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「み」


2005年鑑賞作品

乱れ雲
1967年 108分 日本 カラー
監督:成瀬巳喜男 脚本:山田信夫
撮影:逢沢譲 音楽:武満徹
出演:加山雄三 司葉子 草笛光子 森光子 浜美枝 加東大介 土屋嘉男 藤木悠 中丸忠雄 中村伸郎 村上冬樹 清水元 十朱久雄 浦辺粂子 伊藤久哉 竜岡晋 左卜全 小栗一也 草川直也 佐田豊 一の宮あつ子 中川さやか 青野平義 田島義文 松本染升 石田茂樹 赤木春恵 津路清子 浦山珠美 音羽久米子 宇野晃司 小川安三 アンドリュー・ヒューズ デイヴ・ビューリントン 井蘭子 二本柳寛 小林桂樹 大泉滉 進藤英太郎 田中春男 山村聡 中北千枝子 谷間小百合 立花満枝 音羽久米子 浦辺粂子 滝花久子 出雲八重子 長岡輝子


2005/10/23/日 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
「乱れる」で青臭さ全開の加山雄三にひたすらドキドキとし、あれはでも受ける高峰秀子のスリリングがあったからだったのだわー、と思ったのは、本作での司葉子は正直高峰秀子ほどのスリリングを感じないからなんだけど。加山雄三というのはしかし、決して演技が上手いタイプじゃないんだよね、正直ここらあたりがギリギリかもしれない。彼の魅力は「乱れる」でもそうだったけど、まっすぐな、硬質な魅力。ここでもだからこそギリギリヤラれる感じ。複雑さはあまり、ない。この役はそのまっすぐさがヒロインにとっては憎らしくて、でもそんな憎むべき相手なのに愛するようになるのは、この硬質さにあるからだと思う。

冒頭、いかにも幸せそうな若夫婦。夫、江田は通産省のエリートで、念願の海外派遣の辞令が出て、妻の由美子は妊娠が判って祝杯をあげているところ。どうでもいいけど、妊婦がビールを呑んじゃいかんだろうと(しかもおかわり注いでるし)心の中でツッコミつつ。しかしその直後、夫は自動車事故でこの世を去ってしまう。
彼を轢いたのは貿易会社に勤める三島という男。通産省の、しかも輸入促進課のエリートを死なせてしまったということで、彼の会社は慌てて大きな花輪など葬式に送って、会社の者を丁重に挨拶に送るんだけど、よせと言われてもガンコに三島が同行してくるんである。あの事故は車のパンクによる不可抗力だった。しかも霊安室でチラリとかわされた会話によると、どうやら江田は酒に酔っていて、しかも弱かったらしい。フラリと道路に出てきてしまったことも考えられる。後に三島が無罪になることからもそう推測される。三島は人間的な自責の念は感じている、出来る限りの補償はしたいと考えながらも、自分は罪を犯してはいないというまっすぐな信念を最後まで曲げることがない。

それが加山雄三だからなのかイヤミじゃないんだよね。普通はいくら自分に落ち度がないにしても、人を轢いて死なせてしまったら、もっとオロオロとして、被害者の前に顔なんか出せないだろうに、彼はイヤな思いをするのを判っていながら堂々と、しかし粛々と頭を下げる。由美子にも個人的に会って、補償を申し出る。この場面で、由美子は姉の文子と共に彼に会うんだけれど、もう裁判の判定は出ていて、無罪になった、と彼は自分の口で言う。「まあ!それじゃ、慰謝料を払う必要はないとおっしゃるんですの」と随分と文子も直裁に言うけれど、このあたりもそんなにベタつかず、むしろ当然の疑問、といった感じに投げかける。こういうところが成瀬演出の凄さだと思ったりするんだけど……普通、こういう会話って、もっと感情的になるもんだよね。でも感情的になる部分はあくまでメインの方に傾けといて、こういうとこは実にビジネスライクなの。だって三島は、「これは僕の給料明細です。大した額はお支払いできません。サラリーマンですので月賦にしてくださるとありがたいのですが」とまで言うんだもん。それに対して、そう、唯一感情的になっているのが由美子。ムリもない。当然である。当然のごとく、ベタに、「そんなお金なんていりません。夫を帰してください」と涙ながらに言って彼を追い払うんである。

なので、お金に関するあれやこれやの手続きをとりまとめてくれたのは文子だった。三島からのお金も文子の元に届けられることになった。しかし遺族年金を狙っているのか、文子は夫の実家から除籍を迫られている。しかも赤ちゃんも……堕ろしてしまった。堕ろしてしまった、んだよね。流産のようにも見えたけど……何の説明もなく突然、入院しているシーンになるんだもん。しかもそこにも三島は顔を出して……当然由美子は「帰ってもらって!」となるわけだし。そりゃそうだ……。
むしろ、赤ちゃんが、彼女の心の支えになると思ったんだけど、やはり夫の実家との兼ね合いでそうもいかなかったのかなあ……通産省のエリートが出るくらいの家だから、きっと立派なご実家で、未亡人になった嫁の子供なんか、ジャマだったのかもしれない。彼女が子供を産んじゃったら、それこそ除籍の問題だってそう簡単にはいかなくなるんだろうし。
夢のようだった由美子の生活はあっという間に転落する。小さなアパートを借り、あやしげな不動産屋にパートで住み込む。まあそれでも、女が夫を亡くしたら再婚するしか道がない、という時代よりは(古い時代の成瀬作品ではそういうのが多々あったし)マシなんだろうな。「女一人生きていくのは大変」と言いながら、まあなんとかやってはいけてるんだから。

一方三島は、不可抗力とはいえ、通産省のエリートを死なせてしまったことで、青森の小さな出張所に飛ばされる。しかも上司の娘との仲も壊れてしまう。しかしこの娘もねー。二人の別れの場面はちょっとスリリング。彼の部屋に来ている彼女。転勤の話を聞き、ついてきてくれるか、という彼に無言。「ごめんなさい。私……ダメなの。お父さんから言われたからじゃないのよ」お父さんから言われたからじゃない、なら余計にヒドいじゃないのさ……つまりアンタは出世コースから外れた、人殺しなんてイヤだっていうんでしょ。その後、彼女は部屋のカーテンを閉めるんだよね。え!?何で閉めんの!それって、アレ!?とかこっちが勝手に盛り上がってると、まあ、アレだったんだろうけれど、三島は彼女にそっと近づくけど、それはアレじゃなくて、カーテンを開けて、まあ、そうだよね。だってそんなの、あんまりミジメだもん。そして二人は終わってしまう。

奇しくも青森というのは、由美子の田舎だった。結局由美子は義姉からの誘いに応じて、実家の旅館を手伝うことになり、青森へ帰るのだ。三島が青森に行くことは知っていたのに、それを決意したのは何となく私は……やはり彼が気になる部分があったからじゃないかと思うんだよね、やっぱり。予感というか……。
勿論、彼女自身は彼を憎んでいると、憎むべき存在なんだからと、当然思ってて、青森に行ってまず最初にやったことは彼を訪ね、差し出された金を返して、もうこのお金は結構ですと、江田からは籍を抜かれたし、あなたが金を払う義務はないんです、と言うことだった。毎月支払われるこのお金が、私を縛り付けると。何もかも忘れてやり直したいんだ、と。
彼女の言うことはまあもっともだし、三島も納得して金を引っ込め、別れるんだけど、でも、そう、忘れることなんて、出来ない、双方共に。この時ね、パチンコ屋でヒマつぶしをしている彼を訪ねて(事務の女の子にことごとく行き先を把握されちゃってるところが、小さな田舎町だよなあ……)由美子が現われた時、その彼女を呆然と見つめていた三島、後に「あの時、肉親に会ったような嬉しさを感じた」と彼は言う。被害者と加害者という、相容れない関係なのに、そんなことをさらっというまっすぐさがいかにも三島であり、加山雄三なんだけど……。彼が平身低頭、ごめんなさいタイプの男だったら、由美子もただただ憎み続けることが出来たんだろうけれど、こんな調子だから、由美子は彼の屈託のない笑顔に、仏頂面を続けることがだんだんと出来なくなってしまうのだ。

というのは、この場面を乗り越えた後なんだけど……。三島はいわば彼女から拒絶されて、ヤケ酒を呑んで帰ってくる。忘れることなんて出来ない、この罪は彼に一生ついてまわる、十字架を一生背負わなければならない、その覚悟で彼は今生きているのに、それを突然拒否されて、行くところもなくさまようようなやりきれなさを抱えてしまう。でもこの時点で、やっぱり三島は由美子のことを……思っていたからじゃないのかな。彼を訪ねてきた彼女を見つめるあの呆然としたような表情は。

その時きっぱりと別れたはずなのに、不思議に二人はその後何度となく会うんである。偶然の時もあるけど、大抵はそうじゃない。由美子が三島を本当にただただ憎むべき存在と考えていたら、彼と会うことなんてカンタンに避けられるはずなのに、曇った表情ながらも彼女は彼と会うことを避けることはしないんだよね。そもそもこの青森に来たことがそれを決定付けていたんじゃないの。
でも由美子は三島に、どこか私の目の届かない、遠いところへ行ってしまって!と……その後、彼女の旅館に三島が得意先を連れて訪ねてくる。そして客を送り出して二人っきりになった時、三島は酔った勢いで彼女に思いをぶちまける。あなたは金を断わることで、あのことを忘れると言うことで、僕を苦しめようとしているんだ、と。忘れられるわけがないんだ、僕もあなたも、と。この時の、おびえたような目の由美子が、いったい何を考えていたのか、こんなことを言われる筋合いは、確かに、ない。ただ罵倒してもいい相手なのに、何も言えない由美子、しかもその後、ライターの忘れ物を届けに彼に会いに行くし、その時に笑顔も見せ、彼と打ち解け、一緒に十和田湖まで行くんだもの。

十和田湖で、三島は熱を出して倒れてしまう。再三、あなたは先に帰ってくださいと、熱のうわごとでまで言う三島に、つきそい続ける由美子。「手を握っていてください……どこか遠いところへ落ちていきそうなんです」熱に差し出される手にそっと手を置く。彼が寝入ったのを確かめて、一度は手を離すものの、また苦しげに差し出されるその手を、彼女を求めるようにかすかに動くその手を、彼女は握らずにいられない。
絶対に、ムリな関係だと、二人が急速に惹かれ合っているのは判るけど、絶対に、ムリだと判っていても、だからこそ、この皮肉な運命の出会いに心騒がずにはいられない。
それに、ここに来て、由美子は様々な愛の形を見るのね。それまでは、つまりはエリート夫婦だった頃には思いもしなかったような。義姉は妻子ある人としょっちゅうケンカしながらも、ラブラブで、その思いに臆することがない。そして旅館に泊まった意味ありげなカップルは入水心中を遂げてしまう。捜索している様子を思いつめた表情で見ている由美子。

西パキスタン、ラホールへの転勤が決まった三島が、最後の別れを告げに来た。山で山菜をとっている由美子に声をかける。驚いて振り向く由美子。「驚いたあなた、可愛かったなあ。子供みたいで。でも色気もあった」そんなことをくったくなく言う三島に、「悪い人ね」ともう由美子は笑顔を惜しむことはない。あんな出来事なんて、なかったかのように、一瞬思えもするけれど、彼女に近づき、唇を奪い、パキスタンについてきてくれないかと言う三島に、彼女が首を縦に振ることなど、やはり出来っこないのだ。「あなたは一般社会にとらわれているだけだ」そう言われたって、それが人間ってものなんだもの。三島はさようなら、と告げて、去っていってしまう。これが最後の別れだと思ってたんだけど……。

由美子は、もう三島が帰るというその日、彼の下宿を訪ねるんである。かなり、ビックリした。階段の上から由美子を呆然と眺める三島、彼と目を合わせながら、ゆっくりと階段を上がってくる由美子のじりじりとしたアップに、武満徹のドラマティックな音楽がのせられて、ドキドキする!しかも二人がタクシーで向かった先は、山あいの旅館。「部屋空いてますか」なんて、チョット、ちょっと、ちょっとー!何する気!?って、アレしかないでしょう!あるのね、いつの時代でもこんなこと!などとまたしても私は一人勝手に盛り上がる。けど……二人、その途中、ひしゃげた車を見てしまうのね。自動車事故。表情を硬くして顔を見合わせる二人。

旅館に入って、二人きりになって、今度は由美子から積極的に彼に口づけるんだけど(うわー!!!……って、いやなにもそんなに興奮することもないんだけどさ……でも二人の関係と今までの心の行き違い、特に彼女の心の変遷を思うとやっぱりうわー!だよなー)、救急車の音がして、どうやらあの事故の被害者らしい、とりあえずこの旅館に運び込まれたケガ人を搬送していくのを見てしまう……妻らしき女性が、包帯ぐるぐるまきの男性に、「あなた!あなた!」と泣きながらすがりつくのを。思い出さないわけがない。そして消すことが出来ないことだというのも、二人は今さらながらに悟って……ひょっとしたら由美子は、ここに別れるためにじゃなく、本当にひょっとして、三島についていくつもりで来たのかもしれない。でもこうなると最後の逢瀬さえ、哀しいものになってしまうの。「お風呂にどうぞ」という女将に、三島は「すぐに夕食を運んでください」と言う。もう、アレもなにもないんだもの。二人しんみりと食卓を挟んで、泣き出す由美子に「困ったな……」と三島はもう諦念のような笑顔を浮かべ、「幸せになってください」とそう、言うしかなくて。

脇役の、由美子の義姉である森光子がすっごく可愛かったなあ。彼女今でも信じられないくらい若いけど、その奇跡のような若さじゃなくて、リアルな感じの可愛い年のとり方で、しわさえ可愛いんだもん。まるで女子中学生みたいにおきゃんで、それでいて女将としてのシッカリさかげんで、由美子を気に入っているお得意さんと執拗に引き合わせようとするんだけど、それも由美子が「お義姉さんもガンコなのね」と苦笑すると「あーら、やられちゃったな!」なんて笑い飛ばしたりして、ちっともイヤミじゃないんだよなあ。で、彼女は由美子と同じく未亡人なんだけど、可愛がってくれているダンナさんがいて、その彼の本妻としょっちゅうもめごと起こしててさ、そのダンナさんを演じる加東大介もまたイイんだよなあ。あんなコメディ系の体格と顔なのに(笑)ケンカになって彼女をひっぱたいたりもしちゃって、ホントしょっちゅう大喧嘩なんだけど、その次のシーンでは、かならず、そんなケンカなんかどこへやらですっかりラブラブで、彼女の手をいじくってなめようとしたり、胸元に手を入れようとしたり、オイオイ!なの。でもそれがまた可愛くってね、主人公カップルのシリアスと対照的なだけに、実になごむのよね。★★★☆☆


乱れる
1964年 98分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:松山善三
撮影:安本淳 音楽:斎藤一郎
出演:高峰秀子 加山雄三 草笛光子 白川由美 三益愛子 浜美枝 藤木悠 北村和夫 十朱久雄 柳谷寛 佐田豊 中北千枝子 浦辺粂子 中山豊 矢吹寿子 清水元 西条康彦 小川安三 瓜生登代子 浦山珠美 大川秀子 矢野陽子 田辺和佳子 清水由紀 紅美恵子

2005/9/21/水 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
うわ、ヤッバーい、ヤバイ!すんごいドキドキする、ドキドキする、ドキドキするッ!こんな緊張感に満ちた映画を観るのは久しぶり。しかもあのオチ!あのラスト!何あれ!いや予測は何となく出来たけど……あのフラフラと酔って打ちひしがれている、暗闇の中の彼の背中でなんか予測は出来たけどッ!でもッ!あれしかやっぱり結末はなかったとは思うけど、でもッ!あー、もういきなりオチから言っちゃいそうだよ、ああ、もう、ダメ……。

あらすじだけを追ってみれば、それはよくあるメロドラマなのかもしれない。未亡人の義姉をずっと思慕してきた義弟。10も違う二人。しかも時代は高度経済成長期にさしかかろうとしてはいてもやっぱりまだまだ古くって、劇中、義弟の幸司に思いを告げられた義姉である礼子が「幸司さんと私では生きた時代が違うのよ」と言うように、この激動の変化を遂げている日本のこの時代、女が10年上というのは、きっと今以上に大きな差があるのだ。だって普段は洋服だけどひざ下のタイトスカートにエプロン姿が常で、お出かけの時にはつつましく和服が似合ってて、みたいな彼女と、いかにも若さを謳歌してシャレたスーツで胸元にチーフなんかあしらっている彼とではやっぱり明らかに違うんだもの。

礼子の夫は、戦争にとられて死んでしまった。結婚生活はわずか半年だった。それから18年もの間、残されたちっぽけな酒屋を、空襲で焼けてしまってもあきらめず、戦後の混乱期を乗り越えて、礼子はその細腕で守ってきた。夫の妹、弟の成長を見守りながら、妹二人は結婚し、あとは弟の幸司がこの店をついでくれればと思っていた。
しかしこの幸司、大学まで出たというのにせっかく勤めた会社も半年で辞めてしまい、毎日何をするともなくのらりくらりと過ごしている。
礼子を演じるのは高峰秀子。この義弟とは11違うという設定で、まあ実際もそれぐらいは違うんだろうと思うし、ヘンにムリして若作りしたりってなことはないんだけど、飾らない、まるでスッピンのような働き者の未亡人が凛々しく美しく、なるほど義弟が彼女をずっと思慕してきたというのが判る気がするんである。
この義弟は加山雄三。加山雄三ッ!私、恥ずかしながら若大将シリーズとかも観てないんで、こんなマトモに若い彼を見るのは初めてで。彼は万年青春って感じの人だけど、ホントに、ホンキで、青臭い青年の彼を見ると、もう本当に……青臭くって。彼は自分の中にその思いをずっと、そう18年も秘めてきたわけだけど、でもやっぱり幼いんだよね、青いんだよね。そのまっすぐな思いが怖くなるほど。その彫りの深い顔で「僕は義姉さんが好きなんだ!」と告白するシーンが、もう、もう……あー!こんなに映画でドキドキしたのって、いつ以来って感じ!

そもそもこの映画がどういう話かは知ってたし、だからこういう場面がくるのは予測していたわけだけど、前半は結構人間関係をじっくり語っていくから、油断させられちゃうのよね。小さな小売店が並ぶ、どこにでもある商店街。そこへスーパーマーケットが入り込んできて、商品の安さでそれまでの客を軒並み持っていってしまう。なじみの客さえ、「あのスーパーではいくらで売っていた」などと言うもんだから、その値段で売らざるを得なかったり。
「スーパーなんてスーっと出てきてパーッと消えちまうと思ってたんだけどねえ」「先々ソンするのはお客なんだよ」そんな負け惜しみの言葉が、現代に生きている私たちには、そうじゃないのが痛切に判るから……人間というものは、なじみとか縁とかいうものより損得勘定で動く薄情な生き物なのだ。
危機感を覚える中、自殺する店主も出てきてしまう。幸司はこのままじゃ森田屋酒店も先がない。スーパーマーケットにする時代だ、と姉、久子のダンナに接触するんである。

幸司はまるでやる気のない、遊んで暮らしていければいいやみたいに見える若者なんだけど、実はそうじゃないんだよね。というか、この姿は偽りの姿だったのだ。
彼がせっかく就職した会社を辞めたのは、転勤でこの地を離れなければならなくなったから。彼は礼子が好きだったから、彼女の側にいたかったから、会社を辞めた。
でもそんなことおくびにも出さず、いかにもナマケモノだから会社を辞めたんだと言わんばかりに毎日ブラブラとしていた。
でも地域にはスーパーマーケットが隆盛を極め、森田屋酒店の未来も危ない。
彼は、店自体にこだわりはないのだ。この店を礼子が守ってくれたからこそ、この店と彼女を守りたいと思って、時代に即したスーパーマーケットのアイディアを思いついたのだ。
久子のダンナが資金を出してくれると言ったんで相談したんだけど、でもこのダンナ、自分を専務にしてくれとか、礼子はハズせとか言うもんだから彼は激怒してしまうわけ。

礼子は、でもたった一人、他人なわけだから、常に微妙な立場なんだよね。
結婚後半年で夫が死んでしまって、子供もいない。
彼女がこの店を守ってきたのは事実。でも今となっては、その亡き夫の妹たち、久子(草笛光子。えー!この人こんなゴージャス系美女だったの!)や孝子にとっては、まあ義姉さん、今まで頑張ってきたんだし、若いんだから再婚でもして幸せになったらどう、ってな感じなんである。
彼女たちはね、確かに礼子がこの店を守ってきたことはつぶさに見てきたから知っているし、世話になってるし、ありがたいってはホントに思ってるんだよ。でも……嫁いで、外の人間になってしまうと、ざっくり客観的に、言ってしまえば冷たく物事が見えてしまうのかもしれなくて。つまり礼子がこのまま店にいて、幸司がスーパーマーケットの夢を実現して、そうならなくてもとにかく彼が店を継げば、ゆくゆく彼が結婚して嫁さんと礼子とそして姑のしずとが一緒に暮らして働いてなんてことになったら、ややこしくなるから、と。それはつまり……まあ彼女たちもあっさりぶっちゃけちゃってるけど、つまりは財産問題とかいうところでね。恐ろしいなー……と思う。だって彼女たち、礼子さんを尊敬して尊重して認めてるけど、そこの点はやっぱり完全に別に考えてるんだもん。それがアリアリなんだもん。礼子にホレこんで息子の嫁に迎え、今でも絶対の信頼を寄せていて、彼女の幸せを考えたら再婚の方がいいだろうとは思いながらも手放したくない、傷つけたくないと思っている姑、しずとはその点、全然違うんだよね。しずだって世間的なことや先行きや、何より礼子が幸せになる方向性を考えたら、この家から出て行かせてあげることが最良だってことは判ってるんだけど、ずっと一緒に暮らしてきた彼女は礼子に情が移っていて、とてもそんなことは言い出せないわけ。

でも一番出て行って欲しくないと思っているのは当然幸司なわけで。彼が、義姉と義弟という関係を保ち続けながら、もうガマンの限界で気持ちをぶつける深夜の場面、今思い出しても胸がバクバクするよ!深夜。いつものように遊び暮らして帰ってきた彼。その日の昼間、礼子は彼のいかにもカルいガールフレンドが訪ねてきて不快な思いをしているんである。「一週間に一度、ウチ泊まりにくるかな。つまりはソウイウ関係。でも私他にボーイフレンドいるし」みたいな女。うわー!この時代に既にソウイウ……いやそんな風に考えちゃうなんて、私ってマジメなのね?ま、その女は実際そんなカルイ女なんだろうけれど、幸司は別にこの女に執着しているわけじゃなくて、礼子には手を出せないから、彼女への思慕は純粋だから、礼子には、ただ側にいられれば幸せだから……その他の時間をそんな風につぶして、「義姉さんに叱られるのがシュミなんだ」なんて言うのだ。
礼子がそんなカルい女と付き合うのはよして、と幸司に言ったのは、知らず知らず、嫉妬の気持ちがあったのかもしれない。知らず知らず、この青臭い弟が好きになっていたのかもしれない。何にせよ、この彼女の言葉が起爆剤となって、幸司は長年の思いを口にしてしまう。
ああ……もう、この場面の、なんてドキドキすることよ。深夜の闇の中、階上にはしずが寝てて、帰りの遅い幸司を待っていた礼子に浴びせられたこの言葉で……。

礼子はずっと幸司を義弟として見てきたわけで、なんたって11も離れているわけだし、ホント弟だったわけ。でも彼から真剣に告白されて、突然気づいてしまったんじゃないかって雰囲気なの。彼がいつのまにか、立派な体躯の青年になっていたことを。
もう、ここからの二人の描写がドッキドキなの。彼の気持ちを知ってしまった礼子は、まるで若い女学生のように平静ではいられない。ベルの鳴る電話をとろうとして二人でお見合いしちゃったり、注文の酒瓶をとろうとしてぶつかりそうになって見詰め合っちゃったり、それはそれはもう……言ってしまえばベタなドキドキなんだけど、ベタというのは基本のドキドキで、もう心がざわめいて仕方ないの。あの告白をしてから、幸司はいきなりマジメになった。従業員が辞めてしまったということもあるけれど、今までは手を出しもしなかった配達などを一手に引き受けて、商店街中からいぶかしがられるほど。
それは一方で、スーパーマーケット計画を棚上げしたともいえる訳で。
礼子は、耐えられなくなっちゃうの。これはね、後に語られるんだけど、告白されてからというもの、彼のことを目で追っちゃう。いないと不安になる。でも側にいるともっと不安になる……それって、幸司に恋したっていうことこじゃない。
礼子だって、人生を生きてきた女である。そんなことにはとうに気づいている。
だから彼女は決心するのだ。この家を出て行くことを。その決意をわざわざ寺に幸司を呼び出して伝える場面がまたドッキドキである。そんなの、伝えなくても済むことではあると思う。彼の彼女への思いをみんなには言わないでくれということぐらいは、こんなシチュエイションをわざわざ作らなくても済むことだと思う。でも礼子は幸司に恋してしまったから、きっと彼に相対して直接言いたかったんだろうなあ。

礼子はね、幸司、姑のしず、小姑の久子と孝子を呼んで、自分はこの18年、頑張ってきたけれども、この家に犠牲にされたかもしれない、それに自分には好きな人がいる、何より自分がこの家から出ることが最良だと思う、と告げてその日のうちに郷里に旅立ってしまうのね。
18年、この家に犠牲にされていたと言ったのは幸司だった。それを礼子は激しく否定した。だから幸司は、そんなはずはない、って繰り返し言う。でも礼子との約束だから、彼女への思いはみんなには言わず、礼子に、なぜそんなウソをつくんだと責める。好きな人がいるなんていうのも、ウソだろうと。そう言えば、みなが罪悪感を持たずに彼女を追い出せるから……。
礼子は、それはウソじゃない、と言って、亡きダンナの写真をカバンに収めるんである……。

でも、郷里に旅立つ礼子を、「見送る」と言って、幸司は汽車に乗り込んできた。長時間乗り続ける鈍行列車にどこまでもついてきた。みかんや駅弁や週刊誌を共有し、途中停車駅で発車ギリギリまでソバをかっこんだり。最初は硬い表情だった礼子も、なんだかただ幸司と楽しい旅をしているような錯覚に陥ったのか、段々笑顔を見せるようになり、仲睦まじい旅行きのように見えてくる。
でも幸司が居眠りをして、その寝顔を何気なく見つめているうちに、礼子の瞳に涙が溢れてくる……。
なんとも説明の仕様のないこの涙。礼子はそれなりに説明はしたけど、でもその複雑で繊細な思いは説明しきれないものだもの。この時の、本当に感情を抑えらずに涙を瞳に膨れ上がらせた高峰秀子の表情には、もうホントに……心臓をわしづかみにされてしまう。

でも、それ以上にわしづかみにされるのは、その湧き上がる感情に押される形で途中下車した温泉宿での彼女なんだよね。
その、途中下車、幸司の薬指に紙縒りを結び付けたりして、あなたが小さい頃、こんな風に私の指に結んだのよ、なんて言って、朝までとっちゃダメよ、なんて言って。ああ、なあんて艶っぽいのかしらッ!
でもそれが、切ない別れのための儀式だってことぐらい、わかってる。礼子は幸司の無邪気な寝顔に、自分みたいな年増が未来ある彼を巻き込んじゃいけないって思ったから、でも彼のこと、好きになっちゃったから、一晩だけの思い出を、と思ってこの温泉宿にやってきたに違いないのだ。
そんな思いがあるから、寄り添う様も実にしっとり色っぽいんである。彼の抱擁にギュッ、と、密着度200パーセント!って感じで抱きしめあう二人にもおー、ドキドキするんだけど、いざ唇を、という場面で(もー、さっさとくっつけちゃえ!って念じながら観てたけど……そうならないだろうな、というのはなんとなく、予感してた……)おびえたように礼子は身を離す。やっぱり、ダメだって。あなたは明日の朝のバスで帰りなさいって。もう帰らない、義姉さんと共にいるんだと言い続けてきた幸司、この彼女の本能的な拒否に、水を浴びたような顔になって……出て行ってしまう。

彼ね、寂れた飲み屋から電話を入れるのよ。初めて告白した日と同じように、礼子は泣きながら「怒ってないから、帰ってきて!」懇願する。でも、その夜、幸司は帰ってこなかった。酔っ払った挙げ句、崖から落ちて死んでしまった。んだよね?ムシロをかけられた彼がタンカで運ばれてく。こぼれた右手の薬指にあの紙縒り。彼を待っていた彼女はぼんやりした顔で朝、宿の障子をあけると、タンカで運ばれていく人がいて、その右手に気づくのだ。眉毛をピクピクと震わせて、慌てて階段を駆け下りて追いかける彼女。どんどん運ばれていく幸司。追いつけなくなって……いや諦めたのか、風にほつれた髪が彼女のスッピン顔にかかって……あのね、このあたりでね、時間の雰囲気的に、ああ、これで終わっちゃうのか、こんなんで終わっちゃうのか、死んじゃったなんて結末なの?ヤメてー!!!って念じてたんだけど、やっぱりこれで「終」で……でもその直前の、ほつれた髪の彼女があまりにも美しかったもんだから、なんだか、もう……。

もうね、死なすしかなかったんだろうというのは、やっぱり時代的なものなんだろうと思うんだよね。現代だったらこんなことで死という結末を迎えず、ズルズルズルズルいったんだろうなあ。でもこうなるしかない潔さというか、せつなさというか、理不尽さが、今じゃ手に入らない、美しさなんだろうなあ……。

二人はね、並べば確かに恋人同士にはどうしても見えない。やはり姉弟って具合である。それが切ないんだよね。義姉、義弟という世間的なこともあるけど、年齢のことなら、今だったら、たったの11じゃん、と思うかもしれない、それが永遠のへだたりだったんだよね。★★★★☆


ミリオンダラー・ベイビーMILLION DOLLAR BABY
2004年 133分 アメリカ カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:ポール・ハギス
撮影:トム・スターン 音楽:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド/ヒラリー・スワンク/モーガン・フリーマン/アンソニー・マッキー/ジェイ・バルチェル/マイク・コルター/ブライアン・F・オバーン/マーゴ・マーティンデイル

2005/6/10/金 劇場(有楽町丸の内ピカデリー1)
二度目のオスカーを手にしたヒラリー・スワンクは、やはり自分の役割を判っている人なのだな。ジミー大西のような顔、ということはマット・デイモンのような顔……後者の方により似てるなーとかどうでもいいことを思いつつ観る……美人女優じゃないから、説得力があるんだよなー、などと失礼なことを思ったりする。いや、無論、それこそが彼女の強みである。
30過ぎて、でもいつまでたっても“田舎娘丸出し”で仕事もずーっとしがないウエイトレスで、なんつーか、このイタさは自分にも思いあたる部分が多々あり、だから彼女がボクシング・ジムに現われて一心不乱にサンドバッグを打っている姿には、もうこれしかない、というせっぱつまった感をひしひしと感じるのだ。

彼女の名はマギー。女一人で場末のボクシング・ジムに乗り込む彼女はまさに一匹狼の孤高さである。その孤高さもまるで判らずにヒワイな言葉を浴びせてからかうアホな男たちは、彼女の覚悟など足元にも及ばないんである。だからマギーはそんな男たちを恐れる風もなくカンタンに一蹴して黙々と打ち込みを続けている。
そんな彼女を見つめているのが、このジムの雑用係で元ボクサーだったスクラップ。
演じるモーガン・フリーマンはさすがの滋味ある存在感で、印象的なモノローグも担当し、この哀切な物語をしっかと支える。
マギーはこの時点ではまだ全然足も動いてないし、重い印象で、このジムのオーナーであるフランキーが、女がいるという違和感を嫌がりさっさと追い出したがるのも判るんだけど、スクラップは彼女の資質を見て取って、会費を半年分払っていることを理由に、フランキーの言葉を無視して彼女をおいてやるんである。
フランキーの言うことを何でも聞いていたスクラップにはめずらしい反抗であり……とはいっても、淡々としていて反抗っていう印象はないんだけど。

スクラップが彼女の中に見出だしたのは、メンタルな部分だったんじゃないかと思う。筋がいいとは言っていたけれど……このジムで真にハングリー精神に満ち、ストイックだったのは彼女だけだった。それはボクサーに必要なこと。でも今やその必要な資質は古いそれであるのかもしれない。フランキーは優秀なボクサーを次々と育てたけれど、次々と去られている。それはなぜかって……彼が丁寧に育てすぎるから。次のステップに行きたいボクサーたちは彼の元を離れてしまうんである。それはある意味、あまりのストイックさにガマンが出来なくなったともいえる。でも彼の手を離れていったボクサーたちは優秀なマネージャーの元、皆成功を収めていた。
このあたりは矛盾というわけではないけれども、長年の相棒であるスクラップとフランキーの間にはナカナカに複雑な交錯があるように思う。マギーはフランキーにトレーナーになってもらいたいからこそ、このジムに来た。スクラップも彼女のそんな思いをくんで、フランキーにそう仕向けるんである。でもその一方で彼女が次のステップに行く時期がきたら、フランキーから離してやるべきだ、とも思っている。

フランキーがなぜこれほど慎重になるのか、それは誰あろうスクラップがボクサー時代、カットマン(ケガの応急処置をする)だったフランキーが、試合をとめる権利など彼にはないから、でもヤバい状況が誰より判ってるから、つまり……フランキーはその試合で右目を失明してしまったんだけど、それをいわば見殺しにしてしまったことを、すっごく後悔してるわけ。
その後トレーナーとなったフランキーが常々ボクサーたちに言い含めるのは、とにかく自分を守れ、ということ。
それは確かにボクサーには必要なことなんだろう。でもフランキーがそれをボクサーに100パーセント求めるけれども、実際はそれは50パーセントぐらいじゃないと真のファイターにはなれないのかもしれない。
いや、彼らの中には100パーセント、それはメンタルの部分としておいてあるにしても、表に出す部分は100パーセント、裏返しなのかもしれないとさえ思う。

フランキーはトレーナーとしてボクサーを育てることはするけれど、マネージャーにはなれないという。マネージャーとはつまり、商業的にボクサーを売り出す人のこと。で、マギーを使える段階にまで育てた後、唐突にジムのマネージャーに丸投げしてしまうんである。
戸惑いながらもそのマネージャーの元で初試合を行なうマギー。打ち込まれっぱなしである。心配で見にいったフランキーにスクラップが言う。このマネージャーはメインの試合を組みやすくするため、マギーの試合を投げたんだということ。
怒りまくったフランキー、このマネージャーを無視して彼女にアドヴァイスを送る。「オレのボクサーだ!」と。マギーは「もう二度と捨てないで」と言い、フランキーのアドヴァイスどおりフックを浴びせると、速攻相手からKOを奪うんである。
それを含み笑いをしながら見ているスクラップ。口笛でも吹きかねない感じで「シュガー・レイも真っ青だぜ」
かくしてフランキーとマギーの信頼関係の元、マギーはスターボクサーとして瞬く間にのぼりつめてゆく……。

それにしても、ヒラリー・スワンクがめきめきボクサーになっていくのを目の前にまざまざと見せつけられるこの凄さだけでも、この映画を語る価値があるってもんである。どんどん身体が出来上がっていくのが、目に見えて判るのがスゴイ。その二の腕、そのふくらはぎ、割れた腹筋!
そう、美人女優じゃないから(しつこくてゴメン)そうなってくると、まさにリアルなファイターとしての迫力があり、顔も肉食動物のようにとぎすまされた獰猛さに変わってゆく。
腹筋運動や縄跳びの堂に入ったカッコよさにもホレボレとする。でもその最初はちゃんと?ぎこちなかったんだよね。何より、足が動いてない。それだけでホントにもたついて見えてた。
足が自在に動くようになってから、その強さが目に見えて判ってくる。だから、試合シーンも説得力がある。でも、その試合をことさらに長々と見せないあたりが贅沢というかストイックである。なんたって彼女はたぐいまれなる強さだから、強烈なフックで相手をバキーッ!と秒殺しちゃうんだもの。ああ、でも折れた鼻をフランキーが綿棒突っ込んでグキっと応急処置するシーンはあまりにイタそうで……。

この強さがマネージャーとしてのフランキーにとってアタマの痛いところでもあって……つまり、あっという間に試合を終わらせられちゃうから、対戦相手を見つけるのがタイヘンなんである。でもそこは勿論、育てたトレーナーとしての誇りでもある。
まさしく胸のすくリアルファイトの連続にワクワクするんだけど、本当は、本当のテーマはそこじゃないわけ。いきなり後半はガラリと、まるで違う映画じゃないかと思うぐらいに暗転する。
マギーが反則をウリにしているスターボクサーに、後ろから殴り倒されて首をしたたかに椅子に打ってしまい……頚椎が完全に破壊されて、全身麻痺になってしまったから。
あんなにも見事な肉体を作り上げて、あんなにも気迫あふれる試合を見せてくれたのに、後半、彼女はまるで寝たっきりになってしまうのだ。
そこから語られるのは、フランキーとマギーの真の関係性の物語であり、尊厳死の問題であり、愛の物語。

確かに、フランキーとマギーの間には愛があった。監督としてのイーストウッドが語るように、これはラブストーリーだったのかもしれない、と思う。でもその“ラブ”にはさまざまな思いが込められていて、決して世に言う一つの意味でのラブストーリーじゃ、ない。
単にトレーナーとボクサーという関係だったら、その“愛”は“信頼”という言葉に即座に置き換えられたんだろうけれど。そしてそれもまた得がたいものなんだけれど。
フランキーには、どうした行き違いがあったのか、手紙を出しても出しても戻されてきてしまう、上手くいっていないらしい娘がいる。そしてマギーはたった一人理解のあった父親を早くに亡くしていて、残った家族ははっきり言ってサイテーな奴らなんである。
それでもマギーは家族として彼らを愛しているから、ファイトマネーをこつこつ貯めて母親に家を買ってやるんだけど、この時のデブの母親の言いっぷりときたら、それこそマギー、殴り倒してやれ!ってなぐらい胸クソ悪いのだ。「家よりお金をくれればいいのに。生活保護が打ち切られちゃうじゃないの」
働きたくないから、書類を不正申請して、生活保護を受けているというどーしよーもないヤツら。マギーの妹もそうで、表情ひとつ変えずに姉を見ているあの冷たい目!
さらに母親は、マギーに「この町の笑い者だよ」と自らが嘲笑しながら言うんである。うう、なんというサイテーな。たまらずその場を辞していたマギー。

マギーがこんな体になってしまって、家族たちは彼女を一応見舞いに訪れるんだけど、それもホテルに入ってからこともあろうにディズニーランドに遊びに行って、そのリゾート気分まんまのいでたちでドカドカとマギーの病室に入ってきて、彼女の財産を母親のものにする書類にサインさせようとするんである。
この時、マギーは家族との縁を、切った。
それは本当に、決断だったと思う。
多分、この時にマギーは自分の死を考えていた。
あの時。母親に家を買って迷惑がられてしまった帰り道、フランキーの車の助手席に乗りながらマギー、「私にはあなただけ」と言った。フランキーにとっても同じ思いだった。本当なら、いつだって味方になってくれるはずの家族。いつだって愛してくれるはずの家族から見放された二人は、お互いに擬似親子のように感じていたと、確かに思う。フランキーの好きなレモンパイを彼女オススメの店で一緒に食べているシーンなど、仲のいい親子そのものでしみじみとする。

でも、一方で、やっぱりマギーは女性で、フランキーは年老いていてもなんたってクリント・イーストウッドなんだからそういうラブな気持ちが、あったんじゃないかと思うのは……。
マギーがファイターの時には、そんな感じは微塵もなかった。男以上にマギーはとにかくカッコ良かったし、観衆から大歓声を浴びる宝塚のごときスターだったんだもの。フランキーはそんな彼女を育てていることを誇りに感じていたし。
フランキーはリングへと上がるマギーにガウンをプレゼントしていた。ゲール語で書かれたモ・クシュラという言葉、彼女にはその時、判らなかったけれど、会場のどこにでもいるアイルランド人の心をつかむ言葉だった。マギーはモ・クシュラと呼ばれ、一躍有名になる。
初のタイトル戦、この試合に勝ったら、その意味を教えてやる、とそう言っていたのに……。
彼女はこんな状態になってしまったのだ。

“いつまでたっても田舎娘丸出し”だったマギー、その時には男も寄ってきそうにない野暮ったさで、強くなってからはそのあまりの強さで寄せつけない感じだった彼女なんだけど、こんなことになっちゃって、動けなくなってからの彼女が、やけに女っぽくキレイに見えるのは、皮肉なのだろうか。
でも、そう見えてしまうから、フランキーとの、隠れていた部分の関係性がじわじわと焙り出される気がするのだ。
責任を感じて、フランキーは彼女のそばにずっといる。マギーはそれに対してうっとうしく思ったり、キレたりしてもムリないと思うのに、決してそんなことをしないのね。
ただ、ちょっと哀しそうな顔をしながら、静かにそんな彼を受け入れてる。
ちょっと、思ったりしたんだ。スクラップが彼女を見出だしたのは、ボクサーとして自分が出来なかったことを託す思いがあったんじゃないかって。でもそれは、きっと自分に似ていることも感じていたから。どんなにトレーナーから言われても飛び出していった自分と似ているということを。
そしてフランキーも、そう。スクラップを失明するのを止められず、優秀なボクサーに次々と去られた、トレーナーとしての自分にできなかったことを、ただ一人、彼の元に戻ってきた彼女に託したと思うんだ。
そういう意味では、自分たちのリベンジのために彼女を育てたとも言えるんだよね。だからこんなことになって、二人はどこか負い目に感じてしまったのかもしれない。

フランキーは「ストローに息を吹き込んで動かせる車椅子に乗れたら通える市民大学」などというパンフレットを取り寄せたりしている。今後のマギーの人生を懸命に模索している。
でも、彼だって判っていたはず。マギーがボクシングを選んだ時既に、彼女にはそれ以外の選択肢はなかったんだもの。
どんな体になったって、一生懸命生きている人はいる。だからこの問題をそうした側面から扱うのはとても難しい。尊厳死という問題、ここにそのまま答えが出ているというわけにはいかない。でも。
マギーに、自分を殺してほしいと請われたフランキー、23年間通い続けた教会で、いつもからかってばかりいた牧師に必死に相談をする。でもそこで与えられた言葉は、「神の裁量に任せるのだ。決して自分からそんなことをしてはいけない」
でも、この23年間、神は見守るばかりでなにひとつアドヴァイスなどくれたことはなかった。今彼女に必要なのは神ではなく、見放した家族でもなく、自分なんだとフランキーは苦悩する。

指ひとつ動かせないマギーは、でもフランキーが自分には出来ない、と言ったことで、舌を噛み切って自殺する方法を思いつき、実行したけれど未遂に終わった。
口に詰め込まれたタオルと、どくどくと流れ続けるどす黒い血……。そしてこんなに哀しい目があるのかっていうぐらい哀しい目で、駆けつけたフランキーを見つめるマギー……。
「また自殺されたら困るから」そんなやけに事務的で冷たい理由で、鎮静剤を打たれた彼女の病室に夜、そっとしのんでゆくフランキー。
彼は、神にそむいたのだ。いや、あの教会のシーンがなければ、フランキーは苦悩の末、彼女を苦しみから救ってやった、ぐらいの解釈に落ち着いたんだろうけれど、やはり教会、それも23年間もちょっとシニカルな思いを抱きながら通っていた彼、という部分があってこそ、彼の行為は神に反抗している、と解釈される。このキリスト教バンザイな国で、生半可じゃない勇気の描写。
フランキーはマギーが知りたがっていた、あのモ・クシュラという意味を教えるのだ。「私の最愛の人。私の血」……。
そして呼吸器を外すことを告げる。彼女の唇に顔を寄せて……初めて彼女を女として扱った、そんな風に思う。最後の最後に。彼女の瞳から涙が流れるのが、いろんな意味を含んではいるものの、はっきりと“嬉し涙”にしか見えないのだ。

フランキーが再三ボクサーに、彼女にも何度となく言い含めたのが、「自分自身を守れ」という言葉だった。マギーは、そう言われたのに、そう出来なかったことをフランキーに謝ってくれとスクラップに言う。
でも、それでこそボクサー。彼女はある意味自分自身は守ったのだ。それはフランキーの言うような、フィジカルな意味じゃなくって、くだらない家族や自分を潰すコミュニティーから自分自身をファイターとして守り通したんだもの。
そしてそれをフランキーは最後に呼吸器を外して、まっとうさせてくれた。
フランキーはね、どっかアマノジャクな人だから。全てが逆の動きのボクシング、打ちたくても引き、相手を誘い込む、そんなボクシングの本質を愛している人だから、だからマギーが彼の言いつけを守らずにこんなことになっても、そういう意味で、彼女はその言葉を守りきったんだってことを判ったのかもしれない。

それにしても、女性ボクサーなどというものがあったんだ、と思う。サッカーにしてもなんにしても、時代はどんどん、男だけが当然だったスポーツに女性が進出してゆく。イロモノで見られるからこそ彼女たちは必死になり、男以上のホンモノを手に入れてゆく。
ヒラリー・スワンクが、この映画で彼女をこんな目に合わせた“青い熊”として登場する実際の女性ボクサーを始めとした彼女たちに今の女性ボクサーの現状を聞き、こういう映画が作られて彼女たちが喜んでいること、そういう役目を果たせたのをヒラリー自身もとても喜んでいること、というのが、ああ、何か、らしいな、などと思う。
ハリウッド美人女優ではない彼女だもんね、なんて思って(ゴメン!)

そういえば女性ボクサーじゃないけど、このジムに一人だけ浮いてる、ヒョロヒョロしたおぼっちゃんが通っててね、その彼に対してスクラップは、ハートはあるが、技術のないボクサー、と言うんだよね。
ボクサーに対しての憧れや願望はすっごくある。でもそれゆえに皆から疎ましがられてる。で、ついに、イジメそのものの形で、ボコボコにやられちゃう。
その彼をスクラップは助ける。つまり、ボコボコにやっつけたいじめっ子は、彼とは逆で、“技術はあるが、ハートのないボクサー”というわけだから。
ホンモノのボクサーになるためには、その両方を兼ね備えていなければならない。そして一見ここにふさわしくないのはハートばかりでヨワいヤツに思えるんだけど、逆だということなんだよね。技術だけのただのムキムキいじめっ子は、スクラップにボコボコにされてたたき出されちゃう。
しかもね、この事件で悄然と出て行ってしまったそのハートだけのおぼっちゃんがしばらくして帰ってくるのが泣かせるのよ。「誰でも一度は負ける、とあんたは言ったから」ひょっとしたら誰よりもタフかもしれない。
マギーが死んでしまって、フランキーもどこへと知らず行くえをくらませてしまって……そんな後にほっこり語られるそんなエピソードがとても救いになる。

相変わらず自らシブい音楽も手がけるクリント・イーストウッドであり、彼は優れたスタッフを配しながらも、自分自身で完璧に作り上げちゃうんだよなあ、やっぱり。★★★☆☆


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