home!

「え」


2004年鑑賞作品

エイプリルの七面鳥PIECES OF APRIL
2003年 80分 アメリカ カラー
監督:ピーター・ヘッジズ 脚本:ピーター・ヘッジズ
撮影:タミ・レイカー 音楽:ステフィン・メリット
出演:ケイティ・ホームズ/パトリシア・クラークソン/デレク・ルーク/アリソン・ピル/ジョン・ギャラガー・ジュニア/アリス・ドルモンド/リリアス・ホワイト/イザイア・ウィットロック


2004/12/7/火 劇場(渋谷Bunkamuraル・シネマ)
きっと家族を象徴する料理なんだろうな、そしてイベントなんだろうな。七面鳥、感謝祭。日本にそういうのって、あるだろうか。ありそうでない気がする。その周りに家族が集まる、そういうドンピシャに象徴的な料理って。おせちとか?うーんそれもなんだか違う気がするな。親族って感じはするけれど。七面鳥って、せいぜい三世代ぐらいまでの家族のイメージ、そんな気がする。そういえば日本はこんな核家族の時代になっても父系親族の社会で、こんな風に両親を中心とした家族の和って、ない。だから逆に核家族になったらもうあっという間に崩壊の一途なのかもしれない。

なんてことを思いながらも……でもこの家族は崩壊しているんである。
いままさに、その七面鳥に四苦八苦して取り掛かっているのは、その家族と何年も会っていないエイプリルである。一家の中の鬼っ子。ごくごく中流の良く出来た家族の中で一人だけの不良、家族の誰とも折り合いが悪くって、家を飛び出して……もう何年になるのだろう。
こういう家庭環境で自分の生き方、あるいは自分自身は唯一のものだということに気づけるエイプリルは、才能があるとも言えるのかも。
なるほど、そんな説明を受けなくっても、何となく判る雰囲気のエイプリル。シャドウが濃いめのダークなメイクにワイルド系のアクセ、そしてタトゥー。ギンギンに突っ張っているのが判る。けれどもティーンエイジャーではない。そろそろ何となくいろんなことを考えざるを得なくなる、20代に突入した年頃。
見るからにぶきっちょなエイプリルが七面鳥と格闘している時、彼女の家族が彼女に会いに、出発せんとしている。あからさまに行きたくなさそうな雰囲気アリアリで。

なぜ、エイプリルがこんなにも家族と折り合いが悪いのかはちょっと判りにくくもあるんだけど……。いや、まあ主軸は長い間疎遠だった家族が感謝祭の七面鳥がとりもって、大団円、ってことだからそこんところをそれほどに突っ込む必要もないのかもしれないんだけどさ。ただ、母親ばかりか妹弟とも仲が悪い、悪いどころか、ろくろく親交さえなかったみたいな描写だから、いや、そこまでするとなーんとなく違和感っぽい気もしたのね。
だって、親と仲悪い場合、大抵兄弟姉妹はそれなりにフォローするもんじゃないのかなあ……。

うーん、こんなにも、長女一人だけが孤立するってアリなのかな??対照的にするにもやりすぎじゃないのかな??なんか決定的な出来事があったという含みでもあるんなら判るけど……とも思いながらも、たった一人、父親だけがなんとなく、本当になんとなくなんだけどこの長女側についているからまあ、いいのかなあ。
といっても、この父親もエイプリルといい思い出があるっていうわけじゃない。妻からそう突っ込まれて言葉に窮する場面はなんだかキツい。
この時点ではエイプリル、キビしいなあと思ったんだけど……だって弟や妹には幼い頃の愛らしい思い出があるんだもの。でも、ぜーんぶを観終わって、思うのだ。そんな具体的な、美しい思い出なんて、必要ないんだよね。だって、家族は家族ってだけで、大事なんだから。家族ってだけで、奇跡なんだから。人間だけだよ、そんな物理的な思い出にすがってるのって。

まあ、でもこのお父さんはそのあたりはなんとなく(なんとなくばっかりだな)判っているフシがある。多分一番初めの子供であるエイプリルのこと、女の子でもあるし、やっぱり一番可愛く思ってたんじゃないかって思う。で、この母親がこれほどまでに我が子を嫌うのは、それは同属嫌悪というか、似た者同士だからじゃないかなって思う。
そりゃまあ、このお母さんはきちっとした人なんだろうけれど、ガンコなところはエイプリルとソックリだもの。
そして、最後だからとお母さんに七面鳥を作ろうと決意するエイプリルと、最後だからエイプリルに会いに行こうと決意するお母さんと、やっぱりソックリじゃない。

そう、最後、なのだ。お母さんは末期ガンなんである。薬の副作用でもう髪の毛も抜け落ちちゃってるからウィッグをかぶって、そして副作用の吐き気と闘いながらの過酷な旅路である。
途中何度も引き返そうとする。お母さんもそうだし、妹弟たちはよりいっそう乗り気じゃないから。思い出話をすればイヤな記憶ばかりがよみがえり、なんせエイプリルは料理はからっきしだってんだから、感謝祭のごちそうったって、どうやって吐き出そうかという話で盛り上がるくらい。
……でもこれは、あまりにヒドいわ。いくらエイプリルがいないところでの話だからって。
と、思ってしまうのは無論、同時進行でエイプリルが必死になって感謝祭のごちそうを作ろうと奮闘しているから。そりゃあもう、目も当てられないほどぶきっちょなエイプリル。本当に出来んのかいなと思うぐらいなんだけど、でも彼女、頑張っているんだ!

そもそも、この朝、エイプリルは憂鬱だった。同棲している恋人のボビーが、今日は大切な日なんだからと何度起こしてもぐずぐずと起きようとしなかった。
それは、仲の悪い家族を迎えるからというより、もしかしたら……母との最期の時に直面しなければいけないから、だったのかもしれない、と今にして思う。
一方ボビーは恋人の家族に初めて会う日だというので、かなり気合いが入っている。キッタナイ台所でまずお約束に、七面鳥をドカンと床に取り落としたりするエイプリルの料理には不安が残る。実際、最初ちょっとだけ手伝うボビーの方がずっと手際がいいんだけど、彼はキチンとした服を借りるために、出かけちゃう。それにこれはエイプリルがやらなきゃ意味がないこと。さあて、彼女は一体、一人で七面鳥を焼き上げることが出来るのかっ?
うー、早くも問題勃発。これはきっと、普段全然使ってなかったんだろうな、肝心のオーブンが故障して使えない。途方にくれたエイプリルはアパート中のドアを叩いて歩く。オーブンを貸してくれませんかと。……まあ恐らく普段近所づきあいをしていたとは思い難い(ボビーはしてたかも)エイプリルだし、それに感謝祭の真っ只中、どこもかしこもオーブンはフル稼働なのだ……こりゃかなりの前途多難なのである。

最終的にはエイプリルが家族との、何より母親との関係を修復するところにこの物語の主題があるのはそれはそうなんだけど、でももうひとつ、大事なテーマがある。エイプリルはこの一日で、様々な人に出会う。様々な人といったって、自分が住んでいるアパートの住人たちである。でも恐らく、初めて会う様々な人々、エイプリルは何とかオーブンを借りようと必死だから、積極的に彼らとコミュニケーションをとろうとする。でも普段そうしていなかったんだから、それはとてもとてもタイヘンなんである。
家族の中で折り合いが悪くて、家を飛び出して、そして一人前に生きていけるようなつもりでいたんであろうエイプリルが、自分ひとりだけで生きているんじゃないと、ハタチもすぎて初めて気づいた感謝祭、なんである。まさに、感謝、祭。

一番にドアを開けてくれた黒人夫婦は、最初こそこの白人の不良少女を嘲笑を持って迎えるんだけど、ワンカット後には泣きながら話を聞いてくれてる(ある意味単純(笑))。
エイプリルはそんな彼らに引け目を感じて、「実際には、そんなに泣けないと思うの……」なんて言ってみたりする。
家族はおろか、他人から、こんな風に優しくされたこと、ないに違いないんだ。
ここの家の旦那さんはレトルト、缶詰、インスタント大反対派。この感謝祭にも旦那さんが先頭切って料理を作ってる。クランベリーソースも何もかもこの夫婦が教えてくれる。本当にいい夫婦。ただ、そんな風に感謝祭大礼賛のトコだから、オーブンはふさがっちゃってる。何とかオーブンを貸してくれる人を探さなければいけない。エイプリルはまたアパート中を奔走する……。

そんな風に他人づきあいが疎かったエイプリルだから、せっかくオーブンを貸してくれる人が現われても……そうその人がかなりの神経質の変わり者だったのがガンだったもんだから……ちょっとエイプリルがぞんざいな態度に出たらイカッちゃって七面鳥を生焼けで返されちゃうのね。せっかく最新式のオーブンを貸してくれる人が現われたと喜んでいたのに……。残るはちっとも言葉が通じない中国系と思われる一家の部屋だけ。そうちっとも言葉は通じないんだけど、でもエイプリルが困ってる、ってことを彼らは充分に察してくれて、暖かく迎え入れてくれる。一人ちょっとだけ英語が判る女性がいるんだけど、それもかなりおぼつかなくて、細かいニュアンスはおろか、大筋だって伝わっているとはとても思えない。でも彼らは困っているエイプリルの表情を、じっと、じーっと見て、で、汲み取ってくれるんだ。そしてエイプリルが半ば投げ出してしまった七面鳥を実にミゴトに焼き上げてくれる!うう、ちょっと、泣ける。
アジアの人種って、こういう良さがあるんだよね!と勝手に喜んでみたりして。いや、そういう良さを失わないように(もうかなり失ってるよな……)優しい魂を大事に生きてかなきゃなー、なんて思っちゃった。

で、ね。ついに家族が到着するんである。途中何度も悶着があったんだけど。ただ……この最後の悶着がいけなかった。
カッコイイ服を借りて戻ってきたボビーが、エイプリルの元カレにいちゃもんつけられてボコボコにされちゃって、口から血ぃ流した状態でエイプリルの家族と対面したものだから……しかも多分、知らされてなかった、ボビーが黒人だってことにも怖じ気づいたらしい彼らは、エイプリルがアパートの外まで出迎えに駈けてきたときにはもう、……いなかった、のだ。
家族はレストランに入り、マトモな料理が食べられる、とばかりに、「これで良かったのよ」と、妹など嬉しそうにしてて。もー、お前なー!
でも、でも、母親は、本当は楽しみにしてたんじゃないのって、ようやく気づいたんだ。だって、あんなにゴネていたけど、朝、誰よりも早く身支度をして、車の中でみんなを待ってたんだもの。
お母さん、トイレで母親に叱られている女の子と目が合う。ふと、考え込む。いい思い出なんか何もなかったはずのエイプリルの、何かの思い出を思い出したに違いない。
そう、いい思い出じゃなくったって、家族と共に過ごしてきた時間、叱ったり反抗されたりってことだって、充分ステキな思い出なんだってことなんだよね。
むしろ、そっちの方が、よりステキな思い出かもしれないんだ。

お母さん、カッコイイなー!次のシーンでは、レストランにいたバイクメンをヒッチハイクして、2ケツで颯爽とエイプリルの元へ!
エイプリルね、料理だけじゃなく、テーブルセッティングだって一生懸命やってたんだよ。ママ、と描いたネームを破ってジョーイと書き換えたり、お母さんと会う、会えることの葛藤の中、飾りつけもなんだかケナゲで泣けちゃうんだよ。だから、どうしてもどうしても来て欲しかった。あのあったかい中国系一家とか人情派の黒人夫婦とか、ちゃんとパーティーのお客で来てくれたけど、でもやっぱり、だってやっぱり、家族と、そして何よりお母さんのために頑張ったんだもん。

こっからは、スライドショーの趣。台詞はない。動きもない。止まった画で、まずお母さんが現われてエイプリルと抱き合う。そして次々に家族たちも到着する。優しいお客さんたちとも和気あいあいの雰囲気で感謝祭の食事を共にする。今日会ったばかりだけど、みんな家族。そんな感じ。
きっと、この画、写真は、お母さんの思い出の記録係、弟クンが撮ったんだろうな。まだ、ちょっと意地を張っているような表情を残しているのがエイプリルもお母さんもソックリで、めっちゃ親子じゃないの!って。
仲が悪いっていうのって、キライってことじゃないんだよね、多分。家族って、替えのきかない存在なんだもん。好きだ嫌いだでよけられないんだもん。

生きているうち。後悔しないうち。きっと判ってくれてたに違いない、なんて死んだ後に思おうとしてもやっぱり、後悔が残ると思うから。美しい思い出ってまでは、いいよ、いらないから。ささやかな思い出だけで、充分。★★★☆☆


エノケンの近藤勇
1935年 81分 日本 モノクロ
監督:山本嘉次郎 脚本:ピエル・ブリヤント P.C.L.文芸部
撮影:唐沢弘光 音楽:伊藤昇
出演:榎本健一 二村定二 中村是好 柳田貞一 如月寛多 田島辰夫 丸山定夫 伊藤薫 花島喜世子 宏川光子 北村季佐江 千川輝美 高尾光子 夏目初子

2004/2/10/火 東京国立近代美術館フィルムセンター
イヤーあたしゃ感動したよ。何が感動したって、あの「グッドバイ」と言ってむにゃむにゃっとやって(この動きは説明できんわ)手をぱん、と合わせて前のめりにくにゃりとジャンプしてバタッ!と倒れるあのギャグ、誰がモノマネしていたのか忘れたけれど、とにかく、本人の、ホンモノが見られたんだもん。いやーやっぱり全然違う、ホンモノは。衝撃的ですらある、この身体ナンセンス・ギャグ!私が生まれる前に没してしまったスターだから、私にとっては伝説の人。映画に名前が、しかも愛称がつくなんて、まさに今の世じゃ考えられないことだもんなあ。この人は、日本の喜劇スターの原点の、全てが入ってる。今、エノケンを見たことない芸人さんたちだって、彼らが憧れた先輩芸人たち、そのまた先輩たちにとってはエノケンがスターであって、その要素が染み込んでて、まるでDNAのごとく継承されているんだということを痛切に感じる。

この人の、動き。この軽やかな可笑しさ。ああ〜たまんないわあー。初体験だからとにかく全てが新鮮。このちっちゃさとぐりぐりしたおっきい目が可愛くてたまらん。そう、エノケンはこんなにカワイイ人だったのね。知らなかった。彼の顔はまさに舞台映えする。勿論スクリーン映えもするんだけれど、やっぱりまず舞台の人な訳だから。身長ちっちゃくても、この顔ならどんな遠くからでも判るよなあ、って顔。しかもこの表情の豊かさと、見たらきゅうってなっちゃうような笑顔のチャーミングさときたら!

しっかしこの話はなんなんだ(笑)。いや、私は時代劇とか歴史とかにとんと弱いから、こ、これは、これでも一応歴史的事実とかはちゃんとしているんだろうか……うーむ。しかし、こんなに寸詰まりの近藤勇がいていいんだろうか。しかも、同時に坂本竜馬が語られ、二人がニアミスするなんて。近藤勇と坂本竜馬の二役を演じているのが、エノケン。む、むちゃな……。近藤勇は、あのクールでハンサムな組長のイメージがガタ崩れ(笑)。何せこの身長だから、エノケン組長はすっごい高下駄を履かないと力が発揮できないのだ。そのかわり、その高下駄を履くとやたらめったら強くなる。鼻緒が切れると、黒子がしっかり待機して直してくれるという万端さ(笑)。うッ、このご都合主義が好きすぎるううう。
一方の坂本竜馬の方はといえば、超近眼で(そうだったの?)牛乳瓶の底みたいな眼鏡かけてるとゆー、これまた坂本竜馬のイメージをがっつり覆してくれる怪演。こういう役の咀嚼が天才だとゆーのだ。始終眼鏡に息吹きかけて拭き拭きしてて、眼鏡かけてないと味方に鉄砲向けたりしちゃう。で、この竜馬が寝首を掻かれた(あ、一応史実に基づいてるわ)場面で、あの「グッドバイ」が披露されるのよー。いやー、しびれたよ。ステキすぎるッ!ところで、りゅうま、と発音しているんだよね、りょうま、じゃなくて。これは意外にこっちが正解だったりして……?

近藤勇は坂本竜馬と引き合わされる予定だったんだけど、ま、それはないと思ったけどね……だって、この時代じゃそういう合成はムリそうだしさ(って、そーゆー見方は可愛くないわな)。でも、料亭でのニアミスの場面、新撰組をクサしている隣の間(竜馬含む)にガマンならずに乗り込もうとする近藤勇、の場面の近藤エノケンがもー、最高でッ!隣の間に斬り込もうとするエノケンを芸者が止めに入るんだけど、エノケンの襟首をずりずり引っぱりまくって、首締まり状態のエノケンがジタバタする……あー!だから!これは確かに基本中の基本、お約束のギャグの動きではあるのよ。でも、このエノケンの動きは言葉で説明してもぜっんぜんその面白さが伝わらないのよお。もー、こんなに最高に面白いのにさあ!!

舞台ではその歌唱力で鳴らし、本格的ミュージカルを志向していたというエノケンだけに、そういう部分でのエンターテイナーぶりもまた、最高なのだ。いや、それこそがナンセンスギャグよりも、本領なのかもしれない。ところどころという感じではあるけれど、陽気なオペレッタ風、それがすっごく粋。剣の稽古をつけるそのフットワークがワルツ?風だったり、「今流行ってるから」などと言って「ララバイ・イン・ブルー」を(しかしかなりの謡曲調で)歌ってみたり、敵の暗殺に出かける場面で集団でオペラ調に「今度こそ、殺すぞ、殺すぞ」と輪唱してみたり。しかし、最もスバラシかったのは、アレよ。まさしく新撰組の、池田屋襲撃事件の直前、次々と豪華なお膳が運ばれるリズムにばっちり合わせて流れる曲は、なな、なんと、あの「ボレロ」!ビックリしたよー!だって、「ボレロ」の映画といえば「愛と哀しみのボレロ」じゃない。それよりもずっとずっと昔に、こんなにバッチリと使われていたなんて、しかも日本映画で、時代劇で!思いもしなかったよ〜。しかも、しかもね、その時、池田屋はふと不審な気配を感じるわけ。ボレロが相変わらずかかっていて。で、バッと障子を開けてみると、外にワンタン屋台がプーパーとラッパを鳴らしてて、それがそこでカットアウトされたボレロの管弦楽の音と絶妙につながるのよ。これには大笑いしながら、うなったなあ。ワンタン屋台っていうのが、イイじゃない。ワンタン、支那麺、チャーシュー(シューマイだったかな)とか書いてんのよ。もー、笑ったなあ。

果たし状が流麗な英語?で書かれてて、それをアッサリ日本語で読んじゃうナンセンスさ、舞妓さんから恋人への手紙にもS.O.Sと書かれていたりするのもミョーに可笑しい。意味なくカエルごっこ?したり、巻物に目ぇくっつけて繰り返し読んだり、両足揃えてぴょん、と飛び越えるしぐさとか、とにかく、とにかくもう、可愛いくて可笑しくてたまらんのよ。そう、本作観て最初に植えつけられたエノケンのイメージって、両足揃えてぴょん、だなあ。これが超絶カワイイの。
あの有名な階段落ちのシーンもちゃあんと用意されてて、引きのカメラでダイナミックな階段落ちを見せてくれもして、これもビックリ。あ、勿論、エノケンは落とす方だから落ちてはいないけど(笑)。しかしあの高下駄姿で立ち回っているからね、やっぱり笑っちゃう。この場面でもエノケンは途中で下駄を履かせてもらって、その間、敵に刀を向ける役割を隣にいる少年に替わってもらう、というコソクさに大笑い。しかも敵さん、律儀に待ってんだもん。もお。

隊員に加納という若者がいて、彼が本作のひとつのメインになっている。ある意味、物語の筋的には、エノケンは脇といってもいいのかもしれない。加納は島原に売られてしまった舞妓の恋人がいて、加納がその恋人に会いに行けるように、エノケン近藤勇は金を融通してやっている。しかしささいな行き違いから加納は同志を殺してしまい、この恋人の舞妓と心中を図るのである……。で、この加納を演じているの、女性、だよね?で、恋人の舞妓がすっごいハイトーンで、めちゃめちゃベビーフェイスのカワユさでさ、この女性同士で演じるカップル、結構ヤバイのよ(笑)。二人が心中を決意して舞い歌うシーン、本作の中で唯一シリアスで、耽美で鼻血ブーなのよ。すっごい、キレイ。かなりの尺を割いていて、なるほどここが一つの見せ場に違いない。二人の死に、南無阿弥陀仏……と唱える隊員たち、お願いだからエノケン南無妙法蓮華経だなんてボケないでよおー。

池田屋襲撃が成功に終わって、紙ふぶきの中、やんやの喝采で大階段を降りてきて、すっごいハッピーエンドみたいな感じでラストなんだけど、そ、そうだっけ!?そ、そんなんで、いいの?いいのかなー!?★★★★☆


エレファントELEPHANT
2003年 81分 アメリカ カラー
監督:ガス・ヴァン・サント 脚本:ガス・ヴァン・サント
撮影:ハリス・サヴィデス 音楽:
出演:アレックス・フロスト/エリック・デューレン/ジョン・ロビンソン/イライアス・マッコネル/ジョーダン・テイラー/キャリー・フィンクリー/ニコル・ジョージ/ブリタニー・マウンテン

2004/4/13/火 劇場(シネセゾン渋谷)
テレビの中みたいなせま苦しい比率の画面の中で、彼らは普通の一日を過ごし、お互いにすれ違い、そして突然冷たい銃弾を撃ち込まれた。二人の生徒によって。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」で描かれた、あの忌まわしい高校生銃乱射事件。同じような事件が実に2年間に8件も発生したのだという。「ボウリング……」はアメリカの銃社会に対する、それを推進する人々に対する、痛烈な皮肉を浴びせた。そして本作は、事件そのもの、事件を起こした若者そのものをじっと見つめようとする。
だけど、そこにはやはり何も見えてはこない……。
「僕ら、今日死ぬんだよね」と言い合って、シャワーを浴び、経験していなかったキスをお互いで済ませる少年二人。そこには何か胸をきゅんとさせるものがあったけれど……。そして通販で買ったたくさんの銃で武装して学校に乗り込む。

なりゆきで、ということではない。だって、通販で買い込み、その銃をきちんとテストまでしているんだもの。そこにはなるほど、銃が簡単に手に入るという、“銃社会”の恐ろしさを感じさせつつも、彼らにはある種の相当な覚悟はあったに違いないのだけれど。
ただ、二人がパソコンの淡々としたシューティングゲームに興じたりしているのを映すのは、そうした判らなさを嫌な方向に限定させてしまうように思う。
現場でも彼らは、そのゲームと同じような視線である。彼らの手元にはピントがあっているけれど、逃げ惑う人々は光の中にボヤけている。
果たしてこれで、本当に良かったのか?
説明の出来ない愚かな純粋さを、判りやすい形に引きおろしているような危惧を感じる。別に彼らに肩入れするつもりはないけれど、彼らの動機が明らかにされない、あえて答えを導こうとしていない分、何だかマズいような気がするのだ。
それにこの静かな視点は、「ボウリング……」があったからこそ獲得できたものだとも思う。これ単独では……どうだろう。

むしろ、犯人二人よりも、そんな一日の終わりが来るとは知る由もない、生徒たちの柔らかな一日が印象的なのだ。印象的というより……全てが終わってしまえば、それだけが苦く胸に残る。
オーディションで選ばれた学生たちは、ほとんどが実名で登場している。時間軸を少しずつずらしながら、すれ違う彼らの一日がそれぞれの目線で描かれる。だから何度も同じ場面が、違うアングルで出てきたりする。あの時横を通り抜けていった女の子の目線で今度は……みたいな。そしてその女の子がカチャリという、銃弾を装填する音を聞いた時……。

例えばこの女の子、ミシェル。彼女は孤立している。クラスメイトから「ダサーイ」という言葉を浴びせられる。彼女の描写といえば、いわば、それだけだ。ミシェルは図書館のボランティアに行き、そこで犯人に容赦なく射殺される。彼女の人となりが描かれていたわけではない。ただ彼女はクラスで嫌われている、どこか陰鬱な女の子というだけだった。
このミシェルの描写は最も苦い味を残す。彼女に優しい視線を感じることは出来ない。真っ先に殺される彼女は、まるでその存在を否定されているような気がしたけれど……でも誰も彼もが差別なく、殺されていくのだ。

おしゃべり好きの三人の“親友”の女の子たち。あの子カッコいいよね、なんていう無邪気な会話。一人にボーイフレンドが出来たためにショッピングに行けないというその子に対して“親友”にヒビが入ったと怒る彼女たちは、そのアメリカンなオトナっぽい見た目に反して、まるで日本の女子中学生のような幼ささえ感じさせる。ランチの後はトイレにこもり、ダイエットのためにいわゆる食べ吐きをする。そして……殺されてしまう。
あるいは、ただ殺されるためだけに出てくるような少年さえいる。まさに今銃を乱射しまくっている中に登場してくるベニーは、今起こっていることがよく判らないといった状況で校内を歩いている。そして犯人に遭遇し、あっさりと殺されてしまう。

一体ここに、何を見出せばいいのだろうか。銃の前では彼らの人生が幼すぎるということなのか。ある意味での公平さがそこでは生まれるということなのか。それは人間社会の理不尽な不公平さを銃弾が是正しているとでも言うような、シニカルな視点を感じる。
テレビの中のような狭い比率の中に閉じ込められた子供たち……。
そこで経験している人生はまだまだ青くて幼くて、やわらかな果実がぐしゃりとつぶされるように殺されてしまって……そしてまた、その殺した相手もやわらかな果実なのに。

この二人、食堂でおちあって、報告半ばに一方が相手を撃ち殺す。その描写にギョッとし、ギョッとした自分にもちょっと驚く。つまり私は彼らに、こんな残酷なことをしているというのに、どこか純粋な固い仲間意識のようなものを持っていてほしいと願っていたから。でも、判らない。それもまた彼らのうちの約束だったのかもしれない。だって「明日、死ぬんだよな」と二人はそう……言っていたんだもの。殺戮に入ることより、自分たちが死ぬことのほうが重要だったのかもしれないのだ。

この片一方のアレックスは、イジメに合っていた。でもその描写はそんなにキツイものではなかった。むしろ陰鬱に入り込んでいるミシェルの方が可哀想に映るぐらい。彼の中でそのことが動機になったかどうかは判らない。親友がその相棒となる。いや、あるいはアレックスにとってこの親友も、自分を苦しめた一人だったのかもしれない……銃口を向けたのは。
アレックスが奏でる微妙にヘタクソなピアノは、しかし予想外にピュアな名曲ばかりをセレクトしていて、なんだか胸がつまる。「エリーゼのために」「月光」……自然光が柔らかく包み込む学校という小鳥の巣でそんなピアノの甘やかなしらべをバックにして、容赦ない殺戮が行われる。……まるでダンスのように。

冒頭に登場してきて、この二人に遭遇し、中の危険を他の生徒達に必死に訴えて走り回り、そして白煙を上げる学校を父親と共に見つめるジョン。この父親はアル中で、彼はその面倒をみている。生え際が黒くなっているブリーチした金色の髪をさらさらとなびかせ、柔らかそうな皮膚を赤く染めるジョンは、とても印象的だ。彼は一人誰も使っていない教室に入り込んで、涙を落とす。そこを通りかかったクラスメイトが母性本能を刺激されたかのように彼の頬にキスをする。そしてジョンは外に出てゆき、犬と戯れる。凶行に入ってゆく二人を見送り、大変なことが起こると予感したジョンは学校に入ろうとする人たちを必死に止める。つまり、彼は、殺されない。

殺された子たち、あるいは殺す二人と、どこに差異があるというわけではないんだろうけれど、どこか良心を感じるこのジョンが、貴重な目撃者となって生き残ったことに、少し、思うところもある。単純だけれど……若者は脅威であるばかりでなく、無力であるばかりでなく、優しい心と必死の行動力がちゃんとあるんだということを、何とか、踏みとどまって、言っているかのような。★★★☆☆


トップに戻る