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「ろ」


2004年鑑賞作品

ロスト・イン・トランスレーションLOST IN TRANSLATION
2003年 102分 アメリカ カラー
監督:ソフィア・コッポラ 脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:ランス・アコード 音楽:ブライアン・レイチェル
出演:ビル・マーレイ/スカーレット・ヨハンソン/ジョバンニ・リビシ/アンナ・ファリス


2004/4/20/火 劇場(渋谷シネマライズ)
観ている間や観た直後は、ピンと来ないというか、よう判らん、みたいなのが正直な印象だった。洗練されてはいるけれど、やってることは「WASABI」と大差ないような気がしたし。だけどオフィシャルサイトで監督であるソフィア・コッポラが東京に対してとても造詣が深いというのを知って、考える角度が変わった気がした。表面的に“見える”画作りではなく、表面的に“見せる”画作りなんだということが得心できるのだ。彼女は日本(東京)に対して、とても個性的で面白い角度から深く理解している。日本のネオンが好きだというソフィア監督。ネオンというのも実にその表面的な象徴だ。だからこそ、ここまで徹底的に“うわっつら”に徹することが出来たのだろう。判っているからこそ、判ったふりをすることなく。

確かに「WASABI」は見えるとおりの表面的な日本であり東京だったけれど、ここではそんな表面的な東京にしかその目には映らない登場人物二人が、だからこそ孤独なのであり、だからこそ闇の中で手を伸ばした時に触れ合った同士のように出会い、惹かれあったんだというのが判るのだ。揶揄している(という言い方は適切ではないかもしれないけれど)対象は東京ではなく、彼ら、あるいは孤独な人間なのだということ。

つまり、これは別に東京でなくっても良かったのだ。彼らにとって未知の土地ならばどこでも。彼らアメリカ人にとってある程度知っている都市の中で、そうした訳の判らなさを最も強く感じるのが東京だったということなのだ。その異質さにおいて、東京が群をぬいていた。
だって、例えば日本人がニューヨークにいたって、こんな感覚は持たない。情報の方向性と量が圧倒的に違う。
劇中の女優の記者会見でも言われているように、日本はアメリカ人などの外国人にとってブッディズムのイメージが強いのだろうと思う。でもそれも考えてみればおかしな話なんだけど。だって始まりはインドで、そして中国を通ってきたんだから、別に日本が発祥の地でもないのに。
日本の、あるいは東京の複雑なおかしさ、異質さというのは、でもそういう部分に根ざしているような気もしている。
で、東京に来てみれば、全然ブッディズムの国なんかじゃない。キテレツな、怪物のような都市。まるで一貫性がなくて、つながりのない広告や看板だらけ。だから逆に何ひとつ目に止まらない。狂ったオブジェのよう。……こんな風に、見えてるんだ、彼らには。普段見慣れてしまうと(こんなものを見慣れてしまうというのも、確かに異常事態なのかもしれない)判らないから。 でも田舎から出てきた直後はやっぱり同じように見えていたかも……なんて思い出す。ぎっしりつまった建物に圧倒されて、人ごみの中を上手く歩くことさえ出来なくて、人が多ければ多いほど、孤独を感じた。

主人公のまず一人目は、ハリウッドスターのボブ。でも日本のCMに多額のギャラでやってくる。たった一人で。その来方もビミョウにジミだし、何となく落ち目……かつての栄光……を感じさせる。
乗り気のしない仕事。判らない言葉。誰一人知った人のない土地。
そしてシャーロット。夫の仕事にくっついて東京に来た。彼女の夫はカメラマンで、投宿するパークハイアットで偶然出会ったハリウッド女優と顔見知りだったり、ちらとは業界をかすっているみたいだけれど、彼女自身はそのことに関心は薄く、仕事で忙しい夫においていかれて寂しい思いをしている。
二人は徐々に徐々に、出会ってゆく。出会っていきなり始まったりしない。出会い自体がゆっくりとクレシェンドしていく感じ。

ボブが出演するCMはサントリー。かつて父のコッポラ監督が出演するために来日、それについてきたソフィア監督にとって思い入れがあるという。その割にはCMディレクターの大仰なギョーカイジンっぷりや、「ロジャー・ムーアを知っていますか」などと、失礼な(というか恥ずかしい)ことを聞くカメラマンなど、アンマリな描写である。ついている通訳がさっぱり訳してくれないのは更にヒドい。加えてバカっぽい芸人が司会するトークショーに出演したボブのシーンなど、その番組をホテルで見ながらも、あまりのヒドさに途中で消してしまう彼に、日本人としてはヒヤッとしてしまう。ああ、確かに日本って、ハリウッドスターをあんなめにあわせてるよな……と。

CMや取材で招聘する日本人側ってあんなにヒドいんだろうか、ホントに。この映画はソフィア監督自身の体験がかなりおりこまれているというから……そうなんだろうか、やはり。
日本人は確かに、相手の気を悪くしないようにと気を使って、余計なことは伝えないようなことはある……「Do you know〜」は学校英語のクセがついているんだろうし、ギョーカイジンはどこの国もあんなもんかもしれない。途中で消される藤井隆(こんな役で世界中に配信とはちょっと可哀想)はいわずもがな。
もちろん、ソフィア監督自身、ちゃんと判ってくれていることなんだろうなとは思いつつ……キテレツな都市、東京の描写はいいけど、こういう人間の描写の部分にやっぱりちょっと、日本人としては正直ひいてしまうんだな。
でもそれはしょうがない……これは日本人を理解するための映画じゃないんだもの。そんな気分に陥らなければならないのは日本人だけで、これはしょうがないのだ。
でも割と劇場内はウケていた。若い人が多かったし……そういう意味でのライトな感覚はちょっと、うらやましかったりして。

ほんの、短い場面だけだけれど、京都が出てくる。夫に置いていかれて一人寂しいシャーロットが、東京を色々と散策するんだけれど、そこでは何を得ることもかなわず、京都へと向かうのだ。
修学旅行の生徒などでごったがえしているものの、ちょっと奥まったところに入ると静寂が待っている京都。
シャーロットはそこでそぞろ歩く花嫁の一行に遭遇する。
この場面はちょっとないぐらいに、美しかった。さんざん怪物都市トーキョーを見せられていたせいも多分にあるだろうけれど、綿帽子におしろいを塗った可憐なお嫁さんがお婿さんの差し出す手に奥ゆかしくとられて歩く様は、ああ、確かにこれが日本の美しさなのだと、思った。シャーロットが見とれているのも、納得。

確かに京都でこうくるのは、単純なんだろうとは思う。しかも東京と比べて、というのは、至極単純に違いない。
でも、確かにそうなんだから、仕方がない。どんどん変貌していく東京。それは裏を返せば、立ち止まる勇気を持たないこと。核の部分を持つことも叶わずに、ムクムクと成長していく東京はまさに……怪物なのだ。
京都はその核を守るために立ち止まり、立ち止まるために闘う強さのある街。だからこんなに美しいのだと思う。
あまりにも急速に変化し続ける東京は、いつかポッキリと崩壊してしまいそうな気がして、何だか怖いのだ。

その中で孤独を強烈に感じるというのは、まさしく。立ち止まれる場所のない東京。皆、過ぎ去ってゆく。
ゲーセンやパチンコ屋が描写される。あるいは、楽しそうに興じているカラオケシーンもそうなのかもしれないと思う。出てはいないけど漫画喫茶とかも。日本人のレジャー特有の、皆が皆一人で何かに向かって一心不乱であるという“楽しみ方”の異様さ。
日本人はもしかしたら、孤独を楽しむことが出来る唯一の国民性を持っているのかもしれない。

ボブはシャーロットに言う。「本当はCMじゃなく、芝居をやらなければいけないんだけど……」
このひとことで、判る。彼にとってこの東京にいることは、ネガティブ以外の意味を持ってはいないのだ。
ずっとほったらかしにしてきた家族に対する罪悪感。その家族から逃げるようにしてこの東京にやってきた。
毎日のように送られてくるfaxや郵便物は、まるで家族としての義務のような“会話”だ。彼も何とかそれに答えようとして電話で“会話”をしようとするけれど、実際の会話となると……よそよそしさをあわただしさに隠してそそくさと終わってしまう。
シャーロットが友人にかける電話も印象的だ。彼女は孤独に押しつぶされそうになって涙声である。でも普通の会話を装うシャーロットに電話の向こうの友人は気づいてくれない。これまた忙しそうな友人に気後れして、電話を切るシャーロット。
旅人が孤独なのは、こういう部分なのかもしれない。連絡をとる人たちは、自分がいないことなどまるで頓着せず、いつもどおりの日常を続けていて、その日常を旅人にジャマされることを、厭うのだ。

ボブがシャーロットに惹かれたのは、彼がスターであるということに対して、彼女が殆ど関心がなかったせい。ボブが出会う人たちは、スタッフは勿論、バーで偶然隣同士になった人たちも、彼がスターであり、先に先方が知っているということが前提。純粋な人対人の出会いではないのだ。
シャーロットだって知らないわけではなかったけれど、彼らには孤独な旅人という共通項があった。そして愛する人とちゃんと相対していないということも。
こういう部分で、年齢の違いというのはつゆほどのハードルにもなりゃしないのだ。彼らはまるで対等で、そして親密。スシやシャブシャブでランチを過ごす。
シャブシャブは最悪なランチなんだって。自分で料理をしなければいけないから。二人でつつきあうのがラブラブでいいのに。それが最悪というなら、そりゃ日本にはいられないわな……。

眠れぬ夜を共有し、シャーロットの東京での若い友達たちと夜通し遊び、ホテルの部屋で一緒に日本酒を枡で飲む(ちょっとヘン)。
そりゃ恋愛めいた雰囲気がないわけではない。いや、ハッキリとあったともいえる。酔いつぶれたシャーロットを抱き上げて部屋に運んでくるボブ。彼女のむき出しの肩に手を置いて、そしてそっと部屋を辞する。あるいは、ベッドに一緒に寝っころがって、シャーロットの素足にそっと手を置くボブ。エレベーターでぎこちなくおやすみのキスをしている間にしまってしまうドア。そして何より、別れのシーン。もう会うことも多分ないシャーロットを東京の雑踏の中追いかけて抱きしめ、泣き出す彼女と優しく唇を重ねるラスト!
期間限定の恋愛というのはあるんだと思う。終わらなければいけない恋愛。でもきっと一生忘れない。
こんな、キテレツな街の中で出会ったからこそ見つけ出せたお互い。だから、この街を出てしまえばもう終わってしまう……。
そんな舞台になれたのだから、東京を選んでもらって良かった、のかも。

インディーズの匂いのするスカーレット・ヨハンソンがこういう展開をするというのは予想外で、なかなか面白い。まさにノリにノッてる彼女。決して美人と言い切れないけど、その唇美人っぷり、アンバランスさが胸を騒がせる。それにしてもまだ二十歳!それでビル・マーレイとこんな関係(ってほどじゃないけど、でも精神的につながる方が難しいじゃない?)を演じてしまう!うーむ大物の片鱗が伺える?

日本語しか出来ない日本人が、一生懸命に日本語でコミュニケーションしようとする場面(活花とか病院とか)は、良かったけど、その場を切り抜けてしまえばその後の責任を持たないあたりがやっぱり日本人で……何かフクザツ。でもね、ラストクレジット、最後の最後のはっぴいえんど、はぐっときたなあ。これだけは唯一バツグン。素敵な日本文化じゃないの、なんて思っちゃう。はっぴいえんどだもの。まさに。ほろ苦いけど、これが二人のはっぴいえんどなのよ。
カラオケ屋でかすかに聞こえていた曲がトリをとる粋。「粋」ですよ、日本文化で一番重要なのは!★★☆☆☆


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