいんだけど、これがなくちゃ、ほんとに観客は出てっちゃうよ。

結局このヒロインと殺人鬼の関係はなんだったわけ?なんかこの殺人鬼はヒロインに勝手に思いを寄せていたようで、んで、なんかよく判らんイメージショットで、この二人がかつて出会っていたらしいことが描かれ、これまたよく判らん時空の飛躍で、ヒロインはこの殺人鬼とラブラブになってるっつーショットが挿入されるのだが、そんでこのへんが黒坂真美嬢がおっしゃる「究極のラブ・ストーリー」てな奴らしいんだが、おーい、どの辺がだよ。二人の気持ちの交錯が全然ないのに、バカなことおっしゃらんでちょうだい。これが究極のラブ・ストーリーだったら、世の中の恋愛映画はみんな超々究極のラブ・ストーリーになるわ。

もー、ほんとに、久々に疲れ果てたよ。★☆☆☆☆


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
2001年 分 日本 カラー
監督:原恵一 脚本:原恵一
撮影: 音楽:
声の出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓次 こおろぎさとみ 津嘉山正種 小林愛 真柴摩利 林玉緒 一龍斎貞友 佐藤智恵

2001/5/2/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
ああ、ああ、もうもう、クレしん、最高!原監督、最高!今、錦糸町から帰ってきたばかりで、すぐさま書いてるんだもの。正直前作の時にはちょっと子供よりになっちゃったかな?なんて思ったんだけど、ああ、本作の、ああ、傑作!私は涙を滂沱と流し、ラストクレジットでの小林幸子のエンディング・テーマで(これがまた、ストーリーにハマったいい歌なんだ!)、またウッと涙が込み上げて、困ってしまった。上映終了後、子供をつれてきていた親たちから思わず拍手が起きたのも、納得!こんなん、子供に判ってたまるか!

導入部から振るっている。現われいづるは、太陽の塔。あの、岡本太郎制作の、大阪万博の巨大モニュメントである。その当時、1970年の万博の盛況がそっくり再現され、その中をまるで回想ガイドさんみたいに母親みさえとしんのすけ、ひまわりがそぞろ歩いている。日本の人口の半分以上にあたる人が、この万博を見に来たんだって、などと。その時突如、怪獣が襲ってきますとのアナウンスが入る。防衛隊風の衣装に変身する3人。凶暴な怪獣が、しかしミョーに動きがカワイイ怪獣が(ほんと、カワイイの)パビリオンを壊しまくる。そこに現われたのは、オオ!我らがおとーさん、ひろしSUN!「ソ連館が(怪獣の攻撃で)崩壊したー!」などという細かなギャグを繰り出しながら、ウルトラマンさながらに巨大な怪獣と勇敢に戦う。お、面白いけど、な、なんなんだ?これは!?

つまりこれは、懐かしい物語なんである。20世紀博という巨大なパビリオンが春日部にできる。それは東京タワーそっくりの塔にくっついたアミューズメントパークで、冒頭のように自分の憧れていたヒーローになって大活躍するオリジナルビデオをつくることができたりする。懐かしい遊び、懐かしいテレビ番組、懐かしい食べ物……etc.etcに浸るという趣向。大人たちはスッカリハマって、子供なんぞほったらかしで懐かしさにふけっている。それは、ちょっとイイな、こんなんホントにできないかな、と思わせるようなものなのだが、ほったらかしにされたしんのすけたちが、つぶやく言葉が波紋を広げる不穏な一滴のしずくをたらし、それが本作の、驚くほどシリアスなテーマとなるのだ。「懐かしいって、そんなにいいのかな」「大人にならないと判らないんじゃない」「だったらそのうち判るよ」「その時には遅すぎるんだよ」

現代、いや、90年代のあたりからだろうか、過去の回帰が始まったのは。最初は60年代の回帰あたりから始まった。そして順繰りに70年代ときて、絶対来ないだろうと思っていた80年代の回帰(と思っていたのは私だけ?だって80年代ってなんか……ヤボったいじゃない?)も始まっているといわれる。90年代から、いわゆる生活とか文化とか、そういう人間の色とか匂いとか、そうした体温を感じさせるものがピタリと止まってしまった感じは確かにする。だからこそ、過去のぬくもりを求め、そこに生きている実感を求めようとしているのかもしれない。90年代より以前、これほどまでに懐かしさに執着することがあっただろうか。個人の記憶としての懐かしさはどの時代にももちろんあるけれども、時代の共通認識としての懐かしさをこれほど求めることは。この過去の回帰は、90年代以降は人間の生活が、文化が、ぬくもりが、なくなってしまったのだと警告しているように思える。これから先は60年代から80年代をグルグルと循環するにすぎなくて、それは当然、ニセモノのぬくもりなのだと。そう警告して、だったら一体そんな深刻な命題にどう決着をつけるんだろう、と思っていたら……。

ま、それはあとにおいといて。実はこの20世紀博には元締めである黒幕のカップルがいる。その名も「イエスタディ・ワンスモア」!!永遠に昔の空気で世界を支配する、という彼らの野望、その文字どおりの意味ながら、当然のごとく、それはかのカーペンターズの不朽の名曲!60年代〜70年代風のパンタロンにトレンチコート、超ミニスカートにロングブーツといういでたちの二人はケンとチャコ。でもケンちゃんチャコちゃんを思い出すのにはかなり時間がかかるほど、そしてカーペンターズというよりもっとアンニュイ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコか、PPM(は、ちょっと違う?)をほうふつとさせるような、この風貌、この諦めきった喋り方!このキャラ、クレしんの中にいるとはとても思えない。観てる間も、ずーっと不思議な雰囲気なの。津嘉山正種&小林愛の、まるでFMラジオドラマみたいなしんとした喋り、そして彼らが住む虚構の「懐かしい街」のボロアパートの世界観の凄さ&素晴らしさ。それはまさしく「神田川」な世界であり、チャコが足踏みミシンを踏んでいたりするのだ!バックに流れるのは♪「白い色は恋人の色」だったり、♪「時には母のない子のように」だったり、とにかくとにかく、濃すぎるのだ!こんなんを、(一応)ゴールデンウィークの子供向けとされている作品に直球でぶつけてくるなんて、スゴすぎる!

ああ、津嘉山正種のなんという美声。私は学生時代、彼がナレーションしているFM深夜番組のファンで、もうほんとにメロメロで、塩沢兼人氏とともに顔を見たくないと公言していたほどのお気に入りの美声の双璧の一人だったのだ。ぶりぶりざえもんをやってた塩沢さんは死んじゃったし、そしてこうして津嘉山氏のお声をクレしんで聞くことになるなんて、何だかもう、それだけですでに泣きそう。彼とカップルとなる小林愛の声もとてもいい。特に良かったのは、コッソリ逃げ出そうとしていたしんのすけをみつけて、低く「あ」と発するあのやるせないお声がスバラシイ。

大人たちはこの二人にあやつられてしまう。「20世紀博からのお知らせがあるから」とテレビの前に座るひろしとみさえ。「あしたの朝に迎えに参ります。皆さん、楽しく過ごしましょう」にこやかにそのひとことだけアナウンスする女性。ひろしとみさえはまるで催眠術にでもかかったかのように、子供たちに夕食も与えずにあしたのためにと就寝してしまう。布団だけを引っかぶって、子供たちを邪険に扱って。そして大人たちは20世紀博が迎えに来たトラックに我先にと乗り込み、楽しげに「過去への世界」へと旅立つのだが、それまでの描写のなんという恐ろしいこと!すがる子供を罵倒し、スナック菓子を貪り食い……。しんのすけが「朝からそんなスナック菓子なんか食べて!」と、いつもなら二人から言われてるはずのことを訴えるも、彼らは冷たい目で子供たちをにらみつけ、口汚くののしるばかりなのである。そして大人たちが連れ去られる場面といえば、否応なく即座にナチのユダヤ人強制収監を思い起こさせる。しかも彼らは自ら望んで乗り込んで、楽しげに笑っているのである。しんのすけは必死に追いかける。ギャグなおっかけっこアクションは白眉で笑わせるけれども、この導入部までの展開は、とてつもなく恐ろしい。

でも。原監督は、21世紀に生きる子供と、そして家族に、未来は確かにあるのだと、大丈夫だよと、信じようと、言ってくれたのだ。言葉巧みな20世紀博の大人たちに抵抗して、しんのすけたち春日部防衛隊は必死の抵抗と、決死の攻撃を仕掛けるのである。幼稚園のバスを乗っ取って、ハンドル、クラッチ、ブレーキ、アクセル、とそれぞれ担当して、素晴らしきカーチェイスを繰り広げるのだ!このあたりはホント、アニメの独壇場だよなー!20世紀博に突っ込んだ直後に扉が閉まる、とかいうのはまあよくあるけど、その閉まったドアに追跡してた車たちが次々と激突して、まるで廃棄タイヤのごとく山積みになるという迫力はスゴい。なんか、「ルパン三世」を思い出しちゃったなー。

「イエスタディ・ワンスモア」は“懐かしさの匂い”によって大人たちをかく乱しているのだという。それなら、としんのすけは、すっかり子供時代に退行しているひろしに、自らの靴のクサーイ匂いをかがせる。ま、確かにギャグな場面なんだけど、子供時代、父親の背中によりかかってうたた寝してしまった、釣りに行く途中の自転車の二人乗り。そのあぜ道。同じあぜ道を好きな女の子と自転車を引きながら歩く。失恋したのか、ひとりで歩く。東京へ出て就職し、慣れない仕事に大変な日々。みさえと出会って、桜吹雪の中を頬を染めながら二人そぞろ歩く。みさえの出産に病院へ慌てて駆けつける。念願の一戸建ての家への引越し……まさしく走馬灯のようにそれまでのささやかな、でもとてつもなく幸福な人生がひろしの脳裏を駆け巡り、彼はしんのすけの呼びかける声に気づくのだ。そして、「父ちゃん、わかる?」と言うしんのすけを抱きしめて、「うん、うん」ととめどなく涙を流す…………参った。回想シーンで既に涙腺がヤバかったのに、もうここにきてすっかり涙ドワー!でラストまでずーっと止まんないんだもん!

しかもこのシーンは、ひろしがケンに「無駄な(つまらない、だったかな)人生だったな」と言われて、「俺の人生は無駄なんかじゃない、家族がいるし、あんたに分けてあげたいくらいだ」と言い放つシーンに呼応していて、そこでまた涙ドワーであり、さらにもう一つ、“懐かしい匂い”を振りまくスイッチを押しに向かうケンとチャコに、壮絶なバトルの末、一人託されたしんのすけが(ここに至るまでが、また魅せるんだ!)ボロボロになりながら、必死に何度も何度も追いすがり、なぜ、そんなに未来に生きたいのだと、未来は何もない、汚いだけだと言うチャコに、でもオラはとうちゃんとかあちゃんとひまわりともっと一緒にいたい、それにオラは大人になりたい。大人になって、おねーさんみたいな、きれいなおねーさんといっぱいお付き合いしたい、って、そう言って、……もうもうもう、このシーンには、チャコと一緒に落涙を押えきれないんである。よくぞ言ってくれた!しんのすけ、ひとりになってからの必死の走りっぷりからもう既にカッコよかった、既に涙モードだったけど、しんのすけが、大人になりたい、って言ってくれた時、もしかしたら、今の子供にこの言葉をこそ言ってほしいと思っているのかもしれない、って、思ったせいかもしれないんだけど、嬉しいんだか、感動したんだか、とにかく涙、涙。……そういやあ、昔って「早く大人になりたい」って、みんなの口癖のような感じだったけど、あるいは逆に「大人になんかなりたくない」とか、でも今の子供たちって、そのどちらのセリフも言わないような感じがして、それこそが今の子供に対する絶望感であったり、ひどい時には恐怖感であったりもするんだけど。でも、原監督が、そんなことないよ、って言ってくれた気がして……すごく、嬉しかった。

野望を断たれたケンとチャコは、「外(21世紀)の世界には行きたくない」と、一度は飛び降り心中を図ろうとするんだけど(このシーンで、二人、手の指を交互にする、お祈りの形につなぎなおすのが、ブルッとくる!)しんのすけの、ワザとなんだかなんなんだか、とにかくチャチャを入れるので、踏みとどまる。そこでチャコが崩れ落ち、「死にたくない!」と泣き伏すのだ……ケンは彼女を後ろから静かに抱きしめる(くぅーッ!)。……二人は、こういう虚構の世界でしか生きていけないような感じで、そしてこんなコミックの世界では当然ギャグになりそうなのに、不思議となってない、浮世離れしたキャラなんだけど、でも、きっと、ひろしの言うように「どこかでどうにかして生きていくさ」、って、思いたい。というか、このひろしの台詞に、凄く救われたんだ……。

実はカキワリのなかのツクリモノの世界に過ぎないんだけど(トゥルーマン・ショー」っぽい)、このケンとチャコの暮らす、作り上げられた懐かしい世界がたまらない。小さな、でも威勢のいい、活気のある商店街があって、タバコ屋の店先ではオバチャンが居眠りしてて、ダイヤル式の公衆電話があって、酒屋が配達してて、蕎麦屋の出前が人とぶつかってひっくりかえると、ひろしが「アニメそのままだー」なんて、感心したりして。でも、この台詞が、効いてるんだよね。ひろしは、このツクリモノの世界に「このままここにいると、懐かしさで気が狂いそうだ!」と通りがかりのおまわりさん(これまた懐かしいんだよね)につかみかかって、出口を教えてもらうのだが、彼が「アニメそのままだ」と言う様に、それは彼自身が実際に体験した上での懐かしさそのものじゃ、ないんだもの。そういうことを体験してるには、ひろしとみさえは、ちょっとだけ若すぎるし、そう、先述したようにぐるぐると循環している回帰した懐かしさに過ぎないのだ。

つまりは彼らも、無機質な文化からの脱却のために得た、ニセモノの思い出を懐かしさと感じていたのだ。そして“出口”から外に出ることになる、というのもひどく象徴的だ。それは確かにかつてあった風景なのだろうけれど、彼らにとってのホンモノの思い出ではないのだ。だから、彼らにとっての想い出は、そう、確かにケンに言われるまでは、自分でもツマラナイと思っていたかもしれない人生で、だからこそ、ニセモノの想い出に執着していたのかもしれなくて。だからこそだからこそ、あの時のひろしの、自分の人生をこそ愛しく懐かしく、誇らしく思う言葉に涙が出たのだ。そしてだからこそ、21世紀で過ごさなければいけない人生に懐疑的になっているケンとチャコが、この野原一家によって、本当に真の意味で救われた、んだと思いたい。

もちろん、こんなシリアスなだけじゃなく、単純に笑わせる部分も満載なのである。特にツボだったのは、大人たちがいなくなった街で、「カスカビアン」というスナック(いいネーミング!春日部人、とでもいうニュアンスだよね?)に入り、酔った気分で大人そのままの様相を繰り広げるこの幼稚園児たち!しんのすけは雇われママとして、人気を横取りする若い?女の子、ネネに眉をひそめ、マサオくんは酔っ払ってカラんでいる親父と化してネネちゃんに歳を聞き「5歳?若いねー」と口説き?、鼻たらしのボーちゃんは、僕はママ一筋だから、と言ってしんのすけがポッとテレると、風間くんが、ママ、俺を捨てないでくれー!と半狂乱で泣き伏す、という……。彼らはもちろんウーロン茶を飲んでいただけだったんだけど、お酒の匂いのせいか、そんなミョーな雰囲気になって、スナックを出る時にはゲンナリ疲れてるんだけど、そんなとこまで大人(の模倣)みたいで。もう可笑しくて可笑しくて、爆笑!あとねえ、ひま(ひまわり)ちゃんとけなげなシロのかわゆさと、ところどころでさりげなく見せるしんのすけの、妹に対する面倒見のよさが、またいいんだわあ。

ヤバいわー、まだ5月なのに、もう今年度ナンバーワンにしたいくらい。ホントに鳥肌が立ったんだもの、ザワーッて。もう一回、観に行っちゃうかもしれないなあ……(観に行っちゃいました)。★★★★★


クロコダイルの涙THE WISDOM OF CROCODILES
1998年 95分 イギリス カラー
監督:レオン・ポーチ 脚本:ポール・ホフマン
撮影:オリヴァー・カーティス 音楽:ジョン・ラン/オーランド・ガフ
出演:ジュード・ロウ/エリナ・レーヴェンゾーン/ティモシー・スポール/ジャック・ダヴェンポート/ケリー・フォックス

2001/1/5/金 劇場(シネクイント)
クロコダイルの“涙”=“叡知(分別)”、ワニが獲物を食べるときに罪悪感をぬぐおうとして流す涙、という認識がなければ、この物語の真の意味を汲むのは難しいのかもしれない。この邦題は、だから判りやすそうでいて、判りづらい。かといって“クロコダイルの叡知”と言われたって、判らないけれど。

もともとの設定は、もっと年配の男性だったというが、このジュード・ロウという役者を得てしまうと、彼以外には考えられない!この人を最初に見たときは、田宮二郎が再来したかと思った程、その強烈な毒のある美貌にノックアウトされた。ワイルドのドリアン・グレイをもしやるならば、この人しかいない(ちょっと、年が行き過ぎてるかな)。この作品における彼のキャラクターも、半永久的に続く生命と美貌といい、その美しさで人を罠にはめるところといい、どこかドリアン・グレイ的だが、違うのは、彼に“クロコダイルの分別”があるからだ(分別、と言ったほうがしっくりくる)。たしかにワニのように表情を変えないのだけれど、なぜかしら、どこかしらに、いやその美貌そのものに罪悪感がしみついており、だからこそ、彼の美貌はより輝きを増すのだ。影がさせばさすほど、その暗い微笑みがぞっとするほど美しくなる。皮肉なことに、さらに獲物がかかりやすくなるのだ。

自分を愛してくれる女の血を食らわなければ生き延びられない運命にある彼、スティーヴンは、殺した女を行方不明の迷宮入りにする完全犯罪の天才でもあったのだが、ふとした運命のいたずらから、殺した女の遺体が発見されてしまう。この時、彼はすぐさま警察に電話を入れ、彼女の最後の男として協力を申し出る。相手の懐に入り込んでしまうことで、自分に嫌疑がかからないようにということなのだろうとは思いながらも、彼の行動があまりに迷いがないので、いささか面食らってしまう。彼は、実は、捕まりたがっているのではないか、自分の罪を誰かに裁いてほしいのではないか、そんな気がして。彼が一体何十年、何百年生きているのかは知らないけれど、こんなことがいつまでも続くわけがないことくらい、いや、続かせないと思っているような気がしてしまう……願望だろうか。自分が殺した女、いや、自分を愛してくれた女の資料とその愛の結晶石をコレクションしている彼の姿はどこか自虐的で、自嘲的である。自分を愛してくれる女は沢山いる。いや、愛するように仕向けると、驚くほど簡単に愛してしまうようになる。けれど、彼が、彼自身が愛した女は、いないのである。なんという、傲慢な存在。

しかし、ついにその女が現れる。その女、アン(エリナ・レーヴェンゾーン)が現れた時、だからこそ、と言ってしまうのもおかしいのだが、スティーヴンの終焉を確信してしまう。彼が実は待って待って待ち望んでいた、この忌まわしい自己の終焉。この時、彼は多分初めて、女が自分を愛するより先に、女を愛してしまう。今までの女とは明らかに違うアン。スティーヴンへの思いにすぐさま溺れることがなくて、自分の仕事に生きがいを持っている女性。……ひょっとして、スティーヴンは彼女に自分と同じものを見たのかもしれない。他人よりも、自分をまず愛する女性。自分をまず愛すること、それは大切なことなのだけれど、スティーヴンの場合、それがイコール他者を、自分の次に愛する人を殺すことになってしまうのだ。今まで彼が手にかけた女は、自分よりもスティーヴンを愛してしまった。溺れたのだ。しかしアンは違った。自分と同じ生き方をする女性。しかし、それで他人を殺さなくても生きていける人間。スティーヴンの、存在意義が打ち砕かれたも同じ。

協力者として申し出たスティーヴンを、それでも重要容疑者としてマークするヒーリー警部(ティモシー・スポール)は、チンピラに襲われたところをスティーヴンに助けられ、彼と打ち解けて話をしたりするうちに、彼を疑うことができなくなる。ヒーリーもまた、スティーヴンにからめとられた一人なのだが、この場合、スティーヴン自身にヒーリーをワナにかけようなどという意思がそれほどあったとは(前述したことからも)思えない。スティーヴン自身の、実は純粋な心持が人を惹きつけている証拠なのだろうけれど、そのことがますます彼を追いつめている、皮肉。

スティーヴンが、ついに生命エネルギーがギリギリになり、もうどうしようもなくなったところに、殺したくないために必死に避けていたアンが訪ねてきてしまう。たまらずベッドに誘い込み、いざ顔を押さえ込んで首に噛み付こうとしても、できない。アンの首から軽く出血し、その血で唇を赤く染めたスティーヴンの自己嫌悪の姿は悪魔的な美しさ。アンは恐怖におののき、逃げ出す。身を投げようとするけれど、スティーヴンに助けられてしまう。スティーヴンは餌への渇望と愛への渇望の狭間で、身も張り裂けんばかりの苦悩である。彼女を助けることは、彼女自身を助けることなのか、それとも彼女を食らう自分を助けることなのか、もはやギリギリで錯乱状態の彼にも判らない。彼女を抱きしめたいけれど、本能から彼女を食らってしまうことを恐れ、必死にその距離を保とうとするスティーヴンは、その必要もないほどに彼から死にものぐるいで離れようとするアンを悲しげに見やる。アンの方も苦しむスティーヴンを助けたい気持ちと、自らの自己防衛本能との間で揺れ動く。しかし、ついにスティーヴンの制限時間が尽きてしまう。蒼白な顔に目と唇を真っ赤に染めた彼が、痙攣を起こしながら、息絶える。……彼の待ち望んだ死は、これほど凄絶なものなのか。

「風の輝く朝に 等待黎明」でホレこんだレオン・ポーチ監督作品というのも興味そそられる作品。ダークな画面が、現代的な中にもゴシック調を思わせる作品だが、箸や、箸に関する挿話が出てくるあたりに、遠くはなれた英国で撮影していても(といっても、ポーチ監督は英国生まれなのだけれど)、自らのアイデンティティをさりげなくしのばせるあたりが心憎い。そして、自らの罪悪に対する苦悩や、血、ヒーリー警部が持つ十字架など、禁欲と官能が混在する、妖しくも厳粛な宗教的香りも魅力的。★★★☆☆


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