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「り」


2001年鑑賞作品

リトル・ダンサーBILLY ELLIOT
2000年 111分 イギリス カラー
監督:スティーヴン・ダルドリー 脚本:リー・ホール
撮影:ブライアン・トゥファー 音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:ジェイミー・ベル/ゲアリー・ルイス/ジュリー・ウォルターズ/ジェイミー・ドラヴェン/ジーン・ヘイウッド/ステュアート・ウェルズ/アダム・クーバー


2001/2/13/月 劇場(シネスイッチ銀座)
ほんとにほんとに、ダンスものには弱いんだよー、私。しかも、これがこんな、可愛く美しく、そしていたいけな(ああッ!)少年にやられちゃあ、たまんないよー。真っ白いチュチュを着たこれまた可愛く美しい少女たちのバレエレッスンに魅せられて、ボクシングのグローブ姿で一人参加する少年、ビリー。彼を演じるジェイミー・ベル君はタップを長年やってきたそうで、だからそうしたリズム感が、クラシック・バレエのイメージから解き放たれ、躍動感、ドライブ感にまで発展させている。それのみならず、全編に使われているのはグラム・ロックやパンクといった、時代にとんがった刃をつきつけるロックたち。それは彼、ビリーや、彼の父親や兄が、国や組織や体制や、そしてもっと漠然とした、自らの自由を勝ち取るためにぶち当たる大きな敵に向かう際にふさわしい。

時代は1984年。イギリスのサッチャリズムが台頭し、衰退産業への支援打ち切りが国内に大嵐を巻き起こした時代。ビリーの父親や兄が従事する炭鉱はモロその風を受け、労組が労働者にストへの参加を強制し、苦しい生活を強いられた時代。スト破りは裏切り行為、どんなに生活が苦しくても、仲間を、組織を裏切れない労働者としてのあがき、苦しみ。イギリス映画でまるで当然のように前提にある失業者問題が、なるほどこうしたところに根っこがあったのだと得心する(今ごろ知るなよ)。母親を亡くしているビリーを、それでも強い男に育てたくて、父親は週に50ペンスを何とかひねり出して、彼にボクシングを習わせている。それが、父親の知らない間にバレエレッスンの授業料に変わっているのだ。ちなみにビリーがダンスに魅せられたのは、音楽の好きだった母方の血か。それに、一緒に暮らしているちょっとボケ気味のオバアチャンは母方の祖母なんだろうか。このオバアチャン、「私はプロのダンサーになれたのよ」が口癖で、ビリーがダンスをやっていると知ってからは、昔を思い出してステップを踏んだりして、ボケも急速に治ってゆく。このオバアチャンが、そう、オバアチャンと言えど女性で、この男家族のかたくなさをいい具合に和らげてるんだよなあ。

ビリーがバレエをやっていると知った時の父親の狼狽と憤激は、もちろん予想通りである。この時代で、この状況で、そしてバレエからくるパブリックイメージで、そりゃそうだと思わせる。ただ、この父親役のゲアリー・ルイスが、すごく良くて。愛情を示すのが不器用で、ガンコ一徹で、っていう、父親。ここでは上手くビリーを説得できる言葉が出てこなくてただただ顔が真っ赤になるばかりで、とにかく、ダメだ!を繰り返すんだけど、そして当然のごとくビリーはそれに猛反発するんだけど、大丈夫、このパパならいつかきっと判ってくれる、って確信できるのだ。そしてそれはちゃんとやってきてくれる。ビリーが、禁止されていたダンスを踊っているのを父親に見つかった時、彼はむきになって父親の前で踊り続けるのだ。その力強い、言葉以上の力を放ってくる圧倒的なパフォーマンス。父親はこれに打たれて、ビリーの夢を、未来を、切り開いてやりたいと思うのだ。御法度のスト破りを決行し、乗り込んだバスに怒声と玉子をぶつけられながら、歯を食いしばって耐える父親。それを見て驚くビリーの兄は、追いかけてって父親をただす。「ビリーの夢を叶えてやりたいんだ。俺たちにはもう未来はない。でもあの子にはある!」その言葉を聞いて、それ以上父親を責められなくなった兄。二人抱き合って慟哭するシーンは、うー、もう、ヤラレタッ!て感じ。家族愛を描いた映画はさまざまあれど、それをこんなに痛切に感じたのはなかったなあ。

かくしてビリーはロイヤル・バレエの入学試験へと出かけてゆく。炭鉱の町以外知らない父親はどこか固くなっている。ロンドンも知らない彼。「炭鉱がないだろ」と……ああ、この純粋で誇り高き労働者魂!ビリーが試験を受けている間、父親がウロウロと華やかな女性たちのバレエレッスンに心奪われている様が、異様にカワイイ。

ダメだと思い込んでいたのが、ビリーは見事に合格する。その合格通知が来た時の様子もふるっている。ビリーが来るまで封を開けずに、家族三人テーブルの上の通知をじっと見つめてて。帰ってきたビリーがその通知を持って部屋に閉じこもり、いつまでたっても出てこないから、やっぱりダメだったのかと父親がしびれをきらして部屋のドアをガッと開けると、泣きそうな顔で「受かった」と言うビリー。絶対受かるとは思ってたけど、ビリーの表情があまりにも落ちた時のそれだったので、もう泣き笑いの名シーン。父親は「受かった!受かりやがった!」とそれこそ踊り狂ってカンパなどの協力をしてくれた仲間たちのところへ駆け込んでゆく(もー、カワイイッ!)。その時、ストも終焉を迎えていた。炭鉱の仕事に復帰も決まったのだ。スト破りをした裏切り者だけど、みんなだって彼の気持ちは痛いほど判ってた。だから、ちゃんと、今までもこれからも仲間なのだ。

ビリーが出発する日、今まではわからずやって感じだったオニイチャンが、弟がバスに乗り込んで、声が届かなくなった時を見計らって「さみしいよ」と呼びかける、そして父親は涙をこらえてるのか、後ろを向いたままで、この別離のシーンは、ビリーがまだたった11歳だっていうこともあるんだけど、ほんとに切なかった。こういう家族の別離って、いろんなパターンはあっても誰もが経験しているから、身につまされるんだよね。

家族ばかりに終始しちゃったけど、重要な人物は他にもいる。ビリーの才能を見出して、自らの教師としての情熱を再確認するウィルキンソン夫人、彼女を演じるジュリー・ウォルターズがむちゃくちゃイイ。いつもタバコをせかせかふかしてて、不機嫌そうで、でもビリーをすごく熱心に指導する。最初に彼女がビリーに指導を申し出た時、ビリーが「先生はボクに気があるんですか?」と尋ね「残念ながら、ないわ」とやり取りするところなど、かなり好きだなあ。ビリーはこれでなかなかモテモテ君で、このウィルキンソン夫人の娘に「あたしのアソコ見たい?」と迫られたりして「そんなの、見せなくても好きだよ」って、おっまえー、殺し文句じゃないかあ!しかも、ゲイの親友、マイケルもビリーに思いを寄せてて、ビリーはその思いにとまどったりもするんだけど、でも親友だという位置は全然揺るがなくて、マイケルにチュチュを着せてあげたり、お別れにはキスを贈ったりと、これまたやりやがるんだもんなー!でもこのビリーとマイケルのそうした場面は、少年同士の純真な美しさで、とってもリリカルで、すごく好きだ!ビリーが成功してソロで踊ることとなる公演を父親と兄が見に来た時、その隣にマイケルも来てて、かっんぺきなオカマ系ゲイになってて、ゲイであることを恥じていた少年時代がウソのようにたくましくなってて。うーん、これも、ビリーのおかげかな!?

そしてラストをまとめる、成長したビリー役として特別出演のバレエダンサー、アダム・クーバーの圧倒的ステージング!これで決まりでしょ。★★★★☆


リメンバー・ミー同感
2000年 111分 韓国 カラー
監督:キム・ジョングォン 脚本:チャン・ジン/ホ・イナ(脚色)キム・ジョングォン/チャン・ジン/ホ・イナ
撮影:チョン・グァンソク 音楽:イ・ウッキョン
出演:キム・ハヌル/ユ・ジテ/ハ・ジウォン/パク・ヨンウ/キム・ミンジュ

2001/11/19/月 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
20年の時を隔てる甘美で切なく、不思議なファンタジー。時空を越える、というのは日本は大好きだから、リメイクが作られたというのも納得なのだが、しかしこの感覚はもしかしたらアジアに共通するものなのかもしれない。一種のタイムトラベルものが、例えばアメリカだったならば大仰なアドベンチャーにしたくなるところを、行き交う魂という感覚でとらえるというのが。肉体よりも精神の神聖さを真の意味で見つめているところが。

当然、現在の時点を新しい時代として、過去の人と交信をする、という図式だが、自分たちの方が過去の立場で、未来の人たちから交信が来たら、と考えるとかなりワクワクするものがある(あ、でも「時をかける少女」はまさしくそうなんだよね!)。ということを想像させるような、1979年のヒロイン、ソウンのキラキラしたたたずまい、その美しさに目を奪われる。いくらこの時代にしても絵に画いたような清楚ぶりだが、彼女が20年後の現在も一人でいるほど、一途な思いを保ち続ける女性なのだから……。と書いてみると、かなりオソロシク執念深いオンナのように受け取れもするのだが(何たって兵役についていた憧れの先輩に手紙を出し続けたってのも、普通に考えればちょっとコワい気がする)、この演じるキム・ハヌルの芯まで澄み切っているような嘘のない美しさがそうさせないところが、凄いかもしれない。全く、本当に韓国の女優というのは何故こうもハズれがないのだろう!一方の男優はこれまた面白いほどにヒューマンなお顔の方ばっかりなのだが……。2000年の大学生、インを演じるユ・ジテは言わずもがな、ソウンの憧れる先輩トンヒを演じるパク・ヨンウも、なかなか涼やかだけど、やっぱり微妙にバランスを崩してるし……そこがいいんだけどね。そのアンバランスさに、結構色気があった。

ソウンの生きる1979年は学生運動まっさかりで、社会的にも大きな変革を迎える時代。トンヒもその中に巻き込まれてケガしたりするのだが、ソウン自体はただただ先輩への恋心でおっとりと生きている。骨折して入院中の親友、ソンミをお見舞いに行っては、まだ恋人にもなっていない先輩のノロケ話を聞かせるソウン。彼女の努力が実って、トンヒとの距離は徐々に近づくのだが、トンヒが結ばれる人はソウンではなかったのだ。

ということを知るのが、未来からの無線交信者、インによってだった。偶然電波をキャッチして彼と交信を始めるソウンは、彼がトンヒとソンミの子供であることを知る由もない。インの方も、この不思議な現象にまだ驚くばかりで、これがどんな運命の糸をたどっているか、知らない。知った上で思い返してみると、二人の楽しげな交信というのは、かなり強力な切なさを放っている。楽しければ楽しいほど、心を許せば許すほど。ソウンは彼女の愛する人のことを、その思いをインに打ち明ける。真摯に応対するイン。この時点では二人とも、ソウンがトンヒと結ばれることを信じて疑わなかったに違いないのだが、それを壊してしまったのは、インのこのひと言だった。「僕の両親は君と同期で、トンヒとソンミっていうんだ」……。

インの言葉によってソウンが運命を知り、トンヒのことをあきらめるという図式は、これぞ不条理なタイム・パラドックスに他ならないのだが、二人の関係が過去と未来、原因と結果という単純な図式ではないとして考えてみると、人間の存在意義の不可思議さ、神秘性の方をより強く感じさせるものがある。先に生まれてきたソウンたちがいるから未来のインたちがいる、というのではなく、限りない過去から限りない未来へつづられている時間というものの中に、彼らは等価値で存在している、ということ。帯のように連なった過去から未来への時間は既に“存在”していて、どちらが後先ではない、ということ。インのガールフレンドのヒョンジは、次元とか科学的にとか、使い慣れない言葉を使って、こんなことはありえない、と言おうとするのだが、結局そう断じることが出来ない。それは彼女がそうしたことを説明するだけの能力がないように見えもするが、決してそうではない。時間が過去から未来に流れるものではなく、そんな風に等価値に存在していると考えるならば、ソウンとインの関係もまた、等価値なのだ。だからこそ、あのクライマックスが生きてくる。

それは、インが自分の時代に生きる、生身のソウンに会いに行くこと。ソウンはインが自分に会いに来ることを知っている、ということは、観客はその後に知ることになる。まだ自分の存在を知らないインが入学してくると、英文学の教授をしていた彼女はひっそりと学校を離れてしまう。彼女は、今インが過去の自分と交信しているのだろう、ときっと考えていたと思う。20年間ずっとその時を、ひょっとしたら心待ちに待ち続けていたのかもしれない。インは彼女にとって、彼女の存在を定義づける、ただ一人の人。それはずいぶんと不思議な定義だけれど……。

一方のインは、自分の言葉がソウンを不幸にしたのではないかと悔やんでいる。しかしその言葉をソウンが受けなかったならば、インは存在することが出来ない。インもまた、ソウンによって生かされているのだ。インはソウンが幸せそうに生きていることを願って、恐る恐るソウンの勤務する大学へと足を運ぶ。講義が終わって学生たちとともに出てくる20年後のソウンは、きりっとめがねをかけ、ちゃんと今の時代を生きている。幸せそうだったかどうかは……判らない。でも、生きている。インと同じ時代という、これぞ等価値に。インは泣き出しそうな顔をこらえ、ソウンもインに気づいて、でも二人はその気持ちをお互いに充分判っていながら、いや判っているからこそ、何も言わずにすれ違う。

その夜、1979年のソウンにインは、2000年のソウンに会いに行ったことを告げる。そこからソウンにとっての、インと出会うまでの長い長い20年が始まるのだ。でもそれって、インと出会うまでは生きていける、生きていかなきゃ、という気持ちも起こさせたように思う。ソウンはずっと独身を通したけれど、インと出会えると思っていたならば、決して不幸ではなかったと思いたい。実は、20歳離れていたって、インとソウンが結ばれればいいのに、なんて思わなくもなかったのだけれど、ちょっとそれは俗っぽい考えだったかもしれない。インとソウンはそれ以上の、魂を交換した関係だったのだから。インに何かとつきまとう、ちょっとワケありげな女の子、ヒョンジも可愛かったしね。インはヒョンジを大切にしてやらにゃ、いかんよ。

ソウンとの最後の交信に大泣きするインにつられて、思わず涙腺がゆるんでしまった。面白い顔してるけど、ちょっとイイ男の子ね、なんて。なるほど、1979年からの事情を知っているからこそのあの対応なのね、と後々になってようやく気づく、ちょっとワザとらしい守衛さんが、でも割と好きかも。ピアノが印象的に響く音楽の雰囲気が何だか村松健氏みたいな感じで、ああ、村松さんも映画音楽やってくれないかなあ、なーんて思ってしまった。割と音楽のこうした感覚も、日本と韓国って似ている気がする。「イルマーレ」もそんな感じがしたし。★★★★☆


リリイ・シュシュのすべて
2001年 146分 日本 カラー
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二
撮影:篠田昇 音楽:小林武史
出演:市原隼人 忍成修吾 蒼井優 伊藤歩 大沢たかお 稲森いずみ 市川実和子

2000/11/8/木 劇場(シネスイッチ銀座)
この映画を、二度観た。
別に二度観たかったわけじゃなくって、一度目に観た日が大雨で、全身ぐしょぬれで、劇場に入っても全然乾かなくって、寒くて寒くて全く集中できなかったからだ。
……というのは、言い訳で、実際は再度観たかっただけなのかもしれない。自分でも良く判らない。
ただ、あの時、寒くて寒くて芯まで震えていたせいで、画面の中のあの子たちの心も寒くて寒くて震えているように感じられたのかな、なんてそんな風にも思ったから、ちゃんと健康な状態で、観たかったのかもしれない。
……それも、ちょっと違う。
あの、痛くて痛くて仕方なかった年代を思い出させて、辛くて、大人になった強い状態で傍観者的に観たかったのだ。要するに、弱かった自分に直面するのがイヤだった。逃げたんである。再度観ることになったのは、それから二週間たって、ようやく。銀座での上映が終了すると知って、ようやくである。
大人になれば、子供の頃の辛かったことを忘れられると思ったけど、それは通り過ぎるだけで、忘れられるものではないのだということを、判っていたけれど、判らないフリをしていた。

あの頃が一番、辛かったかもしれない。今から考えればアホなようなことで、生きるか死ぬか、ぐらいの辛さを感じていた。
でも、今の子供たちはこんなに、大人の目から見てもあまりにも残酷なほどに、辛い目にあっているのか。
岩井監督は、昨今の少年少女が起こすヒドい事件が、あたかも都市部で行われているかのように誤解されているけれど、その殆どが、こういう田舎で発生しているのだと、それは都市部の少年少女たちと田舎の彼らとでは、明らかに差異があるから、それを描いたのだと言う。

そうだ、そう言われればそうなのだ。東京に出てきた時も思ったし、それならば今でもやっぱりそうなのだろう、自分のいた土地と、東京の中学生、高校生って明らかに違う。どんなに情報が発達しても、いや、情報が発達すればするほど、東京、あるいはそれに準ずる大都会の学生たちと、それ以外の学生たちの間には埋めようもない溝が出来る。
それは田舎で育つのはノビノビしていいね、などというノンキなものではない。そんなことを言えるのは、せいぜい小学生までだ。いや、小学生すら、今では危ういかもしれない。
聞こえてくる情報が、まるで宇宙から発信されているみたいに、はるかで現実感がない。でもその現実感のなさすら実感できない。……そんな感じだろうか。
そしてそのはけ口は、内側に、内側に向けられる。それがイジメであり、犯罪であり、インターネットであるように思う。……ネットをやっている人間としては凄く、悲しいけど。

美しい田園風景の中で、最初こそ、少年少女たちは美しく映っている。ぎこちなくも初々しく優しい友情。先輩との緊張の中で感じる尊敬。ほのかな恋への憧れ。それらよりもずっと夢中になってしまう、一人の天上の歌手。
物語は、この歌手、リリイ・シュシュのサイトの中の掲示板を経由しながら展開していく。展開には、あまり関与していない。登場してくる、少なくとも二人の少年がサイトの管理者と、そこへの参加者であることは明らかではあるのだが、どちらがどちらなのか、なかなか判らない。最終的には判るんだけど、それも思い違いかもしれない、オフィシャルサイトを見てみると。

掲示板に書き込まれていることと、現実世界の少年少女たちがリンクしてこない。何度かこうしたネットの掲示板やチャットやメール交換が映画で出てきたけれど、それらには見られないことだった。でも実際は、確かにネットの世界ではそういう部分の方が強い、のかもしれない。自分以外は判らないけど……ハンドルネームを使うことも、自分以外に、あるいは自分の中にひっそりと隠してあるもう一人の自分になるためなのかもしれない。とにかく、掲示板に書かれる、殆ど形而上学的な言葉の数々が、精神だけでなく肉体をも痛みにさらしている彼らにリンクしてこないのだ。

リリイはエーテルの具現者なのだという。天才というより宇宙だと。
ネットの中で彼らが交わす会話は、まるで哲学の授業のようにムズカシイ。そんな難しいことを考えてファンをやれるなんて、凄い、なんて思ってしまう。
というようなことを考える人もいるらしく、時々熱狂的な彼らにクールにツッコミを入れてくる奴らもいる。
しかし彼らには全くこたえない。彼らは本当にそういう言葉を通してリリイを愛しているからだ。
と、考えると、そのリリイへの思いも怪しくなってくる。
音楽は、もともと言葉を必要とするものではない。音楽は音楽でありさえすればいいのである。
しかし、音楽に歌詞という言葉がつけられ、文学のように云々されるようになると、音楽の持つ意味(意味なんか、ないけど)が変容してくる。音楽であるだけでは許されなくなってくる。
何をもってエーテルだというのか。最初にエーテルを音楽にした人はドビュッシーとエリック・サティだとリリイは言う。ドビュッシーとサティは自ら、自分の音楽をエーテルだと評したのだろうか。いや……。不勉強ながら知らないけれど。どちらも近代の作曲家だ。ということは、それ以前の音楽にはエーテルはなかったということだ。それは何を意味するのだろう。それ以前の、あるいはそれ以外の音楽に対して否定的とも思える発言。

エーテルという言葉には、どこか懐かしい、それこそ文学的な香りがある。どこでその言葉を聞いたのか思い出せないけれど……そうだ、どこか、少年期の透明さを感じさせるような、イメージ。
でもそのエーテルが腐る、という言葉も出てくる。これはリリイが口にしたのか、それともファンの間で出てきた表現なのか。
こう考えるに至って、私の中ではリリイに対して疑念が強まってくる。

蓮見と星野は、最初仲のいい友人同士だった。星野の家に遊びに行って、姉さんのようにきれいで若い星野の母親に目を丸くしたりする蓮見。彼らをとりまいてグループでつるんでいる少年たち、みんな同等に仲が良かった。違うグループとのいさかいも、スリリングで楽しかった。その底には純粋な正義があり、彼らはそれを純粋に信じていたからだ。例えばこういう台詞がある。沖縄に行きたくて、でも子供である彼らにはお金がなくて、どうにかしてお金が作れないかという話になる。ひったくりでもやるか、と言い出す一人にもう一人が言う。ばあか、それ、犯罪、と。
しかし、その“犯罪”にふとしたきっかけで便乗することになってしまい、沖縄行きが実現してしまった彼ら。きっかけから間違っていたのだから、その結果が間違いだったのは、当然の成り行きだったのかもしれない。

沖縄で、彼らは様々なものを見聞きする。やたらとからんできた旅行者の男が事故で重傷(死?)になったところまで目撃する。しかし最も大きな体験をしたのは星野だった。海から飛んできた魚に襲われ、そして海で溺れかけた彼は、ツアーの案内者に「7つあるマブイ(魂)をもう2つも落としてしまった。本土から何か悪いものを持ち込んだんじゃないか」と言われる。その、沖縄にいた時から、どこか目が違うところを見ていたような星野は、その旅行から帰ってきて、二学期が始まった途端、突然の変貌を遂げる。今までどちらかというと、イジめられる側……いやそれほどあからさまではなく、疎まれる、という程度、だった彼が、はっきりとイジめる側にまわる。イジめる、というより、独裁者である。友達であったはずの蓮見までも、その標的になる。グループで、同等に仲の良かった中でも、階層が出来て、蓮見はその一番最下層になってしまうのである。星野は一人の女子生徒の弱みを握って、彼女を売女に仕立て上げることすらする。大人社会の縮図そのものである。いや……大人社会というのは幻想で、実際子供の頃からこうした差別意識に満ちた階層は生まれているものなのだ。こんな風に極端じゃなくても。

沖縄旅行で変貌を遂げた星野のその気持ちの変遷がとても気になった。あの旅行から帰ってから、彼の頭の中にはあの沖縄音楽がループする。リリイだけを聴いていたと思しき彼の中に侵入してくる。沖縄での体験は、生死、というよりも、死生観を呼び覚ますものだ。沖縄音楽も、ここでは生のエネルギーよりも、死に直結する方の魂を感じるのは私だけだろうか。死という概念への恐怖は年をとるとともに薄れていくものだけれど、それが残っていたのはギリギリ中学生ぐらいだった気もする。リリイの音楽が最上の音楽だと思っていた彼の中に、死というものを媒介にして沖縄音楽が入ってきたことの、意味の重さをつらつらと考えてしまう。

星野によって娼婦にさせられてしまったのは、もともとは明るい女の子だった津田。冗談みたいにズッシリと重そうなほどにストラップのついた携帯を持ち、長い黒髪が印象的な美少女。彼女がそんなことをしているのは知らずに、津田に思いを寄せているのは、こうした星野のイジめの階層の中に入っていない、非現実なまでに健康的なヒーローである佐々木。蓮見は佐々木が津田を救えると思って、二人を引き合わせる。しかし津田はことわってしまう。私みたいなのが佐々木とつきあえるわけないでしょ。救うんなら、あんたが救ってよ、と。うつむいてしまう蓮見。知ってる、久野さんなんでしょ。ミエミエだよ。彼女の言葉は明るい響きゆえに、哀しい余韻を引きずる。

その久野さんとは、クラスの女子から、というより、一人の女子から嫌われているゆえに、クラスメイトから距離を置かれている、ピアノの上手い女の子。男子からは圧倒的に人気があるのだけれど、それゆえに悲劇が起こってしまう。津田が佐々木を断っているまさにその時、久野はその一人の女子から発して、星野の指揮の元、人の来ない倉庫で男子たちに輪姦されてしまう。それを窓からのぞき見て、すっごおい、と喜ぶその女子と、その場所まで久野を案内してしまった蓮見のぐしゃぐしゃの泣き顔。そして、決定的な場面までは描写しないものの、恐怖で逃げまどい、男子たちに押さえつけられる久野を追いかける、狂ったようなカメラ……。本当に吐き気がしてしまう、残酷な場面。なぜ、ここに至る前に、何とかできなかったのか、だなんて……空虚な理想論は乾いた響きしかたてない。

蓮見に、久野さんが好きなんでしょ、と津田が言うその場面は、その事件の後である。大丈夫だよ、久野さんは強いから、と津田は言う。それは、私とは違って、という風にも聞こえる。津田には印象的な場面がたくさんある。登場の、その重そうな携帯電話を受けているシーンからすでにそうだが、客を取った帰り道、のどかな川沿いの道で、送る名目でうつむいて彼女の後ろからついてくる蓮見に客からもらった金を投げつけ、弱々しいキックを入れ、土手を走り降りて浅瀬に入ってゆく場面は、多分監督の計算どおりに観客全ての胸に突き刺さっただろう。

そしてカイトを飛ばしている青年たちに近づき、教えてもらい、楽しげにカイトを操って、私もこのカイトになりたい、と言う。絶対怖いよ、と笑いながら応える青年。青い空に赤いカイトが鮮やかに舞う。空飛びたい。津田の声がその青い空に響く。次の場面、鉄塔の下で彼女が倒れている。無防備に素足をさらして。本当に、飛んでいってしまったのだ。カイトは糸につながれているから、本当に空を飛んでいることにはならない。でも糸につながれているから、帰ってくることが出来るのだ。彼女はカイトになって空を飛びたかったのか、それとも帰ってくることのできない空飛ぶ旅に出たかったのか。実際はどっちだったのか……本当に旅立ってしまった彼女にはもう確かめようもない。

津田が死んでしまったように、あんな凄まじい体験をしたら、学校に出てくるどころか、死んでしまったっておかしくない。けれど、久野の方は死ななかった。彼らに強烈に対抗するために、彼女は頭を坊主に刈り込んで学校に来た。息をのむクラスメイトたち。彼らは彼女に完全に負けたのだ。津田の言うとおり、久野は尋常じゃない強さを持っていた。その強さが、彼らに苛め抜かれたゆえに身についた強さだったのだとしたら、皮肉という以外ないのだが……。

そして、運命のリリイのライブ。代々木体育館に“降臨”した彼女に会いに、蓮見も星野も出かけて行く。このあたり、割とあっさりと東京に出られるのが(秋葉原の情景も出ていたし)、今っぽさだな、という感じがする。私たちの頃までのように、完全に閉じ込められていたら、また違った世界が見出せていたのかもしれないけれど、こんな風にちっぽけな出口があるのが返っていけないのかもしれない。世界がいつでもズルズルと溶け出して、完成しないから。……何はともあれ、そこで蓮見は星野が掲示板の訪問者であることを知ってしまう。もしかしたら、知っていたのかも知れない。蓮見を刺したのは、必然だったのかもしれない。リリイのエーテルを濁らせたのも……。

星野の相変わらずのイジワルで蓮見はリリイの“降臨”を目にすることが出来なかった。それは、こちら側から彼らの世界を眺めている私たちにとっては、どこかリリイの存在そのものをアイマイにさせる現象。本当にリリイは存在するのか、とすら……。リリイ・シュシュは、誰が聞いたってリリシズムのもじりだと判る。リリシズムは肉体を持たないイメージ。肉体を持たないから、流す血の生々しさも実感できないから、逆に刃傷沙汰も許容できてしまう。それが皮肉なことなのかどうかすら、判らない。リリイは降臨する。“天から降ってくる”情報そのものだ。どしゃぶりに降ってくるけれど、現実感がわかない。だから言葉でからめて捕えようとするけれど、そうすればするほど、その言葉自体が現実感のないものになってゆく。……ここで初めて、リンクしないと思っていたリリイと蓮見たちの世界が一致する。だけど、一致すればするほど、その触感からは遠く隔たるのだ。

学生時代は、それぞれのレベルで楽しさより辛さをより感じていたけれど、中学生の時が一番、精神的なことも含めて、全身痛々しかったことを、思い出してしまった。本当にあの時よく死ななかったと思うぐらい。だから逆に、あの時死なずに乗り越えられたら、その後の人生何とか乗り越えられるという気もする。それぐらい、あの年代に感じる説明のつかないものも含めた痛みというのは凄まじくて、殆どの人にとってトラウマ的な年代のように思う。私はだから、無意識下で息苦しくてたまらなくて、今ここにいるのかもしれないと思うことがある。都会では雑踏の中に逃げることも、情報の中に逃げることも出来る。行方不明になれる。でも都会以外の土地では雑踏はないし、情報は外のものが天から降ってくるだけ。行方をくらますことができない。くらますには、死ぬしかない。だから地方にいる人たちは、都会に逃げてくるのかもしれない、って。そうでなければ、死んでいたかもしれない、って。だからかな。あの頃を思い出したくないから、子供の言うことに耳を傾けないのかも、大人は。

狂おしいほどに美しい画が、いっそう胸を苦しくさせる。私も大好きなドビュッシーが全編流れているのがこれほど嬉しくないというのも……だって、聞くたびに思い出してしまうから、この痛みを。★★★★☆


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