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「め」


2001年鑑賞作品

メトロポリス
2001年 107分 日本 カラー
監督:りんたろう 脚本:大友克洋
撮影: 音楽:本田俊之
声の出演:井元由香 小林圭 岡田浩暉 若本規夫 古川登志夫 千葉繁 江原正士 青野武 井上倫宏 富田耕生 石田太郎


2001/6/3/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
なんだかとても不思議だった。空想科学の、昔夢見ていた近未来がそこにあったから。近未来の造形のはずなのに、とてつもなく、胸をかきむしられるほどに懐かしい。手塚治虫原作の作品は最近も引きを切らないけれど、こんなふうに本当に手塚キャラがそこにいると実感させる作品はなかった。まるっこくてすばしっこく動き回る、ヒゲオヤジ=伴淳作や、ケン一やロックなどの、手塚レギュラーなキャラクターたち。本当に手塚ワールドで、でもしっかりこの現代の世に送り出すためのアレンジメントはなされている。だれもが夢見た近未来の社会は、カラフルで巨大で、しかし幾層にも分かれている差別的な社会で、それは現代におけるそれを明確に形として、居住区の格差として表現している。人間が生命を作り出すことに対する倫理観の問題など、まさしくいわれている通り、ようやく世の中が手塚治虫に追いついたのだ。

手塚治虫を原点として、数あるロボット漫画やあるいはSF小説でも、例えば私が知っているだけでも清水玲子や新井素子において、そうした“人造生命体であるロボット”が持つ感情や愛情、あるいはそうした、つくりだされたロボットに死という概念はあるのかということが語られてきた。簡単に命を作り出すことができるならば、その逆もある。人間が命をつくり出す危険性は、命の存在意義を希薄にしてしまう事なのかもしれない。もちろんつくり出された生命体、そしてロボットにも、その技術が高度になればなるほど、本当の意味での感情も生まれてしまうだろう。大挙してつくられればつくられるほど、しかしそれに反比例して生命の存在意義はどんどん薄れてしまう。そんな気がする。直接関係はないけれど、昨今簡単に人の命を奪ってしまう事件が多発しているのも、人間がふえればふえるほどに希薄になっていく命の存在という感覚があるような気がする。

自分を拾ってくれた、本当の父親ではないレッド公に対する妄信的な愛情で、あるいは愛憎で、暴走するロック。手塚作品にはおなじみのキャラではあるけれど、「メトロポリス」の原作には登場しないと聞いて、ええッ!この作品で、ロックがいなくて、成り立つの??と思ったら原作を読みたくなって、読んだ。驚く。原作のなんとドライなこと。手塚作品の中でも初期の、あのころの漫画のテンポのせいでもあるのだが、原作でのミッチィ(映画におけるティマ)はケン一と友達にはなるけれども、人間に対する復讐心からろくろく彼と心を交わすこともなくあっさりと彼に牙をむけ、それは映画におけるティマのように、なかば操られた形ではなく、本当にはっきりとした意志でケン一と一騎打ちになってしまうのである。それはまさしく人間と、人間がつくりだしてしまった生命体との、いわば親子の対決とも呼べる悲惨なものである。ミッチィが生まれたのは、太陽の黒点の異常発生、しかしそれも人間の手による操作だった。その異常が正されたとき、ミッチィは炎をあげ、見るべき形もなくなって、死んでゆく。その結末はあまりといえばあまりに悲惨で、そのせいなのか、映画ではより希望を持たせる形にしており、親子の愛憎は新しく加えられたロックに託されているのだ。本当の親がいないために、逆に親=血に執着するという点で、ロックはティマに余りにも似ている。そして、本当の親ではないためにあっさりと見捨てられる点も、ロボット、引いてはティマと余りにも似ている。

結末、ラストシーンについてはどこかアイマイで、私にはよくわからなかったのだけれど、うーん、私は、何か、あのフィフィにティマの魂が宿されていたようにも思ったのだが、そういう訳では、ないのか。ケン一に手渡されたあの機械の一部分は、ティマの心臓?ケン一が流す涙と、最後のセピア色の写真、ケン一とティマの名前を冠したお店を写したそれは……。ロボットだから、簡単に死んだりはしない、技術さえあれば再生できるという点において、その昔の清水玲子作品でもその是非が取りざたされていたものだが、どうなのだろうか。ケン一はティマを本当の意味で取り戻したのか?でも、そうだとしてもケン一が先に年をとり、またティマは置いていかれるのに?

ケン一役に若きジャズシンガーのホープ、小林桂をキャスティングしたシブい意外さにワクワクした。色鮮やかな人工都市の、しかし不思議にあたかかな世界、実に絶妙にフィットするデキシーランドジャズ。ティマの白い体と揺れる金髪が美しく、まさしく日本のアニメーション技術の高さをいかんなく発揮した、完成度の高い作品。★★★★☆


メメントMEMENTO
2000年 113分 アメリカ カラー(一部白黒)
監督:クリストファー・ノーラン 脚本:クリストファー・ノーラン
撮影:ウォリー・フィスター 音楽:デイヴィッド・ジュルヤン
出演:ガイ・ピアース/キャリー・アン・モス/ジョー・パントリアーノ/マーク・ブーン・ジュニア/ラス・フェガ/ジョージャ・フォックス/スティーブン・トボロウスキー/ハリエット・サンソム・ハリス/トーマス・レノン/カルム・キース・レニー/キンバリー・キャンベル/マリアンヌ・メラリー/ラリー・ホールデン

2001/12/11/火 劇場(渋谷シネクイント)
今まで観たことのない映画だとか、そういう惹句はさすがにもう聞き飽きているのでそれで期待するようなことはなかったんだけど、実際に観てみたら、確かにそうかも……と思わせるだけの斬新さがあった。いわゆるサスペンスもの、ミステリもの、推理もの、であるのだけれど、事件を解明するために時間軸がどんどん巻き戻っていくのだ。つまり、映画の時間は進行しているのに、劇中の時間は一度も前に進むことがない。ひたすら過去に巻き戻って行く。時間は常に前に向かって進行している、と当然の生理で思っている当方にとっては、なんとも言いがたい妙な居心地の悪さと、それがイコール脳裏どころか体全体に刻み付けられる印象となるに至る。

正直、ニブい私はこのミステリの謎解きや、様々にちりばめられた伏線をどの程度理解できたのかは怪しいところだ。まあ、だからリピーターが多いんだろうし、私ばかりじゃないもん、と思わず自分をなぐさめたりして……。オフィシャルサイトのBBSもネタバレを前提としていて、盛んに細かい部分までの謎解きが展開されているのだが、それを読んだら私の頭の中は更にグルグル状態。まあ、一番単純なところで、主人公は自分で自分を欺いたわけであり、それがシンプルな謎解き、なのだけれど。

この主人公、レナードは前向性健忘症という極めて珍しい病気。発病時以前の記憶はあるが、それ以降の新しい記憶を蓄積することが出来ない。この病気は確かに聞いたことがある。ドキュメンタリーかなんかを聞いたか見たかしたのか……。なんにせよ、本人はもとより、周囲が大変な病気だな、と思った記憶がある。あるいは、昔聞いたラジオドラマで、記憶が3日しか持たない安手のアンドロイドは愛をはぐくむことが出来るのか、というストーリーのものもあり、常に自分の中に少しずつ残っている愛の感情を引き寄せているという展開に、切なくロマンティックなものを感じたものだ。しかし本作のレナードはその記憶がなんと10分しか持たない。したがって先述した映画の展開も、10分刻みでさかのぼることになる。それも返し縫いのように少しずつ少しずつ重なるところを残しながらさかのぼって行く。このジリジリとした感覚!

レナードはこの記憶障害を何とか補おうと、大切なことを全身のタトゥーやメモやノートで詳細に残して行く。10分後、あるいは目覚めた時、それまでに明らかになった、しかし自分が忘れてしまった事実を再確認するためだ。当然、それらが間違っていたり、ウソだったりすれば、何の役にも立たないどころか、ひたすら見当違いの方向へ進むことになる。レナードは自分のことだけ信じようと、他人のアドバイスには耳を貸さずに、自分が本当に正確だと思ったことを書き残して行く。と、いう自分の信念が、過去の自分によって自身を欺かせることになるのだ。

レナードは、妻をレイプし殺した犯人を探している。警察は自分のような記憶障害の人間の言うことを聞いてくれないので、発症前の記憶を手がかりに、自分の力だけで探し、復讐を遂げようというのだ。そんな彼の周りには協力者だか敵だか判らない人間が有象無象と現れる。物語の冒頭、つまり最新の時間でレナードによって殺された男が全編、レナードにつきまとう。殺されたんだから、彼こそが犯人なのかと思いながら、ジリジリと解明されるのを待ち続ける観客の前に提示されるのは、真実を許容できないレナードによって犯人に仕立て上げられたという結末。レイプ事件も、レナードと同じ症状を持っていたサミーという男の話も、どんどん真実味を失って行く。最終的にどこまでが真実なのか私には判らなかった……。

それにしても、発症してしまったら、自分がそういう病気だということすら、教えられても忘れてしまって判らなくなってしまうのではないか?という疑問がずっと私の中には残ってしまっていて。だって、こういう病気、だと告げられてから病気になるわけじゃないんだから。それこそそれを忘れてしまうたびに、あなたはこういう病気なのよ、と教えなければならないんじゃないのかとか。10分前のことを忘れてしまう、ということすら忘れてしまう、んじゃないのと……(ややこしいな)。それが示されているのがサミーのエピソードなんじゃないのかなあ。それとも、劇中のレナードが言うように、記憶は忘れてもその感覚は積み重ねられ、自分がそういう症状の持ち主だということは感覚として残って行く、のだろうか。何か、そんなことを考え出すと止まらないよー!

「L.A.コンフィデンシャル」ですっかり魅せられたガイ・ピアース。あれ、こんな髪の色だったっけ?この人って、すっきりとしたハンサム、だと思ってたんだけど、割と歯が大きく見える時があって、時々サル顔!?「マトリックス」で大いに名を売ったキャリー=アン・モスは、本作でのミステリアスな女の方がいい感じ。レナードの記憶障害を利用して、彼が記憶をこぼしたあたりを見はからって、それまでとはうって変わった態度やウソを平然と言うさまには、観客であるこちらがボーゼンとするほどスリリング。そうしたしたたかさが解明されるまでは、どこか陰のある部分が非常に引き立ち、ファムファタルの雰囲気さえ感じさせる。つまりは彼女を信じることによってレナードはわだちを踏み外して行くのであり、女によって軌道がずれて行く、というのは王道な展開ではあるけれど、効いている。

全てが解明されているはずの最新の時間軸でもそれを見せず、少しずつ、あるいは時々それた方向に観客を惑わせながら、一つ一つのネジをはめて行くように構成された脚本と、それを見事に再現したカッティング。観客がそれまでの伏線を頭に入れていることを信頼しているからこそ出来るとも言え、昨今どうも観客がバカにされているような作品が多いアメリカ映画の中で、その部分もちょっと嬉しいんである。インディペンデント映画だけれど、本国でヒットしたというし、アカデミー賞の脚本賞ぐらいは取ってほしいところだが。★★★★☆


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