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「ち」


2006年鑑賞作品

チーズとうじ虫
2005年 98分 日本 カラー
監督:加藤治代 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:加藤治代 加藤直美 栗田昌徳 中嶋憲夫 音楽:
出演:加藤治代 加藤直美 小林ふく


2006/7/26/水 劇場(ポレポレ東中野)
かーちゃんが死ぬことなんて、考えたくない、と思った。
とーちゃんだったら、なんとなく予測がつく(ゴメン!とーちゃん!そういう(?)意味じゃないのよ)。でもかーちゃんが死ぬことは……この中の母親と娘の関係って、私も含め、自分トコと似ていると感じる人はきっとたくさんいると思うのだ。
子供の頃とは違う、ある程度成長した娘と母親が、育て、育てられる義務から解放されて、ただ仲良くなる関係。友達のような関係。
いやもちろん、友達以上に決まってる。何気ない会話が心通じる、なんともいえない居心地の良さ。
それが失われることが、想像がつかないのだ。

哀しさは涙で表現できる。そして時間が解決することだと、位置づけることが出来る。でも喪失感はどうしようもない。それは哀しさの遥か上にあるものだから。
でも、その失った誰かを愛していたことを確認できる、幸福な時間でもある。
だからこの作品には涙はいらない。
観てるこっちは、いつの間にか涙目になってるけどね。

本作が、最初から作品として作られたのではなく、監督も最初から映画を学んでいたわけではないというのが、この稀有な作品を生み出した。というのを、後で知って驚く。
母親の死を描こうとしたわけじゃない。治ると本当に思ってた。信じてた。
日常を記録するホームビデオとしてカメラを買い、ビデオを回し始めてから、映画学校に通った。
こんな、過程があるんだね。この監督が今後作品を残していくかは判らないけど、お母さんが未来へのキッカケをくれたんだね。その命を賭して。

監督は、小さい頃に父親が死んだ。幼稚園の頃は外に出られなかったという。それだけに、母親への思いは人一倍強い。祖母も絡んだ母と娘の女系家族の結びつきに、共感以上の強さがあるからこそ、説得力があるんだ。

最初はホントに、日常の点景って感じ。チャプターごとに、白いバックにタイトルが浮かび上がる、淡々としたリズム。これからそんな辛いことが起こるなんて事前に情報を得ていても想像のつかない、穏やかな日常の風景なのだ。
でもこれが、本当に重要なのね。だってこれは闘病のドキュメンタリーじゃなくて、日常を愛すること、その大切さ、家族で暮らすことの暖かさの映画として、成立しているんだもの。

でも、監督は、後悔しているみたいなのだ。
ここでは一切描かれない、末期の母親の状況。監督自身の記した文章を読むと、本当に……辛くて辛くて、でもそれは、この作品から感じる暖かさとは対極のものなのだ。
ちょっとドキッとするのは、黒ずんだ肌と、抜け落ちる髪の毛ぐらい。それもカメラのこちら側にいる監督(=娘)によって、「大したことないね」と言われると、そうかも、と思える程度で留まっている。
髪が抜けていくからとウィッグをつける場面もあって、似合うよと娘からも言われるけど、その後、そのウィッグをかぶり続けることはない。
確かに髪がどんどん薄くなってベリーショートにはなるけど、その方が自然に可愛くて似合ってるし……そういうささやかな部分とかも、このお母さんが、最後までウソのないお母さん自身でいたんだなあって、思う。

確かに、ある場面からポン、と飛んで、白く横たわる遺体のシーンになると、え?あんなに元気そうだったのに、遺体のお顔もまだふっくらしてるのに突然?って思いもする。
でもその“ある場面”が充分予感させるし、やはりこれは死の映画じゃなくて、絆の暖かさの映画だから、いいんだよ。
だって、そんな時にカメラを向けられないことぐらい判るもん。だからこそ、この作品が信用できるんだよ。結果的にそうした辛い場面が排除されることによって、それ以外の部分に重点が置かれ、その本質が見えてくるんだもの。

だからこれは、やはり女性の映画なんだと思う。男だ女だと分けるのはキライだけど、これに関しては誇りを持ってそう思う。
男は記録や事実にこだわる。こういうドキュメンタリーを撮れば、ムリにでも死の現実をカメラに収めようとするだろう。
でも女は、良かれ悪かれやっぱり感情の生き物で、ここではその良かれの方向にふんわり大きく包まれているんだよね。

このお母さんね、いつも柔らかく笑ってるのだ。娘である監督が時々カメラの前に回って一緒に被写体になると、これがまた、よく似てるんだよね。柔らかさとか、優しげな声とか。
そう、声。お母さんに話しかける娘としての声が、本当に母親との何気ない会話で、全然用意されている感じがないから、とても心地よくて柔らかくて、優しいの。
母と娘の日常の会話、食事の用意や、畑の世話や、お母さんの趣味の油絵のこととか、本当に何気ないのに、それがなぜ、こんなに救いになるんだろう。

このお母さん、何が特別って訳じゃない。カメラを向けられると必ず両手でピースサインなんてするベタなあたり、そこらのおばちゃんならやりそうだもの。
娘の目線のカメラだから全然構えなくて、ホント自然で柔らかで、なんかね、私のかーちゃんのような気さえしてきちゃうんだ。
主婦として立ち働くお母さん。使い込まれた台所で用意する食事、おばあちゃんの誕生日のごちそうとか、日本人なら誰もが見覚えのある、特別な日の大好きなおかずが並ぶ。ほんと、お母さん、なんだよね。
自分がお母さんになりたがらないことが、ヒドイ罪に思えてきちゃうぐらい。
皆が大好きなおいしいごはんを当然のように作るお母さんって、素直に、ホントに、素敵なんだもの。
ああ、今度かーちゃんに会ったら、そう言いたい。

病気のお母さんを見つめながらも、本作が他と明らかに違っているのは、カメラがテーマの被写体と離れていることが多く、そんな“余計なシーン”こそが、やけに心に染み入るってことなんである。
お母さんが手馴れた様子で作るブリ大根、漬け物にするためにスタンバっているナス、流しの水に浸かった洗い物、大事に育てている野菜や花、それらをギリギリに接写する。
そんな静物画のようなシーンに、普通の会話や、あるいは胸をかきむしる静寂が重なってくる。

以前はドキュメンタリーを作るこういうビデオ作品って、ピントが甘くてどーもなんだったんだけど、機械が向上したのか、あるいはこの作家さんが映像に気を使う人なのか、こうした点景の、特にみずみずしい野菜や花が、涙が出るほどキレイなのね。
こういう、物語の進行上には関係のなさそうな点景がとても重要で、リリシズムに溢れてる。女性的感覚と言ってしまえばカンタンだけど、それは優しさという強さなのだよね。
イヤなこと哀しいことの時間の中にも大事なことはあって、それはイヤなこと哀しいことをそのまま描いてしまえば隠れてしまうことであって、だから逃げてるんじゃない。ずっとずっと奥の、一番大切なものを取り出しているんだもの。

最初のうちは、普通に家での日常である。でもだんだんと、病院でのシーンが多くなる。ずっと入院しているというわけじゃなく、途中退院して退職教員の展覧会に絵を出品したり、三味線を弾いたり、野菜を作ったりするもんだから、なかなか危機感はない。
というか、そうした感覚はこのお母さんのために排除していたんだろうし。お母さんも多分、娘のそんな思いが判ってて、全然深刻にならないんだよね。
でも、特に油絵に関しては、「寝ても覚めても絵のことを考えている」というほど打ち込んでいるものだし、真新しい三味線をつまびいてる楽しそうな感じといい、私は一応まだ死ぬ予定はないけど、なんか判るような気がするっていうか……ただただ病気と闘うだけで費やす最後の時じゃなくて、自分としての時間を費やしたいっていう思いがね。
でもそんな思いを、実際私がそういう状況になった時、貫けるかどうかは自信ない。だってやっぱり死への恐怖に塗りつぶされてしまうんじゃないかって、思うもの。
これって人生を過ごした時間や、いやそれよりもやっぱり、母として生きた強さなのかなあ。

でも、病室に入る前に殺菌消毒しなきゃいけなくなったり、ベッドの周囲にビニルのパーテーションが下げられてたりといった描写がひとつひとつ追加されていくことによって、じわじわと……判ってしまうんだ。会話の調子は変わらないだけに……。
入院中にね、監督、お母さんにこんなこと言うのだ。「長生きしてね」って。その調子はあまりに何気なくて、死ぬことなんて全然信じてないようにも思える一方で、やっぱりそれは奇跡だと、懸命に繕っているんだろうなとも思い……。
「そうだね。かわいそうで残して行けないよね」父親を亡くした時の娘のことがあるからだろう。
でもそんな台詞をやはり何気なく返すお母さんも、きっときっと、同じ思いであり、「おばあちゃん(91歳!)まではムリとしても、80までは生きてね」と娘が重ねる言葉が、何とかこの奇跡を現実のものにしようという思いが見えて、なんかもう……。

そして、あの白く横たわって家に帰ってきたシーンの直前は、家に新しいテレビが来た場面でホワイトアウトされている。
新しいテレビは銀色で大きくて、「汚い色に慣れていたからまぶしいね」というぐらいの鮮やかな画面を映し出してて、そこではオーケストラによる凱旋行進曲が流れている。
偶然なんだろうけど、凄い偶然だ。お母さんがこの家に帰ってきてる。小さな凱旋。そしてその曲がホワイトアウトの中でも粛々と流れ続け、静かで哀しい凱旋のシーンへとつながっていくんだもの。
その間に、映されない辛く哀しい時間が横たわっていることを思うと余計に胸がつまる。
この曲が、心の中で響き続けて忘れられない。

このお母さんにとって孫に当たる子供たち、ちょろちょろと走り回って元気で、でね、一族同じ血が流れているなーってのが、風貌に現われてて、これがグッとくるんだよね。
当たり前のことなんだけど……お母さんの面影、監督である娘の面影、そしてお兄さんの面影、誰かがいなくなっても、受け継がれるものを、感じちゃうんだもん。
お母さんの死後、「孫が四人見られたんだから……」と話し合う会話には、うっ……グサッとくるなあ。やっぱり最大の親孝行は孫を残すことなんだろうな……。ゴメン、かーちゃん。

子供っていうのは、なんか全てを超越して偉大だね。なんか最近はもう、本能的に子供に目が行ってしまうせいか、ホント、そう感じる。
鼻をほじってはなめてる男の子。子供だよなあ……もうほじりなめ繰り返ししすぎ(笑)。この弟とじゃれてはしゃぎまくるお姉ちゃん。
そして、一番新しい命。最後の孫を見つめるお母さんの、なんてなんて嬉しそうな顔。これをフィルムに残せたことだけでも、家族の、そして家族を愛する全ての人のために、幸せなことだったよ。
この最後の孫がある程度成長するまで、カメラは回される。お母さんの死後も。編集前のビデオを繰り返し見ているおばあちゃんが床に伏すラストは、またあの哀しさがくる暗示があるけど、でもね、このおばあちゃん、カッコイイんだもん。

このおばあちゃんね、メッチャ長生きだよね。だっていくつよ!孫どころかひ孫が四人ってことじゃん!
しかもしゃきっとしてる。孫娘である監督の撮影した、自分の娘の映像を繰り返し観ながら、「あまり似てないね。私の方がイイ女だ」と言い放つ。
確かにそうかも!母と娘は柔らかい感じがよく似てるけど、このおばあちゃんはきっと若い頃は小股の切れ上がったイイ女だったんじゃないかなって思うほどのシャキシャキ感だもの。
本当に、繰り返しビデオ観てるんだよね。娘が生きていた証しが、孫娘によって暖かく映し出されているこの映像が、おばあちゃんにとって本当に嬉しいんだ。
おばあちゃんの遠くを見るような幸せそうな顔が、こんな顔、どんな役者でも出来ないよ。哀しいんだけど思いに満ちてて、凄く凄く……愛なんだもの。
もう死んでしまった娘に対して。そしてこんな思い出を記録してくれた孫に対して。

ラストにはおばあちゃん、部屋で点滴とかするようになってしまう。でも蛍光灯にヒモに点滴つるしているあたりが、このおばあちゃんの強さを感じさせる。吸いのみで植木に水をやったり。もう枯れている桜草に、まだ大丈夫だよ、って言って……。
そしてこのおばあちゃん「この年になると、死ぬのは全然怖くない。喋らないと思ったら死んでた、っていうのが理想だよ」って言うんだもん。そう言えることこそが理想だよ。カッコイイなあ……。

ちょっと話が飛んじゃった。お母さんが亡くなって、さすがにその前後は前述の理由で飛ばされる。遺体が家に戻ってきて、孫たちを含めた親戚たちが最期のお別れをするところからまたカメラが回り始める。
ここで、ヤラれるのが、孫の中の最年長である女の子なのだ。
それまでは、弟と同じレベルで子供らしくはしゃぎまわっていたお姉ちゃんなんだけど、ここでまったく違うたたずまいを見せるのだ。
まだ判ってない弟たちと違って、死の概念を確実に理解し、感じてるのが判る。神妙な、というか凄く受け止めている顔をして、弟たちがその場を離れてもなお、じっとおばあちゃんを見つめて座っている。
これが、たまらなくクるんだよなあ……。こんな映像を残せたのも、すばらしいと思う。
やっぱり、女の子だね。大人になるのが早いんだ。

まだ赤ちゃんの空気を残す一番下の子は、お菓子食べながらおばあちゃんの眠るふかふかのお布団にどすん!
や、ヤバい……更に踏んづけて横切ろうとしたもんだから、さすがに大人に慌てて阻止され、大泣き。普段と空気も違うし、相当怯えたんだろう。凄い大泣きが止まない。
こういうのが映像作品として残されてるの、この子達にとってホント財産だよね。
それにこんな映像を残せるの、家族間、親戚間に完璧な信頼関係がなきゃできないもの。

監督はお母さんの手帳を広げる。病院の予定も含まれてはいるものの、およそ末期患者とは思えない、旺盛なスケジュールが書き込まれた手帳。その中で目をひくのは、定期的な感覚で書き込まれた「油絵」と、最後の予定、「両国国技館」。楽しみにしてたんだろうな。
お母さん、入院中も欠かさず相撲を見てた。だから監督は見せてあげたいと思って用意したんだろうと思う。後に、監督とお兄さんとで観に行く。升席でしょ、あれ!すっごいイイ席。「見せてあげたかったな」と兄妹で言い合う。
お母さん、定期的に入院はしていたけど、ホント日常の生活を心がけてたんだよね。がん保険でおりたお金も、新しい車と耕運機購入に使ったぐらい。

映画が始まってほどなくして、監督はお母さんに、病気が判った時どう思った?と聞く。そうするとお母さん、ああやっぱりと思ったよ、と前置きしてから「命が短いと判っても、それでくよくよするより、残りの時間を楽しく生きることを考える。そして、あー、楽しかった。じゃあ、バイバイって」という人生哲学を披露するのだ。
この時は、監督は奇跡を信じてた。娘としては信じるしかなかった。でもお母さんは、後悔しない準備をひとつひとつこなしていたんだろうと、思わざるを得ない。
そしてそれは、日常を続けること。日常を堪能すること。それこそが人生の幸せ。
取り乱すことも、周囲に当たることもせずに。
国技館、本当に連れて行ってあげたかったけど、でもそういうことだからやっぱり、お母さんにはかなわないんだよ。

タイトルからは想像もできない内容の本作、このタイトルは意味が判りづらく、その出自を冒頭に示されてもムヅカシイ。
でも、お母さんが「死んだら宇宙の塵になる」と言い、おばあちゃんが「私は土になる」と言った台詞がなんとなくつながっていく。
そしてお母さんが作った肥料は、ウジャウジャとうじ虫がわき、熟成され、そして枯れて乾いて、彼女の死後には養分たっぷりの肥料になってた。一見ただの土くれだけど、美味しい野菜を作ってくれる肥料に。
ホントいえば、人間が死んでもこんな風に野菜が成長する肥料にはなれないけど、大切な人の永遠の記憶として、きっとこの孫たちにとってはそれこそ成長する肥料として、残っていくんだろうと思う。

やっぱりそれが、人間の成すべき道なんだよなあ……。ダメだな、私……やっぱり。★★★★☆


父親たちの星条旗/FLAGS OF OUR FATHERS
2006年 132分 アメリカ カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:ウィリアム・ブロイレス,JR./ポール・ハギス
撮影:トム・スターン 音楽:ヘンリー・バムステッド
出演:ライアン・フィリップ/ジェシー・ブラッドフォード/アダム・ビーチ/ポール・ウォーカー/ジェイミー・ベル/バリー・ペッパー/ジョン・ベンジャミン・ヒッキー

2006/11/16/木 劇場(有楽町丸の内プラゼール)
本当はもう、戦争映画は観たくないのだ。いろいろ手を変え品を変え出してくるけど、戦争はダメだって気持ちはそれだけしかないし、戦争映画が作られるうちは、世界から戦争がなくなってないってことだもの。
それにね……この原作は未読だけど、やはり片方からしか描かれていない価値観の不公平はあるんじゃないかって、思っちゃう。確かに魅力的な題材ではある。一枚の有名な写真から戦争の真実をあぶり出すっていう……でもね、後からいろいろ裏話的な情報を拾っていくと、やっぱり戦勝国の意識って違うんだもん。

例えばこうよ。この写真を撮ったカメラマンのローゼンタール曰く「あの写真は確かに私が撮った。だが、硫黄島を“獲った”のは海兵隊員たちなのだ」
……ちょっと待て。ふざけんなー!!獲ったって、何よ! だとかね、そういう言葉尻にすんごいとがっちゃうんだもん。
あるいは原作者だってそうだよ。彼は劇中に出てくる衛生兵、ドクの息子なんだけど、ハッキリと、国旗掲揚者を誇らしいと考えている雰囲気なんだよね。で、こう言うの。「ヒーローと呼ばれて死んでいった者たちを誇りに思う」
……それってさあ、戦争を肯定することに聞こえない?結局は勝ったから、そう思うんでしょ。でも死んだ人間にとって、戦争の勝ち負けなんて全然関係ない、ただ国のために犬死にしただけなのに。

まだまだある。旗を掲げた一人であるレニーを演じたジェシー・ブラッドフォードは、「国債を集めることが出来たから、戦争を続けることが出来たんだ」とインタビューで発言してるもんだから唖然とする。
続けることが出来た、って何よ。つまりその後、勝つことが出来たから、良かったじゃん、ってことかい!やっぱり、戦勝国は考えが違い過ぎる……。イーストウッドはそう考えてはいないのに!
ドクを演じるライアン・フィリップもなあ。「演じることによって戦争に従軍した父や祖父をはじめ、兵士に払えるのは名誉だ」なんて言うんだもん。私もやたら言葉尻を捉えすぎかもしれないけど、やっぱり引っかかっちゃう。名誉って何よ。戦争に従軍するのなんて、ただ哀れなだけだ。名誉な部分なんて、カケラもない。やっぱり価値観が違うんだな。

日本は負けてよかったよ……。“名誉の戦死”にこの何十年もの間、無限に悩み続けている。それこそが崇高なことだと思うもん。
あー……私、こういうことになるとダメだ。重箱の隅をつついては、一方的な感情で怒っちゃう。

でも、イーストウッド監督は、そんなこちらの感情を見透かすように、ちゃんとこう言ってくれてる。戦争に勝ち負けなどないと。
だからこそ二部作なのだのもの。当然、原作はアメリカ側のみであり、最初はその企画からスタートしているのを、わざわざ二部作にしたのだもの。しかも二部目の方に日本を持ってきたということは、イーストウッド監督が強くインスピレーションを受けたのは、日本側だと思うんだよね、インタビューを読むと。二部作だったら後編の方に重きがおかれるのは当然。それが結論だから。
やっぱイーストウッド監督は真っ当な人だ、と思ったりする。そもそもイーストウッド監督だから観に来たんだもん。彼に対しては絶対の信頼があるから。もちろん二部作で日本版があるということもあるけどさ。

なんて怒っている割には、硫黄島のことは何にも知らなかった。まあもともと戦争のことも含めて、歴史は大の苦手なもんだから……で、今回改めて学習する。
連合軍の、日本本土への出撃の中継地点。つまり、連合軍の動きが日本に伝わり、先制攻撃を許しているこの島を征服すれば、日本を征服できると考えられた場所。
だから、硫黄島に乗り込んでの戦いは、日本人にとってはいわゆる初めての本土決戦だったんだ。知らなかった。沖縄だけが本土決戦が行われた土地だと思ってた……のは、硫黄島は実際に人が生活しているところじゃなかったからか。今でも、硫黄島には日本の自衛隊の小隊が駐屯している以外は、誰も住んでいないのだという。

6人の兵士たちが力を合わせて、硫黄島に星条旗を突き刺しているこの写真は……見たことあるようなないような。でもアメリカ人にとっては、本当に有名な写真なのだという。つい最近も切手になったとか。
……うーむ、なんかそれ自体、こっちとしてはフクザツな気分だけど。
今回、この映画で、その背景が描かれるものの、やっぱり他国の国旗がホームに突きたてられるのって、すごいイヤな気分だもん。
と、ゆーのはヘンな話だけど、今年のWBCで初めて実感として味わった。そう、あの韓国の選手がやったアレね。もう、すっごいはらわたが煮えくり返った。何やってくれちゃうの、って。そういう感情が自分の中にあるなんて、知らなかったからビックリした。
他国のホームに国旗を突き立てるのは、敵対国の征服を顕示する。つまりそれは、いまだにダイレクトに戦争のイメージ。
まだまだ韓国とは溝が深そうだ……ここでは全然関係ないけど。

ところで、イオウジマ、って向こうでも発音するんだね。ナントカアイランドじゃなくて。日本の領土だからってことだけど、そう呼びながらこの島に乗り込んでいくことが、逆に凄くイヤな気分。
でも、大きな船に分乗して向かう(無数のデカい船が次々に向かう、俯瞰の図の恐ろしい迫力!)若い兵士たちは、まだそんな深刻さはない。いや、それはあえて明るさで深刻さを隠しているようにも見えるけど、一見、修学旅行にでも行くようなノリである。
しかしそんなふざけあいのさなか、一人の兵士がウッカリ海に落ちてしまう。船上から笑いながらからかう仲間達、すぐに助けてやるよ、もうちょっと待ってな、と声をかけるのだけど……一向に助けの手が伸びる気配はない。
敵の陣地へ行くのに急いでいるのに、たった一人の兵士を助ける余裕などないというのだ。それも、まるで躊躇もなく、当たり前のように、見捨てる。
「兵士を見捨てないっていうのは、ウソなんだ」
彼らに、戦争の本当の姿が見え始める。

いよいよ硫黄島に乗り込む。敵の姿は見えない。何万の日本兵が決死の覚悟でこの島を守っているはずなのに、見えない。粛々と進む米兵たち。と、洞窟の中から雨アラレの弾が降ってくる。必死に応戦する。相変わらず敵の姿は見えない。
もちろん、この一部目はアメリカ側の視点だから、見えない敵はあくまでブキミにしか映らない。でもこれが二部の方で明らかにされるんだね……素晴らしく鬼気迫る予告編で示されているけど、本作の中にも、洞窟の中でむごたらしく自決している様子などがチラリと出てくる。

一時の間。これから硫黄島にそびえる山を乗り越えて、更に激しい戦闘が繰り広げられるんだけど、それをまだ知らない彼らは、上官に言われて国旗を山に掲揚する。
これがまず、一番目の旗。それを見て気に入った上層部が、自分の部屋に飾りたいと所望したことで降ろされ、二番目の旗が改めて掲げられる。その時撮影されたのが、この写真なのだ。
つまりは、一番目の時にはカメラマンが間に合わなくて、二番目の時に慌ててシャッターを切った形である。

それがまるで、勝利を記したようなイメージでとらえられ、新聞の一面を飾り、あっという間に米国内に広まった。実際はここからずーっとむごい戦闘が続き、何千人もの米兵が死んでいるのに。
しかも、この写真からイメージされるように、意気揚揚と勝利の旗を掲げたって雰囲気じゃ、全然ない。じゃあ、代わりにこれを立てとけ、と言われて、めんどくさいなー、じゃあ、まあ、よっこらしょ、てな感じで立てられたんである。
しかしこの写真が、戦争に行き詰まり感を感じていた米国民を鼓舞したことを知った政府は、それを利用することを思いつく。つまり彼ら“英雄”たちを帰還させ、国民に国債を買う気にさせる、広報になってもらうというあざとい考えである。

そんなことを政府が考えている間に、彼らは次々とむごたらしく死んでゆく。この国旗を掲揚した6人の兵士のうち、3人が亡くなってしまった。
国旗掲揚者は帰還出来ると、いち早く話を聞きつけたそのうちの一人のレニーは、朗報だぜ!と単純に喜んで、やはり掲揚者の生き残りであるアイラに教えてやる。しかしアイラは喜ばない。それどころか、俺が掲揚者だってことは取り消せ!俺は帰らない!と凄い剣幕でレニーにつっかかるんである。
……このアイラが、一番マトモな神経を持っていたことが段々と判ってくる。こんな理由で帰還することが、そんな単純に喜べないことを彼は最初から判っていた。彼がネイティブアメリカンで(当時はインディアンと呼ばれていた)何かと差別されているから、その同胞たちの感情もあるし、いろいろと複雑な問題を抱えていたからこそだけど、でもそういうことがなくても、こんな理由で帰還することがちっとも名誉じゃないことは、ちょっと考えれば判るよな。
アイラは結局帰還させられるんだけど、ずっと、苦しんでる。晴れがましい席や贅沢な食事が出る度に、苦しんでる。英雄扱いされる一方で、インディアンだと差別されて屈辱的な扱いを受ける場面もあるし、そうでなくてもそのことが常に、些細なからかいの対象になっている。
例えば、インディアンの言葉で大げさに挨拶をかけてみたりね。からかっている方は、軽いジョークを飛ばしている程度にしか思ってないんだろうけど、彼にとってはそのひとつひとつが針のむしろだったに違いないのだ。

大体、この時点で国旗掲揚者を上層部に教えたレニーに、カン違いがあった。一人を取り違えていた。それはもうどちらも亡くなってしまった仲間なんだけど、一番目の掲揚に参加していた人物を、この写真の中にいる一人と取り違えて報告してしまったのだ。
このことも、ノドの奥に刺さった小さなトゲのように、後々までずっと鈍い痛みを残す。
この写真を見た時から、その取り違えられた青年の母親は、後ろ姿の、それもお尻だけが見えている状態にもかかわらず、息子だと、即座に判った。しかし新聞での発表の中に息子の名前はなかった。帰還した彼らが真実を報告しても、今更そんなマヌケなことを公表しては(しかも二番目の掲揚、っていうのだってマヌケだし)国の沽券にかかわるし、国債の購買意欲に差しさわりがあるというのだ。

……こんな風に当時の事情をつまびらかにしていく、その情報源を示すように、当時の真相を知る人々への現在軸でのインタビュー場面が差し挟まれる。つまり、その回想という形になっている。
その中の一人が、こう言った。
「写真が戦争の勝敗を決める。ベトナム戦争では現地の住民のこめかみに銃口を突きつけた写真一枚で、負けが決まった」
……。

結局、誰が旗を立ててたってどうでもいい。旗を立てたんだ、って人物がテキトーに揃ってて、彼らを客寄せパンダにして、国債を売り上げれば、それでいいんである。
とりあえずレニーはそんなことを気にしてないどころか、判ってないって感じで、晴れがましい席に立てることを単純に喜んでいる感じ。ドクはちょっと……悩みが見えているかな。
戦争をするにはカネが必要。当時は本当にキュウキュウで戦争をしていた。今は好景気を維持するために、定期的に戦争をやっている趣がある。そんなに戦争をせずにはいられないんだろうか。

レニーの恋人が、もー、トンでもないのよ。彼が帰還した時から思いっきりオシャレして出迎えに駆けつけてた。そこにマスコミがいることを知っての行動である。大統領逝去のニュースにパーティが中止になったと知るや、あからさまに不機嫌な顔をするし。ったく、オマエ、無神経どころじゃないだろー。
後に行なわれたパーティーで、レニーが亡くなった戦友の母親にしんみりと挨拶をしていると、彼の隣にいそいそと近寄って、「レニーの恋人です。心からお悔やみ申し上げます」相手はあぜんとして出かけた涙も止まっちゃう。
お、お前、アホかー!!!死んだ青年は、もう二度と恋なんて出来ないんだよ!幸せになんてなれないんだよ!死んでるんだもん!どれほどこの母親を傷つけると思うの!
この時さすがにレニーは困った顔をするんだけど、結局コイツと結婚するんだよね。しかも、「この辛い間、ずっと一緒にいてくれた」とか言って。お前も相当神経抜かれてるだろ。だって思いっきりマスコミの前で結婚発表してるんじゃん。ハリウッドスターか、おめーらは。

まあ、そのおかしさも、レニーだって判ってるとは思うけど……ドクの恋人はその点、大正解である。彼女は自分の恋人がスター扱いされる大騒ぎの間、一度も彼に会いに来ずに、ひっそりと待っていた。レニーが結婚し、アイラが希望して帰還した後、彼が一人故郷に戻ると、駅に一人で座ってて、ニッコリと立ち上がって彼を迎えた。
コレでしょ。恋人の正しき姿はさ!

でも、このパーティーではドクから死んだ息子の話を聞いた母親が、「あなたがここで一緒にいてくれたと思うと、不思議に気が休まるの」と目を潤ませるシーンもある。この写真の中に彼はいないんだけど……そう、取り違えられた母親。
彼女も後ろ姿だけの青年が、本当に自分の息子なのかといぶかしんでいる。やっぱり母親には判るのだ。それでもドクたちが彼と一緒にいたのは、本当のことだから……。

それにドクは自分が衛生兵だから、自分が倒れたら仲間の命を救えないから、つまりは、誰よりも生き残らなければならない存在だということを、口には出さないけど苦悩しているんだよね。これはアイラが言っていた台詞なんだけど「自分は英雄なんかじゃない。弾をよけていただけだ。英雄は戦死した仲間たちだ」っていうのがね、ドクの場合は、より顕著だったと思う。
敵は、衛生兵を狙ってくる。それが兵力壊滅への近道だから。だからドクが怪我をすると、仲間は真っ先に彼の手当てをしようとする。それが他の兵士に比べて大したことがなくても、衛生兵が倒れたら仲間の命がそれだけ危険になるから。
判ってはいる。仕方のないことだ。でも……この、生き残らなければいけない罪悪感はどうしようもなかったはず。

しかしやはりそれ以上に、アイラは本当に哀れだった。どんどん酒に溺れていく。死んだ戦友の母親と抱き会って号泣しては上層部を呆れさせ、式典で国旗掲揚を再現することを執拗に拒否して(確かにアレは、あまりにエグい。ほかの二人も拒否反応示してた)酒飲んで吐きまくり、結局は……彼の帰還の希望が喜んで受け入れられたって形である。
実際、各地で黒山の人だかりを集め、空には花火が打ち上げられ、金メダリストの凱旋帰国だってここまでハデではないだろうと思われる各地の熱狂は、それが続く度にだんだんとウソ寒く感じてくる。記者たちも、あの国旗掲揚はヤラセだったのではないか、と突っ込んでくるし。

後に、この写真が巨大な彫刻となり、その除幕式が行なわれる。この時点でもう様々に事態は変わっていた。
まず、アイラはどうしても、あの写真にいた取り違えられた青年の家族に、真相を伝えたかった。写真をひと目見た時から判っていた母親は、もう家にはいなかった。息子が戦死して、夫があの子を戦争に行かせたんだと、夫婦は別れてしまってた。
黙ってその事実を聞き入れた父親は、妻に電話する。お前が正しかったと。
でも結局、除幕式には彼らは呼ばれないし。政府は知っているはずなのに。結局は自分たちの自尊心が大事なのだ。戦争がどうとかいうより。いや……戦争だからこそ、なのかもしれない。

この除幕式が最後だった。その後彼らは、あれだけ英雄扱いされたのに、その末路は華やかさとは無縁だった。
特にアイラはやっぱり哀れだった。インディアンの仲間たちのために力になりたいと思うも、結局はやせた土地を耕して何とか生活するしかなく、時たま訪れる観光客のカメラに英雄として収まるなんてことも、彼には苦痛だっただろう。そして、酒を飲んだ挙げ句に、行き倒れのように死んでしまった。
レニーも、あれだけハデにチヤホヤされたのに何のコネも効かずに、最後まで清掃人夫で終わってしまった。
そしてドクは家庭を持ってから、あの戦争について語ることはなかった。死ぬ間際、息子にもっと話せばよかったともらした。でもその時息子は、そんな父親の時代に興味を持って調べ始めていたのだ。それがこの物語。

この原作の映画化の権利を最初に得たのはスピルバーグ。彼が監督しなくて、良かった……。イーストウッドが興味を示してくれて、ホント良かった。だってあの人は、戦争に勝ったアメリカが大好きなんだもん。彼が監督したら当然二部作なんて考えもしなかっただろうし。
やっぱり二部作だから、正解なんだ。ある地点からの戦争映画は、敵となる相手が、どうしても悪役にならざるをえない。でも戦争にかり出される兵士たちは、国がコマとして使っているだけで、彼ら自身の個人的な憎しみなどあるわけはない。ただ暖かい家族の元に戻りたいだけなんだ。
やっぱりイーストウッドはすげーな!これを日本でなぜ出来ない!
それにしても、予告編の日本版が鬼気迫る。もうこれだけで、こっちの方が上!って思っちゃうぐらい。
実際、硫黄島での戦死者は、アメリカが7000人弱、日本はその3倍以上。これでアメリカに重きを置かれたら、怒るよ。

ここ最近は、アジアとの関係修復の時代で、侵略者としての日本軍をきちんと知ろう、という感じが映画でも多くて、結構辛かったけど、いや、侵略される歴史も違う種類の辛さなんだけど、当然、辛いんだ……。
で、今度はその第二部でさらに辛くなる。でも戦争がなくならない限り、やっぱりそれを知り続けなきゃいけないんだな……。★★★☆☆


ちゃんこ
2005年 119分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:山田耕大 港岳修
撮影:広中康人 音楽:名古屋芸術大学音楽制作研究所
出演:須藤温子 東貴博(Take2) リカヤ・スプナー 北村悠(FLAME) 柄本佑 西田尚美 渡部篤郎 ム二ール・エルアルファウイ トロイ・プレスリー デビッド・ヤノ 北見敏之

2006/3/30/木 劇場(新宿歌舞伎町グランドオデオン)
郷土の星(は私にとっては各地にいるのだが、福島版郷土の星は彼と本田武史だっ)のサトウトシキ監督作品に対して、こんなガッカリするなんて予想だにしなかったんだけど……えー……これは、サトウ監督、ホントに本気出して、やった?なんでこんなにつまらないの?なんでこんなに盛り上がらないの?……なのは私だけなのかなあ。
かなり、ツラかった。最後まで観ているのさえ。相撲映画ということで、どうしてもあの「シコふんじゃった」が頭に浮かぶけど、そんな過去の秀作があるだけに、更に辛かった。とても並列では語れない……。サトウ監督の一般映画進出ってことで本当にワクワクしてただけに、ショックにも近い状態。

ヒロインの中田由香には、あの「なごり雪」で大林監督によって大きく開花させられた須藤温子。しかし大林ヒロインは本当にその時だけ特別な輝きを引き出される場合も多いんで、ヘンに期待を募らせたつもりはなかったんだけど、あの時の清楚なカワイさがどこに行ったのかと思うぐらい、最初から最後まで仏頂面で、なんたってヒロインが相撲が好きになっていく過程で共感させてくれないと困るわけだから、そう、困るのよ、最後まで当惑したまま。
そりゃあ彼女は、合コンや華やかなサークル活動や男の子にも見向きもしない、学校とアルバイトの往復でストイックに過ごしているクールな女の子よ。でもだからこそ、彼女がなぜか相撲部に入っちゃって、その魅力に目覚めていくなら、楽しいとか、達成感とかの時の輝く笑顔を見せてくれないと、本当に彼女、相撲が好きなのかな、と疑っちゃう。

確かに彼女、めきめき相撲は上手くなっていくんだよね。最初は満足に上がらなかった足もスッと天を向き、シコを踏む美しさは素晴らしいし、へなちょこだったぶつかり稽古も、地にどっしりと足のついた、カンロクのあるものにどんどん変わってゆく。
その変化は確かにドラマチックで、凄い、彼女頑張ったんだなあ、とは思うけど、彼女の表情が全く崩れないのが、まるであの、ちょっとヘンになっちゃった貴乃花を見るようでさあ。

うーん、それに、そう、“なぜか相撲部”ってところも、ホントなぜか、なんだよね。スカウトされても最初はつっぱねてた彼女が、なぜ相撲部勧誘のパーティーを覗きに行き、さらに入部しようと思ったのか。
後段に対しては、主将、カブレラのぶつかり稽古に心熱くしたらしく、手にした紙コップを思わず握り締める描写は出てくるけど、でもあのぶつかり稽古はそんなに心揺さぶるかなあ……。
それに、そもそも彼女がこのパーティーに来る気になった動機も弱いんだよね。確かに彼女、カブレラに「君は横綱になれるね!」と熱っぽく口説かれたけど、彼女の足をさわさわ触って、素晴らしい足だ、絶対に横綱だ、と言うカブレラは、はっきり言ってそれセクハラだろー、とか思うし、彼女にばかり執着して口説く彼はかなり寒い。

そんなこと言っちゃいけない、カブレラは最重要キャラクターなんだからと思いはするものの、相撲はともかくカブレラ君の演技はかなりキビしいものがあり、この時点ではヘンで失礼な外国人にしか見えないんだもん。
更に言うと、続々と出てくる外国人留学生たちが揃いも揃って、見てて逃げ出したくなるような演技を繰り広げるものだから、ああ、サトウ監督、もうちょっと演技指導してください。これって実際の留学生なんじゃないの?
それに、音楽が「名古屋芸術大学音楽制作研究所」ってクレジット、つまり学生が作ってるんでしょ?この音楽もねえ……なんかやけに一貫性がなくて気持ちが集中できないなあ、と思ったらそういうことだったのかっていう……だって複数の人間がそれぞれに、全く違うカラーの音楽をもってきて、それぞれのシーンでテキトーに当ててるって感じなんだもん。うー、映画に音楽は重要なのよっ!

でね、話を元に戻すと、この外国人留学生たちである。もともとこの話は実際にあった「部員がゼロになった時、外国人留学生と女子学生の入部で廃部の危機を救われた広島大相撲部」を元にしているってことなんだって。だからこそ、この外国人留学生力士の役割は重要なトコなんである。
アメリカ嫌いのベラルーシ人(だったかな、忘れた。そのあたりの国)留学生と、強い大国アメリカを誇りに思ってるアメリカ人留学生とが、過去の歴史のことやら、文化のことやらで、常にいがみあっている。その二人を、相撲で決着つけよう、とカブレラは以前から誘っているのだけれど、相撲自体をどことなくバカにしている彼らは首をたてに振ろうとしない。

なのに、なぜ入部することになったかというと、二人のケンカを、最初は紙相撲、そして指相撲を取らせて決着がつかないとみたカブレラが、じゃあ本当の相撲で決着つけないかという提案に、頭に血が上っている二人はよっしゃ、となるわけだが……この過程、なんじゃこれ、じゃない。紙相撲に指相撲で、実際の相撲に導くなんてギャグじゃないんだから(ギャグにもなってないけど)……あまりにもムリがありすぎる。
そんな過程で入部させて、二人が本気になるのがちょっと信じられない。まあそりゃキッカケはなんだっていいわけだけど、入っちゃえば二人はいがみあうこともなく、相撲そのものに邁進するわけだし。でも、やっぱりムリがあるよなあ。

しかしカブレラが部員獲得に頑張るのはこのあたりまでで、学生相撲大会に男子部員の人数が足りないのに、それ以降はOBの若林(Take2東ね。案外イイ身体)にどんなにハッパかけられても、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と言うばかりでちっとも積極的に動かない。
「美味しいちゃんこ食べ放題、相撲もとり放題!(これはちょっと笑ったが)」じゃ、部員なんて来るワケがない。見かねた若林がカネをかけた立派な宣伝カードをどっさり作ってくれるんだけど、これもまるで効を奏さないので、由香もすっかりナゲヤリになっちゃう。
しかし、由香がまわし姿で学食でこのカードを配っている姿はかなりハズかしいのだが……結局ここが最後まで解消されないからキビしかったのかなあ、とも思う。彼女のまわし姿、あるいはまわしをつけているところって、見てて最後まで、私、恥ずかしさがぬぐえなかったのね。うーん、古いのかなあ、私……なんかね、ダメだったんだよなあ。

さて、学生相撲大会主催については、ひと悶着もふた悶着もあるんである。ある奉納相撲に参加した彼ら、揃ってボロ負けで、その反省会、と居酒屋で激論を戦わせていたところ、いかにもガラの悪そうなお兄ちゃんたちにインネンをつけられる。「うるさいんじゃ。外国人ばかりでジャマなんだよ、お前らとっとと自分の国に帰れ!」
こんなヒドいこと言われて当然怒り出す部員たちを、カブレラが「暴力はダメ!」と必死に抑え、何とかケンカ沙汰にはならずにすんだんだけど、その騒動が学校側に知れてしまい、大会主催どころか、廃部の危機に陥るんである。
この学校にはマトモな土俵もないし……というわけで、由香は、だったら部員そろえて、団体三位以内、あるいは女子相撲で私が優勝する!とタンカ切ってしまうのね。

ところで、土俵作りについては、由香が土木会社に頼み込みに行くんだけど、奇しくもそこは、先の、インネンをつけてきたお兄ちゃんたちが働いているところだった。カッと頭に血が上った由香は、「彼らは国を背負って戦ってるのよ!」と捨て台詞を残して立ち去ってしまう。
その後ろ姿に、あれだけ外国人をバカにしていたお兄ちゃんたちがアッサリと、「カッコイイのお」と言うのには、はあ〜〜??とガックリくる。そ、そんな、カンタンなもんなの!?いや、単純さは素敵ではあるけど、単純すぎるだろ!
ちなみに、由香がタンカを切った生徒会(大学で生徒会はないか……なんていうんだっけ学生理事会?)が、この会社に頭を下げてくれたことで新しい土俵の完成をみるのだが、うーん、でもそれは顧問の石山先生(西田尚美。相変わらずキュート)が学生たちに土下座までしてくれたおかげだよね。

ところで、結局予定人数の部員がそろわないまま、ノンキに合宿に行っちゃう彼らなんである。途中で腕相撲(は、ここにとっておいたのね)に勝ったカブレラがもう一人、バスケ部員と思しき黒人さんを引っ張り入れるのだが、まだ足りないんだよね。
でも相変わらずカブレラはダイジョウブ、ダイジョウブ、何の根拠があってそう言うのかさっぱり判らんが。
この合宿の地は、尾道。あの千光寺がちらりと映り、小さな路地や急勾配の階段がたくさん出てくるあの尾道の愛らしい姿に、大林映画のヒロインが、大林映画の聖地にいるわあ、と思ったりする。それにこの起伏の激しい尾道は、確かにトレーニングには最適なんだわね。

果たして最後の一人は、若林にお小遣いを渡されてマネージャーをやっていた片岡だった。もちろん相撲なんかやる気もなく、へっぴり腰の彼、しかし由香に投げ飛ばされてガゼン本気になり、何度もぶつかっていって、ついには由香に勝つ。
大喜びする彼に、若林「あいつ、やっと本気になったか」そう思うなら、お前がさっさと勧誘しとけよ……。ずっとトレーニングを積んできた由香は「なんで!?凄い悔しい!」そりゃそうだ……いくらなんでも彼が勝つのは早すぎるだろー。
しかし、せっかく戦力になるかと思った彼、試合直前にケガしちゃうし!意味ない!意味なさ過ぎる!
その危機を救ってくれたのが、由香に思いを寄せて何度もアタックしてきていた学内の人気者、牧村だった。つまりは頭数をそろえる、ということなのだが、でもそれ以前にカブレラが故郷の小学校の校長に任命されたことで帰国しちゃってて、そもそも頭数揃ってないんだから、戦力にもならん一人が増えたからって、これまた意味ないと思うんだけどなあ……。

そうそう、言い忘れてたけど、カブレラ、そんなわけでこの相撲部を離れるんだよね。
ちなみにその前に由香はこのカブレラに失恋していた。っていうか、カブレラのこと好きだったってのがもんのすごいビックリだけど。だって何度も言うようだけどホント表情を崩さない彼女だから、そんな気持ちの変化なんて全然伝わらないんだもん。
でもカブレラは故郷に婚約者がいる。帰国したら、故郷と婚約者のために生きるのが彼の夢なのだ。そしてカブレラは由香に主将を譲り、最後のちゃんこを皆と共にし(しっかりスポンサーである桃屋のキムチの素を入れてる)、去ったはず、だったんだけど……。

で、由香に思いを寄せている牧村ってのがね、演じるのは柄本佑なんだが、彼が最初に彼女を口説くシーン、「オレのファンなんだろ」には笑ったなー。彼、広場でヒップホップかなんか披露してて、この時点で微妙にハズかしいものがあるんだけど、「オレのファンなんだろ」はないよなー。当然アッサリソデにされるも、その後も由香の下宿の外から大声で叫んで一階のコに水かけられたりとか、お約束すぎて超絶ハズかしい。
あ、そうそう、思い出したからここで書いちゃうけど、この一階のコがね、二階の由香が部屋の中でシコ踏んだりするもんだから(踏むか?普通……)ひじょーに迷惑こうむってるのね。
でも、テッポウの稽古している彼女を目にしたりしてるうちに、見る目が変わってくる……のも、ムリあるなあ、と思って見てると、試合に向かう彼女を呼び止めて言った台詞に震え上がっちゃった。「絶対、勝てるよ。あんた輝いてるもん」
言わない!言わないって!絶対、言わない!ありえなさ過ぎる!ブリザードが吹き荒れるわ!頼むからもうちょっとうなづける台詞を言わせてくれよー。

で、この牧村、青白いヒョロ男で当然全然戦力にならんのだが、奇跡的に一回だけ勝つのね。ヤッター!とばかりに腕を突き上げ、由香に全開の笑顔を見せ、由香もそれに応える……から、彼はこれで相撲に目覚め、彼女とイイ感じになるのかと思いきや、ラストシーン、次年度になった稽古の風景では、牧村も、そして本気になったはずの片岡もいない。ああ、なんて意味がないの……。
まあ、それは後の話だからいいんだけど。で、どんどん負けちゃって後がなくなったところに、突然現われたのが帰国したはずのカブレラ!婚約者が彼の気持ちをくんで手を回して、校長就任を延期させてくれたんだという。

彼が参戦したことで崖っぷちから巻き返しを図る彼らだけれど、ものいいをつけた最後の一番もくつがえらず、目標の三位にも届かない。そしてもうひとつの条件である女子相撲の優勝も、彼女はたった一番しか勝てずに終わってしまう。
しかし、「みんなの応援のおかげで相撲部は存続することになった」うーん……そこまで心打たれる試合だったかどうかは、かなーり難しいところだけど。
見守る観衆はやけに沸いてたけどね。あの土木会社のあんちゃんたちが三々七拍子をやり始めたのには、またしても一気に体温が降下したけど。スクリーンのこっち側の観衆は、どんどん引き離されていくばかりだったけどなあ……。

相撲部創始者である渡部篤郎が、うんうん言いながら見守っているだけなのが、ギャグになりそうで可笑しかった。

……それにしてもキビしい映画だった……。★☆☆☆☆


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