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「な」


2004年鑑賞作品

なぜ彼女は愛しすぎたのかCLEMENT
2001年 132分 フランス カラー
監督:エマニュエル・ベルコ 脚本:エマニュエル・ベルコ
撮影:クリステル・フォルニエ 音楽:
出演:オリヴィエ・ゲリテ/エマニュエル・ベルコ/ケヴィン・ゴフェット/レミ・マルタン/ルー・カステル/カトリーヌ・ヴィナティエ/ジョスラン・キブラン/ダヴィド・サアダ/エリック・シャディ/イヴ・ヴェローヴァン


2004/9/16/木 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
30歳の女と13歳の少年の恋愛、という内容に心惹かれたのは否定はすまい。そりゃあ私だってさ、こーゆー美しい少年とのそーゆーことをさ、夢想しないわけじゃないよ。年々ずーずーしくなっていくと言われる、年を重ねてゆく一人女の哀しさ、さ。そーいう女をおねーさんとして慕ってくれる美少年を夢想しないわけじゃないさ、ええ決してね。だから多分……ちょっとした期待を持って足を運んだんだわ、多分、ね。い、いや、そういう可能性を模索しているわけじゃ、決して、決して、ないんだけど(汗、汗)。

しかし、実際、観てみると、だ。
うぅ、エグい……。
これは、ツラい……。
なんだかしらん、えっらいディープな恋愛なんである。キスどころかディープキス、触れ合いどころかめっちゃセックス、である。おねーさんを慕う少年、どころか、最初から恋人として迫りまくり、「君が15歳だったら良かったのに」などという口説き文句を使う少年なんである。
いや……エグいとかツラいとかいうのは、だからではじゃない。
そういう、少年の方からの積極性を描いていながら、当然、性の手ほどきをするのは30女の方であり、あるいは欲望に満ち満ちているのは30女の方であり……うう、女が加害者の方である強姦に見えるなんて、キッツイよおー。だって、最初のその時、少年は恐怖のあまりバスルームに閉じこもってしまうんだもん。

いや、ていうか、そもそもがね、このヒロインを演じている女優さんが、監督も、それ以前の脚本まで兼ねてるじゃない。ちょっとその事実にまず、ひいちゃったのだ。だってそれって……彼女自身がアコガレとして持っているアイディアをそのまま自分で描いちゃったって形でしょ?きっと、この少年も彼女好みのコを選んだに違いない。でね……確かにこの美少年は美しいだけあって大人びてるし、マセたくどき文句も似合う子ではあるんだけど、でもそれでもやっぱり、言わされてる、やらされてる気分が否めないのは……こういう経緯を考えてしまうせいなんだと思うのね。リアルさが、ないのよ。だってさ……筋肉もまだまるでついていない、ひねればポキリと折れそうな少年と、もう熟々に熟した女との、キスやセックスシーンって……正直、観るに耐えないんだもん。顔の大きさなんて倍ぐらい、違うんだよ??まだぽよぽよと幼い唇の大きさだって彼女と全然違うのに、それで唇をむさぼりあい、舌を入れあいするのは、もう、見てられない。親子と言ってもおかしくない年の差。やっぱり性的虐待に見えてきちゃう。

うーん……それは、女の究極の夢をここで打ち砕かれたということでもあるんだろうなあ。確かにこれは狂気、だ。こういうことを頭の中で夢想しているうちはまだいい。その中での自分も美しくいられるもの。でも実際に、生まれたてのような肌を持つ美少年とベッドをともにしている図は……一人身女の空しさばかりがあぶりだされる。
だって、彼女にとっての恋愛って、やっぱりプラトニックじゃいられないんだもの。
彼女、マリオンにはもともと恋人がいる。年相応の、カラダの相性もすこぶるいいマチュー。でも……恋人、なのだろうか?そのあたり、マリオンはあまりはっきりとそう肯定していないように見える。マチューのこと、セフレとしてしか見ていないような気もし……フォトアーティストとして活躍しているマリオンにとって、結婚どころか恋人というくくりさえ、煩わしいのかもしれないし。
恋の気分、に飢えていたのかもしれない。多分ずっと忘れていた気分。
それを、まっすぐに気持ちをぶつけてくるクレマンによって思い出させられたんだろうけど、もはや彼女にとって恋はプラトニックだけじゃ、いられなかったのだ。もう知ってしまっているから。この年の女の恋愛には、どうしてもセックスはつきまとってしまう。それはもしかしたら……そのことで寂しさをまぎらわせて、愛と納得しているのかもしれない。その矛盾にうすうす気付いているから、マチューのことをまっすぐに恋人と呼べない自分がいて、そしてやはりそれを求めてしまうから、この少年にはそれこそが愛の証だと思いたがったのかもしれない。

でも……13歳の少年にとっては、そりゃそういう性的なことはものすごく興味の出てくる年頃だとは思うけれど、それが愛と結びつくまでには成熟していないから。成熟?……いや、その感覚こそがそもそも正しいのだ、きっと。性的衝動と恋愛は違うとこの年頃には素直にそう肯定できるのだ、多分。
クレマンはだから、ひどく順番が逆になってしまったわけだけど……30歳の大人の女と恋に落ちてしまったから、彼は気持ちの高まりを待たずして、セックスを覚えなければいけなかった。不安にさいなまれながら。13歳の少年の心と体は、そう、いくらこんなマセた子でも、やはりまだ別々だったんだと思う。
触ってみたい、キスしてみたい。そういう気持ちは無論、あっただろうけれど、それは相手を満たすためではなく、自分の欲求だった。でもそれがいつしか、相手の欲求にさらされることになる。そしてそれを彼女は愛だといい……彼にとってはそこまでの余裕はまだ、なかった。

そうだよ、結局捨てられちゃうんだよね、13歳の少年に!クレマンと同じ年頃の女の子と彼が仲良くしているのを見咎めるマリオンに、「クラスの子。好きなんだ」とこともなげに言うクレマン。「ふざけてるの?」と信じられないマリオン。避ける彼を追いかけて、誘拐まがいに車に押し込め、こともあろうにフェラで彼をつなぎとめようとする!
うっわ、コレはキツいわ、コレは決定打だわ、いっちばん、やっちゃいけないことをやっちゃったよ……。彼女には、自分こそがそれを欲していて、クレマンはそうではないことが見えてなかったことが……ここでハッキリと露呈されてしまった。グロテスクで哀れなシーン。非力なクレマンは大人のマリオンにまるで柔道の押さえ込みのように組み倒され、必死に抵抗する……イヤだ、ヤリたくない!と……こ、これは同じ年頃の女として、あまりに見るに耐えないんだな。
こんなことでしか、彼をつなぎとめる方法を知らない彼女を哀れだと思い、そして、そう、彼女にはそれしかないというのも何だか判る気がして……キッツい、のだ。

マリオンはセフレ程度にしか見ていなかったかもしれないマチューの方は、きっと彼女を愛していた。彼とのセックスは、それを愛だというのも無理なくしっくりくるような相性の良さがあった。少なくともマチューの方はそう感じていただろうと思う。これは……男と女、どちらが単純、なのだろうか。
一見、男の方と思えなくもないけど、でもこの期に及んで今更、プラトニックを希求する女の方がそうともいえる。そしてセックス=愛に疑問を抱いていたはずなのに、たった13歳の少年との恋に、セックスを求めざるをえない、この矛盾。

思えば、クレマンの方はそこまで求めていただろうか?マリオンと初めて会ったのは、彼女の甥のバースデーパーティーに、この甥の友人として呼ばれていたから。無邪気な男の子たちの一人として、クレマンはいた。深夜に大騒ぎしたりして、男の子らしい遊び方。その中に、いわゆる保護者の立場ではない、独身の女であるマリオンが、無邪気に入り込んだ。彼女にとっては無邪気だったに違いない。でも男の子たち……特にこの甥っ子とクレマンは最初から彼女に熱い視線を注いでいた。
この甥っ子の方はね、最初から男の子らしい、“身近な、年上の女性”としての、彼女へのアコガレなのよ。見ていてホッとするほほえましさ。クレマンとばかり仲良くするマリオンにあからさまにヤキモチをやいたりする。
そうだよね……マリオン、彼女この甥っ子の純粋な気持ち、気付いていたはずなのに。それなのに、クレマンへと傾いていく気持ちをどうしようもなくて、砂浜でゴロゴロ転がっていく、なんて無邪気な遊びすら、この甥っ子を図らずも無視するような態度で、クレマンとばかり、それに興ずるのだ。
これは、本当に……カワイソウ。

クレマンは確かに、積極的ではあった。でもこの積極的っていうのは……せいぜいがこの、遊びめいた気分においてだけのようにも、あとから考えれば思える。深夜のふざけっこで、他の男の子を誘引する形で、彼女に窒息するほど覆い被さった。そしてこの砂浜でのふざけっこだってそう。マリオンの仕事につき合わされるような形で会うのをイヤがって、「こんなデートなら、会わない」「二人きりで会いたい」なんてマセたこと言うけど、それでマリオンが期待するようなことを彼の方も最初から考えていたとは思えない。ただ二人きりになりたいだけで、その先のことをこの時考えていたとは思えないのだ。

クレマンの気持ちがマリオンから離れていくのは、マリオンがクレマンに執着していく度合いがどんどん強くなっていくからに他ならないんだけど、でも、一つの気になる事件があるのだ。マリオンはもともと喘息もちで……でも発作は長いこと出ていなかったんだけど、ある夜出かけたクラブのトイレで倒れてしまう。その場にはクレマンもいて、彼女をいち早く見つけるんだけど、非力なクレマンには彼女を起こすことさえ、出来なかった。駆けつけた店のスタッフが彼女を介抱するのを憮然として見つめていた。
あの時、彼は、自分が子供であることを、強烈に思い知らされたのかもしれない、などと思う。
冷たく彼女を捨てたように見えながら、彼の中にも決して小さくはない絶望があったのかもしれない、と。
そうでも思わなきゃ、女として、ツラ過ぎる。

「恋に落ちたの。13歳の少年に」
そう告白した娘に、一喝するお父さん。あのシーンは白眉なものがあった。そう……結局お父さんが正しかったんだよね。「13歳の男の子に、何を期待しているんだ?」そう、激昂したお父さん。30歳ともなれば、もう恋愛する相手は最後の恋人になることを、期待するのはやはり……当然といえば、当然。13歳の少年に、例えば彼女の年までの、17年を強要するなんて、とてもとても、ムリだ。
娘の愚かさよりも、娘が絶対に傷ついてしまうことがあまりにもお父さんには判っていたから、だから……。

女が、年上の男を選ぶ確率が多いのがナゼなのか、なんか判ったような気がする。女の方がグロテスクに見えるあまりの辛さ。男にとって少しでもカワイイ女である方が、辛くないんだもの。恋よりも錯覚した愛の方が、そして愛するよりも愛される方が幸せだと思ってしまう気持ちが、判っちゃう、何だか。★★☆☆☆


南無一病息災
1973年 18分 日本 カラー
監督:岡本忠成 脚本:岡本忠成
撮影:吉岡謙 田村実 音楽:及川恒平
声の出演:及川恒平

2004/7/23/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
この日の短編特集ですっかりホレてしまった岡本忠成作品だけど、その中で特に気に入ったのはコレ。一瞬のうちに笑わせるシュールな超短編「人間いじめ」シリーズとはまた違って、何か心がきゅーんとあったかくなるんだな、コレが。しかしそういう中にもうわっと思うようなブラックな味はやはりあり、でも昔話風に語られるそれが……そう、昔話っていうのは、そういう毒味ってのは洋の東西を問わずあるもんなんだよな、という認識をあらたにした次第。そういうものを子供時代に聞き覚え育つからこそ、逆に善悪の判断がつく大人に成長するわけだし、そういうことを子供には見せたくない、聞かせたくないとやたらに隠し立てをしてはいけないのよ、などということまで考えちゃったりしたんである。

物語は、病気の女の子に語り聞かせる形式。しかもそれが全編、及川恒平によるフォークソングの語りで行われるんである。この及川氏という人、私は知らなかったんだけど、優しく語り、優しく歌う、その柔軟なメロディとリズムが、たまらないんだな。絵馬をイメージして杉板に描いて作られたという、塗り絵の切り絵風?の動画も素朴ですっごくカワイイんだけど、この及川氏の起用が作品のあったかさに非常に貢献している。それがね……この病気の女の子に語り聞かせるという、その女の子への、控えめな、でも懸命なエールになっているのがすっごくよく判るから……親から子への愛情を、深く深く感じさせて、何か……ちょっと泣きたくなるんだよなあ。

ヒロコよ、ヒロコ、おっかなくなんか、ないよ。と始まる物語。このヒロコという女の子が何かの病で、床に伏していて、赤鬼と青鬼の絵本を読んでいる……そして誘(いざな)われるんである。赤鬼と青鬼の物語。鬼といってもちっちゃな鬼。小鬼である。弱々しいちっちゃな青鬼は、通りかかった同じように弱々しいちっちゃなヨモ平に取り付く。その胸の中に住み着く。弱々しいヨモ平はそのせいで咳病みになっちゃったりしてもっと弱々しくなっちゃって、生活にも苦労してしまう。青鬼はこのヨモ平の中が気に入ってしまって、ずっと、ずーっと住み続けるんである。
一方、赤鬼の方は、最初から体力満々。同じように体力満々のゴロ平が通りかかっても、その時にはやり過ごすんである。ゴロ平は体力があるから狩りもお手のもので、あっというまに家が満杯になるぐらいの獲物をとってくる。腹いっぱい喰らって酒もどんぶりでかっ喰らう。一方青鬼に住まれたヨモ平は、そんな風にバリバリ狩りをすることも出来ないから、知恵をしぼって罠で狩りをし、とりあえず自分が食う分だけは確保して、酒もそこそこに、弱い自分をいたわって暮らしているんである。

そのうち、弱いヨモ平にはやはり弱い嫁さんが来て、弱い子供たちがいっぱい出来る(弱い嫁さんだの弱い子供たちって言い方が凄いけど)。弱いから、分を知っていて、その中で静かに穏やかに幸せに暮らす術を、子供たちも身につけて育ってゆく。一方、自信満々のゴロ平は若くてピッチピチ(って言うのよ、ホントに)の嫁さんをもらって、毎晩可愛がって(って、言うのよ、ホントに!)意気揚揚。その嫁さんがめでたく赤ちゃんを産んだ時に、事件は起こるのだ。

あの赤鬼は同じ赤鬼の嫁さんをもらって、たくさんの小鬼が元気に生まれた。赤鬼一家は、この時に満を持して行動を起こすのだ。ゴロ平は、嫁さんが赤ちゃんを産んだその傍らで、相変わらず豪快に酒を飲み干してご満悦。その中にそうれとばかり一家で飛び込む。ゴロ平の体中に行き渡った赤鬼一家は暴れまくる。ついにゴロ平は体の中から弾けて(!)血を吐いて死んでしまう(!!)。それを見た出産直後の奥さんもショックで死んでしまう(!!!)。生まれたばかりの赤ちゃんも、両親が死んでしまってほっとかれて死んでしまう(!!!!)。

その後も、ヨモ平の方はずっとずっと長生きして、病気持ちだったのに、それを気にしながら慎ましく暮らしていたから長生きして、家族みんなに涙ながらに見送られて静かに息を引き取るのだ。しめやかに行われる葬儀。いつでもおじいちゃんのことを皆思い出す。朝日に一日の無事を祈るのも、外でハデに拍手打っていたのを、慎ましやかに布団の中で行うようになる村人たち。幸せな人生、それは一個くらい病気を持っているぐらいがいいんだよ、それが南無一病息災、ということなのだと、病気のヒロコちゃんに言って聞かせる物語だったということなんである。君の中に青鬼が一匹いても心配ない。君が体をいたわって暮らしていればいずれ出て行くし、万が一出て行かなくても心配ない、仲良くやっていけば長生きするんだよ、と。赤鬼に入られて体バーン!はかなり……ショッキングだったけど、このリアルに、そして優しく病気の女の子を勇気づける物語はとても暖かくて、絵馬の切り絵の感じも懐かし可愛くて。

人生に慎ましく感謝して過ごして、長生きしたヨモ平。ヨメも弱い、子供も弱い。でも穏やかに暮らしてゆく、美しい人生ってコレだよなあ。弱いことは、なあんにも恥ずかしいことなんかじゃないのだ。ね、ヒロコちゃん。★★★★★


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