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「ち」


2002年鑑賞作品

チェルシー・ホテルCHELSEA WALLS
2001年 109分 アメリカ カラー
監督:イーサン・ホーク 脚本:ニコール・バーデッツ
撮影:トム・リッチモンド/リチャード・ルトコウスキー 音楽:ジェフ・トゥイーディー
出演:ユマ・サーマン/ロバート・ショーン・レナード/スティーヴ・ザーン/クリス・クリストファーソン/ヴィンセント・ドノフリオ/ナターシャ・リチャードソン/チューズデイ・ウェルド/ロザリオ・ドーソン/マーク・ウェバー/ジミー・スコット/ドゥエイン・マクラフリン/ジョン・セイズ/ビアンカ・バキージャ/ケヴィン・コリガン/フランク・ウェイリー/ポール・ファイラ/マシュー・デル=ネグロ/パズ・デラ=フエルタ/ギレルモ・ディアス/マーク・ストランド/ヘザー・ワッツ/ハリス・ユーリン/サム・コネリー/リック・リンクレイター/ピーター・サレット


2002/9/5/木 劇場(新宿テアトルタイムズスクエア)
正直、かなりの期待度だったのだけど。イーサン・ホークが初監督、というのも興味があったし、予告編で見た美しさも個性的で豪華なキャスト陣も、全てがそろっていたのに。舞台はチェルシー・ホテル。さまざまなアーティストたちが集っていた伝説のホテルだったのだという。確かにそのメンツは凄い。その場所には彼らの残した何か目に見えないエネルギーが残っているんではないかという気が確かにする。けれども、この映画にはそうした具体的な人物が出てくるというわけではなく、あくまでそうしたアーティストたちを象徴するキャラクターに語らせている。その“象徴”が確かに判るんだけど、実際の人物が与えるような切迫した感じを与えない。例えばこのホテルでシド・ビシャスが、恋人ナンシーを殺した。そうした実際の逼迫した感じが、“象徴”ではどうしても出ないのだ。無論、逼迫した映画を撮ろうと思っているわけじゃないんだろう、それは判っている。しかし“象徴”としての彼らの、“象徴”としての言葉は、正直、弱い。美しいだけに、余計に弱く感じる。

しかも、登場人物が多い。女と酒に溺れている作家、詩人を目指すウェイトレス、老練なジャズボーカリスト、ミュージシャンを夢見て都会に出てきた若者……このホテルにいたさまざまな人たちを“象徴”させたいのだろう、しかも彼らそれぞれにメインを張らせているので、どうしても散漫な印象を与えてしまう。しかも、彼らそれぞれのエピソードが劇的に展開するということもないので、散漫さは一層つのり、しまいには眠い目を一生懸命指で押し広げているというありさまである。それらを演じる役者たちは皆達者だし、演技的には完璧と言っていいほどなんだけど、それだけに、惜しい。演技が、役者が映画として回りだしてこない。映画的なワザとらしさを嫌う気持ちは判るし、伝わるのだけれど、映画は映画、きちっと見せてほしいんである。どこか劇団クサいというか、そういう独特の青臭さを感じてしまったんだけど……イーサン・ホークは実際劇団の主宰者だというので妙に納得。悪い意味でのアンダーグラウンド味を映画に持ち込んじゃった気がする。

こういう映画、優しい気持ちになるとか言うのは簡単だし、それがウソでもないんだけど、正直そういう言い訳も聞き飽きた気がする。クリストファー・ドイル風の画像も近頃良く観るし、こういう画にこだわりすぎなんじゃないかって気がする。低く流れっぱなしの音楽も、何だか垂れ流しの印象を受けてしまう。むしろ静寂が欲しい。特に、こういう“詩的”な映画には。詩的、と言ってしまったし、多分イーサン・ホーク監督にもそういう意図はあるのだとは思うんだけど、これがまた難しい。言葉があふれているのに、喪失している。それは、私が英語が判らないせいなのかなと思わなくもないのだけれど、この言葉の数々も先述の垂れ流しの音楽と同様にただただ不用意にあふれっぱなしでアクセントがなく、心に留まる言葉が一つもないのだ。……というのは、勿論、私にとっては、という意味においてなのだけれど、でも滝のようにこぼれ落ちていく言葉の中から心に留まってくれる言葉をせき止め、拾い上げるのはやはり困難なのではないかと思う。“詩的”を映画にするのって、実はとっても難しいんだよ?ただ詩を映画の中で唱えているだけでもダメだし、詩的な映像だけでもダメだし。少なくとも、もうちょっと核となる言葉を決めるとかして、言葉を大事にしてほしかった。

そういう意味では、脚本に引きずられているんではないか。脚本で映画が決まるというけれども、その脚本の中の言葉の、どこにウェイトを置くか。それがまるで決まっていない印象を与える。役者と脚本に頼りっきりになってしまっている気がする。確かに役者も脚本も個性的で、非常に洗練された匂いはするけれども、映画のボディーラインを描くのはあくまで監督なんだから。この脚本からは、意図的なドラマティックを避け、このホテル自体がドラマティックであるということ、そしてその場所に集った人間たちの過ごした時間のドラマティックさ、つまり形而上、形而下をあくまで日常的な中に描くことでドラマティックをあぶり出す、という風に感じたんだけど、でもそれもまた、難しいんだよね。どんなに本質的なものがドラマティックでも、それをあぶり出すためには、何かマジックをかけてやらなきゃダメなんだ。ただ日常生活では、それは映画にするほどドラマティックじゃないんだ。それをいかに魅せるか……本質的なドラマティックを信じているだけじゃ、ダメなんだ。

このホテルの中にはそれまでここに住んでいたゴーストがいて、時々住人の前に姿を現すんだという……あ、そうなの?そんな匂いは全然感じなかったんだけど。それをふまえて観てたらまた違ったのかなあ。でも、それもまたちょっと観念的なことにとらわれ過ぎかな。文学の時点ならばそれはアリだと思うけど、芝居の領域になってくると、やっぱり違うと思うのだ。文学における詩的な美しさと、芝居→映画におけるそれとは、アプローチの仕方はおのずと変わってくる筈。原作がある場合だって、忠実な映画化なんていうのは陳腐な物言いに過ぎないのだ。映画は、いや、全てのそれぞれの芸術は、完全に独立しているからこそ、意味があるのだから。映画は総合芸術と言われるから、リンクする部分でそういう誤解も生じちゃうけど、それも映画の独立性を妨げていると思う。むしろ原作、脚本からでさえどれだけ離れられるかが映画の勝負どころだと思うのだ。

ホテルでの物語、しかもそこに暮らす人々はどこか変わり者ばかり、というのは、「ミリオンダラー・ホテル」を思い出させたりする。あの映画にも住人として実にさまざまな人が出てきたけれど、重点は主人公カップルに置かれていたから、ちゃんと腰の座った映画になっていたのだよね。それぞれのキャラクターに平等に愛情を持つのは判るけれども、映画を語る上では、やはりそういった決断、潔さは必要。文学と違う難しさはそこなのだ。映画は芸術といえども、エンタテインメントを失うことは出来ないから。それは映画の成立要素のひとつだから。

さっき、あんなこと言っちゃったけど、水に濡れたガラスの宝石のような画像は確かに美しい。そうした映画的映像の雰囲気はものすごくある。恋人たちの会話は、しかし結局は真に愛してはいないことを確認しているかのようであまりに空しく、空しいからこそ美しい。そうだな……例えば、“その愛のために死ねるほどに”、だなんて、確かに言葉だけの話。それが真実なら、やはり世界の中に“真に愛している”人など、一握りしかいないのかもしれない。そう思わせるのは、確かに“詩的”だ。クリス・クリストファーソンや、チューズデイ・ウェルドなどのベテランは、超クローズ・アップの表情で映画を持たせて、さすがと思う。言葉はひたすらに指の隙間からこぼれ落ちていくばかりだけれど、彼らの表情は言葉以上に詩を語りだす。言葉が、脚本が、役者に負けてしまっている、それは映画にとって幸福なことなのかもしれない。

そう。クリス・クリストファーソンは、素晴らしかった。イーサン・ホークの愛妻で、同列のキャストの中でもヒロインというべきユマ・サーマンのような若い女にもちゃんと手が出せるような?(まあ、結局は出せなかったけど)チャーミングな女たらし。実際、こういうオジサンに迫られたら、陥落しちゃうよなあ。その点、男性はやっぱり得だと思う。いくつになっても、というか、年齢を重ねればそれ相応な性的魅力を備えることが出来るんだもの、女性はその点、やはり難しいよなあ……何で男性はより若い女の方が好きなんだろ?女はいくつの男性にもそれぞれの魅力を感じるのに(と、いうことは、女の方がインランっぽい!?)

「ベルベット・ゴールドマイン」→「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」ときて、本作に来たのがあまりにもナルホドな映画制作会社による作品。非常にポリシーがしっかりとしていて、今どき珍しく、頼もしい感じ。そしてイーサン・ホークである。何はともあれ、デビュー作は、自分の好みの世界を、ある意味実験的に撮った。第二作、第三作とどうなるのかが、楽しみである。そう思わせるだけの映画への愛と勢いは充分、感じた。★★☆☆☆


痴漢ONANIE覗き
1992年 60分 日本 カラー
監督:佐野和宏 脚本:佐野和宏
撮影:斎藤幸一 音楽:山田紋二郎
出演:中川みず穂 佐野和宏 岸加奈子 小林節彦 梶野考 今泉浩一 山村まりも 青木ちくわ

2002/11/17/日 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/AN)
この日トークショーに登場した監督たち……本作の佐野和宏監督は、自分が俳優として作品に参加した田尻裕司監督に酔っ払い状態で楽しそうに絡みっぱなしで、その図は見ているこっちも実に楽しくて(「早く田尻を呼べ〜!」と登場しょっぱなから乱れ気味(笑))、酔っ払いながらもちゃんと?マジメなことを言う佐野監督と、もちろんしらふで超真面目な田尻監督が、ほっんとうに面白かった。酔っ払っている佐野監督は、他の人のトークの間もずーっとヒソヒソ楽しく喋りっぱなしなんである。もう愛しい人だ(笑)。そんな二人の相違点、それは、ラブ・ストーリーとしての映画を、ピンクには不可欠のセックスシーンを織り込む構成まできちんと構築していこうとする田尻監督と、そのあたりはいわば映画的本能で、とにかくひとつの映画作品として作り、観客にもひとつの映画作品として観てほしいという佐野監督。60分あまりという制約をエチュードを作る場としてとらえ、いい短編が作れない作家は長編も作れない、と芥川龍之介を引き合いにして語ったのには大いに興味をそそられた。来たるべき長編に向けて。佐野監督は12時間の大作を、だなんてジョークでそらしたけど、来たるべき長編、早く来て欲しいものである。

佐野監督作品を観ることが出来たチャンスは、これまで「変態テレフォンONANIE」たった一作、でもそれだけでこの人は天才だと、そう確信するのに充分だった。俳優業が多く(確かに名優だからなあ……)監督作品となかなかお目にかかれない中(しかも私は一般劇場にかかるチャンスを待ち続けているんだから、よけい会えないのだ)、ようやく今回のチャンスはしかしオールナイト……でも睡眠時間が全然取れなくったって、栄養ドリンクを何本も買い込んでこの監督の作品には駆けつけるだけの価値があるってもんである。自ら役者としても出演しているこの作品は、役者としての佐野氏のただならぬ才能も同時に発揮している。大きなピアスをしてハデなシャツを着、廃物現場で仕事をし、ポーカー好きで、豚足好きで、愛を示すのはセックスだけ、という荒くれ男がもの凄い強烈。

どこか時間の感覚を狂わせるような黄色い画面から始まる。のろのろと走っていく路面電車。現実離れしたお嬢様ファッションで降り立つ女。部屋が決まるまでしばらく寄せてもらう、と妹のマンションを訪れる。妹はしごく真っ当な普通の主婦。恋人が事故で死んだ、という姉をいたわり、ワンルームマンションをカーテンでくぎって彼女の部屋を作ってやる。姉は、作ったような声の、山の手の奥様風の喋りで、どうも胸くその悪い女。ワインはあるかしらだの、ウイスキーの銘柄は何かしらだの、ろうそくの炎の元で食事をしたがったり、何かとにかく異常に気取っているのだ。いや、というより、どこか、おかしい……妹のダンナ(佐野和宏監督自身が演じる)はそれを素早く見抜く。彼女のスーツケースを物色して、潔癖な女がこんなスケスケのパンツなんかはくかよ、どう見たって男に見せるための服だろ、と喝破する。

カーテン一枚隔てた向こうには、姉がいる。それを判ってて、ダンナは妻のエミコを挑発し、セックスする。獣のように。それをこっそり覗き込む姉。それもまた、判ってて……。「あの男は、肉体のつながりしか考えてないのよ。魂のつながりなんて、全然考えてないのよ」そう妹に苦言を呈する姉。彼女のような気取った女が、そんなことを言っても上っ面な響きにしか聞こえないよ、と思う一方で、彼女のその言いようはいつもの気取った喋り、そのメッキがうっかり少しだけはげているような気もして、気になってくる。彼女はこんなことも言う……「命を持たないものに教えられることもあるのよ」。

彼女はただただ美しいものだけを偏愛している。キラキラと光を反射する小さなガラスで出来た動物たち、ラジオから流れるロマンティックな音楽(この切ない「コーリング・ユー」のメロディーが全編をいろどり、胸が締めつけられる)、ろうそくの明かり、真珠色のガウン……でもそれは、ガラスがカシャンと壊れたり、スイッチをひねれば無粋にメロディは寸断されたり、ちょっとした風で吹き消されたり、薄く華奢な布地は叫び声のように引き裂かれたり、だなんてことを想像してしまうくらい、不安定で、もろい。壊れてしまったら、その存在は、過去にそこにあったことさえ忘れられてしまうぐらい、もろいのだ。彼女は、ろうそくの炎が燃え尽きるのを見たくないといって、自ら吹き消す。それは知らず知らずのうちに忘れられてしまう、じわじわと精神的に殺されてしまう自分を、そして誰かを思い出させるせいなのか。それぐらいなら、自分の手で、決着をつけたいと。

彼女はダンナのポーカー仲間の一人である純情そうな男に見初められ、交際をはじめるものの、若い女と一緒にしてほしくない、などと言って身体には触れさせない。しかしその一方で、新聞の集金にきた若い男を引きずり込んで、誘惑するようなそぶりを見せる。しかしそのアルバイト青年にキスをひとつ贈った後でガラリと声音を変えるのだ。「さっさと出て行って!」それまで聞こえていた彼女の作り声とはまるで違って、驚く。彼女は口とは裏腹に、体のうずきに耐えているかのよう。妹夫婦のセックスを思い出しながらのオナニー、そして彼女の脳裏にフラッシュバックのように現われる光景……人体解剖図。肉体と魂を標榜する彼女の中にフラッシュバックする人体解剖図、一体これは……。

高校教師をしていた時に恋に落ちた男子生徒と駆け落ち同然に街を離れ、暮らし始めた過去。医者になりたい、というその若い恋人の願いをかなえるため、彼女は教師を辞めて娼婦に身を落とす。彼はそのことは知らず、恋人が自分とのセックスを拒否するために欲求不満が募り、毎年毎年、医大の受験に失敗してしまう。そしてある日、彼は知ってしまうのだ。彼女が身体を売っていたことを。愛は魂の結びつきだからと説いていた、国語の女教師が、自分とはセックスせずに他の男に身体を許していたことを。彼は人体解剖図に彼女を押し付け、ここのどこに魂があるんだよ!と叫ぶ。そして、彼女は彼を刺してしまう。彼が病院から出た時、彼女の姿は消えていた。彼は彼女を探して探して、妹のダンナを訪ねてくる。事故で死んだと聞かされていたけど、と言うダンナに、彼は言う。「彼女にとっては僕は死んだようなものなんでしょうね」

国語の教師をしていた彼女が、文学的に愛のよりどころを魂に見ていたのは、判りすぎるほどに判る。そしてそのことで、自分の行為をなんとか言い訳していたことも。でもそうやって言い訳していた行為を続ければ続けるほど、その行為自体が彼女にとって許しがたいものになって、恋人とその同じ行為をすることなど到底できなかったことも。彼を愛しているから、だから選んだことなのに。魂の結びつき、でも魂は器が、肉体があってこそ宿るものなのだ、ということを彼女は見落としてしまった。そしてそれに気づく前に、恋人によって、肉体に魂などないと、言われてしまう。国語の教師と、医者を目指す青年、その観念にはそんな風にあまりにも隔たりがある。その隔たりを象徴するのが、あの人体解剖図だったのだ。人形のように無表情な顔をした人間の顔の下に、むきだしにされた臓器。今なら判る。彼女が激しいセックスをする妹のダンナや、そのダンナが好物だという豚足に、あからさまに嫌悪感を示したのが。即物的な肉体に、彼女は自己嫌悪こそを感じていたのだ。魂のない自分を、見ていたのだ。

でも、この妹のダンナは、言葉だの、魂だの、そんなもの意に介さないし、というかそんな教養なんてないような男だけれど、でも愛情はあるのだ。深く深く、たっぷりとした愛情があるのだ。彼は確かにそれをセックスでしか示せないのかもしれない。でもずっと、魂という“言葉”でごまかしてきた彼女には、痛いところがあったんだ、きっと。魂を行為で示すことが出来る彼がまぶしかったんだ、きっと。言葉なんて、発せられたとたんに消えてしまう、あのガラスの動物たちみたいに、いやそれよりももっと壊れやすいものなのだ。短気でワガママなこの彼が、この彼女のことでヒスを起こして彼女の妹である妻とケンカするのだけど、「エミコ、エミコ!」と叫び続ける彼に妹は負けて、彼の寝床へと行ってしまう。そして狂おしくセックスをする。それをまた姉は覗き見ている。そのまなざしは、欲求不満とかそんなものとは程遠い、悔しいような、哀しいような色をたたえている。辛い。

この、妻の名を叫び続けるダンナ、荒っぽい男でいかにも亭主関白のように見えて、でも実は妻のこと凄く愛してて、寂しがり屋で、弱くて、ってことを感じさせて、もうとてつもなく切なかった。妻に言わせる台詞なんかかなり露骨でヒワイなんだけど(キスするのに「ベロ出せよ」とか「クリ×××舐めてくださいって言えよ」とか)、それもまた、どこか寂しい支配欲を感じるというか。佐野氏が、上手すぎるんだもん、とにかく。確かに俳優業に多忙になるのも、無理ないよね、何でこんなに上手いのかなあ、ホント、胸をかきむしられちゃう。難しいこと言われたって判んねえよ、という、完全に肉体系の男の観念を演じるのって、それこそもの凄く難しいと思うのに。たまんないよなあ。そして、姉の心の中で殺されてしまった若い恋人の男の子。「変態テレフォンONANIE」の映画マニアの少年、だね!助監督にも名前を連ねている彼は、しかしそのヌーボーとした雰囲気といい、独特の語り口といい、彼もホント上手い、いい役者だと思う。彼を見ているだけで切なくなっちゃうというか、独特の哀切のオーラを持っている人で。

この作品世界って、心をモノや行為に託していて、でもそのモノや行為がどれだけの意味を持つのかってこと、魂が宿せるのかっていうことを、訴えているように感じる。あの姉の偏愛する小物たち、そして妹のダンナが働く人気のない寂れた廃物現場や、そこで乾いた轟音を立てて車を潰すブルドーザー。でもそうした生活の中で、あるいは生きていく中で、必要だったり必ずしも必要じゃなかったりするいろんな無機質なこと、それは確かに愛や魂にいろんな作用はもたらすけれど、ただ愛を、魂を信じられれば、そのことこそが幸福だと言えるのかもしれない、って。余計なことなど考える頭のないダンナは、愛する妻を抱くことで、日々充分に幸福。でも、余計なことばかり考えてしまう姉は……その悲劇的な結末は、でもあまりにロマンティックだった。シャワーの湯に、手首の血を滴らせる姉の姿が。彼女の自殺を見て救急車を呼べなかったダンナの方こそが、正解だったのかもしれない。彼女の思いはあそこで完全に、完結されたから。救急車を呼んだ妹が、冒頭の姉と全く逆の描写で、姉が白いいでたちだったのに反して黒の喪服で、逆方向の電車に乗る描写で終わるのは……やはり、彼女はこの街を出て行ってしまうのだろうか?

やはり、他の作家とは確実に一線を画す映画作家。ピンクというジャンル、あるいはタイトル、そういうもので一般から隔絶されてしまうのはあまりに惜しい。若松孝二監督は、ピンク映画が一般から認知されるようになってダメになってしまった、と実に彼らしいアウトロー論を語っていたけれど、確かにそういう認知されない厳しさの中でこそ作家が育つということもあるのだろうけれど……。フィルムの残存が難しいピンク映画の中で、佐野監督作品をあとどれだけ観られるのだろうということを考えても、やっぱりここは12時間でも何でもいいから確実に残る“長編”を撮ってほしいのだ。お願いだから!★★★★☆


痴漢電車 感じるイボイボ
1996年 63分 日本 カラー
監督:今岡信治 脚本:いまおかしんぢ 星川降宣
撮影:鈴木一博 音楽:
出演:川瀬陽太 水野麻亜子 林由美香 佐野和宏

2002/11/10/日 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/AN)
今岡信治監督の作品を観られるのは、これでやっと二本目。佐野和宏監督と並んで今最も観たい監督の作品なのだけど、佐野監督とご同様、これがなかなか観られないんである。成人映画館に出かける勇気があれば別なのだが……(それにしても、ここ最近は今岡監督作自体も少ないらしい)。これは監督デビューから間もないころの作品ということで、某有名監督の影響なども囁かれているらしいのだが、私はその監督にもこれまた恥ずかしながら詳しくないので問題なし。

ソフト化されることはまずないであろう、という原因である(許可なしに勝手に使ってしまった)曲……劇中で主人公の男女二人が口ずさみ、ラストには原曲が流れるのはなんと中島みゆき御大の「鳥になって」である。ちょっと驚きながらも、今岡監督と中島みゆきの醸し出すイメージには、確かにどことなく重なるところがあるなあ、と思う。みゆきさんは結構色々と変遷を遂げているけれど、ある一時期の中島みゆき節といったものが、この今岡節(というほど知らないけど、そんな感じ)と不思議なほど寄りそうのだ……若さの中に見え隠れする死の観念、とでも言ったようなものが。思えばみゆきさんは最初の頃は死にたいとか死んでしまうとか、そういうネガな歌ばかり歌っていたけれど、キャリアを重ねるにつけどんどん強くなっちゃって、いまではどんな嵐にも立ち向かう強い女性の象徴のような歌姫。今岡信治監督もひょっとしたら、こんな風に意外な変遷を遂げるのだろうか。

タイトルに入っている“痴漢電車”が冒頭の、ほぼ意味ない部分でしか示されていないあたりはいかにもとりあえずこなしました、のピンク映画らしい義務感が出ているけれども、そのあとは期待通りの今岡節。上映前のトークショーで注意?されたとおり、二箇所ほどストッと寝入ってしまったけれど、それは言われているような“眠くなる映画”だからという訳ではなく、ただたんにこの前日は朝3時半起きでいつもどおり仕事をし、その後ろくすっぽ仮眠もとらずにこのオールナイトに足を運んだ私の無謀さのせいで、他の作品も完璧に観ることが出来たのはないんである……ごめんなさい。寝入ってしまったのは、どうやら佐野和宏(監督)演じるマスターが殺された場面と、青年と少女がラリってからのどこかの一場面で……私の受けた感覚を決定的に変えるシーンでないことを祈るけれど。

新宿御苑近くのマミー薬局で買った、睡眠薬まがいのウッドというクスリをかじりながら書いた脚本、などと今岡監督が言うこの物語は、青年の抜け落ちてしまった記憶をたどる、それもラリッた中でたどる、回想は本当の回想なのかそれとも悪夢のような夢なのかもわからない、死への道行きである。冒頭、青年は母親のものだという骨箱を抱えているが、彼が捜し求めているのは恋人のイチコであり、そしてどうやらそのイチコは彼自身が殺してしまったらしいことがラストになって示唆されるのだ。母親の死と恋人の死が、記憶を否定したがっているかのような彼の中でない交ぜになっているのは、どこか危険な血と肉の香りを感じさせる。しかも彼はこの恋人であるイチコの顔を思い出せないのだ。彼女が赤い服を着ていたことだけは、何となく覚えている。冒頭に彼が「きれいだろ」と取り出した、母親の骨のかけらで愛撫を仕掛ける電車の中の女性から始まり、街なかで片っ端から声をかける女たちは皆赤い服を着ている。共通点は赤い服だけで、これが奇妙なまでに皆、似ていないのだ。

彼と一緒に恋人探しをしてくれるのが、タカコという少女。彼女は最初セーラー服を着て現われ、しかしその足元は赤い華奢なヒール靴を履いているのだ。浅黒い顔はあどけなく、黒くパサパサの髪と少女らしいふっくらとした身体つきはそのセーラー服どおりの純真な高校生に見えるので(ヘタすると中学生にも見える)、最初彼に会ったとたん狭い部屋に引き込んで、彼女主導でゆっくりと騎乗位で彼を昇天させるのに驚かされることとなる。セーラー服を着ているとお金をくれる人がいる、と言う彼女はもうだいぶ前に高校をやめており、計算からいうと少なくとも二十歳は過ぎているらしいのだが、とてもそんな風には見えない。彼女もまたイチコのように赤くてふわりとした大人びたワンピースを着るのだが、やはりあどけない。青年の筋肉質の体を挟み込むパーンと張った太ももと、寝ても盛り上がったまま崩れない胸のふくらみは、あんなに強く揉みしだかれたら痛そうに見える程これまた張り切っていていかにも若く、まだまだ熟していない可憐な青い果実だ。

彼女によってもたらされた怪しげなクスリで、青年はフラッシュバックのように過去の女たちを思い出していく。その女たちとセックスしている部屋の情景を。雨だれのように水が降り注ぐ音がするその部屋の中は奇妙に明るく、まるで狐の嫁入りのような不可思議な感覚を思わせ、やはりただの回想のようには思えないんである。いつの頃からか(というあたりを寝てしまったか)彼とタカコは長い紐にくくりつけたお守りを首からぶらさげている。これも何かヘンな感じだ。神様によって記憶を呼び覚ましているみたいで。まるでイタコみたい……?彼は夢の合間にタカコともセックスをする。色あせた畳敷きの部屋に、赤いマットレスは横にのけてあり、直接敷布団を敷いた上にはやはり赤い掛け具がかかっている。情念の色。欲望の色。恨みの色。あるいは、やはりこれは血の色?彼が思い出す本物のイチコは、彼の下で象牙のように白い全裸をさらして、死んでしまった。彼女の“下”からどくどくと流れ出した血を掬い取って彼女の白い体に塗りつける彼。狂ったように。自分の体にも、そして顔にも。

イチコを演じるのは、いかにもコケティッシュでなまめかしい林由美香。あどけないタカコとは実に対照的で、彼の中での母親と恋人からつながる危険な連鎖をここにも感じてしまう。そして彼は、死んでしまった(彼が殺したの?……見逃しちゃったよ)マスターからもらいうけた手作り時限爆弾をもてあそび、タカコとともに危険なゲームを繰り広げる。時限爆弾をコインロッカーに入れ、時間ギリギリまで電車に乗って止めに走るという……。そして彼がイチコの骨を探り当てた時、いつのまにやら(ここも寝たか……)タカコは死んでしまっている。すその長い真っ赤なワンピースから、白いミニのワンピースに着替えたタカコは、そのいでたちが彼女の幼いかわいらしさに良く似合っていて、その白い格好はまさしく死装束なのに、不思議に可憐でキュートなのだ。彼は彼女とコインロッカーに寄りかかって、手にした爆弾が爆発するのを待つ。しかし、時間がゼロになっても、それは爆発しない。爆弾じゃなかったのだ……彼は哀しく笑いながら爆弾を叩きつけ、彼女の亡骸に肩を持たせかける。中島みゆきが静かに流れる。画面は白くなって……ホワイトアウト。

視線が定まらないままさまよい続け、クスリが入ってからは完全に目がイッちゃってる主人公の青年を演じる川瀬陽太。彼はもう随分とずっと主役級をまかされてて、そしてずっと上手いんだな。その身体はホレボレするほど無駄なく引き締まっていて、セックスシーンでは腕や足はもちろん、背中や臀部にまで筋肉の動きが判る、まるでアスリート選手のような肉体。そして厚めの唇が微妙にバランスを崩す風貌が、泥臭さの中に色気を漂わせていて。ピンクは女優で観るものだと思うけど、彼は非常に面白い個性の役者さんだと、観るたびに思う。

それにしても、このタイトルにもなっている、女が潰してと言い、男が潰すぞと言うイボイボっちゅうのは……あのう……。★★★★☆


チキン・ハート
2002年 105分 日本 カラー
監督:清水浩 脚本:清水浩
撮影:高瀬比呂志 音楽:鈴木慶一
出演:池内博之 忌野清志郎 松尾スズキ 馬渕英里何 春木みさよ 尾美としのり 荒木経推 岸辺一徳

2002/8/20/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
前作であるデビュー作品で、すでに世界に打って出てはいたものの、北野武監督の助監督としての紹介と、国際映画祭で賞を取ってさえ、ダンカンの脚本・主演ばかりを言われた、幸運なんだか不運なんだか判らない出だしだった清水監督。本作は脚本から手がけた、満を持した作品のはずであり、そのドライなユーモア感覚は、デビュー作からの流れをしっかりと受け継いでいて、決して北野武やダンカンの色からもらったものではなかったことが証明された。ただし、個性というにはちょっと大人しめのような感じも受けたのは事実だけれど。

この作品は、キャスティングの勝利。それも特に、忌野清志郎御仁の勝利。三人の主人公の中で、さらにピンでの主演は誰かといったら再若手の池内博之であることは話の展開上からも疑いのないところではあるのだけれど、彼は中年、さらに中年の濃ゆく煮詰まった二人にはさまれて、さすがに青臭い印象は否めない。彼も個性的な人だし、決して薄いはずもないんだけど、やはり松尾スズキと忌野清志郎じゃねえ。しかもここに脇役にはあまりにもったいなすぎる屋台バーのマスターとして、アラーキーまでカラむんだから、ちょいと気の毒。勝てるわけないでしょう、この布陣じゃ。

世間で一般的に生きていくことに自信がなくて、ついダーラダラした生活を送っちゃっている、世代もバラバラなチキハ三人衆。どんな縁でか仲間になって(というのが、オフィシャルサイトで妙に細かくウラ設定が披露されている。面白いけど、どこまで反映されているのやら?)日も暮れた頃に集まって、二分二千円の殴られ屋を開業。新人王手前まで行ったという、元ボクサー、岩野(池内博之)が殴られ役。といってもその絶妙のフットワークで相手のパンチは殆どかわしちゃうんだから、金払って殴ろうって方はもっとストレスたまりそうだが。タイムキーバーがラッキーアイテムやコレクターズモノが大好きな丸さん(松尾スズキ)。そしてもう一人は、岩野と同じアパートに住んでいる、一見一番普通そうだが、すぐに一番ヘンな人だと判るゴーイング・マイ・ウェイな怪人、サダさん(忌野清志郎)。そして殴られ屋の店じまい後は、壊れ物機械の修理ばっかりしているマスター(アラーキー)のいる、おでんの屋台で一杯やるのが彼らの日常。

丸さんは、昼間は流行らない帽子屋の店番をしている。てっきり彼の両親の店かと思ったら、叔父夫婦の店らしい……しかしそんなの劇中じゃさっぱり判らない。彼の見ている通販雑誌とか、それで買ったらしいトレーニング用具とか、あるいはカタログ見ながら飲んでいるサンガリアのみっくちゅじゅーちゅとか。あるいはあるいは、おでん屋に持ってくるねじ仕掛けのカタツムリのオモチャ、さらに顔まで伏せてゴメンナサイしている福助人形(これ、めっちゃカワイイ。欲しい。)など、全身コレクターズアイテム人間。果てはマリンスタイルにパイプくわえて(ハッカパイプだったりして)絵のモデルにまでなっちゃうが、彼を描いてくれているのは三人のうちたった一人で(キザなポーズをとっている彼を妙に上手く描いているのが笑える)後の二人は、そのバックの自由の女神のレプリカと、更にその後ろの風景描いてる。笑える。

まあでも、この松尾スズキさんのキャラは、ホント実に秀逸なマンガッチックキャラで、ある意味松尾さんが完璧すぎて、脱力感に欠けるかもしれない。実際、こんなにヘンな人で、普通の生活なんか営めないように見えて、三人の中でただ一人、もっともマトモなカツラ会社のサラリーマンにハマッてしまうのだから、実は結構常識人だったのかもしれず、世間にぶつかることよりも、世間にハマってしまうことを恐れていたのかもしれない。でも入ってしまうと、彼はすんなりと向こう側の人間になってしまう。そして取り残されたのは……。

脱力感に欠ける、などと言ったのは、サダさんに扮するキヨシローさんの脱力感ぶりがあまりにあまりに素晴らしいから。メチャクチャでワケワカラン、ジコチューな人物で、とってもイイヒトであるキヨシローさんとは実際は遠いキャラであるはずなのに、それをキヨシローさんは、いつものキヨシローさんのまんま、素のまんまで演じちゃっているのが素晴らしいんである。そのラフなカッコもいつも見るキヨシローさんのイメージそのままで、何だってこの年でこんなにキュートなんだよ、コンチクチョウ!ああ、この脱力の具合の素晴らしさ。アクションをするのに反動や構えがまるでないのがホントに素晴らしい。「まいったなー」(“た”にアクセントが来るのがポイント)を意味なく繰り返しておもちゃのカタツムリを歩かせる丸さんに「うるせーなー」とそのカタツムリをボチャンとおでんの中に落としたり、うじうじしている岩野に唐突にボカンとパンチを入れてみたり。

一番ケッサクだったのは、丸さんがセッティングした合コンでの場面。行かねえよ、と言っていたのに現れ、自分はデザイナーだとか、ボディボードだかスノーボードだか(何だっけ)が趣味だとか、ウソ八百並べ、それにつられた女の子が「今度教えてくださーい」とバカっぽく頼んだのに対して、間髪入れず「ヤだよ!」と即答する、あの緩急とリズム、間のなさが最高!一人全くのマイペースでガバガバワインをガブ飲みするし、果ては急に出てっちゃったと思ったら、「アディオス!」の掛け声とともに消化器をブワー!な、何なんだ、この人は!?彼にアコがれる岩ちゃんが嬉しそうに披露するサダさんの数々の豪快なエピソードも、自然に目に浮かんじゃう。この人の構えのなさって一体どこから来るんだろう?これってやっぱりいわゆる役者にはない、音楽人の感性なのかもしれないなあ。実際、キヨシローさんって、ホント、本能、感性、自然体ってなお人だから。

でもね。この場面といい、“若いオンナ”の描写はつまらないよね。バカっぽい合コンに、果てはキャバクラ嬢だなんて、あまりにつまらなすぎる。ちょっと面白い大阪女キャラ、美樹(春木みさよ)も出てくるけどさ、でも彼女もホステスなわけでしょ?男をつかまえる合コンとか、キャバクラ嬢とかホステスとか、何なの、このお約束の記号は?うーん、それこそちょっとキタノ風だよね。それとも三池風?あ、それと。大阪女ならもっと威勢よく、美味しそうにバクバクとタイヤキ食べて欲しい。あんなちびちび食べるなっつーの。それと、いつでも牛乳出しているのは、何の意図だか知らないけど、画的にも面白くない。

ところでこのサダさん、物語も後半になって、彼らしくない努力を重ねてまで船舶免許を取り、船でどこか遠くに行く夢を実現直前になって、突然死んでしまう。その直前の場面で、ラッキーアイテムにばかりこだわってキテレツなネクタイしている丸さんをおちょくり、丸さんが「今まではラッキーアイテムのせいで乗り切れていたんだ。これを止めたら死んじゃうよ」てなことを言ったのに対して「やってみろよ。賭けてもいい。絶対死なねえよ」とサダさんは言ったんだよね。恐らくこれまでの人生、ラッキーアイテムだのラッキーカラーだのといったことに一度も関心を示したことなんてないであろうサダさんが、唐突に、死んでしまった。どう見たってオカしいのは丸さんの方なのに……。そして岩野はサダさんの骨を故郷に返してあげたいと願う。でもサダさんは前述のようにウソばっかりついていて、なかなか正確な情報がつかめない。その中で、彼が平気で踏み倒した借金の話が再三出てくる。

私は“金の切れ目が縁の切れ目”だと思っているクチで、お金にキチンとしない人は、どんなにそれ以外でイイ人でも信用する気にはならないんだけど、サダさん=キヨシローさんを見て、思った。平気?で借金が出来て、それが許せちゃうのって、カリスマ性のある人だけなんだ。カリスマ性のある人なら、それが出来ちゃうんだ、って。まあ、劇中で彼に金を貸した人たちは皆憤って、お前ら友達なら代わりに返してくれよ、てなことを言うんだけど、でも丸さんや岩野を通してサダさんを見ていた私たち観客にとっては、金を借り倒して踏み倒しちゃったサダさんが……なぜか許せちゃうんだよね。こんな人って、何千人、何万人に一人だと思う。この間新聞のコラムで読んだんだけど、野口英世も人に金を借り倒してて、返さないんだけど許せちゃう、そういう人だったんだって。カリスマ性、なんだよね。

サダさんの話ばかりでゴメンなさい。もうひとつ。彼が手に入れた古ぼけた船。丁寧に修理をしている横に、ガラクタで捨てられちゃったのかなあ?ケロヨンが置いてあるのよ。あの、薬屋に置いてる様なやつが。それがね、風が吹くたび微妙に、実に微妙にゆらゆらと揺れるの。あの笑顔のままで!カエルはけろっぴに至るまで大キライな私が、あのケロヨンのビミョウな動きには、やたらと愛しさを感じたなあ。その愛しさは、無心に船を修理しているサダさん=キヨシローさんへと不可分なく通じるものなんだもの、まさしく。

脇役で、アラーキーの強烈さとは別に、しんみりと印象的な人が一人いる。清水監督の前作「生きない」でも印象的だった尾美としのり。いつの間にやら彼は、大人の男の、いい役者になった。池内君扮する岩ちゃんの兄役で登場。いかにも優等生からエリートになったというタイプで、友人たちと会社を興すのに際し、いつまでもフラフラしている弟を心配して一緒に働かないかと誘うんだけど、弟はチキハなお方だから、どうにも自信がなくって尻込みばかり。でも、結局このお兄ちゃんはこの会社に失敗しちゃったらしく(だよね?)弟の殴られ屋の客となって、一人寂しく田舎に帰ってゆく。いつも防戦一方だった岩野がこの時だけは兄に対して一発殴り返したのが、その行為とは対照的に、お兄ちゃんへのこれ以上ない愛情に感じられてしまった。

サダさんの骨を届けた先で、サダさんのことを知っていてくれる人が一人もいないでしょう?都会ではサダさんの借金で苦々しく思っている人がたくさんいるのに。何だかあの描写も切なくってさ……あんなに愛すべき人なのに。丸さんも最終的には脱落した感じで、岩ちゃんだけがサダさんを悼んで、彼が小学校時代にタイムカプセルに残した凧を大空に揚げ、それがラストシーンとなる。でもさ……本当の友達とか、あるいは本当に理解してくれる人って、一人でもいたら、それって凄く幸せなことじゃないのかなあ。まあ、友達って言えるかな、みたいな人が何人いたって、それって何にも意味ないじゃない。私はサダさんが、そしてサダさんを慕う岩ちゃんがすごくすごく、うらやましかった。うん、それがこの映画の最大の収穫かな。★★★☆☆


寵愛LA BELLE
2000年 93分 韓国 カラー
監督:ヨ・ギュンドン 脚本:
撮影:キム・ジェホ 音楽:ノ・ヨンシム
出演:イ・ジヒョン/オ・ジホ

2002/5/7/火 劇場(シネ・ラ・セット/レイト)
韓国映画は、本気だ。新しい作品に出会うたびに脅威を感じる。いいのか、日本映画、本当に置いてかれちゃうぞ!ローカルな映画祭にしか出していないみたいだけど、もっともっと外の映画祭、海外展開をしていい秀作。この上なく美しく、詩情ゆたかで、細部に渡り完璧に計算がなされていて、情熱的なのに、上品。全編愛の行為=セックスが繰り広げられるというのにちっともエロな感じがしない。愛にはエロがつきものだが、純粋に愛だけを見つめるために、周到にエロを取り除いた“愛の行為”を描出することに腐心している。主人公の二人は、若々しくみずみずしくしなやかな、ほれぼれするほど美しい肉体を全身さらして絡みつくが、エロを感じそうになるとすぐにカットを割り、ひたすら画とリズムの美しさで見せる。見た目には成人映画のようでも、成人映画としては失格になる、愛の映画。

今まではこと男優に関してはヒューマンなお顔の方が多かったが、ついに見目麗しいハンサムを出してきた。こ、これは本当に本気だ……。男優であるオ・ジホは、撮影中逃げ出したくなるぐらい恥ずかしかった、と語るほど、こういう演技に対してプロフェッショナルなわけでは決してない。しかしそこは恐らく監督の意図するところで、それが非常に功を奏した。彼が彼女に触れる手は、何だかいつも遠慮がちである。あーんなことや、こーんなこともしているのに。まるでこわれものを扱うように、彼女に触れる。それが、自分が、自分の方だけが彼女を愛していることに対する、その気持ちを自覚することに対する恐れのように映り、そしてその頼りなげな手つきに、どうしようもなく切なさをかきむしられる。

彼女に思いを告げることもなく、ついには彼女の方から「私にホレてるくせに!」と言われても哀しそうな顔をするだけの彼は、ひたすら彼女を待ち続ける。白い部屋で。待つという行為は、セックスよりも愛なのではないかと感じさせる。待つ、待つ、待つ……そんな彼に引きずられるかのように、彼女はこの部屋に舞い戻ってくる。彼女が愛しているのは別の男。それは彼も十分承知である。だから、お互いに愛の言葉など吐かない。でも、そこで交わされるセックスは、まさしく“ただのセックス”にほかならないのに、愛の行為だと間違いなく思える。それを確信させられる哀しくも美しいラストシーンを見なくとも。

一方の、女優。韓国の女優に関しては言わずもがなで、これまた新しい人に出会うたびに間違いなく美しい。ついでにいうと、こういう映画なので、さらされる裸体も、そのバストラインまでしっかり完璧に豊かに息づいて、美しい。彼女がいつから彼を愛するようになったのかわからない。もしかしたら最初からかもしれない。でも彼女は、別の男を愛している。少なくとも愛していると思い込んでいる。傷つくのが判っているのに、出かけて行く。切ない彼の目が突き刺さるのに気づいているはずなのに。時には心だけではなく、さんざん暴力までふるわれて、ボロボロになって帰ってくることもある。それが愛することに対する報いだと、代償行為だとでも思いたいかのように。他の男を愛する彼女を、愛して愛してボロボロになる彼女を彼がやっと引き止める頃には、彼女はそうされるのを待ちくたびれていたんじゃないかと思うほど。愛する男を悲痛に叫ぶ彼女と、そんな彼女を必死に抱きしめ、とどまらせようとする彼。お互いに愛のありかを見いだせなくて、やりきれなくて、さぐるように抱きしめあい、さぐるように求め合う二人が痛ましくてたまらない。

女の長い、情念そのものの黒髪と、男の表情を隠す……彼女を愛しているという表情を隠そうとするさらさらと切ないやはり黒い髪が、セックスのたびに言葉の代わりのようにお互いにまとわりつく。こういうのを見ると、やはり黒髪は何と美しいのかと思う。最近、こんな美しい黒髪を日本人でなかなか見ることが出来ないのが、あまりにもったいない。アジア人特有のきめ細かな美しい肌が、白く映える。その舞台も人工的なほどに白く計算されている。男は一体どうやって生計を立てているのか……文筆業だということは推察できるのだけれど、その部屋の感じともあいまって、およそ現実感がない。浮世離れしている男。逆にその部屋から外の世界へと出かけて行く女は、ヌードモデルという俗な仕事の生々しさも手伝って、現実的な匂いを強く感じる。しかしその現実で厳しい洗礼を浴び、ボロボロになって戻ってくる彼女と、彼女を待ち続ける彼とが絡む切ない情愛のセックスは、やはり現実感がない。彼らの白い肌、白い壁、白い寝具、白い下着、あるいは黒やグレー、あまりにも厳しくストイックなまでにモノトーンに限定したその世界での彼らは美しく、あまりに美しく、美しいほどに現実感から遠く離れてゆく。女が外に出て行くのは、その現実感を取り戻そうとするためのようにさえ思える。でも、できない。彼の磁石に引き寄せられるように、この夢の部屋へ帰ってきてしまう。

彼女への愛を全うするためには、これしかない、と彼は意を決して彼女の愛する男を雑踏の中で殺す。グサリとやられて倒れる男を取り巻く群衆、それを俯瞰で眺めるショット……外の世界での出来事なのに、彼が関わるとやっぱりどこか現実感がない。彼は彼女を海へと連れ出す。白い砂浜、白波。海から感じるイメージ……青を前提とする鮮やかな色彩は、やはりここでも感じられない。境界線も不確かなほどの白。トレーラーの中の二人が愛し合う寝具もやはり白。あまりに白がまばゆくあふれ、その中に溶けていってしまいそう。女はまだ自分の愛する男が死んだことを知らない。彼の愛を受けて、無邪気に白い砂の中を遊ぶ。たわむれる、愛し合う。しかしやがて知らなければならない時がやってくる。携帯にかかってくる連絡。彼女は彼を振り切って、出て行ってしまう。外の世界だと彼が信じていたこの海も、やはり彼の部屋に過ぎなかったのだ。

それでも、また彼女は帰ってくる、この海に。やはりここが彼の部屋だから。そして今度こそ、永久にここを去ることを告げる。その彼女の言葉を受けて……もしかしたらその言葉をこそ彼は待っていたのかもしれない……彼は彼女の首をしめ、殺す。彼女の抵抗は微かで、そんな彼の行為を待っていたかのよう。ここを出て行く、もう戻ってこないと告げた彼女の真意は、まさしくこうなることを促してのことだったんじゃないかと思ってしまう。彼女の白い亡骸を抱きかかえ、海へと向かう彼。波打ち際に彼女をそっと横たえ、その体の上に自分の体をピタリと這わす。一対。誰にもはがすことの出来ないぐらいに、パズルのようにピッタリと合わさった二人。呆然と、見とれてしまう。

ピアノの調べに合わせて歌われるラストクレジットの曲、そのあまりに甘美なメロディに酔いながら、これを演じられる若い役者が日本にいるだろうかと考え込んでしまった。いや、いるとしても、もう先を越されてしまった。かつて、確かに「愛のコリーダ」という愛の映画が日本にもあったにしても、今同じことをやっても、結局この作品の二番煎じにしか過ぎないのだ。ほんっきで追い越されちゃう、ヤバい。★★★★☆


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