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ヴェルクマイスター・ハーモニー/WERCKMEISTER HARMONIAK
2000年 145分 ハンガリー=ドイツ=フランス モノクロ
監督:タル・ベーラ 脚本:タル・ベーラ/クラスナホルカイ・ラースロー
撮影:メドヴィジ・ガーボル 音楽:ヴィーグ・ミハーイ
出演:ラルス・ルドルフ/ペーター・フィッツ/ハンナ・シグラ
私ったら、一体何を観ていたのだろう?展開の判るところは本当に、すっかり寝入っていたらしい。そして満員の観客の何割かは恐らくリピーターであろうことも推察できる。まあ、私のように寝ちゃっていたような不謹慎な輩はそうはいないだろうが、何度も何度も観たくなる、マジックのような映画なのだ。一度目のあの感覚がウソのように、すっかり信奉者に早変わりしてしまった自分に苦笑いする始末。マジックといえば、この映画はマジカルではあるけれど、いわゆる映画の常套手段のマジックを一切使っていない。長回しといったけれど、それは映画の特権であるマジック、同じことが繰り返される、あるいは長く続く描写の途中をはしょって推測できるところは推測させてしまう、あの手法を全く使っていないのだ。例えば、ヤーノシュがエステルとともにリストに挙げられた街の人々を説得に行く場面……通常ならばドアを出て二人が目的地へ向かう場面でまずカットされ、次の場面ではその人々に会っている、といった具合になるものだが、ここではドアを出て、その人々に行き会うまで延々と二人が歩いている様子までをワンカットで映し出すのだ。その間、彼らは特に何という会話を交わすこともなく、私たちはひたすら彼らが歩いているのを(それもカメラはぴったりと二人の横顔のアップにはりついて引くことすらしないんである)観続けることになる。
2時間25分のこの作品が37カットしかない、というんだから、その1カット1カットの尋常でない長さは、一般的に言って絶対普通じゃない。しかし翻って考えると、今まで私たち一般的な映画の観客は、同じような長さのカット、同じようなリズムの映画に慣らされ過ぎていたのではないだろうか?そのある程度の短さのカットが繰り返される中で、ワンカットの長回しがあるから、“長回し”が非常に目立つ結果となって、それを折々使う監督は長回しが個性のひとつでもあるかのように言われるわけだけれども、このタル・ベーラ監督の本作は、全てのカットが同様の長さ、同じリズムをゆるやかに刻んでいる。全てが長回しというよりも、これこそが本作のリズムであり、突然出てくる長回しに緊張を強いられることがないのだ。それを知らないと一度目の私のように戸惑ったり見当違いの拒絶反応を示したりしそうだが、判っていれば、すんなりそのリズムに乗っていける。それどころか、すっかり虜になってしまう。
主人公は天文学が趣味の郵便配達、ヤーノシュ。靴職人の工房に部屋を借りている青年。仕事の行き帰りに老音楽家エステルの世話をするのが日課である。……という基本設定さえ、気をつけていなければ見逃してしまうほどのチラリさで示されるから、ここを居眠っていた一度目、エラい目にあったのであった。エステルが口述の記録を続けているのが“ヴェルクマイスター”という音楽家のこと。この口述録音のシーンがまたおっそろしく長くて、しかもその内容がえらく難しいから、このシーンは一度目、二度目とも睡魔に打ち勝てなかった。……それもまたお許しいただきたいと思う(弱気)。ただ、その難解な内容は判らないまでも、この作品の基底となる何かを発露している感覚は強く感じさせる。ヴェルクマイスターとは平均律を作った人。それまでの、より原始的な音律、音階の世界を壊し、いわば純粋な美しさよりも複雑な美しさを取ってしまった人。そのヴェルクマイスター音律によって世界の音楽はすっかり支配されている。世界の音楽、というより、世界がその平均律によって支配されているとエステルは言いたいように思う。
実際、音楽が、実はこんなガチガチの規律に縛られているなんて考えるのはかなり辛い。音楽だけは何からも自由でいられる芸術だと思っていたのに。平均化された音律しか聴き分けられなくなっている現代、不協和音が許容できない現代、自分の表現する音楽の音律も選べない、いやそれ以前に平均律以外の音律を感じ取れない現代、それって、哀しすぎる。世界は進化しているはずなのに、進化のために選び取った道が、それを狭めていることになるなんて。
エステルの元夫人が、彼に秩序を取り戻す運動のリーダーになるよう説得してほしいとヤーノシュに頼み込む。確信を持った笑みを浮かべ続けながらとうとうと話す夫人はどこか、いやかなり確実に恐ろしい。何の秩序が、何の風紀が乱されているのか?どうしてそう彼女は確信しているのか?その頃、広場には移動サーカスが来ていた。“夢のよう”“世界一巨大なクジラ”“ゲストスター、プリンス”煽るような宣伝文句が並ぶ街角のポスター。しかしそのクジラを観にトラックの中に入ったのはヤーノシュ一人。広場にじわじわと人は集まっているのに、まるで関心がないようなフリをしている人々。そのくせ、群衆の雰囲気はだんだんと怪しくなってくる。まるでエステル夫人が予言したかのように(というのが更に恐ろしい)、秩序が乱れる予感がしてくる。
なぜ、ヤーノシュ一人だけがクジラを見たのだろう?一体あのクジラはなんだったんだろう?暗いトラックの中に押し込められているクジラは、ただのハリボテのようにも、または実際のクジラの死骸のようにも見える。見開かれたクジラの目を魅入られるように覗き込むヤーノシュ。どんどん広場に人が集まってきて、ただならぬ雰囲気になった時にも、人々の目を盗んでこっそりトラックに入り込み、再び閉じ込められたクジラと対峙するヤーノシュ。彼だけが見たクジラ、そこから感じた、受け取ったものは一体何だったのか?そして彼がクジラと対峙していた時奥から聞こえてきたのは、なかなか人々の前に姿をあらわさないプリンスの影と、彼と交渉する団長、団員の会話。プリンスは群衆を扇動しようとしているらしい。しかし、何のために?そして広場の群衆の“何か”は頂点に達して破裂し、そこここで炎が上がり、爆発が起こり、群衆はどこかに向かってぞくぞくと行進を続ける。またしても恐ろしいほどの“長回し”である。
群衆が向かったのは病院。そして患者たちへの暴行。このシーンもまたひたすらワンカットの長回しなのだが、それまでもうすうすと感じていたことなのだけれど、この“長回し”のカメラワークの冷静沈着さ、ゆるやかさには驚かされる。こんな破壊的なシーンでもカメラは一向動じることなく、振り回されることなく、その動きが速くなることもなく、滑らかに、彼らの動きを追って行くのだ。あるいは暴力をふるっているその群衆も、どこかヘンに落ち着いている。奇声を発するわけでもなく、暴れまくるというよりも、それこそ“秩序”にならって順繰りに、規則正しく患者たちを引きずりおろして暴行していく。それをゆるゆると追う、こちらも計算され尽くしたカメラワーク。やがて彼らの前に、一糸まとわぬ無防備な姿で老醜をさらしている哀れな老人がバスタブに突っ立っている姿が現われ、急に毒を抜かれたように彼らは三々五々、帰っていく。……このハレーション気味に映された全裸の老人のショットはかなりの衝撃。そこに居合わせたヤーノシュは目を見開き、驚愕の表情で……しつこいようだが、ここまでもワンカットなのだ。物陰に隠れたヤーノシュをカメラが見つけるまで、カットが割られていない。何もそこまで……と思うほどのこだわりよう。ここではさすがに“長回し”の威力を見せつけられる。
戻る途中、ヤーノシュは靴屋の主人が倒れているのを見つける。もはや息がない。部屋に戻って靴屋の夫人に主人の居所を聞かれるが、彼には答えられない。夫人は、ヤーノシュは狙われていると言い、逃げるように促す。ヤーノシュは線路をつたっていく。画面の手前から奥手に、美しいS字の曲線を描いた線路はどこまでもどこまでも続き、ヤーノシュの逃亡も終わることがない。……それまでは、ヤーノシュを追うカメラはいつでも彼の後ろからゆるゆると追ってきていたのが、この段になってカメラは彼の正面に回る。逃げ続ける彼のアップをやはりゆるゆるとした動きで後ずさりながらとらえる。それはまるで、今まではあったはずの目的(ゴール)が失われたことを示すようで、言いようのない恐怖と焦燥感を漂わせる。彼を追ってヘリコプターが現われる。言っておくけれど、やはりここも驚異の長回しで、逃げ続ける彼の背後にヘリコプターが現われ、旋回し……その連続のどこにもカットが割られていない。カットを割ることよりも緻密な計算を必要とするであろうこの“長回し”にこれはもはや監督のマゾ的なシュミではないかと思われるほどである。
突然場面は飛び、病院に収容されたヤーノシュはもはや言葉を失ってうつろな目で座り込むばかりである。そんなヤーノシュに懸命に話し掛けるエステル。また来る、と彼は病院を辞し、広場に向かう。あの時ヤーノシュにどんなに勧められても見ようとしなかったクジラが、トラックが壊れてまるで呆然と、横たわっている。ゆっくりと近付くエステル。クジラに到達するまでこれまたワンカットで恐ろしいほどの時間がかかる。クジラの尾っぽから胴体に舐めるようにゆっくりとエステルは眺め、ヤーノシュが魅入られたその大きな瞳を覗き込む。荷台の闇の中で、不思議な底光りを放っていたその瞳は、全てが終わったあとで、どこかどんよりと死んだようなぬめりを漂わせている。いや、元から死んでいたのだから……ずっともったいぶって隠され続けてきた単なるまがい物だったのか?
クジラって、不思議と宇宙を感じさせるようなところがある。巨体のせいかもしれない。しかもその大きな身体は黒光りしていて、余計に宇宙の闇を感じさせるところがある。ヤーノシュの登場シーン、彼は酒場の酔客相手に太陽と月と地球の解説をし、宇宙の永遠を説こうとする。そして彼の部屋に貼られている天球図。その饒舌なアストロノミーは、どこか稲垣足穂を感じさせる(というか……ちょうどその時私が足穂にハマッていたからだけれど)。でもその宇宙がこのクジラに象徴されていたのだとしたら、それはやはり死のイメージを思わせる。何億光年も離れた星、その星がもはや死んでいたとしても、その光が届くには何万年もかかるから、死んだはずの星の輝きがいまだに見えているという、あの絶望的なロマンティシズム。あるいは映画そのものの存在だって、それと似たようなものだ。完成された時に、いや作られている過程からすでに、映画はもはや死んでしまっているのかもしれない。過去に存在したその輝きを受け取って、生きているものと同じように愛でるのは、まるでネクロフィリアのよう。人間って、でも根本的にそういう嗜好性かもしれない。思い出大好きだし、未来は怖いし。ロマンティシズムって、実は思いっきり後退性の嗜好なのかもしれない。
長回しを特に感じる場面は、歩き続ける姿を延々と映す場面。ヤーノシュが酒場からエステルの元へ向かう暗い道。街灯が後ろに消え去り、彼の影がだんだんと伸びて、彼自身がその影、そして夜の暗闇にのみこまれてしまう。遠のく彼の姿が小さく小さくなる。あるいは、ヤーノシュがエステルと二又の道で別れる場面。俯瞰でとらえたその場面で、画面の右上角と左上角に向かってゆっくりと歩いていく二人を、それぞれ小さな点になるまでじっとカメラは見続ける。それこそ一度目は何でこんなにまで意味のないような動きを追うのか判らず……いや二度目に観た時だって判ったわけじゃないんだけど、そこには省略なんか出来ない人間の営みが確かにあって、じっとじっと、観続けたくなるのだ、不思議と。それこそはしょる映画のマジックが単なるウソに思えてしまうぐらい。好きな人ならなんてことない時でもずっとずっと見つめ続けていたいような、そんな感じにも似ている気がする。
このタル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」という作品は、こんな長回しのしまくりで、なんと7時間半もあって、寝て起きても同じシーンが続いているという凄まじさであるという。……いくらなんでも、それはカンベンしたいけど……。
とにかく。もう一度観て良かった!そうでなければ、あやうく人生の損をし、しかもアホなこと書いて袋叩きにされるところだったかもしれない。★★★★☆
物語は、子供のいない40歳前後の夫婦が、突然相手の浮気を浮気相手の配偶者から聞かされ、どんどん泥沼に落ち込んでいく、という展開である。主人公はこの夫婦の夫、池島隆一の方で、演じるは佐藤浩市。その日は妻が同窓会に出かけており、彼は一人で家に帰るところだったのだが、おりしも激しく降る雨。ふと傘を差し出したのは、和服姿も艶っぽい陰のある、美しい女(宮沢りえ)。同じマンションの住人かとその好意に甘えた池島だったが、彼女は池島の妻、公美子(大塚寧々)が自分の夫、小原英介(斉藤陽一郎)と浮気をしている、と告げに来たのだった。信じられない池島に、彼女は池島が出張に出た日や、公美子が旅行に行った日を次々と挙げ、その日に英介と会っていたのだという。
そして池島はこの女、小原幾子のささやきにクラリと参って妻と同じ過ちを犯すことになるのだが、その先しばらくの間、幾子の報告ばかりで肝心な公美子と英介の浮気場面はもっぱら池島の想像の中にしかない。その想像の中の公美子と英介はいつも獣のように絡み合っていて、まるでそれをオカズに幾子との関係を深めているようにさえ思える。あまりにもその状態が続いて幾子とずるずる関係を深めていくだけなので、これはひょっとして幾子の言う事実、あるいは英介という存在自体も虚偽のものなのではないか、と思えてくる。あるいは、その方がよっぽど面白かった気もする。かくて幾子の言うままに彼女に惚れきり(と思い込んでいるだけだとは思うが)、保険の受取人の書き換えまでしてしまった池島は、公美子殺害を実行してしまう。しかしその後、公美子と仲の良かった階下の保険セールスレディ、長田智美(小島聖)が第一発見者となったことから、池島は幾子が公美子と智美を間違えたのではないかと思うようになる。そうこうしているうちにぷつりと幾子との連絡が途絶え、捕まるはずだった英介はしっかりとしたアリバイがあり、池島は獄中の人となってしまう……。
と、ここで終わるのかと思いきや、というか、ここで終わった方がよっぽど面白かった気もするのだが、いわゆる謎解きが丁寧になされることとなる。つまりはこれは幾子と英介の夫婦グルによる陰謀で、公美子側にも全く同じ罠が仕掛けられていたことが明らかになるのである。同じ展開、同じ台詞で相手を罠に落とすのに、不自然なまでに池島夫婦は同じリアクションで同じように相手の罠にかかるんである。つまりはクライマックスの殺人シーンは公美子もまた池島を殺そうとしていたということで、小原夫婦はどちらがどちらを殺しても良かった、私たちに金が入ればそれでいいのだ、と夫婦揃って不適な微笑みを浮かべている。二人が経営するバーに来る、夫婦間が倦怠期気味の客のボヤキを利用して、仕組まれたことだったのだ、と。
ああ、なるほど、と納得はしてみたものの、釈然としない、というか今ひとつつまらないと思ってしまうのは、“不自然なまでに池島夫婦は同じリアクションで同じように相手の罠にかかる”という部分なのである。勿論、それが対の表現になることによる劇的効果、というヤツなんだろうが、解説で言われているように“妻以外の女にのめりこむ描写は、男の身につまされる”というのなら、やはりそれは男性特有の感覚なのではないかと思われるからだ。女にもそれはないとは言わないけれど、少なくとも見知らぬ男性を池島が幾子を部屋に上げたようには簡単に中には入れないし、いくら信憑性のある浮気の話を聞かされたからって、即その場でその男の誘惑に屈してしまうというのはあまりに非現実的で、それこそ男側の描写に合わせたようにしか思えない。こんなところに目くじらを立てていたら、映画そのものが成立しない、とは判っていても、最初に男ありきで、それに合わせて女もこういうのにはヨワイんでしょ、というような男性側の視点がありありで気分が良くないし、それにやっぱり物語としてもつまらない気がする。……この部分は、原作の部分なんだろうか?原作者は「少女〜an adolescent〜」と同じ連城三紀彦氏だけれど、ひょっとしたらこのお人は、男性的視点からくる、理想的に過ぎる(=単純な)女性像を持ち合わせている人なのかもしれない。
池島には、幾子に出会った最初から、ヘンな幻覚が見えている。壁から滴り落ちる、黒っぽい粘液。予告編で観た時には血かなあ、と思ったのだが、それは幾子がお土産に持ってきたウナギのタレみたいな粘液である。池島は床に落ちたウナギを蹴散らして幾子と行為に及ぶ。ウナギはその後にも出てきて、公美子が池島に好物でしょ、と夕飯に用意するのだが、幾子とのことを思い出した池島は、覚えず激昂してそれを払いのけ、床にぶちまけてしまう。拾い集めたそのウナギをその後、シーンと黙ったままの食卓でニチャニチャと音を立てて取り分ける、その音が妙に耳につく。その粘っこい感じが疑心暗鬼や嫉妬を想起させなくもないものの、もしそうだとしたらウナギというのはあまりにヤボったい、というかひょっとするとコミカルなモチーフにさえ感じてしまう。
大体、あの滴り落ちる粘液の描写が、よく判らない。最初の方で2、3回思わせぶりに出てきただけで、そのことに対する謎解きは皆無である。事実関係については妙に丁寧に謎解きしていたのに。池島は妻をピストルで撃ち殺したり、ベランダで首をしめて突き落とす、なんていう幻想を見るのだが、そんな幻想にとらわれる必然性も今ひとつ感じられず、結局それも含めて説明する形で“夢オチ”に清算してしまうのには、何だかひどくガッカリしてしまう。しかしまた謎の女(今度は天海祐希)が赤い傘をさしかけて現われ(りえ嬢とはガタイも含めて全く違うのが、ちょっと笑える)、恐怖に駆られてマンションにかけ戻ってみると、死んだはずの公美子がにっこりと迎えてくれる。安心したのもつかの間、振り向いた彼の目には電気スタンドを彼に向かって振り下ろす公美子のスゴい形相が……うー、何か、通俗的な終わり方じゃない?
まあ、何たって宮沢りえは実に素敵である。和服の似合う唯一の現代女優ではあるまいかとさえ思える。和服の艶っぽさを出せる女優。こういうシブい色合いの和服を着て、真白い肌、美しい黒髪、そのうなじと後れ毛を見せられれば、男性のみならず女性だってちょっとクラッときちゃうであろう。そうかそうか、りえ嬢は和服を着られる女優だったんだなあ。実は最初のうち彼女の声がちょっと不自然に高く聞こえて、しかしだんだんと落ち着いてくるんだけど、あれは騙している最初のうちの心の動揺、っていうわけではない?そこまで細かい演出をしているとは思えなかったけど……。佐藤浩市はまあそのまんまだし、大塚寧々は相変わらず眠たいけど、小島聖がかなりいい。やり手の保険外交レディで、その色っぽさはちょうどりえ嬢と対照的な奔放さ。しかも体が不自由な夫、大杉漣との場面では、どこか不思議にペシミスティックな愛情を感じさせて、息を飲んでしまう。
面白かったのは、池島の部下である小宮山を演じる小西真奈美で、彼女は池島の上司のハゲちゃびんと不倫関係にあるのだけれど、そのオツムの弱そうな印象とは違い、話してみると自分をちゃんと持ってて、池島が思わず「君って、深いね」と漏らすぐらいなのだ(この場面は、笑えた)。「そうでしょ。バカな人間ほど、私をバカにするのよねー」とアッケラカンと言ってお茶をすする小宮山クン、イイッ!幾子を愛人だと打ち明ける池島に「ぶふ」と発するイミネー返答も妙に好きだなあ。
最大の駆け引きに出る、海に張り出た崖でのショットはその画の素晴らしさで見ごたえがあった。まあ、正直画だけかな、って感じもしたけど。結局池島夫婦がお互いを“平凡で、常識的な人間”だと思っているのにつけこまれた、っていう話なんだけど、夫婦同士でそんな形容詞使って思うかっていうのも疑問だけどね、正直。こういう形容詞って、あまり知らない他人に対して使うって気がするんだけど。何か、この時点ですでにヤボじゃないのかなあ。★★☆☆☆
衣擦れの音がさやさやと聞こえてくる、遊女たちが働く岡場所(私娼地)。素早く動き回る彼女たちの粋な動作。遊女、という言葉から単純に連想する、スレたイメージとは違う、哀しさを胸に隠しながらも天真爛漫に生きている彼女たち。私はこの衣擦れの音というのがとても好きだ。耳を済ませていなければ聴こえないその秘めやかな音は、映画ならではという感じがする。遊女の華やかな召し物は、その着こなしで普通の着物よりも衣擦れの音が出やすい。自分の感情を反映させているかのように、するり、するりと脱ぎ着しやすいかのように。
神輿に水をかけるお祭りが出てきてハッとする。ついこの間初めて見て感動しまくった佃のお祭りだ!ああ、確かにあの町は、いまだにこんな江戸人情の粋さを奇跡的なまでに頑なに守っている町なのだ。舞台はこの岡場所のあるほんの一角、つまりは一幕ものの舞台さながらに狭い範囲でしか展開しないのに、そうした舞台臭さがなく、映画そのものの広がりを感じさせてくれる。普遍的な恋の感情をテーマにしながら、時代物エンタメとしてまず非常に優れていて、テレビの時代劇に感じられるようなお決まりのワザとらしさがなくてまさしく粋だし、しかも女性が本当に、本当の意味での主人公であるのが何よりも素晴らしい。同じように最近の時代物エンタメで女たちが主人公というのは、深作欣二監督の「おもちゃ」が思い出されたりもするが、あの作品よりも、いやあの作品など問題にならないほどに彼女たちの感情の機微が鮮やかに描かれている。
なんといってもこれはラブ・ストーリーとして売っているので(だから予告編もひたすらその方向なんだけど、嵐のスペクタクルなんて素晴らしいんだから、それも入れてほしかった。あの予告編は完全に女性のみをターゲットなんだもん)、女性特有の恋に生きる本能的な部分にスポットを当てている。いつもの私だったら、恋だけが女の生きる糧なのかい!とお約束の反発をする用意もあるはずなのだが、このヒロイン、お新がわりとそのあたりしたたかにホレっぽいので、あまり気にならない。ホレっぽいといっても、彼女はそのつど本当に全身で相手を好きになるから、失恋した時には全身で傷つく。“失恋した時には……”という部分に、人間としてのアイデンティティさえ失われてしまうような気がして、恋に全力を傾けることに懐疑的(いや違うな、単に及び腰なだけだ)な私にとって、彼女のその姿は何だかまぶしく映ってしまう。全身で好きになってしまったら、失恋した時裏切られたと感じてしまう、と語っていたのは萩尾望都の作品の中の、やはりホレっぽい女性だったが、本作のヒロインのお新は恋に際していつも泣いてばかりいる割には、そうした方向の悲壮感は全くないのが凄い。恋は力だと、本能的にポジティブに確信している感じなのだ。いや、そんなコムズカシイことじゃなくて、でも恋せずにはいられない、ということ、自分自身に正直なんだな……やっぱりうらやましい。
お新が最初に恋したおぼっちゃまなお侍さんは、おぼっちゃまなだけに、女の気持ちを誤解させることにまるで気がつかない思い切り罪な男で、お新の恋をかなえてやろうと一致団結していた姐さんたちを一様に激怒させてしまう。身分違いなんだから恋はすまいと必死に自分を抑えていたのにその気持ちを捧げてしまったお新のことを考えると、姐さんたちと同様に観客の私たちも彼の無神経と同義の無邪気さに腹が立ってしまう。彼に恋するお新=遠野凪子の恋の感情の表れが、実に素晴らしかったものだから、余計にね。彼女を再度訪ねてきたこのお侍、房之助を見るなり呆然としてお茶を取り落とす、その動作だけで、彼女の抑えようもない恋する心が手にとるように判ってしまう。だからその恋が失われた時の心の痛みが、まるで自分のことのように感じられてしまうのだ。辛くて辛くて。
この房之助に扮するのが吉岡秀隆。思えば彼は、黒沢監督晩年の作である「八月のラプソディー」に起用され、やはり黒澤監督の残した脚本「雨あがる」と、そして本作にも、と黒澤監督に縁のある最後の世代。「八月のラプソディー」で参加したリチャード・ギアが彼に、なぜキミは黒澤監督に起用されたの?と質問したのに対して(しかしこの質問も……意図は判らないけどちょっと失礼?)「普通、だからじゃないかな」と答えた、というのが思い出されてしまった。彼はこの“非凡な普通さ”で稀有な存在感を発揮させ続ける俳優。いくつになっても純朴さを失わない彼だからこそ、この房之助をイヤ味なくリアリティを持って演じられるんだろうなあ。男は優しいだけじゃダメなのね、というのを、彼自身を憎まずに(腹はたつけど)思わせる、というのが凄いかもしれない。
まさしくこの房之助と対照的なのが、お新が次に性懲りもなく恋し、しかしそれこそがホンモノの男だった良介(永瀬正敏)。房之助は結局、お新を妹のように思っていたわけだから、当然こんな場所にもかかわらず手を出すこともしないわけだが、良介は最初の出逢いからすでにこの場所の目的を全う?して淡々とコトを済ませる。そしてその行為の後に感情が育ってくるのだ。でも正確に言えば、良介はその前にお新を見初めていたんだもんね。真冬の寒さに縮こまりながら客待ちをしつつ小説を読みきかせている遊女たちの中に(しかしこの場面はイイよね。何か文学的で。)、彼の視線がお新をまっすぐにとらえている。あれは、お新の(結果的には)理由づくの同情心から生まれる恋心と違って、本当の意味での、理由など何もない、本能的な恋。ある意味男性の恋心の方が女性よりも純粋で、こんな風に説明のつかないもの、みたいな感じの振り方をされているのが、ちょっと意外で嬉しいような悔しいようなくすぐったいようなヘンな気持ち。
問題はお新だけではない。実は主人公はもう一人いて、もうベテランの姐さんである菊乃である。扮するのは清水美砂。彼女のことは初めてイイと思った。菊乃は酸いも甘いも噛み分けている遊女だから、お新の純な気持ちは痛いほど判るものの、その青臭さに対する危惧とうらやましさと不安をどうしても感じてしまう。でもさ、彼女、一応は制するものの、結局はお新の気持ちに押し切られてしまうのが、イイんだよなあ。一度目はそれで結局房之助にしてやられてしまうから、もう甘く見ることはしないぞと思いはするものの、良介の件でまたしても……これは、いつまでも女が苦い目に会う運命なのかなあと思ってしまいそうになるんだけど、ついには実る時が来る。いや、それはお新にだけ。菊乃姐さんは……。
菊乃には、その腐れ縁がキレないヒモの銀次(奥田瑛二)と、彼女にホレて家を持とうと誘ってくれている隠居者の善兵衛(石橋蓮司)がいる。いやー……この二人もホント対照的だよね。まず、なんたって石橋蓮司の素晴らしさ。彼がこんな気のいいキャラクターにハマるなんて、まずそのことからオドロキ。遊女たちにも皆に好かれていて、彼が来ると菊乃をそっちのけにしてまで、皆でお喋りに花が咲く。彼、やっぱりあの洪水で死んじゃったのかな……私、洪水の場面があってから、最後の最後の最後まで彼が現われるのを待っていたのよ。菊乃さんと幸せに、いや菊乃さんを幸せにしてほしかった。でも彼はその気の良さの中に、確かに切なさ、はかなさも見え隠れてして(というのが石橋蓮司から醸されるというのが、しつこいようだけどオドロキ)、結ばれないのは必然なのかもしれない……と思わせてしまう部分も確かにあるんだけど。
一方の銀次役の奥田瑛二。銀次という名前からしていかにもちゃらんぽらんのヤクザ者だが、このヒモ男を奥田氏ときたら、ほんとノリノリで演じている。着流しの胸元から手を出してあごを支えている、だなんて、椿三十郎じゃないんだから。もうポーズから入っちゃってるもんね。演技的にもどこかいい意味でヌケたところがあって、いつも全身真剣そのものの永瀬正敏扮する良介との対峙には妙にハラハラするものを感じたけど(笑)。あ、でも永瀬と奥田氏がタイ張るのなんて、初めて見たなあ。何かそれだけでもドキドキしちゃう。どちらも全身映画俳優で、今まで対決がなかったのは意外だったかもしれない。うん。もしかしたらここが一番名場面だったかも?
とてつもない嵐が襲ってくる。すぐそばの深川も氾濫しかけている。このシークエンスは本当に凄い。この手の自然災害パニックシーンには、ハリウッドCGなどでいいかげん飽き飽きしているかと思ったんだけど、こうしたスペクタクルをどう見せるかというのをきっちりと、改めて指し示した本作のそれには感服した。そうだ、本当に当たり前のことなんだけど、ただただ爆発させたり吹き飛ばしたりすりゃいいや、みたいな、そんなことでカタルシスを得ようとしている昨今のハリウッドスペクタクルに毒されてちゃ、いけないんだ。言ってしまえば当然の基本、当然の王道、物語に即したドキドキ感。一時静まり返る恐ろしさなども緩急ふまえてて、絶妙に織り込むリズムが実に的を得ている。町中が壊れ、町中が吹き飛ばされていく描写が、どこが壊れ、どこが水に浸かっていき……というのまで微細に考えて撮られているから、ドキドキするのだ。特に風に次々とあおられてバリバリとはがれていく屋根など、ただ一軒がぶっ壊れるようなものより、よほどスリリング。
取り残されたのは、二人。菊乃姐さんとお新である。その前の場面で銀次と良介の決闘場面があって、良介が銀次を撃ち、菊乃姐さんの厳しい命によって、良介はいつか必ずお新を迎えに来るという約束のもと、一足先に逃げる。雨は収まったものの、海の満ち潮により、水はしずしずと、確実に水位を増している。ついには菊乃とお新は屋根の上にのぼらなくてはならなくなる。一番いい着物を着ようという菊乃に、お新は自分たちは死ぬのだと泣きべそをかくものの、菊乃は、どうせ濡れてしまうんだから、一番いい着物を着ようと言っているの!と叱咤する。でも、菊乃は……お新ちゃんだけはどうにかして助けよう、助けたいと思ってはいただろうけれども、多分この時点で自分の死だけは覚悟していたんだろうな。どこから見つけてきたんだか、「こんばんは」とかかれたちょうちんがユーモラスで、でも何だか泣き笑いのような哀しさがあって。それを手にぼんやりと屋根の上に座っている二人のバックには、目も覚めるほどの満天の星。
と、そこに、行ってしまったはずの良介が小船に乗って助けに来る!「お新ちゃん、あんた今度こそ本物の男を釣り上げたね!」……もしかしてこの時一番嬉しかったのは、お新よりも菊乃の方だったのかもしれない。菊乃は、この洪水で逃げてしまったのか死んでしまったのか、とにかくここにはいない善兵衛のことを考えていたに違いない。たとえ迎えにきたのが善兵衛でなくても、そして小船にはせいぜい二人しか乗れなくて彼女は助からなくても、良介が来てくれたことが、お新ちゃん以上に嬉しかったに違いないのだ、きっと。菊乃の名前を泣き叫ぶお新を、あの「こんばんは」のちょうちんを丸く振り回して笑顔で見送りながら、屋根の上でのびをする菊乃。これで本当に一人。いっそ、せいせいする!と満天の星空を仰ぐ。そのシーンでカットアウトだから、菊乃さんはやっぱり……とは思うのだけれど、不思議と哀しさというよりも、幸福な気持ちが残る。本当に不思議なんだけれど、「せいせいする!」という気持ちがシニカルではなく、本当にストレートに、……前向きといったらヘンなんだけど、幸せに響くのだ。……何故なんだろう。
お新ちゃんの先輩たち、姐さんたちの中ではつみきみほが良かったなあ。あの独特の発音の喋りも個性的だし、菊乃姐さんにくってかかる気の強さとか、お新ちゃんとはまた違うタイプの純粋さで憎めないんだよね。もしかしたらお新ちゃん以上に恋の奇跡をピュアに信じていたのかもしれないと思うところがあったりして。神経が鋭敏なのかな。洪水の危険も一番早く察知してたし。
この女郎宿で飼われている、これぞ日本猫、な三毛猫が、ちょっとデブなところも含めて、人なつっこく大人しく抱かれているのが実に画になって、何ともいえずめんこかったなあ!★★★★☆