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JSA/JSA:JOINT SECURITY AREA
2000年 110分 韓国 カラー
監督:パク・チャヌク 脚本:パク・チャヌク
撮影:キム・ソンボク 音楽:
出演:ソン・ガンホ/イ・ビョンホン/イ・ヨンエ/キム・テウ/シン・ハギュン/
最近、オフィシャルサイトのBBSから、観客の反応を感じ、そのことを作品の反射鏡として考えるのが常になっている。しかしこのBBSは……!これはすごい。日本がアジア諸国に犯してきたことに対する歴史認識の甘さとそれに関連した教科書問題で大荒れに荒れている。確かに映画としての本作を観たり感想を言ったりすることに対して直接関係のあることではないのだが、それを認識していないとこの映画を感じる事もできないといったほどのすごさである。映画の交流で今までどうもギクシャクしていた二国間がうまく理解し合えればいいな、などと漠然と考えていたこちらの甘さにガツンと鉄槌を下ろされたようなショック。……今まで目をつぶってきた日本の、日本人のやるべきこと、知るべきことがたくさんたくさん、あるのだ。
こういう映画は悔しいけれど日本には、今の日本にはつくれない。それが幸福なのか、不幸なのか判らないが。今、まさに現在のこの一瞬に、リアルに戦争の危機を感じ、生理的に刷り込まれた敵が存在し、しかしその敵は同胞でもあるという、この何とも複雑で悲劇的な状況!……多少の訛りはあるにしてもおたがい同じ言葉をしゃべる同じ民族である同志が、ここまで明確な敵としてお互いを認識しなければならないという悲劇が、ぬるま湯日本人の私たちには想像がつかない。平和であることはいいことだと、ただ単純にそう思ってきたけれど、最初から平和な時代に生まれると、真にその良さが判らなくなってしまう。わからないから、愚かな不幸を引き寄せたりする。今の日本が、ことにここ数年といっていいかもしれない、明らかにおかしくなっているのは、最初から平和な時代に生まれた世代が跋扈する時がきたせいに違いない。
JSAとは、南北分断の38度線上の共同警備区域。息もかかるくらいのすぐそばにお互いが対峙しながら、北の兵士と南の兵士は口をきくことすらも許されていない。ちょっと緊張のバランスが崩れれば、すぐにでも戦火が燃え上がるギリギリに張り詰めた空気が続いている。そんな中、ふとしたことで南の兵士が38度線を越えてしまう。それどころか地雷を踏んで動けなくなる。そこに通りがかった北の兵士(犬を追いかけてきた、というのがやたらとほほえましい)2人。思わず泣きながら助けを求める南の兵士にこれまた思わず苦笑しながら、しかしこちらも命の危険を冒して地雷をそろそろと外してやる。その後双方の軍隊の訓練中にまた偶然出会う3人はお互い笑みをもらす。“敵”だと教えられて育ってきた相手が、ただ数言、言葉を交わしただけで、個人としての親愛が生まれるものなのか。結局は案外と簡単なもの……一方では。そしてもう一方ではやはりそう簡単ではないのだ。
とにかく、この南の兵士、スヒョクは、その人懐っこい無邪気な性格で、この親愛を覚えた北の兵士にコンタクトを取り、結構あっさりと38度線を越え、この北の兵士、ウジンとギョンピルのいる宿舎を訪れてしまう。後にはスヒョクの弟分、ソンシクも交え、北と南の兵士四人の屈託のない、本当に損得なしの友情が育まれる。その、まるで少年がじゃれあっているような様は、それだけでこちらの頬がゆるむほどの、それこそ“平和”な情景。よくある青春映画を観ているような錯覚にすら陥る。しかし、もちろんこれは“よくある”話などではなかったのだ……。
という、この作品の唯一息をつける部分は、物語の中盤になって描かれる。本作はその構成の組み立て方も上手くて、最初は殺人事件が起きた、というくだりが描かれ、そこで見せられる映像は、真実ではない。つまりはちょっとしたラショーモナイズというもので、誰かが語った、何かの偏見の目から見た、真実を隠匿するフィクションなのだ。しかしそれはしばらくは判らない。北と南の兵士が起こした殺人事件を解決するために呼ばれた中立国、スイス軍将校、ソフィーは双方の軍によって都合のいいように書かれた、つまりは全くかみ合わない陳述書ではなく、生き残った当事者から話を聞こうとする。しかしそのことによって追いつめられたソンシクは自殺を図り、ソフィーとの信頼関係を築いて真実を話してくれた、と思っていたスヒョクも拳銃をくわえて引き金を引いてしまう。この衝撃のラストは、たった一言、ソフィーが不用意に伝えてしまったギョンピルの言葉にあったのだが……。
ソフィーもまた、自分も知らなかった過去をここで突きつけられることになる。自分の父親が元北朝鮮の兵士だったのだと。もともとは同胞だった北と南の朝鮮民族が、そのまま共産主義に残るか、アメリカの資本主義に投降するか、といった選択によって分断された。その二つの選択も拒否した人たちがわずかにいて、世界各国にちらばっていった。多くは中立国への移住を望んだが、中立であるはずのそれらの国も彼らを拒否した。……こんな壮絶な歴史が、今も続いているのだ、この両国には。北の兵士、ギョンピルが、南がアメリカを象徴とする資本主義の恩恵にあずかっているのを、好悪相半ばする思いで見ているのが印象的である。南にとっては、それはそれこそこのスヒョクに象徴されるように、どこか北が敵という意識が漠然としている気がするのだが、ギョンピルはそのあたりはハッキリと明確である。それが本当にそのまま北の意識かどうかは、これは南のみでつくられた映画なのだから知る由もないのだが。ギョンピルの意識は、南の向こうに見えているアメリカに対する敵対心である。しかし同時にアメリカのものを賛美し、スヒョクをうらやましがる。でも、スヒョクから亡命を誘われると断固拒否するのである。スヒョクからもらって食べていたチョコパイを一度口から出し「俺の夢は南よりもおいしい菓子を作ることだ」なんて、冗談とも本気ともつかないことを言って。
北と南がいつの日か一緒になれる日がくることが一番であり、そして北も南も、それぞれが祖国であり……。お互いが同胞でありながらも、隔たりがあり……。そのことは、1人がシャッターを切る係であとの三人をカメラに収めるくだりで、後ろに掲げてある北朝鮮指導者?の写真をいかにフレームから外すかで苦労する、コミカルな場面などで感じ取ることができる。心が通い合っても、あまりにも違う双方の国の環境。心が通い合うことが一番大事でも、それだけでは解決できない、深い溝。
しかしこの、アメリカ的なものに支配され、その享受を当然のこととしている南の兵士、そしてそれに苦々しい思いを抱く北の兵士という図式には、前者に日本も当てはまることを思うと、何かやりきれない思いもする。資本主義というものは、実は態のいいアメリカ支配なのだと。自国の文化が破壊され、貧富の差が進み、ついでに言えば脂っこい食べ物で健康が害されて寿命が縮む、と(笑)。まあ、そこまでは言い過ぎかもしれないが、ハズれてはいないだろう。共産主義はイヤだけど、そう考えると共産主義を良しとするのも判るような気がしてくる。強いものが支配していく資本主義は、弱者の声をかき消し、それによって不幸な歴史を見えなくさせ、逆にまた不幸な歴史を繰り返す種を撒いているような気がする。
この北と南の兵士四人を演じる役者たちのなんという上手さよ!犬を愛する、そしてちょっぴり涙もろいウジン、慎重で臆病で、その性格が災いしてこのウジンに銃弾を打ち込んでしまうことになる哀れなソンシク、そして生き残った後に対峙する場面が強烈なスヒョクとギョンピル。スヒョクももちろんだが、カリスマ性と冷静さ、そして何より人間的な温かい笑顔がキューンとさせる、ギョンピルを演じるソン・ガンホの素晴らしさときたら……!韓国の役者は、ことに男優は特にお顔の面では人間性重視みたいな感じで、あまり甘いマスクだとかそういうことに頓着していない感じがするのだが(単に国民的な嗜好の問題かな)、しかしだからこそ?ホレちゃうんだなあ。兄貴よ!
そしてそして、まさしく紅一点のソフィー将校、イ・ヨンエの天上の美しさ。ああ、なんとゆー、美しい人なんだ。しかもそのふっくらとした柔らかな感じ、めちゃめちゃ好みだ!こういう美人は、今の日本ではなかなかいないからなあ……みんなギスギスしちゃって。もう彼女が出てくるたびにひたすら見とれてしまった。その優しい声もイイ。彼女がニュースステーションにプロモーションで出演したとき、久米さんがメロメロで、「食べちゃいたいような喋り方ですねー」と絡んで?いたが、いやまさしく、そんな感じである。
なんか、あのBBSに気おされてしまって、筆が上手く進まなくって、空回りしてしまった気がする。歴史の汚点を何もかも隠して、教えなかった日本という我が国に対して恨む気持ちはあるけれど、これから一生かかって知っていって、すべての国が平和に手をつなぐ日が来れたらな、と思う。★★★★☆
九州は別府の田舎町で、親に捨てられた同志として兄弟同然にお互いを思う、司郎と銀次。二人を拾ってくれた親分の組はちっちゃかったけれど、その下に嬉々としてともにつかえる二人。しかし内部に裏切り者が出て、組は離散。司郎は親分の敵を取るため無茶な行動に出て三年の服役。銀次は司郎が出てくるのを待ちながら、その無鉄砲な“夜桜銀次”の名を世にとどろかせてゆく。
銀次がホレこむ、“血を吸って光り輝いちょる”拳銃には、43987というナンバリング。「夜咲く花だ……」そうつぶやく銀次。最初に出会った時には目ん玉が飛び出るほど高く、次に再会した時は、親分を殺したその拳銃が海に捨てられていて、それを拾った女子高生とも運命の出会いを果たす。一目で彼女を気に入った銀次は、逃げまどう彼女を海辺で犯す。その際に彼の背中の見事な夜桜の刺青には、必死に抵抗する彼女のつけた大きな傷が走った。そしてその拳銃と三度目の再会を果たすのは、出所してきた司郎からのプレゼント。どこをどう回って彼の元に来たのか、これは銀次の元にくる運命だったのだと……。
うー、うー、うー。哀川翔が嫌がる女をムリヤリ犯す、という展開も今まであまりお目にかからなかったからなあ……。竹内力と違って、硬派な役が似合うんだもーん。その女を運命の女と決めて、三年後に再会した時にムリヤリ自分のものにし、死ぬまで一緒だと誓ったのに、“夜咲く花”と再会した途端、「血を好む女と出会っちまったから」とアッサリ彼女を捨てるとはどーゆーことお!?まあ、彼の中には葛藤があったんだろうけれど、描かれなさすぎだぞお!彼女は妊娠していることを銀次に告げるのだけど、彼女のおなかに耳を当てるから、ああ、これは思い直したかな、と思いきや「俺が父親だ!返事しろ!」とおなかの赤ちゃんに向かって怒鳴り、「返事しねえじゃねえか」と突き放すだなんて、ナンダソリャ、ギャグか!?そして銀次の舎弟で彼に心酔しきっているケンイチに彼女をたくし、銀次は“夜咲く花”を携えて出て行く。
まあ、ね。銀次のもとに出所した司郎が尋ねてきた時、いきなり部屋をスリップ一枚で追い出されてドアの外で立ち尽くしていた彼女に、ケンイチがシャツをかけてやった時から、こうなるんじゃないかなー、とは思ってたけど。かくして彼女はケンイチをケンちゃんと呼ぶようになり、多分二人のあいだには銀次という絆によってより強固な愛情が生まれたんだろうしね。というのも描かれるわけじゃないのが物足りないっちゃあ、物足りないんだけど……。
このケンイチというのが単純バカなぐらいに(でも、新聞の字が読める分、銀次よりは頭がいいか!?)まっすぐで純なヤツで、それがわざわいして単身、敵の組に乗り込んで、ボッコボコにされる。彼を救いに行った銀次が屈辱的なことを言われるのに、息も絶え絶えになりながら彼、「俺のことはかまわないで……」と懇願するのに応え、「心配するなっちゃ。こんなハナクソみてえなヤツの言うことなんか聞かねえから」とか言う銀次。急所をはずしてケンイチに一発!その次のシーンで病院に運ばれたケンイチの白いシーツをなめて撮るから、マジで殺したのかと思ったよー。そこにかけつけてきた彼女、くってかかる彼女に対して銀次は「俺が撃った。急所ははずした。若いから大丈夫だろう。男にしか判らないことがあるんだ」などと、そりゃー、判らねーよってなことをのたもう。そして彼は目星をつけた真の敵を倒すために、その場を振り切って出て行く。
この拳銃で親分を殺した裏切り者、木元のもとにである。木元を演じるのは、これまた我らが小沢仁志兄ぃ!哀川翔以上にコッテコテの演技が相変わらずで嬉しくなっちゃう。ダテモノ風にキザな帽子をかぶったりしている一方で、股引姿がダチャくて最高!銀次が自分を狙っていることに気づいて身を隠しているんだけど、銀次は嗅ぎつけてやってくる。いつもは黒一色に固めて、レイバン風のサングラスでキメている銀次が、この日は最初から死に装束と決めていたのか、真っ白のスーツに真っ白のエナメル靴といういでたち。銀次の姉で、そのかくまっている料亭のおかみが止めるのも聞かず、木元の言い訳もろくろく聞かず、夜咲く花を一発、二発。しかしその背後から木元の舎弟に撃たれてしまう。白いスーツが真っ赤に染まる。振り返りざま、その男も見事にしとめるが、もはや息もたえだえの銀次はもんどりうちながらその料亭を出て行く。出たところで、もはやこれまで、と断末魔のように苦しみながら倒れる銀次。そこに、いくらなんでもタイミング良すぎで滑り込んでくる司郎の車。血だらけの銀次を抱え、その背におぶって、彼の脳裏に焼きつくのは、幼き頃、たった二人で乗り込んで勝ったけんかの帰り道。死ぬな、銀次、死ぬな!と司郎が叫ぶその背中でもはやグッタリで血だらけの銀次。その耽美的な二人のショットでカットアウト。ええッ!もう終わっちゃったのお!?てことは、銀次はやっぱり死んじゃったのかあ……。
ここでは上手く再現できないんだけど、「きさん、何もんち」などと言う別府言葉?が全編彩っていて、それをあやつる哀川翔の無鉄砲な九州もんぶりがイイんだよなー。司郎はさまざまな組との恩義やなんかでしがらみでガチガチになっていて、しまいには銀次を見捨てるように言われたりする。銀次が何にも知らないでアバレまくっている裏で、司郎は結構苦悩しているんである。でも銀次のキャラに隠れちゃって、その辺が印象薄い?印象薄いのは司郎を演じる石橋凌が哀川翔だの小沢の兄ィだのの濃ゆいキャラに埋もれちゃってるから?いや、まあシブくて良かったけどね。哀川翔が慕いきっているのも判るほどに。哀川翔はもはや親分役を張ってもいいほどの貫禄ではあるんだけど、こういうやんちゃなところを残してて、慕う兄貴分がいて、っていう役がハマるんだよなあ。そこが愛しいのさあ。★★☆☆☆
本作の見所といえば、なんと言っても松田龍平が「御法度」の次に出演した二作目、ということになるのだけれど、彼は久しぶりに現れた逸材ではあるものの、その魅力を使いこなすには難しいクセモノであることが、うすうす感じてはいたものの、ここで証明されたような気がする。彼の異形の美しさは、よほど丁寧に扱わないと、ただの風変わりな少年としか印象づけられない。本作での彼、時々ドキッするような表情を見せはするものの、その役どころに反して他の少年少女たちの熱い演技に押されて今ひとつ印象が薄い。
なんだかいつでも一緒に出ているなあ、という感じの三輪ひとみ、明日美姉妹は、彼女らもまた逸材の若手。しかも彼女らはどんな映画に出てても、きちっと印象に残る仕事をしてくれる。しかもしかも、姉妹でこれほど個性の違いが出ているというのも面白い。いつも危なっかしい狂った味を堪能させてくれるひとみ嬢は、不倫の果てに相手の子供を殺し、自らも焼身自殺を遂げるという狂気の役を、これ以上ないハマリッぷりで見せてくれた。棒っきれのように細い手足が痛々しく、思いつめてイッちゃってる小さな瞳がコワい。体中に入れられた藍のタトゥーといい、不倫女のコワさ爆発である。
そして明日美嬢、彼女は「うずまき」の時そのあまりのカワユさに喜んでしまった、姉とは違うタイプの正当派な美少女なのだが、本作では姉に負けず劣らずの狂気の演技を見せてくれて、これまた嬉しいオドロキ。自分の気持ちを抑えてしまう優等生の文学少女、苗字にさん付けで呼ばれてしまうような、という女の子、鈴枝をしっかりと演じながら、辻占の美少年に出会ったことで内に秘めた思いが最もマズい形で流出、女の性を感じさせる、少女ながらもゾッとするような色っぽい狂いっぷりを見せてくれる。私の思いが通じるように、玉子焼きに血を混ぜたの、と微笑む彼女、そのお弁当を蹴散らかされて、猛然とつかみかかる彼女、「さっきはどうかしてたの。でもこれだけは信じて。私、あなたのことが本当に好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで…………」と延々と繰り返す彼女……その怖さは尋常じゃない。これほど上手い子だとは、思わなかった。
ヒロインのみどりを演じる後藤理沙は、ハツラツとした親しみやすい美少女ぶりが相変わらず好感は持てるけれど、相変わらずやはりなんということはない。彼女が出会うかつての幼なじみ、龍介役に松田龍平、彼は同時に辻占の美少年でもあり、その登場からすでにオチバレ的。ま、意外にヨメなかったのはみどりとその母親がなんたるかというオチなのだが、それもみどりの母親が龍介、という言葉に反応して正気を失い、ただただ風呂場のカビのような跡をこすり続けるという描写で、やはりなんとなく推察されてしまう。この母親の秋吉久美子、あからさまな疲れきったホラーメイクだが、こんな作品にはもったいないほどの(!?)鬼気迫る演技で、ティーン役者たちを圧倒する。結局は後藤理沙扮するみどりも彼女と同じくトラウマからくる幻想に支配されていたにもかかわらず、彼女の場合はそうしたネガティブさを微塵も感じさせず、あくまでハツラツと健康なんだから拍子抜けしてしまう。せっかくこんな陽性の魅力の持ち主なのだから、彼女の持ち味が発揮できるような明るい青春映画を用意してあげればいいのに、と思ってしまう。
好きな男の子の気持ちを捕らえてしまったみどりをねたんで最初に辻占(往来で行き違った人に占ってもらうこと)の犠牲になる女の子、珠代が、儲け役とはいうもののかなりの衝撃度。演じる猪俣ユキの、怨念系の厚い唇がかもし出す少女らしからぬ一種のふてぶてしさが、鈴枝役の明日美嬢の変貌とは全く違って、最初からこの子はこうなってしまう、という邪悪な予感を感じさせるのだ。それにしても、彼女が受けることになる占いの言葉、「あなたの恋は、実らない。この恋だけではなく、これから先ずっと、あなたの恋は実ることはない。虫けらのような人生を送るのだ」という言葉のなんという残酷さ!……本当にこんなことを言われたら、辻占の呪いに憑りつかれなくたって、実際死にたくなってしまう、だろうなあ……もう私ぐらいの歳になってきちゃうと大して動揺しないかもしれないけど(笑)、こんな、恋のために生きてるような10代の頃に言われたら……考えるだに恐ろしい。
松田龍平という、一見こうした映画のこうしたキャラにハマりそうな役者を得ながら、どこか彼の印象がアイマイなまま過ぎ去ってゆき、しかも、そうした彼のまがまがしさを生かしきれずに、救いのあるラストにするという(辻占に立っている女生徒に、後藤理沙の声で「あなたの恋はきっと実るわ」と言う)のが、さらに平凡な印象を強くしてしまう。原作どおり、ということなのかもしれないが……(未読)。
辻占をする、小さなお堂が建っている路地、向かいにはブロック塀で囲まれてるけれど、墓地があって。お堂は用意されたものだろうけれど、あの墓地は……なんか映ってそうでかなりコワかったんだけど。ああいうのって、感じる人は感じるんだろうなあ。ぞぞぞ。★★☆☆☆
出会い系のチャットで知り合う、その晩限りの男たちとセックスし、日々を紛らわしている葉子。彼女はアル中の母親と仕事人間の父親を毛嫌いしていて、結婚に未来を見出せない。彼女の妹の香は、一般的な、平凡だが幸せな結婚をしている。共働きで、香は近く念願の企画部に異動できることで仕事にも生きがいを感じている。
その香のもとにたずねてくる母。父親が糖尿病と診断され、今までとは違って家に長くいるようになって耐えられないという。そう言う母親は、始終酒を手放さない。今まで家庭を顧みなかった父親はそのことすら知らない。香は葉子に相談するが、両親とひたすら関わりを避けている葉子は、話を聞こうともしない。加えて香に見知らぬ男との情事の楽しみまで批判され、怒る。あんたみたいな優等生とは違うんだ、と。
冒頭、葉子は今日のセックスの相手のカズに、どうしてハンドルネームが金魚なのかと聞かれて、「金魚、飼ってるから」と答える。また会えるかな、というカズに頷きながらも、会う気はない。彼女の飼っているという“金魚”は、パソコンの中の動画。彼女はそのたびごとに色んな熱帯魚のハンドルネームを使い、一度会った男と再び会おうとはしない。ある時、出会ってすぐに彼女に本名を告げたケントに葉子は怒る。ルール違反だと。ケントは彼女が熱帯魚のハンドルネームを使っていることに気づき、もう一度葉子と会うことに成功するが、彼女はすげなく振り切ってしまう。
一方の香。夫が会社を辞めて、田舎で農業をやりたいと言い出す。考えた末、香は彼についていくと告げる。引っ越す家を探しに行くという日、香は葉子に言う。「お父さんとお母さんを見ていたから、決心できたの」虚を突かれる葉子。同じ原因から違う結果を生み出した妹が夫と二人、車で走り去るのを、歩道橋の下に眺める葉子。そこには確かに敗北の色が見えたのだが……。
正直、香に関してはここで終わるのかと思った。しかし終わらない。彼女に関しては、意外な続きが用意されているのだ。それこそが、この作品をこうした問題を扱った他のものと一線を画するものにしているのだが、それは後述。葉子は父親から、母親が病院にいると電話を受ける。酒を飲んで街中をはしゃぎ歩き(ここの描写は、良かった。途中酒を分け合った兄ちゃんと仲良くなるくだりとか、)自転車を飛ばしていたところに事故にあったのだ。病院に駆けつける葉子。彼女の見たのは、父親が「これからは一緒に酒を飲もう」と優しく母親を抱いているところで、母親が泣きながらその父親の背中にいとおしげに手を回している場面だった。こんなシーンなど、見たこともなかったに違いない。驚きと、寂しさの入り混じったような表情(秀逸!)で両親を見つめる葉子。彼女の胸に去来していたのは……。
家に帰ったこの両親は、またしても母親がダダをこね、ええっ?あれで彼らはハッピーエンドじゃなかったのー?と驚かされるのだが、あれであっさりハッピーエンドと思ってしまう自分こそが単純だったのだと思い知らされるのは、それ以上に幸福なハッピーエンドが用意されているからだ。父親が母親を静かに抱きしめる。キスをする。ゆっくりと服を脱がせ、愛撫を始める。もはや60はとうに過ぎていると思しき夫婦のこの営みに思わず息をのんで見入ってしまう。母親は言う。「……できるかしら」それに応えて父親「ゆっくり、やっていけばいいさ」何かこの言葉には、これから一生、死ぬまで一緒なんだから、なんていう台詞がくっつきそうで、ちょっとじんとしてしまった。心ときめくプロポーズの言葉より、人生も終盤に差し掛かって言われるこんな言葉の方が、結婚や夫婦に対して肯定的な気持ちに傾いてしまう。
一方の、若い夫婦の香とその夫が、あのハッピーエンドで終わらなかったことも、その要因かもしれない。香は田舎へ向かう車の中で、黙り込んでしまう。彼を愛しているから、納得してついてきた筈なのに。彼女は、「ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!」と際限なく繰り返す。事態を察知した彼は車を止める。彼女は車を降り、彼はためらうようにそのまま停車させていたが、結局走り去ってしまう。葉子にあんな風に言って、夫婦の愛の証しを見せつけるかのように出てきたのに、何という皮肉。夜遅く、夫の帰った自宅に電話が鳴る。帰れないでいる香からである。「このままじゃ、あなたのこと愛しているって言えない」「……帰って来いよ」この夫の静かな受け入れの言葉が、この後どう展開していくのかはわからないけれど、とても優しく響いた。
葉子はまたチャットルームを覗いている。今度は自らケントを呼び出す。「私の本名は大内葉子です。とりあえず、今はそれだけでいい?」そう打ち込んでから、しばらくためらう葉子。そして送信ボタンを押す。クリックする音で映画は終わる。シャレた終わり方。暗い影ばかりが差していた葉子が見せる、ちょっと笑みを含んだ顔のアップが印象的。
男とセックスする時にはいつも同じ、扇情的な黒いガーターベルト付の下着姿で、メイクも濃い目の葉子は、でもそれも自分を多分に演出しているのが見え隠れしている。彼女がケントに心を開く気になったのは、彼が彼女が熱帯魚のハンドルネームを使っているということを見抜いたこと、それはパソコンの中で熱帯魚を飼っている彼女の寂しさを見抜かれた気がしたせいじゃないかなあ、なんて思って……。だって、生きている訳じゃない動画の金魚を眺めているのって……本当にとんでもなく寂しい画なんだもの。でも、そういうのって、ものすごく思い当たっちゃう。そういう一人も確かに楽しいんだけどね。でも時々、あるいは常にかもしれない、凄く、寂しいのだ。
こうして思い返してみると、あの短い時間の中に、何と深い世界が展開しているのか。ピンク映画って、割とそうではあるけど、本作は特にその深く掘り下げられた社会性に唸ってしまう。葉子役の金井悦子さんが会場に来ていた。スクリーンでも美人だったけど、実物は更にキレイ!見とれてしまった。★★★★★
小林旭を「遊侠三国志 鉄火の花道」で観た時に、うっわー、このライトな魅力はなんなんだ!って驚嘆して、その小林旭が観たくって足を運んだのは今回で何回目か、それ以来なかなかあんなライトな小林旭に出会えないんだよなあ。本作の小林旭は若いながらもカリスマ性をそなえ、毛色のかわったゲリラ隊を見事に統率していくんだけど、結構苦悩の色も濃くって、あの陽気でフットワークの良い感じとはだいぶ違ってて。ま、でも今回はなんと言っても宍戸錠とのコラボレーションなんだよねー。一体どういう事情でなんだか、この次郎が出所してきた時から彼を殺そうとつけねらっている宍戸錠は、でも妙な因縁から彼の側のチームに加わることになり、それでも常に彼を殺すつもりなんだと公言してはばからない。一段楽したところでその決着をつけようと戦うも次郎のほうが一枚うわてで、そこで一旦別れるんだけど、彼がピンチの時に、宍戸錠は助っ人として戻ってくるんである。その時のセリフが、振るっている。「俺は惚れっぽいたちなんだ。男に惚れたのは初めてだけどな」こっのー!キザだけど、ブルッときたわー!
どうも良く判らないのは川地民夫の位置どころ、なんである。彼、一体どういう位置関係で、どういう動きをしているのかがなんでだか良くわかんない。逃げ込んできた次郎側の男がリンチの末殺されてしまうのを目の当たりにしてうろたえたりするんだけど、彼は次郎側の人間じゃなかったんだっけ……違ったっけ。クライマックスの斬り込みの時には、裏切り行為に出たらしいだけど、この辺の位置関係ももう頭ぐっちゃぐちゃで判んなかった。自分の好きなねーちゃんとのねんごろになろうとしてるところに踏み込まれて、あれも敵なんだか味方なんだか、ねーちゃんを姦わされてしまう、なんていう悲痛な目にもあって、凄く印象的では、あるんだけど。
土地を買収される田舎のお百姓さんたちとのやり取りが結構印象的なんである。きっと、この時代には実際こうしたトラブルが数多く発生していたんだろうな、と思わせる。「お百姓って、そんなに器用じゃないんです。これから先どうなるのか……田んぼや畑ならば、何十年と使えるけれど、お金といっても一時的なものだし」という、この土地で農業に従事している若い娘さんは言い、確かにさもありなん、と思うんである。かつてはみんな当たり前に田畑を耕していて、それがだんだんと工業化されてゆき、お金という代替物で支払われていく。しかしそれが結果的に良かったことなのかどうか、この時代にはまだ、そうした問いかけがこれからの方向を左右するだけの意味合いがあった。もはや現代ではほとんど意味をなさなくなってしまったけど。でも、“お金という一時的なもの”に全てを握られてしまっている愚かさを、現代をふと振り返ると思い知らされる。青々とした田んぼがガリガリとショベルカーで破壊されていくのを農民がじっと見つめているシーンは、工業地帯の未来を信じて託したにもかかわらず、無意識か意識的だったのか、どこか絶望的なものを感じさせるのだ。
この娘さんが抗争のあおりを食らって死んでしまうのは、その象徴のようにも思える。彼らはそれを血で血を洗う戦いで決着をつけるけれど、それが犠牲以上の意味をもたらしているのかは、……難しい問題だ。★★☆☆☆
実に1922年のサイレント期の傑作、「吸血鬼ノスフェラトゥ」の、舞台裏を、思いっきりフィクショナルに、こんなとんでもない発想の元に作られた本作。私は「吸血鬼ノスフェラトゥ」のファンなので、この映画を元にした映画が作られるというだけで驚きと嬉しさでいっぱい。「吸血鬼ノスフェラトゥ」は、映像マジックの原点とも言うべきミステリアスたっぷりな雰囲気はもちろんなのだが、何と言っても吸血鬼役のマックス・シュレックの信じられないほどの不気味さが際立っていて、今思い出しても背筋がゾゾッとするほど。彼が本物の吸血鬼だった、という設定がさほど荒唐無稽だとは思われないぐらい、人間離れしていた。
こういうふうに(アメリカから見ての)外国が舞台の映画を観るたびに、何とかならんのかと思うことをまたしても思ってしまった。ドイツ映画の話なのに、なんでみんなして英語しゃべってんの?という、疑問というよりは違和感である。コテコテのフランス文学人ランボーとヴェルレーヌが英語を喋っていた「太陽と月に背いて」以来の大違和感。こういう違和感をアメリカの人が感じないということの方が不思議で、そりゃあ、俳優たちにドイツ語を喋らせろという方が無理なのかもしれないけど……。でもこのノリで、日本をテーマにした話で英語喋られたらどうしようとか……それはいくらなんでもないと思うけど、でもそれぐらいの違和感はあるはずだと思うなあ。当のドイツの人はどう思うんだろ。絶対ヘンだよね?
という違和感が最初のうちつきまとっていたので、なかなか映画に没頭できなかった。それにこの殆どイタコで憑依させているぐらいにナリキリ状態のデフォーはともかく、マルコヴィッチのムルナウは、良識的なアメリカ人ぐらいにしか見えなくて、自分の芸術のために悪魔に魂を売り渡したような狂気の男には最後まで見えなかったからだ。髪の毛生やすと、とたんにフツーの感じになっちゃうのね、なんて。
ムルナウがシュレックと交わした契約は、撮影終了後には主演女優、グレタの血を与えるということ。しかし長いこと人間の血に飢えていた彼は、それまで我慢できず、撮影クルーを次々に襲ってしまう。ムルナウはスタッフにシュレックの正体を説明してなかったので(まあ、そうだよな……)彼らはシュレックの完璧主義な役作り(本当は地そのまんま)に感心するばかりで、コトの異常さになかなか気づかない。そんな中、一人ムルナウだけが、このワガママ俳優に振り回され、恐怖に打ち勝てず、アヘンに溺れるようになる。
このスタッフの中にちょっと気になるキャラクターがいる。最初にシュレックの餌食となったカメラマンの代わりに新しく加わったフリッツ。彼は主演女優、グレタに言い寄り、このプライドの高い、しかし孤独な女優にいとも簡単につけ込み、モルヒネ中毒にさせる。彼が何の目的でそんなことをするのか、今ひとつ判らないだけに気味が悪い。彼の風貌がどこか世間知らずの青二才に見えるのも、ヘンな感じである。このフリッツがどうという展開は別にないんだけど、それが不思議なほどである。彼は一体、何?
まさしく迫真の演技を展開するシュレックだが、彼の飢えは限界に達していた。ラストシーンのために来ていたヘルゴラント島から脱出する術もなく、残ったスタッフたちがシュレックの毒牙から生き残るためには、早くラストシーンを撮って、約束どおりグレタを彼に捧げることしかない。しかし彼女はそのシーンの準備中、シュレックの姿が鏡に映らないことに気づいて取り乱してしまう(そりゃ、怖いわ……)。もはや彼の正体を知っているスタッフたちは驚きもせず、騒ぐ彼女を静かにさせるためにモルヒネをうつ。このあたりの描写は、彼女のショックにうろたえるシュレックと、クスリで静かになった彼女に「これで落ち着いて撮影できる」なんていうスタッフの描写が奇妙なユーモアを感じさせる。
まあ、このシーンに限らず、本作はそこはかとないユーモアが身上で、それは実際にある映画を使いながら、その設定はフィクションであるという点で、シリアスなノンフィクション風に描いたらシャレにならんという風にも感じられるのだが。でもそうだとしたら、ちょっとそれってつまらないなあ。徹底的にノンフィクション風に迫って怖がらせてほしかった気もする。でもデフォーのあまりにもあまりなノリノリ演技は、逆にフィクション性を大いに高めていて、これは彼が自分の中だけでふくらませて作り上げたって感じアリアリだし、やっぱりこのやり方しかないか?だとしたら、これはデフォーのせい?なんてね。まあ、そんなことも手伝って、さまざまな技術が発達した現代の映画である本作よりも、オリジナルの「吸血鬼ノスフェラトゥ」の方が数倍恐ろしさに満ちているのだ。デフォーのシュレックはそっくりだけど、本人のシュレックの不気味さにはかなわない。……やっぱりあの映画って、すごい映画だったんだ。
巧みに再現されたサイレント映像を挟みながら、シュレックの撮影に合わせているので、圧倒的に夜の場面が多い。闇の中で物語りは静々と展開していく。その暗さが続いているので(眠気を誘われる〜)、シュレックを抹殺するために差し込む朝日が目に突き刺さり、その白い光の中で、演技の延長で断末魔の表情とポーズのまま凍りつくシュレックが残像で焼きつく。その周りには彼の毒牙にかかったグレタをはじめ、スタッフたちが死屍累々と倒れ、もはや現実と映画の世界、そして自分の世界の区別がつかなくなったムルナウは、フィルムが切れているのも気づかないまま、カラカラとカメラを回し続ける……。
しかしこれで行くと、吸血鬼に血を吸われると、吸血鬼になるんではなくて、死んでしまうということなのね?そりゃまあ、血を吸われて吸血鬼になっちゃうんなら、それこそ本当にネズミ算式で、需要と供給のバランス?はあっという間に崩れて吸血鬼だけが世にはびこることになっちゃうけどさ……といったのは新井素子氏だったが。それに吸血鬼一族、とかいうのが意味を成さなくなっちゃうしなあ……そうか、だとするとこちらの方が正解なんだ。でも吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になるっていう話はどこから出てきたんだろ?思い出せない……。★★★☆☆
作家、ジェイムズ・ジョーンズの娘である原作者のケイリーが著した自伝的小説といわれる原作。子供時代から青春時代をフランス→アメリカとすごし、尊敬する父親、愛すべき母親、そして年若い母親から産み落とされた養子である弟の、信頼関係のもとに成長してゆくシャンヌ。アメリカ人でありながらフランスで生まれ育ち(父親ははっきりアメリカ人だけど、母親はフランス人?)、突然やってきた弟はフランス人……複雑なアイデンティティが交錯し、双方の価値観で心ゆれるシャンヌ。フランス人にもアメリカ人にもなりきれず、なりきりたいと願うことで愚かな行為にも出てしまうシャンヌは、しかし何よりも自分なのだと、この大好きな父親と母親の間の子供である自分でいいのだと、無意識ながら気づいているように感じられるラストへの収斂は、やはり同じくこの家の本当の子供ではないことでずっと苦悩し続けていた弟、ビリーが、その事実にまっすぐ向き合うことによって本当の意味でこの家族の一員になったこととあいまって、穏やかな感動をかもし出す。
というわけで、少々ふっくら気味のリーリー・ソビエスキーは何といってもカワイイ。中学生役がしっくりくるほどで、高校生となるアメリカ時代になると、少々背伸びしている気がするほど(実際、この時にはいくつだったんだろう)。フランス時代(おそらく中学ぐらいの設定だろう)彼女が出会うオペラ歌手志望のボーイソプラノ、フランシスとの親友関係は、フランシスが恋心を持ったことで終わりを告げるという青春のほろ苦さで、女の子であるシャンヌの方がスラリと背が高いのも、そんな幼い関係をより切なくさせるのである。
そーりゃもちろんホンモノの歌手だということがひと目で判る、このフランシス役のアンソニー・ロス・コスタンツォが素晴らしく、彼が息子大好き!な母親(ジェーン・バーキン!)の伴奏で見事なボーイソプラノを聞かせる登場シーンからもう圧巻。そしてシャンヌと二人、オペラごっこをしてはしゃぎながらもその美しい歌声を聞かせてくれる。この、ただ歌ってただ走り回っているだけでやたら楽しいという、この年頃の友達関係が、ああ、そうだよなあ、となんだかとてつもなくノスタルジックな愛しさ。そしてシャンヌが初潮をむかえ、うろたえる彼女をしっかりと支えるあたりから、それは確かに同性の親友の頼りがいに似てはいるものの、彼と彼女は違うのだ、異性なのだということをハッキリと感じさせる出来事でもあるのだ。期せずしてシャンヌの家族がアメリカへ渡ることが決まり、フランシスは、自分の思いを抑えるために親友役に徹していたことを告げ、二人は別れることとなる……。
養子の弟であるビリーが可愛らしいこともあってか、このフランス時代の方が魅力的だ。アメリカ時代になるとビリーはいっきなり成長して(いや、まあフランス時代から成長はしてたけど、そんなに描かれなかった)なんか太り気味でオッサンくさくなってしまうんだもん。そして不登校に陥り、家でテレビを見ながらジャンクフードばかり食らう生活になってしまう(そりゃ、太るよ)。一方のシャンヌはといえば、ビリーほどではないにしても、フランス人と見られることで壁が出来てしまう学校生活への打開、と思ったからなのか、言い寄ってくる男の子と次々と肉体関係を持ってしまい、ますます敬遠されてしまう(そりゃそうだ……なんだって、そんなバカなこと考えるのかしらん)。
そんな中、ビリーをイジメから助けてくれたキースと出会ったシャンヌは、今度は本当の恋に落ちるのだが、それもまた“本当”ではなかったのだ。彼と真剣に付き合いたいからと、最初から父親にきちんと紹介し、父親も彼を気に入って家に泊めたり車を貸したりすることも了承するのだが、やっぱりシャンヌはまだまだ父親をより愛しているのだから。付き合う前に父親に紹介する、というところがまさしくそうではないか。自分がこの人だ、と感じて父親に紹介するのではなく、どこか、父親にこの彼を判断してほしいという気持ちが感じられるのだもの。そして、大晦日、一度はキースとカウントダウンパーティーに出かけるものの、心臓の弱い父親にとって、これが最後の年越しかも知れないと悟ったシャンヌは、誰よりも父親のそばにいたいと願うのである。キースもね、いい奴なんだけどね。だって、そんなシャンヌを気づかって「今なら(新年のお祝いに家族が傾けている)シャンパンに間に合うよ」と彼女をせかし送ってくれるのだから。でも、間に合わなかった。シャンヌは父親の死に目に会うことが出来なかったのである。そしてキースへの思いも冷めてしまう。そりゃそうだ。だって、キースは父親が介在してこその存在だったのだもの。自分から本当に好きになったのではなく、父親が認めてくれたからこそ好きになったのだもの。
でも当然のことながら、シャンヌにとって父親は、父親であって恋人ではない。だから、立ち直れるのである。この時身も世もなく悲しんで、泣いても泣いても泣ききれない母親の、あまりにも悲痛な姿とは対照的に、結構しっかりしているのだ。この母親、演じるバーバラ・ハーシーの、自分のダンナに最後まで恋していた女の可愛らしさ、哀しさが胸を打つ。それに、そんなにまでして惚れられてた父親、クリス・クリストファーソン(この人って、超有名なミュージシャンのクリス・クリストファーソン、だよね?でも、すごい、名優!)が、そう思わせるだけ、イイんだ。フランス語がヘタで、でもそのフランスを愛し、だからこそフランス人である息子も愛することができて、そして誰よりも妻を愛してた、そして自分と妻の血を引き継ぎ、なおかつ自分の才能を引き継いでくれたシャンヌを愛してた、そんな実に誠実な父親が。
そんな世界が描けるのも、これが60年代、70年代という、それまでの価値観が大いに揺れ動いた時代だからこそなのだろうか。そんな時代だからこそ、自らを見つめなおす必要があり、それが現代のように空回りせずに、きちっと実を結んだ時代。目を凝らせば、ちゃんと正しいものが見えていた時代。今は、それがあまりに混沌としてて、混在してて、こんな物語はなかなか紡げない。時代は戻せないけれど、うらやましいな。
ジェーン・バーキンもそうだけど、ビリーの母親役でヴィルジニー・ルドワイヤンが結構じっとり熱演していたりするのが、フランス部分をしっかりと見せていて、“アメリカ人から見た”とか“イギリス人から見た”などという生ぬるさに陥ってないところも、さすがにジェイムズ・アイヴォリーである(このあたり、ハリウッド映画はいまだに……だからなあ)。ああ、それにしてもシャンヌ=リーリー・ソビエスキー&フランシス=アンソニー・ロス・コスタンツォは良かった!★★★☆☆
最初はとても、苦手なタイプの映画だと思った。年のせいか、それともこの暑さで気分がヘタっているせいか、最近の私は不必要に荒っぽい映画に以前のように柔軟に(というか、節操なく、何でもよく、イイカゲンに)対応することができない。アッサリ拒否反応が出てしまう。この映画もそういうタイプだと思った。色の少ない、ざらざらした画面。無理やり車に拉致されるバイクに乗った大学生、宇佐美(川岡大次郎)。彼が逃げようとするたび、そしてちょっと馴れ合いになるたび、理不尽な暴力を浴びせるその男たち(正確に言うと、三人のうち二人)。ちょっと生理的にヤだな、こんなのがダメになるほど私、ヤワになっちゃったかな、と思いつつ見ているのだけど、いや、最後までその感覚というのは確かにあるのだけど、なぜか、見入ってしまう。これは……。
一体、これは何日間ぐらいの物語なのだろう。まるでほんの一日のようにも(ということはないけれど)、あるいはずっと果てしなく長いようにも思える。ラスト、最初の突然の拉致と同じようにふいと放り出されてしまう宇佐美の、ちょっと放心したような顔が、その時間の感覚の無為さを感じさせる。そしてまた行ってしまう三人は、さらに無為な時間の中をさまよっていくのだろう、と。ひと気のない、だだっぴろい、一体こんなところが日本にあるのか?といったような道路に宇佐美一人を残し、こっけいなぐらい小さな、三人しか乗れない可愛らしい自動車で、走りすぎる三人。流転の時の流れから取り残されたような、その場所。
金も車もそこらへんの人をテキトーにぶんなぐって失敬する。渋滞でイライラすれば、その車も簡単に乗り捨てる(車から出て平然と歩き出す彼らを俯瞰で映し出すシーンにゾクゾク!「新・仁義なき戦い。」の冒頭場面なんて思い出しちゃう)。そしてまた奪う……。彼らの行動は無軌道で野卑なチンピラそのものなのだが、小さな子供に優しくしたり、ビックリマンチョコやゲームセンターに夢中になったりする、特に横浜(渡辺一志監督自身。三人の男に役名は劇中では付されていないんだけど、オフィシャルサイトで、役名があるのを知る)のそうした読みきれないギャップに戸惑いつつも魅せられてしまう。サングラスをかけて無表情な神戸がこの横浜と親友のように見えるのも(どこがといわれると困るんだけど……)何か不思議な感覚。帰る場所、すなわち家族がいることを感じさせる宇佐美と違って、彼らはそうしたつながりのあるものが見えない。それは昨今よくあるような、そういう部分を無視したキャラクターの造形というより、意図的にそれを排除している感じがする。この閉じられた時間の中にしかいられない、彼ら。なんて寂しい……。
三人のうち、一人の男は、やはり宇佐美と同じように拉致されてきたのだという。「いつ頃帰れるんですかね?」と不安げに聞く宇佐美に、「帰れると思ってるの?」とこともなげに投げて返すその男、千葉はその時に自分も同じ境遇である事を明かすのである。確かに他の二人とは違っているなとは思いはするものの、この千葉という男のスタンスがとっても不思議で。とっくに逃げることをあきらめてしまったのか、あるいは違う理由でこの二人から離れないのか……。どちらともつかない。その表情は“優しげな無表情”で、当然想起されるはずのあきらめの雰囲気が、ありそうで、ないのである。かといって自分の意思で二人と一緒にいる、というまでの強いものも感じられない。一番近い言い方をすれば、二人を見守っている、そんな感じだ。
あるいは、千葉が拉致される場面はもちろん見てはいないんだけど、まるで彼は彼らに拉致されるのを望んでいたかのような、待っていたかのような、そんな想像すら起こさせる。彼にも家族などのつながりの可能性を感じない。彼自身の存在、最初からそれを感じない……閉じられた時間の中に望んで飛び込んだような、彼。写真が趣味で、ことあるごとにシャッターを押す。人間を撮るのが好きなようだ。それはこのとまってしまったような時間を、ちゃんとそこにあったのだというものにするためのようにも思える。彼は別れ際宇佐美に言う。「写真、送るよ」住所なんて聞いているのだろうか?などというヤボな疑問よりも、この時間に取り残された三人が、時間の軸の中に戻っていく宇佐美にまた交叉することができるのだろうか、といったような不条理な感覚。
時間を持っている人間と時折接触したいとでも思っているような気すらしてくる彼らは、そして海岸でまた一人、若いサーファーの男(遠藤雅)を捕まえる。横浜は、宇佐美とその男をけんかさせて、勝った方を帰してやるという。またとないチャンスのはずなのに、戦おうとしない宇佐美。彼の気持ちはわかるようで、わからないようで……。友情というほどには対等な関係を許してもらっているわけではないし、さりとて、理不尽な人質という訳でもないという宇佐美の心情は微妙である。宇佐美と共に車に手錠でつながれたサーファー男は、同じ立場であるはずの宇佐美に対して錯乱して襲い掛かってくる。もがいた宇佐美は手にした横浜の、たった一発銃弾が残っている銃でこの男を撃ってしまう。止まっていた時間に亀裂が入る。
男の死体はぐるぐる巻きにされてゴミ置き場に置かれる。明らかに死体だろうと形と重さからしてわかるはずが、二人のごみ収集人はそれをまるで疑わずに収集車に投げ入れてしまう。それを見届ける四人。そしてあのラストへと向かう。時間の亀裂から宇佐美を出してやって、また三人は走り去る。
「タイム・リープ」から、かわゆいかわゆい川岡大次郎君は大注目のお気に入りで、「二十歳の微熱」、NHK朝ドラの「ひまわり」でその上手さに舌を巻いた(っつーか、これでデビューの松嶋菜々子がヘタすぎ)これまた大注目の遠藤雅、この二人の共演というのは、か、かなり嬉しすぎる!ことに遠藤雅は、なりを潜めてたのがようやく出演映画がボチボチ出始めたので、ホントに期待してるんである。
シンクロする自分と、拒絶する自分が拮抗してて、こんなアイマイな点数になってしまった。このモヤモヤを解決するためにも、渡辺監督の次回作を期待して待ちたい。★★★☆☆
精神を病んでいるジュリアン、彼の厳格な、厳格すぎてジュリアン以上におかしいこともある父親、ジュリアンの姉で未婚のまま妊娠中のパール、レスラーを目指してトレーニング中の弟クリス、祖母。この家族の日常。日常、と言うにはその画面はあまりに非日常性に美しさと残酷さと難解さにあふれているのだが。父親を演じるのはコリンが敬愛するというのもナットクなほどに彼と奇妙なほどに似た感覚を持つ鬼才監督、ヴェルナー・ヘルツォーク。「水が浸透して体を太らせる」などとわけのわからないことを言って、ジュリアンを寒空の中ハダカで立たせ、ホースで水を浴びせるという、厳格さがかなりヘンな方向にイッている父親である。異常にハマっている。コリンが愛するクイーアな人々、盲目の子供たち、両手を失った人、がやはりこの作品でも見受けられる。「ガンモ」の時よりも、自然な形で。両手を失い、足ですべてを器用にこなす男はジュリアンの父親と対峙し、カードさばきを披露する。盲目の子供たちはジュリアンの働く盲学校で登場する。
そのうちの一人の盲目の女の子はスケーターを夢見ている。そして画面にも、見るともなしにつけられているテレビに顔の映し出されない(というより、その画面の粗さで顔が判然としない)黒い衣装のフィギュアスケート選手がくるくると見事な回転を見せている。かぶせられる音楽はオペラ。このオペラがこの映画の主旋律をなしている。おおらかなすべての母のように響くその歌声、こうした洗練された映像のコラージュ、映像の散文詩にかぶさってくるとは驚くのだけれど、その音楽もまたコラージュなのだと斬って捨てるよりは、この音楽だけが見失いそうになるジュリアンの揺れる視線を常に真ん中に戻してきてくれる、まっすぐに通った、テーマを担っている。
亡き母に思いを寄せるジュリアン、亡き妻をジュリアンに見る父親(彼に母親の着ていたドレスを着させようとする!)、そして母親になろうとするパール。彼女はその子供が誰の子なのか明かさない。しかしそれは頑として明かさないという感じではない。彼女は母親になることを楽しみにしているし、母性本能に包まれて幸せそうである。それはまるで彼女一人で子供を宿したような感じですらある。彼女の父親がその赤ちゃんの父親なのではないかという論もあったが、私にはどうもそうは思われない。それだったらどちらかというとジュリアンが父親だと思った方がまだしっくりくる。彼女はジュリアンのやすらぎ。それは母となる彼女だからこそなのか、もともとそうなのか判らない。ジュリアンは彼女が死産した子供を抱いて街へと迷いだす。その動揺する心をどこに持っていったらいいのか判らない。抱いている子供が自分の子供のように、あるいは自分自身のように思っているのか。彼はその子を抱いたまま、ベッドの中でシーツにくるまる。まるで沈んでいくように。しかしそのくるまれた中から彼の瞳は異様な光を放つ。怒りなのか、哀しみなのか、孤独なのか……それともそのすべてか。
しかしこうして映像の中から少しでも物語の断片が見えるようなものを拾い出し、つなげて論じるのは、やはりなんだか違うような気がするのである。どんどんコリンの世界を間違って感じることになるような気がして。コリンの作品を観る時、そのストーリー自体に何かを感じるのではない。そこに提示されているのはそこはかとない気分であり、気分を上回る感情であり、感情を上回る狂気だ。それは人間そのもの。人間の中に明確なストーリーなどないから。コリンの映画にはストーリーがあっても拒否する感覚があるのはそのためか。
いまだ映画がストーリーテリングにがんじがらめにされている中、彼のように本当の意味で映像で詩を紡ぐ作家が出てきたのは、遅すぎたような気すらするのである。日本の園子温などそうした傾向の作家が出てきてはいるが、ここまで徹底してないし、その数はまだまだ少数派だ。しかも長編でそれを見せきるだけの力のあるコリンは、やはりまさしく天才なのであろう。顔も見えないほどに粒子の粗い、光にあふれた、非常に洗練された映像の中に、しかし確かに役者の発する感情の洪水があり、それはそうした映像の中にあるからこそ、奇妙に心をしめつけてくるのだ。
オペラもそうだし、劇中に出てくるゴスペルのせいもあるだろうが、そしてその映像もまた人間の目に映るものとは思われない点でも、何か神の視線、宗教的な荘厳さを感じずにいられないのも、特徴的である。しかしそれは、唯一絶対の神であるからこそ、気まぐれでワガママな神様のようにも思えるのだけど。★★★☆☆
一人暮らしで孤独なソウルの青年、ウィンと、家族と暮らしてはいるものの、心がバラバラで孤独な東京の少女、彩。家族の意味が、重要性が、必要性がここまで落ちてしまったのかということにいささか呆然としながらも、だからこそネットの世界がここまで急速に発展したのかな、という思いもする。ウィンは単調な仕事に生きがいを見出せない公務員。ふと入り込んできた異世界の住人のような赤く髪を染めた少女、ミアに興味と好感を抱くものの、彼女は彼など歯牙にもかけず、しかもレズビアンだということが判る。彼女が恋人を抱きしめながらふと流す涙の真摯さに気おされたようにプレゼントを渡せないまま玉砕するウィン。一方の彩は、死への憧憬に囚われている。彼女の祖父は、自ら息を止めて自死したのだという。そのエピソードのどこか清冽な美しさに、この年にして生きることに希望を持てなくなってしまったような彩が惹かれたのも無理はない。彼女は日付変更線の上でそれを実行することを夢見る。「そうしたら昨日死んだか明日死んだか、判らなくなる。」ひどくリリカルな響き。
彩は、日付変更線に向かう飛行機代のためにアルバイトを始める。ほどなくしてそのバイトもクビになり、インターネットの美少女覗きサイトに出演して日銭を稼ぐ。彼女は死ぬために働いているはずなのに、バイト先で出会った先輩のリエと仲良くなって夜通し喋ったり、どうしても欲しくてたまらない赤い靴を買ったりする。……この靴、赤いスパンコールが輝くキュートな靴。それはこれから死のうという少女が欲するものとは思えない。靴は、その大地を歩くために、生きていくために、履くものだ。その靴を履いたキャラクター「靴を履いた朝子」は確かにどこか刹那的なはかなさだけれど、それは朝子であって、彩ではないのだ。お金がたまった彩は、その靴を持って日付変更線の通る飛行機に乗る。靴を履き、息を止める。死ねない。嗚咽を漏らす彩。……きっと、この時死んでしまったのは、「靴を履いた朝子」。彩の身代わりに死んでくれたのだ。
アダルトサイトを徘徊していたウィンが、奇跡のように出会う、純粋な宝石のような「靴を履いた朝子」。彼が朝子に心を惹かれたのは、赤いウィッグをつけた朝子がミアに似ていたからだ。ミアが住民登録証を取るために撮った写真を、朝子の顔にすげかえて自慰をするウィン。しかし、彼は、ミアに失恋すると、朝子だけを見つめるようになる。そして、朝子をネタに自分をなぐさめたりはしない。それは朝子が彩の身代わりの、魂のような存在であるためかもしれないし、不思議な運命で、ウィンと彩が心で通じ合ったからかもしれない。
確かにこの時点ではお互いに何一つ知るところはない。特に彩の方は、ウィンからファンレターはもらうものの、ウィンが彩を捜し求めているのとは明らかに違って、彼のアプローチに比すると明らかに受身である。しかし、リエとの出会いと同じように、自分を求める相手との出会いは、自分の存在を急速に実像化していく。それまでの彩は、それこそサイトの中の朝子のごとく、死も、ただネットの中から消え去るがごとくにカンタンに行えるぐらいに、その存在ははかなく揺らめいていた。だけど、リエと出会い、ウィンからメールをもらい、赤い靴を履き、ネットの中の朝子にそれまでの自分を託すことで、彩は実体化していく。
ウィンは小指が麻痺して、怪我をしてもわからない。何だかそれは、赤い糸がつなげない孤独さのようで、彩の求める赤い靴と同じぐらい、ポエティックな描写である。彼の家は屋上の貯水タンクから水漏れがしている。もんもんと暮らす彼の気持ちを映すかのように、ぽたり、ぽたりと水が落ちている。彼の幼い姪?が妙に色っぽい流し目で、ウィンがサイトで朝子を眺めているのを覗き込み、同じお人形さん遊びね、と言う。彼女が辞去した後、お風呂場に彼女のバービー?人形が浮かんでいる。彼女はお人形さん遊びを卒業したのだ。そして、ある日ウィンが帰ると、水漏れは決定的にひどくなり、部屋中にザアザアと降り注いでいる。まるで彼の気持ちを吹っ切らせるように。お人形さん遊びから卒業させるように。実体化した彩に会いに行かせるように。
二人が向かい、出会い、ラストを飾るのが厳寒の地、アラスカだというのが、思わず「アムス→シベリア」??まあ、あっちはシベリアか……。作風も全然違う。でも、北の最果てに行って、それまでの全てが清潔な冷気の中に浄化される感覚が共通している気がする。あるいは、「ANA+OTTO アナとオットー」なんかもそうかもしれない。全ての始まりであり、終わりである地。
リエ役、粟田麗のおきゃんで寂しさを抱えてて、でもパワフルでチャーミングな女性っぷりが凄く好きだ!自分の顔をつけたハンガーを次々に取り出したり、コミカルな芝居っ気たっぷりの仕草とか。でも彼女も自殺未遂の経験を持っていて、実は凄く寂しい心を抱いている。そんな経験をしているから、どんなことがあったって、とっても強い。彼女は妊娠して、多分シングルマザーになる決意をして、その金を稼ぐためにバーのショーダンサーになる。妊娠していてそんな踊って大丈夫なの?と思っちゃうけど、この子のために頑張んなきゃ!と言っている彼女を見ていると、ああ、大丈夫、本当の強さを持っている人だ、と思う。彼女の優しさと強さは独特だけど、本物。遠い日本に働きに来ている外国人青年と友情感覚のセックスを自然に出来ちゃう人。それがカルいオンナという風に映らずに、本当の意味での優しさと、優しいがゆえの強さを感じさせるのが凄い。この映画の中では、彼女が一番光り輝いていたかもしれない。★★★☆☆
しかしこの映画の中の小沢まゆの肉体は夢なんかじゃなく、実に圧倒的。生年不詳のこの少女が実際幾つなのかはわからないけれど、確かに幼いきゃしゃさを持っていながら、もちろん彼女がこれだけ見せ、これだけその肉体演技を披露しているという驚きもありつつ、それ以上の色を感じさせる。のは、やはりクライマックスの、刺青を入れるときの呆然とするほどの色っぽさだろう。この新人の少女を選んだのは、登場シーンにおいて、声かな、と思った。「おじさん、ねえ、おじさん」と呼びかけるその声は何か露を含んだような、それでいて草原のようにさわやかで柔らかい、魅力的な声だった。そして次にはその唇かと思った。年齢をごまかすために真っ赤な口紅を塗っているその唇は、その赤がこれまた呆然とするほど似合う、分厚くて、でも柔らかそうで、そして情が厚そうな、一見して参ってしまうような、×××××が上手そうな唇。
しかしやはり、あの刺青を入れるシーンの彼女の素晴らしさに尽きる。まだ生まれて15年そこそこの、新鮮な白い肌に、痛みと引き換えに鮮やかな片翼の鳥が描かれてゆく。その痛みに手ぬぐいを噛みしめて耐え、一針ごとに顔と言わず耳と言わず背中と言わず、全身がほの赤く燃え上がり、細かい汗を浮かべるその様は、劇中の友川ならずともその色香に釘付けになってしまう。短絡的だとは思いながらも、やはり即座に谷崎の「刺青」を思い出してしまう。その柔肌に刺青をほどこすのが職人の至上の夢だということも、刺青を入れることによって、輝くばかりに、本当の女へと昇華していくことも。仕上げにその色を美しく定着させるために、痛みをこらえて風呂に入るシーンも、かの作品を思い起こさせた。その痛みは、もう本当に後戻りできない痛みである。だから、そこからつながれて行く、ハッピーエンドのようにも、あてのない、破滅的なようにも見えるラストがたまらなく、胸にぎゅーんとくる。キスを繰り返し、不安げな顔を風にさらし、しかしその背中に二人で一羽の鳥を羽ばたかせている二人のラストシーン。
義父に関係を強要され、逃げてきた祖父のところでも友達ができない陽子。彼女が自ら近づく極めてイーカゲンなおまわりの友川。援助交際を装いながら、しかし最初から彼女の気持ちは本物だった。一般的に、幾つかの恋を経験し、幼い恋から大人の恋へと成長し、そして最後に本物の恋にたどり着く、みたいな、そんな感覚ってあると思うんだけど、それってホントのホントに、あまりにも単純な考えなんだと、むしろ大人になってから思う。月並みな言い方だけど、本当に人それぞれなんだと。いい大人と呼ばれる年齢になっても本物の恋にたどりつけていない(あるいはたどりつく気もない人もいるだろう……それはネガティブな意味じゃなくて)人もいれば、陽子のように、最初の最初に本物の恋に出会ってしまう人もいるのだ。そして友川は人生も後半戦に差し掛かってそれを得た。
もちろん世間的にはこの一般的な感覚が、ある種社会で暮らすルールのように思われているから、二人の恋はそうスムーズには運ばない。ことに理解を示さないのはほかならぬ彼女の母親であるのだが、しかしこの母親、そのルールに従って彼女を糾弾する一方で、彼女が自分の男を二人も寝取ったという言い方をする。あまりといえばあまりに矛盾したその物言いは、大人のズルさを凝縮して象徴している。しかしこの大人の尺度というのも……。陽子は、友川に「私と結婚してくれる?」と問うと、友川は「大人になったらな」と答える。陽子は「もう大人だよ。女は16で結婚できるんだから」と言う。そう、女は16で結婚できる。一方で男は18でなければ結婚できない。この差は女の方が先に大人になるなんていうことでは無論なくて、結婚というものが、女が男の庇護のもとに入るという意識に他ならないわけで、子供であることを理由に友川との恋を阻まれる彼女にとっては二重の皮肉である。それに彼女は気づいているだろうか。気づく日が来るのだろうか……。
奥田瑛二氏自身がこの原作にホレこみ、映画化を熱望し、自らメガホンをとるだけではなく(かなり役得な)主演もこなしたという点で、この物語がどこか男の至上の夢のようにも思える部分も否定できないが、しかしうらやましい……。奥田氏は確かにしょーもない中年のオッサンを、その名古屋弁もユーモラスに響かせて体現しているけど、しかしやはりこの人はカッコよすぎるのだ。冒頭の、自転車にとぼけた味わいで乗っている登場シーンから、このおまわりの自転車にはジャマになるほどに長い手足で、そのスタイルの良さにあらためて目を見張らせられるし、ユアン・マクレガー並みに脱ぎたがるのも、彼の場合は納得できるぐらい、贅肉のない(まあ、あまり筋肉もないが)美しい体をしている。そして何といってもその手、その長い指の美しさは尋常ではなく(第一関節までがあれほど長い人も珍しい)、その手でどんなイヤラシイことをしても、その優雅な形状によって、浄化してしまう。
その相手役である陽子役の小沢まゆは、先ほどその肉体的な存在感ばかりを強調してしまったが、しかしこの子は演技的にも相当上手い、と思う。あるいはこの陽子という役を生きるのに、彼女自身のパーソナリティが上手くはまったと言ったほうがいいかもしれないけれど、でもそれこそが役者、演者というものだろう。一体この子がどこから出てきて、どこで見出されたのやら、新しい才能というのはどこに埋もれているか判らない。全く、油断できない。
中学生ながら、祖父の葬儀屋の仕事を手伝っている彼女は、死に顔にメイクを施すプロでもある。あどけない中学生の制服をこちらの目を覆う間もなくあっさりと脱ぎ捨て、大人のスーツに着替えると、本当に驚くほど一瞬の間に大人の女に変身してしまう。それは冒頭、口紅を塗っていてもやはり少女であったのとは全く違う。死に顔にメイクを施すのはプロなのに、生きている自分の顔をメイクするのには長けていないという、大人の女と少女を行き来するその揺れ具合がいい。それに死に顔にメイクというのは、やはり何か彼女の喪失感を感じさせる。大人の仕事だけに、それは大人になると失ってしまう喪失感をも感じてしまう。
陽子と出会った後、友川は彼女を探し回り、援助交際をしている女子高生たちも出てくる。彼女たちは不思議なほどに自信満々で、そうした喪失感は皆無だ。逆に中学生である陽子は彼女たちと全く逆ベクトルであり、それが彼女を他の少女と決定的に違わせている。大人を定義する仕事というものが、もたらすものと失わせるもの。何もない、何もできない少女たちは、しかしすべての可能性を持っていることによって、腹立たしいほどに自信に満ちている。一方、専門的な職務を持っている陽子は、確信の持てる自信があるはずのその一方で、人生が狭められた喪失感と虚無感を漂わせている。誰からも見つけてもらえるといわんばかりの自信に満ち溢れている少女たちと対照的な、陽子のそのたたずまい。だからこそ彼女は友川の前から姿を消し、彼に見つけて欲しかったのか。探してくれたの、と言った時の陽子の口吻にかすかな喜びを感じたのは、決して気のせいではないはず。
そんな彼女が、生きている自分の肉体に、究極のメイク=刺青を施すことによって、少女という、最も輝ける生を永遠に定着させる。しかしそれはやはりメイクという、大人への儀式でもあり、揺らいでいることが最大の魅力であった少女性を、定着させることで逆に捨て去ることでもあるのだ。矛盾のようだけれど。しかしその喪失とともに得なければならない時が、誰にでもいつかは来る。それを陽子は15歳の今、選び取った。
こういう悪女を演じさせたら驚嘆してしまうほど上手い、そしてしっかりとユーモラスさを含ませて深刻過ぎずに演じる、陽子の母親役の夏木マリ。ガンコな職人肌の刺青師が渋い室田日出男。仲間たちとしてちょっと面白いメンツをそろえる、本作の美術監督でもある日比野克彦、吉村明弘、そのまんま東、笹野高史、などなどの脇役たちがそれぞれに面白い。そして中でも、友川と陽子の間に割って入るがごとき重要な役柄を熱演する、陽子の兄役で、軽い知的障害者を演じる助政が印象深い。こんな子に何を言ったって判りゃしないとばかりに冷たく当たる母親に向かって、こんなバカな子でごめんと、どきりとするようなことを言う。友川と陽子の情事を目の当たりにして、大ショックを受ける。彼の行動が、隠すことばかり上手になって、気がついたら嘘しか言っていないような人たちの中で、痛々しいほどに真実を投げかけてくる。彼に対して同情や判ったような理解や、そんなものを全く介さないで、じゃれあうがごとく、でも本当にまっすぐに付き合っているのは、友川と陽子だけ。それが助政自身によく判っているのが嬉しい。
同じ幼い少女の、大人びた恋を描いたものでも、「倦怠」や「デルフィーヌの場合」とはこれほどまでに違うかという……。でも、嬉しいな。日本の少女の愛の方が真摯で真剣で、本物って思える気がして。★★★★☆
しかも、女子高である!閉じられた学生生活の中でも、さらに閉じられた世界。女子高校生同士の間には、本当に自然と恋愛感情も生まれる。男への排除感も、彼女らの合言葉である。しかし一方でその男に対する本能的とも言える気持ちもまた、抑えられない。そして男が入ってくることによって、彼女たちの美しくもあやういバランスはいとも簡単に崩壊してしまう。永遠だったら良かったと、とうていムリな夢を見ていたその一瞬の時間が……。
物語の軸となって展開するのは、陸上部のシウンと合唱部でピアノ伴奏を受け持つヒョシンの恋愛関係。その二人の交換日記を、同級生のミナが拾うところから始まる。布張りに装丁された赤い日記帳の中身は、カラフルに、ポップに、キュートに、ほとんどアーティスティックなまでに、ぎっしりと二人の気持ちが綴られた、息詰まるほどの愛の世界。ミナは次第にその日記帳にのめりこんで行く。自分でも怖くなるぐらいに。シウンとヒョシンは、現在は別々のクラスになり、お互いに距離を置いていた。何かがあったらしい。ある時、ミナは保健室でズル休みをしている時にカーテンを隔ててヒョシンと一緒になり、そこへシウンがたずねてくる。「私、妊娠したの。私たちの赤ちゃんよ」と本気とも冗談ともつかぬ調子でヒョシンがシウンに言うのに、目を見開いて聞き耳を立てるミナ。ヒョシンの恐れを知らないかのような勢いに押されぎみのようなシウン。シウンはヒョシンのように自分の気持ちに素直になれないのだ。そしてヒョシンが男性教師と関係を持っていることで、嫉妬と、ある種先を越されたような気分も味わっているのかもしれない。しかしシウンに拒絶されたヒョシンは、屋上から投身自殺をはかってしまう。
地面に叩きつけられた、血だらけのヒョシンの死体を見た時から、いや、あの日記帳を拾った時から、ミナに、二人の影が幻影のようにつきまとう。死んでしまったはずのヒョシンが、日記を読むミナの周りに現われる。その手がエロティックにミナにまとわりつくさまときたら……!ミナは恐怖に耐えられなくなって失神するんだけど、その見えざる手に撫で回されている時のミナのガクガクとした動きといい、禁断の官能を感じさせて、ゾクゾクしてしまう。ミナはそんな目にあっても、残されたシウンが気になって仕方がない。あるいは、ヒョシンの思いが乗り移っているせいなのかもしれない。あのヒョシンの死体を見た時、彼女はその顔に自分を見て恐れおののいたのだ。
ヒョシンが死んだ時から時間が巻き戻り、ミナが日記帳を読み進めるにしたがって、二人の関係が徐々に進行していくのを描写していく。シウンに出会った時、頭の中で鐘が鳴り響いた、というヒョシンの方が、終始シウンに対して積極的である。友情というにはなまめかしすぎる二人のひそやかな恋が育まれてゆく。屋根の上で、夕陽にシルエットを作りながら、はだしになってふざけあう二人の姿は、そのバランスの危うさが、すでにこの先の悲劇を無意識下に予感させる。誰も見ていない屋根の上は、確かに二人のパラダイスだけれども、その気持ちがちょっとでもズレると、足を踏み外してしまう場所。そんな場所でしか気持ちを確かめ合えない二人の関係。
シウンは耳に異常を感じ始めている。うなりをあげて耳鳴りを起こしている。ピアノを弾くヒョシンは、音楽室のピアノ線をところどころハサミで切り、シウンとその感覚を共有しようとする。この音楽室に置かれたアプライトピアノ、白いピアノ!白いピアノだなんて、もうその時点でセンシティブに過ぎるぐらいだが、そのピアノの表板をはがすと、その中には二人のものがたくさん隠されている。加えて、愛の落書き、所狭しと貼られた写真……それを見つけたミナは、吸い込まれるようにそれに見入る。ミナはその前に、日記帳に隠されていた“毒薬”だというこんぺいとうを口にしていて、このピアノの中には“解毒剤”だという小瓶に入れられたカプセルが隠されていた。……なんという、リリシズム!まるで暗示にかかったかのようにそのカプセルをも飲んでしまうミナ。そこにシウンがやってくる。表板を外されたピアノと、その前にいるミナを見やる。二人の思い出を壊そうとするシウンをミナが押しとどめる。「クスリが入っていなかった?」とミナに問うシウン。にわかにミナは吐き気を催してしまう……。
ミナの友人の一人、ヒステリックで自分がかまわれていないと気がすまないような女の子が、ヒョシンを追いつめた一人だった。それでなくてもクラスの中で孤立気味のヒョシン。そのヒョシンを生徒たちに人気のある男性教師も目をかけているのだから、更に風当たりは強くなる。追いつめられて、追いつめられて、クラスのみんなの前で、ヒョシンはシウンと熱い口づけをかわす。押しのけようとするシウンを何度も捕まえて。その場面は、呆然と口をあけて見てしまうほどに、危うい美しさにあふれている。行き場のないほどにまっすぐにしかなれないその思いに、たじろいでしまう。彼女たちの季節は、そのほとんどが夏に限定されている。白い半そでシャツからのぞく二の腕は白くて頼りなく、ひざからむきだしの足も細い。ヒョシンのそんな頼りない腕がシウンに絡みつき、足と足をからめて二人倒れるその場面は、なまめかしさと清新さがミクスされ、そして何より危うさがひとしお効果的にそのスパイスを加えている。
気持ちだけは自分でももてあますほどに成熟しているのに、子供であるという立場でどうしようも出来ない彼女ら。あるいは、体もまた成熟していて、男性にも本能的に反応してしまうのに、それが気持ちとリンクしないことで、相手も、そして自分もつなぎとめられないいらだち。この部分で、ヒョシンはクラスの皆より一足先に違う世界を見ているのだけれど、それゆえに悲劇が起こってしまう。ミナの友人の二人など、この男性教師に憧れてはいるものの、見るからにまだまだ子供で、ヒョシンとシウンの気持ちなど理解できようもない。ミナはその間に挟まれ、ヒョシンの気持ちが自分の中に入ってくることに戸惑う。友人たちとも決別してしまう。シウンへの気持ちも、ヒョシンの気持ちが伝染しているせいなのかどうかすら判らない。そのシウンにはことごとく拒絶される。彼女の心はヒョシンにしか、ないのだ。シウンはしかしそうした思いを、いつでもヒョシンに先を越されていたから、素直に発露することが出来なかった。加えて、自分よりも先に女になってしまったヒョシンに、言いようのない嫉妬をも覚えて。一見するとヒョシンの思いの方がシウンよりも強いようにも見えるのだが、あるいは逆だったのかもしれない。シウンの思いの強さが嫉妬の形をとったときに一番素直に現われてしまうという、まさしく皮肉な展開で、ヒョシンは絶望に駆られて命を散らしてしまったのかもしれない。
ヒョシンの亡霊が学校のそこここに出現し、生徒たちは逃げ惑う。外には大雨が降り、生徒たちが我先にと出口に向かうドアもふさがれてしまっている。ここにいたって、舞台が学校から一歩も出ていないこと、彼女たちがまさしくかごの鳥だということに、気づく。どんなに自分たちの自己を主張してみようとも、彼女らは外の世界では生きていけない弱々しく震える小鳥に過ぎないのだと。ガラス張りの天井(だったと思う、あれは。)からは、ヒョシンの亡霊が巨大な影となって、恨めしそうな顔をしてのぞいている。ガラスの天井、だなんて、これもまた何と象徴的だろうか。外にはいくらだって出て行くことが可能なように思えるのに、その実、彼女らは監視されている実験動物のようなものだ、なんて。やっとドアが開いて、大雨の中を駆け出していく彼女たちがぬれねずみになるのも、雨の中震える小動物のよう。
みんなが逃げ出した後、へたり込むように呆然としているミナと、こちらも意気消沈した風にとぼとぼと歩いてくるシウンがすれ違う。ミナのテレパシーは、ヒョシンのものともミナ自身のものともつかないけれども、ともかく、シウンと静かに感情を交錯させる。それにしてもこの3人の女優は、素晴らしかった。シウンを一心に愛し、一方で女としての本能にも目覚める大人びたヒョシン。一人の女の子として記憶されたい、と彼女が選んだ死は、鮮烈で、清冽だった。ヒョシンに愛され、その思いの深さに戸惑い、自らの気持ちも同じほどに深いことにさらに戸惑うシウン、彼女の、女の子であることを直視することにも躊躇のあるような中性的な魅力は、まさしく女子高の中での痛々しくも凛とした“ヒーロー”として、まぶしいばかりだった。そして、ミナ。二人の思いを受け取る少女。うさぎのように愛らしく、大きく黒目がちの瞳をくりくりとさせている彼女。初めて味わう感情と本能の奔流にさまよっているさまが、ばつぐんの感受性でセンシティブに表現されているのには瞠目させられた。
こういうタイプの少女映画、としての完璧な形を見せてくれた。校内での、光と影が織り成す陰影や、屋上で少しだけ触れることの出来る屋外の空気感もいい。叙情的な邦題もぴたり。★★★★★
演技派ベテランのキャストたちが、しかし肩の力を抜いてその映画の住人となることを楽しんでいる、という具合に見てみれば、それはそれなりに魅力的な作品である。このキャストの布陣を見たからといって、過度に期待をしてはいけない、とでもいうような……。ファンタジックで画もおとぎ話風で、風とともに流れ着く真っ赤なマントの母娘は異邦人、色を失った寒々しい村にはその象徴のように古い教会がそびえ、人々は半ば強制的に敬虔深い生活を送っている。ここでチョコレートショップを開こうという母、ヴィアンヌはなぜだか教会に行こうとしない。派手な服装と断食の時期にチョコ・ショップを開いたことで、いささかうさんくさい目で見られている。一番最初にこの母娘に理解を示すのが、老練な魔女っぽいアルマンド。血の濃いジプシーは出てくるし、やっぱり何となくおとぎ話の趣。
ハルストレム監督がいう、「ジュリエット・ビノシュは優秀な演技テクニックを持ちながらも、それをあえて隠してすべてをエモーションの発露のように演じる」という言葉になるほどと思う。確かに彼女からはいわゆる演技メソッドのようなものは感じない。その白い肌を紅潮させて、キャラクターを息づかせる様は、色っぽく、時に哀しく、そして魅惑的だ。そうした彼女といい、ジプシー、ルー役を演じるただただひたすら美しいジョニー・デップといい、実に“見る”価値のある映画。ジョニー・デップ、彼はなんでこうも見るたびに見るたびに見るたびに、麗しく、素敵になっていくんだろう!若い頃より、ずうっと、何倍も素敵である。本当に見惚れてしまう。
アルマンド役のジュディ・デンチと、夫(ピーター・ストーメア)から暴力を受けて(でも彼も、妻を愛してるんだけど、暴力性を抑えられないという哀しさがあるんだよね)ヴィアンヌの店に逃げ込んでくるジョゼフィーヌ役のレナ・オリン、この2人のさすがの上手さとさすがの存在感には感じ入った。2人ともヴィアンヌに感化されて強くポジティブに変わってゆき、今度は逆に自らがヴィアンヌを導いてゆく。そういう点ではヴィアンヌ役のジュリエット・ビノシュは、強さから弱さ、そして強さへと変わってゆき、この3人、そしてヴィアンヌの娘役の小さな演技派女優、ヴィクトワール・ディヴィソルも加え、世代を超えた女性たちがそうしたクレシェンド、デクレシェンドを相互に奏でるハーモニーこそがこの映画の見どころなのかも。
物語を転がすキーパーソン、村長のレノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)は、ヴィアンヌにかたくなまでに偏見と迫害を加え続けるという、わかりやすすぎるほどの悪役なのだけど、どこかサイレント期のコメディアンを思わせるような風貌のせいか、そう、つまり見ている人のだれもが、彼が愚かだということを、愛すべき愚か者だということをわかってしまうから、どうも憎む気になれないのだ。彼こそがもっとも童話的な人物で、お約束どおりラストにはきっちり改心し、憧れ続けた女性にはしかしいまだに声をかけられないというウブさが更に彼のそうした資質を際立たせるのだ。
実はロックが大好きで、レノ伯爵の指導する説教には博愛の精神が感じられない(と、この時点でそうはっきり彼が分析できているとは思えないが)と思いつつ流されまくり、しかし最後の最後に、この村が、そして村人が変わっていくことを感動的な説教でしめくくる若き神父、どっかで絶対見たことある!って思って、ヒュー・オコナーという名前にも聞き覚えがあると思ったら、5年前観た、製作年度からいったら実にもう7年もなる「グレアム・ヤング 毒殺日記」で主演していた、あのポップな殺人鬼の彼とは……あんなに時間が経つのに、なんだか全然変わらない。あっと、その前に「マイ・レフト・フット」のダニエル・デイ・ルイスが演じた役の子供時代に扮して、ダニエルと同様、それ以上に驚かせてくれたんだっけ!それだけの演技派なのに、本作ではそうした重さを全く感じさせない清新でウブな感じがかわゆらしい。
彼ら俳優陣を差し置いて画面に主役として君臨するチョコレートは、うーむ、確かに美味しそう。しかしつくる過程で手をベトベトにしながら溶けたチョコをかきましてたり、甘そうなホットチョコレートのドロドロした感じとか、果ては普通の料理にとーぜんのごとくにチョコソースをかけたり、さらにさらに、実は我慢し続けていたレノ伯爵が店に侵入してウィンドウのチョコレートを貪り食ったりした暁にゃ、さすがに見てるこっちがムカムカと胸焼けしてきて……。私、自他ともに認める困ってるくらいの甘党なんだけど、その私ですらそうなのに、みんな平気なんだろうか……。BBSとか見ると、あったかい気持ちになれるとか皆さん書いていらっしゃるんだけど(というか、もうその言葉一辺倒なのよね……それもどうかと思うけど)、胸焼けでそれどころじゃなかった、という方がやっぱりおかしいのかなあ??★★★☆☆
小沢真珠、私彼女が映画に出ているのはもとより、その演技を見るのも実は初めてで。彼女、いくつなんだろう。かなりの酒豪と聞いてて、実際その目のすわり加減ときたら相当なモノで、彼女のこの、人を見据える瞳の物凄さが、ヒロイン、彩香役を決定付けたんではないかと思うんだけど。その一方で、回想シーンでのセーラー服姿もいまだ結構違和感がなかったりして。しかもしかも、彼女途中までは処女で、ミナミで一番のホステスとしてのし上がるために、その土地の権力者を味方につける武器としてそれを使うという展開で。目がすわってる、セーラー服の似合う、処女のホステスって、なんかスゴい!そしてその彩香に思いを寄せ、彼女が武器として使うためにささげられない、と拒否されながらも、彼女と同志としての揺るがない絆を結び、「マブダチだ」と言って、その実彼女を心底愛している(勿論彼女も)ナンパ専門のヤクザ、直人役には高知東生。私、彼が演技をしているのも見るの初めて。役柄のせいか、あるいはこの作品のカラーのせいか、かなり顔に力入ってるなー、という印象。ことに前半、先輩ヤクザに嘲笑されて、ブルブルと顔の筋肉を震わせるところなんか、ううッ、この時点でもはやこうじゃ、ちょっと……と引きかけたが、だんだん慣れてきちゃった。
意外に良かったのが、彩香が最初に勤める小さなスナックのママと、このママにプロポーズする常連客の宮川大助・花子の二人。この二人だから息が合ってるのか、あるいはまさしく二人の役者としての技量かもしれない。彩香を心底心配している、特にママを演じる花子さんにちょっと泣かされてしまうほど。終始スゴい目をしている彩香もこの二人の前では柔らかな表情。思えばこの時が、彼女の最後の安らぎのひと時だったのかもしれない。
彼女は自分と自分の母親を権力のかさに踏みにじった奴らに復讐することを心に誓っている。母、まりこは女手一つで切り盛りしてきた自分の店を、病で床に伏しながらも、そしてヤクザな連中やそいつらを腰ぎんちゃくにしている政治家たちに愚弄されながらも、最後の最後まで必死に守ろうとしたが、無念の死を遂げた。彩香は天涯孤独の身となり、母親を苦悩のうちに死に至らしめた奴らに復讐を誓うのである。この時の、小沢真珠の目は、まさしく今がどん底だからあとは上しかない!という、たじろぐぐらいのド迫力。ホントにこの人は、目だけで生きていけるかもしれない。母、まりこを演じる多岐川裕美は、あららあ、ちょっと、驚いてしまった。病に伏しているという役柄もあるだろうけど、顔といい首といい、いつの間にこんなに老けてしまったの?と……しかしさらにさかのぼる回想シーン、彩香がまだ幼稚園の時の映像でも当然彼女が母親役をやってて、それは照明で上手く飛ばしているとはいうものの、若くて優しくて美しい母親で、やっぱり女優だよなあ、と思わせる。それこそこの晩年、これだけ老けを見せるあたりの方が、女優の凄さ、なんだろうなあ。
かくして彩香はこの小さなスナックを辞し、直人の紹介でミナミで三本の指に入るという超高級クラブ、エレガンスに入ることになる。ここでの描写はちょっとしたクラブ&ホステス講座でなかなか面白い上に、店長役に大森うたえもん、という異色キャスト、しかし彼がなかなか良かったりする意外さ。冷静な店長役が、ステキなのよ、これが。そしてそこのナンバーワン、レイコとの対決。さすがはナンバーワンだけあって、彩香が自分にとっての脅威になるということを彼女は一目で見て取って、早速彼女をつぶしにかかるんだけど、それが返って彩香の闘争心に火をつけちゃう上に、自分のこやしともしていくのである。確かに彩香はここに入りたての時は服も安っぽくていかにも新人、という感じで浮いてるんだけど、だんだんとだんだんと、きらびやかでゴージャスな服が似合うようになってくる。しかしここでの彩香のホステスぶりは、とにかくのし上がろうという気迫だけが先走ってて、いわゆるプロのホステスらしさは最後まで感じることは出来ないんだけど、まあ、それはこの後の展開に譲る、ということなんだろうな。そんな野心むき出しの彩香を、しかしコイツは見所ある、と見込んで、彼女の貞操の取引に応じるのが“ミナミの妖怪”と呼ばれる実力者、これを演じるのが、割と節操なく出演しているアナーキー俳優、ミッキー・カーチス。顔に青あざのメイクをほどこしての、貫禄ある演技は、さすが。んで、まあこの処女を失うという場面でも小沢真珠嬢は、ほとんどイメージショットのような、涙を一粒流す横たわる顔のアップのみで、うーむ、仕方ないのかな。
レイコは一番の上得意であるこの客を奪われ、しかも自分が画策した政治ゲームもつぶされて、すっかり凋落してしまう。この時、くってかかって無様に転んだ彼女を、哀れみと冷たさの交じった瞳で、じっと上から見つめている彩香の、ホステスになりたての頃と比べてのこの変身ぶり!レイコはヒモにしているヤクザ男の趣味が悪くて、このジャンキーの能無し男によって薬を打たれてしまい、錯乱して彩香に塩酸をぶちまけようとする……それにしても、この状態で、一体どこから塩酸なんぞを調達してきたんだか……。もみ合っているうちに、彼女は自ら塩酸を浴びてしまうのである。完全にホステス、そして女としての人生を断たれてしまったレイコ。
彩香側のことばかり追っかけてたら、いけない、すっかり忘れていたんだけど、そんなことをしている時に直人は組の抗争に巻き込まれてて、男としての勝負時に来ている。誰もいない廃館となった映画館に身を潜め、手下に用意させた拳銃を握ってじっと考え込んでいる。そして意を決して立ち上がり、暗闇の劇場から光溢れる外へと、ドアを音高く立てて出てゆくのだ。彩香と直人が再会するのは、直人が敵のタマを取って自首し、彩香がレイコとの一件で事情聴取されている警察で。警官に付き添われている直人は最初知らないフリして彼女とすれ違う。彩香は彼の大切にしていたペンダントを彼が彼女のために作り直したネックレスを握り締めて直人の後姿を見つめている。と、彼、振り向かず、後ろを向いたまま立ち止まり、「女帝になるんや、彩香!」と、愛する同志に向かって激励するんである。この場面は、正直かなりのクサさで映画とわかってても赤面してしまいそうになるくらいなのだが。恋人なのかと問う警官に応える形で彩香が、廊下の角に消えていく直人に向かって「マブダチや!」と叫ぶ。この時点まではあくまでプラトニックな、そして同志としての関係を保ついさぎよさがすがすがしい。
スーパーバイザー&特別出演の、クラブ順子のママ、田村順子のスペシャルないでたちと女優ぶりがモノスゴかった。★★☆☆☆