home!

「ま」


1999年鑑賞作品

マーサ・ミーツ・ボーイズMARTHA MEET FRANK,DANIEL&LAURENCE
1998年 88分 イギリス カラー
監督:ニック・ハム 脚本:ピーター・モーガン
撮影:デイヴィッド・ジョンソン 音楽:エド・シアーマー
出演:モニカ・ポッター/ジョセフ・ファインズ/ルーファス・シーウェル/トム・ホランダー/レイ・ウィンストン


1999/11/26/金 劇場(シネ・アミューズ)
なんというキュートな映画だろう!言ってしまえば“三人の男が別々の場所と時間で同じ一人の女の子に恋をする”(佐藤康恵ちゃんのコメントで「こんなことってあるんだ!」とあったが、あるわけないよ!ないから映画なんだよ)ただそれだけの話なんだけど、四人のキャラがそれぞれ立っているのと、たった三日間の話をジグゾーパズルのように構成に工夫して見せている点でワクワクさせるし、脇キャラもイイ。全編に流れるポップナンバーが絶妙。粋でシャレていて、映画ならではの心地よい夢を見せてくれる。

冒頭、その女の子マーサ(モニカ・ポッター)との出会いは一番最後に描かれる(出会う順序は二番目)ローレンス(ジョセフ・ファインズ)が精神分析医?に相談しているところから始まる。幼い頃から親友どうしの三人が同じ女の子を好きになってしまった、まさに友情か恋愛かの危機であるこの三日間を。最初に出会うのは若き青年実業家、音楽プロデューサーとして成功を収めているダニエル(トム・ホランダー)。“どんな女も寄ってくる”という彼だが、背が低い。誰もそのことに言及しないのだけれど、その訳はクライマックスで判るのだ。ま、とにかく、自分の富と名誉に過分に自覚的な彼の気取りまくった様子はかなり滑稽というより確信犯的なギャグさで、ナイナイの岡村氏のようである。アメリカ人であるマーサにロンドンでしか通じない彼のオーラが効くはずもない。

時間をちょっと飛ばして次に描かれる出会いは売れない役者フランク(ルーファス・シーウェル)。子役時代はスターだったことがプライドと劣等感の双方に働きかけている彼は、自信のなさからオーディションを自らふいにしてしまったことで公園でウィスキーを食らってふてている。そこに、やはりワインを瓶ごと口飲みして落ち込んでいるマーサと出会う。なぜマーサもまた落ち込んでいるのか。そして観光スポットではない、地元の人がくつろぐ公園にいるのかはローレンスとの挿話で明らかになる。とにかく、マーサとフランクはお互い“いかに自分が不幸か”論議で意気投合。一見上手く行きかけたように見えるも、フランクがあまりにも女性蔑視的な下品な言動をするので、たまらずマーサは逃げ出してしまう。まさしくスタコラと。

とはいうものの、私はこのフランクが一番気に入っているんだけど。というのも、彼のそうした言動は芯からの資質というよりは、その子役あがりという不運のバックグラウンドと、単純バカな部分とから出来上がっているから、むしろ愛しいのだ。自分の役者への情熱をまっすぐに放出することが出来れば、きっと彼はイイ男になれると思う。それに顔立ちも、今売れっ子でやたらといい男扱いされているローレンス役のジョセフ・ファインズより、男前だと思うけどなあ。無精ひげもセクシーで。ファインズ氏は目がより過ぎているのがどうしても気になるのは私だけ?

そしてようやく真打ち、ローレンスとマーサの出会いとあいなるわけで。冒頭の、ローレンスが精神分析医?、ペンダースンに相談している場面で、今マーサは自分の部屋のベッドにいて、彼が実はマーサと、フランクよりも前に出会っていたことが明かされる。ダニエルを空港に迎えに行ったローレンスが、予定よりも早く到着したダニエルとすれ違い、タクシーの手配に手間取っているマーサと遭遇。二人の出会いはより単純である。マーサの膨大な荷物を乗せたカートにローレンスが激突、マーサがローレンスを“彼だ!”と直感するというもの。他の二人の場合は男の方が積極的にアタックしていたのと対照的に、ここではマーサが「私って大胆」とつぶやくように、彼女が押せ押せムード。名前も判らないローレンスを空港の案内係に頼み込んで呼び出しをする場面がなんといっても好きだ!「一目会ったその瞬間に運命の人は彼!と判ったの」と同じ女性である感覚で判ってもらおうとするのに、女性係員はひたすら事務的でノリが悪い。そこに隣のふとっちょの男性係員が「自分はこう見えてもロマンチストなんです。彼の特徴は?」とマイクで呼び出しをしてくれるのだ。カッコイイぞ、男性係員!(名前ないと呼びにくいなー)いやー、恋人にするならこういう人がいいやねー。

かくして彼女とローレンスはダニエルが紹介してくれたホテルへと向かい(この時点でローレンスはダニエルと彼女が出会っていたことを知らない)、お互いにシンパシーを感じあう。ためらいながら唇を重ねようとするその時、ルームサービスでダニエルからの花束が……(まったく、この場にいないというのにタイミングの最悪な男だ!)。友情にあついローレンスはその場を去ってしまう。

と、いうわけで、フランクと出会った時のマーサが説明されるわけである。ローレンスが「好きなのはハイド・パークの、雨の中でのチェスの風景」と言ったことから、彼女は観光スポットではなく、あの公園にいたのであり、理想の人に去られて、自分を変えるための旅がたった24時間で終わってしまうことに愕然としてヤケ酒していた、とこういう訳だ。ここでフランクがローレンスに電話をかける。「今、ダニエルが出会ったマーサと一緒にいる」驚いたローレンスが彼らを追う。そしてフランクから逃げ出したマーサと再会。ここで輪がつながるわけだ。

三人が三人ともマーサに恋してしまうというのも、そしてその三人の男性が親友同士というのもかなり無理な設定のはずなのに、さらりとみせてしまう上手さ。彼女はまあ特にスペシャルな美人というわけではないんだけど、陽性の魅力と、特に唇に目が行くコケティッシュさで、異邦人ならではのチャーミングさで違和感がない。アメリカ女性と英国人男性との恋ということで、同時期公開でやはり英国映画のの「ノッティングヒルの恋人」が引き合いに出されていたけど、アメリカ人女性はヨーロッパの男性と性が合うようで、「勝手にしやがれ」の昔からよくある。「ノッティングヒル……」より前に、「フォー・ウェディング」もアメリカ人女性と英国人男性だったし。我の強い同士のアメリカ人男女より、女性の強さを柔らかく受け止めてくれるヨーロッパ人男性との恋の方がロマンチックコメディには似合っているのだな。何かと男性主導なアメリカ映画に対する裏返しなのかもしれない。確かにそうして描かれる英国人男性の弱気さはナサケない感じなのだけど、そのナサケなさを自覚している強さを持っているともいえるのだもの。弱さを知っている人間が真に強いということだ!

三人のつながりを知ったマーサが彼らがグルだったのかと疑い(そりゃそうだ)何も言ってくれないローレンスに業を煮やして立ち去ってしまう。緊張すると何も言えなくなるローレンスは自分の不甲斐なさに自己嫌悪し、マーサにならって人生を変える旅に出ることを決意する。一番安く行ける、見知らぬ土地へ。彼の剣幕に旅行社の人が選んでくれたのはなんと夜が20時間もあるアイスランドの首都レイキャビク!なるほど一人落ち込むには最適だあな。(この旅行社の男性、ナイスチョイス!)そんな彼をこっそり影からのぞいていたマーサ、彼女がダニエルから使われた“10万人目のお客様にファーストクラスのサービス”を仕掛け(ダニエルならともかく、2035ドルしかなかった彼女のどこにそんなお金が!?)めでたくローレンスと再会、大ハッピーエンド。飛行機内、しかもファーストクラスを上手く使ったニコニコのハッピーエンド、しかもロマコメはやはり大好きだった「ウェディング・シンガー」を思い出させて秀逸。★★★★☆


マイ・スウィート・シェフィールドAMONG GIANTS
1998年 92分 イギリス カラー
監督:サム・ミラー 脚本:サイモン・ボーフォイ
撮影:ウィトルド・ストック 音楽:ティム・アタック
出演:ピート・ポスルスウェイト/レイチェル・グリフィス/ジェームズ・ソーントン

1999/2/9/火 劇場(シネ・ラ・セット)
観ようかどうしようか正直ためらっていたのだけど、観て本当によかった。あまりに切ない幕切れにかなり呆然としつつ、ま、それは後述するとして……。誰が言っていたんだか、“イギリス版「鉄塔武蔵野線」”とはよくぞ言った!確かに鉄塔を順繰りにめぐりながら、その間にさまざまな出来事によって成長していく、向こうは子供、こちらは大人を描いている。鉄塔というのは実は非常に映画的なのだな!“順繰りに鉄塔をめぐる”ことでロードムービーを象徴することも出来れば、一つ一つが根を下ろしていることで、その土地に対する愛着を演出することも出来る。加えてその巨大さ、高さ、造形のアーティスティックさにおいて、素晴らしく画面に映える。特に本作は「鉄塔武蔵野線」が子供の目線から見上げることしか出来なかったのに対して、電気を切ったその鉄塔に登ってペンキ塗り作業を行うという設定から、そのとんでもない高さからのこれまたとんでもない絶景を眺めることが出来る。

造形のアーティスティックさ……そう、鉄塔がこれほど、まるでコンテンポラリーアートのような不可思議な美しさを持っているとは気付かなかった。まるで「吸血鬼ノスフェラトゥ」のひしゃげた指のような細い鉄骨が縦横無尽に網目のごとくはりめぐらされているとでもいった、ちょっと影絵のような切り絵のようなたたずまい。

そして、まあ、驚いたの何の、あのピート・ポスルスウェイトがカッコいいのである。「ブラス!」の時には到底気づき得なかった、その締まった体!いやあ、「ブラス!」では脱がなくてよかったよ。だって、若手のユアン・マクレガーの立場ないもんね、あんな体見せられちゃあ……。しかも細身の色あせて“いない”ジーンズがまた似合うこと!(色あせていないってとこが良いのよ、なんていうか、どこかに英国紳士のきちんとした風情が残っているというか、流行りもんに迎合していないというか)だから観る前は、彼みたいな頑固おやじ(というイメージだった……ここでもそうだけど)が若い娘と恋におちるなんてどうかなと思ったんだけど、このメンツの中じゃ、レイに扮するポスルスウェイトが圧倒的にカッコいい。

最初、一瞬だけレイはその放浪ロッククライマー娘、ジェリーを弟分(というより息子みたい)の相棒スティーヴにあてがおうとするのだけど、自分が最初から彼女に惹かれていることもあって彼女との恋に没頭する。それにスティーヴは酒場の女を遊びで口説くくらいが関の山で、女性と真剣に関係を持つにはどうも乳くさいのだ。傍目から見て、ジェリーに心惹かれる様子もなくもないんだけど、それよりもスティーヴはなんたってレイが好きだから、彼がジェリーに取られる方が我慢がならないのだ。

レイとジェリーが全裸で水浴びをするシーン(あそこは何だろう……大きな洞窟のようなところに水が降り注いでいる)や、貯水タンクのある屋上での絶景の中でのキスシーンなど“愛の賛歌”とでも言いたい全開のラブシーンで圧倒的。ジェリーは旅をせずにはいられない人だし、そういう意味でレイとの結婚は破綻するかな、とは思っていたけれど、その破綻のきっかけをぶちかますのが他ならぬレイの元女房で、彼女もレイをいまだ愛しているのかもしれないけど、本当にむかっ腹が立つ女なのだ、もう!ジェリーがレイとけんかし、街を出ていく決心をして、これまたレイとの決別を決めたスティーヴのもとに現れ、レイとの記憶を消そうとするかのごとくスティーヴに乗りかかるシーンは、もうほんと、「鳩の翼」といい、「アイ・ウォント・ユー」といい、最近のイギリス映画は痛ましいセックスシーンばかり!と思ってしまうが、ここでもそう。スティーヴがジェリーの気持ちを察して「無理するなよ」と言う台詞も痛ましい気持ちをさらに増幅させる。ジェリーはスティーヴが多少なりとも自分に好意を寄せていたのを知っていたし、そして何よりレイへの気持ちという共通項で結ばれている、ちょっと微妙な連帯感なのだ。

ジェリーとレイの恋の行方をあたたかく見守る仲間たちがいい。彼らもまた、二人の恋の破綻をどこかで予期していた気もする。ジェリーとふわりと抱き合って、彼女の恋を祝福する黒人男性の微妙な心理、結婚を祝福して一つの鉄塔を夜を徹してピンクに塗り上げる仲間たち、そして、二人のことのみならずスティーヴのことをレイ同様に可愛がって、彼が街を出て行くと知って、からかいながらもどうしようもなく涙を落とす男性など(彼すごく見たことある……ひょっとして「ヒア・マイ・ソング」の主人公の友人役の人では?)すごく心があったかくなる。

ああそして、ラストなのである。岩場から落ちたジェリーの怪我の知らせを泣きながらレイに報告するスティーヴ「彼女はあんたをほんとに愛してるんだ!」……泣ける。そして怪我をしたジェリーを見舞うレイ。私は二人がなんとか元どおりになるのを祈ったのだけど、彼のすべてを飲み込んだたたずまいで、もうだめなんだ、と瞬時に判ってしまう。ジェリーが街を出て行くためにヒッチハイクをしている。ここでも私は、ジェリーを拾うのがレイであってくれたら、と願うが、かなわない。

そして鉄塔の側でキャンプしているスティーヴのところへレイがやってくる。ジェリー同様、彼もレイのもとを去って、旅に出てしまう。それを引きでとらえるラストシーンが素晴らしい!それまでも鉄塔のてっぺんからの展望とか、鉄塔を順繰りに航空撮影するシーンとか、ほんと絶景なのだけど(シネ・ラ・セットのスクリーンじゃちょっと小さいんだよなあ……もうちょっと大きなスクリーンで観たかった)、ここではスティーヴとレイをやや俯瞰でとらえると、画面の奥には茂み、そのまた奥、画面の端に穏やかな沼がとらえられる。この絶景に取り残された、本当に一人になってしまうレイ、そのラストに私は本当に胸が詰まってしまった。本当に、本当に一人になってしまった!★★★★☆


マイ・ネーム・イズ・ジョーMY NAME IS JOE
1998年 104分 イギリス カラー
監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:バリー・エイクロイド 音楽:ジョージ・フェントン
出演:ピーター・ミュラン/ルイーズ・グッドール/ゲイリー・ルイス/デイヴィッド・マッケイ/アン・マリー・ケネディ/スコット・ハンナ/デイヴィッド・ヘイマン/ロレイン・マッキントッシュ/デイヴィッド・ハウ

1999/7/22/木 劇場(銀座シネ・ラ・セット)
いつだって結末が救いようのないケン・ローチである。ハッピーエンドになったことなんか一度もないのだ。それでも彼の映画はなぜか観に行ってしまう。観終わって、どうしようもない気分になるのは判っているのに、行ってしまう。……なぜだろう。

今回もまた、主人公は失業している。ケン・ローチの作品にかかわらず、現在のイギリス映画の主人公は大抵失業しているんだけど。しかも今回の主人公ジョー(ピーター・ミュラン)はさらにアルコール依存症という重荷まで背負っている。今は断酒に成功し、街のみんなから好かれるヘボサッカーチームの陽気な監督さん。このサッカーチームというのもイギリス映画には折々出てくる。いかにも地域に自然に根づいているという感じが好ましく、そこでプレイに興じるチームのみんなの悪ガキっぽさがたまらなくいとおしい。そしてそれだけに、彼らに実際に突きつけられている現実が痛い。

そのサッカーチームの一員で彼の甥でもあるリアムの元に来た福祉局の職員、セーラ(ルイーズ・グッドール)と出会うジョー。セーラの部屋の壁紙貼りを請け負ったジョーは彼女と自然と親しくなっていく。セーラはとても感じがいいし、就いている仕事からも判るように、世の中の理不尽に強い反発と正義感を持っている。でも、だからこそ、ジョーと出会ったその瞬間から、彼女がジョーとは違う世界に住む人間だと、観客は無意識的にも意識せざるをえない。ジョーとセーラが一緒にいるシーンの、ロマンティックな色合いは、そう、ロマンティックすぎるのだ。ケン・ローチでこのまま行くわけはない、という危惧を感じさせるのに充分なほど。そしてそれはやはり的中してしまう。

その途中にも幾度か予感はある。ジョーがセーラを誘うのに金がないことで悩んでいるのを見兼ねた友人がなけなしの金を提供してくれたり、そのデートで遅くなったジョーにセーラがタクシー代を貸そうとしたり。お金のことばかりではなく、もっと決定的な……セーラがジョーの求婚(までは行ってなかったけど、指輪を渡そうとしたんだから、そうであろう)を一度、はっきりした理由もなく拒んでしまうシーンにより顕著である。観ているこっちはジョーが断酒中のアルカホリックであることを知っているから、彼がいつこうしたことにショックを受けて酒をあおりだすかハラハラして観ているのだけれど、彼は静かに音楽を聴き、酒に手を出すことはない。まだ。そう、こんなことはまだまだ序の口なのである。

リアムの妻が一度やめていたドラッグに再び手を出し、街のヤクザから膨大な金を借りてしまう。その借金を返せないリアムは妻を売春婦にするか、自分の両足を折るか、と脅される。その場にいて、黙っていられなかったジョーがヤクザのボスにくってかかり、自分が麻薬の運び屋の仕事を二度引き受けることでチャラにするという取り引きをする。はっきり“麻薬の運び屋”とは言わないものの、「北に二度車を運ぶ」というそれだけで充分に判ってしまう。ジョーは黙ってその一度目の仕事を引き受ける。そして二度目の前にセーラにそのことがバレてしまう。

その仕事を引き受けたジョーを非難する彼女の言い分は判る。福祉局で、麻薬で脳を侵された赤ちゃんをたくさん見てきた、と言う彼女の体験もまた悲痛なものだろう。でも、でも彼女はそれを“見てきた”だけなのだ。実際に苦しんだわけではない。いやもちろん、そうした現実を改善しなければならないと理想に燃えている彼女の気持ちは良く判る。でも……そう彼女はやはり“違う世界に住んでいる人間”なのだ。ジョーが彼女にそう言う場面の悲痛さ……満足な教育を受けてもいなければ、生まれて、住んでいるところもスラム街。そこで生活している自分に選択条件などないのだと。それを選ぶしかない、それしかリアムを救う方法はない、他にどうすればいいのだ、と。

でも、ジョーのその言い分もまた、やはり間違っていたのだ。そこでの選択は確かにそれしかなかったかもしれないけれど、そこに至るまで、ジョーは優しすぎたのだ。勿論、だからこそジョーなのであり、彼が魅力的なのはそのせいなのだけど。皮肉にも彼自身がそのことに気づくのは、もうのっぴきならない事態になってからである。セーラを失いたくなくて、そしてかの友人が言うように、この事がヤクザ仕事にはまっていくキッカケになることも(それはうすうす最初から気づいていただろうけど、気づかないフリをしていたのだろうと思う)自覚して、二度目の仕事を断ることを決意、ボスに伝え、ついでに酒場で大暴れしてしまうジョー。ほうほうの体で自分の部屋に帰った彼は途中で買ってきた見るからに強そうな酒をしたたかあおる。……ああ、とうとう……もう最悪の事態にまで落ちきるしかないことを容易に予測させる場面。

そこに、逃げろと言って金を渡したはずのリアムが駆け込んでくる。ヤクザが自分とジョーを追ってきた。行くところなどどこにもない、自分はどうしたらいいんだと、もう酩酊状態にあるジョーに泣きついてくる。……これなのだ、ジョーが優しすぎた結果が。そりゃ、リアムの家庭環境のひどさは見逃せないものだった。子供をかえりみず、ジャンキーになってしまう妻。そのことによる膨大な借金。リアムは気づくのが遅かったと、あっという間に妻は再びジャンキーになってしまったと涙ながらに語るのだが、だからといってジョーがその責任を肩代わりする理由はどこにもなかったのだ。この言い方が冷たいことは良く判るけれど、多分それ以前からの積み重ねで、リアムはジョーにいつだって助けられてきて、ジョーに泣きついた言葉で判るように、自分で解決する能力を失ってしまったのだ。酔った勢いにまかせてリアムに対する憤りというより、多分こんな彼にしてしまった自分に対する憤りを込めてリアムに罵声を浴びせるジョー。お前が憎い、殺してやりたいと低くつぶやくジョーが痛ましい。

そして、リアムは首をくくってしまう。ジョーの部屋から窓の外にロープを投げ出して宙づりになって。一瞬にして酔いが覚め、驚いてロープを必死に引き上げようとするジョーの悲痛な姿!しかし……これまた冷たい言い方だけど、これしか結末はなかったのだ。首をくくる前に覚悟を決めたリアムが、さっき言ったのは本気じゃないよね、と泣きながらジョーに問いかける姿が哀しすぎる。リアムもジョーもセーラも誰も悪くはない。でもだからといってこうなるしかなかった、なんてあんまりだ。だけど……。

ラストシーンはリアムの葬儀。一歩離れたところからセーラも参列している。葬儀が終わり、ジョーはリアムの妻と子供になぐさめの抱擁をかわす。人々は散会し、歩き出したジョーにそっと近づいていくセーラ。何も言わず、二人で並んで歩いていく後ろ姿でカットアウト、黒いラストクレジットが流れ出す。この二人がこれからどうなるか、……いや、もはやそんな事も気にならなくなってしまう。恋愛の甘さが、この現実の前でいかに弱々しいものかを痛感してしまったから。もちろんこの二人がそれを乗り越えていく可能性はあるけれど……。★★★★☆


枕の上の葉DAUN DI ATAS BANTAL
1998年 83分 インドネシア カラー
監督:ガリン・ヌグロホ 脚本:アルマントノ/ガリン・ヌグロホ
撮影:ヌルヒダヤット 音楽:ジャドゥク・フェリアント
出演:クリスティン・ハキム/スグン/ヘル/カンチル

1999/9/11/土 劇場(岩波ホール)
こういうタイプの映画に対してこういう事を言うのはちょっとはばかられるのだけど……うー、一言で言ってしまえば、ツマラナイ。funnyでないのはもちろん、interestingでもないと言ったらいいのかなあ。インドネシアのストリートチルドレンの悲惨な現状を描写した本作、確かに劇中に描かれている、実際のストリート・チルドレンの中から選び出した3人の子どもたちのたどる運命は悲惨だし、そのいずれもが実際にあった事件だというのだから、ますます考えさせられなきゃいけないんだけど、こちらにストレートに訴えてくる力がないのはどうしてなのか。

いっそのこと、ドキュメンタリーで撮った方が面白かったのでは……と思っていたら、もともとこの作品の原案的なドキュメンタリー作品があったらしい。事実は小説より奇なり、とはよく言ったもので、優れたドキュメンタリー作品は、それ自体根本にエンタテインメント性をそなえてるんだよね、不思議と。「住民が選択した町の福祉」とか「教えられなかった戦争・沖縄編」とか「まひるのほし」「A」などなど、扱うテーマの重い、軽いにかかわらず、みんな、そう。それこそ、interestingなものも、その中に必ずfunnyな部分を含んでいる。それは作られたものではなく、人間の愚かしさから出ていたり、また逆に人間の真摯さから出ていたり、とにかく真実をついているのだ。だから面白いし、惹きつけられる。本作はもちろんドキュメンタリーではないんだからそんなことを言ってもしかたないんだけど、でも、こういうテーマを語るという姿勢にばかり気をとられているのか、映画としての面白味に徹底的に欠けるのだ。ドキュメンタリーでさえそれがあるのに、という言い方もおかしいが、劇場にかける劇映画ならば、それは絶対に考えなければならないことでは?

うーん、でもそれも考えているのかなあ。確かにそれを意識したエピソードや場面はなくもない。ストリートチルドレンの子どもたちが母親のように慕っているアシー(クリスティン・ハキム)が他の男と親しくしているのを見て嫉妬した青年やそのストリートチルドレンの子どもたちが仕掛けるいたずらや、彼らがアシーにプレゼントしようとアクセサリーに彫る彼女の名前のスペルを必死に覚えている様子など……けど、今一つ面白くない、アシーの描写でも、観覧車につっかい棒をしてバーストさせたり、子供に暴力を働いた夫に口に含んだ唐辛子を吐き掛けたりと、もっと面白いはずなのに面白くないのは……なぜゆえ??やはり、シリアスに縛られすぎているのかなあ、こういう描写の時にも今一つはじけきれないというか……。

この3人の子どもたちは様々なことで次々に死んでしまうのだけど、最後、保険金詐欺にまきこまれて殺された少年が、身分証を持っていないことからどこも埋葬を引き受けてくれず、それをアシーがテレビカメラに向かって訴える場面は、感動するというよりは、思わず引いてしまった。なんだかいかにも“女優が演じている”って感じなんだもの。アシーのような市井の人が、あんなふうにカメラを向けられて、そんな都合よく涙を流しながらああもうまく訴えられるものだろうか?そんな見方は意地悪なのか?ああいう形で訴える場面を作るのは、ちょっとあざとい感じ。あれでは劇映画にしている意味がない。カメラに向かってひたすら訴えるテレビ番組でも作ればいいだけの話だ。

それにアシーがなぜそれほどまでに子どもたちに慕われているのかもよく判んないし。別に面倒見のいいおっかさんを期待していたわけじゃないけど、それにしたって、いつでも仏頂面して子どもたちの尻をひっぱたいているようなこの女性がなぜそれほどまでに?しかしこれがあの美しいはずのクリスティン・ハキムとは!スクリーンではほんとにただのオバサンなのに……女優とはコワイ!

この死んでしまったストリートチルドレンのうち一人の男の子が、交通量の激しい往来で横断できずにいるハイソな女の子の手を引いて、いつも一緒に渡ってあげている。彼が死んでしまったことで、彼女はいつまでもその往来に立ち尽くして彼があらわれるのを待っているのだけど、当然ながら彼は現れない。このエピソードだけは、なんとなく良かった。もうちょっと膨らませて欲しい、と思ったほど。★★☆☆☆


M/OTHER
1999年 147分 日本 カラー
監督:諏訪敦彦 脚本:(ダイアローグ)諏訪敦彦 三浦友和 渡辺真起子
撮影:猪本雅三 音楽:鈴木治行
出演:三浦友和 渡辺真起子 高橋隆大 梶原阿貴 石井育代 石井椋 しみず霧子 北見敏 稲木利勇 伏屋博雄 猪本康子 藤田雄己 猪本太久麿 豊島圭介 猪本健治 武田大和

1999/11/4/木 劇場(ユーロスペース)
どうしてこんなに、二度と観たくないと思うほどにつらい、心が痛い映画が、それでも心から好きだと、そして忘れられない映画になってしまうんだろう。脚本は一切なし、あるのは設定だけ。あとは監督と、そして(ほぼ二人の)出演者によって組み立てられていく。組み立てられる……いや違う、彼らはそこで生きているのだ。生きて、喋って、ぶつかり合って、傷ついてボロボロになってる。そう、確かに映画は作り物だ、フィクションだってことは判ってる。でも、やはりこの二人の感情のせめぎあいは本当のことだと思わずにはいられない。

諏訪監督の前作にしてデビュー作「2/デュオ」もまた“偶然”からシナリオなしでいくことになったのだという。手法は同じ。ともに暮らす、でも夫婦ではない男と女が傷つきあう設定も同じ。でも、「2/デュオ」ではその、映画を構築していく過程が、男=西島秀俊、女=柳愛里の、役から離れた本人の口から語られるという、映画のシナリオを作り出す監督と役者の半ドキュメンタリーのような側面があった。そこに“偶然”シナリオを捨て去ることになった、監督の手探りの状態が記録されていた。しかし本作にはそれはない。しかし前作よりもフィクション味どころかもっともっとノンフィクションのような凄みがあるのは、本当に、すべてが、“今、ここ”で起こっていることだから。

ストーリーを追うことは、この映画にとってなんら意味を持たないように思う。ストーリーがないというのではない。設定から導き出される、そして役者たちの感情によって動いていったストーリーラインは存在する。『自由に、束縛を持たずに一緒に暮らす男と女。男の前妻が入院してしまったことによって男の子供を一時的に預かることになる。そのことによってだんだんと崩れていく二人の関係、そして……』陳腐にすら聞こえてしまうこんな話、ちまたにはごまんとあるではないか、もっと壮絶な話がいくらでもあるではないか。しかしこの映画は壮絶きわまりないのだ。胸が本当にぎゅうっと痛くなってしまう。それは、話の筋ではなく、そこに本当に人の心の変化が見えてしまうから。自分でも気づかない、我慢している女の、一人になることを極度に恐れる男の。

たとえばこれを、生活能力のない、女に家事も育児もまかせっきりの男に見切りをつける女の話として解釈する女性ライターもいた。なるほど、とも思う。でも、そうだろうか、そんなことで割り切れる話なのだろうか?確かにアキさん(渡辺真起子)は、哲郎(三浦友和)の子供、俊介(高橋隆大)が来たことによっておしよせる雑事に今までのように仕事が出来なくなって、ついには爆発してしまう「少しは手伝ってよ、これじゃ仕事にならないじゃない!どうして私があなたの子供の世話をしなけりゃならないの!」それも俊介の目の前で。でもアキさんが変化していったのは、ある夜、俊介との会話からだったように思う。「ねえ、お父さんとラブラブ?」「え?お父さんと?ラブラブだよ、どうして?」「心配だから」「お父さんとラブラブかどうか?大丈夫だよ」「だって、お父さんと結婚したら、お母さん、可哀想でしょ」「……」哲郎の前妻で、俊介の母である女はわずかに電話の声だけで、一切画面に現れることはない。でもこの時から、いや、それ以前からずっとずっと、この女性の存在が大きく占めていたのだ。

タイトルの「M/OTHER」。家庭教師か何かのテレビCMでMOTHER=母のMを取るとOTHER=他人になる、というのがあって、なるほどと思ったものだが、なるほどどころではない。ここでのアキさんはまさしくそのために自己崩壊の危機にさらされているのだ。俊介にとっての自分の存在の曖昧さが、哲郎にとってのそれ、もっと重要なことには自分自身にとってのそれにまで疑問が向けられていく。一体自分はなんなのか。何のためにここにいるのか。男のためか、子供のためか。妻でも母でもないのに?「あなた、私のことなんか知らないじゃない!」と泣き叫ぶアキさん自身もまた、自分のことが判らなくなっている恐怖にも似たものがあるのだろうと思う。最初からアキさんは、俊介によって自分の存在が曖昧になる事への恐れを抱いていたのではないか。アキさんの仕事場に哲郎から電話がかかってくる。「今日、鉄板焼きをしようと思うんだけど……」アキさんは別に適当に切り上げて帰れるのに俊介と一緒の食卓につきたくないためか、仕事が忙しいからと断るのだ。そう、最初はそんなささいなことだったのだけど……。

アキさんが戯れのように、哲郎に対して結婚しようか、と言うのも、自分の属するところが欲しかったからなのだろうか。しかし、せっぱ詰まってきたアキさんに、哲郎が「結婚しよう。そうすれば上手く行くような気がする」と言う時、もはやアキさんの方は、それが幻想にすぎないことをうすうす感じてきているのだ。彼女は言う。結婚してどうなるの、あなたが奥さんのところに戻ってみれば、と。

ああでも、やはりこんな風に筋を追ったり、分析めいたことが、この映画の前ではなんと無力に思えてしまうことか!アキさんが子供を持つ友達と談笑してたり、俊介と遊んでいる時に見せている笑顔の下に押し込められている感情。何度となく堂々巡りする会話と、耐え切れないほどの“間”に、ああ、会話ってこうだよなあ、と思う。その本当に息苦しくなるようなやりとり。アキさんが出て行こうとする。それを抱きしめ、逃げるアキさんを(部屋から部屋へ移動して対峙する二人を追うカメラのスリリングさ!)ついには力ずくで押し倒して押え込むような格好でとどめようとする哲郎「一人にするなよ」。先回りして謝ることによってアキさんを押しとどめる哲郎に、ずるさを感じていたのだけれど、彼の絶望的なほどの孤独に対する恐怖感がそうさせていたのだと思うとまたやりきれない。俊介役の高橋隆大も含めて、なんというリアルさ、そして残酷さ。普通に会話して、普通に生活していたはずがじりじりと軌道をはずれていく。それをゆっくり、ゆっくり映し出していく。こうして言葉でいくら言っても、その凄さはとても伝わらない!

そうだ、脚本、脚本と言うけれど、脚本にどれほどの意味があるのだろうと、こんな作品を観てしまうと思わずにはいられない。一人の人間の頭で考えられた脚本で、本当の人間の心が画面に現れるだろうかと。そして本作では、あまりカメラがよらない。それに自然光に近いような照明で、人物の表情も判然としないことが多い。それでも、いやだからこそ、全身から振り絞るような感情の洪水に驚かされてしまう。窓ガラスに顔が判らないほどにぼんやり映る、アキさんの心の疲弊に胸を衝かれてしまう。そしてそれを助長する、ひっかくようなバイオリンの音が静かに忍び寄り、穏やかに見えた生活風景に亀裂が入っていくのをおいうちをかけるように気づかせ、私たちを慄然とさせるのだ。

「2/デュオ」と同じように、最後はいったん出ていったアキさんが、再び哲郎の部屋でまどろんでいるところで終わる。しかし、それに対して明確な答えを出していないのも前作と同じ。彼女がこのままここにとどまるのか、あるいはやはり出ていってしまうのか。「これからも俊介と会ってやってくれるか」という哲郎に肯くことのなかったアキさんが、俊介からの「またアキさん、一緒に遊んでね」という電話に涙した。……私は甘いのだろうか、やはり彼女に哲郎と一緒にいて欲しいと思うのは。そして俊介にとっても哲郎にとってと同じように大切な存在になって欲しいと思うのは、アキさんにとって逆に残酷なことなのかもしれないのだけど。一人が結構幸せなことだってある、それだって判っているのだけど……でも……。★★★★★


マトリックスTHE MATRIX
1999年 136分 アメリカ カラー
監督:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー 脚本:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー
撮影:ビル・ポープ 音楽:ドン・デイビス
出演:キアヌ・リーヴス/ローレンス・フィッシュバーン/キャリー=アン・モス/ヒューゴ・ウィーヴィング/グローリア・フォスター/ジョー・パントリアーノ/マーカス・チョン/ジュリアン・アラハンガ/マット・ドーラン/ベリンダ・マクローリー/レイ・パーカー/ポール・ゴダード/ロバート・テイラー

1999/10/15/金 劇場(東劇)
「バウンド」でメチャ惚れしたウォシャウスキー兄弟監督が二作めで早くもメジャーブレイクしたのにちょっとびっくり。あの「バウンド」のノワール感はハリウッドメジャーからははみ出るものだと思っていたから……。でも確かに大仰な表現はおさえた、ノワールな感じは残しつつ、カルト的でありながら充分にエンタテインメントなメジャーである大作を送り出してきた。

香港アクションのワイヤーワークと、コンピューターグラフィックス、マシンガン撮影と呼ばれる膨大なカット数によって自在に操作できる実写版アニメーションの融合。それはどこでもさんざん言われているように日本のアニメーション(断じていうけど、ジャパニメーションというのは意味が違う!あれはきわめて初期の段階の、日本のアニメが珍しかった頃の何十年も前の名称でもう国際社会では使われていないのだから。自ら差別的表現を使ってどうする!)や聖書、神話、SF映画、SF小説などなどのさまざまな要素への監督二人のただならぬ興味が結実した世界。確かにこれは「観たことのない映像」の連続なのかもしれない。いや本当にそうか?確かに映画ではこんな映像観たことない。でも、もっと短い、そう、CMなんかではこういう驚異的な映像はよく見せられている気がするのだけど……そして、本作では頭からお尻までその映像のテンションで突っ走るわけではないので(それじゃお金かかってしょうがないよな)おおっと思わせる見せ場の映像から一呼吸おき、また見せ場の映像があって……という具合で、何かそれは、そうしたCM映像をところどころに観せられているような気がしないでもない。だからワクワク感がふと途切れてしまうのだ。それにそういった見せ場の映像は殆ど全部予告編で観せちゃっているものだから、あまり驚かない。

真っ白な世界の奥から膨大な銃器がズアーッと押し出されてきたり、ビルとビルの間を軽やかに飛び越えたり、恐ろしく高く飛びあがったり、壁を駆け上がったり、空中に一瞬停止してぐるりとカメラが回転したり……その一つ一つの映像は確かに息を飲むほどにスゴイし、加えて、美しい。白の世界に黒づくめの男二人と真っ黒の銃器、雨の降り注ぐ中、スローモーションの水飛沫を飛び散らせ、黒コートをひるがえしながら、マシンガンをぶっ放す男。でもアクションは香港映画を観なれている目にはちまたで絶賛されているほどには早くないし、近未来に黒づくめの衣装というのも、ああまたか、というのが正直なところ。……まあ確かにそれでスタイリッシュな美しさは出しやすいし、実際美しいからいいんだけど、サングラスまでかけられるとちょっとねえ……。

それにやっぱり、この作品、映像だけで語るしかないんだろうか?この映画が一つの分岐点となって、これからの映画が変わっていくのだろうとは思う、それくらいの衝撃度はあったけれども、そうだとしたら、これからどんどん本作を凌駕する映画が出てくるということでもあり、この映像が革命的だというのも、意味を失っていってしまうのではなかろうか。この映画には革新的な映像のほかに語るべきものがあるだろうか。前述したように、これはさまざまなエッセンスの集大成で、言葉を変えれば、これまで体験してきた“このような世界”をすべて足して同じ数で割ったような感じ。19××年と設定されて展開される、第三次世界大戦後などを舞台にした日本の数多くの近未来漫画にあまりにもよく似ているのだ。

それと、ジュージュツ特訓(「柔術」の言葉で出てきたのにはちょっと驚いた。思わずホンマタカシの「How to 柔術」を思い出してしまったが……)がそのまんまなように、ゲーム世界。今現在だと信じられている世界がバーチャルリアリティ……マトリックスによって作られた世界で、実は人間の放出するエネルギーを利用するために人間たちは培養されている。プラグにつながれて眠っているリアル世界と、マトリックス世界を行き来する。マトリックスの作り出した世界の方が混沌としていてリアルだという矛盾的な世界観や、白昼夢のような感覚はどこかで最近観た……ああそうだ、「オープン・ユア・アイズ」あれにそっくり。練られた脚本とか、複雑なストーリーとか言われるのは一体どこをもってそう言っているのか首を傾げてしまうのだけど……だから脚本はそれほど魅力があるとは思えない。予言者とか救世主とか、もう、まんまやん!と言いたくなってしまうし、神話世界からネーミングを持ってくるのも。ドラッグミュージックのごとき単調なドラムンベースとオペラを使った音楽も予想通り。

そういう意味では、評論家からも酷評されていたし、作品的にもあまりに子供の無邪気さといった感じだった(逆に私はそこが好ましいと思ったけれど)「フィフス・エレメント」は、明るい極彩色で構築するという、独創的で思い切った近未来を創造していたよなあ。確かにあれこそ、キャッチコピーそのままに“観たことのない未来”だった。本作は“観たことのない映像”ではあっても、“観たことのない未来”とは言い難い。観たことありあり、てな感じだ。

そして“愛が世界を救う”!おーい、なんなんだ、このオチは!キスで生き返るなんてそんなことやっちゃっていいわけ?作品世界を語るべきで、こうしたことは些細なことなのかもしれないのだけれど、うー、言わずにはいられない。あれだけは許せん!あー、結局女の役目はこんなもんなのよね。キャリー=アン・モスがどんなにしなやかで美しくアクションを決めたって、これだもん。大体「私が愛した男が救世主」だなんて、女の側からの一方的な思い込み的愛情だというのもツライ。……実を言うとさあ、私この、チームワークをやたら強調するのもあんまり好きでないのだわ。救世主なら孤高のヒーローであってほしい。女なんかに(と女の私が言うのも変だけど)救われるようではならない。二言めにはチームワークとか愛とか言いたがるところが、うーむ、やっぱりアメリカ的!?あっ、でも、例えば「クロウ」なんかはほんとにそういう孤高のヒーローだったではないか。あれは好きだった。あと、チョウ・ユンファもそういう役柄が多かったしなあ。

でもある意味、この女の愛のおかげというよりは、男=モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)の信念の強さが真実となった、と思うのだよ。この人のネオ(キアヌ・リーヴス。時々妙に唇が赤いのが気になる……)に対する思い込みって、どこか同性愛的なものも感じるし。“ずっと探し続けてきた”というセリフなんて、運命の恋人に対する言葉みたい。……要するに私、こういう世界に、あまり女を介在させて欲しくないと思っているのかも……。

ま、でも同じオタク世代でも、それと距離を置くことが出来なくて、やたらはしゃいで鼻につくタランティーノ監督などとは違って、それらを冷静に構築する能力を持っているウォシャウスキー兄弟監督、やはりただならぬ才能だとは思う。その彼らの次回作、次々回作はそれぞれ「マトリックス2」「マトリックス3」なのだという。……それはちょっと……。★★★☆☆


まひるのほし
1998年 93分 日本 カラー
監督:佐藤真 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:田島征三 大津幸四郎 音楽:(挿入歌)井上陽水
出演:舛次崇 西尾繁 伊藤喜彦 竹林幸恵

1999/1/30/土 劇場(シネヴィヴァン六本木)
この題材にシネヴィヴァンということで、もうぜーったい土曜日でもガラ空きだと思っていたのが、何だこの人は!という混雑ぶり。……うーん、この題材だからこそこんでいるのか……読めなかった。んで、いわゆる障害者の人とか、子供連れが多くて。特に一番前に座っていた男性の娘(?)が何十回となくうろちょろして、ほんとにしばきたおしてやろうかと思った。あのなーここは映画館なんだよ、自分の子供くらいしっかり手元に置いとけっ!と心の中で叫び、その女の子がどっかにけつまづいて泣き出した時は正直ざまーみろと心の中で思い、そんな事を思う自分に嫌悪感を持ち、さらにそんな嫌悪感を持たせた女の子にさらに……という堂々巡り。ほんとにたまに映画館に来るというのがはっきり判る客層の映画の時はいつも悩まされてしまう!

まっ、だからといって内容とは全然関係ない話で、これは、観に来てよかった。正直言って、ちょっとポエティックなタイトルに惹かれただけで観に来たようなもんだけど(しかもテアトル系だから株主券が安く出回ってるし)だから変なかまえもなしに観られた。それでも、障害者の人の独特の風貌……食欲を自制できないのか太っている人が多いあの体型と、特にダウン症の人の顔立ちに最初のうちちょっとひいてしまって、またしても自分の心の狭さへの嫌悪感との堂々巡りで、うー、とか思ったんだけど、それに、一番に出てきて主軸にすえられているシュウちゃんの絵が私の琴線にはあまり触れなかったものだから……でもシゲちゃんこと西尾繁さんの登場であっという間にそれが消し飛んだ!

とにかく女の子が好きで好きでたまらないシゲちゃん。彼がひっきりなしにミニスカートの女の子が好きとか、ロングブーツ、ショートブーツ、ブーツをはいた女の子、高校生、短大生、専門学校生、エトセトラエトセトラ……と機関銃のように喋りまくる様子はなんとも圧倒的。彼のアートもまた独特で、ものすごく几帳面な字で膨大な数のカードを書く。それも水着の種類……スクール水着、スポーツ水着、かたなし水着、シースル水着(シースルー、じゃないところがそこはかとなく可笑しい)と書いていき、今度は片瀬海岸、湘南海岸、……と(やたら海岸に詳しい!私は知らない海岸の名前、ずいぶんあった)書いていく。そのカードをならべ、真ん中に海岸で撮った自らのVTRを流すという現代アートは、何でか判らないけど、ものすごく人を惹きつける魅力を持っている。彼が施設の女性、さとえちゃんに書いたこれまためまいがするほど膨大な数の手紙(8時45分に電話をくださいという文章と、月日を書いたもの)をボードにならべて貼ったものも見ものだ。

彼はちょっと見たら別に障害者のような感じはしない。彼が喋る女の子が好きだという終わりない会話は、圧倒的に面白いし、ところどころ言葉を繰り返すのも、ただの癖のように思え、こういう人いるしなあ、などと思う(ちょっと流暢なウドちゃんみたい)。ほんのちょっと感情のコントロールが難しい、ただそれだけのように見える彼を見ていると、普通の人(という言い方もおかしいのだけど)との境って何だろう、そんなものあるんだろうか、という気になってくる。いやそれどころか、彼らのアート作品を見ていると、その普通の人たちの方がよほどの凡人じゃないか、と思えてくるのだ。そう、前にNHKで見た、障害者の男性もそうだった。彼は知的障害と、さらに全盲というハンデを背負っていながら、一度聴いた曲を完璧に弾きこなす才能を持ったまさしく天才ピアニストで、私は本当に驚愕した。譜面という概念もなく、彼のお母さんが「自分の息子の頭の中はどうなっているんだろう」と思うという(それは私だって思う!)才能。多少指が先走ってしまうきらいがあるけど、とにかく圧倒的な才能だった。そしてこの「まひるのほし」に出てくる障害者アーティストたち。特に私が感心したのは、乳房の写真に非常に興味を持って、女性の裸体を極端なデフォルメでイラストレーション方式で描く女性。強固な意志を持って塗りつぶされる鮮やかな原色。本当に、プロのイラストレーションかと見まごうばかりのポップな魅力。それがコラージュされたり、バンダナなどのグッズになったりすると、もうすっかり立派な“仕事”なのだもの……。

ほんと、こういうのを見てしまうと、天才とナントカは……なんて言葉を思い出してしまう。あれはネガティブな意味で使われているけど、こんな風に考えられないだろうか。ある特定のことに才能をささげた結果、日常生活に振り分けられる力が減じられたのがこの障害者アーティスト達や、いわゆる天才と呼ばれる人たちもそう。私たち、いわゆる“普通の人”は日常生活に力を持っていかれているから芸術的な才能がない。天才とナントカは、じゃなくて、ナントカなんかない、そういった人たちはみな天才なんだ、と。能力の無さを恥ずべきなのは私たちの方じゃないかと。

父親が関西地方の高名な画家というヨシヒコさん。その父親は穏やかで常識的な絵を描くという。対してヨシヒコさんの信楽焼は、まったく前衛的だ。むちゃくちゃなようでいて、しかし、確かな造形能力を感じさせる不思議な力がある。素人目にもそれだけは判る。これはつまり、ヨシヒコさんのほうがひょっとすると、いや確実に父親より天賦の才があるということなのではないだろうか。「ナサケナイ」が口癖のヨシヒコさん。全く流れに関係なくその言葉はユーモラスにすら聞こえるのだけど、こんな痛ましいことはない。だって、それが口癖になったのは、彼が多分家族から何度となくその言葉を浴びせられ続けていたに違いないのだ。ラスト、明るいシゲちゃんのビデオで締めてくれて、本当にほっとした。ああでも、本当に、能力がないのは私たちの方なのだ。★★★★☆


まむしの兄弟 恐喝(かつあげ)三億円
1973年 89分 日本 カラー
監督:鈴木則文 脚本:鈴木則文 高田宏治
撮影:鈴木重平 音楽:広瀬健次郎
出演:菅原文太 川地民夫 松方弘樹 堀越光恵 三島ゆり子 河津清三郎 渡辺文雄

1999/8/18/水 劇場(新宿昭和館)
シリーズ第一作である「懲役太郎 まむしの兄弟」に続いてまむしシリーズは二本目の鑑賞。実はひそかに川地民夫がお気に入りだったりして……。いつも出所の時には迎えに来てくれる“兄弟”勝(川地民夫)が来ないのを待ちくたびれてふてくされて「一晩泊めてくれんか」というゴロ政(菅原文太)にアホか、という看守はおおお、大泉滉ではないか!そしておんだされたゴロ政は仕方なくぶらぶらと歩いていく。田んぼに立ちしょんべんをする。と、そこに止まる観光バスから全員着物姿のオバチャン、というよりオバアチャンたちがぞろぞろ出てきて、いや走り出てきて、ゴロ政の横に一列ズラーっと並んで尻をまくり、ジャアーッと放尿!それを対岸から画面いっぱいにとらえたショット!なんだなんだこれはあーッ!しょっぱなからこれかあ!?

オバアチャンがたにえらく気に入られ、観光バスに乗せてもらって神戸駅へと向かうゴロ政。この車中での、“若い男”に群がるオバアチャンたちがまたしても笑いを誘う。もう、この冒頭のくだりで、この作品世界が一発で判るもんね。そして神戸に着いたゴロ政は、勝が迎えに来れなかったのが、ゴロ政をあそばせる金を作るために当たり屋をやって大怪我したためと判る。その、勝をはねた中国の富豪の娘、レイカが“ハクいスケ”なもんだから、美人に弱いゴロ政はメロメロになっちゃう。

この富豪の屋敷に仕える用心棒、マオにふんするのが松方弘樹。幼い頃五円で実の母親から売り飛ばされて以来、奴隷のような扱いを強いられている。彼が気になるレイカがちょっかいを出すと有無を言わさず彼女を組み付して犯し、彼女がそれでマオに陥落してしまうあたり(まあ、彼女も期待はあって近づいたんだろうけど)、ああ、松方弘樹のキャラだなあ、と思う。実キャラだったりして!?それにしてもこのマオのキャラがなんかことさらに重くって、まむしの兄弟のライトさとすっぱり二分されてしまって、まるで違う映画が二本合わさってるみたいなんだよね……。違和感と言うのもかけ離れているほど。それに松方弘樹はやっぱりどうも苦手だなあ。

その富豪からまんまと三百万の小切手をせしめる二人なんだけど、その使い方がアホなんだよなあ。現金にかえることをせず(ま、無効届が出されて引き出せないだろうけど)、それがそのまま“三百万円札 ”という感覚で、釣りをくれ、って言うもんだから、レストランや商店街では大弱り。それをいいことにあちこちで支払いを踏み倒し、「使っても使っても減らんなあ」なんて御満悦なんだから!

マオとレイカが三億相当になる麻薬を横取りするのに、まむしの兄弟の手を借りる。最初は渋っていたゴロ政も、マオの境遇を聞いてあっさり同情、その無謀ともいえる計画にかむことになる。麻薬を積んだトラックをまむしの兄弟が奪って逃走し、あとでマオとレイカと落ち合うという手はず。途中で取引先から追われるはめに。まるで誘い込むように河川敷に入り込んで(笑)展開するカーチェイスの迫力!そしてほうほうの体でマオとレイカの元にたどり着いた頃にはトラックはまさに今にも崩壊状態!その実にキュートな壊れ具合のトラックでふらふら走ってくるよれよれのまむしの兄弟に、もう場内大爆笑!

麻薬を山分けし、別れた後、マオとレイカは追ってきた男達に有無を言わさず射殺される。何発も何発も銃弾が撃ち込まれるショットのスローモーション。血まみれになった二人を発見したまむしの兄弟、マオのショットガンを拾い上げ、敵討ちを決意する……ここからが!えっ、これがあの二人!?と思うほど、恐ろしくカッコいい!いやしかし、時々思い出したように、照れ隠しみたいに、特に勝の方がバカやるんだけど(笑)。でも黒づくめで(って、いつもだけど)銃身の長い銃で否応無しにぶっ放していく二人は、そのスタイルの良さも手伝って、まるで人が違うようにクールなのだ!そう、バカやってるから忘れちゃうけど、この二人の容姿って、見栄えがするのよねえ。

この敵討ちの殺戮がはからずも麻薬組織の壊滅になり、組織どうしの抗争ということで、“警察の手柄”にされてしまう。捕まらなかったことで喜べばいいのに、手柄を横取りされたと憤る二人はやっぱりアホやなー。そんでラストは、はすっぱ女に急所を蹴り上げられてぴょんぴょん飛び跳ねる場面のストップモーションなんだから、念の入ったバカぶりだ!★★★★☆


麻薬Gメン 恐怖の肉地獄
19 年 分 日本 カラー
監督: 脚本:
撮影: 音楽:
出演:千葉真一 渡瀬恒彦

1999/2/27/土 劇場(新宿昭和館)
あううー何ということだ、全く資料がないではないか!このけったいなサブタイトルだってうろ覚えで正確かどうかすこぶる怪しいというのに……。濃ゆーい顔のチバちゃんが首に赤いネッカチーフ巻いて(スカーフというよりまさしくネッカチーフという感じ)麻薬Gメンとして沖縄に潜入する。極秘捜査だから、地元の麻薬捜査をしている警察に逆に売人かと怪しまれ(あんな派手なカッコしてる売人もいないと思うが……あ、Gメンでもそうか)しかしかなりあっさり「連絡を受けていましたよ」「ばれましたか」と握手して解決。

ちゃんと沖縄側はウチナー口で下に字幕が出る丁寧な作り。沖縄が全面協力してたみたいだしね。でも、沖縄米兵から麻薬を買ったり、暴行されたり(しかもかなりのエリート風米兵)と、沖縄の反・米軍基地姿勢にハラハラしたりして。麻薬の描写もリアルで、入ってくるルートによって色が微妙に違ったり(もちろん上物は白)するのは初めて知った。

アメリカに行きたがっている妹のために麻薬の売人をしている少年、「黒人兵と間違われるんだ」というアフロ系の顔立ちだが、あれはつまり父親が米兵ということなのだろうか。彼がチバちゃんを連れていった先でハメられて撃たれ、「俺がだましたんじゃねえよ、信じてくれよ!」と言いながら死んでくのがかわいそうで……。姉の恋人である米兵にレイプされて「ごめんなさい、お姉さん。きっと私に隙があったのよ」と泣き崩れる妹。女がこう思ってしまうところにレイプの残酷さがあるのだ……。女に非は絶対に、ぜえったいにない!★★☆☆☆


MARCO 母をたずねて三千里
1999年 96分 日本 カラー
監督:楠葉宏三 脚本:深沢一夫
撮影:―― (アニメーション)音楽:岩代太郎
声の出演:樋口智恵子 榊原るみ 松下恵 なべおさみ 高乃麗

1999/4/29/祝 劇場(錦糸町楽天地)
ものすごい直球勝負にやられた!という感じ。判っちゃいるのにボロボロに泣かされてしまった。実際上映が終わって振り返ると、子供連れで見に来ている親たちはみな一様に鼻をすすり(男の人も)、その周りで子どもたちがあっけらかんと跳ね回っているという状態。というわけで、春休みの子供向けと見せながら、実は前作の(私は観てないけど)「フランダースの犬」同様大人をターゲットにした映画なのだろうな。

物語は言わずと知れた、出稼ぎに行ったおっかさんを迎えに幼いマルコが一人、過酷な旅を続けるというもので、船は沈没しそうになるわ、スリに全財産をとられるわ、吹雪の高山で行き倒れになりそうになるわと、まあこれでもかと艱難辛苦が押し寄せるわけだけど、これまた実に都合よくそのたびに親切な大人があらわれて窮地を救ってくれる。落ち着いて考えてみると、その救ってくれる大人たちが実は先に知り合いになっていたりした人だったりして、そんなんアリかいなとつっこみたくなるほど、本当に御都合主義なんだけど、とにかくマルコがかわいそうで、救いの手が差し伸べられたことに素直にほっとして涙が出てしまう。直球とはまさにこれで、御都合主義だとかそんなことは考えもしないで、ただひたすらマルコのまっすぐさを投げかけてくるてらいのない直球演出にまさしくなすすべ無しなのだ。

マルコの父親は病院の事務総長で、金を払えない貧しい人々も医者に見せてやる。「確かに君のお父さんがいなければこの病院はなりたたない。しかしそれにも限度というものがある。家族の幸せを犠牲にしてまで他人を助けるべきなのだろうか」と医者がマルコに言うのだけれど、旅に出かける前のマルコにはその言葉が父親の人間としての素晴らしさを指し示すものだということがまだぴんときていない。いや、この時点でははっきり自分の家族の幸せよりも仕事の方が大事なんだと、父親に不満を持っているマルコ。しかし旅先で医者たちがみな貧しい人々の病気をみてくれない現実に遭遇し、自分の父親の偉大さを知る。そして自分は医者になろうと心に決めるのだ。

岩代太郎の音楽が気合入っているのも涙腺を刺激される要因。挿入歌、そしてエンディングに流されるシーナ・イーストンの曲も、彼女の既製曲を話題作りに使っているのかと思いきや、しっかり岩代氏の作曲というのが凄い(シーナ・イーストンに自分の曲を歌わせた初めての日本人なのではないだろうか?)。これがまた泣かせる名曲なのだ!

有名な話といいながら、うろ覚えで、あれ?マルコのお母さん、実は死んじゃうんだっけ?とハラハラしたが、まさしくマルコの奇蹟の力で回復するのだった。ま、このへんは直球すぎてちょっと引いてしまわなくもなかったけど、何といっても泣かされたのはその後、右側にラストクレジットが流れる中、左側に点描される、お母さんとともに故郷に帰るマルコの姿で、旅中に自分の父親の人としての素晴らしさに気付いたマルコが、父親と再会、父親が大きく手を広げてマルコを抱きしめる、そんな判りやすい感動シーンであっさり涙ダー!である。そう、かえってセリフを聞かせないで(ラストクレジット中だから音楽が流れてるのだ)禁欲さが泣かせるのかもしれない。そしてマルコが後年医者になったこともそこで明かされる。実は冒頭、その成長した(というよりもう中年の)マルコが母親が出稼ぎに行く日を回想するところから始まるので、そこに帰っていくというわけだけど。実はこの辺の構成の仕方もポイントなのだな。あっそうそう、これを言い忘れてはいけない。マルコの相棒である小さなおサルさん、アメリオのカワイイことカワイイこと!★★★★☆


「ま」作品名一覧へhomeへ