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「み」


2001年鑑賞作品

みすゞ
2001年 105分 日本 カラー
監督:五十嵐匠 脚本:荻田芳久
撮影:芦澤明子 音楽:寺嶋民哉
出演:田中美里 寺島進 永島暎子 中村嘉葎雄 加瀬亮 イッセー尾形 増沢望 小嶺麗奈


2001/11/15/木 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
本当に、ここ数年で急速に名前の出始めた金子みすゞだが、私は彼女のことを全然知らなくって、その詩を読んだこともなかった。彼女の人となりと同時に初めてその詩にも触れ、みずみずしい筆致に驚く。いくら作品が散逸していたとはいえ、これほどの魅力的な詩を書く作家がずっと埋もれていたということに驚きを感じつつ、発掘されたとたんにブームと言えるほどに評価が高まったのも、うなずける。日本はとかく夭折した芸術家に、それも自死したそれに弱いせいもあるかとは思うが、無論それだけではない。幼い子供から理解できるほどのわかりやすさを持ちながら、これぞ琴線に触れるという表現がぴたりとくるような、心の奥の方をくすぐってくる。懐かしさというよりは普遍性の方を強く感じるのも、強みなのだろうと思う。

本作は、そうした金子みすゞの生涯を、ドラマチックに表現するというよりはその詩も含めて、まっすぐに描こうとしている印象である。作家をモチーフにした映画で、これほど作品そのものが紹介されているものも珍しいと思うが、それはやはりここ数年急速に流布したという点で、私のように彼女の名前は知っていてもその作品に触れたことのない人に、まずその作品を知ってもらわないことには彼女の人生を追っても意味がないとするせいだろうか。何にせよ、この詩というのが特に私などは初めて出会ったものだから、その魅力にすっかり魅了されてしまう。

その詩とともに語られる彼女の人生は、まったくもって悲劇的ではあるのだけれど、その紹介する詩の世界を邪魔することのない、しんしんとした語り口。登場人物を実在の写真で紹介したりするのも、ドラマの中で人物紹介を行おうとすると、より物語寄りになってしまって、詩の世界を壊してしまうためではないかと思われる節がある。そしてその手法は、この五十嵐監督のそもそもの出発点であるドキュメンタリーの味わいをも感じさせ、なかなかに効果的である。いくらでも泣かせるような展開にできるところを、そうしない。その中には友人の死もあるし、夫の裏切りもあるし、いくらでもドラマチックにできるのに、そうしない。彼女の詩のその空気感、そんなものをたっぷり画面に吸い込ませて、ささやかな音に耳を傾け、小さなものたちや見えないものたちを見つめている、見つめようとしている、そんな感覚を受ける。

養子に出された実の弟、正祐との、決してお互い表に出してはいけない恋心。その心を秘めたままでの、政略的結婚。夫の放蕩と、それによって彼に淋病をうつされてしまうみすゞ。正祐はみすゞと芸術的な創作感覚を共有している同志ではあるものの、お坊ちゃん的に育てられていて、何か気に入らないことがあるとすぐ家出してしまうようなヤツである。一方の夫、葛原はというと、みすゞの気持ちがここにないことをどこかで察している風で、そのせいで放蕩生活の限りを尽くしたのではないかと思われる節もあり、一概にワルモノと出来ない。みすゞが離婚することになったこの夫を、「案外悪い人ですよ」と言うからには、案外どころかそうとうヒドイ夫だったのではと推察されるのだけれど、そうした描き方をしないのは、みすゞにとっての男の善悪をカンタンに分けられそうなところを、努めてそうしないようにしている感じである。だから実際には彼女が追いつめられたのはこのヒドい夫のためだったのかもしれないけれども、劇中では、このどっちつかずの男たちであるからこそ、追いつめられてしまった感覚を受ける。それは、正祐が葛原にこれ以上彼女を苦しめるなと進言するも、葛原が、そんなことは誰にも出来ないよ、と返すことでよりその感を強くする。葛原は暗に正祐に対してその言葉を返しているに違いないから。そして実際そうだったのではないかと思われるから。

彼女を認めた西條八十がたった一場面しか出てこないことが、みすゞの作家としての不遇をより鮮明に感じさせる。そしてみすゞの詩の最初のファンである親友の豊々代が、赤ちゃんをもうけながらも若くして死んでしまったことも、みすゞの暗雲を感じさせるのに充分である。自ら選んだ死とは言えども、それにはやはり導くものがあり、どうにも避けられない道だったのだと。でも、丁寧に短くなった鉛筆を削り、夫の禁止もやんわりと無視して書き続けた、書き続けずにはいられなかった彼女の姿には、作家としての血を強く感じる。内側から言葉が次々あふれてくるのをせき止めることは出来ないものを。それを死によって強引にせき止めてしまったから、彼女の死はより痛ましい。

みすゞが結婚させられる前、森の中で早足で彼女を追いながら、お互いの関係を問いただす正祐、みすゞのために作った曲を、彼女と二人きり、狭い屋根裏のような部屋で正祐がオルガンで奏でる……その息苦しいまでに気持ちのあふれる場面がことに強い印象を残す。大正時代の、古さとモダンさを併せ持ったリリカルな雰囲気が美しく、隅から隅までとても丁寧に拾い上げている好印象。キャストの中では、みすゞの母である永島暎子と、親友である小嶺麗奈、両人の美しさが絶品。★★★☆☆


水戸黄門
1960年 94分 日本 カラー
監督:松田定次 脚本:小国英雄
撮影:川崎新太郎 音楽:富永三郎
出演:月形龍之介 片岡千恵蔵 市川右太衛門 中村錦之助 大川橋蔵 大友柳太朗 東千代之介 丘さとみ 桜町弘子 大川恵子 中村賀津雄

2001/12/20/木 劇場(新宿昭和館)
東映オールスターキャスト、という点で今公開中の「千年の恋 ひかる源氏物語」に当てたプログラムに違いない本作。「踊る大捜査線」やってるときに織田優二のデビュー作かけたりする劇場だから、プログラムは何げに凝ってるんだよねー。ホント、ここのプログラム作っている人ってどんな人なんだろー?って思うぐらい。さてさて、現在のオールスター映画「千年の恋 ……」がどんなものかは知らんが、本作はほおんと、隅から隅までスターのオーラがビシバシ出ている人ばかりで、まあ、私は顔と名前が一致しない人も多いんだけど(……)そのオーラはやっぱり判るから、観ていてちょっと疲れちゃう程(笑)。正直、やっぱりこういうオーラを持つ人は、いなくなってしまったよなあ。スクリーンにきらきらと映えるオーラ。それがこの時代にはこんな若い人たちにいたるまであったんだもの。このボロい昭和館でね、リアルタイムで観ていたであろう、オッチャンがほろ酔い気分で「よっ、錦ちゃん、男前!」とかずっと合いの手入れててさあ、もうそれがホントにピタリとくるわけよ。

黄門様にはこの時当たり役だったという月形龍之介。風格と品格を持ち合わせた、素敵な黄門様である。助さん、格さんには、まあああ、つやつやと若い東千代之介と中村賀津雄。本当に若くて、助さん、格さんに対する私のイメージも崩されてしまう。確かに剣の腕も立ち、めっぽう強いんだけど、その一方で見張り中にガマンできなくて酒を飲んじゃう、なんていうちゃらんぽらんなところもあって、カワイイ(笑)。しかしこのメインの三人組ではなくて、お得な役どころで物語を引っ張っているのは、町人皆から慕われまくっている、明るくて歌の上手い貧乏浪人、井戸甚左衛門を演じる大友柳太朗と、その親友である、単純バカぶりがひたすら愛しい、お坊ちゃまの放駒の四郎吉を演じる中村錦之助。もう、この二人を中心とした場面は可愛くって可笑しくって、笑って笑って涙が出ちゃうんだ、もう。

この井戸甚左衛門は、どこのなまりだって言ったかなあ、まさかこれが本当の江戸なまりではないだろうが、自分の名前がエドズンザエモンになっちゃうほどのズーズー弁で、その天真爛漫ななまりと思いっきり明るい笑顔がすっごくイイ。良すぎるッ!そのズンザエモンのことが大、大、大好きな四郎吉。でもそれを知られるのも決まり悪くて、しかし隠すほどの技量も持ち合わせてなくて(笑)、周囲の皆もニヤニヤ気味で見守っているというあたりがイイ。良すぎるッ!甚左衛門とは対照的にチャキチャキで超早口の江戸っ子喋りで、一応悪態ばかりついてはいるものの、それが悪態になりきれないところが、かわゆすぎるんだよなあー。

無実の罪でつかまった甚左衛門が黄門様のはからいでとりあえず放免になるんだけど、こんなに心配させたあんなヤツとはもうこれきりだ!と言ったところに帰ってきた甚左衛門を見るやいなや、コロリと、心配したんだよーッ!とまとわりつくも、周囲のニヤニヤにはたと気づいて、お前なんかとはこれきりだ!とタンカを切って出て行く。でも家で往来をずっと監視しながら、いつ来るんだろういつ来るんだろう、と待ち焦がれ、甚左衛門が行きつ戻りつしているのを見ると、ああ、こんな暑い日は暑気払いに酒でも飲みたいなあ、誰か相手はいないかなあ、多少仲たがいしているヤツでもいいんだけどなあ、と来てほしくてこれ見よがしに言うあたりが!それに応えてニッコリと入ってきた甚左衛門について、黄門様ご一行以下、ゾロゾロとなじみの連中が入ってくるのに目を丸くする四郎吉。んもう、可笑しすぎる!

江戸中を放火し、騒ぎを起こしている世情を調べに黄門様は江戸に訪れていて、食事に入った呑み屋でこの甚左衛門と出会う。一目で甚左衛門が皆に慕われる、イイ奴だと見てとった黄門様は、彼の好意に甘えて宿を借りることになるのだけれど、そんな矢先、その甚左衛門の家で男が殺されていて、甚左衛門はそのかどで捕えられるのである。そこで彼を犯人に仕立て上げたのは、その死んだ男の妹だという女。どうやらその裏には暗躍する由井正雪の残党がいるらしい。黄門様と助さん、格さん、そして甚左衛門と四郎吉以下町人皆が力をあわせてその残党を追いつめる、という展開。オールスターキャスト&その他大勢がくんずほぐれつ!?刀を斬り結び、あちこちにカメラが追わなきゃいけないスターがいるから、もう大変。私には片岡千恵蔵も市川右太衛門もどこにいたやら、判らん(笑)。しかし同じ日に観た「主水之介三番勝負」の主役だった大川橋蔵だけはさすがに判った。水戸中将綱条。その水際だった美しいお殿様?ぶりが目を引く。そうか、今回のプログラムは、大川橋蔵、だったんだなあ。

無事、悪者も捕えられて、黄門様は甚左衛門を、こんなところで貧乏暮らしをしているのにはもったいないお人だと、水戸にスカウトするんだけど、甚左衛門は丁重に断る。その口上がいいんだ。自分が一人、生きていくには二石もあれば十分だ。その残りは余計な苦労になる。黄門様は三十二万石だから、三十一万九千九百九十八石分、苦労があるんだ。自分はお金はないけれども、ここでこうして皆と暮らしている生活が気に入っている、と。それを聞いて黄門様は滋味の深い表情で、良く、判りました、と了承する。それを店の外で聞いていた水戸の中将も何とも言えない顔をする。四郎吉もこの時ばかりは神妙な顔つきをしている。それを振り払うように、甚左衛門はまた明るい笑顔を振り撒き、歌を歌い、それに応えて黄門様も自慢ののどを披露する。ほほえましく明るいジ・エンドは、華やかなオールスター映画にふさわしい。

大友柳太朗にすっかりホレちゃいましたあ。いやー、全く、こういう男っぷりのいい奴、今はおらんのかい!★★★★☆


ミリオンダラー・ホテルTHE MILLION DOLLAR HOTEL
2000年 122分 アメリカ カラー
監督:ヴィム・ヴェンダース 脚本:ニコラス・クライン
撮影:フェドン・パパマイケル 音楽:ジョン・ハッセル/ボノ/ダニエル・ラノワ/ブライアン・イーノ
出演:ジェレミー・デイヴィス/ミラ・ジョヴォヴィッチ/メル・ギブソン/ジミー・スミッツ/ピーター・ストーメア/アマンダ・プラマー/グロリア・スチュアート/トム・ボウアー/ドナル・ローグ/ハリス・ユーリン

2001/5/21/月 劇場(シャンテ・シネ)
ハリウッドスター、カルトスター、華やかな人気女優と、名だたるスターがこれだけ出ているのに、これほどまでに作家の映画になるものなのか。アイディアはU2のボノによるものなのに、この作家のために生まれてきたような映画になるものなのか。実在する場所だというのがにわかには信じがたいほど、この映画のために生まれてきたような、さびれてもの悲しくて、でも不思議に詩的なこのホテルは、今では違う名前になったというけれど、まるでこんなふうに落ちぶれてしまうことを先に知っていたかのような、皮肉な名前をつけている。100万ドルのホテル「ミリオンダラー・ホテル」

このホテルに住んでいた、実は富豪の息子だったイジーの死。屋上からの飛び降り自殺だったはずが、彼の父親の自尊心から、殺人に違いないとFBI捜査官、スキナー(メル・ギブソン)が派遣される。事態を把握しているんだかいないんだか、住人のみんなはテレビに映れることで有頂天、住人の一人、ジェロニモの描いた絵がイジーの絵だと勘違いされたことからこの騒ぎに便乗して高値で売ろうと盛り上がる。一方、このホテルの雑用係にされている、軽度の知的障害のあるらしいトムトム(ジェレミー・デイヴィス)は、イジーの親友だったのだけれど、この騒ぎで憧れの住人、エロイーズ(ミラ・ジョボビッチ)に接近できて大喜び。自分は存在などしていないと言い張り、いつも本ばかり読んでいるエキセントリックなエロイーズ。トムトムがエロイーズに執着するのは、ただ好きだというだけの他に、実は理由があったのだ。

とはいいつつ、その謎解きは実はあいまいだ。私はトムトムの、あの最後の回想を信じたのだけれど、ほとんどの解説は、トムトムが自分で全てをひっかぶって空へ飛んでいってしまった、というくくりである。そうなのだろうか?あれはトムトムが追いつめられた故に見た幻想だったのだろうか?子供のように純真なトムトム。親友の死に悲しむのはもちろんなんだけれど、それによってエロイーズに近づけちゃうことで単純に喜んでしまう彼。なるほどそんな彼なら、追いつめられればありもしない幻想も見てしまうかも……いやいやいや、やっぱりそうとは思われない。純真な彼だからこそ、ウソの幻想を見るとは思われない。

彼はただエロイーズが好きだという、単純な感情だったわけじゃない。トムトムはイジーの告白を、そのショッキングな事実を、自分でも無意識に胸の奥底にしまっていた。同時にイジー自身が飛び降りたがっていたとはいえ、彼を屋上から落としてしまった行為も、見たくないものとして同じところにしまいこんで鍵をかけてしまっていた。だから彼がなぜ彼女に好意以上の何かを感じるのか、彼自身にもわからなかったかもしれない……そんなことは考えもしなかったかもしれないけれど。トムトムはエロイーズを守りたかったのだ。最終的に自分の存在をこの世から亡くしてしまっても。いや、喜んで、すすんで大空に身を躍らせた。助走をつけて、屋上の「ミリオンダラー・ホテル」の看板はシルエットのように美しく空にその文字を描いていて、その下を楽しげに彼は疾走し、空へと飛び出す。

トムトムの女神に扮するミラ・ジョヴォヴィッチ。あ、ミラだと思いつつも(思わずリヴ・タイラーとどっちかなと思ったが……ちょっとタイプ、似てない?)、そのあまりにサエない風貌とエキセントリックなしぐさに、かなり驚く。まあ、「フィフス・エレメント」のリールーの時にも、思い切りのいい女優さんだなとは思ったが、ここでは本当に染まりすぎるほどに染まっている。全然言及されてないけれど、彼女のちょっと壊れたような部分は、トムトムと同じようなハンデを負っているようにも見える。それでなくても彼女は進んで男たちに強姦まがいのことをさせて、それは見るからに痛々しいシーンで、でもそんなことによってしか、自分がここにいることを確かめられないでいるようで。彼女が本の虫だということも、なんとなくはかない印象を受ける。つかもうとしても逃げていってしまう、形のない、言葉というもののたよりなさ。でも言葉がほしいのだ。誰かに、自分はここにいるよ、って、好きだよ、っていう言葉を。

トムトムの好きだっていう言葉は、だから最初はとってもたよりない。たよりないけれど、切実で純粋で美しい。そしてそのたよりなさが、一転して筋肉を持つ言葉となるのは、その自己破壊の行為にほかならない。皮肉なことに、トムトムの形としての体が消えてしまったことで、その言葉や感情が、形にならないものが、まるで形あるもののように確固たる力を持って、一生消えない傷のように彼女の中に置き去りにされてしまう。

トムトムはいう。「僕はスキナーが好きだった。彼は僕らの仲間だった」と。背中に大きな傷があり、そのせいでか、キミョウな器具を首にとりつけていて、なんだか妙にぎこちない、ロボットみたいなスキナー。その感情もロボットみたいに凍りついて、固まっている。でも、彼も知らず知らずのうちに、トムトムの邪気のない好意に溶かされてゆく。彼自身がトムトムをはめたのに、そのトムトムの無償の好意が、彼を人間へと戻していくのは、ラスト、トムトムの死に、エロイーズと二人、ひっそりと抱き合うシーンだけで充分だ。彼は本気か冗談かわからないけれど、自分には第三の手があったと、それは背中から生えていて、そのせいで自分は他人と違うということに苦しめられていたという。メル自身がいうように、確かにそれはもがれた天使の翼で、「ベルリン・天使の詩」との対象を思わせる。メル・ギブソンに一番驚いた。そうだ、これはどう見たってメルなんだけど、メルの顔なんだけど、でも本当に、メル?と、見ている間中何度も自答していた。それほどいつもの彼の、陽性のスターオーラは消え去り、心が固く閉ざされた、それでいてかすかなブラックユーモアが漂うような、この映画の全き住人としてだけそこに存在していたからだ。ああ、そうだよな、彼って、こんなにスターになっちゃったから忘れそうになるけど、実は自分で映画をつくっちゃってそれが傑作になるくらい、全身映画人で、才能のある演者なんだもの!

当然、この映画の主人公であるトムトムを演じるジェレミー・デイヴィスは、すばらしいという言葉を言うのもあたらないような、本当にトムトムその人でしかなく、こんな役者いたっけ?と思ってしまう。フィルモグラフィーを見ても、まったく思い出せない。トムトムとしてしか,見ることができないのだ。エロイーズとのささやかな幸せの時間だけ、ちょっとずつちょっとずつスローモーションで伸ばされる彼の余りにむきだしでやわらかい恋心。それをそのまま存在させ続けるためには、やはりあの選択しかなかった。冒頭とラストにはさんで提示される、美しき羽ばたきのシーンは、この映画の、いや森羅万象の大きなテーマであり、ひとつの答えなのだ。

深海の奥底のような、深く透明なブルーグレーの画面が美しい。真っ赤な情熱ではなく、恒久の愛は、こんな色をしているのかもしれない。★★★☆☆


みんなのいえ
2001年 115分 日本 カラー
監督:三谷幸喜 脚本:三谷幸喜
撮影:高間賢治 音楽:服部隆之
出演:田中邦衛 唐沢寿明 田中直樹 八木亜希子 白井晃 井原剛志 八名信夫 江幡高志 井上昭文 榎木兵衛 松山照夫 松本幸次郎 野際陽子 吉村実子 清水ミチコ 山寺宏一 中井貴一 布施明 近藤芳正 松重豊 佐藤仁美 エリカ・アッシュ

2001/6/12/火 劇場(渋東シネタワー)
「ラヂオの時間」から実に4年ぶりの三谷監督の新作。ちょっとー、もっと早く作ってよ!と言うぐらい、待ちわびていた。やっぱり舞台の人だし、映画は一回作ってみたかったとかそういうことで、もう作んないのかなあ、と心配になったり。でも、よかったー!作ってくれた。そして今回も期待を裏切らない良質のコメディ。この人ほど、いい意味でまったく期待を裏切らない、いい意味でその期待の範囲で満足させてくれる人もいないであろう。期待を裏切る、範疇を飛び越える作家は確かに面白いけど、そんなんばっかじゃ疲れることも確かで。彼こそまさに日本のビリー・ワイルダーなのだ。

前回もそうだったけど、今回もその絶妙なキャスティングにうならされた。前回のように雑多に人物が出てきて、その一人一人に小さくてもちゃんと、そして驚くほどの見せ場があり、という手法ではなく、今回は(あくまで前回よりも)キャストは絞られてて、キャラクターよりも展開していくストーリー、というより出来上がっていく家の過程に寄り添われており、それに反応する形で人物が掘り下げられていくといった感じ。三谷監督がいうとおり、カッティングの妙だったような前作と違って今回はカットもかなり大きめに割られており、三谷流の絶妙な会話のリズムはそのままながらも、時間の流れの中に人物が置かれていることを感じさせる。前回は確かに舞台を映画にするためにカットにこだわった、という気がしないでもなかったけれど、今回はそうした肩の力を感じさせない。

しっかし、驚いちゃったなー、田中直樹の好演ぶりには!一体三谷監督はどうやってこの役にはこの人、というベストアクターを選び出すんだろ。だって思いつかないじゃない、この人を映画のメインに抜擢するなんてさあ。なんでもテレビ番組でだまされて泣いているその顔を見てキャスティングを決めたという、それはあれでしょう、ダウンタウンにだまされたガキ使だろうなあ。義理のお父さん、長一郎(田中邦衛)のガンコ一徹な職人ぶりにすっかり心酔している直介は、大工である長一郎と対立することになるデザイナーの柳沢(唐沢寿明)との板挟みで右往左往、しかもこの2人が理解しあっていくことになるとこれもまたヤキモチ焼いちゃって右往左往。挙句の果てには仲間はずれにされたーッと泣いちゃう場面に大爆笑!田中邦衛と唐沢寿明がこの映画の主役な2人であり、もちろん両氏は素晴らしいんだけど、私はこの直介がめっちゃくちゃツボだったなあ。三谷監督自身を投影しているようなキャラだけど、三谷監督からクセの強さをすっぽり抜いたような、なんともはや優しく愛しいキャラで、大きな上背を申し訳なさげにかがめているさまとその顔つきが草食動物、って感じで実ーにイイッ!腕っぷしの強い柳沢が、しかも携帯電話を嫌悪していると知って、自分の携帯の着信音にビクビクするところとか(大笑)、こういうリアクションは芸人さんゆえのうまさもあるとは思うけど、やっぱりこの草食動物系のキャラゆえ、だよなあ。たった一回だけ、シリアスにキッパリと、しかもこの映画の重要なキーワードを柳沢に叩きつけるシーンが、ホント、その一回だけだからさ、そんな感情を出してくるのが、まー、カッコいいとまではいわないけど、すごく印象的で。。

三谷監督がこの作品をウディ・アレンの「セプテンバー」と「重罪と軽罪」あたりに見られたような暖色系、ブラウン系の暖かな色で撮りたい、といったんだそうで。そして実際その通りになってて。私、これはすごく嬉しかったなあ。なんといっても、私が初めて観て感激したアレン映画は「重罪と軽罪」で(遅いなー)まさに、その色合いに心酔したんだもの。

長一郎と柳沢が急速に理解を深めていく場面として、家の建築ではなく、柳沢の修理するはずだったアンティークを2人で(いや直介も含めなきゃかわいそうか、3人で)協力して直す場面がある。これはほんとにうまい!と思った。実際の展開、家の建築からははずれているのに、そのことによって実際が見えてくる。しかもその予期せぬハプニングという、しかし映画にとっては必須の展開が実にワクワクさせてくれる。しかもこの場面が一番直介がカワユかったしねー。

脇役陣や特別ゲストがいちいち嬉しすぎるのもツボ。民子の姉で長一郎の長女に清水ミチコッ!鬼のような母親ぶりが可笑しすぎ。コダワリすぎてこっけいなバーのマスターに真田広之ッ!直介の書く脚本のドラマ(このドラマがどんどんマヌケな設定になっていくのがひたすらおかしい。しまいには火星人、といいだしたときには思わず吹き出してしまった)の主人公として出てくる中井喜一ッ!しかもこの中井喜一とミチコさんが遭遇する場面で、ミチコさん、嬉しげに「中井喜一〜」と声をかけるのだからもう嬉しくなってしまう。チラリで見逃してしまいそうな明石屋さんま、ヘンな神主役での香取真吾は何とノンクレジットで、ううッ、なんという贅沢さ!しかしなんといっても嬉しかったのは「ラヂオの時間」組からの、しかもそのまんま同じキャラでの再登板組である。先ほどのバーの客として、そうは言っていないものの、あの千本のっこそのままのいでたちで、しかもマネージャーもそのままに登場する戸田恵子と梅野康靖、そしてなんといってもなんといっても、ちゃんと名前も役職もそのまんま同じく登場するプロデューサー、堀の内役の布施明がッ!しかもである。彼は前回と同じくやっぱり差し入れにコージーコーナーのシュークリームを買ってきており、しかも、家の新築祝いとして、前回ビンゴで当ててもてあましていた、あのでっかいキーボードを持ってきているんである!これで嬉しくならずに、何で嬉しくなるっていうんだああ!

ところで、みんなのいえ、って、もともと「長一郎が建てた家」ってタイトルだったんだそうで。それを田中邦衛氏が、いや、そんな……勘弁してください、これはみんなで建てる家なんだからと言ったことで(目に浮かぶわ)「みんなのいえ」になったんだってねー。いやはや、私は「みんなのうた」から来てるのかと思った(なんてベタな……)。そういう経過でこのタイトルになったって、なんかイイ話ね?でも確かに、最終的には長一郎のワガママがいろいろ通されちゃって、こりゃ長一郎の一本勝ち!だもんなあ。ドアは外開きで和室は20畳(!)で。最初のうちはこのおとーちゃんが、まあ、娘を思うあまりって部分と、職人としてのプライドからどんどこ押し進めちゃうのに、そりゃないだろ〜と思ったりもするんだけど、でもそこは田中邦衛だから、それに、途中で娘からきつーく言われて「初めてあいつに頼られたのに、俺って奴は……」みたいな寂しい背中で、もう切る爪がねえよ、というのにじーんとさせられちゃって(笑いながらじーんとしなくっちゃいけないんだから、もう疲れちゃう?)、直介どころかこっちも長一郎に降参しちゃうんだ。

でもラスト、柳沢とのシーンで「さすがにあの和室は広すぎた」と認めるのには思わずクスッとさせられちゃったけど。でも、イイよ。あの和室は。長一郎大好きっ子の直介が彼からの受け売りで柳沢に喋りまくるのも可笑しかったけど、あの壁の違い棚とか、ほんとに伝統の和室って感じで。できたての青々とした畳の、そして広々とした部屋に、ナベ持ってたたずむ直介が妙に画になってたなあ(笑)。

実際の現場とのギャップで、家の建築として現実離れしている、なんて建築専門の方は思っちゃうみたいだけど、そんなのは三谷監督は知っててやってるはず。おもしろくするためのフィクションであるんだし、別に家作りのハウツーものをつくろうと思ってやっているわけではないだろう。それにこっちが心地よく騙されているのにそういう水をさすようなことを言うのはやめてほしいなあ、と思うわけで。

こうやって思い出すとずうっと笑顔ばかりがこぼれてしまう。最初こそ「ラヂオの時間」に出会った時ほどの衝撃はないかなあ、と思ったんだけど、終わってみるとこのニコニコだもん。やっぱり三谷監督はいい、本当にいい。お願いだから次また4年後なんていわないで。それでなくても昨今の、しかも私のお気に入りの監督さんにはやたらと待たされちゃうんだもん!★★★★★


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