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「ね」


2005年鑑賞作品

猫と庄造と二人のをんな
1956年 135分 日本 モノクロ
監督:豊田四郎 脚色:八住利雄
撮影:三浦光雄 音楽:芥川也寸志
出演:森繁久彌 山田五十鈴 香川京子 浪花千栄子 林田十郎 南悠子 山茶花究 芦乃家雁玉 都家かつ江 春江ふかみ 桂美保 横山エンタツ 平尾隆弘 谷晃 森川佳子 万代峰子 田中春男 環三千世 三木のり平 三好栄子 宮田芳子


2005/6/9/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(豊田四郎監督特集)
うおー、ホントに若い森繁久彌だッ。最近私は、若い森繁にゾッコンなのだけれど、本当に、老け役じゃない森繁久彌は初めて見る。なんか、ここまでくるとホントに顔が違ってて、声も若くて、既に森繁久彌って判んないよ、私。でもその上手さとその可笑しさにかけては、もう、もう、もう……私、この人が実は日本一じゃないのかって最近思っちゃう。もうそれぐらい、ツボなのだ。もうこの人は何でこんなに上手いのだ、んでもって、何でこんなにオモロイのだ。そこにいるだけで可笑しいじゃないのよおー。

何たって谷崎は大好きだし、原作であるこの小説も大好きなんである。でも谷崎が心理を文章でかなりねちこく追ってて、でキーとなる猫も文字の上というせいもあるけれどもそんなカワイイような印象もなかったり、なんというか、谷崎独特のしつっこいイジワルさみたいなものがあの中篇の中でも横溢していて、ストーリー作家とはいえ、谷崎の作品を映画化するっていうのはその点なかなか難しいんじゃないかなあと思ったんだけど、これがさ、これがさ、もう、面白いのなんの!

その谷崎の、しつっこいくらいに書き込みに書き込みまくる人の心理状態を、時には臆せずに登場人物にべらべらと喋らせ(もう、おっそろしいくらいにお喋りなのよ、どいつもこいつも!)、果てはプロレス並みに全開で暴れ回らせて、こりゃあセット中ぶっ壊れるわってなハイテンションっぷりなんである。メインキャストの三人が最高なんだよなあ。ちっとも色男じゃないのになぜかモテるという、庄造のキャラがピッタリの森繁久彌の素晴らしさはもう言わずもがなで、そう、コイツってばだってまずはマザコンだよ?マザコンというか、母親がいなきゃ何にも出来ないようなボンクラ亭主よ。というより、母親が自分の利益のために(ってあたりがハッキリしてる分、原作より映画の母親の方がキッツイってのがスゴい)息子の手綱を離そうとしてなくて、それに彼は気づいているのに、まあいっか、ラクだし、みたいな感じでロクに仕事をすることもなくノンビリしちゃって、時々安カフェの女給にチョッカイ出したり、盆栽いじったり、そして何より猫をメロメロに可愛がったりして暮らしている、だなんて、普通は、こんな男絶対ヤダ!って思うところなんだけど、これがフシギにほっとけなくて、結構モテてるっていうキャラが、なんともはや、上手いんだよなあ、森繁ッ。

んで、彼を取り合う先妻と後妻の二人の女優もなんという素晴らしいこと。ま、取り合うっていっても二人とも熱烈に庄造を愛しているというわけではなく、いや確かに手放すには惜しいような情は二人共々感じてはいるんだけど、でもそこには、女としての意地がまず譲れない、ってあたりがさ、庄造の妻たちだよなーっていうシニカルさで、なんとも面白いのね。先妻の品子は山田五十鈴。几帳面で、完璧主義で、息子ベッタリの義母にも認められる妻になるんだ、負けないわ!っていう風に頑張ってきたのが一目見て判るような、きっちりと和服を着つけて、髪もびっしりとまとめあげている、なんつーか、鉄の女、って感じ。彼女は確かに完璧な妻だったんだろうけれど、それが同じ女として母親のカンに触ったのも判るような気もすれば、このボンクラ庄造の息がつまったのも判る気がするわけね。でも、庄造は母親に、というか周囲全ての人間に手綱を握られているからなあ。
子種がないとか何とか言って体よく追い出されてからも、彼女のその後はせいぜい二号さんのクチぐらいしかなく、しかもどうやら自分が追い出される前から庄造が後妻の福子とイイ仲だったことを知った彼女は激怒、絶対あの家庭をぶっつぶしてやる!と心に誓うわけ。お、女って、こっわー!

そして、後妻の福子は香川京子。ちっともじっとしていることのない彼女は、ウェーブのかかった髪を若々しく跳ねさせ、すらりとしていながらほどよい肉付きがエロティック。常にホットパンツにヘソ出しみたいないでたちで、そんなカッコでギャーギャーと暴れ回るから、かなりあられもないカッコになったりするのも実に爽快で痛快な、若さぴちぴちの女の子なんである。なんという対照的な、そして香川京子の、これぞまさに小悪魔っつーのはこういうことでしょ、っていうキュートさにもう脱帽。ビーチで水着姿の彼女、勿論古くさいデザインの水着なんだけど、この彼女だと今の女の子より相当に色っぽく、なのに健康的な皮膚の密度の高さがぱちんぱちんとしてて、実にイイんだなー。庄造が彼女のふくらはぎをさすり、太ももに頬ずりして実にエエなあ、とうっとりする……くくく、森繁のあっけらかんのエロさは永久不変ねっ。いや、彼の気持ちはホント判っちゃう。こういうのをヤラしくなく、いやヤラしいけど、イヤミなくっていうのかな、さらりとやっちゃえるあたりがモリシゲなんだよなー、今も全然変わんない、こういうとこ。
あ、そういやあ、ここのシーンは吹き出しちゃったよ。だってさ、品子と別れた庄造が福子を迎えに行く場面、一応はちゃんとした和服着てる庄造が、福子に海に行こうと誘われて、そう思って用意してきてん、とさっと和服を脱ぐと、その下はアロハにステテコなんだもん!

そうそう、で、何たって重要なのは猫なわけで。タイトルでも一番にあがっている猫のリリーちゃんなわけで。やっぱりね、この映画の成功は、このリリーを演じる猫やんの天才っぷりにあると思うよ。この試写を見た谷崎が森繁久彌に、君より猫が良かった、と語ったらしいけど(こういうエピソードって、ゾクゾクきちゃうなあー。だってあの文豪、谷崎が、若き日の森繁久彌にそんなこと言ったんだよ!)、実際そう言うのも判るぐらい、スゴイのよー、このリリーちゃん。いやさ、わたしゃー、ネコキチだから、もう猫が画面に出てきただけでメロメロだけどさ。ふわふわと柔らかそうな白い毛並みにぱっちりとしたおめめ、キャストの台詞に返事をするかのようにぱたぱたと動くしっぽ、ああッカワイイ!でね、カワイイだけじゃなくて、相当の演技派であり、いや、どうやって演技をつけたのか、本当に驚嘆するぐらい。福子が寝ている布団の上に乗っかってるリリー、起きしなの福子が膝でボーン!ボーン!と突き上げても、乗っかってるリリーはそのままどっしりと動こうとせず、それがやたら可笑しいの。庄造がまさに猫っかわいがりしているシーンでは、彼の愛撫にゴロゴロと嬉しそうに応え、恋人に抱きつくがごとくに顔をすりよせて甘えているのに、先妻と後妻の争いの結果、先妻のところにリリーがやられ、久しぶりに庄造が会いに行くと、あんた、誰?ってな感じで無視し、抱かれても、やだよー、やだよー、っていう不快な声を出してひたすら逃げようとするばかりなのね。こういうの、一体どうやってるの!?しかもさ、リリー、ヒステリックな先妻や後妻に庭だの窓から雨の降る外へだのに力任せにぶん投げられてたりもするのよ!あれは相当本気でぶん投げられてるよ!引きでカットも割ってないし、あれは本当にそのまま猫のリリーに違いなく……この中のどの役者よりタフな役者っぷりに実に驚嘆を隠しえないんである。

いや、一番スゴかったのは、庄造の母のおりんであったかもしれない。原作では息子の手綱を握っているとはいえど、それは頼りない息子への愛情から、という側面も割と見えていたけど、映画ではハッキリ、金の亡者なんだもん。ヨメの資質としてはどー考えても先妻の品子の方がいいだろうと思われるのに追い出して、イケイケ女の福子を迎えたのは、資産家の娘である彼女の莫大な持参金と、実家に遊びに帰るたびに持ってくるこれまたバカにならない額の“おこずかい”が目当てなんだから。彼女はそれを最初からもくろんで、庄造と福子が妙な仲になるようにしむけるために、この家に息子を連れて出入りしていた趣がある(それは、原作の方がよりハッキリとしている)。まあ、こんなしがない雑貨屋をやってて、しかも息子はどの職も長続きせず、雑貨屋の仕事も母親に任せっぱなしだし、老い先短い彼女が息子のことを心配して、というのは判らなくもないのだけれど、というか、原作では確かにその方向なんだけど、映画ではこの母親、お金大好き!って感じなんだもん(笑)。ヨメと言いつつ家のことなんてなーんにもしない、それどころか文句ばっかり言ってる福子に一切怒らず、それどころかこびへつらい、笑顔でなんっでも言うこと聞いちゃうこの母親、合理主義過ぎで、コワいよ……敵に回したら絶対、コワい。まあつまり、先妻の品子さんは敵に回しちゃったわけで、それは確かにマチガイだったのかもしれんよなあ。福子さんからおみやげにもらった高級メロンを息子に一切れもあげようとせず次々にかぶりついたり、都合が悪くなると白々しくご先祖様に歌を唱え出したり、それでいてカネだけは絶対に離さないこのオカアチャン、可笑しくも、コワすぎる!

しっかしね、マトモな登場人物はここにはいないかもしれんよ。先妻の品子が転がり込む妹の家、その妹のダンナは哲学にハマってて、「実存的にはそうだ」だの「相対的に判ってくれ」だのと言って、「私、哲学判らしまへんねん」と自分の妻を困惑させるアリサマなんである。こんなのは原作にもない映画のオリジナルで、この不条理な可笑しさが最高でさあ。庄造のところから自分からガマンならず出てきたという形にされて、つまり半ばハメられる形で追い出された品子は、仲人をやった木下が、あの庄造さんじゃねえ……などと今更言うもんだからに恨みつらみを言うんだけど、木下は「仲人をやる時にはそりゃ口もすべりまっさ」とアッサリ言うあたりも……もう苦笑しちゃうんだけど。ほんっとにおっかしいんだよなあ、だれもかれも!

確かにね、庄造のリリーに対する執着ぶりは異常と言えるかもしれない。いや、猫好きの私としては、全然オッケーとは思うけどね。でもやっぱり所帯を持った、それも亭主がそれをやっちゃうと問題なのかな?猫って、性別がどうであれ、女って感じ、するもんね。しかも庄造はリリーが初産で苦労したのを見てから、リリーには子供を産ませないと決めているらしいし(これも映画オリジナル)、そりゃ二人の女がヤキモキするのもムリはないんである。福子にいたっては、庄造に喜んでもらおうと彼が好きだという小鯵を買って、料理は苦手そうなのに一生懸命、ニ杯酢なんぞ作ったのに、庄造はリリーにばかりその鯵を、しかも口移しとかでやるんだもん。つまり、庄造はリリーに食べさせたいばかりに、鯵が好きだとか食べたいとか言ったんであって、……そりゃあ福子さんがアタマにくるのもムリはないわけで。

しかもその時、先妻の品子さんからリリーを譲ってほしいと、宣戦布告みたいな形で言われてきていたからさあ。このサシでの対決シーン、唐突に接写も接写のドアップになる二人の女の顔にドギモを抜かれながら、それがコワいやら、可笑しいやら、美しいやら。つまり品子さんは皮肉たっぷりにこう言うワケよ。彼は私よりリリーが大事だった。それがガマンならなかった。貴女もそうよ。早くリリーを離した方がいい、とね。福子はそんなこと言われて、これでリリーを渡したら、そのことを認めることになってしまう、と先妻と戦う姿勢を見せるんだけど、こんなダンナの態度にキレちゃって、もー、リリーを何が何でも品子さんとこへやってしまお!とヒスを起こすのね。そんな状態になっても当の庄造はのらりくらりでさ、ハッキリしないその態度に、ますます福子はキレちゃうわけ。

ほおんと、こういうハッキリしない態度の男を演じさせたら、森繁久彌は天下一品だよー。リリーを先妻に渡したことを知った庄造、福子に怒るんだけど、「殴りたいなら、殴りなさいよ!」と言われると、ハッとしたように横を向いて彼女の顔も見ずにぺちっと弱々しく肩のあたりをはたくぐらいしか出来ないのが、もうー、吹き出しちゃったよ!で、リリーにひと目会いたいと品子の元に出かけていった彼、品子は彼がいよいよ福子にアイソをつかして、自分の元に帰ってきた!と大喜びするわけ。雨がザーザーと降っててさ、なあんか異様な雰囲気なわけ。長いこと会ってなかったリリーは庄造に警戒心を抱くし、実はこの期間にリリーに打算ではなく本当に純粋な愛情を感じ始めていた品子をそんな庄造が罵倒するのも可笑しいし、そしてなんかさ、考えてみれば庄造のリリーへの偏愛だけでこんな事態になっちゃったみたいでさ。そこに福子が乗り込んできてお互い譲れない先妻と後妻同士がオッソロシイにらみ合いの末、女子プロさながらの大乱闘に!お前が原因だろー!な庄造は、ああ、もうヤダ、とばかりにその場所を逃げ出しちまうんである。

庄造は、ほんっとに幸せなヤツなのに、そのことを全然判ってなくて、リリーだってフツーに品子になついてたし、別に庄造だけを愛してるわけじゃないのに、庄造と同じように逃げ出したリリーが海岸にうずくまってて、それを見つけた庄造は、オレのことを判ってるのはお前だけだとつぶやき、どしゃぶりの雨の中をリリーを抱いて歩いていくわけ。情けなくもアホよねえ。
でもね、これって、このラストって、原作と違うの!一番大事な答えとでも言うべきラストが。原作は、品子が帰ってきた気配におののいて、庄造が逃げ出してくところで終わってる。女同士の対決は、リリーを貰い受ける部分も原作じゃ手紙のやりとりだけだし、このラストはまるまる存在しない。映画はそこから付け加えたわけで、でも原作の方がだからつまりはシンラツなんだよね、庄造にとって。原作ではリリーが庄造を、その優柔不断ゆえに完全に見限ったともとれるんだもん。でもこの映画のオリジナルは、二人の女の一騎打ちが見られる楽しさで、原作のシニカルさに匹敵するぐらいの痛快さだからなあ!

森繁久彌の天才喜劇役者っぷりと、生真面目さと女っぽさのギャップがやけに可笑しい山田五十鈴と、おきゃんなセクシーガール(だったのが、信じられない!)香川京子と、ちゃっかり者のおっかさんがすっばらしい浪花千栄子と……あー、なんという幸福な傑作、それも、こんなスゴい文豪の原作に臆することない演出と役者陣(&猫!)でさっ。★★★★★


眠り姫
2005年 分 日本 カラー
監督:七里圭 脚本:
撮影:高橋哲也 音楽:侘美秀俊 演奏:カッセ・レゾナント
出演:つぐみ 西島秀俊 山本浩司 大友三郎 園部貴一 橋爪利博 榎本由希 張替小百合 横山美智代 五十嵐有砂 馬田幹子 坂東千紗 鶴巻尚子 斉藤唯 北田弥恵子 新柵未成

2005/5/13/金 下北沢 北沢タウンホール
音楽を弦楽器の生演奏で聞けるという、素晴らしい試みの上映を観ることが出来る機会に恵まれた。しかも「のんきな姉さん」で心臓を撃ちぬかれた七里圭監督作品である。「のんきな姉さん」の公開の時に既に出来上がっていたものを、監督自らのこだわりで長い期間をかけて丁寧に撮り直しされたという意欲作は、クリエイターとしての度胸が試される実験作であり、震えがくるほどの傑作だ。

実験的作品、まさしくそう。キャストにこれほど豪華な顔ぶれを持ってきながら、その人たちは姿を見せない。いや、正確にいえばヒロインのつぐみはちらりと姿を見せてはいるものの、それは後ろ姿程度のものに過ぎない。西島秀俊や山本浩司といった異彩を放つキャストたちは軒並み声だけを響かせ、彼らがいるはずの部屋や職員室やレストランや路地や……そういったところに、彼らはもちろん、他の、市井の人すらいないのだ。まるでバミューダトライアングルで見つかった、さっきまで人間の気配がしていたのに、そこには誰もいないままうち捨てられた船みたいに。

ヒロインの青地は教師であり、働いている場所は中学校。一番精力が有り余っている年頃の子供たちがはしゃぎまわっているはずの教室も、校庭も、誰も、誰もいない。そういえば、唯一人の影を感じるのが、彼女の暮らすアパートであり、彼女の姿は後ろ姿程度とはいえちゃんととらえられてる。でも、学校や、レストランや、電車の中、といった、人がいて当然の場所に、人はいなくて、そのうち捨てられた雰囲気は、ひどく不安にさせる。
でも、不安というものは、なぜこんなにも美しいのだろう。痛々しいほどに。
この不安に、ホールから逃げ出したくなるほどなのに。生演奏の音楽の、その旋律も、忍び込むように、気づかぬうちに入り込んできて、ますますその不安をかきたてるほどなのに。金縛りにあったみたいに、動けなくなってしまうのは、その不安に、惹かれているからなのだろうか。
しかも、時々人の気配がすると、その不安は一層高まる。人がいないことに不安に思っていたのに、その媚薬にかかったみたいになって、人の気配にびくりとする。

東京に出てきた時、その人の多さを恐ろしく感じた。自分がみっともなく見えていないかということが不安だった。人の目が気になって仕方なかった。でも今は平気で人ごみを歩ける。それは、誰も自分を見ていないことが判ったからであり、自分自身も誰も見ていないから。
こんなに人が沢山いるのに、私は心の中からその人たちを一人残らず消し去っている。
この、人のいない情景に不安になったのは、そんなこと気づかずにいたかったことを突きつけられたからなのかもしれないし、その中で時々現われる人の気配にびくりとするのは、消し去っているはずなのに現われる存在に畏怖しているからなのだろうと思う。
でも、きっと、渇望している。確かに感じられる気配を。
青地は恐怖している。「今出てきたトイレの中に、誰かがいるような気がしてならない」と。
それは、自分が唯一、消し去ることが出来ない存在。
見たくない、正面からの、自分自身、なのかもしれない、と思う。

内田百閧フ小説があって、そして七里監督がこだわりつづける漫画家、山本直樹がそれにインスパイアされたコミックスがあって、そしてこの作品がある。
内田百閧ヘ芥川の弟子であり、芥川が自死を選んだときに残した「ぼんやりとした不安」というものが、内田百閧フ小説「山高帽子」にて、芥川を想起させる登場人物、野口によって語られる。そして山本直樹によって漫画化された時にも、この野口の存在が大きく作品を支えている。そして映画となった本作で、声だけが聞こえる西島秀俊が演じる野口、西島秀俊は、そのとらえどころのない、闇から響くような声が、彼の役者としての資質にかかせない。
芥川の、「ぼんやりとした不安」という言葉を初めて知った時、私はとても衝撃を受けたのを覚えている。そんな理由で人は自分の命を断てるのかと思う一方で、その、“そんな理由”がひどく共感できるものに思えたから。自分は、恵まれている方だと思っている。自殺するほどの悲惨な運命には見舞われていない。そのことがなんだか後ろめたいようにも思ったりする。そんな風に思っていた時に出会った言葉だった。それは、「私にも自殺するだけの理由があるんだ」と妙にホッとする気がして、そんなことにホッとする自分がショックで、そして「ぼんやりとした不安」というものを、確かに自分も持っていることを知った恐怖だった。

主人公は、ヒロインである青地(つぐみ。百閧フ小説では男性であり、百闔ゥ身の分身だという)だけれど、何よりこの物語をさらっているのは、芥川を模したこの野口である。声はすれども姿が見えないこの野口は、「睡眠薬のせいで」どんどん痩せてゆく。青地は最初からこの野口の顔の長さを笑い、奇妙な似顔絵のファクスを送ったりする(この行為も野口の言うように、かなり、不気味である。その似顔絵も、「長」とあちこちにちりばめられたメッセージも)。そして、野口と会話するたびに、彼が痩せてゆくことを口にする。
……野口の姿が私たちには見えないだけに、「眠れなくて、睡眠薬を飲み続けて、どんどん痩せてゆく野口」というのは、その姿をデフォルメして想像させて、それは不気味というのを通り越して恐怖ですらある。
野口は一方で、青地のことを、「どんどん膨れ上がっている」と言う。
その姿も当然、私たちには見えない。
どんどん痩せていく、というのと同じぐらい、いやそれ以上に、不気味で恐怖をそそる言葉である。
ホラー映画のクリーチャー並みの恐怖である。見えないだけ、余計に。

女性は、こんな恐怖を確かに、自分の中に持っているように思う。鏡でさえ、信頼できない。左右反対に映るこの真実であって真実ではないものを信じきれない。他人から見える自分はそんな風にクリーチャーのように醜いのではと思ってしまう。
確かに、百閧フ青地を女性に置き換えたのはその点で更に深いものを付加価値として与えたのかもしれない、と思う。
いくら寝ても寝たりない青地。時々部屋に上がりこむ“恋人”はいるし、彼とのセックスもあるけれど、彼女のあげる声は彼女のモノローグのように「いつものように感じる」程度の規則的なものに過ぎず、そこにドラマチックな気持ちの波は感じない。房事の彼と彼女の声を、まるで無機質に見守るように、火をつけられたままの灰皿のタバコがゆっくりと傾いて、手前に倒れる。時間だけを記録するみたいに。
この“恋人”の彼は青地を、結婚を前提とした相手として母親に紹介するのだけれど、当然そこにも母親の姿なぞ映らない。こんなところあるのかと思うような赤茶けた荒れ地に建てられたマンションの外観と、まだ飲み終わらないコーヒーカップの内側にくっきりと跡がついているのが、気まずい時間の経過を感じさせる、無人の部屋の様子が映るばかり。

本当に、私たちは、ここに、実体をもって生きているのかと、本当に、不安になる。
そして、その不安が、ひどく甘美なものに感じられることにさらに不安になる。
彼女の恋人は、その実体感のなさについて、ひどく無頓着のように感じられる。まるで、気づいていないんじゃないかと思うぐらい。そんな、世界に。でも、野口はそのことに気づいているように思える。ヘンなファクスを送ってくる青地に不気味だと言いながらも、彼女と積極的に会話するあたり。
実際、演じる西島秀俊の声には、そう感じさせるぐらいの説得力がある。
彼の声は静寂であり、闇であり、不安であり、そしてとても美しいから。
私は十代の頃、とてもラジオドラマが好きだったんだけれど、こういうタイプの声が特に魅力的に感じるのだ。安定していなくて、一見無感動的のように聞こえるだけに、その中にひどく内省的なものを感じさせるような、こういう声が。
ああ、そうだ、ラジオドラマを、真冬の、しんとした空気の中で、中学生の私が一人でしんしんと聞いているような、あんな感じだ。
人生への不安が、その輝かしい未来よりもずっとずっと重く感じていたあの頃。

北国に住んでいた私は、特にその重苦しさに押しつぶされそうになっていたし、そしてその一方で、暗くて重いその北国の、冬の、夜の、ラジオドラマに、ひどく酔っていた様に思う。
そして多分、その頃に、芥川の「ぼんやりとした不安」という言葉を知った気がする。
そう、確か、それは太宰治経由だった。地元の文学者ということで太宰を読み始めて、あの時代の文学者にやたらと30半ばで自死を選ぶ人たちがいて、太宰もそうで、そして太宰の敬愛していた芥川もそうで……という流れだったと思う。そして、一番思い悩む時期の中学生だった私は、ひどく、シンクロしてしまったのだ。
ああ、何か、何か、思い出してしまった、ヤバい記憶を。
雪景色に閉ざされるあの北国は、本当に、別世界だった。実に一年の半分がただただ真っ白に閉ざされる北国。その雪はとても重苦しくて、でもその重苦しさが、風邪をひいて寝込んだ時に母親が何枚もかけてくれる綿の一杯つまったお布団みたいに心地よい暖かさのようで、それはそれこそ風邪で寝込んだ時みたいに、実感のない世界に、連れて行ってくれる。
それが、実に、半年間も続く北国で、最も難しい年頃の中学生時代を過ごしたから、そんな雪のもたらす非現実感、死生観や、それへの恐怖とあいまった心地よさを感じてしまうのかもしれない。

それに、そんな雪で埋もれた、静寂の世界、特に夕暮れには本当に何の音もしなくなってしまう、雪が全ての音を吸い込んでしまう世界では、人も、生命の気配もなくなってしまう。
それは、究極に不安で、そして究極に美しい世界だ。
人があふれるほどいる東京に居心地の悪さを感じたのはそんな青春時代を過ごしたからだし、そのあふれるほどいる人を心の中から排除できたのも、その人ごみを、あの雪の景色に重ね合わせることが出来たからだと思う。
青地が、雪で真っ白になった校庭に恐怖を感じて一歩も踏み出せなかったのは、判る。でもあのシーンが特に、ひどく美しく心に染み入るのは、私が北国での学生時代を思い出したからだけではないと思う。
ただ、広いだけということで、怖いのではないのだ。雪で敷きつめられ、なおかつ人がいないから、そして明るいから。
雪は全ての音を吸収してしまう力がある。そこではしゃぎまわる子供たちの声でさえ、その空間に響き渡るんではなくて、しん、と雪に吸収されてしまう。
乾いたアスファルトには出来ない芸当だ。

人がいるはずの光景で、人がいないことは、確かに恐怖だけれど、それは彼女自身が意識的に心から排除しているからのように思う。それを恐怖や不安に思うのは、それを自分も確かにやっているからだと突きつけられるから。
でも、ここには、当然のこととして、誰もいない。しかも雪の白さは、太陽光を反射して、どこか人工的なほどにあたりを白く照らしわたるんである。
ただでさえ、ウソみたいな白い世界が、心の中から自分を防御するために人を排除してきた青地の心を恐怖で塗りつぶしたのは想像に難くない。
世界に、自分たった一人でも、別にいいのだ。正直、私だってそう思っている気持ちはなくもない。
でも、それを現実として突きつけられるのは、怖い。
それが、闇の中ならいい。夢だと、片付けられるから。
だから、本当は、誰かに側にいてほしいんだ。
なんて、わがままなんだろう、人は。
そして、なんて、さみしがりやなんだろう。

手が、手だけが、人間がいる証しみたいに、画面に生々しく活写される。実際、手とはこんなに生々しいものだったのか。人間そのものをそれだけで現わしているみたいに。
重ね合わせられるだけで、男女の房事を暗示させるといった記号的な使い方を入り口としつつ、まるでそれ自体が生き物のようにうごめく手……。
手が、気味が悪いと言ったのは、あの野口だった。
その台詞に呼応するかのように、青地の手は印象的なカットをなぞってゆく。青地が乗っているんであろう、相変わらずカラッポの電車の窓に、そこで同時に語られているエピソードのカットになぞらえた彼女の手が重ねられる。エピソードが重ねられているから、その流れで重ねられているカットに過ぎないのに、まるでホラー映画のような怖さを感じる。夜の都会を走っている電車の外から窓にピタリと張り付けられる、うごめく手……。
手は最も正直に人の欲望を宿らせるのかもしれないと思う。目さえも、嘘をつくことは出来る。でも手は、小さな頃、母親にしがみついた時と同じように、好きな人には必死に、爪を立てるがごときにしがみつき、気持ちの冷めた人の手には申し訳程度に、その隙間に風が吹き通ってしまう。
手からは、全てが生み出される。作家の言葉も、音楽家の旋律も、セックスの感度も、何かを語っているのが判る。だから怖いのだ。手だけが、露出されるのが。

野口は始終、ノドに絡みつくような咳をしている。風邪をひいたんだと、彼は言うけれども、同僚と、今の風邪は危ないんですよと、死んでいる人も結構いるんですよと話している。
風邪、咳、鼻をすすりながらする会話。それがなぜこんなに、こんなにも不安を駆り立てるのか。
そして野口はその咳をしながら、鼻をすすりながらの状態で、青地と二人きりで会話をする。美術室かなんかなんだろうか、映されるのは壁に掲げられた絵の中の少年が一人、彼らの会話を静かに聞いている。夕闇が様々にその少年の絵画を窓枠の網目で照らし出す。段々と網目の角度は変化し、闇の暗さは濃さを増してゆく……。
野口は、言うのだ。「僕が一番、親より、彼より、あなたのことを判っている」と。
判っている、なのだ。好きだとか、愛しているとか、大事だとか、守ってあげられるとかじゃなくて。
女は、いや人は、この言葉をこそ、ひょっとしたら最も待っているのかもしれない。
自分自身ですら、理解できない自分という存在の危うさを、「判っている」と言ってくれる人を。でも、自分自身ですらつかみきれないぐらいだから、そんなことを言ってくれる人が、確固たる存在ではないことは、当然なのかもしれなくて……。

野口は、青地とこの会話をした直後、自殺してしまう。百閧フ原作での彼の分身が青地。百閧フ受けた衝撃が目に見えるようである。
「僕が一番、親より、彼より、あなたのことを判っている」
その言葉は、まるであの突然ひらけた、まばゆい雪の平野のまぶしさのように、たまらない不安と共に、恋のように心に染みわたった。

青地がトイレに張ってある猫の写真。時々その猫が喋りだす。白と黒のブチの猫。路地に飛び出して、まるで彼女の言葉を代弁するみたいに。
猫は、霊感が強いという。日本を始めとするアジアで可愛がられてきたのは必然のように思う。欧米では魔性としての恐怖の感覚の方が強いのと対照的なのは、アジアでの仏教の感覚が、魔性がこんな風に、日常として人間の感覚に普通に存在するからだと思う。人間の、孤独の気持ちが、当然あることだと、仏教は言ってくれているから(キリスト教は、人類助け合い、悔恨は牧師に打ち明けましょう、教会にみんなで集いましょうみたいな感じだから……それとは対照的に、仏教って、一人で悟りをひらける感じじゃない?)。

会話が繰り広げられる中で、青い空の中の白い雲が、早送りで映される。それは時間の経過というより、まるで沸騰しているみたいだ。
その中では、太陽ですら、たよりなげに薄いオレンジ色の光りを慎ましやかに放射している。
穏やかに見える雲が、台風の時みたいに、いやそれ以上にせわしなく移動しているこの、不安。
普段は意識していない自分の心が、ふと気づくとせわしなげに動いているさまを目の当たりにしているみたいだ。

彼女の妄想の中でなのか、影が、暗いけど透けて見える影が、砂漠のような荒涼としたところを、歩いてくる。スクリーンの、こっちに向かって。
顔は見えない。本当に、薄墨のような影だけなんだけど、もう、すっごく怖い。まるでそれは、自分の本性を、むくんだクリーチャーの自分をつきつけられるんじゃないかというような、不安。
そして、ラストシーン。青地がずっと、「今出てきたトイレの中に、誰かがいるような気がする……」という不安が的中するようなラストカット。
青地は、トイレから出てきて、また布団に潜り込む。彼からも、そして妄想?の中での彼の母親からも「もう少し片付けたら」と言われたような雑然とした部屋で、それは彼女が生きている自分の痕跡を消さないようにしているようにも思え。
彼女は布団に潜り込んだはず。なのに、彼女がいつも恐れていた、「閉めたはずなのに……」というトイレのドアから誰かが出てくる。女が。昼間のはずなのに、やけに暗い影の女が。青地じゃ、ない。正面から顔など見たことはないはずなのに、確信する。暗い目をしてスクリーンの私を見据える女に、恐怖で心臓をわしづかみにされる。
人が、自死を選んでしまうのは、こんな時かもしれない。
芥川は、自身のドッペルゲンガーを見てしまったために、命を絶ったんだという説がある。それを想起せずにはいられない、静かで、美しくて、そしてあまりに衝撃的なラスト。

呆然と、していた。どうしていいか、判らなかった。心惹かれてしまったから、余計に。
写真芸術としても完璧な映像、心そのものを投射する声、言葉のあまりの、痛々しさ。
心の隙間に忍び込むような生演奏の音楽が、これ以上なくライブな素晴らしさであり、でもそれが実現されなくても、劇場での一般公開をしてほしいと痛切に思う。こんな贅沢なまま、贅沢だからこそ素晴らしいとは判っていても、この2日間の奇蹟のまま終わらせるなんて、もったいないどころか、罪。

どうか、この奇蹟を多くの人に分け与えてほしい。★★★★★


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