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「き」


2001年鑑賞作品

ギター弾きの恋SWEET AND LOWDOWN
1999年 95分 アメリカ カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ 音楽:ディック・ハイマン
出演:ショーン・ペン/サマンサ・モートン/ユマ・サーマン/グレッチェン・モル/アンソニー・ラバグリア/ブライアン・マーキンソン/ジョン・ウォーターズ/ウディ・アレン/ベン・ダンカン/ナット・ヘントフ/ダグラス・マクグラス


2001/3/26/月 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
ウディ・アレンで、ジャズギタリストの話で、ラブストーリー、……ステキな映画にならないわけがない!予告編を初めて観た時からドキドキして、早く観たくて観たくてたまらなかった。名前だけ聞けばちょっと意外なカップリングにも思えるショーン・ペンの起用も、もういきなり予告編で知ったから、そのしっくりぶりにドキドキした。彼って、もともとミュージシャン、だったんだよね?私はてっきり、だからギターの心得があって、それもあって彼を持ってきたんだとばかり思ってたんだけど、違うのね。ギターも特訓の成果だという。でもでもでも、それでここまで!音は吹き替えとはいえ、エメット・レイそのままじゃないか!……って、架空の人、なんだけどね。これも、だまされたなあ、ウディ・アレン本人や、ジャズジャーナリストや、そんな人たちが寄ってたかってエメット・レイの挿話をかわるがわる“証言”して、それにしたがって物語が進行していくという手法で、それはまるでドキュメンタリー映画そのもので、なんだか妙に信憑性があって、私は実在の人物だとばかり思い込んでいたから、あとから記事とかサイトをのぞいて、架空の人物だということを知って、くううう、ヤラレタッ!アレンにしてやられたッ!と嬉しいような悔しさを味わったのである。まあ、それもこれも無知な私がアホなんだけど。考えてみれば“世界で二番目のギタリスト”なんていう部分で気づくべきだったんだよなー、ああうう。

フランスのギタリスト、ジャンゴを熱狂的に崇拝し(これは実在の人)、俺は彼につぐ世界で二番目のギタリストなんだと豪語する男、エメット・レイ。ジャンゴとかつて会ったことのある時、彼は失神してしまったそうだ……なんていうエピソードも変に説得力があるから、だまされちゃったのよね、ってまあ、いいかげんその話はいいとして、洒脱、軽妙なジャズギターの音色に、まずクラクラクラッとよろめいてしまう。ジャズは大好きだけど、ジャズギターをこれほどまともに聞いたのは、初めてのような気がする。全然、意識してなかった。こんなにステキだなんて!都会的で、洗練されてて、まさしくウディ・アレンそのもののような、ジャズ。これを、ギラギラした俳優という印象のショーン・ペンが、なぜにこうもアレン色に染まってしまうのか!飲んだくれで、女にだらしがなくて、遅刻常習犯のギタリスト、ともするとショーン・ペンのこれまでの印象からすればそれこそもっとギラギラした感じになりかねないのを、勿論そんなことになってしまえば浮きまくるのは必至だが、この、彼とは考えられないほどの絶妙の洒落っぽさは!うーん、彼のことはいい役者だと思ってはいたけれど、少々見くびっていたかもしれない。あるいは、アレンはそうした彼の資質をきちんと見抜いていたのだ。だって、彼のエメット・レイを見てしまったら、もう彼以外考えられないではないか!

女とは遊ぶけれども、人生に女は必要ない、と主張してはばからない彼がナンパで出会うのが、口の聞けないハッティ。小さい頃に出した高熱がもとで、口が聞けなくなったのだという。どうやら少々頭のほうもヨワいようだ……というのは、レイの推測と、一緒にいた女友達の証言によるのだけれど、私は最後まで観て、本当にそうだったのかな、と思ったりもした。口が聞けない、という時点で、そんなことは結局誰にも判らないわけだし、それに、確かに彼女って小柄で少女のようにも見えて、それがヨワそうな感じにも思えるんだけど、実は女の部分をとってもふんだんに持ってて、彼を見つめる彼女の目なんか、全てを受け止めて理解している目で……たとえ本当に頭がヨワいんだとしても、そのことと感情とは、全く関係が、ないんだ。

レイが彼女と出会った日、早速部屋に連れ込むんだけど、性急に服を脱ぎだすのは、なんと彼女の方、オイ、少しは抵抗しろよ、とうろたえる彼をも脱がしにかかり、俺はまな板の上の鯉だぜ、なんて(これって絶妙な翻訳だけど、向こうにもこういう言い方って、あるの?)すっかり彼女の意のままのレイ。コトが終わり、お前は満足だっただろうなー、なんて言うレイだけど、そういう展開だからいえる台詞だけど、ズルいよ、レイだって、レイの方こそが満足だったに違いないんだから。お前はふっくらしてて、男をイイ気持ちにさせる、デブって意味じゃないぞ、なんてことも言うレイ。そうそうそう!こここそがハッティ=サマンサ・モートンのチャームで、もともとはやせてた人らしくてこの役のために太るように命じられたみたいなんだけど、とにかくこのふわっ、という感じ、こんなにベビーフェイスでこんなに小柄なのに、これほどの母性と包容力を感じるのは、そのせいなのだ。しかもそれと同時にこの子だけは絶対に守ってあげなくっちゃ!と思わせるあまりの可愛さ!彼女、始終食べてるんだけど(だからふっくらしている、という設定なのね)、その幸せそうに食べてるのが、ムチャクチャ、カワイイんだもん!

なんだけど、レイは彼女を唐突に捨ててしまう。そして唐突にハデハデな美女、ブランチと結婚してしまう。この辺りの“ドキュメンタリーでっちあげ隊”の証言もアイマイで(これまた妙にリアリティがあるんだけど……しつこいわね)なぜ彼がハッティを捨てたのか、加えてあれほど結婚はイヤだと言っていた彼がなぜ急に結婚したのかと、いぶかる向きもあるんだけど、そしてこの時点では確かにちょっと首を傾げてしまったんだけど、でも最後まで観てしまうと、なんだか判る気がするんだ。彼、ハッティと結婚したいと思ってしまったからこそ、こんな行動に出てしまったんじゃないか、って。怖いんだ、本当に人を愛し、愛されるのが。ヒネクレモノの彼はそんなこと口が裂けたって言いやしないだろうけど。本当に尊敬する人を目の前にすると失神してしまうくらいの人だもの。……よく一番好きな人ではなく、二番目に好きな人と結婚する、なんて言うけれど、そんな女の子ぽい感覚がもしかしたらレイにもあって、自分の方がより多く愛してしまうのが、怖いんだ。……なんて、バカなんだ!

ブランチを演じるのはユマ・サーマン。まさしく、まさしくなキャスティング。退廃的な、退屈を死ぬほど嫌う、見栄っ張りの上流階級の、しかもすこぶるセクシーで美人。“自称”作家であるという彼女は、危険な男に吸い寄せられる。レイは一見そんな匂いもするけれど、実際はこんな、愛情に飢えた人。彼女は自分が好きになる男には愛される自信があるから、実に簡単に、より危険な匂いのする男、マフィアの用心棒、アルと浮気をする。……この現場を押さえようとレイが二人の後をつける、その展開はこれぞラショーモナイズで、やれ銀行強盗が車を間違えてレイを運び去っただの、アルによる狂言強盗だの、レイが浮気したブランチを責めたてて撃っただの、きわめつけは、慌てて車で逃げ出したレイが衝突した車にかのジャンゴが乗っていて、彼を見た途端三度目の失神と相成ったとか!っていうこの楽しすぎる展開!

そんなこんなで、すっかり懲りたレイは、レコーディングでハッティのいる土地を再び訪れる。彼女を訪ねる。レイが熱狂的だが空疎な生活を送っていたのがウソのように、ハッティはまるで前と変わらず洗濯屋に勤め、前と変わらず同じ時間にランチに出て、同じベンチで同じようにサンドイッチにかぶりついている。……この彼女を見た時、なんだか期待と不安が半々の気持ちになった。そして答えは、後者。また一緒に、と言うレイに、彼女は結婚したと告げるのだ……子供もいる。レイの、不意をつかれたような、泣いてるような笑っているような顔、ハッティの、なんとも形容のしがたい、彼をじっと見つめるその表情。ほんの一瞬なのに、やたら長く感じられるあの場面を、きっとずっと忘れられないに違いない。

レイはダンスホールで女を誘って外に出る。彼の奇妙な趣味の一つ、列車を見に。かつてハッティを一発でしとめたギターの甘美な音色を聞かせるレイだけど、女は寒がって帰りたがるばかり。レイは女に勝手に帰れと一喝し、ギターを、……あんなに大切なはずのギターをメチャメチャに打ち砕いて、その場に崩れ落ちる。カットアウト。……私はこの最後のシーンを迎えるまで、ムリだと判っていながらも、お願い、ハッティ、戻ってきて!とずっと心に念じていたのだけれど、……叶わなかった。“ドキュメンタリーでっち上げ隊”はこの後のレイの消息は杳として知れない、と言う。最後に出したレコードが彼のベストの出来で、これが残っているのが幸いだ、と(このレコードを聞きたい!と思った私、しつこいようだが、ダマされた……)。

口の聞けない、頭のヨワい女の子、ということで、当然のように「道」のジェルソミーナを持ち出されはするんだけど、私はなぜだかそんなことは頭の片隅にも浮かばなかった。あとで記事を読んだりして、ああそういえば……と思ったくらいで。先述したように、こうして最後まで見るとハッティが頭がヨワい、って、思えなかったから、ってこともあるし、彼女が常に自分の心に正直で、自由奔放に見えて実は傷つくのを極度に恐れて逃げ回っているレイと対照的だということ、自分の幸せを求めるために、レイの去った後結婚してしまっていることも、とてもポジティヴで明るいものを感じさせたから。

カッコツケのレイが三日月のゴンドラに乗ってステージに登場することを画策するも、その実恐怖に全身ガクガクになっちゃうチャーミングなシーンはまさしく名場面。このエピソードがこれまた奇妙にキテレツな伝説のミュージシャンぽいリアリティをかもし出してるのよねー。しっかしツボだったのは、台詞をひとことも発しない(背中を向けてる時に発してたのかもしれないけど)、いつもレイの隣で一緒にギターを演奏している青年。線が細くて寡黙で、レイとは本当に正反対で、すっごくハンサム!彼の登場シーンでは、彼ばかりに目が行ってしまった……。★★★★☆


ギプス
2000年 82分 日本 カラー
監督:塩田明彦 脚本:塩田明彦 堀内玲奈
撮影:鈴木一博 音楽:ゲイリー芦屋
出演:佐伯日菜子 尾野真千子 山中聡 津田寛治

2001/3/31/木 劇場(シネマ下北沢)
このラブシネマシリーズもそうだし、東中野のレイトで「エロス」をテーマにやっていたシリーズもそうなのだけど、デジタル・ビデオによる、低予算で自由に撮れる映画は、判っちゃいるけどその画面の荒れが気になるのだけれど、本作はその荒さに光をたっぷり抱き込ませて、ぼやけた輪郭をやわらかい雰囲気に転化させてて、それが二人の女優の(特に尾野真千子の)女の子特有のやわらかさとマッチしている。塩田監督という人は、ほんとに女子供のやわらかさを描くのが上手いな、と思う。この中ではキツい女の役の佐伯日菜子でさえ、やわらかいのだ。やわらかさの中に毒があり、その毒に魅入られるように純白だった尾野真千子が染まってゆく。

和子(尾野真千子)と環(佐伯日菜子)の出会いは、環がギプスをつけて松葉杖をつき、その状態で和子に向かってよろめいてきた時。歩きづらいから、と脱いだ靴をそのままにしておくわけにもいかず、和子は環の住まいへと一緒に向かう。「ビールを買ってきて」鷹揚な環の態度に戸惑いながらも、抗えない和子。環は和子に鍵をわたし、和子はその後何度もビールを手土産に環の部屋を訪問することとなる。テープ起こしのバイトをしている和子は、職場でも同僚となじめない。そんな和子を見透かしているように環はいう。「ここに来る様になる人は、判るのよ」しかし環は和子とことさら仲良く付き合うというわけではない。突然プイと一週間家を空けて彼女に金魚の世話を頼んだりする。しかし和子は「金魚の世話を頼まれた」ことで有頂天になり、彼女の部屋をかいがいしく掃除し、引き出しに隠されたギプスをつけて環になりきったりする。ヤバい。女の独占欲が生まれ始めている。

環のそうした格好は言うまでもなく偽装だ。彼女は怪我をしているわけではない。ギプスをはずして平気でスタスタ歩く。「私がギプスをつけて歩けば、必ず面白いことが起きるのよ」本当に怪我をして初めてギプスをつけた高校時代、彼女を襲った高校教師が自殺した事件を皮切りに、ギプスをつけた環に皆が吸い寄せられる。一週間の旅行から帰ってきた時も、いかにも冴えなそうなサラリーマンがくっついてきていた。苛立つ和子はその男の名刺を投げ捨てる。楽しそうに微笑む環。

ある日、またしても環が男と二人歩く姿を目撃した和子は、その後をつけていく。男は環のギプス姿を嬉しそうにカメラに収めている。とあるビルの地下室に二人は消えてゆく。思わずその場にへたり込む和子。ややあって環が出てきて去ってゆく。和子はその地下へと向かう。赤い大きな扉。そっとノブを回すと、開いている。その中にあったのは、先ほどの男の死体だった。驚く和子。しかし何を思ったか、彼女はその男の身の回りのものをかばんに押し込めだす。そしてドアノブを丁寧にハンカチで拭き取って、出て行く。捕まえられない魔性の女、環に対する嫉妬と独占欲にとらわれている和子は、この事件をほのめかす脅迫状を環に送りつける。このことで環を自分の手の内に置いておけると思ったのだろうか。しかし和子はあまりにも純粋すぎた。環は和子のほんの些細な視線の動きで、彼女が差出人だと気付いてしまうのだ。そして和子は環が気付いたことに、気付かない。いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。環は脅迫状で要求されている「一週間後に500万」を稼ぐために、和子と共謀しようという。そう、あるいは、和子はこうして環と共犯関係になることの嬉しさで、気付かなければいけなかったことに目をふさいでしまったのか。

今度は和子がギプスをはめる。松葉杖をつく足元がアップになると、佐伯日菜子の華奢さとは違う、まるっこい女の子らしい足で彼女だと判る。うっわ、フェティシズムだな、と思う。言うまでもなく、ギプスといい、松葉杖といい、フェチな映画なのだけど、それをことさらに強調することがなくて、時々ふっと、こうしたナマな一瞬のカットで感じてしまう、逆にその方がエロティックなのだ。和子は環がやったように、男の前でよろめく。抱きとめる男。意味ありげな視線でついて来させ、和子に手を出そうとしたところで、環が電気ショック機(?スタンガンというのかな)で男を気絶させる。倒れた男の財布を奪って逃げる。何度も何度も、こんなゲームを繰り返す。和子はこのゲームで環との絆が出来上がったと思い込んでいる。しかしその時問題の一週間が経過していた。今までと同じように和子が誘い込んだ男が、足フェチで、彼女の足にむしゃぶりついてくる。戸惑いの声をあげる和子になんと思ったのか、環はふいとそこを出て行ってしまう。その時の和子の声は確かにちょっと感じているようにも聞こえてドキッとする。

和子は男を振りきり、環の元へ急ぐ。環が引っ掛けていた男を電気ショックで倒し、車に乗り込む。「差出人は、お前を許す、という手紙を出すわ。証拠ももうない、と」環の言っていることが判らず、いや判りたくなくて和子は「環の言ってること、全然判んない!」と繰り返す。「そんなことも判らない頭だったら、そのへんの壁にぶつけたら!」と一喝する環。……まさか、和子もほんとにこの期に及んで判っていないということはないんだろうけど、……つまりは和子が感じていた環との共犯関係は、単に環が和子を突き放すためのゲームに過ぎなかったのだ。和子は環の罵倒に呼応するかのように、ハンドルを切る。

次のシーンで、二人は実に痛々しい姿になっている。和子は左目を含んだ頭全体に包帯を巻き、両足がギプスになっている。環は頭と腕に包帯と、首が曲がってしまって奇妙な強制金具を背中につけている。……これって、「月光の囁き」のラストと実によく似ていて、片目が不自由になっているところなんかもソックリである。ただ、「月光の囁き」の二人は、共に傷ついたことによって生まれた絆があったけど、本作の二人は、一見そう見えながらも、実は違うのだ。車椅子に乗った和子を環が押してゆく。環との絆を信じ切っている和子は彼女に甘えたことを言うのだけど、環は和子が秘密にしていたこと、彼女こそが環を脅した張本人であることを、こんどこそ、徹底的に、和子に判るように、叩きつける。二人が出会った陸橋の上で、和子は車椅子に乗ったまま取り残される。環は固定しておかなければならなかったはずの、その奇妙な強制金具を脱ぎ捨ててどこかへと去ってゆく。夕暮れの鐘、呆然と取り残されるままの和子。そして、カットアウト。

身体が不自由になることによる色気が私は好きなんだけど、塩田監督もまたその魅力を判ってらっしゃるフェチofフェチ。ことに、女優の選び方が完璧。バイセクシャルな女王様である佐伯日菜子、ソフトなレズビアンの雰囲気がバツグンの、ピュアなまるっこさが逆にほのかにエロな尾野真千子。実際にはキス程度なのに、それ以上のエロティックさを、しかもソフトなエロティックさを感じさせる、このちょっとしたもどかしさがイイんだわ。★★★☆☆


ギャラクシー・クエストGALAXY QUEST
1999年 102分 アメリカ カラー
監督:ディーン・パリソット 脚本:デイヴィッド・ハワード/ロバート・ゴードン
撮影:イェジー・ジェリンスキー 音楽:デビッド・ニューマン
出演:ティム・アレン/シガニー・ウィーバー/アラン・リックマン/トニー・シャローブ/サム・ロックウェル/ダリル・ミッチェル/エンリコ・コラントーニ

2001/1/23/火 劇場(シネクイント)
びっくりしたよー。ほんとに泣けるんだもん!泣けるとは聞いてたけど、えー、うっそお、と思ってたのに。チラシのイメージよりリアルだし、でもそのリアルは、チープ感のあるリアルという実にビミョーな線だというのがイイのよねー。ビミョーな線といえばテレビシリーズ「ギャラクシー・クエスト」のタガート艦長、ひいてはこの物語の主人公を演じているのがティム・アレンという、どっちかっつーとTVスターだというのもビミョーな線である。そしてパツキンダイナマイトがシガニー・ウィーバーというのも確かに驚きだが、同じくらい驚きなのは英国シリアス俳優、アラン・リックマンがなんとまあこれまたビミョーにリアルとチープを行き来するシリコンかゴムかのトカゲ頭をかぶって苦々しげにエイリアン乗組員を演じていること!これはノケゾる!んで、周知の事実として「スター・トレック」の大いなるパロディ映画ということなのだけど、私なぞはトレッキーどころかろくに観てもない奴。でもそうしたパロディの面白さだけでおさまっているかと思いきやとんでもなく、非常にマットウなコメディ、そして感動もの(!)として成立しているところがスゴい。この画で感動だぜ!信じられるか?オイ!

かつての人気番組、「ギャラクシー・クエスト」のスター俳優五人が、今やコンベンションと呼ばれるファン大会のドサまわりしか仕事がない状態。クエスタリアンと呼ばれるファンにとっては神様のような彼らも、その実それ以外にちっとも役者として芽が出ないことや、そのキャラクター=自分と見られることでイライラ。仲間同士のいさかいも絶えない。そんな中、コンベンションに現れたるは、自らをサーミアン星人と名乗るぎこちない動きの四人組。てっきり熱狂的マニアのコスプレかと思いきや、これがなんとホンモノの宇宙人!彼らは宇宙で傍受していた「ギャラ・クエ」を歴史的ドキュメンタリーと思い込み、自分たちのお手本とし、邪悪な敵エイリアンから救ってもらうため、彼らに助けを求めてきたのだ!

ハリボテだらけのテレビの世界をホンモノと思い込んだ、こちらこそホンモノの異星人と宇宙空間。ニセモノをお手本にホンモノを作り上げるという、チープがリアルになるバランス感覚が最高である。役者としての一世一代の演技だと熱狂し、その実ホンモノになれるのだという嬉しさで最初はカルいノリで彼らの助けに応じるタガート艦長役のジェイソン・ネズミス(ティム・アレン)。彼に巻き込まれる仲間たちは、トカゲ頭のドクター・ラザラス役のアレックス・デーン(アラン・リックマン)、頭のヨワいパツキン美女通信士ダウニー・マディソン少佐役のグエン・デマルコ(シガニー・ウィーバー)、アジア系じゃないのにアジア系役やってるチェン技術主任役のフレッド・クワン(トニー・シャローブ)、最年少メンバーで操縦士であるラレド中尉役のトミー・ウエバー(ダリル・ミッチェル)。と、ここまでは確かに仲間たちなのだけれど、こいつ、誰?というガイ・フリーグマンなる男(サム・ロックウェル)がちゃんと制服姿でついてくる。メンバーらも覚えていない、第82話であっという間に殺されてしまう役だったという、クエスタリアンの売れない役者だ。

御年50を過ぎてるというのに(!)このダイナマイトなスタイルはなんなんだー!?のシガニー・ウィーバーは、金髪頭ということもあって、最初から彼女だという知識がなければにわかには信じがたい。「エイリアン」のリプリーである彼女がこうしたイケてるSFパロディ映画に出るというのもグーなのだが、そのリプリー役の時、いやその時のみならず、どちらかと言うと男性的なイメージとギスギスした体型と思われていた(少なくとも私はそう思ってた)彼女が、こんな立派なオッパイ(いや失礼)をお持ちとは……うーん、嬉しい誤算!?そして宇宙にいきなり連れてこられてもただ一人なぜか動じない、チェン技術主任役が好きだなー!彼はちょっとどうかしている=同化している!?変身している時は確かにちょいとキュートな美女だが、実際の姿はタコモドキのサーミアン星人の女性と恋に落ちちまうというんだから、やっぱりどうか(同化)してる!そしてそしてもう一人ビックリなのは、勝手に“レギュラーの座”を獲得してしまった、ガイ・フリーグマンを演じるサム・ロックウェルで、うーん、なんとなく聞いたことのあるこの役者の名前、フィルモグラフィを見ると結構いろいろ出てるのね、んんん?えッ「キャメロット・ガーデンの少女」の、あの彼!?うっそ、このバカ役やってる彼があ!?と、これまた嬉しい驚き!

「ギャラクシー・クエスト」をドキュメンタリーだと思い込んでいるサーミアン星人。翻訳機のせいで「ドキュメンタリー」と言ってはいるけれど、芝居の概念がない彼らにとって、ドキュメンタリーという言葉自体ないんじゃないかな。彼らには嘘という概念がない。……って、これって、新井素子氏の「いつか猫になる日まで」で全くおんなじ設定の異星人が出てきたなあ。あれもまた、そうした異星人の宇宙戦争に手を貸す人間の物語だった、んん?って、ええッ、おんなじやん!びっくり!人間よりはるかに高度な文明をもつ(宇宙船作って翻訳機があって)異星人が、ある種文明の副産物である嘘の概念がないという発想が世界の東西で同じくして出てくるというのは興味深い(えー、パクリじゃ、ないよね?もしそうなら、このギャラ・クエ側スタッフも相当オタクだぞ)。それは嘘というものが、実はそうした文明とは反比例の関係にある、非常に幼稚なものなのだと主張しているような気もしてね。だって、彼らサーミアン星人を攻撃してくる、もうじっつに判りやすい悪役宇宙人、サリスはこうした芝居とか嘘とかいう概念を理解してるんだけど、彼ら、見るからに低俗なんだもん。サーミアン星人たちは、ギャラ・クエの真似とはいえ宇宙船にしてもいでたちにしても(ギャラ・クエ以上に)洗練されてるんだけど、サリス側は実に、イケてない。嘘を知らないサーミアンをバカにするのも、クダラナイことを自慢している悪ガキみたいなんだもん。

ああ、でもね、この、嘘を知らないサーミアン星人のリーダー、マセザー(エンリコ・コラントーニ。名演!)に、ギャラ・クエの世界が嘘なのだとジェイソンが説明しなければならないツラい場面。自分たちを信じていてくれた彼、最初こそジェイソンの言葉が何のことやら理解できないといった表情(というか、信じきっているのよ!)だったのが、ある瞬間理解してしまう、その一瞬に見せるあまりにも哀しい落胆の表情と悲痛の叫び。…………すっごい、泣いた。ほんとに胸をつかれちゃって。マセザー役のエンリコ・コラントーニがムチャクチャ上手いんだもん。この時ジェイソンはもちろんニセモノの乗組員の彼らみんな、ほんとにこれがマジなことだと痛感して、ホンモノであればよかったと、いやホンモノになりたい!と心から叫んだろう。そして別の場所ではドクター・ラザラスをずうっと父親と思って崇拝し続けていたサーミアン星人の青年、クエレックが彼の見守る中息絶える。その絶命の直前、ラザラスは役者としての自分にとって忌まわしいキメ台詞を彼のために使うのだ。「トカゲヘッドにかけて必ず復讐を果たす!」嬉しそうに目を見開いて、そして死んでゆくクエレック。うううう、もう、泣いちゃったよう!

さらに凄いことに、ほんとの見せ場はここからなんである。ギャラ・クエそのままに作られた宇宙船だから、イミネー罠がいろいろ仕掛けられていて(んなとこまでマネすんなよ)出演者ではあってもクエスタリアンではない彼らは困り果てる。そこで!地球にいる熱狂的クエスタリアン少年たちに交信し、同時進行で誘導してもらうという、オタクにとっては涙の出そうな素晴らしいクライマックス!コンピューターの中に取り込まれたこの宇宙船のあらゆるトラップを熟知している彼らのネットワークで、「こんなシナリオ書いた奴、殺してやる!」と叫びながら次々突破してゆくジェイムズとグエン。きわめつけはただ押すだけ、やたら簡単なのに何故か止まってくれない爆破装置。観念して自分の思いを唐突に打ち明けるジェイムズとそれに応えて抱擁するグエン(おおー!!)。しかし残りちょうど1になったところで止まるんである。「あ、いつも1で止まるんだ」って、オーイ(爆笑)!

そしてサーミアンたちとの涙の別れ(また泣いちゃったよ……彼ら、ジェイムズの告白をサリスを欺くための、それこそ“嘘”だったと思いこんで、やっぱり彼らを崇拝してやまないんだもん)。あなたたちに指導者として残ってほしい、と言うマセザーを、君こそがリーダーじゃないか、と肩をたたき、周囲のサーミアン人たちもうんうんと同意する場面もメチャいい!でもチェン技術主任と恋に落ちたラリアリは彼についていくことをあっさりと(笑)決意し、地球帰還組の船は切り離される。着陸地点を花火で知らせていたかのクエスタリアン少年たち、そこはコンベンション会場、勢い余って会場内に突入!スゲー演出だと思い込んでる客たちの前に(そりゃないだろ……ありゃ下手すると死人が出るっつーに)、劇的に現れる我らがスター!なんたって、ほんとに異星人の危機を救っちゃったんだから、今度こそホンモノのヒーローなのだ。そこでかわされるジェイムズとグエンのあつーいキッス!あらららら、目の前の女の子、失神しちゃったよ!

実際問題ハリウッド映画って質の低下の一途を辿っている気がして仕方ないんだけど、ただ、こういう作品が何の予期もせずにポコッと現れる力もまたやはりハリウッドのスゴさなんだよなあ!★★★★★


今日から始まるCA COMMENCE AUJOURD’HUI
1999年 116分 フランス カラー
監督:ベルトラン・タヴェルニエ 脚本:ベルトラン・タヴェルニエ/ドミニク・サンピエロ/ティファニー・タヴェルニエ
撮影:アラン・ショカール 音楽:ルイ・スクラヴィス
出演:フィリップ・トレトン/マリア・ピタレシ/ナディア・カシ/ヴェロニク・アタリー/エマニュエル・ベルコ /フランソワーズ・ベットゥ/ナタリー・ベキュ/ベティー・トゥブル/ジェラール・セブロン/ジェラール・ジルドン/ダニエル・ドラベス/ナタリー・デプレ/フランソワーズ・ミケリ/ディディエ・ブザス/ランベール・マルシャル/ケリー・メルシエ/マテュー・レンヌ/マリエフ・ギティエ/ブノワ・コンスタン

2001/11/30/金 劇場(岩波ホール)
タイトルのように、今日から始まる、と思って頑張ってみようと毎日毎日……でも、やりきれなくなることがあるんだよなあ、と……。それでも、毎日、今日から始まるんだ、と、昨日までのこともきっと今日には何とかなる、と思って頑張るしかないんだよな、と、奮闘するダニエルをはじめ幼稚園のスタッフたちを見て、思う。あるいは、彼らに応えようと、その親たちよりももっとそんな思いで、無心に見えながらも“一生懸命”明るく遊んでいる子供たちも。

かつては炭鉱で栄えた町に吹き荒れる、失業者のあふれる厳しい生活の現実。ことに今は冬で、生活に苦しむ人々の中には、暖房すら切られて子供を抱え、途方にくれる人たちもいる……。“かつて炭鉱で栄えた”というフレーズは最近、ヨーロッパ映画で良く聞く。それが世界的不況と重なって重い負担となるのが、時期的傾向なのかもしれない。炭鉱だけで成り立っていたような町が、いつかはそれがなくなると判っていながら、石炭が出るうちはそれが判っているようで判っていなくて、ズルズルと何の対策も講じないまま炭鉱が閉鎖となってしまうと、とたんにガタガタと全てのバランスが崩れ去ってしまう。この過程はひどく幼稚で、およそ一国の、あるいは一つの町が取るべき政策とは思えないのだが、それが全世界的な行政の体質だといえば、それもまた真実なのである。あるいは国民の意識も。そして彼らの意識は、悪いのはいつでも自分たちではなくて……それも本当ではあるのだけれど、わりとあっさりと自暴自棄になってしまう。

そのとばっちりを受けるのが、彼らの庇護下にいなければ生きていけない子供たち。大人の意識としては、子供は自分たちの所有権下にいて、いささかヤッカイなシロモノと思う節すらある、というレベルだが、子供たちにとっては彼ら1人1人が一個の存在であり、その無力さを多分誰よりも感じているのだ。部屋の電気が切られ、親がアルコールに溺れても、母親の愛人からヤツアタリ的な暴力をふるわれても、彼らは大人に対して痛ましいまでの献身的な態度を崩さない。粗暴で自分勝手な、ま、よく言えば天真爛漫な、悪く言えばワガママな子供の一般的イメージから来る姿からはとうていかけ離れている。そのイメージの姿というのは、生活の豊かさや親の愛情がしっかりとあった上での姿。つまり子供は大人の状況をストレートに反映するのだ。いわゆる子供らしさというのは、まだ未成熟の彼らには矛盾といっていい言葉なのだ。そしてこんな状況はもちろん、彼らの人間としての成長過程に暗い影を落とす。

それが判っているから、幼稚園園長のダニエルは何の罪もない子供たちにそんな理不尽な仕打ちを受けさせまい、と奔走する。しかしその親の事情の前に立ち尽くしてしまう。彼の視線は子供たちの上にはあるけれども、彼もまた大人だから、その事情が判ってしまうのだ。そうすると彼の糾弾は場当たり的な方針で動いている行政に向けられるのだが、こちらもまた現場に即していない数字の上で動いている、いかにもなお役所仕事で、実際の改善にどうしても結びつかない。そうこうしているうちに、最も貧しい家庭の、電気も水道も切られた、アンリ家の母親が子供と無理心中を図ってしまう。ダニエルはせいいっぱい動いていたはずなんだけれど、でも彼らを救えなかったことでひどくショックを受ける。仕方なかったのだ、となぐさめる同僚の言葉も耳に入らない。シーツにくるまれた子供たちの小さな白い遺体が目に焼きついて離れない。

未婚の母である彫刻作家の女性と交際しているダニエルは、その息子が自分に心を開いてくれないのも悩みの種である。たちの悪い仲間たちとつるんで悪さをしたその少年に手を上げると、彼から「本当の親以外、殴っちゃいけないんだ」と言われてしまう。それは折りしも、母親の愛人からの再三にわたる暴力を耐え続けて口をつぐんでしまっている、幼い園児の事情に重なってしまう。しかしこの息子、ダニエルが件の事件ですっかり意気消沈しているのを見てとると、彼に対してだんだんと心を開くようになる。やはり子供は大人の生きている姿によって、その人となりを成長させていくのだ。言葉ではなく。大人が子供を見るよりも、ずっと真摯に、じっと見つめているのだ。手本となるべき大人の姿を。身の引き締まる思い。

薄暗くて寒い冬の街の中、暗い気分ばかりが先にたってしまう中を、大人の仕事する姿を子供に見せたり、ダニエルの恋人の提案で子供たちに創作作業を行わせてニギヤカなお祭り騒ぎをしたりと、頑張るダニエルたち。そうした大人の一生懸命さに触れれば、子供もそれに応えてくれる。人生は小さな経験値の積み重ねなんだ。目の前の不幸にばかり気を取られていたら、不幸ばかりが積み重なってしまうのだ。小さくてもいいから幸せを貯金していけば、きっと生きていて良かった、と思える日が来る。いつだって“今日から始まる”のだから。

ドキュメンタリーかと見まごう程の、彼らにぴったりと寄りそうカメラがスリリングな緊張感をもたらし、二時間たっぷりのこのシリアスドラマを飽きさせずに引っ張って行く。そのカメラ以上に動き回り、とにかく行動あるのみのダニエルが、まあ、決して美男子な方ではないけれど、そしていつもいささか仏頂面ではあるんだけど、これが不思議と同僚はもちろん、子供にも慕われている様子が良く判って、なかなかに素敵なんである。表面上のにこやかさよりも、本当の意味で自分たちのために動いてくれる彼に対する彼らの信頼が、この作品の身上であり、救い。やはり人生、人間同士の信頼関係が何よりも必要なのだな、本当に。どこかでそれを信じきれていない自分の心がチクリとやられた。★★★☆☆


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