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ボイス/ /PHONE
2002年 102分 韓国 カラー
監督:アン・ビョンギ 脚本:アン・ビョンギ/イ・ユジン
撮影:ムン・ヨンシク 音楽:イ・サンホ
出演:ハ・ジウォン/キム・ユミ/チェ・ウジェ/チェ・ジヨン/ウン・ソウ
ケータイから聞こえてくる奇妙なノイズ。これはそれこそ私がケータイを持っていないからその恐怖を感じられないのか。奇妙なノイズの恐怖といえば、これは本当に震え上がった「呪怨」があるけれども、その描写は、この空間の中に確かにそのノイズを発生させている何者かがいる、という決定的な恐怖だった。でもケータイから聞こえてくるノイズは、その場にはいない、発声者。だからどこかその怖さも遠のく気がする。ケータイの同じ番号を持つ人々は皆、この奇妙なノイズと不気味な幽霊を見て恐怖に発狂して死んでしまう。恐怖で死んでしまうというのはまんま「リング」だけれど、このノイズとふらりと立っている長い黒髪の女、だけでは死ぬほどの恐怖を納得させるのは難しい。
確かに効果的な一瞬見せで現われる女の影は、心臓をわしづかみにされるほどに怖いのだけれど、まあ、このあたりはホラー映画としては結構お約束な描写。お約束といってはちょっと言い方が悪いかな、基本の描写。でもスクリーンの中で心底怖がっているお人たちほど、恐怖に打ち震えるわけにもいかない。一番すごーく怖がっていたのは冒頭に登場した、エレベーターに閉じ込められた女性なのだけれど、この人がすっごい美女で、私はてっきり彼女人がメインのキャラだとばっかり思っていたのに、あっという間にその恐怖によって狂い死にしちゃったのであった。あー、もったいない、ムチャ美人だったのに。あの人、気になるわあ、何ていう女優さんだろ。でも黒いつけ爪でエレベーターの壁をガリガリやるのはヤメてね。恐怖じゃなくて生理的な鳥肌が立つからッ。
それにしてもケータイの着信音と、ホジョンの娘、ヨンジュの叫び声はちょっと耳に悪い。本気で鼓膜が破れるんじゃないかと思って、私はついつい耳に指を突っ込んでしまった。劇場の音響、ちょっとやりすぎじゃないのお。しっかし、このヨンジュは凄い。いや、ヨンジュを演じる女の子、ウン・ソウちゃんが凄すぎるんである。この映画はこのヨンジュと物語のカギを握るファム・ファタル、ジニの存在につきる。この二人を見るだけでも価値があると言ってもいいぐらいなのだけれど、このヨンジュは……本当に幽霊が、いや悪魔がとりついているんじゃないかってぐらいのヤバさで物凄い。ねめつける三白眼、地獄の底からのようなおっそろしい金切り声。ジニの亡霊がとりついているから、ホジョンを罵倒するような、かなり凄いことを口走るんだけど、これが台詞の上っつらだけじゃなくて、本当にとりつかれて喋っているとしか思えない凄まじさで、正視できないほどなのだ。あんな恐ろしい顔した子供、私見たことない。ああ、こんな言葉じゃ、とてもこの子の凄さを表現できない。とりつかれキャラとして「エクソシスト」のリンダ・ブレアが引き合いに出されていたけれど、それより私が即座に連想したのは「オーメン」。あのまがまがしさ。本気でこの子が心配になってしまう……。
そしてジニ。この映画の撮影後、失踪してしまったことで、映画の話題性をより高めた彼女。実際彼女は役柄にかなり“入って”おり、ホジョンの首を締めにかかる場面の顔など、まるで土偶のように土気色した凄まじさで、あそこは本当に彼女自身じゃないんじゃないかと、何かがとりついているんじゃないかというぐらい、顔が全然違ってて、ゾウッとした。化粧っ気のないみずみずしい顔に、印象的な大きな黒目がちの瞳。サラサラのおかっぱ頭。かなりおぼこな女の子に見えるあたりが……だからこそ、ヤバいのである。こんな子に、手を出してはいけない。よーく見れば、彼女がそういう状況に置かれれば、イッちゃう女の子だというのは判るんだから。女子高生であるジニが妻子あるチャンフンに本気になってきて、彼がそれをちょっと恐れるような感じで家庭に戻ろうとした時、彼女は豹変する。つまりは彼の方はやはり……本気では、なかったのかもしれない。男はいつでもそう。女はいつでも本気になってしまうのに。女も気楽に楽しめたら楽な人生を送れるのかもしれない……いや、だからこそ、女なのだ。それこそが女のいいところだと思わなければ……あまりに辛い。
そもそもこの物語は、語り部であるヒロインのジウォンが書いた援助交際の記事が始まりとなっており、ジウォンはそのことで記事の当事者からストーカーまがいの脅迫を受けていた。この挿話はやや中途半端な形で本作に追走してゆき、正直消化不良の思いを抱かせなくもないのだけれど、チャンフンがジニに対して、エンコウまがいの気持ちで接していたんではないかと(お金を払ってるわけじゃないから、エンコウではないにしても)思わせる伏線かなと思うと、すべてはやっぱり男の本能的な身勝手さから来てるんじゃん、と思い、ジニもホジョンもあまりに気の毒なのである。ジウォンが次に担当を依頼されているのが怪奇現象の記事だというのは、伏線にしてはあまりにご都合主義に出来すぎのような気もするけど。
チャンフンにとってセックスの意味は、結局それだけの意味。意味さえも、ない、ただの行為。でもジニにとっては……。だってチャンフンったら、ジニに対して好きだとか愛してるとか言っている場面、ないじゃない?ジニが奥さんのホジョンに嫉妬しているのにも、まるで配慮していないし。仮にも不倫だの浮気だのしようってんなら、もう少し自覚を持てっての。
それにしても皆、なぜジニに同情的なのだろう?オフィシャルサイトのBBSでもそうだし、いわんや劇中のヒロイン、ジウォンですらそうなのである。こともあろうにこのジウォンはジニに同情して親友のホジョンを責めさえする。なぜ?真に可哀想なのはこのホジョンではないの?それともそう思うのは、年くったせいなの?ジニに同情的なのは、ジニがあまりに切ないからだ、という。どうしようもなく一人の男を好きになって、彼がいなけりゃ生きていけないぐらいに好きになってしまって、でもその思いが叶えられずに非業の死を遂げた、という……。でもそれはあまりに単純な愛だ。愛といっていいのかどうか危ういぐらいに、幼い愛。夫を寝取られたホジョンが懸命に冷静を装ってジニを説得しようとする言葉、「若い時には、年上の男性を純粋に好きになれる。でも男と女は違うの」この言葉が、確かに今のジニ、あるいはジニと同世代の子では真から理解できないのかもしれないけれども、やっぱり年をくうと、このホジョンの台詞こそが身に染みるのだ。それに不倫が切なかったり美しかったりするのは、それがどうしてもかなわない関係だからこそ、そのことを充分に判ってて判ってて、それでも離れられないからなのであって、ジニがホジョンに敵対心丸出しに「離婚してよ!」と言った時点で、その切なさも美しさも一瞬にして吹き飛んでしまう。そしてこの時点で同情はどうしたってホジョンに行ってしまう。
ホジョンのあまりに複雑な切なさときたらちょっとないと思う。だって彼女は夫に裏切られた時点で、多分以前のように素直に夫を愛せなくなったに違いないのだから。そして「誰よりもあなたのことが大好き」とまでに溺愛している娘のタネは自分ではなく親友の卵子であり、これまた娘を自分の分身として純粋に愛することなどできっこない。彼女の中でまるでらせん階段のようにぐるぐると愛や感情が絡まりあっていく。そしてあの、ジニの決定的な台詞である。「自分の子供を産んだことのないあなたには判らないわ」ジニは彼、チャンフンとの間の子供を宿しており、そして自分こそが彼を、そして彼も自分の方をこそ、真に愛しているのだと言い放つ。その切り札がこの台詞なのだ。
女の存在意義のありか、セックスの意味、恋愛の意味……そうしたものが、あまりにも残酷な形で提示される。ジニはセックスは恋愛に結びつき、だから、子供をはらむことの出来る女こそが愛される、という意識を持っている。それは非常に若くて純粋な気持ち。不妊症を抱えるホジョンにとって、そしてひとり立ちしていかなければならない運命の女たちにとって、この意識は苦々しくも、うらやましくもあるけれども、決してそんな単純に受け入れるわけにはいかない計算式。この台詞を言われてカッとなったホジョンにこそ深く深く同情するし、それだけで愛されると思い込んで、それゆえに狂気に陥ってしまったジニもまた少し、かわいそうに思う。
ふと気づくと、ホラー映画の定番として洋の東西を問わず登場してくるのがピアノ。他の楽器は、不思議と見当たらない。シンセとかギターとかって訳にはいかないのね、やっぱり(笑)。男が好きな曲だからと、懸命に練習して弾けるようになったベートーベンの「月光」は、いかにも怨み節を感じさせる。回想シーンで出てくる練習の時点ではいかにもぶつ切りのヘタッピだったのが、幽霊になってから上手くなったのか?愛してます、恨んでます、と言っているかのような湿度で迫ってくる。見たことないメーカー名のピアノがちょっと気になった。あれはやっぱり韓国製なのだろうな。
強い恨みを持っているせいなのか、なかなか死なない白目むいたジニと、長く長く伸びた黒髪がコンセントにつながっている描写……コンセントとは、これまたセクシャルだ……、あるいはジウォンが夢に見る、これまた長い長い黒髪の後姿でさざめ泣いている女など、ホラー的になかなか画になってて、秀逸。こういう画になり加減は実に上手いのだけど。そういやあ、死体を壁に塗りこめるっていうのって、ポーの「黒猫」風?確かにあらゆるホラーやミステリを研究、網羅しているって感じね。★★★☆☆
しかしこの城戸賞というのも……この脚本が受賞した時、掲載雑誌かなんかで、どうも選考委員の間で今ひとつ煮え切らないものがあったような覚えがあって、その記憶があったので今回の映画化で、あ、とも思ったんだけど、映画になった本作がどうもピリッとしないように感じるのは、そのせいなのか、はたまたこのユルいキャスティングのせいなのか。あるいは……。まあ、正直、棒たおし、と言いつつ実際の棒たおしの場面は今ひとつ盛り上がりと迫力に欠けるし(だって、マニュアルとして提示される大学の棒たおしシーンが迫力ありすぎるんだもん)。というか、棒たおしは、そこまで物語を持っていくつなぎのようなものに過ぎなかった、というのが、正直物足りない気もしたのだ。結局は、現代の複雑な家庭環境、許されない恋、限られた生の中でどう悔いなく生きるか、などなどの要素の、つなぎ。しかも、そんなにもちりばめているのは、ちょっと欲張りすぎるし、それにそれぞれが単純すぎる。それぞれ、もっと掘り下げられるテーマなのに、棒たおし、というゴールに向かって点在しているに過ぎず、もったいない感じがするのだ。
それにこの棒たおし、その、限られた生の運命を背負った男の子が、悔いなく生きたい、と思っての最後のきらめきだったわけで、やはりそれがあの程度で終わられるとあれれと思ってしまう。ま、というのも、この準主役とも言える不治の病を抱えた男の子、勇が、なかなか可愛かったもんだからさー。安易なキャスティングとか言っといてこれだもん、私。彼は全員出ているLeadのメンバーではなく、たった一人紛れ込んでいる?FLAMEの金子恭平君。ちょっとレッド吉田似の顔立ち?決して演技が上手いわけではないんだけど、何ていうのかな……雰囲気があるんだな。かなりクサイ台詞を明るく無邪気に言ったりして、聞いてるこっちは本気で赤面しそうになるんだけど、それが、このはかない顔立ちが明るく輝く、という妙に印象的な表情で何となくハマってしまう。このクサさがこの子のキャラであり、クサいと思って聞いていたら、実はこの子は本当に、本気で言っていたんだと判った時、ちょっとグッとくるものもあったりするのだ。うん。
だから、主人公の次雄役(谷内伸也)がねー。肝心のこの子がどうにもこうにも覇気がなくて。ま、人気者のアイドルグループの、その中の一番人気とかそういう理由でのキャスティングだったのかもしれない。アイドル映画にはありがちな話で、それに文句をつける気はないんだけど、ただこの役というのは、実は結構難しい内面演技を要求されるものなんじゃないのと、この子のあまりのもどかしい演技を見てて、思ったから。確かにこの次雄は現代っ子。心の中のことを表情に出さない、出せない子。しかしそれは彼の哀しさ。愛情や頑なな思いはその内面にたっぷり持っているのに、表現できないその苛立ち。具体的に言えば、不治の病を抱える友達や、想いを告げられない幼なじみ、あるいは両親の問題などをこの棒たおしにぶつけていくわけなんだけど、そういう内面の葛藤が、この子からは感じられないのだ。確かにそうした事象は物語として流れていくし、この子の中にそういう変化を想像(というより予想)出来もするんだけど、でも、見えないのだ。彼の中でそれがいかに消化不良を起こしているかが、全然。やっぱり、難しいよね、この役は。この子はその隠れた部分をちっとも感じさせてくれないんだもんなあ。
というのを対照的にヒロインである小百合役の平愛梨は、色気のあるたたずまいのせいか、そうしたものを見え隠れさせてくれるのだ。彼女、「ダブルス」ではこの上なくつまんなかったのに、彼女が成長したのか、かの監督が彼女の魅力を引き出せなかったのか……(おっと)。彼らの周りの女の子たちの中で(なぜか女の子少ないけど)彼女だけが違う、何か別の空気をまとっているのが、判る。確かに勇の言うように、彼女は辛い家庭環境の故に、この色っぽさを得ているのかもしれない。実際の年よりも早く、大人にならなきゃいけない切ない色っぽさ。それが彼女に早熟な恋愛をももたらす。彼女は担任の教師と恋愛関係にあるのだ。心のどこかでは年相応の男の子への気持ちも少なからず持っていながら、運命的な恋に身を焦がしている。彼女の中の、無理をして大人になった部分が、教師との恋愛も成立させたんだろう、と思う。しかしそれは、その無理がやはり切ないのだ。
小百合は次雄と幼なじみで、きっともっと小さな頃は無邪気に仲が良かったんだろうと思う。どこかお互いにぎこちなくなってしまう青春時代。それは次雄が彼女のことを想っているから、という部分も大きいのだが、小百合もまた、「小学生の頃は、次雄のこと好きだったんだよ」と彼に告げる。小学生の頃は、と言いつつ、そして確かに彼女は今、担任教師との泥沼の恋愛関係にありつつ、その淡い想いは今でも持ち続けているように思える。それはその恋愛感情とは別の部分で。この二人が自転車に二人乗りして小学校の校庭に到着、何を話すでもなくブラブラとしている場面はとても絵になる。彼女のそらんじるアルチュール・ランボーは少々理想的にすぎるけれども……それに「かっこいいでしょ」と言うわりには、彼女の朗読はヘタレすぎだし。
でも、二人はまだ10代で、確かに年若いのに、もう過去の無邪気な時代を振り返らなければいけない。人間は、どうしていつでも過去を思い返して苦い気持ちを噛みしめるのが好きなんだろう?
二人が一緒に通っていた小学校のほこりっぽい校庭。軽いステップを踏みながら、思い出を体の中に蓄積させようとしているかのような彼女(というのは、彼女がこの土地を去らなければいけないことが判った時に、ふと思い当たるのだ)。その彼女を自転車に乗りながら見守る彼。「棒たおし、頑張りなよ」そう言い、彼女はふと立ち止まって彼に軽くキスをする。「前祝い」と。彼は、「ふざけんなよ」、と言うしかない。この男の子特有の口下手さが甘酸っぱくも、切ない。
もうセックスも知っている彼女が、でも幼なじみのこの子にするキスは、まるで初恋のそれみたいにピュアなのだ。彼女のその複雑な少女性、大人の部分との二面性が外見にも現われてて、いい。彼女の独特の雰囲気で、彼の難アリの演技も助けられている。
ああ、それにしても、それにしても。この担任教師が三浦友和なんだよー!うう、双方でうらやましいよ。いや、やっぱりうらやましいのは彼女の方かな。だってだって、やっぱり友和さん、素敵なんだもん!こんな少女との恋愛もどこか退廃的な気分を残す素敵さで、もうドキドキする。いつもいつも退屈そうに、教室で金魚にエサをやったりして。彼の家庭とかは描かれないんだけど、そんな風にどこか倦怠期気味の中年教師が、この大人びた少女と先の見えない恋愛に陥るというのは、何か判る気がしてやたらとドキドキしてしまうのだ。彼は小百合とホテルに入ったところをビデオに撮られて、勇に脅迫されるんだけど(かわいい脅迫をね)全然取り乱さず、そしてどういうつもりだったのかと問う次雄にも、「好きだ。だから会ってる」と臆せずに言う。うう、うらやましいよー、くそお、言われてみてー!
結局、小百合はこの土地を去らなければいけなくて、それは棒たおしで盛り上がる体育祭の日。この教師は、去ってしまう彼女を追おうとして、車に乗り込み、エンジンをかけるものの、考えて考えて、エンジンを切ってしまうのだ。車の中でじっと動かずに背中を見せる彼の哀愁。ほおんとに、渋色っぽいんだから!
このかわいい脅迫というのは、一度は廃止になった棒たおしを復活させること。勇が提示してきたこの口どめの条件に「……それだけか」とちょっと唖然とする教師の反応に、うろたえる勇がかわいい。ホント、純粋というかなんというか、これで金でもとろうとか全然考えていない勇がカワユすぎるんだよなあ。かくして見事棒たおしは復活(はあ、随分と権力のある先生なのね)、勇と次雄はなかなか集まらないメンバーをスカウト含めてかき集める。総倒れの自転車を片手で引き起こしちゃう男の子を見つけておお、と感心する場面とか、このあたりのギャグはなかなか面白かったりするのだ。リズムもいいし。
その前、最初の募集ではぜえんぜん人が集まらないんだけど、その中でただ一人、いじめられっこの学がおそるおそるやってくる。彼は「僕、これぐらいしかやれないから」とこの棒たおしの頭脳になり、勇&次雄と、信頼関係と友情を育む。この学役の古屋敬多はなかなかいい味。彼もLead。Lead陣の中では一番良かったかな。いじめられっこのおどおどした雰囲気から、自分の得意分野に能力を発揮、水を得た魚となってイキイキしていくところ、そして最終的には殴られても蹴られても強くなる男の子が、ヴィヴィットに感じられる。
かくしてメンバーも集まり、打倒工業科を目指して特訓が開始される。この特訓場面は好き。微妙にイナカな町で、河川敷を使っての特訓というのが、非常にノスタルジーを感じさせてなんかきゅんとしてしまう。土手の上からオバチャンたちが差し入れを持ってくるのも、それを「かわいい女の子(の差し入れ)じゃないのかよ」とゴチる男の子たちも、お約束で。特訓と言いながら、そして部活よりキツイよと言いながら、何かもう、彼らやたら楽しそうなんだもんなあ。バラエティに富んだ特訓メニューが彼らを飽きさせないのか、まるで昼休みに仲間同士でじゃれあって遊んでいるみたいな楽しさ。
この特訓中、次雄は家族の問題に直面している。若い女と家を出て行ってしまった父親が戻ってきているのだ。父親は反省し、もう一度家族とともにやり直したい、という。しかし次雄はどうしても彼を許すことが出来なくて、でも子供の自分にはどうすることも出来なくて、大学には行かない、自分が働いて支えるとか、その程度の反発が限界なのだ。彼の気持ちはとても良く判るだけに、その子供の無力が哀しいんだよね。でも、彼はやはり、妹から言われるように、確かに、女の気持ちが判ってないのだ。妹は言う。「お母さんも、女なんだよ」そのとおり!浮気して一度はその若い女と出て行ったダンナでも、やっぱり好きなんだ……子供のためとか言いつつも、第一には彼を愛しているから。これはでも結構珍しい展開かもしれない。子供のためにと我慢して、仲の悪い夫婦が子供を言い訳にしてズルズル行く、という話はよく聞くけど。しかもこのお母さん、ダンナのことがやっぱり好きだっていう雰囲気がちゃんとあるから。口には出さないんだけど。やっぱり松田美由紀にはそういう可愛らしさが、あるんだよなあ。しかもダンナは平田満だ!うーん、完璧だわ。
で、あの今ひとつ迫力に欠ける、でも一応クライマックスの棒たおしが終わり(あの迫力のなさは、彼らの華奢な肉体のせいかもね)次雄のナレーションで勇が死んでしまったことがあっさり語られ(うっそお……そりゃ予想はしてたけど、それだけかい!)小百合もいなくなったこの街で、次雄は少しだけ大人になった。そんな雰囲気で物語は結末へと。死ぬと判ってて何故人は生きるのか。彼女からの問いかけであるその答えを、彼は「少しだけ、判ったような気がする」と小百合にあてる。青春のほろ苦さ、ってやつかな。★★★☆☆
私は……単純かもしれないけれど、やはり、今ブッシュ大統領が嫌い、大嫌い。一方でそのアメリカに追随する日本政府も吐き気がするほど嫌い。どうして言いたいことを言えないの。戦争か平和かという単純な問題なんだよ!って叫びたい。攻撃された時に守ってもらえるように、だなんて、なんて汚いの。その他いろんな利害関係が絡んでてアメリカにノーと言えない国ばかりで世界中が出来ているなんて、なんて哀しいの。武力を持たなければ、本当に世界は均衡を保てないの?それとこの銃の問題は同じではないの?すべてを単純に語れればすべてが解決するのに……。あるいはそうでなくても。戦争は過去のものになってしまえば、やっぱり戦争か平和かという単純な問題になることが、この映画を観れば判るのだ。いや、この映画を観なくたって、皆判ってる筈。現実に起こっている時だけ、そうではないと、したり顔で戦争を始めるなんて。
他国への侵略戦争、過去の大量殺戮を恥じること。その認識が、日本はとても遅かったけれど、何とか広がりつつある。でもそれが唯一ないのがアメリカだという感じがする。だって、今現在に至るまで、それをやめようとしないから。およそ自分とは何の関係もない国に首を突っ込み(利害関係は、あるんだろうけど)、意味のない殺戮を繰り返す。それを順を追って、ヒップな「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」にのせて振り返るというこれ以上ないシニカルな方法で紹介していく。こんなにもしていたのかと、驚く。なぜここにいつでもアメリカが介入する意味があるのかと。これをアメリカの人は本当に認識しているのか。世界中の国から嫌われていることを知っているのかと。
銃が当然のものとしてあり、スーパーマーケットで普通に売られているアメリカ。何と銀行で口座を作ると銃をプレゼント、なんていうキャンペーンまである。おいおい、その銃でこの銀行を襲えっていうんじゃないでしょうね、などと苦笑してしまう。監督はその銀行で口座を作り、カタログから銃を選び、手続きをする。書類には人種を記入するところがある。ナントカ系白人とか、そう書けばいいのかと監督は問う。銀行員はうなづいて、人種は大切ですから、と。人種は大切……?なぜ?その言葉がとてつもなく恐ろしく感じる。
日本は銃を持つことは禁じられているし、銃はヤクザとかそういうイメージがまずあるし、知識もないし。だから、やはり単純に銃があるからいけないんだと、それがあるから射殺事件など起こるんだと、思っていた。勿論、一方でまだまだ銃に対する単純な脅威はある。自衛のために持つのだと、銃を持つ自由があるのだと語るアメリカに身震いを覚える。だって、人殺しのための?とやはり思ってしまうから。自衛のために銃を持った時、その銃が、その弾が、誰か一人の人間を殺すことを考えないのかと思ってしまうから。銃を持つ自由なんて、あったって放棄する。そのことで撃たれて死んでも、それによって銃を持つことが何のメリットも持たないことを訴えたいと思う。平和ボケと言われたって、いいよそれで、理想だもの、平和ボケ、大いに結構!と。不安だけで人を攻撃したり殺したりするよりよほどいい。それで死んだとしても本望だとヤケクソ気味に思ったりする。
でも、銃保有率が高くても、事件が少ない国がある。それはアメリカのお隣の国、カナダ。驚いてしまった。あまりにも、意識が違うから。銃の問題の前にまず、カナダは家のカギを開けっ放しだというのだ。そのことにとても驚いてしまう。監督がそれを立証する場面が可笑しくて。住宅街で、ドアを叩いたりベルを鳴らしたり、ということをせずに、いきなりドアを開ける。そして「ホントだ」と驚き、中の人はおっとりと、あ、こんちは、何かご用?てな感じで。バーやカフェにいる人に今家にカギはかけている?と聞くとかけていない、という人が100パーセントというのにものけぞる。家にいなくても関係ないのだ。しかも、泥棒に入られた経験のある人も少なくないというのに、である。
そして、狩り文化がしっかり根付いているこの国では、銃の役割が狩りだと、当然のように固定されていて、人を殺すものだという意識がない。銃は慣れ親しんだものとして身近にあるけれど、アメリカ人が強盗撃退用に枕の下にこっそり隠していたりするのとはまるで違うのだ。銃を自衛のために持っているという意味は、自衛という意味は、人を殺すことと同義だということに気づいていないことが問題なのだ。銃自体だけの問題ではないことに初めて気づかせてくれた。このカナダの描写には本当にホッとさせられるものがある。「政治家も変わっている。“加害者の意見も聞くべきだ”などと言うのだから」と監督は紹介する。もちろん、これを“変わっている”と感じることこそが異常だという皮肉である。つまりは……アメリカにはそんな意識を持つほどの余裕などないんだということである。
しかしそれは銃や“黒人犯罪”の問題を異様にあおりまくるアメリカのマスコミにも問題があるのだと。福祉の問題とか、犯罪でも企業犯罪とかをとりあげればいいのではと提案するムーア監督。それをこんな風に、と監督主演で作っちゃうイメージフィルムが最高に可笑しい。大金を横領する人が、少額を盗む人よりも丁寧に、まるでVIPのように扱われることを皮肉り、それは確かに日本だってそうだな、と思い当たる。大気汚染は多くの人々の健康を脅かしているのにまったく関心を寄せず、銃による犯罪が起きたと知ると即座にマスコミが大勢集まるこの皮肉。これは日本もやっぱりそうだな……と思い当たる。しかし、カナダでは全ての人に影響を与える福祉の問題がごくごく当たり前に日常的に扱われ、人種のるつぼであるのはアメリカと同じなのに多人種に対する違和感や脅威は存在しない、というのだ。カナダのある街で起こった、滅多にない銃による死亡事件は、対岸のアメリカから来た男が起こしたものなのだと。本当に、こんなに平和なの?と思わず皮肉っぽく聞きたくなるほど。無論これは隣国であるアメリカとの対照において描かれているに過ぎないんだろうし、この作品中にも取り上げられる、「サウス・パーク」ではカナダはまた違った見方をされているみたいなのだけれど。でも、ムーア監督が取材したテレビ番組のプロデューサーは「引退したらカナダに住みたいね」と……それは皮肉ではなく、本当にそう思って言っているように聞こえてしまうのだ。
日本は、銃保有率は低いけれど、カギは閉める。都市部になるほど。これはひょっとしたら“アメリカナイズ”で危ない傾向なのかもしれない。だって、確かに昔はみんな開け放しだった。そうだ、そういえば「阿弥陀堂だより」でそうだった。典型的な日本家屋、風通しよく、カギなんて意識すらない。あの世界はちょっと理想的にすぎるのかもしれないけれど……だって、泥棒とか強盗とかいう認識が希薄どころか皆無だったんだもの。でも、住人に対する信頼が絶対で、あれってやっぱり、理想だ、と思う。カギをキッチリと閉めるアメリカ人たちは、隣人に対する信頼は口にするものの、隣人と住人というのは違う意識の元に語られているように思う。微妙な言い換えだけれど、やはり違うと。それは今の都市部の日本も同じではないのか、と思う。泥棒や強盗に入られることを想定する時、同じ建物に住んでいる人とか、近所の人とかはやはり考えない。この街に、あるいはちょっと遠いところでも同じく国に住んでいる人で、自分が認識していない人、という想定の仕方をやはり、しているのだ。見えない相手が脅威だと。この意識は……アメリカのような異常なまでの自衛に、その自衛が攻撃になる可能性を充分に含む危険性があるのではないか。
ブッシュ大統領もよく言うことなのだけれど、この映画の中のアメリカ人もやはり二言目には口にすること。もはや伝統文化?であり、でも最もこの異常な事態の原因になっているんではないかと思われること。それは、国民を守るために、家族を守るために。そういう言葉なのだ。それは……ということは、それ以外なら殺していいと、そう言っているように思えてしまうのだ。だって、その言葉の元に、それが自衛だと言って銃を持つということは、そういう意味にほかならないじゃないか、と。それは、さんざん外国で罪のない民間人を大量に殺してきたというのに、そのせいで今回のテロが起こったとも言えるのに、アメリカ人が殺されると、そんなことはなかったかのように、プライドを傷つけられたかのように、復讐をしようとする、その意識とまるで同じように思えるから。だから、怖いのだ。
銃による自衛、それは冷静な判断の元で行われているとは言えない。いわば、恐怖と不安で自衛している。この映画のタイトルにもなっている、コロンバイン高校での学生による銃乱射事件。そのあとに、アメリカはパニックに陥ったという。自殺してしまった彼らの動機が判らなかったから。問題を起こしそうな生徒をリストアップして、事件を起こしてもいないのに停学にしたり、やめさせたりした例が一つや二つではなかったというのだ。……銃による自衛が、同じ結果を招くことを、その銃がまるで関係なく不安だけで火を噴くことをどうしても想像してしまうではないか。そして、それは、まさに、今。何も起こっていないのに、起こりそうなところをあらかじめ攻撃しているのと同じではないかと。
コロンバイン高校銃乱射事件の犯人である少年たちが熱狂的ファンだったことで、あっという間に悪魔にまつり上げられてしまうロックスター、マリリン・マンソン。まさしくデモーニッシュなスタイルのロックスターといった感じで、外見で思わずおお、とひいてしまいそうになるのだけれど、彼がムーア監督のインタビューに答える、そのクレバーな姿勢に恥ずかしながら驚いてしまった。アウトローであるがゆえに、外側から眺めているゆえに、彼には全てを見渡す、公平な目が備わっている。恐怖と消費を煽るのがマスコミでありアメリカ、と冷静にひと言で表現できる彼と、こんな単純な理由で、それこそ恐怖と消費のあおりに踊らされてマスコミの言うとおりに彼を悪魔だと、それも自分から出た意見のように断罪するその他大勢と、一体どちらに物事が見えているかといったら、言うまでもないこと。私たちも大抵、この、その他大勢の側にいるのだ……恥ずかしくなる。彼の揺るがない素敵さに憧れる。
この中で、いささか単純な図式なのかもしれないけれども、銃社会の象徴として出てくるのが全米ライフル協会(NRA)。会長であるチャールトン・ヘストンをその組織そのものとしてとらえるのもやはり単純に過ぎるのかもしれない。でもやはり。この大俳優、あまりに影響が強すぎるこの著名な人がこういう意識で、こういう発言をまるで躊躇なくすることに、やはり脅威を覚えずにはいられない。彼は、銃を持っていると安心するんだという。インタビューを試みたムーア監督が、でもあなたは一度も襲われたことがないでしょう、強盗に入られた経験もないのに、と突っ込むも、それに対しては沈黙し、答えることをしない。しかも、「過去の白人が作った賢い法律によって銃所持が認められている」なんて言い方までするのだ。ショック。確かに彼は、どこか白人至上主義が横行していたような作品を多く生み出していた時代の映画界に身をおいていたけれど……。その上、「それに他の国に比べたらアメリカというのは人種のるつぼだろう?」という発言もする。それは、どういうことなの?なぜそれが、銃を持つ理由になるの?アメリカ人以外は信用しないっていうことなの?
ああ、でも。今の日本だって、まさしくこのヘストンと同じ意識なのではないのか。ヘストンが公然と言い、アメリカのマスコミが煽る、犯罪を犯すのは彼らしかいない、彼らは脅威だという黒人への差別意識。それは今の日本での、中国人犯罪とか言ったり、石原都知事の三国人発言などと、さして変わらないものがあるんじゃないかということだ。それは、その図式は、かつて自分たちが、自分たちこそが理不尽で残酷な行為をした人たちに対して、そんな偏見に満ち満ちた言い方をする、という部分までまったく同じだということに気づいて、ゾッとするのだ。それは、やはり報復を恐れる気持ち、自衛の気持ちなのではないかと思い当たってしまって……なんてことだ!自身アメリカ人であり、銃文化の色濃い土地に育ったムーア監督がこんな強烈な作品を生み出したようなことを、今の日本は決して、出来はしない。だって、自覚がないんだもの!こうしてこの映画を観て、だからアメリカは、などと思うことに快感を感じているんではないかと、だったら自分たちはどうなんだと、ここまで自国の汚点に気づいて、さらけ出せるのかと自答したら、今の日本は決して、決して、出来はしないのだ。ああ、でもこれカナダ映画になってる。このテーマでアメリカ映画として制作は出来なかったんだ。ムーア監督はアメリカ人だし、ほぼ全編アメリカで撮られているのに。
新大陸を“発見”し、いわば略奪の形で自国を得たアメリカは、もしかしたらいつでもおびえているのかもしれない、とも思う。彼らの自衛への執着は、常に自分たちを敵視している“人種”がいるのだという恐怖なのかもしれないと。そして自国のみならず、まるで関係ない国までどんどん征服して、とにかく強さをアピールしてその不安を払拭しようとしているのかもしれないと。強い国アメリカ。いつでもそんな風に自ら叫んでる。世界ナンバーワン。世界のリーダー。そう自ら叫ばなければ自信が持てないような国であるように思えてくるのだ。本当は、世界のリーダーである国なんて、存在する筈がない。国はそれぞれで自立した人間と同じ筈。なのに。
銃の事件が起こってから、銃が人を殺すことしかしないことにようやく気づく。自分の身の回りに起こってから。そうして銃排斥運動をようやく起こすアメリカ。起これば判るんだ、もっと銃が必要とまでは、いくらなんでも思わないんだと、ちょっとだけ安心するものの、それが起こらないヘストンのような人には永遠に判らないのか、と思うとやはり暗澹たる気持ちになってしまうのも事実。銃によって命が奪われること。そしてその銃の権利を主張する人がいること。ものも言えないほどの怒りで、気づくと涙が止まらなくなってる。けれども……平和ボケの私たちには、説得する術もないというんだろうか?
自衛、の言葉の恐ろしさに気づいてしまうと、やはり考えざるを得なくなる。日本の自衛隊が……いつか本当の軍隊に変わってしまうのかと。そしてアメリカの傘の下で身動きが取れない今の状態は、本当に、危ないのだ。
ついつい深刻に書いてしまったけれど、この映画の見え方はひたすら喜劇。お腹いっぱいにメチャ面白い、コメディなのだ。勿論シニカルたっぷりの喜劇だけれど。喜劇は時に悲劇よりも大きく強く訴える力がある。この作品はその点、まさしく200パーセントだ。★★★★★
そういやあ、この韓国映画に嫉妬、っていうの、最近は収まってたのになあー。面白さもひとめぐりした感じがしてて、でどれも超美人のヒロイン映画っていうのが定番で。そりゃ美少女や美女大好きの私としては喜んで観てたわけだけど、やっぱりそればっかりだとまたか、と思っていたのも正直なところで。さまざまなカラーの映画に見えつつも、結構王道にタガを外さなかったりするのも物足りなく感じていたところだった。それが、この映画にはそうしたそれまで感じていた韓国映画のワクをポーンと飛び越えたところがあって。つまり、ヒロインが超美人、じゃないのだ。フツーの女の子。フツーの女の子としてのリアル。着ているものもデロデロだし、この自堕落さがやたらリアルなのよね。太った親友とごちゃごちゃした文具店の一角でキツキツになりながら、ラーメン鍋をつついてるところなんか、その口の端からだらーんとのびきった麺がぶら下がっているところなんか、こういうせせこましいリアル、最近日本映画でもなかなかお目にかかれないし。
とか言いつつこのヒロイン、フツーのキュートさがあって、やっぱり可愛いんだけどさ。でもこういう可愛さは韓国女優の中では実に新鮮だなあ。だって、この無愛想な顔が似合う、っていうあたりの可愛さがね、イイのよ。無愛想な女の子、大好き。しかも親友はデブチンでブスのチェーンスモーカーでやっぱり無愛想で、二人が一緒っていうのが実にしっくり似合ってるんだもん。確かにヒロインのヒョンナムは可愛いんだけど、でもお似合いの二人(って、カップルじゃないけど)、なのよね。この二人はとっても仲はいいんだけど、仲悪いんちゃう?と時々思いそうになるほど二人して無愛想で、その辺が実に好きなんだなあ。だって、この親友のチャンミ、悪態をつきながらもヒョンナムのことちゃんと心配してて、きっちり救ってくれるんだもん。ヒョンナムの方が正義感に熱くて、犬泥棒を捕まえたらああして、こうして……と銀行強盗を取り押さえた女子工員に影響を受けていろいろと夢想するんだけど、実際にそれを実行したのはチャンミの方。あの犯人にかましたラリアットの素晴らしさ!いやー、拍手っすよー。
おっとっと、思わず先走ってクライマックスを言ってしまった。大体どういう話かっていえば、このヒロイン、ヒョンナムの前に、小市民的な男、ユンジュの存在があるわけ。でこの二人が主役の双璧。ユンジュは大学の非常勤講師とはいえ、臨月間近の妻のヒモ状態。教授になれるチャンスをものに出来ず、悶々としている。だって、賄賂のカネを用意しろったって、こんな彼にそんなカネなどあるわけないんだから。で、かなりの恐妻家状態で、この妻は甲斐性のない夫にいつもイライラしている……ように見えていたのは実はちょっと違ったのだけれど……。
こんな状態のユンジュはだから、ストレスたまって彼の方こそがいつもイライラ。マンションで聞こえてくるキャンキャンいってる犬の鳴き声に神経過敏になり、マンションで犬を飼うのは禁止なのに!とふと目にした犬を連れ去り……。ここから何度か繰り返される彼の犬に対しての暴挙ときたら、だって首吊りさせるわ、高層マンションの屋上から落とすわ、あるいは彼じゃないけど、殺して鍋にして食っちまうわで、すっげえ残酷で映画としてかなりヤバい描写になっていて、しかもその描写を逃げもせずに映しているのに、こちらもヤバいと思いながらついつい笑ってしまうのは、監督の術中にしっかりハマっちゃってるんだよなー。うぅ、ちくしょう。
この小市民的な男を演じているこのお顔、うーん、韓国男優特有のお顔だなと思いつつもなーんとなく見たことあるなと思ったら、「美術館の隣の動物園」のあのお方でしたか。この役はねー、コミカルに見えながらもかなりの難易度だと思う。だって、彼のやってることって、犬殺しだし、しかも妻のヒモになってるがゆえのイライラが高じての犯行であるわけで、決して決して共感を得られるようなものじゃ、ないんだもの。それなのに、彼に対しての嫌悪感とか、やっつけてやれって気持ちは、起こらないんだよね。それが凄い。これは勿論、監督の手腕もある。タッチというかカッティングというか、あるいは折々見せるキュートな画が、そういう感覚を起こさせないだけのセンスを感じさせるから。
で、マンションで犬を飼うのは禁止、とはいえ、可愛がっていた犬が消えちまったもんだから、ひとりの女の子が犬探しのポスターを貼る承認を得にマンションの管理事務所にやってくる。ここで無気力に働いているのがヒロイン、ヒョンナム。いつもいーかげんにダラダラやっているのを始終怒られているんだけれど、この事件に彼女の中に潜んでいた正義感が燃え始めるのだ。ユンジュとは後に彼の(というか、彼の妻の)犬が行方不明になった時に正式に?出会うわけだけれど、その前に、屋上から犬を落としたユンジュを隣の建物から双眼鏡で目撃した彼女は、ユンジュを猛然と追いかけるのだ。これが第一のクライマックス。巨大なマンションの中を果てしなく追っかけまくるその画を、引きの画で見せる、黄色の彼女が赤の彼を追っかける、ゲームのコマが動いているような、この独特のドライな可笑しさに、唸る。無機質なタテヨコがシャレて見えるなんて、凄い。その中でベタにも開いたドアに激突する彼女、っていうのも、実に思い切りよくぶつかってくれて、もう両手とか挙げちゃってくれちゃって。意外にこのドライさの中では予想してなかったから虚をつかれて大笑いしちゃう。うー、この監督さんのこういう画的なセンスがたまらなく好き。
画的なセンス、という話が出てきたついでに書いちゃうと、こういうキュートでユーモラス(コミカルというよりこっち。やはりセンスなのよね)な“画”がたっくさんあるから、そこがこの映画の魅力になっているのだ。だって、映画って印象に残るショットがナンボって部分があるから、それで記憶に残っていくものだから、それってすごおく大事なもんだと個人的に思ってるんで、そういう点でまさに100パーセントで、だからヤラれてしまったのだ(以下例)。
ユンジュがスンジャ(犬じゃ)をやる気なさそーに散歩させている時、消毒剤の散布が行われてて(ってあたりがシュールなのよねー)あたりは、そして画面もすっかり真っ白(画面まで真っ白にさせるのが、思い切っているというか確信犯なんだから!)、その間に犬がいなくなってしまう場面。
酔っ払ったヒョンナムとチャンミがフラフラ歩いてて、チャンミがサイドミラーをドロップキック!いきなりのその暴挙にこちらが目を丸くしていると、次のシーンでは二人、そのミラーを手にして電車で眠りこけているのだ。このメチャクチャなキュートさ。
まさに文字通りの五十歩百歩を描くシーン。ユンジュの妻が彼にクルミを割らせるシーンや、スーパーまでの距離をトイレットペーパーを転がして計るシーン。後者では最初にそれを歩幅で計ろうとしてあからさまにその歩幅が急速にちっちゃくなっていくユンジュにも爆笑。
マンションの屋上で切干大根を作っているババアは、うやうやしく封書でヒョンナムに、その切干大根を食べてくれ、と言い残す。おいおい、それが遺言かよ!ヒョンナムがこのババアを見舞いながら、ババアが吐くつばを受け止められるようにゴミ箱を移動するところもたまらなく好き。
犬泥棒を見つけ、勇気を振り絞って近づこうとするヒョンナムのバックに、彼女の心象風景のように突如現れる、黄色い衣装に黄色い紙ふぶきの舞う大応援団。なんじゃそりゃ!
ユンジュがヒョンナムに、実は自分が犬泥棒、犬殺しの犯人だったのだと告げようと、あのおっかけっこを再現して走り出すと、突然紛れ込む学生たちのランニングのシュールな可笑しさ。
むむぅ、本当に上手いのだ!
そして第二のクライマックス。ヒョンナムが夢のテレビ出演と市民栄誉賞をかけた(笑)壮絶なおっかけっこである。犬を鍋にしちまっていたのはこのマンションの警備員なんだけど、その鍋の匂いをかぎつけて住み着いていたのが、ちょっと精神に異常をきたしているようなアブない男。スンジャをさらったのはこの男で、屋上でこの犬を丸焼きにして食おうとしているところを、ババアの遺言の切干大根を取りにきていたヒョンナムに見つかってしまうのだ。この男、目か耳がきかないのか、あるいはやっぱり頭がどうも働いていないせいなのか、ヒョンナムがヒヤヒヤしながらスンジャを救出にかかっているというのに、どうも動きがニブい。どうやらヒョンナムがこの犬を救出しようとしているのが判っていないらしく、「そうじゃないよ、こうやって……」と犬のケツから鉄棒を刺そうとし(!!)彼女がようやくヒモをほどいてスンジャを横抱きに逃げ出すのを、追っかけて追っかけて追いついたエレベーターで「君の犬かい(首を振るヒョンナム)だったら、一緒に食おう」と……お、お前、判ってねー!しっかしこの追っかけっこの怖さ。だって、犬のケツに鉄棒を刺そうとしている男から逃げに逃げまくるんだから、これは怖いよ!非常階段は荷物が山積みで開かなかったりするし(ホント、非常階段に荷物を置いてはいけません!)。ヒョンナムの助けを求める絶叫を聞いたチャンミが猛然と彼女を救出に現れ、見事犯人にラリアット!チャンミ、最高!
一方で、夫婦のクライマックスを迎えているユンジュとその妻。最終的には結構泣かせてくれるのだ。あんなに恐妻家みたいに見えていたのに、実はこの妻は結構夫思いだったわけで。身重の身体でリストラされちゃって、その退職金のほとんどを夫が教授になれるために(つまり賄賂に)使ってくれちゃう。その一部の金で買ったのこそ、プードル犬のスンジャだったというわけ。妻は、今まで自分のためにお金を使ったことはなかった。夫と産まれてくる子供のためにだけ、頑張って働いていた。なのに理不尽なリストラに遭ってしまって、でもそのことを言えずに黙っていて、夫には何が何でも教授になってもらわなくちゃいけない。でもその前に少しだけでいい、頑張った自分のためにと犬を買った彼女の気持ちを考えると、何か泣けちゃうんだなあ。いい奥さんじゃないのと思っちゃって。
そして、ケーキの下にお金を忍ばせて、学長のもとへとユンジュを送り出す彼女。お金を忍ばせたから上に乗っているイチゴだけが入らなくて、ポッと取ってユンジュに食べさせるささやかな描写も何か可愛くて好きなのだ。学長を持ち上げるため、呑めない酒にグデングデンに酔っ払う彼に、このポストが空くことになったエピソードみたく、彼が地下鉄に頭を吹っ飛ばされたらどうしよう!?とヒヤヒヤするものの、次のシーンでは路上にグデングデンしてて、ホッとする。そしてあの夜更けのランニングが始まるのだ。ヒョンナムは彼、ユンジュこそが犯人だったと、気づかなかったのか気づかないフリをしたのか判らないけど、ラストシーンではユンジュは大学で講義をしていて、管理事務所をクビになったヒョンナムは行きたかった山へのピクニックにチャンミと共に出かけている。手鏡代わりのサイドミラーを持って。
男女で主役をそれぞれ担っていながらも、二人は恋愛関係に陥るわけでもなく、しかも共犯関係でもない、というスタンスが、また上手いのだ。完全に立場が違うし、それぞれの立場でのエピソードはそれぞれに満載に用意されていながらまるで分断される感じがなくて、スレ違う感じもなくて、二人がシンクロする場面は意外に少ないにもかかわらず、でもやっぱり二人の邂逅こそが面白い、というのが。
ボイラーマンの話してるあたり、ちと長えよとか思ったけど、これもまたマイペースなんだよなー、終わってみれば、そう感じる。この監督のこの動じなさは驚異的よ。ヤバいわ。★★★★☆
そしてその彼さえも凌駕するほどの圧倒的なパワーと豊かな熱演で、スクリーンから飛び出さんばかりのヒロイン、ケイト・ウィンスレットが圧巻だった。彼女、こんなに凄い女優だったのか、と開いた口がふさがらないほど。ああ、でも確かに考えてみれば、あの「タイタニック」に惑わされていたから、もちろんあれがヘタな演技とかそういうわけじゃなかったんだけど、あれだけの大ヒットで、しかも主役はスペクタクルな巨大船、のような映画だったから、役者の上手さとかまでにはなかなか気が回らなかったのだ。でもそれ以前までも、彼女はアーティスティックで、しかも生命力を感じさせるような映画に連打し続けてきて、そのどれもが高い水準だったのだということをようやく思い出した。そうだ、彼女の武器は生命力。たくましさ。「タイタニック」だって、それがあったからこそ数少ない生存者の役を渡りきったのだ。この映画では一糸まとわぬ姿も見せ、しかもその姿で放尿までするという凄さで、それが実に肉感的で官能的で蠱惑的である。今のガリガリとした女優の中で、彼女は太めみたいな見え方をしていたんだけど、それは大きな大きな間違いだ。この身体、印象派の絵画の裸婦のような、柔らかで弾力があって、それでいてピンと強いバネを感じさせるこの身体。これでなければ、ルースは演じられない。真っ赤な女物のドレスを着たハーヴェイ・カイテル扮するP・Jがそのむちむちとした足にすがりつくのも、この身体だからこそ画になるのだ。その肉体も、女優としての彼女の才覚。それも含めて彼女にこの役を引き寄せたのだ。
宗教、信仰。そして愛、肉欲。そうしたテーマをこの現代で描こうとする、それはまずかなりの勇気を要すること。純粋で美しい宗教、それへの信仰が信じられなくなっている現代。宗教といえば国家間の戦争の火種であり、新興宗教のカルトであり、政治や何かとからんで汚職やカネがつきまとう場になっている。でも、宗教の美しさ、日常に浸透した信仰の美しさは確かに存在した、いや存在しているはずであり、それを忘れ去ることが、人間としての何かを失うことへの恐れも確かにあるはずなのだ。宗教は千差万別、色んな形を持ってはいるけれど、皆基本的に生命の大切さと、他人への優しさや愛と、日々の総てに感謝することを説いているのだから。それを失うことは、人間として生きていくことの大事な部分をほとんど捨て去ることだといっても過言ではないのだから。
でも、信仰することがイコール洗脳だという意識が、現代の、特に都会社会を持つ部分には確かに、ある。都会生活では宗教や信仰がなくても生きていけるし、あるいは、そんなことを持つ時間などさけないというのが現実だから。しかも現代社会には実際にカルト教団による騒ぎが多発している。でもそれもまた、どこまでが本当で、どこまでがそれを拒絶する人々によって増幅されたものかというのも判らないのだけれど。
インドに行って、素晴らしい教えを受けたと、すっかり信仰心篤くなってしまった娘、ルースに対して、両親はじめ親戚一同も、こりゃ洗脳されたんだと頭っから決めつける。確かに彼女の熱狂ぶり……指導者であるババと結婚したいとか、常にサリーを身にまとっているとかは、まるでロック・スターにのぼせあがった初期症状のようで、すこぶる危なっかしいのは事実。実際、この時点ではロック・スターにのぼせあがった程度のことだったのかもしれない。でも実際それだけ、純粋な思いだったのだ。
こんな彼女を、“救う”ためだといって、洗脳を解く専門家の男が呼ばれる。このP・Jを演じるのがハーヴェイ・カイテル。黒のシャツの胸元を緩め、大きめのサングラスにスリムジーンズ、カウボーイブーツといういでたちの彼は、いかにもナルシスティックでうさんくさい男である。しかし彼は彼女を診て、三日間彼女を私に預けてもらえれば、洗脳から解いてみせる、と豪語する。実はちょっと不安材料はある。どうもヌケてるコーディネーターのせいで、アシスタントが不在になってしまったのだ。彼一人でルースと二人っきり、三日間すごすことになったのが、思いもしない展開の序曲だった。
当然のことながら、ルースは激しく抵抗する。彼女にとって、自分から信仰に入ったんだから、洗脳なんかでは断じてない。なのに、自分のことを信じてくれずに話も聞こうとせずに、一方的にビョーキだと決め付けてインチキくさい男に引き渡そうとする家族たちに、彼女はショックを隠せない。この時のケイト・ウィンスレットはまず序の口ではあるけれど、実に素晴らしいテンションを見せてくれる。家族に裏切られた、家族に信じてもらえない、自分を頭っから否定されてしまう、というショックを、たまらない涙顔と、どうしようもないもてあまし気味のジェスチャーによって全身で拒否反応を示してくれ、観客はすっかり彼女にシンクロしてしまう。実は観客である私たちも、やっぱり宗教や信仰やカルトに対しての恐れがあるから、むしろ家族の反応の方にこそ理解を覚えてしまうし、でもだからといって、それに“陥ってしまった”人の気持ちをこんな風に無下にしてしまう無粋さに疑問も感じていたから、そこに彼女のこの全身拒否反応を見せられて、その疑問がさらに増幅してしまうことになるのだ。しかし、この時点では私たち観客はまだまだ真実のかけらも見えてはいない。彼女が一方的に“洗脳”が解かれることにどこか疑問を感じてはいるものの、やはりそれが“洗脳”だと思っているからだ。それが傲慢だと気づくのに……いや、どこかで判ってはいるものの、それが傲慢だと言ってしまったら、カルトへの片棒を担ぐことになりそうだとか、そんな矮小な恐れの中で戦々恐々としているのだ。
結論から言えば、この時点ではやはりルースはせいぜいロック・スターへの熱狂とさして変わらないものがあった。その程度だから、洗脳が解かれるなんてことはなくて、やはり彼女の中では変わらずそのスターは好きであり、この“事件”が終わったあと、その単純な熱狂を、真のまっすぐな信仰へと深めていくことになるのである。その間に、この自信満々であった洗脳解きの専門家、P・Jこそが、自ら溺れていた“洗脳”を解かれる、という予想外の事態が起こる。砂漠の中にぽつんと建てられた小さな小屋で二人っきり、P・Jは、彼の中では完璧なプログラムによって、ルースの洗脳を解きにかかる。拒否反応を示しまくる彼女にかなり困難を極めたとはいえ、それもまた彼の中では予想の範囲内。カルト教団によって起こされた事件をまとめたビデオを見せられたルースは激しく動揺し、脱却は上手くいったかに見えた。しかし、彼女にはその間にすべてのことを客観的に見る目が備わっていたのだ。
ルースは、どうしていいか判らないと、混乱しているとP・Jに泣きつく。P・Jは、それでいいんだ、よく頑張った、と彼女を優しくはげまし、そこで一件落着かと思いきや……総ての衣服を脱ぎ捨てた彼女は、その混乱した心を静めてほしい、といったそぶりで、P・Jになぐさめを求めてくるのだ。この時点では、観客にも彼女のその行動は見えたとおりのように思え、それに逡巡しながらも応えてしまうP・Jに仕方ないかな、などとも思うのだけれど、これは彼女の演技。朝になるとすっかり冷め切って、兄弟たちとクラブに行き、男たちに身をさらす、なんていう自暴自棄な行動に出たりする。そんなルースをP・Jは危なっかしいと感じてほっとけなくて、いや、それは彼の中での言い訳で、二回目、三回目、と彼女の誘惑に負ける形で関係してしまう。彼女は時にあざ笑いながらも、しおらしく反省するようなそぶりも見せて、巧みに彼の肉欲を誘ってしまう。男性本意のセックスで果てるP・Jに、自分からセックスを教示したりもする熱っぽさなのだけれど、決まって朝には氷のように冷たく彼をあしらうのだ。「ガマンしてたの、演技よ」と。
こんなことを繰り返しているうちに、P・Jはすっかりルースに溺れてしまう。……ムリもない。ルースの、いやケイト・ウィンスレットの官能味ときたら、ボッティチェリのヴィーナスそのもので、若さの張りきった生命力と、しぼったら滴りそうなほどの果実の熟れ熟れを感じさせるのだもの。ルースに冗談半分で着せられた赤いドレスと赤い口紅でP・Jは完全にイッちゃったのか、逃げるルースにとりすがり、愛している、結婚しよう、二人でインドに行ってババに会おう、と懇願する。ルースはだんだん怖くなり、P・Jから必死に逃げる。ついにはP・Jはルースを殴り倒してしまう。彼はルースを車のトランクに入れ、いなくなってしまった彼女を探しているんだ、と迎えに来た家族たちに言う……もう完全に、狂気。当然のごとくルースはこんな彼におびえきって逃げ惑っていたのだけれど……。
しかし、救出に来た家族が捕えたP・Jを荷台に乗せ走り出すと、ルースは車を止めるように言い、荷台に乗ってP・Jをその胸に抱きかかえるのだ。ここまでは本当に本当に凄い葛藤で、その葛藤が存在していなければ、こんな愛の境地は到底考えられないのだけれど……確かに、これは愛の境地、なのだ。ルースもまた、このP・Jを愛してしまった。愛してしまったからこそ、ここに、この奇跡の短い時間に、“二人だけの真理”があったからこそ、彼女は、ロック・スターに憧れるような単純な信仰から、真の信仰へ一歩を踏み出すことが出来たのだ。それは、生活の中、日常の中で営まれる信仰。極めて、理想的でまっとうな。そしてその中で、ルースは彼女のことを初めて愛してくれたP・Jを今でも愛し続ける。P・Jは奥さんの元に帰り、平凡な日常に戻ってしまったのに。でもルースにとってそんなことはどうでもいいのだ。真の信仰を得た彼女にとって、愛をその心に持っていることこそが重要であって、見返りの愛など、必要じゃないのだから。ババと結婚したい、と言っていた頃と比べれば、これぞ真の信仰なのだと思う、まさしく。
それにしても、ケイト・ウィンスレット、である。思えばハーヴェイ・カイテルとは40近くの年の差がありながら、二人の愛の営みに何の違和感も感じないばかりか、彼よりも彼女が完全に上を行っているんである。ハーヴェイ・カイテルとタイを張るというだけでも凄いのに、それよりさらに上に行ってしまうなんて、凄すぎる。ハーヴェイ・カイテルは最初のインチキっぽさがどんどん崩れていって、果ては真っ赤なドレスのすそからすね毛だらけの足をのぞかせて砂漠に倒れこんでしまう、という凄まじさが圧巻。でも彼のその姿は、彼女への愛そのもので、涙モノなのだ。確かに一方的で、ストーカーそのもので怖いけれども、でも、ここまで徹底的に愛されるなんて、一生に一度もない、100人にひとりぐらいしかいないんではないかと思うと、やっぱり強烈に、うらやましい、と思ってしまう。恐怖を感じるほどの愛を、体験してみたいと思ってしまう。「六月の蛇」みたい、だな……。
こんな風に、現代社会においての宗教や信仰を揶揄するがごとく、それを象徴するような東洋宗教のイメージ映像はかなりの大げさなコミカルで、こんな風に描いちゃってちょっとヤバいんじゃないのと思うんだけど、それはあくまでそうした偏見のフィルターがかかったヤバさであり、確実に、確信犯的なんである。むしろそれは、そうした偏見や先入観を持っている側をこそ揶揄していたんだということが、最後にちゃんと判る構造になっている。最初から宗教や信仰心を賛美していたら、それこそうさんくさい映画になっていたであろうところを、実に上手く処理している。それでいて、最終的にどちらかに大きく傾くこともなく、宗教や信仰心も、人間の営みや時には愚かさも、どちらも人生の美しさとして印象に残してくれるのが、素晴らしい。そしてそれこそが人間であり、人生である、と。このバランスが判ってさえいれば、争いも愛も、総てが上手くいくのに、と。★★★★☆
今回はそれでも、いわゆる映画的な普遍的要素が組み込まれている。惹句にもなっている「小さな恋の夏休み」。白人で金髪、青い目、ソバカスのいかにもな子供らしさを持つ細くてちっこい少年、マックスが、夏休みにおばあちゃんのところにあずけられ、そこで耳にしたジプシーギターの音色に魅了されて、入り込んだロマ民族たちの居住区。そこで出会うエキゾチックな風貌の中性的な少女、スウィングとの、ひと夏の甘く夢のような楽しい時間。マックスは一方で、彼が魅了されたギターの使い手、ミラルド(演じるチャボロ・シュミットはジプシー・ギターの天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの流れをくむ、実際のギタリストなんだという)からギターの手ほどきを受け、彼らの音楽に深く魅了されてゆく。その中で今まで知られなかったロマの辛い過去を耳にし、彼らの生きていく道を知る。
マックスはギターを習いつつも、どうしてもスウィングのことが気になって、練習がおぼつかなくなることもあるんだけど、まあ、でもそれも実に判る、って気がする。彼が最初、スウィングのことを男だと思い込んでいたのが、川に入って衣服が濡れたところで女と判り、それだけでもかなり少年の心には衝撃が強かろうと思うし、彼の世界には恐らくなかった、彼女のその大きな黒い瞳に射抜かれたようになっているのが判るんだもん。スウィングの方はというと、マックスと一緒に子供らしく草原の中を走り回ったり、川にジャブジャブ入ったり、とにかくはしゃぎまくってて無邪気なんだけど、その流れでサラッとマックスの頬を舐めてみたり、自分のツバを彼の顔にたらしてみたりと、実に艶っぽいイタズラをする。それでもひたすらはしゃぐように明るく笑いさざめいているから、うっかり見逃しそうになるんだけど、こ、これってかなり濃厚な愛の行為である。華奢な子供同士で草むらの中を仔犬二匹がジャレあうようにゴロゴロと転がる場面に、うっかりおねいさんはハラハラするぐらいなんである(笑)。
この楽しい日々の中、おばあさんの家に帰って一人部屋の中で日記を書いている時、ふと思い出したのか、上半身脱いでいきなりハダカになって、ベッドの上やら何やらウワーッとばかりに(声は出さないんだけどね)暴れまくるマックス。なあんか、あ、判る、判る、楽しくて楽しくてしょうがない子供の頃って、こういう感じ!あ、でもハダカっつうのは、もしかしてスウィングのことを考えながらだったら、ちょっとヤバい感じもするけど(笑)。でも、このワクワクは判る。だって、謹慎中の家を抜け出す、なんていうことまでしちゃうんだもの。これは、子供の冒険心と、あの美しいスウィングが呼び出す、ということで、何か駆け落ちみたいな気分も感じさせてドキドキだし。抜け出した先は、ミラルドたちのパーティー。その準備の買い出しでふとスウィングが席を外した時、ギター友達でもあるスウィングのイトコの少年に、「君のイトコ、オッパイがあるだろ。男じゃない、女だ!」とマックス。そしてこの友達と二人してケタケタ笑いながら、ちょろまかした瓶飲料を続けざまにあおる。気分が高揚しているのか、しかしなんだか二人とも顔が紅潮してきて、オイオイ、そりゃ、酒じゃないでしょうね!しかしこのいかにも少年同士のイタズラっぽい盛り上がりが、イイんだよね。この少年はとってもギターが上手くって、右手でかき鳴らす練習をするマックスにコードを押えてやったりして、マックスは、彼にはとてもかなわない、僕はヘタッピだ、とつぶやいたりするのも、何となく練習をサボってしまう遠因だったのかも?でも、この異文化の少年、マックスにミラルドがギターを教える気になったのは、彼の中にそれなりの理由があったのかもしれない、のだ。
彼らマヌーシュと呼ばれるロマ民族たちは、書き文化を持たない。記録を書き留めるということをせず、音楽にしても何にしても全てが耳と心(記憶)で伝えて行く。当然彼らの音楽には譜面などというものは存在せず、ミラルドは耳と心でギターを弾け、とマックスに教え込むんである。ミラルドはだから、蓄音機に耳を傾けてギターをサラって頭と指に叩き込み(部屋でこれをやってると、女たちのうるさいおしゃべりに中断されちゃって、外に出ると列車の轟音にさらに中断されるミラルド(笑))譜面におこすことなどしないし、仲間たちも皆、そうである。でも文字を持たないことが、例えば劇中でも描かれているように、書類などの読み書きが出来ないことから、彼らの生活を困難なものしている。つまり、彼らは不当に“見下されている”のだ。もともと旅から旅への放浪の文化を持つ彼らが、今では定住化し、こんな風に書類のやり取りとか福祉とか、そういう問題にも直面しているんだけれど、なぜ、彼らが放浪の文化を捨てざるを得なくなったのか。それは、あのホロコースト。ただでさえ決して数の多くない彼ら民族の多くの人たちが、ナチによって命を落とした。それ以降、社会に順応するために、彼らは放浪の文化を捨てざるを得なくなった。放浪こそが、彼らの文化の根本、命綱だったはずなのに。ミラルドは根っからのジプシー。いつかはかつてのように旅に出るんだ、とマックスに夢を語る。しかし、その願いはかなえられることはない。
それは、ミラルドが突然の死に見舞われてしまうから。死者のことは口にしない、遺品は全て焼く、という文化を持っている彼らは、ミラルドのトレーラーから何から、全てを焼き尽くす。この、死者のことを口にしない、という文化が、ホロコーストでロマの人たちが受けた悲惨な過去が知られず、封じ込められたのだという。その方法が彼らの文化なのだと判っていても、監督はそれを言わずにはいられない。それが監督の責務なんだから、と。劇中でおそらくこれが世界に向けて初めての、ロマ民族のホロコーストによる受難の歴史を語る老婆は、ここだけドキュメンタリーのごとく、彼女の喋るのにまかせたという。この、語ってくれる人を見つけるのにも相当苦労したというほど、彼らの死者を語らない文化は根強いのだ。でも、それは、死者を未練によって現世に縛りつけ、天国にのぼらせないことのないように、との願いにも思える。それだけ、人が人を愛しているんだと。死者を哀しんではいけない、いつまでも天国にのぼれないから、という思想は、ほかでもどこかで聞いた覚えがある……。
それにしてもこの演奏シーンの素晴らしさはどうだろう!確かにこのシーンだけを見せたかったんじゃないかと思うほどの、まるでその場に居合わせているような奇跡的なこの臨場感は!トレーラーの中にぎっしりと、20人のミュージシャン。ギターあり、バイオリンあり、コントラバスにパーカッションにクラリネット!このホーンセクションのカッコ良さときたら、たまんない。映画だということを忘れて、まるでライブのさなかに放り込まれたみたいに、知らずに体がリズムを刻んでしまう。何の楽器でも、いいんだね。まるで、厭わない。それはまるで、どんな土地に移住しても、その文化を柔軟に取り入れ、溶け込み、そしてその土地の人たちを逆に魅了してしまうような彼らの文化そのものなのだ。こんなノリノリの「黒い瞳」、初めて聴いた。……でも、「演奏すると、警察がくるよ!」と……このあたりには、迫害され続けてきた彼らの歴史と、そして都会的、文化的な生活をどんどんカン違いしている現代の人間の浅はかさを思い知らされ、覚えずクラい気持ちになってしまったりも、するんだけれど。
彼らが、音楽学校?の女性たちに彼らの音楽を教える場面がある。いかにもクラシックをやりそうな女の子が、ミラルドの指導でみるみるノリノリのバイオリン(ノリノリの、バイオリン!だよ!)になり、ミラルドは「いいね、ノッてきた、スウィングしてる」と自分のギターと調子を合わせていく。彼らの前には譜面はなく、ミラルドは彼女に言葉とハートで教えていく。まさしく譜面の音楽ではなく、耳と心の音楽なのだ。他の仲間たちは、歌を教えている。ここでも当然、譜面などない。こまかなノリのニュアンスを身振り口ぶりで教える彼らの身体描写は非常に豊かで、これこそが表現の原点、という気がする。つまりは、彼らが持たない、いや持つ必要のない読み書き文化というものが、豊かな三次元の表現を二次元に引き下げてしまっている、という気さえ、するのだ。……そう感じてしまうのは、言葉の文化を育ててきた国の民族としては、ちょっとツライところだけど、彼らの表現力はまさに圧倒的で、そして先述の死者の魂を思うがゆえの伝承も徹底的で、それには口をはさむ余地など、ないのだもの。
それにしても、この歌を習う女性たち、ね。教える彼らはその前の場面では「女だけのコンサートなんて」とか「音楽は男の仕事だ」なあんて言っているんだけど、この女性たちがスゴいセクシーおねいさんばっかりで。ノースリ、ミニのワンピースからダイナマイトな太ももや二の腕がバーン!バーン!でもんのすごいの。でもその中に一人、可憐な少女がいて、天上の歌声を聴かせ、彼らは聴き入ってしまうのね。すっごい対照的なやり方ではあるけど、女性を賛美してくれているのかな。
その美しい女性、となる成長過程にいるスウィングは既にしてもはや美しく、いくら中性的といっても、最初にマックスが男と間違えたのが私には不思議に思えるぐらいなんだけど。絹のように柔らかい巻き毛、吸い込まれるような大きな黒目がちの瞳。マックスが真っ先に覚えた曲が「黒い瞳」だというのは、さもありなんなのだ。しかもこの名前、スウィング。きっと、ミラルドが、もっともっと自由に、かつてのように自由に、と願ったのだろう。しかし彼女は、ジプシーだけれど、定住してからの生活しか知らない。「じきママの迎えが来て、一緒につまんない旅行に行かなきゃいけない」とグチるマックスに、「私はずっとここにいて、ほかに行ったことなんかない」と言うのだ。それは、彼らジプシーの文化の根幹を揺るがすことで……今では移住できなくなった、しなくなった、ではなく、移住したことがない、放浪の文化を継承できなくなっている、というのが。クルマ社会になって、飛行機もバンバン飛ぶ時代で、つまりはちょっとオカネがあればどこにでも行ける時代で、ジプシーの文化としての放浪が、浅はかな移動だけの裕福な旅行などにフミツケにされて、不当に見下されて……監督のそんな憤りが、この短い子供同士の会話に込められている気がするのだ。
スウィングとマックスは一緒に、ミランダに教えられたおまじないをする。石を積み上げた輪の中に、花と米と塩を散らすと、愛する人の夢が見られる、という。なんだか真剣にその石を積み上げているマックスをよそにスウィングは、ホラ、見つけたよ、とハリネズミをその手に乗せている。「おびえて丸くなってる。可哀想だから、逃がしてあげよう」とマックス。まるうくなって頭を隠してトゲトゲしているさまも、二人が去った後、画面の手前でこのおまじないの石のところにとことこ歩いていく動きも、ミョーにカワイイこのハリネズミ。そしてマックスはこのおまじないが効いて、ちゃあんとスウィングの夢を見る。草原の中を柔らかな髪を風に遊ばせて、彼の方向に走ってくるスウィング……。
マックスは、「ジプシーの女とジプシーじゃない男が結婚することって、ある?」とミラルドに問うたぐらい、つまりスウィングと結婚したいと思ったぐらい、彼女に恋した。でも、結局は子供の力ではどうすることもできなくて、ひと夏の楽しく甘やかな時間は終わりを告げる。マックスを迎えに来た母親はせかせかと携帯電話に出て、息子を乗せてアッサリ車を走らせる。子供の無力と大人の無神経を感じずにはいられない。別れの前、マックスはこの楽しいひと夏をこと細かに書き綴った日記帳をスウィングに手渡す。でも、スウィングは、「私は、字を読めないのよ」と……それでも受け取りはするのだけれど、ラストシーン、家に帰った彼女はその日記帳を外の地面に置いたまま、ドアをバタン、と閉めてしまうのだ。いつもジャージみたいなカッコしていたスウィングが、マックスとの別れの時だけ、スパンコールのついたサマーニットにフレアスカートのいでたちだった。マックスはまるでそれに気づいていないかのように、行ってしまった。残されたのは、二人の根本の違いを決定的にする一冊の日記帳。これじゃ、ホロ苦すぎて……。
「文字の文化と口承の文化という違い」その結末は、こんなに切ないもの?文字文化にドップリ漬かっているこちらとしては、辛い気分にさせられてしまう。イジワルなんだから、ガトリフ監督ってば……。★★★★☆
学校といえどひとつのクラスしかないから、その中にはまだまだ赤ちゃんと言っていいぐらいの小さい子から(だって、3歳からいるんだというんだもの!)中学前の11歳の子までが一緒に学んでいる。遊ぶときも一緒だから、大きい子は小さい子の面倒を見ることが自然になってくる。そう、こんな場面が印象的だった。初めて親から離された3歳の男の子が、すっごい不安そうな顔をしてママに会いたいと泣き出し、ママ、ママと連呼して止まらない。最初のうちはロペス先生が「ママは後で迎えに来るから」とあやしているんだけれど、この子は一向泣きやまず、先生は音を上げた形で(あくまでも形)子供たちにこの子の面倒をゆだねるのだ。そうすると子供たちはそのいきさつをじっと見ているから、同じようにマネしてこの子を懸命になだめようとする。もちろんそう上手くはいかないんだけど、でも辛抱強く試みる。
ああ、いいな、こういうの、と思う。今の日本の子供たちに欠けているのはこういう部分なのではないのかな、と思う。クラスは学年ごとに分けられてしまっているし(それこそ日本も昔は、やはりいろんな年の子供たちが入り乱れて学んでいたんだもんね)少子化で兄弟のいる子供たちもぐんと少なくなっている。つまり、子供のうちに目下の子の面倒をみる習慣がつかなくなっているのだ。自分より弱い存在がいるということ、その存在を守ってやらねばと思う気持ち、そういったものが、明らかに現代社会の特に子供たちには少なくなっている。いや、子供たちばかりではないかもしれない。そういう子供時代を過ごしてしまった大人たちもまた、そういう気持ちが欠けている気がしてならない。現代に起こっている少年犯罪や大人による犯罪の中に、そういうことが原因になっているんじゃないかというものは、次々に思い浮かべることが出来てしまう。
あるいは目上の者に対する態度もまた、そうである。おひげのハンサム、このロペス先生、結構冷静で、厳しい。感情を排除している感じは生徒たちそれぞれに平等ではあるけれど、ちょっと冷たい感じも受ける。つまり熱い感情で動く“金八先生”型から遠く離れており、生徒たちとなあなあで仲良くしているような、そんな“友達先生”ではないのだ。もちろん生徒たちはこのロペス先生が大好きに違いないけれど、でもちゃんと尊敬する大人としての先生、というのが大前提になっているからこそなのだ。これもまた、現代日本に欠けている気がする。もちろん体罰だなんだというのは論外だけど、でもそういう反発に過敏になりすぎて、子供に威厳を保てる先生が少なくなっている、それこそ無難な“友達先生”が多い気がするのだ。このロペス先生は教師生活35年の大ベテランだからそりゃ当然なのかもしれないけれど、彼は子供と同じ目線、というよりは、大人として培ってきた知識や教養を子供のためにフルに使っている、という点で、子供を大いに尊重しているのだ。
例えばこんな場面……父親が病気になってしまった子供の話を、注意深く慎重に聞いてやる先生。その子は気丈に話していたんだけれど、先生がしんしんと聞いてくれるものだから、気持ちがゆるんで泣いてしまう。先生は、静かにその哀しみを受け止めてやり、家族全員で支えてやれるんだと、病気は人生の一部だからと、滋味のある言葉で励ます。
自分の知っていることはすべて子供に教える、捧げる、その精神は、このロペス先生もまた、無限の可能性を秘めた子供たちをきちんと尊敬しているのであり、生徒と教師の互いに尊敬しあう気持ちが、奇跡なのだ。
このロペス先生、生徒のいいところも勿論言うけれど、それと同じぐらい欠点もはっきりと指摘することにドキッとする。それも本人に直接、まっすぐに注意する。これは今の日本だったら親御さんが凄い反発しそうだな、と思い、今の日本の子育て事情はやっぱりあまりにも異常事態だな、と思う。しかも素晴らしいのは、この親御さんたちもロペス先生を子供たちと同じようにとっても信頼しているってことなのだ。子供との距離に悩みを抱えている母親は、それを先生に打ち明け、打ち明けることで気持ちが軽くなる。生徒たちと全く同じなのだ。しかも、学校に過度に預けっぱなしにするのではなく、あるいは逆に学校のやり方を信頼していないわけでもない。家庭では家庭でちゃんと子供を見て、勉強も家族全員で、時には親戚まで巻き込んで見てやる。凄いな、と思う。だって今の日本って、塾と学校の役割の話ばかりになってしまっているから。こんな図なんて、それこそ何十年前の話だろうと思うから。でもやっぱり、これこそが正常に違いないのだ。だって学校に行って、帰ってきたら夜遅くまで塾に行って、そんなことやってたら、一体いつ家族と顔を合わせ、話をし、信頼を深めると言うんだろう?家族の意味や、一緒に暮らしている意味がそんな風にどんどん失われているこの異常事態に、誰もが気づいているはずなのに。
でもこのロペス先生だって、完璧ではない。このじっと見つめ続けるカメラはそのあたりもしっかり切り取ってくるので怖いぐらいである。勿論大ベテランのロペス先生、生徒の言い分を平等に聞こうとする粘り腰はさすがである。ケンカばかりしている二人の子供から事情を聞く時、口達者な子の方がどうしても有利だけど、口の重い子の方から粘り強く言葉を引き出すと、「だって、僕を侮辱するから」としぼり出すようにその子が言い、その一言は口達者な子よりずっとずっと重いのだ。この場面、言い出せなくていつも不利な立場に追い込まれていた子供時代を思い出す人がたくさんいると思う。ロペス先生のような先生だったら良かったのに、と。
でもそれはこんな風に成功している時とそうでない時があるのだ。
いつも落ち着きがなく、でもくじけないチャーミングなジョジョという男の子がいる。本当にこの子は可愛くて、たくさんの子供たちの中でも一番に目立っていて、ロペス先生を差し置いて主役ではないかと思うほどである。このジョジョ、子供たちが外で遊んでいる時、ふとした拍子に突き飛ばされてしまう。確かに、ふとした拍子としか言いようがないというか、この場面を客観的に見ているこちらとしては我を張っていたジョジョにも多少なりとも原因があったんじゃないだろうかと思ってしまう。でもまだまだ小さい子であるジョジョは泣き出し、他の子とともにすぐに先生に言いつけに行ってしまう……正直あまり同情するに値しないな、などと思う。で、ロペス先生はこの場面では先述の二人に対してとは違って、突き飛ばした子供にそれほど根気よく理由を聞かず、そういうことをしたらダメだと諭すのである。ロペス先生は相変わらず冷静だし、間違っているとも思えないんだけれど、でもこの場面にはやっぱりどこか、すっきりしない部分は残る。やはりジョジョだからなのかな、と思うし。でもこういう経験もまた、子供たちを慎重に、思慮深く、育てるのだとも思う。やはりロペス先生だからこそなのだと。
ちょっと納得いかないな、という部分は、引っ込み思案のナタリーに対する諭し方にも感じる。勿論、ロペス先生はとても親身になってナタリーを心配し、彼女もまたロペス先生を信頼しているんだろうっていうのは判るんだけど……。でも「自分の世界の方が(他人と話すより)好きなのか」なんて聞き方はちょっとあんまりじゃないのかな、と思う。うーん、それは多分、ナタリーを見ていると、それこそ子供の頃の自分を思い出してしまうせいかもしれない。ホント、私もあんな感じだったって気がするもの。間違ってもジョジョタイプではない。あんなふうに先生にまとわりつくことのできる子をうらやましく思っていたタイプ。でも、“自分の世界”を持っている人は、後々それが大きな自信や武器に絶対なるし、それによって大成する人だってたくさんいるんだから(あー、私も大成したかった)。ロペス先生は彼女を、“どんな生徒も平等に、見捨てない”という思想のもとで処している感じがちょっとするというか、ロペス先生のようなタイプはナタリー型の人間を真に理解することは出来ないというか。それが悪いっていうんじゃ決してなくて、それでもとにかく対話を大切にするロペス先生の存在こそが重要であることは無論なのだけれど。難しいなあ、ナタリーに関するところだけは何か引っかかってしまうんだ。だってナタリーは口が重いなんてもんじゃない。それこそ一言も出ずに涙しながらうなづくだけなんだもの。彼女の気持ちが想像できてしまうだけに、ちょっと辛いシーンだった。
そうなんだ、ジョジョはやっぱりスターなんだよな、このクラスメイトたちの中で。でもやっぱりやっぱり私は、こんなナタリーや、算数が苦手ででも地道な頑張りやさんのレティシアなんかが気になってしまう。レティシアは外見もすっごい美少女。何度聞かれても同じく間違った答えしか言えなくて、でも一生懸命一生懸命考えて考えて、その真面目さ真摯さがたまらなく胸をうつんだなあ。そして一人アジア系で目を引くマリー。この子は行動的というかなんというか、おしゃまでなつっこくて首突っ込み型で、ジョジョとはまた違うタイプでポジティブ、しかも強くて面倒見が良くて、なあんか、たのもしいのよ。嬉しくなっちゃうなあ、同じアジアの人間として、白い肌の子供たちの中でキラキラ輝いている彼女に。
同じ形態の学校は、世界中にたくさんある。フランスだけでも400はあるのだという。日本にもたくさん、あるだろう。そしてそれぞれにこんな風に素晴らしい先生や、素晴らしい子供たちもたくさんいるだろう。でもそれを映画作品に刻み付けることが出来るのは、やはり奇跡。一体どうやってカメラを向けていたのか……カメラの存在が信じられないのはフィリベール監督作品の特長であり魅力であるけれど、繊細な感情を持つ子供たちに対するそれは、まさしく奇跡。★★★☆☆
それに漫画のキャラは、実写にした時に、それらしい画としての見え方と台詞だけではやっぱりその魅力を伝えきるのは難しい、んではないかな。そう、観月ありさ、悪くはないんだけど、いいとも言い切れない。予想できる範囲での、平均的な演技。この、つながっていかないな……という作品世界のリズム自体は、でも、もしかしたらこの阪本ワールドとしては変わっていないのかもしれない、とも思う。ただ、その時に、その中で演じているのが「顔」のヒロイン、藤山直美ほどの上手さと存在感を持っている人じゃないと、その世界に吸いつけられるまでには行かないのかも。観月ありさは恐らく……原作のキャラに、負けてる。スターである彼女が、ち○こだの、ま○こだのと叫ぶのはちょっとおお、と思うけど、その程度で。
「ここは関西のようで、で、ないような、どいつもこいつもの水平島の、ウラ港」
そう紹介されて始まるこの物語は、時代もちょっと昔を思わせるような、皆一様にビンボーで、ビンボー暇なしというよりはビンボー特有のタイクツな時間をゆらゆら生きているような世界。いや、確かにビンボー暇なしなんだろうし、なんだかんだと仕事をしているところも描かれなくはないけど、やぱり何だか適度にタイクツな空気を漂わせている。
こういうところにも感じる、どこか不条理なユーモラスも、独特のリズムも、間合いも、そして、なんといっても、どっこい生きている、というたくましさも、確かにそこにはあるんだけど……上手くふわりとつながっていかない気分。ある種の懐かしさ、この寂れた店先とか、アコーディオンで奏でられるオクラホマミキサーとかが、上手く、流れていかない。点景、なのだ。それはやはり、キャラが、漫画の場合は長い時間をかけて醸成されるのが、映画ではそうはいかない、そのつながりのギャップにあるんだろうか。
漫画的なキャラクターたちを実際の生身の人間に演じさせた時に、そのユーモラスをどう残すか。本当に、これは意外に難しい作業なのだな。そういえば、今テレビドラマでは映画以上にやたらと漫画原作がもてはやされているけれど、もしかしたら、これに関してはテレビドラマの方が合っているのかも知れない。一回ごとに区切られるテレビドラマなら、一本の流れをそれほど気にすることもないし、もっとゆっくりと、そのキャラを徐々に見せていくことも可能だろうと思う。でも、ここでは、登場人物たちは、確かにみんなとってもユーモラスなんだけれど、散在する、といった感じがどうしてもしてしまう。猫ばあと呼ばれる、実は子供をたくさん作っていたホームレスの女性……彼女の葬式に、里子に出された子供たちが、「そういえば似ていると思った」「食うのに困らんように、食べ物屋にばかりもらってもらったんだな」と馳せ集まるところなんかはちょっと面白かったけど、その他は……。
まずい中華料理屋、その店先で枝毛を抜いているのか、いつもぼけっと座って髪をいじっている女の子、京都の貴族と称される、お坊ちゃん風の覇気のない呼び込み屋、何度も刑務所に入っている「犯罪者になりきれない」青年、その青年を訳もなく逮捕しちゃう警官、ビンボー兄弟に「入れ!」とただ風呂させてくれる銭湯のおばちゃん、などなど、ぞくぞくと出てくるキャラたちは、うーん、微妙なんだよなあ。漫画では確かに面白くも切ない人物たちなんだろうけど。もったいない。ひとつひとつ掘り下げられる感じがしなくって。それこそ「顔」ではその点もう少し丁寧だったような、気がするな。それは、メインのキャラであってもそう。例えば、買い物に行くと言って半年も帰ってこなかったとか、ちょっとご近所に挨拶に行くと言ってやっぱり何日も帰ってこないとか、そういうトンデモな母親の面白さが、一発のト書きで落とせる漫画とは、やっぱり違うのだ。でも別に気にすることはないのかもしれないんだけど。その通り過ぎるキャラのふっとした面白さを単純に見ていればいいのかもしれないけど。だって、一方でちゃんと掘り下げている人物もいるわけだし。
その、掘り下げているのは、子供二人のうち年長の方である一太に、生きていく術を教えるチンピラのコウイチ。一太は、いつもいつもフラフラと家を出て男のもとに行っている母ちゃんや、突然やってきたお姉ちゃんなどには頼りたくない。一人で生きていきたい。男になりたい、と思って、このコウイチにいわば弟子入りした。ほとんどいたぶりではないかと思うぐらい一太に厳しくウラの仕事を教えるコウイチは、しかし彼もまた下っ端であり、一方で、このコウイチに使われているオッチャンとその家族がいたりで、本当は、純粋に一人で生きていくことなんて、出来ることではないのだ。でも、この一太のまっすぐな、そこだけは子供らしい思い込みは、けなげで。見え方としては、このふてぶてしい一太よりも、弟(本当は甥、だな)の二太の方が、常に目をしばたたかせている、いかにも頼りなげな、抱きしめたくなるぬいぐるみチックな子で、けなげさを体全体から漂わせているんだけれど、どっちといったらやっぱり、一太、なのだ。
彼は、この小さな弟と、たった二人で生きていかなければならなかった、いつでも。あやしげなドリンクを売っているさびついた自販機の下をさぐって小銭をせしめ、革靴なんか誰もはいていないこの街で靴磨きをくわだてたり、とにかく、何とか、何とか、生きてきた。でもそこに、母親が連れて帰ってきた“新しいお姉ちゃん”かの子。彼があんなに苦労して得ていた生活のためのお金を、彼女はフツウに持っていて、家庭の味ってやつの食事を作ってくれ、果てはおやつのケーキまで買ってきてくれる。それを二太なぞは単純に喜ぶのだけれど、今まで自分の力で必死に自分とこの弟を生き長らえさせてきた一太が面白くないのは、当然。一方でこのキレイなお姉ちゃんが気になって、だからこそ彼女に食わせてもらうのが複雑であることも。姉ちゃんのま○こで食わせてもらってる、だなんて、その意味がはっきりとは判ってなくても、やっぱり小さな二太とは違って、普通じゃない仕事だということぐらいは、察しがついているのだ。
でも一太だって、まだ充分、こんなに小さいのに。一太は苦労しているせいか、何だか色んなことが判っちゃうのだ。母親が男に貢ぐために家の権利書を売ってしまい、彼ら三人は家を追い出されてしまう。そしてかの子の借りたアパートに引っ越す三人。その時かの子に、「保証人は、どしたん」と聞くなんて、そんなこと、この年で気づいちゃうか……それだけで、この子が何だか切なくて。
ピンサロの仕事から帰って、靴を脱ぐこともままならないまま、倒れこんで寝ているかの子をじっと見つめ、その汚れたパンプスに、「足元ぐらい、気にせえよ」だなんて、足元だから気にしてないと思うんだけど、このあたりの美意識が粋だったりする。そして、彼女に真っ赤なパンプスをプレゼントするのだ。これって、弟のすることじゃない。恋人のすること。この一太、やるのだ!少しサイズが大きいんだけど、かの子は喜んで、「つま先にティッシュを詰めればいいんや」と古い靴をさっさと捨ててこの靴にはきかえる。
本当は、一太が、一太こそが、かの子に甘えたかったに違いないのに。それこそぬいぐるみのようにコロコロとかの子に甘える二太を尻目に、一太はそのふてぶてしい顔をそむけて、決してかの子に頼ろうとしない。それは彼女が突然やってきた、その最初からそうで、箸の持ち方を教えてじゃれあうかの子と二太に、「食えりゃええんじゃ」と吐き捨てるように言ったその時点で、彼のキャラはもはや決定されている。コウイチから任された一太の仕事始めは、車からガソリンを移す作業。ガソリンをホースからうっかり吸い込んじゃって、うえっ、うえっ、と言いながら仕事をする一太の前途は多難である。一太を厳しく育て上げるコウイチは、彼ももしかしたら似たような境遇だったのかもしれない。一人の力で生きているコウイチは、彼の持っている全てのものを一太に教えてくれる。一太が町を出て行こうと決心した時も、一太、いくらなんでもそんな決意をするだけでも、早過ぎるのに、その彼の決意を行動へと手助けしまうんだ。一太がそうするしかないと、このコウイチにだけは判ってるから……。
コウイチが一太を厳しく教育している時に、かの子が乗り込んでくる。あたしのま○こでいくらでも食わしたるわ、そう言ってコウイチを蹴散らかす。かの子、あなたは、恋人に逃げられた、その子供、二太を育てられずに一度は母親に預けてしまって(というのも、所詮こんな状態だったけど)だから、母親である、母親になる自信がなかったけど、でも充分、これだけで充分あなたには母性があるって、判る。一太だって、最初からこんな風にかの子に抱きついて甘えたかったんだから。でも、「一人で生きていけるようになりたい」そう言って、まるでかの子を押し倒すようにして抱きつく一太は、その腕は少しだけ、たくましいんだね。
二太は、これから過酷な運命が待っているとも知らずに……というか、今の状態で充分過酷なんだけど、結構無邪気に楽しんで日々を送っている。木に登って、木の枝に股をこすりつけて、「気持ちいい、なんでやろ。さおりちゃんにも教えてあげよ」という場面はちょっと笑った。いつも鼻をしゅーしゅー言わせて、おでんやお味噌汁の匂いをかぎわける彼は、そう、幸せの匂いをかぎわけているのかもしれない。彼の言う台詞、「幸せはあったかいごはんの中にあるんやと思う」という言葉には、そんな彼なりのリアリティがある。
この島には学校がなくて、二太は学校がどういうものなのかも知らない。ムショ帰りの青年に日が暮れるまで学校生活を教えてもらう(という描写は、一体どこが面白いのか理解に苦しむギャグだったけど)。いろんなことを知りたがる二太には、確かに学校が必要で、この人なつっこい二太には、彼を可愛がってくれる大人たちばかりではなく、年相応の友達と、その人間関係がやはり必要なのだ。もう一人いるこの島の子供、さおりちゃんに二太は恋している。さおりちゃんも二太のことが好きに違いないんだけど、彼女もまた、生活に苦しい家庭で、賽銭箱をさぐったりする子。のんびりやの二太に、つれない。でも別れの日、「見送りに来てくれる人もいないんやな」とたった一人、見送りに来てくれるこのさおりちゃん、二太なんて大嫌いと言い捨てて走り去るけれど、隠れて、泣いている。その泣き方はちょっとキビしいものがあったけど……。
とか、判ったようなことを書いてみつつも、本当はこの子役二人にはそれをまかせられるだけのものは感じられず、それがこの作品に対する歯がゆさにもつながっていた。こういう単純で素直な子供演技をする子役は、確かに好きなんだけれども、これだけシビアな状況に置かれている子供としては、やっぱり弱すぎる気がする。顔つきは、最高なんだけど。つまりは顔つきで選んだかな、という気もして……うーん、やっぱり完成されていない子供は、難しいね。魅力はたっぷりあるはずなんだけど、それをこの限定された中で出来る限り引き出すというのは、至難のわざ。
印象的だった登場人物に、かの子の同級生だった女の子がいる。女の子、なんていう年じゃないな、かの子と同い年なんだから……。かの子がろくでもない男で苦労しているのを知っていた彼女は、もう男なんてコリゴリ、というかの子に同情しながらも、自身は男に寄りかからなければいられないコ。かの子と再会した時、このコがぶらさがっている男が、どうもいけすかないヤツだというのを、「変わってないナ、あの子」という台詞で判るように、かの子は一発で見抜いていた(観客にも、判る)のに、彼女はちっとも判ってない。案の定、次にかの子が彼女に会うと、この男にやられたらしい生傷だらけになっている。もしかしたらかの子は、自分の過去を思い出したのか、傷ついた彼女をじっと見つめている。その時だ。彼女は二太に「幸せってどこにあるんやろね」と尋ねると、二太が「あったかいごはんの中にあるんやと思う」と答えるのだ。
二太に人生のいろいろを教えてくれる鉄じい役の志賀勝が、いつものヤクザな感じと全く雰囲気の違う、気のいい、しかしサエないオッサンになっているのには、あとでキャストクレジットを見てかなりビックリ。★★☆☆☆
もうひとつの不安要素は、これがリメイクものだということ。しかも、なんじゃこれ、と思ったあのダメダメ香港映画「星願 あなたにもういちど]」が元ネタになっている、ということなんである。しかし、今から思えばあの作品が私に脱力させた決定的な要因は、セシリア・チャンのあまりといえばあまりの演技力のヒドさにあったわけで。同じ話でも演出と力のある役者で作り直すと、充分イイものになるんだわ、と感心。リッチー・レンがやった役を演じる吉沢悠は、テレビを見ない私にとって初見だったけど、彼もなかなかいい。まず顔の造形が、大きめの口のあたりでちょっとバランス崩してるのがいい。しかも仔犬みたいなホノボノ系がいい。演技も、ま、この作品だけでは彼がどこまでイイ役者なのかは正直、判らないけれど、好感が持てる。こういう、好感が持てる演技をする演者、というのも久しぶりな気がする。
確かにお話自体も少々可愛らしすぎるぐらいのファンタジーで、そして元ネタでは、これでもかファンタジーで、CGも思いっきり確信犯的にファンタジック(言っちゃえば、チープ)に使いまくり、私が引きまくったのはそこが原因でもあった。それを富樫監督は今回、ファンタジーとしては、扱わなかった。CGも最低限に押え、無粋なところが全くなく、しかも元ネタにないシーンを丁寧に追加させ、二人の気持ちが真摯にあふれる、王道のラブ・ストーリーにしてくれた。元ネタにないシーンというのは、事故で視力と声を失ってしまった男の子、笙吾が看護婦、奏の手助けによって閉ざされていた心を開き、苦しいリハビリを始める決心をする、このやりとりの部分(これ、「星願」にはなかったよね……あったっけ?)。これが、今思えば何で「星願」にはなかったんだろと思うぐらい、大きな力を占めるのだ。でもそれは、笙吾が死んでしまってから、そして彼が数日間だけこの世によみがえることを許されてから、彼とは知らずに蘇った笙吾と接触する奏が折に触れて断片的に思い出す形。それは、確かに最初は看護婦としての使命感だったはずが、少しずつ少しずつ心を通い合わせるようになった過程を表す大事な要素で、この気持ちの変化が「星願」で全く判らなかったことが不満だったから、私は大いに満足し、やや単純かなと思いつつも気持ちよい涙を流すのであった。だあって、このシーンの竹内結子のテンション、上手いんだもん。「死んだほうがましだなんて、バカなこと言ってんじゃないわよ!」いいなあ、泣かせちゃうんだもんなあ、このこの!
竹内結子は、ホントに上手い。彼女は一種、独特の表現の仕方を持っていて、それが彼女のいい武器になっている。カジュアルで、ナチュラル。例えば、奏に想いを寄せる青年医師、葉月から告白された時、思わず、ぶふっとばかりに噴き出す彼女には、ああ、竹内結子ならではの上手さだなあ、と思う。あるいはもっと判りやすいところで、笙吾の死後、どうしても立ち直れない彼女が姉の元に身をよせ、この姉が、看護婦を続けて、今までみたいにいろんな患者さんの話をしてよ、トマトジュース一気飲みする男の子の話とか……とふる。当然それは笙吾のことで、奏はふいをつかれてうわっと悲しみが蘇ってきて、姉に背中を向け、押えきれずに泣き顔になる……つまり、瞬間、止めようのないリアクション、が上手いのよね。きばってテンションに持ってくセシリア・チャンとはえらい違いだわ。
ああ、それにあのシーンも……。笙吾が突然の事故で運び込まれてきた時、彼女、何が起こっているのか判らなくて、何だかほけっとした顔、してるでしょ?そしてもう助からない、死んでしまった、って判った時も、まだ判らなくて、涙も出なくて、呆然、ですらなくて、ほけっとしている。これが、妙にリアリティがあるのだ。呆然、ではなくて、ほけっとしているのが。で、もはや動かなくなってしまったらしい(らしい、っていう風に彼女の表情から思わせるんだな。とても現実のこととして起こっているとは思われない、と)彼のそばにひざまづき、起きてよ、って感じで肩を揺らし、揺らしても揺らしても、彼が目覚めないと判って、そしてようやく、声にならない声と共に涙が噴き出して止まらなくなる。いやー、これぞホンモノの演技なのよ、セシリアさん。
ところで、またしても、函館映画である。本当に、またしても。凄い、本当に函館は映画の街になったんだね!函館映画だからちょこっとひいきしてしまう気持ちも確かにあるんだけど、でも今まで確実にハズレがないのが素晴らしい。で、函館映画で重要なのは、夜景ではなくて、路面電車なんだな!思えば本作も、全然ないわけじゃなかったけど、いわゆる函館の夜景、というのは出てこなかった。で、夜景よりももっともっと映画的なもの、重要なファクターとして出てくるのがこの路面電車。一度死んでしまった笙吾が天からの声を受け取るのがこの路面電車の中で、「星願」のそれよかずっと気がきいている。「オー・ド・ヴィ」と同じく、本作でも異次元との空間をつなぐところになってて、確かにこのノスタルジックな路面電車にはそういう魅力がある。勿論、この路面電車は今でも現役で活躍していて、笙吾は通院にこの電車を使っているし、その日常の風景の中に溶け込む路面電車もとても絵になる。そういうものが残っているのが、函館が映画の街たるゆえんなのだ。
それでもって、富樫監督は地方映画の名手なのであった。思えば「非・バランス」も「ごめん」も地方映画ではないか。そして本作も。私はね、映画はどんどん地方で撮られるべきだと思うんだな。だって、テレビドラマはもう東京一辺倒でつまんないじゃない。スクリーンでは、いろんな風景を見たいなと思うもの。
二人の気持ちを伝え合うもひとつのアイテムは、笙吾の吹くハーモニカ。「星願」ではこれはサックスで、ハーモニカにしたのは大正解、なのである。だって、だってさ、サックスってあまりにキザすぎてこれもまた私は引いちゃったんだもん……ふた昔前ぐらいの少女漫画みたい、とか思って。でもハーモニカなら。ま、ハーモニカだってちょっとキザな匂いはしなくもないけど、少年ぽさが残ってるし、演じる吉沢悠もそんな感じで、似合ってるんだもんね。曲がちょっと、テレくさい旋律かなあ……ま、でもそこんところは、そのメロディを聞いて、笙吾だ!と思った奏=竹内結子の表情の上手さでカバー、カバー。
そうそう、このメロディーが決定打。もう笙吾のリミットがあと少し、というところで、奏は保険屋としてつきまとっていた青年が笙吾その人であることに気づいて、走り出すのだ。この時の竹内結子の素晴らしさときたら、もう言うことありません。笑っているのか泣いているのか判らないような叫び声を上げながら、走り続ける奏に、もー涙は止まりません。あーもう、こういう“声にならない声”がどうしてこうも上手いんでしょう、結子嬢。ここからの別れのクライマックスも、なかなかいいのだ。姿を現そうとしない笙吾をおびき出す(ちょっと言葉が違うかな)ために、橋からザバン!と飛び込んでしまう奏。それをあわてて笙吾が助けて、ずぶぬれになって這い上がった二人、笑い出す。ようやく、会えたね、そう思ったけれど……奏はふと、これは女のカンてやつなのか、笙吾に問うのだ。「ずっと、いられるんだよね?」無言の笙吾。奏はもうたまらず、どこにも行かないでよ、と彼にむしゃぶりつく。固く抱き合う二人。そしてここでキスシーンもあるんだけど、これがね、ここ最近で最もイイ感じのキスシーンだった。中途半端じゃなく(て、ところが若えくせになかなかやりやがる)、しかも切なさがあふれて。このキスシーンだけで思わず新たな涙がこぼれちゃうんだよなあ。そのあとにぎゅぎゅーっと抱き合うところも、もう胸をかきむしられちゃうのだ。
そして、彼は消える。どこに行っちゃうの、と問う奏の胸にそっと手をあてて。いつまでもここ(奏の心の中)にいるよ、と無言でそう言って、ふっと消える。この消え方も、うつむいている奏に見えるのは、笙吾の手がふっと消えた、その画だけで、それこそ「星願」でのここが一番脱力した、金粉まき散らしながら天に昇ってく、なんていう無粋な表現は皆無。彼女は一人残され、ずぶぬれになったままで、泣き崩れるのだけど、折しもその時流星群が流れ出す。この流星群を見上げる彼女の後姿(というか、後ろアタマ)で終るというつつましやかさがグッド。きちんと余韻を残してくれる。
ところで、奏は本当にアメリカの赤十字病院に行きたかったんじゃ、なかったんだろうか?笙吾はそう思って、自分の保険金を彼女に残したいと思ったんだけど、実は笙吾の治療のためにアメリカに二人で行きたいと思っていた、と知って笙吾は呆然となる。もちろん、それが一番であったとは思うけど、看護婦に自分の生きがいを見出している彼女の、その夢として、もっと視野を広げたいと思ってのこの希望があっても良かったと思うけど、結局このニュアンスだと、笙吾をそれだけ特別に想っているということが告げられないための、何か言い訳というか言っちゃえばウソだったような気もして、少しガッカリもしたりする。だって、あれだと、結局彼女は元の病院にそのまま戻って、別にそれでもいいんだけど……確かにあの青年医師に言ったように、ここで充分満足、なわけじゃない?うーん、このラブ・ストーリーにそんな、女の自立話まで求めるのは、やっぱムリがあるかなあ。
笙吾の行きつけの喫茶店のマスターが気づいてくれないのが、ちょっと切ない、というか、残念だった。香港版で唯一?良かったのは、このたった一人の友人とも言えるマスターが気づいてくれたことだったんだ。しかもこのマスターを演じるエリック・ツァンがそれこそあのダメダメ映画の中で一人、気を吐いていたから、余計に印象に残ってて。本作でのマスター、仁さんは、トマトジュースを一気飲みする笙吾を(この場合、よみがえった彼の方ね)見てたのに……気づいたかも、という暗示さえ、なかったのが、うーん、残念かなあ。★★★★☆
で、そのエピソードごとであらわになっていくのは、日本という国の中での、特殊な土地としての沖縄の風土や風習、そこから来る社会性。監督の言葉を見ても、やはりそのことに今回、留意したのだという。それは確かにこの作品、こうした“インターナソナル”な家族の物語には必要不可欠なことだとは思うのだけれど、それが想像以上にちょっと道徳的に響きすぎたかな、というのも気になるところだった。お盆にご先祖に手を合わせる家族たちに、来ているご先祖なんて見えないよ、とゴネる末娘の美恵子、しかしその美恵子のもとに、幼くして死んだ彼女のおばが姿を現す、という幻想的なエピソードは、そのことを聞いたおとうちゃんが、「そうか、多恵子が会いにきてくれたんか」とスンナリ受け止めるのは大好きだけど、でもやっぱり何かそれは、あまりに直接的な子どもへの教育、みたいな、そんな匂いがして、有無を言わせぬパワーと面白さに貫かれていた「ナビィ」をついつい思い返してしまうのであった。「ナビィ」はやっぱりおじぃあってこそだったのかなあ。
ま、でも気になるところといったらその二点だけ。末娘の美恵子を中心に、美人で陽気なおかあちゃん、ハゲをヅラで隠してるおとうちゃん、美恵子の上には、黒人とのハーフのケンジにぃにぃ、白人とのハーフのサチコねぇねぇがいて、そしてプラスおばぁ、が家族構成。そこに内地の青年、能登島がホテルの唯一のお客となって、お話は進んでいく。この能登島は、美恵子が同級生の男の子二人と下校中、彼らの目の前でフラフラ、バタッといきなり倒れちゃって、それを美恵子のおうちであるホテル・ハイビスカスに連れていく。で、彼はいきなり「長期滞在予定です。ヨロシク!」とあいなるわけで、この、何の説明もなくそうなっちゃうあたりの不条理さがかなり好き。ホテルといえど、客用の部屋はひとつっきゃない。こりゃホテルというよりホームステイである。実際、美恵子が学校で家の仕事を聞かれた時、ホテルとは言わずビリヤード屋だと即答したことから、本業として機能しているのはビリヤード屋、ということなんだろうな。ま、それ以上にホントの稼ぎはおかあちゃんの夜のおミズの仕事なわけだけど……。母ちゃんがしっかり稼いでくれるんだよ、とのほほんと言いながら、自身はのんびり三線などをつまびく父ちゃんがイイのだ。彼はその家の本業であるビリヤード場でも始終いねむりしてるんだけど、でもビリヤードを実際にやらせるとこれが極上の腕前。あるいは友達の手伝いに行ったパイナップル畑で、山盛りのパイナップルをひとりで収穫したというのを、うずたかく盛られたパイナップルのワンカットでとらえたりするのも、父ちゃんやるじゃん!と時々さりげなーくカッコイイんである。
そういえばそういう部分……“実はデキる父親”であるとか、あるいはこの父ちゃんに会いにたったひとりで遠い土地まで出かけた美恵子のことを全然叱らなかったりとか(あ、やっと帰ってきた、てなぐらいに、みんなフツーにテーブルに集ってのんびりしているのが、イイんだわ)、でも一方で、他人に暴力をふるった時はしっかり叱るとか。ふと思い返してみると、この父親像というのも、こうあるべき、というのをきっちり踏まえているキャラクターなんだと気づく。うーーーん、やっぱりちょっと道徳的かしら。でも叱られて飛び出した美恵子を探しに出かけて、「探したよ、もう怒ってないから」とその大きな背中に背負い、ろうそくの灯りがゆらめく夜道をゆっくりと歩いていくシーンは、こんな思い出を子供の頃に持てたら良かったのになあ、とちょっと湿っぽい気分にさせられる名シーンなのだ。
父と子ども、のシーンでは、ケンジにぃにぃに会いに来た実の父親、の場面が好き。“フェンス”と題されたそのエピソードは、何でフェンスなのと思ったら、ケンジにぃにぃは直接その黒人米兵、ジョージに会おうとはせず、ジョギングをしたままバーッと走り去る。そのケンジをフェンスと並行しながら父親であるジョージが追いかけて走る。そこはかとなく可笑しくて、そして切ない場面。今はハゲ頭のおとうちゃんが父親であり、今の家族が大切で愛しているケンジにぃにぃにとって、でも確かに自分が血を受け継いだこの父親も存在していて……それは日本人同士で違う父親だとかいうのとは明らかに違って、本当に血が明確に、外見から違うから、ケンジにぃにぃの葛藤は想像して余りあるのだ。会いに来ないってことは出来ないけど、でも立ち止まって会うことはできない、そんな苦しい心中がひしひしと感じられるんだなあ。この場面、陽気なおかあちゃんはかつての恋人に抱きついてキスして実にくったくがないし、ついてきたおとうちゃんはヅラを飛ばしちゃうし、そのヅラを美恵子は追いかけて昆虫網でゲットするし、ケンジにぃにぃの苦悩なんかヨソにひたすら明るいんだけどね。
で、おかあちゃんは考える。ケンジも父親と会ったことだし、こんどはサチコに実の父親と会わせなきゃなるまい、と。ま、そこまでマジメに考えたかどうかは知らないけど、“でーじハンサム”なサチコの父親に、二人で会いに行こう!と盛り上がる。で、心配なのは美恵子のこと。何とか美恵子をなだめすかしてアメリカに行くために計画したのが、大抽選会。壊れた洗濯機に苦労していたところに、美恵子が全自動洗濯機を当てて、大喜び。しかし、これで喜ぶってあたり、美恵子、偉いよな……。だって、おばぁには線香一年分、父ちゃんは泡盛一年分、ねぇねぇはブラジャー一年分で、にぃにぃはチャンピオンベルト一年分(?)だったりするのにさ。で、大盛り上がりで歌まで歌って、母ちゃんの当てたアメリカペア旅行をうやむやに納得させようとする……そんな上手くいくか!当然、美恵子は「そんなあ!」と急に気づいて泣きべそ。
その美恵子はとにかく元気。もう無駄なぐらいに元気元気な女の子。この子の良さは、とにかく子どもらしいこと。ヘンに小細工の上手い子役にはない、はつらつとした子どもらしさは、見ていて実に気持ちがいい。友達は男の子で、その中でも彼女がリーダー。気の弱い男の子の頭を昆虫網をかぶせて引っ張っていくところとか、もう噴き出しちゃう。それぞれに父親の違う兄と姉の下で、彼女ひとりはおとうちゃんとおかあちゃんの間に生まれた純沖縄人であり、だから、この沖縄映画の前述したような社会性にちょっと引っ張られた感じはするのだけれど。いかにも小学生の夏休みの冒険、とでも言いたい、基地の中に住む怪しげなおばぁを訪ねていくエピソードも、二度目に訪ねた時、その家はなくなっていて、呆然とした美恵子の後姿のワンカット、そしてそのことを友達には言えない美恵子、というのも、そんな匂いがするのだ。無邪気な、子どもらしい夏休みなだけじゃなくて。もちろんそうやって子どもはさまざまなことを心に積み重ねて大きくなっていくわけだけれど……。
この子の口ずさむさまざまな替え歌や、ダジャレたっぷりの言い回しは、非常に懐かしさを覚え、そういえばこの、“小学生の夏休み”チックな世界、作品全体のそれがとっても甘酸っぱい懐かしさで、特に時代設定がされているわけじゃないけど、これって今もこんな感じじゃないんじゃないかなあ、などとうがったことを思ってしまったのであった。
例えば、だって、中江監督は(驚くべきことに)沖縄の人ではないし、そうした懐かしさを大人の、そして外の目から見ている感覚が確かにあるのだ。「ナビィ」ではそのへんも、もっと入り込んで撮っていたようにも思うのだけど……。沖縄の映画として、沖縄そのものをとらえようとする目線も、やはりそこからきている気がする。正直、そのあたりは返って、いや特にもっと力を抜いてほしかったんだけど。うーん、でもそんなことを思うのは、沖縄に対しての、無責任な憧れの気分があったせいなのかも。私の心は北国なんだけど、憧れとしては断然沖縄が君臨し、でもそれはやっぱり憧れだから、やはりフィクションとしてのそれだったかもしれないな、などとも思う。だって逆に、北国のことをどう語ろうかと思ったら、やっぱり同じ道をたどるって気はするもの。決して美しかったり楽しかったりだけの北国を語ろうとはしないはず。
リゾートではない沖縄。田舎の沖縄を描く、そういえばそれは同時期公開の「マナに抱かれて」のハワイにおけるそれとも共通していた。でも「マナ……」と決定的に違うのはやはり、「マナ……」がそう言いつつ現地の人々との交流や生活風土があまりにおざなりで、結局日本人ばかりで話が出来上がっていたところで、やはりその辺は当然、沖縄映画としてのプライドで作っている本作とはまるで違うのだ。たったひとり内地の人間を加えても、その内地の人間はいかにもボーヨーとしていて、すんなり沖縄の家族になってしまうあたりは、でも、ちょっと理想、なのかもしれないけど。そういえば、おかあちゃん役の余さん、やたら沖縄関係の作品に出るから沖縄の人なのかと思ったら、沖縄が好きな人だったのね。なるほど。彼女もしっかりウチナーグチを喋る。いわゆるイントネーションのなまりだけではない、はっきり標準語と異なる土地の言葉が存在してて、で一方で標準語とも使い分けている感覚は、青森でも感じたことなんだけれど、凄く、彼らのプライドを感じるのだ。そしてそれがひたすらうらやましいのである。
好きなシーンは色々ある。アメリカに出かけてしまったおかあちゃんの代わりに、ベタベタに化粧して「稼いでくるわ!」と出かけていこうとする美恵子と、その彼女にズッコケて、慌てて止めに走る家族たち。美恵子が届けようとしたアメリカからのおかあちゃんの手紙は、おとうちゃんを世界で一番愛している!という言葉が書かれていたから。アメリカから送ってきた超巨大な目覚し時計は、体の小さい美恵子との対比で更に可笑しい。その目覚し時計の騒音に、これは彼の中ではかなり驚いているんだろう……美恵子の飼ってる小さなトカゲが、口をゆーーーっくり閉じていくのが、ひたすら可笑しいのだ。このトカゲは実はかなりの名脇役かも?それで言えば、なぜか玄関先で飼われているヤギもかなりの芸達者。「ナビィ」でもたまらない名演を見せたヤギさんがいたけど、このヤギさんはもっと出番が多く、つまりはホテルの外観が映るたびにヤギさんがいて、何かそれがだんだんと可笑しくなってくるのだ。何でここにヤギさんがいるんだろ!?そんなことを思って。でもこのヤギさんを、おばぁはちゃんと散歩に連れてったりするのが、更に可笑しい。
最後は、アメリカから帰ってきたおかあちゃんとサチコねぇねぇを迎えるために、大きな横断幕を手作り。そこには大きくて真っ赤なりんごが描かれていて「母ちゃん、おかえりんご!」小さくサチコねぇねぇ、とも書き加えられているのが、美恵子にとっての、母の存在の大きさを語ってあまりあって、ま、サチコねぇねぇはちょっと可哀想かもだけど?オナラをプリプリ言わせながらの「トランペットを壊しちゃった」を家族みんなで大合唱。陽気な天然色でシメてくれて、幸福感いっぱい。★★★☆☆
このジャクソン・ポロックという画家は初めて聞く名前。現代アメリカ美術での最初のスターであるという。時は第二次世界大戦前後。ピカソなどの画家の名前を口にするから、なるほど、現代美術の、そういう流れをくむ作家なのだろうとは思うけれども、……彼は本国アメリカでもどれほどの知名度を持っているのだろうか?
一つの場面を挟んで、過去にさかのぼり、その場所を素通りして、そこから先の破滅の人生を描く。その一つの場面は、華やかな個展で、ライフに載った自らの特集記事にサインを求められている場面。それが、彼のピーク。
ポロックの最盛期は長くなかった。チヤホヤされた過去はあっという間に過ぎ、その過去の栄光にすがりながら堕落、失意のうちに44歳の若さで自滅死した。
劇中再現されるポロックの絵。映画化を決めてからの10年間、エド・ハリス自身は絵を描き続け、ポロックの創作スタイルを完璧に再現したのだという。うっわ……あれも本当にエド・ハリス自身の手によるものなの!?と驚く。だって、本当に圧倒されるのだもの。
ポロックが有名になったのはドリッピングと呼ばれる、“筆の偶然性”から生まれた手法の絵画。一躍有名になり、ライフ誌にも載り、時代の寵児になる。
でも私は、彼が何度も何度も描き、アレンジはされるものの、最初の強烈な印象がもはやインテリアのような感になってしまうその手法の絵よりも、彼が最初に突破口を開くことになる、幾何学的な連続性のある一気に描き殴られた壁画に圧倒された。
それは、パトロンの女性、ペギーの依頼によって描かれた絵。
最初の個展がいまいち不評で、この依頼も取り下げられそうになった時、ポロックは何週間も悩みに悩み続け、ふっと突き抜けたようになってこの壁画を描いた。
パトロンがついて、絵が売れて、社交界に出て。でもそんなことはポロックには苦手だったんだ。絵が華やかに飾られたり取材されたりする時だけ集まってくる人たち。それは、彼の普段の生活、あるいはこんな風に長い間苦悩してやっと一つの作品を生み出すことの出来る“日常”と明らかに違う。
手のひらを返したように出来上がった絵だけを絶賛するペギーを、ポロックは心から軽蔑しながら押し倒し、暴力的に彼女に突っ込む。
芸術家の葛藤の全てがここに現れている。絵が売れなければ食えないけれども、絵が売れる時と創作活動とのギャップが芸術家としての繊細な神経を逆なでするのだ。でも、繊細な神経を持っているからこその、芸術家。この不安定なバランス。
ポロックの才能を最初に認め、そして運命の、というより同志としての恋人となった女流画家のリー。彼女は彼のそうした全てを判っていたから、すべてを引き受けるために結婚、アル中に溺れる彼を連れ、閑静な郊外で慎ましやかな生活を共に送る。
でも、実はこれ、ちょっと心配だった。この時点ではポロックのそうした性質はつかめてなかった。都会の喧騒の中で切迫しながらじゃないと作品が作れない、って感じの芸術家に思えたから。
でもポロックはそこまで神経の図太い人じゃない。弱いほどに繊細な人。
だから郊外に出れば酒も断てるし、彼の人柄を見抜く動物たちは彼に寄ってくる。穏やかな生活。
でもそこに、友人だのパトロンだの批評家だのカメラマンだのが現れて、都会そのままの社交界が再現されると、あっという間に彼は酒に溺れてしまう。本当に弱い人なのだ。
結果的に言えば、リーはポロックをずっと見てきて、芸術家としてのシュミレーションを得たのかもしれない。皮肉だけれど。勿論リーはその間、芸術家としての自身の生活を捨てていたと言えるのだけれど、彼が突然死んだ後、それら全てを引き受けるように創作活動に没頭、才能を開花させ、数々の傑作を描きあげたというのだから。
そういえば、ポロックはいつも彼女のアトリエをのぞいていた。その後姿を黙って見つめていた。出会った最初から口にしたホメ言葉は決してお世辞じゃなかったんだろう。彼が荒れて彼女の創作活動が断たれた後、生活が安定してからは、彼女のためのアトリエを作るつもりでいる、という発言もしていた。
才能のある彼女が、自分のために絵を捨てていることへのプレッシャー。
本当に自分はそれほどのものなのかという苛立ち。
だから、リーにとって結果的にシュミレーションになったのではないかなどと思うのだ。彼女は彼が自分にそうした思いを抱いているなんて、思っていなかったと思う。いや、実際ポロックが本当にそう思っていたかどうかも定かではないけれど、少なくともエド・ハリスの役へのアプローチは、リーに対する嫉妬にも似た苛立ちも含まれている。
若いうちに才能が枯渇してしまい、チヤホヤされた過去の栄光にすがって失意のうちに死んでしまったポロックと、彼に捧げ尽くした後、大きく表現の翼をはばたかせたリーと、一体芸術家としてどちらが幸せなのだろう。
ポロックの注目され方は、まさにスターそのものなのだ。芸術家というよりは。いや、でもそれでもいい。彼自身が揺るぎのない芸術家であれば、別にそうしたスタンスそのものは問題ではないはずなのだ。でも、そう、例えば彼の記録映画を作る時、カメラマンのまさにヤラセチックな不躾な演出に、ポロックはガマンの臨界点を超えてしまい、長い間離れていた酒に手を出してしまう。確かにここで求められているポロックの姿は虚像で、彼の真の創作の姿ではない。
でも、ポロックが「過去の人」などと豪語していたピカソに、まさにこういう記録映画があったな、と思い出す。こんな風にガラスに描いているのを裏側から撮っているシーンもあった。
でもその中でピカソは、実にラクーに楽しそうなのだ。苦虫噛み潰したような表情をありありと浮かべているポロックとは明らかに対照的。
ピカソのその表情の真偽は判らないにしても、やはりまるで違う。ポロックとは。
この第二次世界大戦前後、という時。ニュース音声に日本との交渉の決裂などが流れてくる。ポロック夫妻が引っ越した郊外で食料品店の主人が「小さな核を分裂させて何万人もの人間を吹っ飛ばして……」などと原爆に言及するシーンもある。
しかしこのささやかなシーンは、まあ、エド・ハリスの良心とも言えるもので、敗戦国である日本がこの時代には思いっきり混乱していたことを考えると、当たり前のことではあるんだけれど、このアメリカは落ち着いて、優雅で、平和である。そのことにシニカルなものを感じる。
でも、少しだけ戦争がポロックに影を落としている部分もある。兄たちと違って自分が兵役免除になっていることに、どうやらコンプレックスを感じているらしいこと。
でもやはりそんな風に、ポロック自身にとっては彼自身の世界観が全てで、外からの要素を取り込むことはない。リーとの議論で、リーはいかにも芸術家らしい難しいことを言うんだけれど、それを制してポロックは「俺が自然世界だ」みたいなことを、一言の元に迷いもなく言い放つ。
それが彼自身の最大の武器である一方で、才能が枯渇してしまう最大の理由であったように思う。
それこそ、ピカソはこの戦争という悲劇に大きなインスピレーションを受けた。しかしポロックにその痕跡はまるでない。
もともとピカソの抽象画は、自身の内面世界というよりも、外の内面世界、とでもいったような無限の可能性に開かれていた。
それはどちらがいい悪いというのではないけれど、ポロックの“内面”は、彼自身の想像よりははるかに早く掘り下げつくしてしまうだけの容積しかなかったということなのか。
ポロックの死、確かにそれは自殺、だったのかもしれない。一見すれば、ただ単に、酒に酔った勢いで、二人の若い女を乗せた車を暴走させて激突した事故死。しかしそれが、こんな弱く繊細なポロックの、これしか出来ない自殺の方法……自殺でも一人では死ねない男である、ということだったのか。
助手席に乗っていたのは、ポロックの恋人のルース。まだ年若く、華やかな美人。でっぷりと太ってしまったポロックとはまるで援助交際かと思うような釣り合いのとれなさ。
絵を描かないことでポロックを非難するリーと、ことあるごとに衝突する彼。そしてこんな風に若い女に溺れた。ポロックはルースのことを愛していると言う。「離婚なんかしてやらない」と冷たく突き放すリー。
もともと、リーはポロックだけで手一杯だからと、子供を作ることを拒否した。
リーはポロックを、彼女が天才と信じる彼を支えたいがために結婚をしたから。ポロックが、夫婦の意義を子供に求めたのに対し、彼女の幸せの意義はそこにあり、そうした愛し方だった。だからこんな風に若い恋人を作っても、それ自体が彼女の苛立ちではない。彼女の苛立ちはただひとつ、ポロックが絵を描かないことなのだ。
普通は逆なんだけど……女は、いつかくるこうした男の裏切りのために、自分の分身を作ることを望むから。
リーにとってのポロックの裏切りは浮気ではなく、絵を描かなくなることだった。
そしてポロックにとって、それはとても苦しいことだったんだろうと思う。二重に。絵を描けなくなったことももちろんだけれど、嫉妬もしてもらえない苦しみこそが。だってポロックはリーのことを彼女の彼への愛し方とは違う、純粋な愛情を持ち続けていたに違いないから。
リーを体現するマーシャ・ゲイ・ハーデンはまさに、運命というよりは同志の恋人。ポロックが劇中で言ったように「彼女には借りがある」と本当に言ったかどうかは判らない。この時にポロックの中に、リーに対して最初あったような愛情があったかどうかも。それは本当にルースに向けられていたのかもしれない。でも、この台詞には、リーのポロックに対する愛情をようやくこの時になって理解した、そんな響きが感じられるのだ。そんな風に、男に人生の借りを作らせる女って、憧れる。
でもやっぱり、女は年をとるとキツいな……なんて思ってしまう。
これまたカッコいい女だったリーが、ギスギスしたババアになってしまった、という感。彼女も絵を描き続けていればまた違ったのかもしれないけれど。だからポロックの死後は違ったんだろうけれど。
ポロックもデブハゲジジイではあるんだけど、不思議とこんなジジイにもキレイな女の子がホレるのよね。逆のケースはなかなか想像しにくい。やっぱり男って……得よね。
そんな風に感じながらも、こんな芸術家の物語でも普遍的なことを思ってしまう。
やっぱり、奥さんが勝ちなのよね、と。キレイで若いルースは、ポロックを救うことは出来なかった。死への道先案内人をさせられただけ、結局は。
こんな風に、女にはふたつの人生の選択肢があるのかもしれない。★★★☆☆