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「い」


2001年鑑賞作品

生贄(いけにえ)夫人
1974年 71分 日本 カラー
監督:小沼勝 脚本:田中陽造
撮影: 音楽:
出演:谷ナオミ 坂本長利 東てる美


2001/2/22/木 劇場(ユーロスペース:小沼勝監督特集)
緊縛を主としたSMのみならず、レイプ、スカトロも描き、美術や世界観にもこだわりまくっている、まさしく完璧なSMエロス。傑作、だ。油断していると、私はボーゼンと口を開けっ放しになってしまいそうだった。縛られ、陵辱されているうちにSMと愛に目覚めるなんて、そんなん常識的には、そして女性の立場では当然ウッソだー、と思うに違いないのだが、映画の魔術で魅せられてしまう。その出自そのままに谷崎的な女、谷ナオミの、まさしくマダムで爛熟していながら、しかし肌はプリプリに若く、そのせめぎあった官能が圧倒的。これぞ真の映画女優と呼ぶにふさわしい!

かつての夫(ちなみに婿養子)で、性的倒錯者の男に、山奥の廃屋に監禁され、陵辱される見るからに裕福な暮らしをしている和服の女。その登場シーンは、凪いだ川べりを真っ白い日傘を差して歩いていて、かさから見え隠れするこれまた真っ白いうなじと耳元、その耳にはピアス。もうこれだけで、ザワザワとした予感を掻き立てる。和服にピアス。このSM的な美しい取り合わせ。その彼女と偶然出くわしたその男。彼は幼女を誘拐し、“長期にわたって性的愛撫をくわえることで性器が異常発達”するほどにその幼女を手中に収め、彼女を見送るその幼女に「大人の女の人はキライだって言ってたじゃない」と言わしめる。これまたあまりにもあまりにも非現実的なのだが、これは本当に作り上げられた世界なのだ。この女の子の存在も完璧に、そうである。

男が女を待ち伏せていたのは、墓地。鎖つきの指輪で彼女を拘束して、ムリヤリ廃屋に引っ張ってゆく。墓地、鎖つきの指輪、それに捕らえられる和服の女。……なんという、なんという倒錯的美しさ。そしてたどり着く廃屋も、日光の射さない湿り気のある古い木材の手触り、その色合い、打ち捨てられている雑多な日用道具が異様に美しい。女は縛られる。まずは着衣のままで、その縛られ方も、まだ無造作である。女は縛られたままでの食事を余儀なくされる。犬食いである。便意を催す。男は彼女をつないだまま便所へ連れてゆく。「貴女の尻から出るところを見たいんですよ」と言って注視する。恥辱に耐えかねながらも生理的欲求に抗えない女は、どこか恍惚のようにも見える悶絶の表情と声をあげながら、排泄する。真白い尻から一瞬産み落とされるそれは、なんと黄金色に輝いている(!)。目を見張る男。

ここからの縛りは、まさしく職人的域に入ってくる。風呂場にあった剃刀で男を傷つけ、自らの縄も切って逃げようとする女を男は捕まえ、竹の棒も使って彼女の足と手を縛り上げ、あまりにも恥ずかしい、あられもない格好に仕立て上げる。そしてここからは、監督言うところの谷ナオミのアクション女優の本領発揮である。この体位はかなり、キツい。男はサディスティックな表情を浮かべながら、その体位の彼女にろうそくの蝋をたらしてゆく。多分×××の部分にも。ちょっとそれはマズいんではなかろうかと思われるが……まさしく絶叫する彼女に、男はますます興奮の面持ちである。しかしこんなものは序の口だったのだ。

男が女の家に衣装を取りに行っている(!)間、女は縛られた麻縄をヤスリにこすりつけてちぎり、脱出を図る。男のコートを羽織り、夢中で森の中を逃げているうちに狩をしている男二人に出くわす。助けを求める女、しかしコートから除いた完璧な亀甲縛りに苛められている豊満な肉体に、男二人は獣の欲望を目覚めさせる。逃げる女は再三の抵抗を見せるが(ここでのキックも入る谷ナオミの強さはスゴい。まあ、設定的に負かされちゃうけど、でもあの太ももから連なる足でキックされたら、ホントなら負かしちゃいそう)捕らえられ、押さえつけられ、レイプされる。帰ってきた男は、気を失って倒れている女が森の中、その真白い体を泥で汚され、広げられた股には鳥の死体(?)が置かれているのに遭遇する。この猟奇的な場面も、湿り気のある土、森のうっそうとした感じ、その中に横たわる陵辱された、真白いからだの女、とこれまたルール違反なほどに美しいのだ。

男は清冽な小川で、彼女の体を優しく洗ってやる。美しく輝きだす女の体。このシーン、本作の中でほとんど唯一と言っていいほど、本当に純粋に優しく、美しい場面。だって次のシーンでは彼女、花嫁衣裳姿で天井から吊られているんだもの(でもこれまた美しいのだ……なんか、美しい、ばっかり言ってるなあ)。滑車を使って、足を広げられ、×××を剃られる女は、この辺りからSM行為に感じるようになってしまう。男は「こりゃすげえな。石鹸なんていらないぜ」と女の部分をいじくり回す。挿入する。縛られ、吊られたままで。その不自然な体位が、しかし女に(もちろん男にも)興奮をもたらすのだ。

男は洞窟の中で男女の心中死体、もとい、心中しそこなった男女を発見する。水が滴り落ちる中、手を握り合ってキチンと横たわっている二人はケナゲな美しさなのだが、まさかこのあととんでもない目にあうとは……。そして実際に死んでしまう時にはこんなケナゲなサマではなくなってしまうとは……。この男、ホントサイテーで、なんとこの少女に死姦をしだす。そうすると、死んでいたと思っていた彼女がうめきだす。男は彼女を連れ帰り、縛り上げる。先客である女は、ちょっと嫉妬の目で見ている。そこにこれまた死んだと思っていた青年がフラフラと訪れる。男も柱に縛り付けられる。

ここからはお待ちかねの(!?)スカトロがはじまる。いやー、スカトロが出てくる映画って、一般映画じゃなかなかお目にかかれない上に、これほど王道なスカトロだと、ほんとにもう、感嘆。少女は体を折り曲げた状態で縛られているんだけど、男はその少女の尻をなでながら、「かわいい尻だ」と愛で、浣腸液を自ら調合するのだ!割り箸でかき混ぜるのだ!うっひゃあ……それを浣腸用のふっとい注射器に吸い込ませ、少女の尻に注入する。その時、尻がアップになるんだけど、それがちゃんと鳥肌が立ってるんだよ!芸(?)が細かい!「何をするんだ!」と縛り付けられている少女の恋人の青年が絶叫するんだけど、男は「かわいい尻を見ると、こういうことしたくなるんだよ」って、なんだよそれ!?少女は次第に震えだし、「お便所に行かせて!」と絶叫、男は女の縄を解き、少女の世話をするように命じる。少女の尻にビニール袋を当てる女。「もうダメ、出ちゃう、出ちゃう!」とついに排泄してしまった少女、それを女はナイスキャッチ(!?)。小沼監督のドキュメンタリー、「サディスティック&マゾヒスティック」で、この作品を20数年ぶりに主演の谷ナオミとともに観た小沼監督、その後レストランで頼んだのがカレーライスで、「これを頼んだのは間違ったかな」と言い、その言葉に思わず周囲の誰かが笑うと「笑うなよ、思い出すじゃないか」と……。うーむ、コレだったのね。確かにカレーは……うひゃー。

んで、この場面に思わず興奮して勃ってしまった(……)青年を見て、男は、女にこの青年の面倒も見るように命じるのである。つまりはセックスしろと。男の方は少女の尻を丁寧にぬぐってやり、縛りを変えて少女に交わる。カメラが引き、画面の右と左で交換セックスを行う二組、少女と青年は屈辱と本能的な快楽に錯乱し、女はいつしか自らの快楽に正直に悶え、男は、まあ、これは当然ながら自らの欲望に没頭する。なんかもう、男と女の理性と欲望がグラデーション状態で、クラクラする。

こんな究極を過ぎてしまうと、もはや男と女は運命共同体、共犯の関係となる。女はマゾに目覚めた自分を認め、彼に縛られることを自ら望む。男はそれに応え、彼女を縛り、打ち、愛撫し、交わる。そして少女と青年も交えた四人の奇妙な共同生活。お互いの関係が完成してしまった男と女は、もはや興奮の触媒となっていたに過ぎない少女と青年に興味を失っている。ここにいてもかまわないけど、なんて、的外れなことすら言う。少女と青年は、そりゃあもちろん心中をしかけたくらいだし、それくらい愛し合ってたはず、なんだけど、交換セックスの時から気持ちがすれ違っている。そりゃ、そうだろうけど。そして、まるでその愛を再確認するのだとでも言うように、彼らはもう一度心中するのだ。しかも、その心中の仕方は、一度目の、いかにも純粋な恋人たち、という趣とは180度変わっている。二人は全裸で、お互い向き合う形でぴったりと縛りあい、その縄の終着点が、お互いの首を絞めあっているという、実に器用な、もとい、官能的な死に方で。それはセックスの絶頂を感じさせる点で、男と女の欲望の究極であると同時に、一度目の時の、手を握り合っている時よりずっと接着度が高くて、もしかして挿入した状態かもしれなくて、あの交換セックスの屈辱とお互いに対する嫉妬心が、幼い愛から、大人の愛へと成熟したとも思えて……でもそれは、純粋な愛から、真実の愛といえど醜悪な愛へと変わったということなのかもしれないけど。

ラストシーンが、またすごいのである。あの、誘拐された幼女が男を追って、廃屋にやってくる。男を捕まえようと、警察が幼女をつけている。たどり着いた廃屋で、この二人の死体をそのままに(!)、そのすぐそばで女は全裸で亀甲縛りされている。刑事が彼女の縄をほどこうとすると、「このままがいいの!」と彼女は拒否するのだ。外では、逃げ出した男がこの幼女と再会し、共に手に手を取ってどこかへ行ってしまう。“終”のクレジットの後ろで、女は亀甲縛りに恍惚と悶えている。……スゲエ!

SMの、そして愛の、全ての要素を完璧に見せきった、そしてとてつもなく美しい作品。パーフェクト!!!★★★★★


いちばん美しい夏FIREFLY DREAMS
2001年 105分 日本 カラー
監督:ジョン・ウィリアムズ 脚本:ジョン・ウィリアムズ
撮影:早野嘉伸 音楽:ポール・ロウ
出演:真帆 南美江 丹波努 木全悦子 斧篤 宮島千栄 山川定保 金本京子 七原春夫 佐藤絢子 壁谷俊介 原智彦

2001/8/23/木 劇場(中野武蔵野ホール)
突如現われたこのミュージシャンみたいな名前のガイコクジンの監督さんに、本物の日本をまっすぐに見せられて、うろたえた。それは今最も猥雑な部分と、そしてタイトルにもあるような、最も美しい部分。その二つの価値を取り違えている日本という国。そして、一人で立てないもどかしさに不機嫌な少女が、揺れ動く様の生々しさと、そしてリリカルさという矛盾した様をはらみながら、それがまさしく今の少女のありようで。名古屋という、東京ではない大都会に住むあたりの微妙さも上手く、そしてそこからタイムスリップするかのように送り込まれる田舎のたたずまいが、この映画の主人公といってもいいぐらい。

直美はいわゆるイマドキの高校生。髪を黄色く染め、きついメイクをし、マニキュアをほどこした爪をして、友達と繁華街で遊びたいと、簡単に学校をサボってしまう。それを親にとがめられると、関係ないでしょ、ほっといてよ、と突っぱね(またこの子の物言いが、いかにも今の女の子のイヤーな言い方なんだ)、何をほざいているんだ、このクソガキャ、と見ている観客もムカムカするような女の子。しかし彼女の家庭にはちょっとした事情があった。それは母親が浮気をしていて、家庭内が崩壊状態にあること。そんなこともあって、母親は彼女に対して強くお説教できないし、それを黙認しているかのような父親もしかり。そしてある日、直美が家に帰ってみると、母親の荷物だけがそっくりなくなっていた。愛人のもとへ去っていってしまったのだ。

もうすぐ夏休みということもあり、父親は直美を旅館を経営している自分の姉のところへ行かせることにする。その間にお母さんのことは何とかするからと。完全にブーたれたまま、その命に従う直美。旅館は朝から晩まで忙しく、直美もそれを手伝わされることになる。明らかにやる気のなさはミエミエなのだが、常に見られているのでそうそうサボることもできない。何でこんなことしなきゃいけないの、早く帰りたいよとブツブツつぶやき、やたらとなついてくるおばさんの娘、由美は軽い知的障害があるらしく、それもまた直美をイラつかせる。

ある日、おばさんのおつかいで、直美は小出さんの家に出かけていく。ついてこようとする由美に、私はあんたとは違うんだから、とキツい言葉を浴びせると、由美は何が違うの?と首をかしげ、その言葉に直美はふとうろたえた表情を見せる。とにかく、ついてこないで、帰るのがいやなら、そこで待っていればいいでしょ、と、由美を神社の境内に待たせて、直美は小出さんの元に向かう。小出さんは昔よく遊んでもらった一人住まいの老女。訪ねてみると、もうすっかりボケてしまった彼女は、直美のことも判らない。何度も何度も、直美だよ!と言い続けると、「あんたは声が大きいねえ」と、ひと言。

都会は騒音がひどくて、いつでも大声で喋らなければ、声が届かない。そして自分はここにいると主張するために大声を出さなければ、大勢の人たちの中に埋もれてしまう。ことに直美のように、一人で生きていきたくてもまだ許されない存在にとっては、余計にそうだ。そして直美のこのひと夏の成長は、声が小さくなっていくところにあるのである。自分にしか興味のなかった直美が、人に興味を持ち、人を好きになり、人の話を聞けるようになるのだ。田舎の中で完全に浮いていたあのメイクも影を潜め、素顔に近い状態になる彼女は、メイクをしていたときには完全にブーだったのが信じられないほど、可愛らしい女の子だと気づく。小出さんに着せてもらう、ちょっと渋くて若々しい浴衣姿も可愛らしい。直美は酒屋の若者と仲良くなり、廃館になった映画館でキスを交す。そのぎこちない様は、このハデな女の子が、しかし実はそういう経験をしていなかったことを想像させる。この男との恋ははかなく破れさってしまうが、そんな経験の中、直美の表情は和らぎ、旅館での仕事も手慣れてきて、魅力的な女の子になってゆく。

小出さんは、昔東京で映画女優をやっていたらしい。戦争でご主人を亡くした彼女は、早くから一人で、それからもずーっと一人。もう随分と年だけれど、そのたたずまいは美しかった若い頃を充分に想起させる。直美と話しているうちに、ボケの症状も段々と治って行く。人と話していないとボケてしまうらしい。小出さんの家の屋根裏には秘密がたくさんある。ほこりだらけの地球儀、古い鏡台、そしてその引き出しにしまわれた、たくさんの思い出の写真……映画のカメラの下で、輝く笑顔を見せている小出さんに心を奪われる直美。

おばさんの家ではうるさく言われるけれど、小出さんとなら一緒にビールを飲んでも大丈夫。そういえば、おばさんの家でもそこのおじいちゃんはたばこを勧めたり、お酒を注いだりしてくれたっけ。もちろんいけないことなんだけれど、それは直美を一人の大人として見ていてくれる象徴である。一方で直美の両親にしてもこのおばさんにしても、直美を正しい方向へ教え導いていかなくてはいけないという頭があるせいか、頭ごなしにしかりつけることで、この難しい年頃の女の子は余計にねじ曲がっていってしまう。つまりは、このおじいちゃんにしても小出さんにしても直美を育てるという義務がないからこその気楽さゆえなのだが、でも直美が人間的成長を見せるのは、まさしくそうした人たちと理解を深めることによるのであり(このおじいちゃんにも戦争の話を聞いたりしているし)、目に見えて直美は変わって行くのだ。

由美に対しても。由美もまたこのおじいちゃんや小出さんと同じ立場である。直美に対して、一人の人間に相対する気持ちしか持っていない。彼女は直美にうとまれ、いじめられても、そのことで逆に直美の悲しさを受け取ってしまう。しかられている直美を「かわいそう」といい、何があっても「私は直美ちゃん、好き」という。彼女は確かにその言葉のつたなさや日常的な生活で見せる行動の抑制に問題があるなどの点で、世間一般でいわれる障害者なのだろうが、直美に対するそうした部分が、大人どころか神のごとく達観していて、驚く。そして成長していく直美は、由美のそうした部分を理解できるようになる。彼女の目線で話ができるようになると、二人は自然と仲良くなってくる。二人で立体ジグソーパズルを黙々とやっている場面など、本当の姉妹のようで、とても美しい場面。

突然訪れる、直美の父親の死の知らせ。迎えに来たのは母親だった。両親の両方と上手くいっていなかった直美だけど、この母親に裏切られた者同士のような感覚のあった父親の方とは、まだ少しは心の通う部分があった。この母親は、夫が死んで呆然とはしているものの、そして直美のことを気遣うような言葉は発するものの、やはりそれは虚ろなのである。自分の生き方を最優先にして、大事にすべきものを置いていってしまうような、こうした大人、こうした親が、確かにこの現代には増えてきている様に思う。それを決定的にしたのが、この母親の、あまりにも早い再婚。「あの人が、直美の分も新婚旅行のチケットを取るって言っているんだけど……」などと、あからさまに歯切れの悪いことを言う母親。

直美はまたあの田舎に戻ってくる。小出さんが、入院してしまっていた。また誰とも会話を交すことのなくなってしまった小出さんは、再び直美のことが判らなくなってしまっている。直美は、ベッドの脇で、小出さんに、直美だよ、直美だよ、と話し掛ける。その声は、小出さんとの最初の登場場面で同じ台詞を言ったときと明らかに違っていて、とても優しくて耳に心地いい。そんな風に直美がずっと付き添っていると、小出さんがふと正気を取り戻す。直美のことが判る。ぼんやりと薄暗い病室で、直美と小出さんは、あの縁側で、ビールを飲みながら話しているときのような幸福な時間を少しだけ取り戻すのだ。小出さんは言う。「私たち、もっと若い頃に出会っていたら、仲良しになれたのにねえ」直美が返して言う。「今でも仲良しでしょ」その直美の言葉がとてもとても優しげで、その表情も、あのいかにもなコギャルだった彼女が本当に可愛い女の子になっていて、私は素直に感動してしまった。

この時の幸福な時間をきっかけにしたかのように、小出さんは突如として旅立ってしまい、直美も戻らなければならない時を迎える。由美がふてくされている。なぜ直美が行ってしまうのか、彼女には許容できない。彼女と小出さんだけが、直美の心の奥に隠れていた真の良さを判っていたのだ。彼女と小出さんによって、直美のその部分が引き出され、彼女は変わった。人の価値って何なんだろうな、と思う。老いてボケかけた小出さんや、知的障害を持つ由美は、社会の中では弱い立場だ。でも、彼女たちだけが、私たちには見えない直美の心根の純粋さ、善良さを見てとって、彼女を好きになる。そのことによって、直美を変えてゆく。常識というガチガチに固まった考えしか持たない私たちには出来ないことだ。

由美が泣きべそをかきながら、行かないで、と懇願するのを、直美は優しく説きふせる。直美のお姉さんぶりにまたしてもビックリする。また冬休みになったら来るから、と由美の髪を優しくなぜる。二人の友達であり姉妹のようなその関係が本当に本物で、その別れの場面は、薄く影がさしているしんみりとした畳敷きで、そこにいる二人のピュアな少女で……すごくいい。この由美をやっている女の子がすっごく上手いんだ。まあ、いわゆる障害者演技なのだけど、特にこの直美との別れの場面は、本当に素晴らしい。

蝉やひぐらしの音がしんとした中に響き渡るような、そして緑が風が清流が目にしみる美しさで、だからちょっと饒舌な音楽がもったいないな、という気もした。何にせよ、久々に少女映画の秀作を観たな、という満足感。過去を思い返してみても、少女映画はやっぱり夏なのね、ということを改めて認識した次第。★★★☆☆


狗神
2001年 105分 日本 カラー
監督:原田眞人 脚本:原田眞人
撮影:藤澤順一 音楽:村松崇継
出演:天海祐希 渡部篤郎 山路和弘 深浦加奈子 遊人 矢島健一 淡路恵子 藤村志保

2001/1/29/月 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
ジャンル作家というのが殆どいなくなった現在の日本映画において(ホラーの旗手登場と思われた中田秀夫も「ガラスの脳」「カオス」といってコケてしまったし)原田眞人監督がホラーを撮ったといっても意外ではあるけどまあ驚きはしない。ただ、正直それが楽しみだな、と思いはしなかった。ことに、それが日本の土着的なものを描いたそれだと知るとなおさらである。原田監督の「KAMIKAZE TAXI」や「バウンスkoGALS」「金融腐蝕列島[呪縛]」などは本当に大好きだし才能のある作家だとは思うけれど、それはこうした作品群を撮る、たぐいまれなエンタテインメント体質にあるに他ならない。それから外れると、原田作品は急速に面白くなくなってしまう。ことに、世界に照準を合わせた時にそうなってしまう。「ペインテッド・デザート」しかり、「栄光と狂気」しかり、そして本作しかり。全二作はまだ彼の体質の中にあるアメリカがあったから良かった。しかし本作はヨーロッパの映画祭を狙っているというだけあって、モロそうした映画祭の審査員が好みそうな(というか、そうした文化のなさに対するコンプレックスにつけこんだ)傾向である。全てから閉ざされた山間、奇跡のように残っている美しい方言(最新のインターネット技術が登場することでもわかるように、これはしっかり現在の物語として描いているのである)、そしてこれまた、信じがたいほどに固く信じられている迷信。こうしたものは確かにある種のまがまがしい美しさを放ってはいるが、ただそれだけにとどまっている。これだけならば、正直他の映画でいくらでも観ることが出来る。

運命の糸に抗えず、展開してしまう悪夢のような近親相姦の連鎖。しかしそれは純粋な恋愛感情。主人公で和紙職人の坊之宮美希(天海祐希)はなんでも実際は41歳だという(でも劇中でその歳を言ってたかな……)が、見た目は驚くほど若い。しかも、そこに中学校教師として赴任してきた奴田原晃(渡部篤郎)と恋に落ち、セックスを繰り返すうちに、ますます、つやつやと若くなる(私はこの作品がR15指定となった原因の一つであろうと思われる最初のセックスシーンを(しかもそのシーンのみを)居眠ってしまった……クヤシイ!?)。彼は周りから彼女は非常に年上なんだから、と再三言われるのだが、なんせ見た目がそうだから、まあ、年上にしてもたいしたことないだろうと思っているのか、あまり気にもとめない。しかし実際は歳が離れていることのみならず、この二人は親子関係にあったのである。

このあたりの、彼女の歳をとらない異常性を説明するくだり、説明的にならないようにとするせいなのか、妙に回りくどく何度も何度も繰り返して暗示的な台詞にのぼらせるので、かえって説明的でわざとらしい。彼女が登場してくるシーンで、メッシュのように白髪が交じっているのもなんだか不自然。晃と恋に落ちてからメガネが壊れ、彼女はめがねをしなくなる。ますます若く見えるようになる。こんな手口もなんだか少女漫画的である。メガネを取ると実は美人、ってね。

美希は狗神の血筋を引く一族。晃と出会ったことで目覚めた彼女は、自分の母親の霊を見るようになる。力を備えるようになる……ったかどうかは知らないが、ともかく、集落で起こる不審な死をキッカケに、彼女の一族に対する理不尽な差別感情が一気に噴出すことになる。一族の当主であり、美希の兄でやはり近親相姦の関係にあった隆直(山路和弘)が一族滅亡の道を計画する。その惨劇が繰り広げられる、坊之宮一族だけで執り行われる先祖祭りの光景からいきなり画面がモノクロに変わる。ここも正直いささかネラいすぎでは、と思ってしまう。

トランス状態になっている美希は、周囲で阿鼻叫喚の図が展開されてもなかなか気づかない。隆直が彼女の肩に手をかけた時ようやく正気に戻り、「女がいつでも男の言いなりになると思ってるのか!」というようなことを叫んで、彼を打ち砕くのである。そこに駆けつけた晃もまた、彼女とともに果てようと追いすがる隆直を、すなわち自分の父親の息の根をその手で止める。女の男からの束縛と、息子の父親からの束縛を(……やはりここは前作にならって呪縛と言うべきかな?)断ち切ったカタルシスある場面だが、このサッパリしたサクセスオチに、ますます違和感を感じざるを得ない。こういう世界に本能的に求めてしまうのは、やはりある種の悲惨さなのだ。そう、「死国」にあるような。悲惨さの中に、わずかな希望の光、美しい愛情があるような。これはまさしく原田的アメリカンな世界なのだ。ヒーロー、ヒロインがつかみ得る最大の幸福を当然のごとくラストで手にする。もちろん、この後逃避行へと向かう美希と晃がどうなるのかは示唆されない。晃が心配するように、外の空気に触れたとたん、美希は本来の年齢を取り戻して崩れ去ってしまうのかもしれない。それを暗示させるのならば、そうした破滅的な美しさを感じることも出来たのだろうけれど、それもない。なんだか拍子抜けするほど上手くいってしまうのである。

そんなだから、美しく渋い美術とロケーションが語り口とどうにもかみ合わない印象のまま終わってしまう。世界に対する野望があるのは素晴らしいけど、それは本来の原田カラーで充分勝負できるではないか。私は現在の邦画界が、あまりにそういう部分を大切にしなさ過ぎているような気がしてならない。実力があると思うと、カラーを考えずにとりあえずメジャー作品を撮らせてしまう。そうなった時に本来の実力を発揮しきれている作家はお世辞にも多いとは言えない。

「MISTY」「黒の天使 vol.2」よりはまあ、いいかな、と思う天海祐希だが(その背の高さも年を取らない美女というまがまがしさを醸し出してたし)、やはりなんだか淡白な印象はいなめない。こうした怨念系の作品ではことにそれが致命的に映る。その点、渡部篤郎はさすがの存在感で、これまで感じていたある種のねちっこさもなく、妙に色っぽく、そして絶妙にアッサリしている。関係ないけど、ちょっと>ビョークの顔に似ているかも、なんて思ってしまった。そして何より入江雅人氏の出演が嬉しい!うーん、映画はひょっとして「MIDORI」以来かなあ、彼、絶対凄くイイ!もっと映画に出てほしい!★★☆☆☆


いのちの海
2001年 103分 日本 カラー
監督:福原進 脚本:石堂淑朗 西村雄一郎
撮影:坂本典隆 音楽:池辺晋一郎
出演:上良早紀 頭師佳孝 林泰文 中村嘉葎雄 安岡力也 芦屋小雁 有馬稲子 風間杜夫 村田雄浩

2001/4/23/月 劇場(銀座シネパトス)
シネパトスはいつの間にやら、文化映画の一般公開劇場として定着してしまった感じ。うーむ、不思議な劇場だ。ロマンポルノもピンクもバイオレンスもB級映画も専門なのに。しかも本作を観ている時、ネズミと目が合ったぞ!イヤー!

なんてことは当然ながら映画とはなーんの関係もないが。本作は有明海に面した精神病院を舞台にした物語である。こちら側が予期しているようなタイプの、心を病んだ人たちも画面のそこここに見受けられるけれど、実際に物語を動かしていくのはそうしたいかにもな患者たちとはちょっと違う、一見すると普通の人々。書と陶芸が趣味の、車椅子に載っている秀丸さんは、母親殺しの過去を持つ人。不登校に陥っている中学生の由紀は、義父にセックスを強要されている女の子。精神分裂症だというチュウさんも、何十年にも及ぶ入院生活で、今はまったく治っているように見える。いや、治っているのだろう、家族の拒否反応、そして本人の恐怖心で、元の生活に戻ることができないのだ。言葉が上手く喋れず、いつもニコニコ笑っている青年、昭八はその中でもっとも判りやすい意味での患者さんだが、彼もまた、ただ言葉が上手く喋れない、というだけで、もしかしたら普通の青年なのでは、と思われてしまう。というより、こういう作品を観るといつも思うことは、普通とそうでないことの線引きはどこにあるのか、あるいは普通と言われる領域は果たして正しいのだろうか、ということだ。まあ、本作は深刻な症状の患者さんを描いているわけではない、という点で、こうした認識は甘いのかもしれない。でも、逆にそれこそが言いたくて、原作者やあるいは監督はそうした描き方をしたのかな、という気もするのだ。

物語はこの病院の患者さんたちというよりも、この女の子、由紀によりそって展開していく。観客の受け入れ口を広くするためかもしれない。何度も何度も義父に犯され、ついには子供を宿してしまい、だれにも言えずにひとりこっそり堕ろす彼女の痛ましさ。秀丸さんたちによって心癒され、立ち直っていくかに見えた彼女は、今度はこの病院のはぐれ者、ヤクザでシャブ中の重宗に草むらでレイプされてしまうのだ。ちょ、ちょっと、そりゃいくらなんでもヘビーな展開すぎないかい!?と思ったらまたさらにヘビーな展開は待っていて、これを知った秀丸さんが彼女の心を救うため、重宗を刺し殺してしまうのである。冒頭、この秀丸さんの裁判シーンから始まり、そしてラスト、その裁判がどういう結末を迎えたか描かれて映画は終わる。

精神病患者、あるいは犯罪者、傷ついた青少年。これらの、一見リンクしない人々を結んでいる糸が、家族への複雑というだけでは説明しきれない思いである。昭八君はちょっと判らないけれど、秀丸さんも由紀もチュウさんも、そして劇中で自殺?を遂げてしまう、やはり母親殺しの男性も、そうである。彼らに共通しているのは、家族によって虐げられ、陵辱され、なおかつその家族を愛しているという事実である。由紀はこの義父のことは憎んでいるに違いないが、母親を愛しているからこそさらに傷ついているのだし、秀丸さんもなぜ母親を殺して自分が生き延びているのか(死刑執行が失敗してしまった)という罪の意識に苦しんでいる。チュウさんは自分の存在が家族に迷惑をかけるのではないかと恐れて家に帰ることができない。

家族がトラウマになるほど、救いようのないことはないのかもしれない。いわゆる精神病患者の人たちに対する私たちの視線は、それは個人の問題で、逆にそうした人の家族たちは大変だとか、そういう見方をしていることに気づかされる。いろんなケースはあるに違いないし、複雑な身体的欠陥、脳細胞の異常とか、が引き起こすことも多いのだろうけれど、ここでは家族に対する思いがそうした病気を発生させてしまった、といわば逆の見方をし、私たち観客の固定観念、一貫してこちら側からの視点で見ていたという事実に気づかせてくれるのだ。そのためにとった本作の手法……主要人物が明らかな精神病患者ではないということ……はいささか甘いのかもしれないのだが、ヒロインに壮絶な経験をさせることで、その部分は補ってあまりある。

それにしても頭師さんはこんなに上手い役者さんだったのか、知らなかった。彼がこれだけメインを張っているのなんて初めて見たから。いかにも冴えないおじさんなのに、彼の苦悩から来る優しさが、何ていうかすごーく心にしみるのだ。中村嘉葎雄なんかは当然素晴らしいわけだけど(ああ、シブいわー)、頭師さんのこの良さっていうのは、こう、なんかこう、ほんとに内面からじわーっと出てくる感じで。彼が秀丸さんと昭八っちゃんと一緒に暮らそう、と言って、そのことに秀丸さんが嬉しかった、と獄中から手紙を書いてくる、そのシーンには胸が熱くなっちゃったなあ。で、最終的には昭八っちゃんと一緒に暮らす場面で終わってる。昭八っちゃんは由紀のレイプシーンに遭遇していて、彼の唯一の、そして最大の武器であるカメラのシャッターを切ることによって彼女を救うのだけど、彼はその衝撃的な場面にとてつもなくショックを受け、その純粋な心が砕け散り、それ以来すっかり放心してしまっている。いつもニコニコしていたあの笑顔が、どこかに消え去っている。でも、チュウさんが裁判で証言をし、その時由紀とも再会して、昭八っちゃんに、彼女が遊びに来るよ、と告げると、昭八っちゃん、一瞬の後、あの笑顔を見せるのだ。ああ、恋の力って、なんて偉大!

この年になって(もう30!見えないッ!)これだけ邪気のない笑顔を持ち、純粋な青年役が似合っちゃうのは、やっぱりこの人しかいないであろう、林泰文は昭八役にピッタリ。安岡力也、文化映画で彼を見るなんてと思ったら、ここでもやっぱりヤクザ役(笑)。しかし、シャブ中でレイプをするようなタイプの無法者ヤクザというのは、ひょっとしたら新境地?ヒロイン、由紀を演じる上良早紀は、中学生役というのは少々ムリがあるけれど、まあまあ合格点。しかしこの手の新人アイドルが映画で主演を飾っても、その後は映画にはさっぱり出ないってことが往々にしてあるから、どうも期待できないけど……。

有明海の泥の中ではねるムツゴロウが印象的。それはまるで、居心地はいいけれどでもここにこのままいちゃいけないんだ、という患者さんたちの必死の思いを象徴しているようで……。★★★☆☆


イルマーレIL MARE
2000年 97分 韓国 カラー
監督:イ・ヒョンスン 脚本:
撮影:ホン・ギョンポ 音楽:キム・ヒョンチョル
出演:イ・ジョンジェ/チョン・ジヒョン/

2001/10/3/水 劇場(渋谷シネパレス)
ここ10数年、少女女優たちは非常に豊富でレベルが高くて、少女映画には珠玉の名作がある日本、その伝統は角川映画や大林作品の流れを受け継ぐもので、そのことは疑いの余地はないのだが、そこからはいきなり中年、シニアに飛んでしまって、妙齢の男女の映画の秀作といったら、ないとは言わないけれど、ぐんと数を減らしてしまう。その年齢層はすっかりテレビの世界に取られてしまうから。少女女優として映画の中で輝いていた彼女らも、そのあとはすぐテレビに行ってしまうし。ということに、なんで気づかなかったんだろう?と本作を観て思った。正直、焦りを感じた(何も私が感じることもないのだが……)。昨今の、レベルの高い韓国映画を観て一様に思う感覚、あ、ヤバい、先を越されている、という印象をここでも強く受けた。このジャンル、この感覚の映画において、日本映画が知らぬ間に先を越されている。素敵な映画を観て嬉しいと思う反面、 非常なる嫉妬と焦りを感じるのである。

海辺に建つ個性的な一軒家。イタリア語で海という意味の、イルマーレと名づけられたその家は、満潮になると海の水が迫ることから、高床式?に通路のついた造形が印象的。その周りはただただ砂浜で、見事に何もない。台風だの地震による津波だのを考えてしまう日本では考えられないところに建っている家だけど、韓国ではそういうのはないのだろうか?などとヤボなことを考えたりして。しかしその、ぽつんとたたずむモダンな家は、本当にあきれるほどに美しい。

いや、この家の場面だけではなくて、本作は、この監督自身が相当に映像にコダワリを見せる監督らしく、その映像の手触りは、ほっんとに美しいのだ。それはウォン・カーウァイほどにはあからさまに耽美的ではなく(彼の場合は、ちょっとやり過ぎ?)、ああ、そうだ、岩井俊二のごときロマンティシズムあふれる映像。カーウァイ監督のように映像だけを切り離されて考えられるのではなく、そのリリカルな物語に寸分たがわず寄り添っているその映像は、何百種類もの色の中から一本一本の色鉛筆、絵筆を選んだかのごとき、繊細な美しさにあふれている。それは繰り返して言うけれども映像だけに耽溺しているのではなく、物語の美しさに感情が酔いしれている時に、同時に視覚も酔わされている、といったような感覚なのだ。

予告編で観た同じ韓国映画でこれから公開の「リメンバー・ミー」と思わずごっちゃになってしまった……。この設定の類似は偶然だそうなのだが。時空を超えた愛、という、いわばSFファンタジーな物語を、不思議にするりと信じさせてしまうこのリリカルさ。イルマーレと名づけられたこの家、そして二年の時をつないでいるアンティークなポスト。白々しくなることなく、本当にこんなことが起こるかもといった空気に仕立て上げていることに思わず感嘆し、そしてこんな恋が出来たら、と思う。現実に会って触れることすら、いや言葉を交わすことすら出来ない二人が、本当に恋に落ちてしまうという、言葉にしてみればそんなナイーブ過ぎることもないだろうと思いつつ、それを信じさせてしまう、この手腕。そうだ、映画は大いなる嘘であり、その嘘をどれだけ信じさせてくれるかということなのだ、ということを思い出す。映画が人生であり、現実であり、などとは思っても、この大前提を忘れてはいけない。それを忘れがちな映画が最近多いように思う。

二年の隔たりがあることを利用して、見せる小技がいちいち効いている。特に二年先の彼女のために2000年に開けるミレニアム・ワインをお気に入りのカフェに用意している、というのには唸った。その時のメッセージがまたイイ。“ワインが好きな人は孤独だというけれど、僕はワインが好きだ”ええッ?そうなの?私もワイン、大好きだけど……などと、あんたには聞いちゃいねえ、って話だが……ではなくて、だからそれはこの彼と彼女の先行きを暗示してもいるわけである。ビールを飲んで思い切り走ってバイキングに乗るとか、人のいない遊歩道を散歩するとか、それぞれのお気に入りを交換し合って、目に見えない人とデートする二人。料理が好きらしい彼の方が、パスタのゆで加減を彼女に伝授するところも、シャレている。

シャレているといえば、全編にわたって流れているモダンなスタンダードジャズがたまらない。テーマ音楽として使われている、久石譲ばりのメロディアスなピアノ音楽も非常に甘美でステキなのだが、この年齢のこの二人にピタリと合う、シャレたジャズにはすっかり酔わされてしまった。ジャズ自体を主人公にしたような「真夜中まで」はあったけれども、最近の日本映画でこんなふうにジャズが気負いなく、素敵に使われているのって思いつかないなあ……。ううう、やっぱり嫉妬を感じてしまう!

彼を知る前の彼女に会いに行って、切ない思いを噛みしめる彼。思えば彼女は未来に生きているんだし、彼女の方で彼を探し出して会いに行っちゃえば、何の問題もないのになあ、と思いつつ、しかし未来の時間で彼が出てこないのには、やはり理由があるわけで……。未来の彼女が、そうだ彼と会う約束をすればいいじゃーん、彼は二年待たなくちゃいけないけど、私はちょっとだけ待てばいいんだし……と思いつき(何もこんな風にノーテンキに思いついたわけじゃないが)、時間と場所を指定する。彼女がいつかこんなところに住みたいと思っていた、美しい浜辺。その待ち合わせの場所に彼女が行ってみると、そこには個性的な家が建設中である。そこはかとなく感じる胸騒ぎ。彼は来ない。観客も驚く。まさか彼が約束を忘れた筈はないのに……。二年前の彼も驚く。何故僕は行かなかったんだろう。二年後の自分が彼女と出会えた報告を聞けるはずだったのに。

迎えられるはずのハッピーエンドがすれ違い、さざなみがたち始める。彼女はかつての恋人に再会し、あの時の思いが蘇る。その人のことをまだ愛しているのだと、思い込む。それは多分、違う。彼が来なかったその喪失感で、かつての恋人に出会って彼女の孤独の感情が増幅されただけなのだと思う。でも、時間の不思議なからくりは、その原因と結果をメビウスの輪のように奇妙にねじらせる。彼女は彼に、その恋人と離れさせないで、と頼む。彼が行ってしまった二年前、最後のデートの場所に来て欲しいと。彼はその場所へと赴く。と、総ガラスのカフェで彼女が見ている目の前で、彼は車にはねられてしまう。まだ彼を知らない彼女に向かって、息を絶えつつあるのを感じながら、言葉にならない声と、触れられない手を彼女に伸ばす彼。

その頃彼女は、彼が行っていた大学に向かう。あの海辺の家のスケッチを目にする。それは愛する人のために彼が設計したのだと、彼のかつての親友が言う。それは、あなただと。そして彼は……。彼女は驚愕して走り出す。タクシーに飛び乗る。私のせいで彼が死んでしまった!間に合うはずのないことを知りながら、それでも彼女は、行かないで!と書きなぐった手紙を祈る思いでポストに突っ込む。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……と。

そんな、こんな結末って、あり!?と思う観客の気持ちを汲んだのか、物語はまたしても不思議な時間のからくりを、映画の素敵な嘘を見せてくれる。時間はくるくると巻き戻され、彼女が引っ越していく冒頭の場面に戻る。そこに彼がやってくる。彼女はまだ彼の存在を知らない。その彼女に向かって彼は言う。「これから僕が話す物語を信じてくれるかな?」どう考えてもおかしなタイムパラドックスだけれど、この不思議なハッピーエンドに心から安堵してしまう。

それにしても、あぜんとするほど美しいヒロイン!ちょっとスー・チー風のファニーさを持ちながら、かっんぺきに美女である。見とれすぎてしまう!全く、韓国の女優は何だってこうハズレがないのだろう……。このヒロインが声優だとか、韓国にも漫画喫茶があるんだとか、不思議に親近感を感じる設定も楽しい。★★★★☆


インフィニティ 波の上の甲虫
2000年 119分 日本 カラー
監督:高橋巌 脚本:高木弓芽
撮影:八巻恒存 音楽:東儀秀樹
出演:東儀秀樹 奥菜恵 原田喧太

2001/12/15/土 劇場(恵比寿 東京都写真美術館ホール)
叙情的なタイトルと、美しい海の色が映されたチラシに惹かれて足を運んだ。主人公は二人。高橋とタカハシ。ボラカイ島を訪れた小説家志望のルポライターが、その小説の中に描く自らを投影させた映画監督志望の青年がタカハシ。多少の皮肉を交えながらも、ある種の憧れの自分であるタカハシは健康的で明るく、ひとなつこい。一方の傷ついた心を持つ高橋はその全ての逆を行っている。パソコンに打ち込まれる小説の世界と現実世界がやがてリンクし始める。こちらとあちらがゆれはじめ、ついには二人はそれぞれに入れ替わってしまう。そのカギを握る、島の美しい少女。高橋の出会う彼女は彼にちょっかいを出してくる娼婦で、小説の中の彼女は海岸で踊りの練習をしている無邪気な少女。同じ顔をした、表裏一体の夢の女……。

小説家志望とか、映画監督志望とか、娼婦であり無垢な少女だとか、あるいはそもそもの舞台であるこの島の白い砂や青い海、そしてきわめつけは、この南の島に降るはずのない奇跡の雪だとか……。そうした様々な青臭い記号にいささかの戸惑いを覚える。あまりに、あまりに記号過ぎて。などと思ってしまうのは、やはり年をとった証拠なのだろうか?この解放的なリゾートアイランドで閉じこもって小説を書く高橋は、自分のルポライターの仕事によって人を傷つけたことに苦しんでいる。この逃げてきた土地でなら、それと決別できるのではないかと思っていたのに……と。その懺悔のような述懐にも同様の戸惑いが隠せない。傷ついた自分を抱え、逃げるという行為には確かに自分にも覚えがあり、それに対する一種の自己嫌悪のような恥ずかしさなのかもしれない。加えて、逃げるという行為が、これほどナルシスティックなものだったのかと気づくことによってなのかもしれない。なんにせよ、この高橋の、そうした“傷ついた過去”が、この青い空と青い海の島で語られると、まるで空想のようで、現実感がない。彼の、元の世界が想像できないのだ。

そもそも、この高橋という人物自体にも夢のような部分があるのかもしれない。夢の世界に行ってしまうための人物。いなくなっても誰も気にしない人物。彼がメールで送ろうとするデータは拒否され、郵便局で送るけれど、届いたかどうかすらわからない。二度目に郵便局を訪れると、閉まっている。外界から閉ざされた島に、彼がどこから来て降り立ったのかすら、アイマイに感じてくる。彼はメールを受け取ることは出来るけれども、メールというのもアイマイな感じで、電波を通じて届いてくるというそれには、何だか現実感がない。筆跡も、触感も、何もないから。それに彼の側からはメールが送りかえせないのだ。まるで運命を神様から一方的に言い渡されているみたいに。

高橋は赤のワインをボトルごと口飲みしながら時を過ごす。原稿を入力している時ですら。人との接触を拒否して過ごしている。しかし彼が書いている小説内のタカハシは島の人たちとすぐ仲良くなり、少々の英単語と、しかしほとんど日本語でコミュニケーションをとり、フルーツに舌鼓を打って、釣りも楽しむ。ちょっと調子が良すぎるぐらいの、明るい男。高橋がタカハシをいささか小馬鹿にしている様な部分が見てとれる。しかしそんなタカハシに高橋はだんだんと侵食されてくる。書いた覚えのない文章が画面に現れる。そんな中、レストランでヒッピーくずれのイギリス人に出会う高橋。彼の言葉に従って訪れたローレルアイランドは、おかしな彫刻がそこここに立っている、奇妙な島。そこで高橋は空飛ぶマンタに遭遇する。目を見張る彼。

空飛ぶマンタ、というのは、高橋が小説内でそれを見ると願い事が叶う、と島の人によってタカハシに聞かせている。このおとぎ話めいたモチーフにもちょっと身悶えする気分を感じる、だなんて、とことん私は俗世間に汚されてしまっているらしい。海の中をゆうゆうと“飛んで行く”マンタも、違和感のない特撮で空を飛んでいるマンタも、確かに美しいのだけれど、その美しさを信じるだけの純真ささえ、失ってしまったのだろうか。空飛ぶマンタを見ると夢が叶うと教えてくれるのは、タカハシが仲良くなった島の父子。タカハシが彼らのコテージに越してくると、その壁にかけられた絵の裏から、宝物を記したような地図が出てくる。そこでも私は同様の身悶え気分を味わう。といってもそれが指し示していた場所は、レストランで、高橋が出会ったヒッピーくずれにタカハシもそこで出会うことになる。このあたりから、高橋とタカハシの境界線が揺らいでくる。

この映画の冒頭に、聖書の一文が示されている。高橋が出会う島の娼婦、マリアによって、それが再現される。彼が割ったワインのボトルの破片で、足の甲に傷を作ってしまう。それを彼女はワインで消毒して、ひざまづき、傷口にくちづける。そのシーンも妙に記号的な暗示に思えてしまう。娼婦である彼女の名前がマリアで、娼婦は傷つききっているゆえに、逆にどこか無垢な魂を持っていて、島の海岸にポツリと立っているマリア像に重なることに対しても。そしてそのマリアと同じ顔をした少女が、タカハシに妖精を呼んであげる、と舞い踊るのも。もっと言ってしまうと、島の守り神であるという甲虫が意味深に登場するのも、美しい蝶をカメラで追いかけて行ったらこの少女が踊っている姿がフレームインしてくるのも……なぜこんなにも、こうしたおまじないにかからなくなってしまったんだろう、こうした気分に酔えなくなってしまったのだろう?

映画はマジック。いわばそのマジックにかかってナンボの世界。この映画に関しては、そのマジックのタネが見えてしまっているような気がしてならない。それはこうした記号があらかじめ材料として並べられている光景。それをどこにどう配置して、このおとぎ話を作り上げようか、と考えているような場面が頭に浮かんでしまうのだ。ちょうど高橋がこの小説を彼の頭の中で構成しながら書き進めているかのように。……高橋の小説執筆の場面によって進んでいくから、そんな風に思ってしまうのだろうか?あるいは、高橋とタカハシがあからさまに対照的で、絵に描いたように対照的で。それがあまりにも計算的に思えるせいもあるかもしれない。高橋はタカハシを馬鹿にしつつ、憧れている。それを示すためには、これだけ対照的な記号が必要なのだろうが、高橋がタカハシになるだけの説得力がないのも事実で、高橋とタカハシを結ぶ世界にそうした記号の共通点があるから、彼らが入れ替わるのも何となく納得できるものの、記号によるそれでは、やはり気持ちが入っていかないのも事実で。

小説のあちらがわに入ってしまった高橋は、逃げることに完全に成功してしまった、のだろうか。そう考えると、何だかやるせない。しかしラストで高橋とタカハシはどちらがどちらともつかない融合した共通の世界を体験する。そこにはマリア=少女がいて、雪の中を舞い踊る。彼女がタカハシの方と約束した、妖精を見せてあげる、という意味が、彼女自身だったという含みに、またしてもちょっとした身ぶるいを感じる自分にヤダナーと思いつつ……。高橋とタカハシはここで一体になり、逃げていた高橋は幻想に消えることなく現実に生きていけるのだろうという、予感。しかし南の国に降らせる雪とは……!確かにこういう光景を夢想しなくもないのだけれど、なぜこうも気持ちが入って行ってくれないのだろう。その日がイーキノックスデーと呼ばれる世界を結ぶ日、日本で言う秋分の日である、という設定とともに、ここでもひどく記号的な気がするせいだろうか。

娼婦であるという設定の奥菜恵には、今までのイメージと違って新鮮な驚きがあった。カタコトの日本語で、英語もちょっとおぼつかないような無教養の娼婦マリアに、割と違和感なくハマっている。ケバめのメイクと細い肩を常に露出させている衣装のせいか、妖艶な雰囲気も漂う。その大きな猫目が、挑発的に光り、吸い込まれるような感覚を味合わせる。一方の無垢な少女の方が今までの彼女のイメージの延長線上なのであろうが、この娼婦役の方が似合っているというのが意外。ゴールドのマニキュアに、縛られた跡のある白くて細い腕もなまめかしい。頼りなげなほどに細いのに、したたかなほどの美しさ。

東儀さんはセリフを言った途端幻滅。存在感と雰囲気はイイ人なのだけれどね……まあ、セリフが臭かったっていうのもある、んだけど。原田君は原田芳雄の息子とは驚いた。似てる?似てない?どうだろう……。全身コレ俳優の原田芳雄に息子、というので既にピンとこないけど……カリスマオーラが全身を覆っている父親とは全く感じの違う、何だかとても朗らかな人、というのは役柄のせいだろうか?

ヒーリングムービーと割り切って気楽に見ればよかったのかもしれないけど……でももともと私、南国とか海外とか旅とか、っていう体質じゃないからなあ。日本、北国、閉じこもり好き、の人間にはちょっと効かなかった。★★☆☆☆


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