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2004年鑑賞作品

悩殺天使 吸い尽くして
2003年 60分 日本 カラー
監督:国沢実 脚本:樫原辰郎
撮影:長谷川卓也 音楽:因幡智明
出演:橘瑠璃 宮沢けい 麻木涼子 久保隆 小林達雄 THUNDER杉山


2004/4/18/日 劇場(池袋新文芸座/第十六回ピンク大賞AN)
2003年度ピンク映画ベストテン第四位作品。国沢監督は、何か凄くマジメな感じなだけに余計に可笑しい。この作品の可笑しさは無論、この日コックの格好で出てきた(!!)樫原辰郎氏の脚本によるに違いないんだけれど、確かにこの樫原氏が言うように、「俺はそこまで書いてない!」という部分も多かったのか??だけどねー、この樫原氏も相当なしゃべくりキングだからどこまで信じていいのやらだけど(笑)。だから対照的に淡々ともの凄くマジメに挨拶する国沢監督がどこまでホントなのか、まあホントなんだろうけれど、だからこそやたら可笑しいのだった。

しかし何でしょうね、この話は……性能力者、セスパーって一体なんなんだ(笑)。冒頭、ものすっごい迫力のレイプシーン(などという形容詞つきの言葉は言いたくないが……)、逃げ惑う女の子を執拗に追うはげ頭の男、やめりゃいいのに草むらの中なんかに入ってくもんだから捕まってしまう。それを揺れるカメラで追う。やたら謝りながら彼女をひんむいていく彼、しかしその中に挿入した時、赤い光が……。
ふと気がつくと、男は泥沼に頭から埋まってくの字に曲がった両足だけが!?
おいおい、これって「犬神家の一族」かよ!

そして時はたち、あの頃のトラウマをひきずったままこの彼女、舞は結婚し、夫と共に暮らしている。自分を愛してくれる夫との生活は幸せだけれど、いつまた自分にあんな能力が芽生えてしまうか判らない、夫を傷つけてしまうかもしれない……そんな恐怖を日々感じている。そんな彼女が突然何者かにムリヤリ連れ去られた!
ついてみるとそこは、何だか怪しげな宗教くさい場所。現われた女王様風の女、弓月はここは性能力者(セスパー)を養成するサティアンだという。彼女にかしづく何人もの男たち……。
その時から舞と弓月の戦いは始まったのだ。

このセスパーの極意を弓月に伝授したという老人がやたら可笑しい。チベットから帰ってきたところだとか、久しぶりにビルマに行こうかとか、高僧を標榜してるんだけどやってることは、巨乳をモミモミしてエネルギーゲットなんだから、アホかー!!しかも「死んだ女房を思い出すなあ」ってあんたね!いやまあ、そんなこと言ったらこのセスパーっていう話自体もう可笑しすぎるんだけど!まあ、彼はね、舞に言うのだ。弓月は世界征服の野望からセスパーを間違った方向に導こうとしているから、ぜひ闘ってほしいと。「考えるな、感じるんだ!」……ん?どこかで聞いた台詞ね(もはや解説するのも馬鹿馬鹿しい(笑))。彼が望むのはセスパーと人間の共存、なのだな。

この舞役の橘瑠璃嬢がねー、もうすっごい、まるでロケット弾のような巨乳!巨乳なのにロケット弾!いい形してるんだわー、奇跡のような。まあそりゃここからならエネルギーチャージも出来そうよ。で、弓月から刺客としておくられた女とのバトルがまず凄い。この女を演じる麻木涼子があの秀作「痴漢義父 息子の嫁と…」であんなに泣かせてくれた嫁と同一人物だなんてあんまり信じたくない(笑)。だって爆裂なんだもん!まさしく女子プロそのもの。彼女、かなり肉体派って感じのボディだからなあ……舞にお見舞いするあのハイキックは凄すぎるよ。舞はパンツ丸見えで彼女と死闘を繰り広げる。ただ買い物行くカッコにしてはスカート短すぎだよ、舞さん!

あの怪しげな老人の助けもあって舞はこの場を何とか切り抜けるんだけど、今度は愛する夫が連れ去られてしまう。そして弓月はセスパーの能力を使ってこの夫からパワーを抜き取ってしまう。「まだ何とか生きてるわよ」そう言って舞をおびき寄せるのだ。
この時の、怒りに震えて弓月の前に仁王立ちになる舞のカッコいいこと!
その彼女に対して不敵な笑みを浮かべて迎え撃つ弓月!
それにしてもなぜじゃ、なぜ脱ぐのじゃ!まず脱ぐのはなぜじゃ!
お互いのおっぱいつかみあって「ウオワアアオー!!」と雄たけびをあげるあんたらは何なんじゃ!!
いいもう、可笑しいから、いいけどさ!
でもこのバトルはたっぷり尺を使っての見せ場。可笑しいけど凄い、凄いけど可笑しい。その二律背反?に引き裂かれてもう頭がどうにかなりそう、おかあさーん!!

最後は何とか、ちょっとマトモかな。死にかけている夫をセスパーの能力を正しく使ってよみがえらせる舞。まあ、ただセックスしてるだけに思えますが……いいけど。よみがえるように祈りを込めて、足の指までしゃぶり尽くす舞さんは、愛を感じる……かな?愛の物語だったの……かな?そうかー。

うーむ、「!」マークだらけの文章になっちゃう。いや、だってさ……可笑しいだろ、これ、っていう……。しかしこれはタイトルピッタリね。素晴らしく。★★★☆☆


のんき機関士
1949年 11分 日本 モノクロ
監督:熊川正雄 脚本:松崎與志人
撮影:藪下泰司 音楽:坂本良隆
出演:

2004/7/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
絶対、「のんき駅長」のラストがあんまりだったから、いや、彼らはちゃんと仕事してるんだよ、というところを見せるために作ったんだよ。だと思うなあ。いくらなんでも列車が衝突してオワリだなんてアンマリだもの……まあ、あんまり印象は変わらないけどね(笑)。ぽっぽやさんたちは相変わらずノンビリしているしさ。でも“機関士”という部分にきちんとスポットを当てたという意味では、やはり大人の仕事を見せる、という意味合いがあったのかもしれない。それもかなりアニメ的スペクタクルの描写でだけれど……。

あんな大惨事を引き起こしちゃった駅長さんの朝の描写から始まりますデス。駅長さんったらね、もう子供を5人(だったと思ったけど)も作っちゃって、何か奥さんとも仲睦まじい感じで、いやあー、日本の家族はこうじゃなきゃいけないね!って感じなの。奥さんの割烹着姿がいいんだわあー。仕事に出かけるお父さんを家族全員で見送るわけ。いやあー、日本の家族はこうじゃなくっちゃね!

まあ、駅長さんの描写はここまでって感じ。メインは機関士の仕事っぷりである。列車の形体もかなり精密に、精緻に描写していき、彼らの仕事もアグレッシブに描かれる。何といってもアレね、列車の屋根の上で仕事をしていて、橋の下を通過した時何かが起こって(ゴメン、何だったか忘れた)とっさに橋の上にのぼってそれを処理するわけ。そして列車が通過しそうになるところを急いで屋根の上に飛び降りて、石炭の通気孔?からスルスルと降りて、汽車の中に戻ってくる。同僚は真っ黒な彼の顔を見て大笑い……という部分はまあギャグに仕立て上げてるけど、この一連の動きは、まるでジャッキー・チェンの映画のアクションを見ているみたいで、素晴らしいのよ。いやー、ジャッキーより先に、日本のアニメがそれをやってのけてたってことよね!このあたりのスリリングな見せ方は、そう、「のんき駅長」でもそうだったけど、まさしく映画!なんだなあ。

のんき、じゃここまでのことは出来ないよねー、ま、のんきなんだけどね(笑)。★★★☆☆


のんきな姉さん
2002年 82分 日本 カラー
監督:七里圭 脚本:七里圭
撮影:たむらまさき 音楽:侘美秀俊
出演:梶原阿貴 塩田貞治 大森南朋 梓 細田玲菜 細田晃慶 佐藤允 三浦友和

2004/1/13/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
雪原の中、一人の姉と、一人の弟。寄りかかりあうように、くっつきあって、二人、歩いてゆく。深い雪に、足をとられそうになりながら……。

「僕、夢を見ているのかな」「まだ寝ぼけてんの」ふっくらとかぶさる台詞、一枚のモノクロームの写真のようにゆっくりと。この奇跡のように美しいワンシーン、予告編で目の前に現われたこのワンシーンに、呆けたように口を開けっ放しにして、見とれてしまった。こんな美しいワンカット、今まで見たことがないと思うほどに。

三つの原作の存在。それにインスパイアされて作り出されたということで、これは後でその原作を読まなければ(読み返さなければ)ならないかな、と思ったのだけれど、観終わって、思った。何も知らなくていい、と。この映画はこの映画だけで、何にも寄りかからずに、あまりにもあまりにも、美しいのだもの。
弟を愛してしまった姉。姉を愛してしまった弟。この世界にたった二人だけの姉弟。両親は彼らが子供の頃、突然の火事で死んでしまった。事故だったのか、自殺だったのか、判らない。何もかも焼けて、写真も何も残っていない。両親の顔の記憶、それもどんどん薄れてゆく。二人は寄り添いながら暮らした。ただ二人で。まるで最初から二人だけだったかのように。この世に、姉弟の二人だけ、ぽん、と存在していたみたいに。
でもそこにはやはり、残された痛みがある。
確かにいたはずの両親。彼らが当然愛されるはずの、唯一の庇護者。それが、彼らをかえりみずに、突然いなくなってしまった。
誰かから、愛されなければ、自分の存在を確かなものとして感じることは出来ない。自分を愛してくれる人を自ら探すには、彼らはまだ幼すぎた。そして二人のそばにはお互いしかいなかった。
二人が愛し合うようになったのは、必然だったのだ。

内省的な弟。彼はちょっと引きこもりがちな内気な青年。絵の才能に優れ、愛する姉に絵のプレゼントをする。その絵は彼の繊細さをそのまま映し出したよう。
彼は画学生たちのモデルになっている。一糸まとわぬ姿で、それを恥らうように、恐れるように、膝を抱え、顔を隠す……。
彼を見つけ出す女の子がいる。小学校の時、同級生だったのだという。積極的なその子に押し切られるような形で家に招く弟。いないと思っていた姉が家にいた。気まずい空気。その時露見する姉の妊娠。
弟は、ショックを受ける。目の前の同級生の女の子のことも目に入らなくなるぐらい。子供のように、実際、子供なのだ。
姉はその子供を産む、と言う。ますますうろたえる弟。自分を律する事が出来なくなる。そんな弟を姉はじっと見守っている。そして、弟がそのお腹の子を一緒に育てようと決心した時、姉はこの子はあんたの子じゃないと言う。ずっと付き合っている人と結婚するために、家を出るのだと……。

断片的に、挿入される、これらの出来事。現在の時間軸は、クリスマスの夜、姉の安寿子が残業のため、オフィスに残っている場面である。彼女のもとに、一冊の本が送られてくる。それは弟寿司夫が二人の関係を赤裸々に書いた本「のんきな姉さん」。
彼女を見守る課長と、彼女の婚約者である一男。そしてもう一人、このオフィスに乱入してくる、寿司夫を養子にしたという男、藪小路。
寿司夫から安寿子の携帯に電話がかかってくる。迷惑だと言う安寿子に寿司夫は言う。「だから僕、死ぬことにしたよ」
冷たく電話を切る安寿子は、でも、彼女が彼に対して冷たくすればするほど、弟のことを愛して愛して、たまらないことが、判ってしまう。

これが、逆だったら、兄と妹だったら、それはどこか、暴力的な匂いのする関係になるんだろうと思う。暴力的……服従というか。
姉と弟というのは、それと真逆、あるいはそれ以上の、どこかペシミスティックな感情を抱かせる。お互いがお互いに寄りかかって寄りかかって、重心のバランスがとれなくて、転んでしまうような。
女には、年下のオトコノコとの恋愛に憧れを抱くような向きがどこかにある。そしてこの姉と弟の関係というのは、それをダイレクトに叶えてくれる。弟なら、男が女に対するような傷つけ方をしないから。
でも、彼女自身の弱さを引き受けてくれるだけの強さを、弟は持っちゃくれない。
お互いに同じ弱さと同じトラウマを持っているから、お互いの気持ちは200パーセント判るけれども、どこまでも、救われはしないのだ。
だからこそ、美しいのだけれど。救いがなければないほど、美しくなってしまうのはなぜだろう。
弟はそれを求め続け、姉はそこから脱しようとする。
愛のありかが、すれ違う。

でも、確かに二人は本当に愛し合っているのだ。どうしようもなく。絶望的に。それは、本当。
でも、ダメなのだ。それは許されないとか、禁断の愛とかそういうんじゃなくて、そんな風に、求めるものが違いすぎるから。愛は美しくなればなるほど、そこから先、生きていくためのエネルギーを失ってゆく。皮肉だけれど、生きていくということは、美しさとは対極にあるから。
二人がお互いを唯一絶対に愛し合っているのは、もうどうしようもないこと。でもそれでも、安寿子の婚約者、一男のような存在は必要なのだ。
一男は安寿子が何も話してくれないことを、哀しく思っている。怒っているんじゃなくて、哀しく思っている。
話してくれなくたって、一男には、判っているのだ。話してくれないのが、哀しいのだ。
ちょっと、思った。愛することって、案外簡単かもしれないって。愛しているから、その愛を返されたい思うことよりも、こんな風に、苦しんでいる相手を、その苦しみを一緒に感じたいと思うことの方が難しいんじゃないかって。哀しむ気持ちは、愛する気持ちと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、美しく、尊い。

安寿子の中に宿った寿司夫との愛の結晶。寿司夫のことを思うならば、堕ろしなさいと銃を構えて迫る藪小路。
それを、断固拒否する安寿子。愛しているのに、なぜダメなの、と。さっきまであんなに寿司夫に対して冷たくして、もう関係ないと突き放していたのに、彼女は振り絞るようにそう、叫ぶ。
あれ、おかしいな、と思う。だって、現在の時間軸から振り返って、挿入される回想シーンはかなり前の話なはずなのだもの。安寿子が家を出て行って、寿司夫が本を書いて出版するまでと考えても、かなりの時間が経っているはず。あの時発覚した安寿子の妊娠が、今になってそんな風に取りざたされるはずが、ないのだ。
そう、この時にはもうすでに、赤ちゃんは、いないのだ。……当然といえば、当然。
なのに、まるで、今でもそのお腹に赤ちゃんがいるかのように、安寿子は叫ぶのだ。愛しているのに、なぜ、と。そして藪小路の銃が火を吹く!

この赤ちゃんが、寿司夫との間の子ではないと強固に言い張って、婚約者の一男を連れてきた安寿子。寿司夫は拒絶し続ける。なぜクリスマスに出て行くんだと。お父さんとお母さんの命日じゃないかと。
二人の尋常ではない雰囲気に気圧された感じで、一男は三人でお墓参りに行くことを提案する。
うっそうと茂った中にぽっかりと出現したトンネルを抜けた、水辺にある墓。
本当に、本当に何だか夢のように現実感がない。二人の両親は、本当にこのさびれたお墓の下に眠っているのだろうか……。
ギリギリの精神状態になった寿司夫は、ぶちまける。自分と安寿子とはセックスの関係にあるのだと。そのお腹の子は、自分の子なのだと。
取り乱した安寿子は、寿司夫を置いて帰ろうとする。しかし一男は彼女をたしなめる。
一男は、何ていいヤツなんだろう。哀しすぎるほどに。この姉弟が愛し合っているのを、彼は判っているのに、二人をそのままにはしておけないのだ。
安寿子はトンネルをとって返す。この、トンネル。うっそうと茂った中にあって、ぽっかりと明るい水辺に出るこのトンネル。まるで何か……子宮を思わせる。
でも、トンネルを抜けて、死んだような水辺には、寿司夫はいないのだ。死んだような、砂色の水辺……イヤな予感がする。そんな気持ちを受けたように安寿子も不安な表情で山道を歩き回る。そしてうずくまる寿司夫を見つけた時……今度は安寿子の方がお腹をおさえてうずくまってしまう。驚き、駆け寄る寿司夫。
画面の手前にぼやけた寿司夫、画面の奥に苦しそうに顔をゆがめてうずくまる安寿子……。
うっそうとした緑に囲まれたこの二人の画はやけに印象的で、不思議とこここそが、二人の、二人別々に生きていく運命を決定付けたように、思えた。

袋入りの落花生を抱えている、トボけた味わいの課長。落ち着くと言って女子トイレに入ったり、かなりヘンな人物なんだけど、このコミカルさが、なぜだかたまらなく癒されてしまう。三浦友和!三浦友和!!何だってこの人はこんなにこういうのが素敵にハマッてしまうのだろう!!!この安寿子のようにどうしていいか判らない時、こんな風に頼みもしないのにそばにいてくれて、頼みもしないのにさりげなく、まあ平凡といえば平凡な指南をしてくれる課長がいてほしい、たまらなく、いてほしい。
そして、安寿子の婚約者の一男。スーツにコート姿の大森南朋、である。いわゆるサラリーマン姿は初めて見る気がする。この人はどうしてこんな風に哀しそうな顔が似合うんだろう。この人に哀しそうな、困ったような顔をされると、これまた不思議に癒される。やっぱり、たまらなく、いてほしいと思う。女にとって、必要な男なのだ、彼は。

この、ラストは、反則なぐらい、美しい。私が呆然と口を開け放ってしまった、あの予告編のシーン。都会のオフィスにいたはずの安寿子が、まるで魔法のように寿司夫のいる雪原にさっくりと現われてしまうのだ。それだけでも胸をつかれるほど美しい描写だと思うのに、雪の中倒れこんでいる寿司夫を引っ張り起こした安寿子は、この弟と共にモノクロームの雪原を一歩一歩、歩いてゆき、そして花火が上がり、弟の背中をそっと押し出すのだ。「行きなさい」と。二人はここで、本当の意味で、一人一人になった。欠けているものを補っていた同士が、ようやく何とか一人同士になれた。

時間軸、そして空間のパズル。血の濃さを思わせながらも、夢のような二人の愛。安寿子が寿司夫のために作る、朝食のオムライスでさえ、まるで夢みたいなのだ。安寿子のベッドにもぐりこむ寿司夫。もぐりこんであっという間に生まれたままの姿になってしまう寿司夫が、男というより、本当に“弟”で、愛しいほどに、なんだかひどく罪だって思う。そして罪は、罪であればあるほど、優しく、甘い味がするのかもしれない。★★★★☆


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