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駆潜艇 K−225/CORVETTE K−225
1943年 99分 アメリカ モノクロ
監督:リチャード・ロッスン 脚本:
撮影: 音楽:
出演:ランドルフ・スコット/ジェームズ・ブラウン/エラ・レインズ
男性の、それも男の子映画だなあ、という感慨。船、船長、軍服、モールス信号でのやりとり、敵への攻撃、そのカタルシス。女性はたった一人、まあ、絵に描いたような美人が出てくるけれど、彼女は“陸の上”を一身に象徴し、男達の活躍の場と決して交わることはない。男達の活躍する海、船が“男の子の理想の世界”なら、彼女の世界は、いつかは行かねばならない現実の、苦渋の世界。あるいは彼女は港なのかも。彼らが安らぎとして帰って行く場。……どちらにしても、女にとってはあまりいい気持ちのしない設定だけど、まあこれも、時代だからなあ。
そう、劇中の時代設定もそうだし、撮られた時代も時代だから、そうした男女意識や、戦争に対する意識とかいうのを云々してもしょうがないんだけど。うーん、でも、やはり敵の潜水艦への攻撃が成功した時、満面笑顔で歓声を上げるのには……いやまあ、そりゃ、敵だし、やらなきゃやられるんだから当然なんだけど、でも今の意識で観ると、やっぱりちょっと引いてしまうんだよな……。ま、でもこれは駆潜艇を舞台にした男達の関係性を描くのが主題であって、戦争映画ではないと思うし、やっぱり考えすぎかしらん。
冒頭、一つの駆潜艇が敵の攻撃にやられて、多くの味方がやられ、ほうほうの体で帰還したところから始まる。主人公である船長マクレイン(ランドルフ・スコット)は、そのかたきをうつため、休暇も取らずにすぐに新しい駆潜艇に乗り込みたいと申し出る。正義感の強さを理由にはしているけれど、彼はまるで魚のように、陸の上では長く生きられない、海の、船の男ということなんだろうなあ。亡くした味方のうち、今回が駆潜艇への初乗り組みだった若い新兵の姉である女性に遺品を届けに行く彼。その女性が、たった一人出てくる美女。次の駆潜艇、k-225が出るまでの刹那、二人は恋に落ちる。そして次の航海には、彼女のもう一人の弟が乗り込むのだ。
マクレインが新兵に対して体罰も含めて非常に厳しい態度をとり、このもう一人の弟も含め反発の空気が流れるのだけれど、なじみの乗組員は、彼の優れた指導能力をよく知っているので彼らをなだめる役割に回る。しかし、マクレインが新兵達を体罰する場面などは実際には出てこない。やっぱり実際に映像にしちゃったら、いくら指導に必要な体罰と言えど、観客が引いちゃうせいなんだろうなあ。言葉だけで彼の正しさを語るなんて、うーん、ちょっとずるいかも?
この駆潜艇に守られる側である輸送船団の船長は、マクレインの上官。いつも彼にタバコをねだるお茶目なお方だ。敵が迫っていることを知らせるモールス信号の中に、「帰ってもタバコはありませんよ」なんて打ち返すマクレインもまたお茶目。お茶目と言えば乗組員はお茶目ぞろい。顔を合わすとケンカする同志なのに、なぜかいつでも同じ船に乗りたがりる二人や、“家なき子”の犬をいつも一緒に船に乗せる男。それを入船チェックで、いつものことだからしょうがないなあ、と見逃す男達もイイ。ちゃんと犬用のハンモックを作ったりして、なんか妙にカワイイのだ。
敵との攻防は船どうしなものだから、当然相手の顔は見えない。これもまた、ちょっと、イヤな感じがしないでもなく……やっぱり、顔の見えない相手だと、より、罪悪感もないだろうし。敵艦の内部も映されるけど、ロシア語と思しき言葉でしゃべくる彼らの言っていることは判らないし。迫り来る魚雷を避けて船を機敏に操作したり、上から下から爆撃を仕掛ける描写は、まあ確かに迫力かな。
でもそれより迫力なのは、自然の猛威、海が大荒れになった時。本当に、大波にゆれる木の葉のようになすすべもない船。舵を取ろうとしても大しぶきがこれでもかと襲ってきて、その水の力で首の骨が折れて死んでしまう者まで出てくる。他の場面ではスタジオ撮影臭いなあ、と感じるところもあったんだけど、ま、これもスタジオ撮影なんだろうけど、このリアルな迫力は凄い。あの水の威力は、設定だけでなく本当に首が折れてしまいそうなのに、実際に人間がそこに立って大しぶきを浴びてるんだもん……大丈夫かなあ。
ところで、後半船長が負傷して倒れ、ちょっとうとうとしている間にエンドクレジットになってしまったああ!え、まさか、ひょっとしてマクレイン船長、死んじゃった?しもた、一番盛り上がるところを私ぁ見逃してしまったらしい?★★★☆☆
道行く人がみんな顔見知りで、遠からず血縁状態にあるような南部の小さな町、ホーリー・スプリングス。アメリカ南部にはこのような雰囲気を残す町が数多く存在するという。かつては日本にもそんな村や町があったと思うけれど、多分アメリカよりもそれは急速に失われていると思う。単純に、アメリカはとにかく広大で、その土地から出て行こうとする意識が日本のそれより希薄だからのように思う。日本の小さな町や村では若い人は皆その土地を離れて都会に出てしまい、高年齢化が進んでいるけれど、アメリカでは、若い人もその土地を離れようとはあまり考えていないんじゃないか……フィクションではあるけれど、本作を観ていると、この中で出てくる若い人……ことにひよっこ保安官ジェイソンに扮するクリス・オドネルに象徴されているように感じるのだ。
本作はそんな小さな町なら起こるかもしれないちょっとブラックな騒動を描いていく。何十年も前に他界した最愛の夫を追って、自殺したクッキー(パトリシア・ニール)、彼女の第一発見者となった姪のカミール(グレン・クローズ。悪ノリ、ヤリすぎだ(笑))は「自ら命を絶つなど愚か者の極み」というオスカー・ワイルドのセリフそのままに、身内の中に自殺なんてみっともないことをする人間がいることは許されない、となんとありもしない強盗殺人をでっち上げてしまう。このカミール、かなりトンデモナイ女なのだけど、この町の中だけで完結しているささやかな生活の中に、そんなウソをついてもすぐにばれるに決まっているということを気がついてないあたりが憎めないのである。それどころか自分のついたウソがあだとなって、ウソをつきかえされ、それが皮肉にも真実となって容認されてしまい、自分に降りかかってくるのだから……。
この町で正義とは、正しい真実から来るのではなく、時々はほんとか嘘か判らないようなからまりあった血縁関係を大事にした上で判断されている気がする。カミールはそれを知っているからこそ叔母のクッキーを姪である自分が案じているのだと(実際はその家や財産が目当てなのだが)アピールするのだけれど、隠されていた血縁関係が明るみに出た時、そちらに負けてしまうのである。それは、クッキーを長年世話して、家族同様に信頼していた黒人(と言うのは今は問題があるのだろうけれど、この作品においてはこの呼び方の方が有効だろう)ウィリス(チャールズ・S・ダットン)がクッキーの甥であるという事実。あまりハッキリとは言及されていないけれど、このことが隠されていたのは白人優位主義にあるに違いないわけで……。さらにこの南部で、黒人が奴隷としての歴史を刻んでいることに対する、白人、黒人双方ともに抱えているそれぞれに微妙に異なるトラウマのようなものが作用し、この物語をただのドタバタ、ホノボノではなく、辛口のものに仕上げているのだ。
若い世代になるにつけそうした意識は薄れていっていることに、未来への光明を見ているのであろう、この事実を隠し続けていたウィリスに対して、彼が自分の身内であったことに素直に喜びをあらわにするカミールの姪であるエマ(リヴ・タイラー。ベリーベリーキュート!)は、若さあふれる躍動感で輝くばかりの未来を感じさせる。男の子みたいなベリーショートは、この保守的な南部で女性は女性らしく、なんていう概念を軽々と超えていくものの象徴だ。カミールは、暇さえあればジェイソンとキス&セックスするエマを「アバズレ女」と称するのだけれど、実際エマはこのひとりのボーイフレンドとしかいちゃいちゃしていない。それに実はエマは、カミールが妹であるコーラの夫と寝た結果できた子供なのであり……。エマに自らの過去のトラウマをかぶせて遠ざけるカミール、ここにもからまりあった血の物語が存在する。
ほんとにもう、こうまでくると何が何だか判らないほどにいとこだ姪だ甥だ、娘だ母親だと、頭の中にこんがらがった家系図が浮かんでは消えしてコンラン状態。でもそれがアルトマン監督の意図だったようにも思え……結局血のつながりなんて大したことじゃないと逆に言っているように思えるのだ。せいぜいが200年かそこらの歴史であるアメリカで、それほど家系をさかのぼれるはずもなく、血にこだわるのはアメリカ人のそうしたものに対するゆがんだ憧憬であるとも言える。だから、そんな遠い縁戚関係じゃ他人も同じだと思うようなつながりもやたらと大事に持ち出すのだが、この作品で大切にされているのは実はそんな血のつながりではないのだ。
状況証拠で殺人犯の汚名を着せられたウィリスに対し「釣り仲間だから」と信用して牢の扉は開けっ放し、そこで彼と一緒にゲームにまで興じてしまう保安官レスター(ネッド・ビーティー)しかり、観客にはウィリスとクッキーが血縁関係だと知らされないままに二人の友情が展開されることしかり、そしてエマは他人である(とこの時点では思っていた)ウィリスを「家族同然」と言って擁護していたし。加えて、カミールが何よりも信用しているその血縁関係が最後には彼女の首を絞めることになる……それは先述したウィリスの事実のみならず、彼女の妹であるコーラが、最終的に彼女を犯罪者に仕立て上げてしまうから。
このコーラを演じるジュリアン・ムーアはもう最高である。姉に支配し続けられている彼女は後半まで実にサエない女なのだが(しかしこのサエない女ぶりがとにかく可笑しい。特に、「一言も喋るな」とカミールに言われて、ビミョーな笑顔のまま唇をぴったりと閉じているあの場面!)、姉が捕らえられた事実を知ってか知らずか、「サロメ」の舞台に立っているあたりから俄然めきめきと輝き出し、その衣装のまま警察を訪れ、一発逆転!で姉を陥れる最後の段での美しさは、今までのコーラがウソのよう。まさに彼女がこの作品の隠された?テーマを物語っているとも言えるのだ。曰く「血縁関係など、それほど大事なものではない」
時間が止まったかのような空気の中で、ずっと変わっていないであろうけだるい音と声を聞かせているさびれたバーのブルース、そこの、いかにも「この町のブルースの女王」然とした中年黒人女性、最初は自信満々に乗り込んできたのに、この町独自の常識や正義の前に何も出来ない都会のエリート警察官ナドナドちょっとしたキャストにもぬかりのない秀作。★★★☆☆
全く前知識なく観たのだけれど、何でもこれは元々舞台版であるのだという。その劇団STRAYDOGの主宰者である監督森岡利行はそしてなんとまあ、あの傑作、望月六郎監督「鬼火」の脚本家であるのだという。本作も勿論彼の手による脚本なのだけど、そしてもしかしたら脚本は面白いのかもしれない(何といってもこの舞台版は再演を重ねる人気の代表作なのだそうだから)……けれども、どうしてかのめり込めない。登場人物たちはみな適度に強烈な個性を持ち、適度に愛すべき憎めなさを持ち、滑稽で感動的だったりするのだけど、その滑稽で笑えず、感動的で感動できないのはなぜなんだろう?
日本映画のポスターはみな黒澤作品であり、その中でも「酔いどれ天使」のポスターはこれでもかと映りまくる。どうやら、主人公である病に侵された田舎者のヤクザ、功郎(相澤一成)にかの作品の三船敏郎演じたヤクザを重ねてオマージュをささげているらしい。彼がふらふらと立ち上がった時、ポスターの三船氏と同じポーズになる場面も出てくる。……私はこのオマージュというやつが、よっぽど上手く出来ていないとどうも気に入らないのだ……実を言うと。それは監督の趣味の披露=自己愛を見せられているという感じや、あるいはいわゆる映画ファンじゃない観客を置き去りにしてしまうところがあるから。まあこれは映画館を舞台にした話なんだからそこまで目くじらたてる必要もないといえばないんだけれど。でも、この時登場する上映映画は森岡監督の脚本作、渡辺武監督「チャカ」だって言うんだからおかしいじゃありませんか。ここは名画座で、観客の気弱なサラリーマン、多和(鈴木真)は「古い映画のポスターに惹かれて」入ってきたんじゃなかったの?それに「酔いどれ天使」にオマージュをささげるのに志村喬に値する人がいないのもなあ。
先述の裏階段必死に駆け上り!な支配人、黒沢木(塩山義高。黒沢木というのも黒澤監督へのオマージュなんですかね)がハアハア言いながらこの観客、多和を出迎える気味の悪い笑顔はこの人のキャラを充分に語ってあまりあるものである。……キャラに関しては、皆イイんだよなあ。主人公の田舎者ヤクザ功郎は、俺はもう死ぬんだから、という気合がその白づくめのスーツに象徴されてやたらとカッコイイし、彼の恋人を犯して殺したヤクザの樽木も彼に負けず劣らずの気迫で、功郎と一騎打ちのクライマックスはスゴイ。この気弱サラリーマン、多和が、樽木にどんなにボコボコにされてズタボロになっても起き上がるある種のしつこい描写もいいし(樽木役の那波隆史はサンボの使い手だそうで、ほんとにこの場面はひどくリアリティがあって痛そうなんである)、看護婦である功郎の妹、幸子(小島可奈子)にセクハラする酒巻は「いいやないか、乳ぐらい」だの「スカートまくれや!」だのとアホなスケベエ丸出しで可笑しいし。
それに比べて女性陣は今一つはじけない。黒沢木支配人の娘で映画監督が夢だというメイ(黒川芽衣)はやんなるくらいカワイイし、幸子はやんなるくらい兄思いのいい妹だし、功郎の夢の中に出てくる彼の殺された恋人ケイ(川端良香)はやんなるくらい功郎一筋のいい女だし。イレズミ入れた風俗嬢、恵梨香(栗林知美)はちょっとはじけてたけど、みんな男の理想って感じのよくデキたお嬢さんばっかりなんだもん。メイに関しては、彼女のどアップでセリフを喋らせるなんて場面があって、この子の、作った演技のワザとらしさが気になってしょうがなかったんだけど……それをやりたくなるくらい、確かにこの子はカワイイんだけどね。一番ツマンナイのは功郎の妹、看護婦の幸子で、彼女は最後の最後、死んだ兄に語り掛ける長台詞があり、それがこの物語のもうひとつのクライマックスなんだけど、これがねえ、監督のやりたかった画なんだろうなあ、というのは判るけど、この幸子役の小島可奈子さんも気合入った泣きの演技をしているのも判るんだけど、ここだけ思いっきり停滞しちゃってて……。それに、ちゃんと確かめもしないで、兄が死んでるって判断して語ってるってのも何だし、もしかしたら生きていると思ってるのだとしたら更にヘンだし(どっちにしたって、普通救急車を呼ぶよな……)。
ここの場面に限らず、本作は全体のリズムが見事にバラバラなのだ。なんか時々思い出したようにコミカルな早回しを(下っ端チンピラ、端角(土井ドンペイ)が計算機を取り出してカチャカチャやりだすとか)したりするんだけど、あまりに唐突で面食らい、空回りしているし、そうかと思えば功郎がケイとのことを夢想している場面では昼メロかと思うくらいしんねりと描写するし。それともこれは飽きさせないための計算なのだろうか?飽きたけど。
それにしても、多和の取り出す新製品だというカップラーメン、酢コンブを使った“都ラーメン”はないだろう……なんてマズそうな……。★★☆☆☆
なんといっても、完全に純粋に中国語圏の魅力たっぷりの映画を、ハリウッドなどというそういう意味では超保守的な世界で、堂々とやり遂げちゃうとこが素晴らしいのである。もちろん、そうなるまでには、いろいろな実績が必要だったわけだけど、例えば英語圏の映画を撮ってた時だって、彼が魂を売り渡した、と感じたことは一度もなかったし(誰かさん、見習えよ)。そして本作、“西洋と東洋の融合”なーんてよくあるものでもなく、本当にこれぞ、アジアの力ぞ!と胸躍る……こういう点、ほんと日本はかなわない。こういう映画世界の継続が、日本では完全に断たれちゃってるんだもの。凄く、うらやましい!それに、そういう製作費の巨額さをいい意味で感じさせないんだよね。とにかく、映画の魅力に使い切っちゃってる、そんな感じ。製作費かかってんぞ!っていうような押し付けがましさがないんだ。昨今のハリウッド映画はそんなんばっかりだからなー。
“グリーン・デスティニー”ってタイトルはいただけなかったが……もうちょっと何とかならんのか、とりあえず原題は当たり前ながらちゃんと中国語で、その漢字のシブさが(意味はよくわかんないけど)トんじゃうじゃん。英語題だって、その直訳みたいなのに。んでまあ、“グリーン・デスティニー”ってのは、いわゆる秘剣であり、その使い手であるリー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)、女弟子のシューリン(ミシェル・ヨー)がまず登場。このキャストだけでもドキドキモノだが、ああ、ミシェル・ヨーのなんというたおやかな美しさ!そうそう、「もういちど逢いたくて/星月童話」なんつー愚作にチョイ役で登場した時も、ド下手な常盤貴子を一瞬にして喰ってしまったその存在感(ま、それは当然だが)。ほんっとに、もう、むちゃくちゃ素敵!なんである。美しい上に、恐ろしく強くて。本作は、このミシェル・ヨーともう一人のヒロイン、チャン・ツィイー(カワイイ!カワイイ!!カワイイ!!!)の二人のマーシャル・アーツアクションが凄まじく、そして美しく、ああ、こういうのこそ真の女性映画ぞ!と嬉しくなってしまう。
そうそう、そのチャン・ツィイーである。デビュー作「初恋のきた道」と公開は逆なので、初のお目見えで、勿論名前も初めて聞いたので、なーんの感慨もなかったのだが、最初っから、もう、何この子、誰この子、うっわあ、メチャカワイイー!!とすっかり釘付け!小作りな唇の紅を小さな紙で押さえたり、絹糸のような黒髪を丁寧に梳ったり、そういう描写も、実に画になる!貴族の娘(というより、もうお姫様って感じ)であるんだけど、実はリー・ムーバイの仇敵、ジェイド・フォックスに手ほどきを受けた、そしてジェイド・フォックスよりもずっと才能のある彼女。ほんと、このいきなり出てきたベビー・フェイスのお姉ちゃんが、ワイヤー・ワークもマーシャル・アーツもとてつもなく華麗に、ひょっとするとミシェル・ヨーよりも魅力的にこなしているのに口アングリ!経歴を見てみると確かにそうした身体を動かす下地はあるみたいなんだけど、それにしたってねえ!スゴい!んで、彼女、このミシェル・ヨー扮するシューリンに憧れて、「お姉さんになって」などとゆーのだから!そしてシューリンもまたそれに応え、彼女を何くれと心配して……くぅーッ!ああ、なんという美しき姉妹じゃッ!見てるだけで鼻血が出そうだよ、もおおお!
彼女は身分違いの恋に悩んでいるのだが、このお相手に出会う場面もまた素晴らしい!広大な砂漠で櫛を奪った盗賊、ローに対したった一人で果敢に乗り込んでゆく。その強さで彼と対等に張り合うも(スゲエ!)気候も厳しく、倒れ、彼に助けられ……恋に落ちる。もうそこまでにね、なんどもなんども激しく二人は戦ってるから、その情熱がそのまんま恋に移ったみたいで、もうほんと、ドキドキ!このローを演じるチャン・チェンがまたイイんだ。またひとまわり大きく成長して、なんかひどくセクシーになっちゃって、野性的で直情的で、これはほんと、ホレるわ、マジで。
リー・ムーバイとシューリンもまた、許されない(そうかなあ……)思いに悩んでいる。二人とも自分の気持ちを押さえに押さえて、何にも言わない。それでも、リー・ムーバイはだんだんと「お前と生きていきたい」(キャー、キャー!)とかいう台詞を口にはするようになるんだけど、でも「愛してる」という言葉が出るのは、彼が死ぬ時なんである!(ああ、かつて、私だけが盛り上がってたベルギー映画「小便小僧の恋物語」なんぞを思い出しちゃうなあ!)ああっ!なんで死んじゃうんだ、ほんとに、最後の最後まで、うっそでしょお、お願い、イェン(チャン・ツィイー)早く解毒剤持って来て、早く!と……死んじゃうだろうな、とは思いながらも、どうしてもイヤで、だって、だってあんまりだ!って……。ジェイド・フォックスに毒針を刺されたムーバイは、いよいよダメだって判るとシューリンの「私のために力を使わないで」という制止を無視して、やっと、本当にやっと本当の心を語りはじめる(もっと早く言えよ、バカッ、もう!)。お前を愛してたと、お前のいない天国より、亡霊となってもお前のそばにいたいと……そうして、息絶えてしまう。慟哭し、(多分)初めてのくちづけを浴びせるシューリン……。あああ、こんなちょっと陳腐に聞こえそうなセリフが、もうもう、泣けて泣けてしょうがなくて、……あんまりだ、と思いながらも、いや、でも愛は変わらんもんねッ!などと心の中でこぶしを作って。でも、でも悲しいー!!!
間に合わなかったことを知って立ち尽くすイェンにシューリンは恋人のもとに行くように促す。最愛の人、ローとの再会に身を焦がしつつも、どこか遠い目をしているイェン。その翌朝、彼女は彼と目を合わせながら、橋の欄干から霧深い下界へとふわりと飛び出して行く。……意味するところはよくわかんないけど、なんだかこれまた泣けてしょうがない。美しくて哀しくて、でも強さがあって。なんと、心に残る名画のようなラストシーン!
本当に、彼らの身体は一体どうなっちゃってるんだろう。例えば、そう、同じアクション監督、ユエン・ウーピンの指導した「マトリックス」の役者の動きは、ワイヤー・ワークとは言えその重い(力強いとも言えるけど)筋肉をやっぱり感じさせたんだけど、本作のミシェル・ヨーもチャン・ツィイーも、チョウ・ユンファもチャン・チェンもまるで筋肉が綿か何かで出来てるみたいに軽々としてる。そう、軽々と殆ど空を飛ぶように屋根から屋根へ、竹から竹へ(!)、水面をミズスマシのように走り抜け(!!)ていくんだから!そうした破天荒な描写が、でもアリかもと思わせる軽さで。ほんと、驚いたな、あの竹林のシーン。チョウ・ユンファとチャン・ツィイーがしなる竹に次々と飛び移って、しかもその上で闘うのだから!アンタら、一体何モン!?ワイヤー・ワークには違いないんだけど、勿論。でもあのロケーションで一体どうやってやってるんだあ!?でも、でもとてつもなく美しく独創的でスリリングでパワフル!
はー、もう、堪能に堪能し尽くしたわー。ラブストーリーの側面がね、素晴らしく良かった。こんなにラブストーリーで泣いたのはピーター・チャンの「ラヴソング」以来かも。そしてこういう古装片の世界に耽溺したのは「楽園の瑕」以来かなあ。そうだ、この二つを足したような趣。大人の恋で泣かせて、実に映画的な広大なロケーションや中国の装いの美しさがあって。これは当然もう一度観なきゃでしょ!!★★★★★
除隊後に目にした様がわりした街や、思っていたよりも上手く行かない自分、大都会での闇社会、敬愛できるボスとの出逢い、そのボスの情婦との、まるで初恋のように惹かれあう心、ボスへの純粋な慕う思いが引き起こす悲劇……。そんな物語の流れはどこかに懐かしい匂いをも感じさせる。主人公、マクトンが、かつては仲良く一緒に暮らしていた家族達が今やそれぞれ、ある意味自分勝手に暮らしていることに失望する様子は、ちょっとだけ「東京物語」の切なさなんて思い出したし。
マクトンは、小さな食堂を持って、もう一度家族みんなで暮らしたいと考えている。食堂というのが……そう、食卓に皆集まるという、まさしく家族の象徴で、マクトンの気持ちが胸に染み入る。そしてそのどこか時代錯誤な夢はしかし、ラストにちゃんとかなえられている。その場でシメる地鶏をウリにする家庭的な食堂。お客さんのいない時間帯に食堂でみんな一緒に食事をとり、地鶏を追いかけてはしゃぎ……。兄夫婦なんかはいまだに夫婦喧嘩が絶えないけど、でもやっぱり離れられないあたりが結局いい夫婦だなと思わせたり。でも、この夢の実現の場所に、マクトンはいないのだ。
彼が属することになる、組織のボス、テゴンが実にイイ男だ。どん底からのし上がってきた男。闇社会ではあるが、いわゆるヤクザであることを嫌い、規律を重んじ、人間としての、そして男としてのプライドを大事にする。マクトンの、純粋がゆえの向こう見ずさを気に入り、彼を傍に置く。組織員の中にはそんな彼にあからさまに嫉妬を抱くものもいるのだが、そいつもそういう気持ちを隠そうともしないあたりがやっぱり純朴で、憎めない。やっぱり、ボスの人柄が反映しているような、小さいけれど、結束力は固い男たち。どことなく「修羅がゆく」シリーズを思い出させる。
しかし、テゴンには天敵がいて。かつて配下についていた、恐らくこいつのせいで死にもの狂いではいあがったのであろう、実にイヤなヤクザ、ヤンギル。「俺のやり方で倒す」と言いながらも、この男の前では蛇ににらまれたカエル状態のテゴンが、もどかしくって悔しくって、かわいそうで。勿論組織員たちも皆悔しくて仕方ないのだが、その中で特にマクトンがその思いを強くしている。……だって、彼はこのテゴンに心酔してるんだもの、本当に、純粋に惚れている。テゴンの情婦のミエに惹かれてるのももちろんだが、どちらを選ぶかと言われたら、きっとテゴンを選んだろう。全てはミエとの出逢いから始まってはいるけれど、この時点でミエは尊敬するテゴンに含まれる女として存在しているのである。ミエも、時にはテゴンをヒステリックに遠ざけ、かつては暴力を受けたこともあったみたいだけど、でもやっぱり離れられない。離してくれないというのもあるけど、自分を離してくれない男なんて、最高の愛され方ではないか。彼女もまた、テゴンとマクトンのどちらを選ぶかと言われたら、……微妙だけど、テゴンを選んだような気がする。彼女は、テゴンという男が、ボスではあるけれど実際は誰かによりかかってないと……自分を信頼する誰かがそばにいないとダメな人間だということを本能的に察知しているのだ。そしてその人間が、ミエとマクトンなのだ。
でも、マクトンは……ボスを侮蔑し卑怯なやり口で追いつめるそのヤンギルが許せなくて許せなくて、一人で思いつめて彼を殺してしまう。テゴンは身を潜めていたマクトンに会いに行く。その場所は、自分はここからのし上がったのだとマクトンに話した廃虚となった食堂だった。かつてどんな食堂だったのかしらないけど、テゴンの話や、そのだだっぴろい空間から、マクトンが夢見たような小さなあったかい食堂とは実に対照的だったと思われる場所。そこで、テゴンはマクトンを、殺す。……そうするしか、仕方なかったんだ。多分マクトンだって、その覚悟ぐらいは出来てただろう。だって、ボスを殺されたことで、ヤンギルの配下たち(絶対にテゴンの組織員の数より上だろう)が黙ってるわけないんだもの。テゴン自身の保身ではなく、彼の他の組織員たちのために……マクトンのためだけに全員を死なせるわけにはいかないのだもの。テゴンだって、マクトンの気持ちは痛いほど判ってたに違いなく、自分のためにそんな危険を冒した彼を殺したくなんて絶対無かったはずで……。でもあの時、テゴンの手によって倒れたマクトンは、彼と初めて対等になった、ような気もして。……幸せだったんだな、って思いたい。
ラスト、テゴンとミエは、まるで偶然のようにマクトンの家族達がやっている食堂に立ち寄るのだけど、……実際、ミエはほんとに知らなくて、マクトンからもらった写真を取り出してそこと気付き、慟哭するのだけど、テゴンは知ってたんじゃないかな……彼はマクトンの夢を知ってたんだもの。彼がこの食堂の資金援助をしたんじゃないのかな。そんなことは全然語られてないけど、そんな風に思えて仕方なかった。そう思いたかったのかもしれないけど。この時、ミエは妊娠してて、ひょっとしてその子供は、あの時、ミエによって初めての経験をしたマクトンの子供なのかもしれないと思ったり。テゴンだって、ミエとマクトンの恋心には気付いていたよね、絶対。だから、ミエをここに連れてきたんじゃないのかな……。もう、イイ男なんだから!
マクトンの兄の一人に、全身にマヒのある青年を設定してるのだけど、でもほんとに仲の良い、普通の家族をやってて、このあたりの目配せが監督のヒューマニスティックさを思わせる。大都会での物語を後ろにおいて、家族への回帰で締めくくる物語は、これを懐かしいなどと感じてはいけないのだと監督は言っているのかもしれない。結局、都会は何もしてくれない。都会の存在意義は、自分がその都会という巨大なマシンを作り上げる、何かの役割を担うことであって、自分の居場所を見出すところではないのだと。車がビュンビュン走るコンクリート道路の傍らに立つちっぽけな食堂でも、その故郷としての、家族のいる場所は、何よりも大事なものなのだと。★★★☆☆
死刑囚側では、どこに行っても問題児の凶悪犯罪を繰り返すウォートン、看守側では、コネをかさにむかむかする言動ばかりするパーシーがその悪人。他の人たちは死刑囚も看守も皆一様に誠実な“善人”で、その“善人”である死刑囚たちが何をしたのかも(主人公、ジョン・コーフィの冤罪を除いては)明らかにされない。これは彼らが根は善人だから、反省しているから過去に何をやっていたとしても許されるのだという主張に思えてしまう。そんな彼らも、運命には逆らえずに死んでいくこととなり、世のむなしさを感じたりもするのだが、一方悪人である死刑囚は、根っから悪人だから反省などするはずがない、と言わんばかりの描き方。
人の心やあらゆる事を感じとることが出来るコーフィが、ウォートンとパーシーの“悪人”たることを見抜き、パーシーによってウォートンを射殺させ、パーシーを廃人同様にするくだりは、だからまさしく勧善懲悪そのものなのだ。そう、勧善懲悪だと割り切って見なければあまりにこれは納得がいかなすぎる。こうまで善人はあくまで善人、悪人はあくまで悪人と描いているのだから当然の帰結なのだと思わなければ、このやり方は残酷すぎるではないか。
他人の傷や病を治し、死にかけた生命を呼び戻す事すら出来る不思議な力を持つコーフィを、看守主任であるポール(トム・ハンクス)は「神の使い」だと形容する。確かに人の生き死にをこうも容易に操作してしまう人物ならば、神の使いどころか、神そのものに違いないだろう、そんな皮肉を言ってしまいたくなる。甘いのかもしれないけれど、私は性善説を信じている人間だから、悪人は死んだ方が世のためだという考えにはどうにも納得できかねるのだ。人が犯罪に手を染めるのは、複雑な事情がある場合もあるし、例えそうでなくても、残りの人生でその償いをするチャンスは誰にでも残されているはず。それは当事者が自分ではないからそんな風に気楽に考えられるのだという言い方もされるけれど、ならば自分が当事者でない限りでもかまわない、私は死ぬべき人間などこの世にいないと信じたいのだ。
私にはウォートンがこのような血も凍る殺人者になってしまった原因となった過去や、パーシーのひねくれた性格が形成された環境を勝手に想像して胸を痛めずにはいられないのだ。彼らがまるで人工的に作られた完璧な悪人の様に、善人の“善意”(!)によって殺されたり廃人にされたりするのがたまらないのだ。
というわけで、この物語の人間的かきこみはいささか単純すぎるなあ、と思ってしまうのだが、思えばこの奇跡を起こす物語がある意味ファンタジー、子供にも聞かせたくなるような御伽噺であると考えれば納得もいくってものである。それこそグリム童話の昔から、御伽噺において人間の複雑さなどといった、うがった話題は出るわけもなく、善人と悪人はくっきりと別れ、だからこそ子供たちに、善人になりましょうね、という教訓になるものなのだから。と、そう割り切れればいいんだけれど、ファンタジーに徹して観るには、死刑場面の残酷なリアルさ(ことにわざと苦しむ死に方を見たくてパーシーが細工をしてしまう、ドロクロアの長時間に渡る焼殺……)や、殺された幼い姉妹を腕に抱えて泣き叫ぶジョン・コーフィの姿などがあまりにシリアスで、そしてジョン・コーフィを演じるマイケル・クラーク・ダンカンはじめ、ポール役のトム・ハンクスも、彼の同僚や部下達も皆一様にオスカーでもとるいきおいの真摯な演技合戦を繰り広げてくれちゃうもんだから、物語の根底に流れる、そうした御伽噺的単純さとのギャップの違和感がますます広がっていくばかりなのだ。
そう言えば、他人の傷や病気を治す事が出来るというのは、初期の頃の「パタリロ!」に同じエピソードがあった。そのエピソードに出てくる奇跡の力を持つ少年は、コーフィのように悪素を吐き出す事が出来なくて、自分の生命エネルギーを次々と他人に分け与える事によって、ついには自らに死を招いてしまった。その自己犠牲の精神にはまさに宗教的な神聖さを感じ、おおいに心うたれたものだが、ジョン・コーフィは同じ宗教的でも選民思想という点においての宗教的である。人から取り除いた痛みを、他の人に吹き込む事まで出来る。そんな人間に素直に感動しろだなんて……私には出来ない。
コーフィによって長い長い命を吹き込まれてしまった、ポールとドロクロアの親友であったネズミ、ミスター・ジングルス(ひょろひょろと長いしっぽは苦手だけど、両手でパン屑を持ってかじる姿はめちゃキュート!)。ポールが言うように、コーフィを死刑から救えなかった彼に対して、愛する人に次々と去られるという“罰”をコーフィが下したのだとしたら……やっぱり私はコーフィが心優しき善人だなんて思うことは出来ない。愚かな人間に厳しい罰を下す、厳格な独裁者としての人間味のない“神”そのものだ。
コーフィが最後に望んだ映画鑑賞、そこで上映される、「トップ・ハット」の優雅で粋なフレッド・アステアは、その作品そのものとしてもちろん素晴らしいに決まっているのだけど、この映画内で登場する事によってさらにその素晴らしさを増す。「グリーンマイル」に登場した映画として、また一段と名を挙げる事になるのだろう。ひとつ気になったこと……コーフィがこの刑務所に連行されてくる時、パーシーが「デッドマン・ウォーキング!」と叫びながら彼を連れてくる、その字幕がそのまんま「死人が歩いている!」だったのだけど、それこそ、それがタイトルだった、ティム・ロビンス監督の「デッドマン・ウォーキング」で、この場合のデッドマンは死刑囚を意味し、よってあの映画では「死刑囚が行きます」といった字幕だった気がするのだけど……。★★☆☆☆
酒を飲むと(彼がガブ飲みすると、日本人にとってオシャレなイメージのワインも、ただの酒だわなあ、ホント)、いや飲まなくても無遠慮で、ガリスをハラハラさせるリトンを演じるジャック・ヴィユレは、「奇人たちの晩餐会」の時と大して変わらないオバカキャラなのだが、彼がガリスに頼り切っている目と、かつて愛する女に逃げられた過去が、何だか彼を憎めないものにしている。それに、いつもいつもトンチンカンな事を言っているこのリトンと、それを必死にフォローしているガリスという図式が、ペペや二人に庭の手入れを任せているマダム・メルシエに好感を持たせているのだ。
それと、どこか夢見る研究少年がそのまま大人になったようなこれまた金持ちのアメデ(アンドレ・デュソリエ)もまた素敵だ。彼はガリスとリトンの中に楽しげに割り込んでくる。お育ちのいい彼は、粗野な事は出来ずにニコニコと遠くから眺めていたりするのだが、その興味シンシンの様子がもうすっかり大人のオジサンなのにやたらと可愛くって。
ガリスが恋したとある豪邸のお手伝いさんのマリー(イザベル・カレ)は、彼女もまんざらでもないような感じだったのに、その豪邸一家とともに出かけたニースで突然恋に落ちて結婚してしまったという。うー、そりゃないよなと思いつつ、突然髪をキンキラキンに染めたりして、「悪くないけど、自然体の君が好きだ」と言っていたガリスには、ひょっとしたら似合わない女性だったのかもしれないな、などとも思う。クリクリはその後去ってしまったガリスが、ニースに行って彼女を奪ったと思いたいと回想しているけれど、どうかなあ?
ペペとガリス&リトン(ま、一応彼も入れとこう)の、金を絶った潔い友情関係は、やや教育映画のような感じもしないでもないけれどさわやかに感動的。酒場での乱闘で刑務所に入れられ、リトンに復讐を誓って出てきたボクシングのチャンピオン、ジョー(エリック・カントナ)が、逆に彼に助けられ(厳密に言うとガリスの機転なんだけどさ)その後すっかりリトンと仲良しになってしまうどっかトンマな(ほめてます)友情話も良かった。実際、ガリスがこの地を離れてしまって、リトンがホントに一人になってしまったら(ヒステリックな奥さんはいるけど)、もう彼はどうしようもあるまい。ガリスはジョーが現れた事で、この地を去る事を決意したのではないか。実際は放浪者であるのに12年もこの沼地に住みついたのは、ヘマばかりするリトンを疎ましがりながらも、その実どこか純真な彼を愛し(まあ、なんたってあんな純真なクリクリの父親なわけだから)、彼を一人にしてしまう事を心配していたからなのだろう。なんたってガリスとリトンの出逢いが、リトンがガリスの前に頼り切っていた(いつも頼る人がいないとダメな人なのね)老人の死と、彼が愛する女が出ていったというダブルパンチの時であり、そのすがるような目が(ホント、すがってたよね)お兄ちゃん気質って感じのガリスの足をとどまらせたに違いない。
朝露をいっぱいに含んだようなみずみずしく明るい緑、ガタガタしてる砂地の道路、いつもやわらかく照らし渡す太陽、金銭的に上下はあっても対等に付き合う彼らは皆一様に心はいっぱいのお金持ちで、ちょっとだけそんなムチャな、と思いながらも、ああ、こんな国のこんな時代があったんだな、と素直にホノボノしてしまおう。クリクリがタイヤのブランコでまるで永遠のように笑いながらグルグル回り、ブラックアウトになるラストは、回想の終わりというよりは、あの豊かな日々の終焉のようでちょっぴりほろ苦くもあるのだけど、ね。★★★☆☆
話はというと、なんということもない。不倫に疲れたOLが、新しく気分を仕切り直すために引っ越し、そこで出会った人たちとの物語を淡々とつづっていく、というものである。この、特に前半部分、よくある陳腐な設定になりそうなものなのだが、このことは最後の最後に彼女の元にかかってきた電話でチラリと示唆されるだけ(それすらも、いらないのではと思う)。冒頭、あわただしく引越屋が荷物を乱暴に部屋においていく場面でぼんやりと椅子に座ったままの主人公、ナオコの表情を見ただけで、彼女が多分恋愛に破れたんだろうな、ということが不思議と推察されてしまうのである。
ただ、そのことがことさらに強調されることはない。彼女は仕事をし、ごはんを作り、特に落ち込んだ様子も見せずに新生活をおくりはじめる。美大を出て、本当は美術関係の仕事につきたかった彼女の仕事は推理小説雑誌の編集で、小説家の原稿取り。この老小説家の逃亡癖にふりまわされて、小ぢんまりした商店街の、理容室やら焼き鳥屋やらパチンコ屋やらスナックやらを探し回る場面がとてもいい。このそれぞれの店が、個人経営の、人の顔が見えるあったかさがあるし、「見つかっちゃったよお」という小説家の先生を引っ張り出すナオコという図式のユーモラスさ、加えてこの捜索劇がともすれば沈滞しそうになるこのゆったりした物語に実に絶妙な躍動感を与えてくれるのだ。
この小説家先生から使えるネタに、と最近あったことを聞かれるナオコ。喫茶店でミートソーススパゲティを運んでいる途中に転んでしまったウェイター、でも彼女はミートソースの匂いが店内にいっぱいになって、すこし幸せな気分になれたという。何とも言えずにっこりしてしまうエピソード。そして彼女が出会った自転車屋さんの話になる。夕食を作っている途中にしょうゆを買い忘れたことに気づいたナオコがコンビニに買いに走ると、坂の上に可愛いネコがいて、気を取られているうちにしょうゆが坂をころころと転がってゆく。そこに走り込んできた自転車が、見事にそれに車輪を取られてしまって横転、彼の夕食のお弁当もメチャメチャになってしまう。と、いうわけで、夕食を作っている途中だったナオコは偶然すぐ近くに住んでいるこの男性のところにごはんを運び込んで一緒に夕げと相成るのだが、部屋中自転車だらけのこの自転車屋さんに、ナオコが自転車が乗れないと告げると、なんと部屋の中での自転車の特訓が始まるのである。「自転車のいっぱいある中で、自転車に乗る練習をする、これがいいんじゃない」と楽しそうに言う自転車を愛する自転車屋さん。ナオコが「あ、乗れてる、乗れてる!」と玄関に向かってこいでいくと、いきなり大家さんがドアをあけて、ナオコはそのまま外にこぎ出して行くのである。このチャーミングなエピソードを聞いて、大笑いする小説家の先生。
これはてっきり、彼とのほのぼのしたラブ・ストーリーになるのかな、と思ったら、そうはならない。劇中ではその後ナオコは彼とはもう会うことはない。そして今度はナオコの窓ガラスに野球のボールを飛び込ませた男の子と出会うのである。今日の昼食代だけど、とわずかなお金を差し出すその子を中に入れて、ナオコはごはんを食べさせてやる。母子家庭であるこの子の母親は、仕事一筋でごはんなど作ったことがないという。「でも、お母さん、好きでしょ」とナオコが言うように、この子がお母さんのことを話す口ぶりは愛情に溢れていて、お母さんのことをキョウコと呼び捨てにしたりするのである。この子の苦手な魚を食べさせようと、窓ガラスを割ったことを許すことを条件に、次の土曜日に食事に誘うナオコ。
このお母さんと、ナオコがかつて住んでいた部屋で出会う。この時点ではお互いに息子によってつながりがあるなどということは気づいていない。ナオコは敷金の清算に、このお母さん、キョウコは新しい部屋を探しに来ているのである。不動産屋さんも、内装屋さんも、席を外してしまって、二人きりになる。なぜだかカボチャを持っているキョウコは「カボチャの煮方って、判りますか。私、料理全然判らないんですよ、恥ずかしながら」と言うと、「だったらせっかくだからここで作りましょうか」と言うナオコ。またおしょうゆを買って来ていたのだ。そしてまな板と包丁とお鍋はナオコがこの部屋に置いていっていた。次の場面ではキョウコとナオコがカボチャをつまみながら、何気なく会話を交わしている。ナオコの持っていたスケッチブックを見つけ出し、「いいじゃない、この画、これなに」とキョウコが問うと「それは、おしょうゆを運ぶ自転車屋さん」と応えるナオコ。……実を言うと、キョウコがプロポーズを待っているのが、他ならぬこの自転車屋さんの梶井なのだ!キョウコはそれを察知して、三人で暮らせる部屋を物色していたのだろう。そしてカボチャを煮ようと思ったのだって、夕食にコンビニ弁当なんか食べてる梶井に作ってやりたいと、お料理を少しでも覚えたいと思ったからに違いないのだ。
ナオコが、この部屋あなたに借りて欲しいなと言うと、キョウコは、それならば、この壁のこのあたりに画が欲しいな、とナオコに目配せする。キョウコが帰り、ナオコは一人になると、もう一度画を描こうと買って来ていたのであろう、絵の具と筆で、白い壁に直接筆を走らせる。この場面の、一瞬考え一瞬にして絵筆を躍らせる、さまざまな角度からのカッティングが、“画を描く”という行為から連想される以上のスリリングさで、それはガランとした誰も住んでいない部屋でこっそりと展開されるから、余計にワクワクするのだ。そして描かれた画はあの、おしょうゆを運ぶ自転車屋さん!青いバックに黄色や赤で描かれた自転車屋さんと、黄色い三日月。凄く、チャーミング。いつのまにか戻って後ろでじっと見ていた内装屋さんが、「いいんちゃいまっか」(!)と言い、「ささ、いいから(不動産屋さんが来る前に)出ましょ」と戸惑うナオコを促す。この関西弁の、カルいノリの内装屋さんが、実にイイんだよなあ。
と、いうわけで、キョウコと自転車屋さん、そしてキョウコの息子の男の子の場面になり、キョウコが(ナオコとは知らずに)窓ガラスを割った人のところにこれから謝りにいく、というのに自転車屋さん、梶井もついて行く。その途中の土手で梶井、「俺さあ、今の部屋、追い出されちゃうんだ。三人で一緒に暮らさない?」キョウコ「……いいけど、あの部屋の自転車はどうするの」梶井「そうだよなあ…………えっ、い、いいの!?」知らないふりして、息子とふざけながら前を歩くキョウコに「いいの、いいの?」と駆け寄って行く梶井。ああ、こんなカワイイプロポーズ場面は初めて見た!
ナオコはこの男の子のためにつみれ汁を作っていて、そこにドアチャイムが鳴らされる。そこでカットアウト。この三人が、お互いに出会っていたとは知らずに顔を合わせるワクワクを予感させながら、映画は終わる。その直前、前夜にナオコは別れた恋人から電話がかかってきて、ちょっとブルーな気分になっていて、「うん、美味しい、美味しい」とつみれ汁の味見をしている彼女の姿もキュンと胸に痛いのだけれど、そしてこの梶井さんが、ナオコの相手にはなれなかったのも切ないんだけど。でもナオコはこの自転車屋さんとの出逢いを、そういう単純な発展の仕方ではなく、素敵な知り合いを得た、という感じでとらえているし、それが、本当にウソじゃなく、キョウコやその息子との出逢いともども、ああ、出逢いって、いいな、と素直に思えるのだ。映画で妙齢の男女が出会うと必ず恋愛に結び付けられるのが、ここではそうではないのが、逆に素敵なのだ。ナオコは失恋の痛手がまだまだ消えなくって心が痛いけど、でも、そういう部分と素敵な人たちとの出逢いが共存しているところが、凄く素敵なのだ。
なんか、この映画の良さを、上手く伝えられないのが歯がゆいのだけど。エピソードも、こうして文字で語ってもその魅力の10分の1も伝えられないって気がする。好きな映画って、全てを伝えたくなるからついついストーリーばかり追ってしまって。なんだろなあ、このヒロインが料理が好きで、しかもなんかほんとに、日常的に作っているという感じで静かに包丁を鳴らしているのとか、喫茶店であのウェイターがまた転ばないかと横目を使いながら梶井(!)基次郎の「檸檬」を読んでいたりとか、こんな仕事をしていながら携帯を持たずに商店街の公衆電話で騒音を気にしながら電話していたりとか、そうしたヒロインの造形がまずなんとも好きなのだ。このナオコを演じる浅野由紀が醸し出すそうした雰囲気が良くって、凄くキレイな指をしていたりとか、小さ目の声でささやくように喋る声とか、ナチュラルな肩までの髪とか、自然体で、素敵で。特にこの声と喋りはツボにはまってしまった。なんというのか、凄く、リアルなのだ。母親と電話をしている時の喋り方とかも、そうだ、母親との電話って、こういう感じだな、って思うし。彼女の存在自身がリアルなんだけど。
この映画、彼女が一人でいる場面が圧倒的に多いんだけど、その感覚こそがリアルなのだ。女性が一人で生きていくということはこういうことなんだっていう……一人でも決して淋しいばかりじゃない、つっぱって生きるばかりじゃない。こんな風に時々は胸が痛むけれど、それこそこんな風にささやかながらも素敵な出来事に出会えるなら、女一人も捨てたもんじゃない、って。女は独りで生きていく能力がある、そういう時もある、って。それは決してネガティブな意味じゃなくて、それが素敵な時もある、と感じさせる、それがリアルなのだ。
画面の肌触りがとってもあったかい。都会の冬の空気感をとてもよく伝えてて。雪も降らないし、特に寒いって言っているわけでもないのに、独特の冬の空気の冷たさや、また逆に日だまりのあったかさをとても感じさせる。街はクリスマスが近く、いつもニギヤカにクリスマスソングが流れているけれど、ナオコはそれに一度も気を取られることもない。心の中では、そうか、クリスマスだよな、と思っているのかもしれないけれども、小説家先生を追いかけて走り回ったりする、その背景として描かれるだけで。
でも、ようやく締め切りに間に合った先生のもとをナオコが辞した後、いつも居眠りばかりしていた先生の奥さんが「あなた、あの子をあんまりいじめちゃ駄目ですよ。クリスマスプレゼントをあげたらどうですか。自転車なんかどうかしら、乗れるようになったんでしょ」と提案するのには、ああ、クリスマスってこういうのが素敵なんだよなあ、と感じ入ってしまった。クリスマスは恋人と、とか家族と、ってだけではなくて、色んなところにあったかい気持ちが隠れてて、それが顔を出してくるのがクリスマスだよなあ、って。★★★★★
アリスはリュックを愛していると執拗に口にするけれど、この時点では彼女は彼をただもてあそんでいるように思えなくもない。ハデな化粧のアリスときゃしゃで幼いリュックは確かに姉弟のような感じがする。冒頭で、アリスはまるで手練れの娼婦のようにリュックに対してゲームのようなセックス(前)プレイを楽しんでいるし。しかし舞台が移るとともにその関係性は変化していくのだ。
彼らは死体を捨てに森に入っていく。道に迷った二人は男が一人で住んでいる小さな小屋に食べ物を盗みに入り、捕まってしまう。二人の足跡を消し、彼らを迷わせた男がてぐすね引いていたのだ。二人は地下室に閉じ込められ、やがてリュックだけが出てくることを許され、……しかし彼は犯される。犯される、と言っていいのだろうか。男は驚くほどちゃんと手順を踏み、最初はリュックの性器だけを愛撫して彼をイカせ、その喜びを判らせたあと、アナルセックスに臨むのである。
男の寝ている隙を見てアリスと共に逃げるリュックが、後ろ髪を引かれるようにちらりと男を振りかえり、その時目を覚ましていた男がそのまま何も言わずにリュックを行かせること、そしてその後警察?に捕まったリュックが、やはり捕まったこの男を目にして、「その人は何もしていない!」と絶叫することに驚く。そしてその二つの場面の、彼らの間の視線の絡み合いの愛情深さに……それはエロティックなどというものではなく、本当に愛情を感じる……さらに驚くのだ。
しかも、リュックと共に逃げたアリスは、リュックが追手からアリスだけでも逃がそうとしたのがアダになって、数発の銃弾に撃ち抜かれ、しかも彼らの連れていた犬がいざ貪り食わん、とばかりにアリスに群がるのである(!?彼らは本当に警察なのか??この辺もかなり不気味だ)。そのアリスを演じるナターシャ・レニエ、「天使が見た夢」の時もそうだったけれど(しかし、あの時に比べてずいぶん顔がやせちゃって……)、彼女の見かけの奔放さと比べてその小さな胸が妙に幼さをかもしていて(ま、胸が小さいからって幼いってのとは違うんだけど)、なぜか痛々しいのだ。非業の最期を迎える前、彼女は逃げたリュックと清冽な川のほとりで一糸まとわぬ姿でセックスする。二人の若いきめ細やかな真っ白な身体と、上気した頬がその行為とは逆にひどく聖なるというか、純粋で儀式めいたものを感じさせる。……多分、特にアリスにとって。
この段に至って、やはりアリスは経験がなかったのかもしれない、などと思う。彼女が平気でレイプの話をデッチあげるのも、セックスに対する現実的な経験のなさから来るアコガレを含んでいる感じがするし、いかにも男性的なサイードを拒み、中性的なリュックを選ぶのも、形としてキレイなセックスをしたいという、少女期に持ちがちなぼんやりとした甘い願望だ。そう考えると彼女が体験したこのセックスは、結局は現実的なそれまではいかなかったという気がする。その非現実的な美しさは、確かに彼女の希望にかなっているのだろうが……なんといっても相手は同性愛に目覚めた男なのであり……。
アリスが哀れなのは多分、セックスよりも愛を知らずに死んでしまったという点である。リュックはセックスによってセックスではなく愛を、そして愛の何たるかを知ったのだろう。セックスと愛情の関係は永遠のテーマで、ほとんどイタチごっこのようにすら思えてくるのだが、愛から生まれるセックスではなく、セックスから生まれる愛を説得力ある形で描いているのは珍しいことのように思う。しかしその為には一人の罪の意識の無い、しかし罪深い少女の命を引き換えにしなければならなかったのだが……。★★★☆☆
私ははじめ、これはフィクションの劇映画だとばかり思っていた。チラシや予告を見ても、まさかこんなスゴい波が現実にあるなんて俄かには信じがたくて……でも本当なんだ!いやー、スゴイなー!なんたって動く人数が違いすぎる。やっぱり人口の多い国だから、単位が違うんだ、そしてウワサや口コミで増えていく単位も違うんだ。そしてそして、唯一絶対の人物、李先生の存在の重要さもどんどん重くなっていく。大衆の存在意義も、一人一人の存在の重さも、薄くなるばかりの日本とはホント、エラい違いだわ。やっぱり人間って財産なのね、双方の意味で。その人数が多ければ多いほどどんなことでも動かせるし、才能のある個人が支持されてぐんぐん成長していく。だってこの李先生、なんとまだ31歳なんだというんだから驚く!この老け顔じゃぜったい40はいってると思った……ってそうじゃなくて(それも事実だけど)19歳からこうした講演を始めたというのも驚きながら、若干31歳でまさしくカリスマへと登りつめたというのも更にオドロキだ!
彼よりずっと年上の人たちも、そう、まさしく老若男女が「李先生、最高!」と叫び、「私は狂いたい!」と叫び、皆と一緒に叫ぶのみならず、壇上に登って李先生とおでこ突き合わせ、指差しあって「you!you!!」なんてやっちゃう。英語は(そして全ての勉学は)楽しいこと、これがイチバン。私の学生時代に李先生の存在を知ってたら、中国に飛んでいっちゃってたかも!?いやいや今からでも遅くない、日本で講演行脚をやって欲しいなあー!
それにしても場所選ばずエネルギッシュなライブを敢行するこの李先生のパワーには本当に脱帽。小さなところではオフィスの会議室みたいなところでせいぜい10人か20人の前でやったかと思えば、小学校の校庭で何百人という子供たちや、エリート中のエリートが通う北京大学の学生たちをも熱狂させる。そして野外スタジアムや、青空が目にまぶしい紫禁城に集まった何千という大群衆をうねらせ(このしっとりとした名跡に絶叫英語が響き渡るスバラシサよ!)なんとまあ、あの万里の長城に軍服姿(?)の学生達をズラリと並ばせて、通り行く外国人観光客を即席教授にまきこんで展開するスリリングさ。しかもこの場面では空撮を行い、はるかかなたまで響き渡るその様は圧巻の一言。もう、この人のこの指導力とパワーとカリスマ性はスゴイ!スゴすぎる!
彼が一貫して叫ぶのは「アメリカ、日本、ヨーロッパは中国を市場としてしか見ていない。ここで金を稼ぐんだ。そして今度は彼らに中国語を学ばせる。そしてわれわれが優位に立つんだ!」「金を稼ぐために英語を学ぼう!」うーん、なんて臆面もない、イヤイヤ、明確なビジョン!?しかし李先生にこうやって熱弁をふるわれたら、そうだそうだ、って気になっちゃう。東洋人は腹芸で、なかなか自分の気持ちをはっきり伝えられなくて……なんて言ってたら、このパワフルな李先生に指導された中国人にあっという間に支配されちゃうぞぉ!実際、もはやここに映し出されている何万、何百万という中国人民の、どこが引込み思案だというのだ。
そして李先生には、日本人が中国を陵辱した過去を忘れてはいけないのだ、という強烈な意識がある。こんな若い先生にそう言われちゃうと、ああ、一番忘れてはいけない日本人が、忘れるどころか知ってもいないことが恥ずかしく、もはやこの時点でもう日本人ダメじゃん!と思っちゃうんである。戦争に対して日本人はいまだに被害者意識だけが強すぎる。政府はいまだに正しい歴史を教えようとさせない。こんなことしてたら、ほんとに日本人はダメになっていく一方ではないか。あー、やっぱり李先生に来てもらわなきゃ、ダメだ!
「李先生、最高! I love “CRAZY English” I want be crazy!」これでキマリ!★★★★★
早熟の天才演出家、オーソン・ウェルズや、新聞王ハースト、大富豪のロックフェラー、そして私は知らなかったけれど、革命的な画家、ディエゴ・リベラなどという実在の人物を織り交ぜるスリリングさは勿論、これはフィクションの人物なのか?フェデラル劇場計画リーダーのハリー・フラナガン、ムッソリーニの元愛人にして懐刀のマルゲリータ・サルファッティなどという知的でかつ熱っぽい女性キャラが圧倒的。女性キャラの中では無論、この演劇を成功に導く勇気を持った女優として描かれる、無学のホームレスだったオリーヴが一番なのだろうが、やっぱりこの二人の強烈さにはかなわないよなあ。演じるチェリー・ジョーンズとスーザン・サランドンがもう強力にカッコ良すぎるのだもの!!正、悪の両極端の二人だけれど、その両極にあるからこそ、奇妙なほどに共通したところがある。それは自分の信念を曲げない強烈な自我とカッコよさなのだ!
とはいえ、オリーヴを演じるエミリー・ワトソンは、良かった。彼女って確かにこういうイメージ……男に寄りかかっていなくては生きていけない……ていうのがあるのだけど、それを彼女は多分自分の中の勇気をすべてぎゅうぎゅうに絞り出して、宿無し、職無しに戻る覚悟で劇場に出かけ、どうしようか迷っていたであろう俳優たちの先陣を切って立ち上がり、歌い出すのだから!最初から最後までカッコよかった二人と対照的に、ラストでバッとカッコよくなる彼女の方がやはりイイか。
あ、もう一人、実にカッコイイというか、チャーミングにカッコイイ女性がいた!鉄鋼王夫人で、刺激的なことが大好きなラグランジェ伯爵夫人。演じるヴァネッサ・レッドグレイヴが、このお年の女優さんに対して失礼な言い方かもしれないけれど、とにかくメチャメチャカワイイんだもんなー!彼女の場合、自分の意志で行動することで自分の立場が危うくなることなんかぜっんぜん考えてないところがサイコーなのだ。労働者を救うためとか、正義のためではないところも更に最高である。とにかく面白いこと、心をワクワクさせることに情熱を傾けているところは、そうだ、オーソン・ウェルズとそっくりではないか!しかも劇中のウェルズより情熱的で行動的なんだから!
そんなパワフルな人物たちの中、ひときわ哀感をさそって私の心をとらえたのは、ビル・マーレイ扮する時代遅れになった腹話術師、トミー・クリックショウ。彼はもとからこういうポーカーフェイスなお人だったけど、それがここまでハマっているキャラはなかったんではないだろうか。「クレイドル・ウィル・ロック」の舞台が熱い盛り上がりを見せている一方で、彼が最後の力をふり絞って見せた、もしかしたら「クレイドル……」よりもずっと思い切っていたかもしれないシニカルな芸は、ガラガラの観客が、さらに一人、また一人と去っていってしまう。その舞台を、涙を流して見つめているヘイゼル。そして舞台終了後、彼女が楽屋を訪ねて、愛情と慰めの感情を込めて二人そっと抱き合うシーンには……もう本当に……。クライマックスの「クレイドル……」の舞台で泣かされるのと全く別の種類の涙を誘われてしまう。
ところで、全く関係ない話なんだけれど、ティム・ロビンスとスーザン・サランドンの来日記者会見の記事で、「日本の監督で誰が好きか」という質問に「黒澤明の「どん底」は好きだけれど……アメリカでは日本の作品を観るチャンスは殆ど無い」と答えているのを読んで、ああ、いまだに日本=黒澤でしかないあたりが、やっぱりアメリカは自国の映画のみで(映画だけじゃなく、文化全体がそうなのかも)日本映画のみならず、外国映画が入る余地なんぞないんだなあ、と痛感。……これほど日本映画が世界に認められていて、そして実際今の日本映画は個性的で先鋭的な、面白い作品がどんどん排出しているというのに、いまだにクロサワだぜ?(黒沢清、と言うのならいいけど……せめてキタノ、ツカモトくらい言って欲しいよな)なんだか逆にアメリカが可哀想になっちゃうなあ……こういう部分、アメリカは世界から置いてきぼりを食っていると言われたって仕方ないんじゃないだろうか。でも、アメリカ(ハリウッド)映画の隆盛は論議されるのに、なぜか、そうしたアメリカの、自国内で完結してしまっている映画的貧しさを指摘する人はいないけど……。★★★★☆
東京でヤバいことをやって、神戸の組織に身を寄せている五郎(渡哲也)はことあるごとに「東京に帰りてえなあ」とつぶやく。そんな五郎に心底惚れきっている娘にも、「お前の事は好きだけど、女に飽きちゃったんだよなあ。朝が来て夜が来て同じ事繰り返しのこの神戸の街にもさ」などと言うありさま。しかしこの男、なぜか憎めないんだなあ。カルくて女好きで、ちょっとバカな感じなんだけど、さっぱりした男っぷりの良さで惹きつけてしまう。
闇取引をしている宝石商が殺され、その婚約者だという啓子(浅丘ルリ子)という女が訪ねてきてから物語は大きく転回してゆく。彼のまわりにいる女とは明らかに違う、スマートで頭の良さそうな美人、ファッションセンスも洗練されている。特に最初に登場する時に着ている、緑の膝上のワンピースに、同系色のシースルーのブラウスをまとい、髪をきちっと束ねた彼女は、ちょっと近寄りがたいような、孤高の美しさ。浅丘ルリ子、一番美しい頃ではないだろうか。「やっぱり東京の女は違うな、東京の女の匂いがするぜ」と、五郎はいつもの様な調子で彼女を口説くが、どこか勝手が違う。そしてどんどん彼女に惹かれてゆく。
五郎をつけねらう殺し屋に彼の舎弟が殺されて、さらに物語は大きくうねっていく。この殺し屋に扮するのが宍戸錠。うーん、まさしく宍戸錠!ってな黒のスーツに派手なネクタイ、レイバン風のサングラスでキメキメである。舎弟の復讐のために、そして舎弟の彼女を救うために、この殺し屋と取っ組み合いのバトルをする場面は必見もの。渡哲也と宍戸錠が、もうほとんど本気ではないかという迫力で、かなり長い時間に渡ってどったんばったんとやるのだから。ベッドは壊れるし、ほんとにほっぺたにパンチが入ってたりして、こりゃ大変である。ケンカシーンの経験が豊富な事もあるのかもしれないけど、それ以上にこの二人、実際のケンカ経験もきっと豊富に違いない。
かくしてこの殺し屋を殺してしまった五郎は、警察に全国指名手配される事となり、世話になっているホテルのマダムの手引きで、五郎に首ったけのあの娘とマニラへ高飛びする事となる。しかし五郎は啓子が忘れられなくて……この前に、五郎と啓子がお互いの気持ちが高まってベッドイン寸前になる場面があるのだけれど、彼はまるで彼女の美しさに気おされるように、突然鼻白んでその場を立ち去ってしまうのである。ドアを閉め、天を仰いでため息を吐く五郎の姿が印象的。しかしこの時の彼の心情は最後まで明かされる事がない……あの時彼は何を思っていたのだろうか。
東京に戻ろうとしていた啓子が、空港へゆくバスへ乗る前に、「やめるわ」ときびすをかえす。そのままぼんやりと道路を歩いていく彼女。その彼女を車の中から見つけてつかまえる五郎。「俺と一緒にマニラに行かないか。フランスがいいだって?そんなとこつまらねえよ」相変わらず強引な五郎にほほえむ啓子。波止場へと向かう二人。途中五郎はマダムにごまかしの電話をかけ、啓子もまたふと思い立ってどこかにかけている。幸せな未来図をしゃべり続ける五郎に啓子は口を開く。「私、行けないわ。行けなくなったの」「どういうことだよ」「私このままじゃ、あなたのこと本気で好きになりそうなの。さっき警察に電話したわ。ほら、聞こえない?」「……」「今ならまだ間に合う。逃げないの」「俺の負けだよ」パトカーが次々と到着し、五郎はそれに背を向けて一人歩き出す。立ち止まり、振りかえった彼の手には拳銃が。まるでじゃれるように抵抗を繰り返し、誘うように撃たれる五郎。白の上下のスーツが真っ赤な血に染まる。仰向けに倒れ、息絶える。帽子のベルトには彼が東京から来た時の高速回数券が挟まれたまま……。
この帽子、非常に印象的に使われているのだ。海が埋め立てられたコンクリの上に置かれたロッキングチェアや、啓子と初めて会う会議室の椅子に座っている時、その顔にいつも帽子をかぶせていて、ツバのところに覗き穴が空けられている。眠っているように見えながら、絶えずそこから外を眺めている。ユーモラスだけれど、どこか五郎の弱さも感じられるような小道具だ。そこに挟まれたままになっていた回数券も、マニラに行こうとしている時にまでなって、彼が自分の場所に帰りたがっていたことを示唆しているし……。
もろさや哀しさを軽さの中に押し込めた切ないキャラクターの五郎を演じる渡哲也が新鮮。舎弟の彼女である奥村チヨ、歌とダンスシーンなぞまで用意されていて、こりゃあ彼女を売り出すためにキャスティングしたなあ、という感じ。しかし彼女、色仕掛けで殺し屋宍戸錠を足止めしようとする場面で、刺激的なパンチラシーンがあるのはお宝かも。ヒゲのない藤竜也、杉良太郎のキャストが楽しい。★★★☆☆
まあ私も「クレしん」は去年初めて観たので大きな事は言えないのだけど、少なくとも去年の作品の魅力は、驚くほどの数多くの映画の、しかもさまざまな要素に目配せをしていて、単なるオマージュやパロディでは収まりきれない面白さがあり、映画ファン感涙の仕上がりだったのだが、それがあまりにも過ぎたと感じたのだろうか……今回はそうした要素がほとんど見当たらず(内容的に「猿の惑星」と、ひょっとしたら「タイタニック」を意識していたかもしれないと思わせるものの)しんのすけが古いギャグを飛ばすというお約束がある程度。お兄ちゃんを心配して赤ちゃんであるひまわりが犬のシロとともにジャングルの中を果敢に分け入ったり、しんのすけがそんな誇るべきひまわりに対し、実にいいお兄ちゃんぶりを発揮するのはなかなか泣かせるのだけど、ミョーに教育的目配りが効きすぎているという感じ。
しんのすけのアイドルであるアクション仮面の新作映画試写会を兼ねた豪華客船クルーズ。そこに突如現れた猿軍団によって大人達が全員さらわれてしまう。未開のジャングルに君臨するパラダイスキングなる猿を従えた独裁者は、そのキャラ造形といい、なんかカン違いのプリンスかデヴィッド・ボウイかといった状態。その巨大なアフロ頭の中にしんのすけが入り込んで暴れるのはちょっとだけ笑わせる。架空の正義の味方であるアクション仮面がしんのすけの手助けとみんなの応援によって力を発揮、このパラダイスキングをのしてしまうくだりは確かに感動的ではあるのだけど、うー、「クレしん」でなくてもいいと思うけどなあ?その後も自家用飛行機で追ってきたパラダイスキングとの空での対決はちょっとしたアクション映画さながらで、「クレしん」ならではのオゲレツギャグも連発してくるんだけど、秀逸なパロディでもココロ踊るオマージュでもなく、ただ単に平均的な映画のパターンを踏んでいる印象しか残らない。
猿たちには罪のない事をひまわりによって大人達が教えられる場面といい、なんかそうした「子供にイイ映画」的な配慮ばかりが目についちゃって、本来の、大人社会を幼児の目で皮肉った「クレしん」の魅力がすっかり消え去ってしまって非常に残念。子供たちの視点としても、ジャングルの中でワニに取り囲まれたりといった非常にティピカルな描写にとどまってしまっているし。あーもう、本当に、あの面白さはどこ行っちゃったの!?★★☆☆☆
ちょっとした舞台劇の趣。舞台は山荘、ほぼここだけ。登場するのはこのサエない山荘を経営する家族(なぜか伯父さん(父親の弟と思われる)入ってる)と、この家族にぞくぞく殺されまくる(!?)山荘の客たち。なんだってこんな流行りそうもない山荘を始めようと思ったんだか、……観てる時はちっとも気づかなかったけど、なんでもこのお父さんはリストラされたらしく、退職金つぎ込んでもう背水の陣での山荘経営。もうすぐ道路が開通すると言う村長の言葉を信じたけど、そんな気配は全くなし。てぐすねひいて待ってても、お客なんか全然来ない。
このお父さんは意外に影が薄いけど、他のキャストは皆なかなかに色濃い。テンション高いお母さんは菅井きんみたいだし、かの伯父さんはあの「シュリ」の北朝鮮テロリストで強烈な印象を残したチェ・ミンシクだし(しかし本作では実に可愛らしい!?)お兄ちゃん(彼も「シュリ」組)はなんの罪だか知らないけど前科があるらしく理性の押さえがきかなくてすぐ人を殴り殺しちゃうし(!!)、お姉ちゃんは22歳にもなってブリブリのカマトトだし(でも男に色目を使う)。そして、ある部分この物語の語りべのような役割の末娘、韓国ナンバーワンアイドルだというコ・ホギョンはちょいと原田知世風の美少女。少女の証しか登場ではルーズソックスが印象的、きっつい視線とふくれっつらの口元にしびれるんである。彼女だけはマトモなのかしらと思いきや、必要以上に敏感で(霊感があるのか?)、しかし殺人や死体の穴埋め作業をしている最中(それを知らないとはいえ……それに、敏感ならそういうことに気づけよ)テレビを見てケラケラ笑ったりしてる。その笑いが、妙に乾いてて、なんだかしらんがコワいんだよなー、妙にブラック。
まあ最初っからこんなメンツじゃマトモな山荘経営など出来るはずもなかったかもしれないけど、類友(んなわけない)なんだか、運命が呼び寄せたんだか、最初とその次に来た客がマズかった。最初の客はどうやら最初から人里離れた山奥での自殺が目的。凶器は持ち込まず、部屋のカギのホルダー部分をキコキコ削って自ら胸にぶっ刺し絶命。翌朝家族が見つけた時には財布も遺書も見当たらない!「こんな状況で誰が自殺だなんて思うんだ。事情聴取されたら息子の前科もバレちまうし、誰がそんな山荘に来たいと思う!?」アーンド「ビニール袋とスコップ持ってこい!」この父親の判断がこの先この家族を大きく狂わせてっちまうんである。ちなみに財布は後にこの部屋からちゃんと見つかりました。“ご休憩”のカップルがベッドの隙間から発見。ちゃんとさがせば良かったのにね。しかしこのカップルも笑えたなあ。大体こういう状況なんだから充分予測してるだろうに女はやたらと抵抗し、しかししまいにゃ騎乗位でせめまくるんだから。しかも終わった後にはやたらといちゃいちゃしちゃってさ(笑)。
そして問題の次の客はというと、これまた最初から心中目的だったらしいクラーい若い男女。部屋中にろうそくともして“最後”(後から思えば)のセックスにいそしみ(のぞいてます、お兄ちゃん)、手を握り合いクスリをあおって死んじまう。その死体を見たお父さん、「ビニール袋持ってこい!」あーあ、もう。しかしいざ穴に埋めようという時、男が息を吹き返した!!「ギャァー!!」とばかりにスコップふりまわしてこの男を殴り倒す!(そりゃこっちの台詞だよねえ、気の毒に……)ゲロに続いてぶしゃっとばかりに血を吹き出して穴に転げ落ち絶命……ついに殺人の第一歩。
もうこっからは、彼らの秘密を知られる恐れのある……なんてのはほとんど関係なく、もういろんな人が犠牲になっちゃう。道路工事も始まり、埋めた死体を移さなきゃいけなくなったりして(「あれを全部移すんですか?」「……何人だっけ?」と指折り数えるお父さんとお母さん、オーイ!)穴掘りもほとんどプロなみ「最初よりずいぶん時間が短縮されたぞ」なんてご満悦。最初のうちは作業の後は肉まんも食べられなかったほどだったのに(ちなみに何も知らされない姉妹は平気でパクパク)、今じゃ鳥の頭をぶった切ってへーぜんと料理し、くらいまくる始末。
しかし血なまぐさいことをしようとしてるのはこの家族だけじゃなかった!かの村長がハラ違いの妹に遺産がいくのが面白くなく、殺し屋雇って消そうと画策、しかしあのイソーロー伯父さんがこのセクシーな彼女に一目ぼれして(身を隠しながらのぞいているつもりが全然隠れてないのがカワイイ)彼女と村長の父親の逃亡を手助け、しかも殺し屋は道に迷って遅れ、張り込みのために訪れた警官がこの殺し屋と間違われて部屋に通されたため、“隣の部屋の人物を殺す”予定の殺し屋に殺されてしまった!!
そう、この警官が訪れたのでも判るように家族の犯罪はもうバレバレのところに来てたんである。お姉ちゃんに手を出した男もお兄ちゃんが殺しちゃったし、その連れの男は監禁してるし、もうメチャクチャ。ちなみにこの計画の夜はどしゃぶりで、山荘の前に埋めなおした死体は雨でえぐられ、翌朝には雨後のタケノコのごとく(!?)顔を出し、何にも知らなかったお姉ちゃんが絶叫!!お父さんとお母さんはこの死体を倉庫に山積みにして燃やしちゃうことを決定……もうだんだん事の重大さが判らなくなるくらい感覚が麻痺しているらしい(困ったもんだ)。しかししかしお父さんとお母さん、死体と一緒に火に包まれちゃって!?大変だあ。
お父さんとお母さんがいないのも気にせず、のんびり食事を取る残りのメンメン、そこにホータイだらけの二人が帰ってくる。別に何にも気にせず、マズそうなオカユをよそってやり、一緒に食卓につく家族……一体あんたらはなんなんだぁ!そこにノックの音が……!身を固くする家族を尻目にバカ犬がワンワンと吠え、振り向いた家族、いっせいに「シーッ!」そしてジ・エンド。
ブラックな描写も不思議なくらい気にならず、コミックホラーの記号として昇華している。だんだんと本性を見せていくお兄ちゃんとか、ブリッコな前髪して年甲斐もなくキャーキャー言うお姉ちゃん、「シュリ」とはうってかわってそのウブさがやたらとカワイイ伯父さんあたりが好みのキャラだなあ。そして韓国映画はコリアンエロスの影響でもないんだろうけど、セックス描写に気合いが入ってます。心中しちゃうカップルも“ご休憩”のカップルも、激しいの何の!?その“気合い”が可笑しいんだよなあ。それを覗き見たり盗み聞きしたりして忍び笑いしているお兄ちゃんも可笑しいし。
展開のカラフルさがいい意味でマンガチック、ヒップな音楽もそれにピタリでなかなか楽しゅうございました。★★★☆☆