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「に」


2002年鑑賞作品

ニッケルの夢
1996年 10分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影:山田勇男 音楽:
出演:工藤瑞保


2002/1/15/火 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
今回ともに特集上映が組まれている山崎幹夫監督と、“ハンス・リヒターの「金で買える夢」をモチーフに企画上映プログラムに合わせて作った”という短編。ハンス・リヒターという人も不勉強ながら知らないし、山崎監督の作った「夢のライオン」も未見なのだが、「僕はやっぱりこんな風になってしまいました」と挨拶した山田監督の、その“やっぱりこんな風”が私はたまらなく好きだ。そう、一番最初に今回のプログラムの写真で見た、8ミリフィルムを手にツーショットを作っている山崎監督と山田監督は何だか似たもの同士の仲良しさんのように見えたのだが、こうして何回かこのプログラムに足を運んでみると、8ミリで活動しているというスタンスは同じものの、ずっと一緒に上映会をやっているというのが不思議なぐらい、この二人のテイストは違う。山崎監督はとんがっていて攻撃的、革新的。常に今ある世界から飛び出そうとしている印象。山田監督の方はその世界……それは日常であったり、夢であったり、自分が抱えている過去や未来や様々なものがあるのだろうが、とにかく“山田世界”という小宇宙の中を、くまなく探索している、そんな感じだろうか。その世界が、“やっぱりこんな風”が、たまらなく琴線に触れてくるのだ。

本作は、一人の女の子がまずいる。長い黒髪。横たわっている。彼女の手には糸とも髪の毛とも判然とつかない黒い細いものが絡んでいる。“ニッケル硬貨が娘の耳に当てた貝殻から生まれ”た、という部分はちょっと気づくことができなかったのだが、彼女がもてあそぶ、鈍く輝く白いニッケル硬貨は、一人語りのおとぎ話と、幼児から持っているような本能的なエロティシズムとの間をそよめいている。口に含まれ、小さな箱(チョコレートボックスなのだという)に収められたりするそれは、小さな頃、意味もなく大事にしていたきれいなビー玉などを思い出す。そう言えば、あのビー玉はどうしただろうか。いつのまにかどこかに行ってしまった。こんな風に“夢想されている”ニッケル硬貨は、ニッケル硬貨自身の夢想のよう。ご主人にもてあそばれている“彼”は、いつか忘れられ、捨てられることも知っている。でも思い出を夢に変えて、いつまでもこの夢の世界に転がっていれば、永遠にそこにとどまることができる……。

ろうそくのともし火に照らされているかのようなオレンジ系の暖色が、きれいな肌を柔らかく美しく映す。肩のところがひも状になっている、ノースリーブのワンピースにキレイな髪がさらさらとふりかかる女の子は、まさしく“夢の少女”。彼女にこんな風にもてあそばれるなら、ニッケル硬貨にも、なってみたい。★★★☆☆


日本女拷問 (日本残虐女拷問)
1977年 61分 日本 カラー
監督:山本晋也 脚本:中村幻児
撮影:柳田友春 音楽:
出演:南ゆき 橘雪子 今泉洋 峰瀬里加 国分二郎 港雄一

2002/11/17/日 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/AN)
恐らく“ピンク映画の監督”として最も有名な、山本晋也監督の作品を初めて観る。それにしても、いまだに彼は“カントク”として名が通っているけれど、映画は撮って……ないよなあ。事実、フィルモグラフィは94年からとんとご無沙汰。ところで、カントクが知られているのはもっぱらコメディでだということなのだそうだけど(ま、キャラクターのイメージそのまんまね)今回ここにチョイスされたのは、明治維新下における、弱い女たちへの憲兵たちの残虐行為。ジャンルとしてはSMにあたるのだろうけれど、その凄惨ないたぶりの末に女は死んでしまったり、自殺してしまったり。死んでしまった女の娘が復讐として後年、男を殺す、という描写も出ては来るものの、総じてひたすら侮辱され、抑圧される女の姿。

明治維新によって「おなごたちはちっとも変わりませんのに、男の方は随分と変わりました」と、ナレーションが入る。この時は何となく聞き逃していたのだけれど、二つの意味でそれは随分と皮肉に聞こえる。ひとつは、時代によって外見ばかりを簡単に変える男の姿。もうひとつは、そうやって外見は簡単に変えるけれども、中身はちっとも変わらない男の姿。あるいはそんな男に陵辱され続ける、“ちっとも変わらない”自分たち女への皮肉。自分の妻の前で娼婦を呼び込み、二人一緒に相手にしようとする明治政府のおエラさんは(どうやら実在の人物を当て込んでいるらしい)、ショックのあまり顔も上げられない夫人にカッとなって刀を振り下ろしてしまう。お、お前、アホかー!と思っていると、その罪をその時ヨロシクやっていた娼婦にかぶせてしまう。お、お前、更にアホかー!である。そして最初の拷問。口ひげを生やしたいかにもイヤラしそうな憲兵によって、彼女は丸い座卓の裏側に足を広げた格好で縛り付けられ(思わず、上手いもんだと感心?)何と××××にとろろ汁が塗りこまれる!それだけじゃなくて、とろろ汁を塗ったくった木の棒を突っ込まれる!当然ながら、その悲鳴は快感の声などではなく、本当に苦痛の悲鳴。絹を裂くような悲鳴。

次は女郎屋。10年の奉公をつとめている女郎を見初めた憲兵。しかし彼女から思いがけず反発されたことで、罰として彼女を縛り、吊るし上げる。ここの拷問場面は火を使ってあぶったりと本当にヒドく、ちょ、ちょっとこれは成人映画としても問題があるんじゃないのお?と思っていたら、この彼女は拷問の末死んでしまうのである。マ、マジかよ……今までSM描写としてのこういう緊縛の拷問は色々見てきたけど、それで死んじゃうのは初めて観たよ!とうろたえていると、10年後、彼女の娘が母親のあとをついで女郎となり、初めての床入りで復讐を遂げる。しかもこの場面で痛快?なのは、この娘、その復讐の相手として誰と設定しているわけではなく、復讐の相手は男、ただそれだけなのだ。だって、彼女が殺した相手は母親を殺した憲兵ではない。その殺人現場に乗り込んできた当の憲兵は、この幼い女の子がかつて自分が殺した女郎の娘だと知ってうろたえ、娘もまた殺してしまうんだもの。でもここで女の復讐の相手がただ、男、とされているのは実に切実で。この幼い女の子の死もあまりに切実で。

最後は、上海から来た女スパイがまず憲兵に強姦され、爪をはがされ、その間に回想とかいろいろあって、そして結局、彼女自身で自死するまでを描く。セクシーなチャイナドレスに身を包み、美脚をあらわに開かれた状態で縛られる彼女、そのまま脱がされ、突っ込まれる。それまでの拷問描写も勿論イヤだったけど、いわゆる職業娼婦ではない、しかも日本人に抑圧され続けてきた中国人女性がそんな目にあうのは、さすがに観ていて胸が悪くなってくる。彼女は、戦地で日本人の兵隊に助けられた。しかしこの戦時下で日本人にいたぶられ続けてきたのだろう、故国を守るための女スパイになった。そして日本側に捕まり、彼女が拷問されているところに入ってきたのは、かつて彼女を助け、思いを交わして肉体の契りをも交わした兵隊。

彼女は今でも彼からもらったお守りを握り締め続けていた。日本を、日本人を憎んでいても、彼だけはきっとずっと信じていたのだ。しかし、このちっぽけなお守りは、当然彼女を守ってはくれなかった。彼の呼びかけに朦朧としながら彼女は、彼が拾ってくれた自分の髪に刺していた花飾りを口に含む。あ、ダメ!それは、……それは毒花!彼女の誇りをかけた、そして鮮やかで美しい死に様にいささか呆然とする。そうだ、前二作は、女たちの死に様が、あまりに哀れでむごかった。彼女、陵辱されにされ続けたけど、最後は……花のような唇から華やかな鮮血をしたたらせた。その姿は不思議と安堵にも似て美しい。

こうして書き出してみると、こんなエピソードが60分の中に収まっているのは本当に驚異的。ピンク映画って、その点でまず本当に感心してしまう。確かに佐野監督が言うように、限られた時間の中で語る能力、短編、中編を構築する能力が問われる場なのだ。それにしても、時代の雰囲気が上手く出ているのには感心する。冒頭の、女残虐絵図から時代の感覚を漂わせ、基本であるいわゆる女郎はもちろん、この時代に出た外国人相手の娼婦、ラシャメンの洋風ケバさに至るまで、きっとこんな感じだったんだろうと感じさせるのだ。その他にも、ワインの入っている瓶とかもちろん現代とは違ってて、こういうのも不思議にリアリティがある。予算も撮影日数も超限られている中で、チープじゃなくこれだけ作り込めるのは、凄いという気がする。あるいは、この頃のピンク映画にはまだもうちょっと余裕があったのかな。大体、余裕がなければ準備が大変そうな脚本にはかかれまい。あ、この脚本はピンク映画の中で伝説的に名前が囁かれる中村幻児氏である。そういえば、中村監督の手による映画も観たことないんだなあ。

憲兵と娼婦(ひとつは女スパイ)という図式は、傲慢な権力と、どんな手でも使って生きていかなければいけない一般庶民という対照をなす。とことん陵辱され尽くす女たちが、自分は死んでしまってもその恨みの念を娘に託したり、相手に殺されるのではなく自分で死を選ぶという決死の選択によって、この傲慢な権力に必死に抗おうとする。たとえ自分が死んでも。こういう切迫した状況というのは、今の日本ではとんと聞かれなくなった訳だが、現在、世界中を恐れさせている自爆テロに通じるものがある気がして、ふと怖くなる。と、そう考えると、あれはやはり権力に対する弱いものの必死の抵抗の形なのだ。関係ない人を巻き込んじゃうのは、現代において歪んだ形になってしまったから。命をかけた反撃は、そう簡単に押さえつけることは出来っこない。彼らの気持ちを理解しなければ。★★★☆☆


日本の近代土木を築いた人びと
年 58分 日本 カラー
監督:田部純正 脚本:
撮影:高橋愼ニ 音楽:
出演:

2002/2/10/日  キネマ旬報ベストテン授賞式(有楽町朝日ホール)
本当に、世の中には私の知らない人たちが随分といるものだ。あるいは、世の中のあらゆるモノには、当然ながら人の力が働いているのだと今更ながら気づかされる。こういった、“国が作らせた”ものでも、実際に働いたのは“人”であり、“国に作らせる”ように働きかけたのも、人である。そもそもが国というものは人で成り立っているという当たり前のことに今まで気づいていなかったというべきなのか。それは今の日本という国にそうした人の力があまりにも感じられなさすぎるからなのか。確かに今はソンな時代なのかもしれない。全てが出来上がりすぎてしまって、出来上がったほころび……弊害や副作用をつくろって回るしか出来なくて、こんな風に作り上げていく喜びをなかなか感じることなどできないのかもしれない。

土木映画史上、個人にスポットを当てるのは初めてなのだという。“土木映画”などというジャンルがあるのかということで思わず驚いたが。鉄道土木工事の井上勝、琵琶湖疎水工事の田辺朔郎、河川改修の行政基盤を作った古市公威、その技術者として推進した沖野忠雄、小樽の防波堤を築いた廣井勇の五人。彼らがそうした事業に着手するようになったとき、本当に驚くほど若く、そのほとんどが20代だったりするのだ。そして彼らは一様に向学心に燃え、自分たちが近代日本の夜明けを切り開くのだという自覚にあふれ、その生涯を迷うことなく自分に任された道に捧げきった。誰の台詞だったか、この事業のために留学していた外国の地で、どうしてそんなに一日も休まずに勉強するのかと、下宿の女主人に訪ねられた彼は、自分が一日休めばそれだけ日本の近代化が一日遅れる、と答えたという。今の日本に、あるいは今の政治に足りないものがあるのだとすれば、若い人をここまで動かせる力がないことなのではないだろうか。まかせる勇気、そんなものが決定的に欠けている気がする。例えば政治の世界だって、これぐらい若い人に任せたっていいのではないか。

この近代土木の歴史には、彼らの他に重要な人物たちがかかわってくる。それはお雇い外国人と呼ばれる、こうした技術を授けてくれた先進ヨーロッパの技術者たちだ。この外国人技術者たちも彼らと同等にこれまた若い。日本人は彼らから貪欲に学び、そしてその恩義に素直に感謝する。例えばこんなエピソードには率直に感銘を受けた。枯れた水田に湖水から水を引く疎水工事で大地が潤ったことに感謝した土地の人たちは、その外国人技術者の銅像を立てる。やがて戦争となり、武器を作るために各地の銅像が次々と回収される中、彼らはその銅像を土の中に隠して守り、戦争が終わったあと、また掘り返して立てたという。戦争という、国が有無を言わさず民を従わせた時代に、意識さえ操作され、拒絶は非国民という言葉で返される時代に、人びとにそこまでさせること、あるいは人びとがそこまでできるということに、人間はちゃんと信念を持つべきだな、などと素直に思ってしまうのだ。

思えば外国人に対するこうした日本人の姿勢だって、こうした昔の方がよほどニュートラルで柔軟だったんではないかと思ってしまう。国際化が叫ばれる現代、私たちはこれほど彼らに対して心を開き、相互に理解し、尊敬しあうことが出来ているだろうか?否、としか言えないのではないか?また言ってしまうけれど、この作品で感じるのは若さゆえのパワーと吸収力であり、若い彼らが先頭にいたからこそ、成し得たことだったのではないのだろうか?今の日本にそれが出来ていないのは、政界を含めあらゆる面で若い人がいなさ過ぎるせいなのではないだろうか。若い人が補佐に回るのではなく、経験のある人が補佐に回ることこそが正しいのではないだろうか、補佐というものは、だからこそ意味があるのではないだろうか?そのためにベテランがいるのではないだろうか?

こうした急速な近代化推進の影には、そうスムーズに行かないことも多々あった。例えば、確かにヨーロッパの技術は進んでいて優れていたけれど、日本の川や海はヨーロッパのそれよりもはるかに激しい気性を持っており、しばしばその工事が失敗に終わって莫大な費用をフイにすることもあったし、前例のない工事を進めることによる精神的ストレスで自殺してしまう技術者もいた。しかし彼らは最後まであきらめなかったし、そうさせたのは、これがはるか未来へ、自分が死んだ後もずっと残っていく、日本という国を支えて行くものだという強烈な自覚があったからにほかならない。男子一生の仕事、などと言うけれど、その一生を越えて展望できるこんな仕事を任された彼らは、例えどんなに大変だったとはいえ、きっととてもとても幸福だったに違いない。

しっかりとしたナレーションと判りやすい図説で、記録映画のみならず、教育映画としても秀逸だといえるのではないか。教育とは人を作ること。人をつくるには、こんな風に人の物語が心を育成するには実に効果的である。国ではなく、建設会社という一企業が製作したというのも、それを企画した会社の人たちの、自分の仕事に対する誇りを感じる。加えて、この作品に出てくる五人は実にいい顔をしている。言ってしまえば皆なかなかハンサムなんである!はるか昔の偉大なる先人たちにこんな風に心ときめかすのも、結構ステキなことである。★★★★☆


ニューヨークの恋人KATE&LEOPOLD
2001年 分 アメリカ カラー
監督:ジェームズ・マンゴールド 脚本:スティーブン・ロジャース/ジェームズ・マンゴールド
撮影:スチュアート・ドライバーグ 音楽:ロルフ・ケント
出演:メグ・ライアン/ヒュー・ジャックマン/リーヴ・シュレイバー/ブレッキン・メイヤー/ナターシャ・リオン/ブラッドリー・ウィットフォード/フィリップ・ボスコ

2002/4/11/木 試写会(有楽町よみうりホール)
も、タイトルからして、メグ・ライアンの映画、って気がするものね。殆ど寅さん状態ではないかと思われるほど、メグは相手をとっかえひっかえして映画の中で恋に悩む。そうだ、マドンナが男であり、その結末がハッピーエンドである、という違いこそあれど、本当に寅さん的なまでに彼女のキャラってば変わらないではないか?なんてことを言うのは失礼かなあ。でも唇の端をきゅっと上げた、メグ独特のスマイルの横に、毎回違う男性を従えたツーショットの宣材写真を何度観たことか。もはや、どれがどういう映画だったかしらと思うぐらいだもんね。

で、今回の映画はといえば、もはや設定のネタが尽きたんじゃないかというような、時空を越えたラブ・ロマンスもので、やたらとそのリアリティを強調する割には、リアリティは、うーむ、希薄である。大体、昇進に命かけているキャリア・ウーマンが、いくら運命の男に出会ったからとはいえ、あっさり過去に飛び込んでそれをハッピーエンドとするなんて、そりゃあんまりなんである。マズいマーガリンの広告にも熱を入れて仕事しているケイト(メグ・ライアン)はさっそうとしていて素敵だったのに。確かにその一方で恋にも真剣に悩むっていうのも素敵ではあるけれど。だって、過去に飛び込んで、じゃあそのあと仕事は?どうするの?あれだけレオポルドにたんか切ってたくせに、そういうところにレオポルドもホレたんだろうに、そうした能力があればどんな時代でも颯爽と生きていけるっていうようなこと?そんなことよりも運命の相手との恋が大事ってこと?

なーんてヤボなことを言っていたら、確かにラブ・ストーリーなんぞは作れないのかもしれないけどね。しかしさあ、“白馬に乗った王子様”をその通りの画でいっちゃう“紳士 ”のレオポルドはそんなに素敵かなあ?そういう、もはや陳腐な王子様像を提示するのは確信犯なの?それで、これに女がコロッと参っちゃったとか、そういうことをマジに言うなら心底ヤメてほしい。だってさ、あれって、ギャグでしょ。バッグをひったくられたケイトを助けるために、観光馬車の白馬を見事な手綱さばきで操って彼女を助けるなんて。“観光用馬車の馬”“白馬に乗った王子様”といった記号的なファクターって、ギャグ以外のなんでもないじゃない。彼の雄姿に拍手をおくる通りすがりの見物人たちだって、“乗馬の上手い彼氏だね”と評する、引退組とおぼしき馬車のおじさんだって。むしろ、レオポルドが素敵に見えるところといえば、さすがエレベーターの発明者だけに初めて触れる電話なんかにも臆さず喜んじゃったり、果ては上手く焼けないトースターに食事の美学を損なわれて、次のシーンではきっちり焼けるようにタイマーセット?機能をつけちゃったりする、どこかスチュアート(リーヴ・シュレイバー)のオタクさにも似た部分であり、これこそが彼の根本的な姿でもあるのよね。

ヒロインであるケイトの元カレであるスチュアート(妙に貴族臭い名前ね。これって皮肉かしらん)は、長年の研究の結果、時間の裂け目を目で見ることに成功、1876年に飛び、エレベーターの発明者である公爵、レオポルドを追い、彼の図面などを盛んにその小型カメラに収めている。スチュアートの不審な行動に気づいたレオポルドは、科学者としての興味の方が先行して(そのカメラに興味を抱いたのだろう)、逃げるスチュアートを追って、時間の裂け目に彼とともにダイビング、現代のニューヨークにやってきてしまう。次の時間の裂け目が現われる時まで、何事も起こさずに彼をかくまわなければならない、と決意するスチュアートだったが、それも空しく、皮肉にもレオポルドの発明品であるエレベーターの故障(発明者であるレオポルドが時空をこえたことが影響したのか、あちこちのエレベーターが故障しまくったのだ)によって重傷を負い、病院のベッドの上の人となってしまう。レオポルドを案じて、何とか病院を出ようとするスチュアートだが、それが逆効果となって精神分裂症と診断され、ますますかたく身柄を拘束されてしまう始末。

いわば、ものごとを正常に戻そうとする当事者、スチュアートが表舞台から隔離され、物語は展開していくわけ。当然のごとく、ケイトとレオポルドの恋物語が。
男と対等に渡り合うことによって疲れてしまった女たちが、そうしたいわばフェミニストの男性に心癒されるっていうのは、それが過去の時間に生きている男だというのは、現代に生きる男女、双方に対する侮辱に思えちゃう。4年間付き合った彼氏、スチュアートと結局は上手くいかなくて、私は貴方に青春を捧げたのに!と言うと、「あれが青春だったの?」と返されていたく傷つく彼女。彼女の気持ちは判らなくもないけど、あれは売り言葉に買い言葉だったわけだし、それだけで現代の男性に対するゲンメツを感じるのはあんまりだと思う。あるいは、彼女が上司に食事に誘われる場面で、彼女は昇進の話を切り出されるのだとワクワクしているのだけれど、この上司はそれをエサに彼女を誘惑することを考えていて。そんな話って世の中にゴマンとあり、この時はレオポルドが彼の下心を見抜いて彼女を“助ける”のだけど、大体そうした下心に気づかないってあたりが、こうしたキャリアアップをはかってきた女性にしては“らしくない”し、その場を救ってくれちゃったレオポルドに紳士的なものを感じるとか、あまりにウブすぎないかあ?大体この場面は一歩間違えば彼女のキャリアをメチャクチャにしちゃう行動であって、そうはならなかったから良かったものの、そうはならなかった、っていう展開も、ちょっと甘いよね。

彼女への謝罪と、気持ちの告白をするために、レオポルドは“粋”な一席をもうける。街角の流し?のバイオリン弾きをやとっての、ロマンティックな屋上でのディナー。うーむー、屋根の上ならぬ、屋上のバイオリン弾き?この日、恐らくケイトと“ヤッちゃった”彼は、翌朝、姉をどう思っているのか、と心配する弟君に対して、愛している女性だ、とはっきりと明言する。今まで姉はしょーもない男に引っ掛かってばかりだったから心配しているんだ、というこの弟君のチャーリー君がなかなかイイ味。彼は役者の卵で、美しい発音と貴族みたいな格好と物腰のレオポルドを「凄いメソッド演技だ!」と俳優だと思い込んじゃっている。しかも彼に恋愛の指南を受け、この時はそのおかげで初デートが上手くいった翌朝でもあったのだ。このチャーリーを演じるブレッキン・メイヤー、結構見覚えがある気がする……。フィルモグラフィーを観てみると、役としての印象には残ってないけど、わりと彼のこと、見ているんだわね。親しみやすい風貌と、レオポルドよりも??意外にシッカリとした役作り。

この時のチャーリーの台詞でも、そしてケイトはまあ、別れた男という腹いせもあってか、レオポルドを拾ってきた張本人であるスチュアートは結構ボロクソに言われちゃう男なんだけど、やたら優雅でやさ男のレオポルドより、このヘンな学説を自分の力でムリヤリ証明しちゃうような研究バカ、スチュアートの方が、私は断然好みだけどねえ。半ばは自業自得で病院送りになっちゃうスチュアートが、レオポルドを心配するあまり、何とか連絡をつけようとしたり、退院しようとしたりして、自分の立場を説明しちゃって、果ては精神病扱いされちゃう始末で、いかにもソレ的な人たちのリハビリを兼ねた談話室でぼーぜんと座っている彼が愛しすぎるう〜。そこに同席していた、これは患者じゃなくて看護婦さんかな?初めて彼の話に耳を傾けてくれる女性がいて、しかも彼の真摯な語りに涙を流しちゃうんである!いやー、良かったじゃない、スチュアート。きっと、二人はこの後、イイ仲になるんじゃないかなっていう予感がするじゃない。オタクなあんたのことも理解してくれる女性がいたってことさあ。

レオポルドは自分の時代から変わらぬ姿でそこにあるブルックリン・ブリッジや、かつて自分が住んでいたお屋敷を発見して、感激の境地に至る。自分がこっそり隠しておいた、子供の頃の宝物も、ちゃんと残されたままになっていた。重厚な構えをそのまま残したクラシックな、そしてロマンティックな洋館は確かに魅力的だが、たった100何十年かそこらの歴史の建造物をありがたがる辺りは、アメリカっぽい?なんて言うのは……やはり反則かな。この建物は時空を越えてケイトとレオポルドが結ばれる“ハッピーエンディング”の場でもあり、そこで行われている昇進パーティーにムリヤリ退院したスチュアートと、事実を知ったチャーリーとが駆けつける。レオポルドと本当に結ばれるためには、時間がないのだと。証拠の写真(レオポルドが結婚披露をしようとしているパーティー――この洋館での――にケイトが映りこんでいるのだ)を見てガクゼン、そしてスチュアートの言うとおり時空を越える決心をしたケイトは(確かにこの写真に“未来としての過去”を語るだけの説得力はあるけど、それを彼女にこうした行動までさせちゃうまでの説得力があるかというと……ううむ)、もうひとつのアイテム建造物であるブルックリン・ブリッジから過去である未来へ飛び込む!もしかして、ケイトは過去と未来を行き来しながら、恋愛も仕事も成就させる、ってことなのかなあ……。そうでもしなきゃ、本当のハッピーエンドとは思いたくないぞお。

レオポルドをCMキャラクターに起用した、脂肪分ゼロのマーガリン。レオポルドはそのあまりのマズさに撮影中、ボイコットしそうになるのだが、ケイトはダイエット食品だからマズいのは当然、それを売るのが仕事なのよ、と言い放つ。“ダイエット食品だからマズイのは当然”ってあたりもアメリカよね〜。だって、日本だったらさ、ダイエット食品でもそれなりに美味しく作るよね。そうでなきゃ、売れないから。確かに向こうで売られているファットフリーの食品なんか、マズくって食べられたもんじゃない、ってよく聞くよなあ。食事のありがたさとダイエットの大変さとの間にきちんとギャップがあるというのは、まあ、ある意味いいことなのかもしれないけど……。あ、そうそう、冒頭にケイトと上司との場面でだったか、“エダマメ、どう?”とちゃんとエダマメって発音で、これは本当に美味しそうな枝豆がずずいっと画面のこっちに差し出されてきたのには、思わず笑っちまった。えー?向こうでエダマメって名前でそんな一般的になっているものなのー?日本酒がサケとして普通にあるくらいだから、そのサケのつまみであるエダマメも根付いているのかなあ。でもエダマメといえば、日本人にとってはビールのつまみだけど……。

スチュアートの留守中、レオポルドがまごまごしている中を、空気のようにすうっと入ってきて、ハッとレオポルドが気づいて振り向くと、スナックを食べながら、凶暴な犬もおとなしくさせてすっかりくつろいじゃっている男の子、その“間”がかなり笑えたんだけど……でも、あの子は結局ナニモノだったの?スチュアートって、子持ち?ちがうよねえ……ベビー・シッターしている子かなんかなのかなあ……。何かその後の描写でも、チャーリーともどもすっかり仲良しになっちゃってたけど?★★☆☆☆


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