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「も」


2003年鑑賞作品

モーヴァンMORVERN CALLAR
2002年 97分 イギリス カラー
監督:リン・ラムジー 脚本:リン・ラムジー/リアナ・ドニーニ
撮影:アルウィン・カックラー 音楽:アンドリュー・キャノン/マギー・ベイジン
出演:サマンサ・モートン/キャスリーン・マクダーモット/レイフ・パトリック・バーチェル/ダン・ケイダン/キャロリン・コールダー/スティーヴン・カードウェル/ブライアン・ディック/エル・カレーテ


2003/3/18/火 劇場(渋谷シネマライズ)
非常に感覚に訴える映画で、感覚そのもので本能的に受け止めれば良かったのかもしれない、と後になって少し後悔するような気分にもなった。というのも、このヒロイン、モーヴァンの心の動きがはかりかねて、観ている間、正直戸惑う思いを隠せなかったから。しかしこれが、オフィシャルサイトのBBSを覗いてみると、みんな随分とモーヴァンに対して理解があって、うーん、これはもしかして、年のせいなのか……などとちょっとひがんだ気持ちにもとらわれたのだけれど。というのもモーヴァンの、この共感しかねる気持ちや、そして行動も、やはり現代的なものと、感じたから。一般的な常識における、社会的な行動とはまるで正反対の位置にいる。彼女の行動は裏切りであり、犯罪であり、まんま自分勝手なんだけれど、彼女自身は、自分が生きていくために本能的に行動しているだけで、そうと意識していないらしい。そんな彼女をまっすぐ受け止められるか否かが、別れ道なのだ。そしてサイトのBBSの、恐らくは若い人たちが、彼女を切実に自分の中に受け止めているのを読むと、ああ、やはり私は年かも……と思い、うらやましいような気もするものの、少し怖いような気分にもさせられる。

原作があるものだし、BBSに書き込んでいる人たちも、かなりの割合で原作のことに言及しているので、これがどういうものだったのか、気になる。正直、私はこの映画はナゾだらけで、原作を読めば彼女の気持ちが判るのかな、などとも思う。例えば映画では判らないことだけれど、モーヴァンは里親のもとで生きてきた、んだという。そう言われれば確かに彼女には家族の匂いがしない。そう判っていれば、彼女の気持ちや行動が少し、感覚的にでも理解できたかもしれない。家族がいるということは、やはり一般的な、社会的規範の中で育つということであり、それは行動や思考が限定されることにもなる。モーヴァンに対して、自分には出来ない、というある種のうらやましさを感じるようなところはそこかもしれない。しかし同時に哀しさを感じるところもそこかもしれない。彼女には拠りどころとなるものが自分の信じる本能的直感しかなくて、それが自分でも説明のつかないものであるところが、そんなうらやましさと哀しさを同時に感じてしまう。

冒頭、モーヴァンの恋人がうつ伏せになった死体と、そのそばに身じろぎもせずうずくまっている彼女の姿がある。キッチンと隣り合わせになった部屋で、そのキッチンからずるずると血の跡が引きずられている。小さなクリスマスツリーが色とりどりの灯りをどこか慎ましやかに明滅させている部屋は暗く、その状態でどれだけの時が経っているのか、判らない。パソコンには彼の残した最後の小説が表示されており、床には彼女へのプレゼントが散乱している。そのうちの一つに、「music for you」と書かれた一本のカセットテープもある。

このカセットテープが、モーヴァンの本能的直感を呼び覚ましたのか。彼女はいつでもこれをイヤフォンで聴きながら、どこか神の啓示にも似たトランス状態で、思いも寄らぬ行動に出る。最も衝撃的なのは、ウォークマンを体に貼り付けてイヤフォンで完全に外界の音から遮断された状態で、彼の死体をバスルームでバラバラに切り刻むことだ。そしてやはりこのテープを聴きながら、彼女はひと気のない山に登り、まるで落ち着き払って彼の死体を埋める。そこには罪悪感どころか、彼女が次に踏み出すためのステップとして行っているとしか思えない確信的なものがある。例えば彼の家族に知らせるとか、そういうことが彼女の頭に去来しないらしいのは……やはりそこは、彼女に家族としての概念がないのかもしれない。彼女の恋人が彼女のそばで死んで、自分のためだけにさまざまなものを残していった……もはや、彼と彼女だけの問題で、彼が死んでしまったなら、彼女がそれを片付ける任に当たっている。彼の小説を自分の名前に置き換えて出版社に送るのも、彼の銀行口座の金を使って親友とバカンスに出かけるのも、もはや彼女の責任下における行動なのだ……彼がこの金で自分の葬式を出してくれ、と言い残していたとしても。

……というあたりに、もはやついていけないものを感じるのが正直なところではあるのだけれど。あるいは、彼が本当に彼女の恋人であったのかとか、本当に自殺だったのかとか、色々とあらぬことを考えてしまう。彼女の彼に対する気持ちが、冒頭既に彼が死んでいて、彼女はそれに対して死に対するプリミティブな動揺しか見せないので、本当に彼を愛していたのか、年増女の私にはどうもつかみきれないものを感じるからだ。彼女はその自殺するさまをじっと見ていたのかもしれないとか、あるいは、彼女が彼を殺してしまったんじゃないかとか……それで、動揺した彼女の中で作り上げられた物語が彼の自殺として処理されたものだったんじゃないかとか、何か色々考えてしまう。

モーヴァンが親友、ラナと突然のバカンスに出かけるあの描写、あれは単純に行動だけ見れば、この辛い現実から逃げる逃避行にしか思えないものがあるのだけれど、しかしそれも、混乱した心を振り切るように出かける、というんでもなく、彼の死体を埋めた時点で彼女の気持ちはどこか吹っ切れて第二のステップを踏み出そうという意識が働いているらしいところに、またしてもついていけないものを感じて、戸惑ってしまう。だから、彼女が動揺しているんじゃないか、と想像する気持ちもいつのまにやら却下の方向に向かってしまう。そうだ、彼からのさまざまなプレゼントは、皆このバカンスをも含めた次へのステップに使われたものだったんだ。あのミュージックテープが、彼女に常識を忘れさせて、次への方向を示唆させるのも、彼からの、ここから逃げろというメッセージだったのかもしれない。あの小説、普通ならば彼が死を賭してまで残した最後の小説を、彼女の名前に書き換えてしまうなんて考えられないことだけれど、プレゼントもミュージックテープも彼女のためにと用意されていたことを考えれば、この彼女に託された小説も彼女のためにと思ったって、確かにおかしくないのかもしれない……彼と彼女の間にそういう関係性があったのかもしれない。もう、彼は死んでしまって判らないけれど。

あるいは、彼の遺稿だというあの小説、実はモーヴァンの自己演出で、最初から彼女が書いたものなのではないかとちらっと思ったりもしたのだけれど……それはいくらなんでも考えすぎ、だろうな……でも、この映画のタイトルが彼女の名前だし、この遺稿は作品全体のキーとなるアイテムだし、この小説を買った出版者の人たちが褒める台詞が、モーヴァンのような女の子ならそんな小説を書けそうだとか、そんなことを思わせるものだったから。それは彼女の恋人の人となりが全く判らないから、そう思うんだけれど。それが彼の自殺の原因になったんじゃないかとか、そりゃあもう、やたらといろいろなことを考えてしまって……何といっても彼女の気持ちも行動もどうしてもつかめないから、ついつい想像力をたくましくしてしまうのだ。これもこの映画が確信犯的に意図するところなのだろうか?

でも、本当に……その遺稿となった小説には何が書かれていたんだろう?文学が映画に登場する時、その存在がかなり気になる。ちらりと紹介される時もあるけれど、本作はそれが全くない。彼らがパーティーで浮かれる轟音の音楽と、モーヴァンがウォークマンで聴く音楽と、そのもれ出るカシャカシャという音と……それらが完全に文学の世界を妨げてしまう。小説が人生を語る時代は、過ぎ去ったのかもしれない。音楽には確かに、直接に訴える、麻薬のような力がある。直感的行動をその音楽によって導かれるモーヴァン、そのカシャカシャ音が、彼女をどこか説明のつかない場所に連れていっているような気持ちにさせる。その気持ちが……羨望なのか、不安なのか、判らない。そこまで感覚的にはなれない。なってしまったら……言葉が全部失われて、理性のタガがはずれてしまいそうだ。でもモーヴァンはもっともっと感覚的な部分で生きていて、感覚的な部分でタガをうちこまれているから、こんな行動が、いや生き方が出来る、のかもしれない。私たちはまだまだ、小難しい論理をこねくり回しながら、狭い社会的常識の中で生きているに過ぎないのかもしれない。

日々、轟音のような音楽のとどろくクラブで、仲間と酒とセックスに自分の居場所を見出しているようなモーヴァン。いや、それは彼女の親友のラナは確かにそうだったけれど、モーヴァンは自分にはどこか別の場所があると、心のどこかで思っていたのかもしれない。彼の死と、彼の遺したさまざまなものは、彼女にぼんやりと思っていたその気持ちを覚醒させたのだと。彼女が選んだ土地はスペイン。開放的な気分、汗の心地よさ。でも快適なリゾートホテルでの時間は、夜にはクラブでの喧騒の時間が繰り返され、それはラナには居心地良く、楽しいものだったのだけれど、モーヴァンは以前のようにどこかあきらめ加減の微笑を浮かべることすらなく、クスリでイッた目をしている見知らぬ女の子をじっと見つめ続けている。ラナから離れ、ホテルの部屋のドアからドアへと耳を澄ますモーヴァン。すすり泣きが聞こえるドアを開けると、見も知らぬ男の子が「母親が死んでしまったんだ」と泣いている。彼とのセックスは、今まで彼女が仲間たちとしていたセックスとは随分と違うように思う。そこにはいつだって、そんな個人的な感情が介在することはなかったにちがいないから。そしてモーヴァンはこの地を去ることを決意する。

車がどんどんと進むと、浮かれる祭りに遭遇する。その喧騒が過ぎ去って、二人は砂漠の中を歩き出す。ラナはなぜあのリゾートホテルを去ったのかと、楽しかったのに、とモーヴァンに文句タラタラである。今までの自分とは違う場所に行きたくてこの地に来たモーヴァンと、どこにいても元の自分のいごこちのよさの中にいたいラナとの決定的な違いから決別する二人。

私はでも……モーヴァンがどこか、ラナを、あの死んでしまった恋人以上に愛していたんではないかと、少し思ったりもしたのだけれど。モーヴァンは恋人の後始末をした後、まるでその恋人の代わり、とでもいうようにラナをその部屋に転がり込ませる。粉だらけになってクッキーを作ったり、確かにそれは女の子同士の無邪気さなのだけれど、何か不思議になまめかしい感じも起こさせる。それはこの場面の前で既に……ラナのおばあちゃんの家で、二人冷え切った体を温めるために一緒にお風呂に入る場面で、すでにそんな気分はしていたのだけれど。モーヴァンの、いや演じるサマンサ・モートンのどこかなまなましい曲線は、女から見ても、妙にリアルな魅力を感じるものがある。ラナはモーヴァンに、彼女の恋人と浮気したことを告白する。モーヴァンはその告白に黙って背中を向ける。何かそれは、彼に浮気されたのが許せなかったんじゃなくて、その“親友”が自分の、とりあえずは恋人だった彼とセックスしたのが耐えられなかったんじゃないかとか……なにかそんな風にも思ってしまう。

このラナのおばあちゃんは不思議なキーパーソンで、長く長く生きてきて、きっといろんなものを見聞きして、辛い思いもいっぱいしていて、でもそれがすべて沈殿し、キレイな上澄み液になってしまったようで、その老いはとても美しい。それは今まさに混濁しきっている上に、自分でもまだまだ引っ掻き回さずにはいられないモーヴァンのような女の子には、考えられない境地なのかもしれない。でもモーヴァンがこのおばあちゃんを見つめる視線には、確かに尊敬と憧れがかすかにだけれど混じっているように思える。本当に、かすかにだけれど。

サマンサ・モートンが見たくて、足を運んだ。さすが女優、「ギター弾きの恋」とまるで違う。確かに顔は彼女なのだけれど……リアルな肉体を全身さらして、どこか浮遊感のあるヒロインを解説せずに感覚で生きている感じ。彼女の中では充分に咀嚼しているんだろうけれど、どこか理解し尽くしていないように見えるところがリアル。彼女、黒髪だったんだ。それとも「ギター弾きの恋」の時の金髪が本当?何にせよ、まるで別人の彼女に驚く。

モーヴァンには自分なりの手綱の引き方があって、それが世間一般的な手綱では彼女を引き止めておけない。彼女の中では全てが正しい方向へ進んでいる。いや、正しいというのは違うのかもしれない。思うべき方向へと。自分の中での誠実な方向へと。しかしそれを私たちは、うらやましいと思うべきなのだろうか?★★★☆☆


モロヘイヤWAR
2003年 70分 日本 カラー(一部モノクロ)
監督:蔭山周 脚本:鈴木康二
撮影: 音楽:石橋英子
出演:徳弘純也 内堀彰子 鈴木康二 小林帝久 山本宗一郎 池田無台 清水史明

2003/10/21/火 劇場(シネマ下北沢/レイト)
何でモロヘイヤなのか観終わってみてもやっぱり判らない。この監督さんがモロヘイヤシリーズなる映画群を製作しているそうなんだけど、うーん、なぜゆえモロヘイヤなのだろう?と、悩んでも仕方ないのでそこんところはパス。
反戦映画、という触れ込みにつりこまれて足を運んだんだけど、反戦映画、うん、まあ……確かに。でもその前に、やっぱり戦争映画。しかも、この“戦争映画”は男の子が作りたそうな感じがかなりアリアリで、少々抵抗を覚えたりもする。迷彩服の衣装に細かに用意された武器やなんかの小道具、黒塗りに塗りたくったキャラの登場など……まんま、ベトコン映画そのものの趣だから。どういう映画に影響されたとか連想できてしまうというか。

でも、確かに戦争の中でもベトナム戦争、であるというのは意味があるのだ。意味。戦争には意味なんかないけど。つまりは戦争の無意味さの意味。ベトナム戦争はその象徴になる戦争。ただ悪夢だっただけ。そこで戦うものも、助けるものも、殺されるものも、つまり人間さえもすべてを無意味に、同じものにしてしまう。名誉の戦死なんてないし、戦争の勲章もないし、勝ちも負けもない。それまでの戦争はムリヤリそこにそうした、ありもしない幻想の意味を見出すだけの時代の力というか、強圧的な雰囲気があったけれど、時代が現代に近づけば近づくほど、それが幻想であるということがどんどん判ってきてしまう。そのきっかけになったのが、あのベトナム戦争だった、と言えるんじゃないだろうか。

この映画で描かれる戦争、果たして戦争なのだろうかとさえ思う。だって、敵らしい敵もいないし、味方だって、軍勢と言えるほどの数はおらずせいぜい5〜6人。兵士たちが敵、と呼んでいるのは、彼らがまるっきり無意味に攻撃しているその土地の無力な住人たちであって、竹やり程度しか持たない彼らのことを兵士たちはまるでバカにしているんである。……脅威のない、バカにしている相手が敵……いや、確かに敵なのだ。だって、兵士たちは最終的にこの竹やりで殺されてしまうのだから。脅威を感じていない相手を敵にしたことで、その相手がこちらを脅威に感じ、敵とし、殺す。戦争は、いや人間社会はこの繰り返しだ。相手を尊重しないこと、コミュニケーションの欠如、そんなことで簡単に争いが生まれる。だから、無意味だというのだ。

主人公は、この兵士たちの中でも下っ端のブリッツ。彼は下っ端も下っ端で、使いっぱしり。同じく下っ端で兵士たちの慰み者になっていた男を撃つように脅されたブリッツは、どうせ当たるわけないから、と引き金を引く。当たってしまう。呆然とするブリッツ。下卑た笑いを浴びせる上官たち。そして今度はブリッツが慰み者になる。よつんばいにされ、数人の上官、そしてなぜか慰安にきたミュージシャンまで加わって何度も何度もローテーションで繰り返し繰り返しバックで突っ込まれる。まるでコミカルに早回しで描かれる。
……ヤだな。この間の学生の集団レイプの事件を思い出してしまう。吐き気がする。コミカルに描いているから余計に吐き気がする。なぜコミカルに、なんだろう。あるいはコミカルに感じてしまうんだろう。レイプそのものが?あるいはゲイの描写だから?どちらにしろ……これはかなり危ない。

ブリッツはどうやら、童貞君だったらしい。上官に言われてタバコを買いに出かけると、ゴツい顔した娼婦に出会う。ワケもわからずヤラれる。初めてと思しき射精に「何だこれは……」とうろたえる。そしてあっさり、この娼婦に恋してしまう。何でもこの娼婦はブリッツの恋い慕うママンにソックリらしい。母親が娼婦とソックリの顔をしている……思いっきり近親相姦モノの王道を行っている。でも、意外にもこの部分は後になってそれ以上の、ずっと深い意味を持ってくる。それは、ブリッツが母など持ってはいないから。あえて言えば、ブリッツ自体が、自分自身が母親だから。恐るべき生物兵器が生み出したこの戦争の悲劇は、クローン人間だったのだ。兵士たちは次々と自分と同じ顔の男たちに遭遇し、そしてその男たちに、殺される。ブリッツだけはその自分同士とお互いに助け合う。ただ……ブリッツは、ブリッツにだけは、ただ単純に自分のクローンが作られた、それだけでは済まなかったのだ。この悲劇が終わり、研究者っぽいオバサンが死んだ彼らの軍籍を調べている。ブリッツだけが見当たらないのだ。こんな男は存在しない、と言われるのだ。そしてこの映画の最後の台詞、ブリッツがつぶやく言葉「僕はいつ作られたんだろう」

くりかえしくりかえし、自分という人間が無限に作られていく。今の自分が死んでもまた作られる。だから、客観的に言えば、彼は死んでもかまわないということになる。死の意味がなくなる。彼の最後の台詞はこんなぐるぐると回る悲劇のローテーション……まるであのレイプのローテーションのように終わりない……に取り込まれた故出てきた言葉。でも、そんなはずはないのだ。たとえクローンでも、今生きている彼自身は彼自身でしかないのに。死んでもかまわないわけがないのに。
でも戦争における人間の価値観はせいぜいがこのクローン人間程度のものなのだ。それこそ戦争をしたがる人間たちにとって、クローン人間を量産できればこんなにやりやすいことなどないだろうと思う。数を確保できるし、たった一人の人間を殺すという罪悪感からも逃れることが出来る。

でもブリッツが、作られ続けたブリッツこそが純粋で人間的な心を兵士たちの中の誰よりも持っている、というのはそうした戦争屋に対する挑戦的な描写。くりかえし死に、くりかえし作られたであろう彼が濃厚な人間となっていくというのは。遠い遠い過去にオリジナルの自分を生んでくれた母親をより強烈に恋い慕うというのは。それは、戦争なんかやりたくないのに、あるひと握りの人間の勝手な解釈で、くりかえし戦争の悲劇にさらされる国の人々を思わせる。勿論彼らはクローン人間などではないけれど、悲劇を味わうたび、仲間が殺されるたび、平和を願う心が強くなっていくのが。

クローン人間にはもうひとつの趣がある。ドッペルゲンガー。対峙すると死んでしまう自分自身の影、である。ブリッツにとっての自分自身は、仲間としての自分、ルーツを引き継ぐ自分という感じがあったけれど、他の兵士たちは、違う。まさしくドッペルゲンガーの悲劇そのままに、自分と同じ顔の男たちに殺されてゆく。戦争の無意味さを強烈にそして痛烈に暴き出しているのはこの部分こそ、と思う。敵に殺されるんじゃない。敵などいない。戦争を起こした自分たち自身に殺されてゆくのだ。なんというシニカリズム。

色々と意味は汲み取れるものの(でもちょっと強引に汲み取りすぎかな)展開事態はかなりバカというか。雑な部分も正直気になるし……何よりあの野人、というのはさすがにちょっと。だって、まず、野人、ってナニよ!なんつーか、いでたちといい何といい、安っぽすぎて見てるこっちが赤面しそう。しかも腰にまいたなめし皮とかコテコテもいいとこで、でもこういうコテコテの部分もおそらくネライなんだろうなあ。だって、そう言っちゃえば兵士も娼婦も笠かぶった原住民たちも、みんなキャラコテコテだもん。個性的に見えそうになりながら、実は全くそうじゃない。これまで描かれてきたこうしたキャラの集大成のような平均値のような、コテコテキャラ総動員なのだ。それはある程度はギャグ的要素も含みつつ、無論、そこにこそ意味があるし、あぶり出されるものがあるわけだけれど、でも、でもやっぱり野人だけは、受け入れられんー!

紅一点である娼婦の描写もかなりの典型スタイルであったのはちょいと残念だけど、ただ、幻想?シーンで全裸でピアノを弾く娼婦、というのは妙に画になってた。何の意味があるのかはよく判んなかったけど……ここではモノクロ。画面が分割され、めまいのような、不思議な万華鏡が生まれる。モノクロ……ああ、そうだ。ポスターではモノクロで、それがホントドキュメンタリーっぽさを感じさせて、ポスターのイメージのままに、全編モノクロだったらかなり趣が違ったのになあ、などと思う。手持ちカメラが揺れる感じなどは確かにドキュメンタリーを思わせるものの、何たってこのコテコテ、しかも野人じゃあなあ……。それに最近多すぎるんだもん、こういう“ドキュメンタリーを思わせる映像”みたいなヤツ。資金の問題もあるんだろうけど……なんか落ち着かない。

そのポスターに書かれた「おれ、人間」の惹句。すべてが終わってみると、この惹句は実に味わい深いというか上手いというか、後をひくものがある。人間であること、人間として生きていけることのありがたみを改めて思う……かも。★★★☆☆


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