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「な」


2002年鑑賞作品

なごり雪
2002年 111分 日本 カラー
監督:大林宣彦 脚本:南柱根 大林宣彦
撮影:加藤雄大 音楽:學草太郎
出演:三浦友和 ベンガル 須藤温子 宝生舞 細山田隆人 反田孝幸 長澤まさみ 津島恵子 左時枝 田中幸太郎 斉藤梨沙 日高真弓 小形雄二


2002/10/2/水 劇場(有楽町スバル座)
思えば大林監督こそ、地方映画の先駆者だったのだ。昨今ようやく始まった感のあるふるさと映画。監督の故郷、尾道のみならず、「青春デンデケデケデケ」の観音寺、「はるか、ノスタルジィ」の小樽、「廃市」はどこの街だったっけ……思えば、廃市、という感覚が、すこうしだけ本作品の舞台である臼杵に似ているような気がする。廃市、だなんていうのはもちろん失礼極まりないし、当たっていないんだけど、多分地元の人が謙遜も含めてそうした表現もするだろうし。でも実のところは昔と全く変わらないことをとても誇りに思ってる。時間から、時代から置いてかれたように残っていることを、とてもとても誇りに思ってる。その町のたたずまいは、例えば、そう、この間お祭りに行ってきてとても感激した佃の町みたいにその街並みを、都会の狭間で懸命に、意地になって残している、という感じとはまた違った、優しく、自然体で残しているという趣。これもまたとても奇跡的だ。

大林監督がこの町で映画を撮り、この町に古い日本語、30年前の日本語の発音を響かせたいと思ったのが、凄く納得できる。なるほど、ちゃあんとあの頃の発音なのだ。あの頃に作られた日本映画の中で響いていた日本語の発音。私も大好きな、キレイな日本語の発音。ちょっと不器用なような、テレたような、この発音を、現代の映画で聞けるなんて、無論思ってもみなかった。そういう意図だということを知らずに観ていて、ハッキリとそう気がつけたわけじゃないんだけど、その言葉の響きに何かひどくすがすがしい風が胸に横切ったのは、そのせいだったんだ。

きっかけは、あの名曲「なごり雪」。そこから始まる物語。しかし、あの「なごり雪」が東京を舞台にしているのに、本作品には東京は出てこない。主人公の男の子は東京へと旅立つけれど、歌にあるように女の子が東京から彼に見送られる、という描写は出てこない。ヒロインの女の子は男の子を故郷の駅のホームから見送るばかりなのをイヤがって、その歌のように東京から見送られることを望んでいたのだけれど……。出会いは雪子が中学生、祐作が高校生だった。雪子はその最初から祐作にずっと恋してた。でも、叶わなかった。祐作は雪子の気持ちを知りながら彼女を傷つけた。その最後の別れから28年、死に際の雪子に会いに来てくれ、と雪子のだんなで祐作の故郷での親友、水田が連絡してくる。

そこから思い出と現実が交互にあらわれる。現実の雪子はベッドの上で包帯ぐるぐるまきで顔さえ判らない。もちろん、何を伝えたいのか、何を望んでいるのか、もう判りようもない。それでも、水田は彼女が祐作に会いたいだろうと思い、彼を呼んだ。あの時、雪子を傷つけてまで一緒になったとし子と別れたばかりの祐作はその誘いに応えた。はたして、雪子は本当にずっと祐作に恋していただろうか?28年間も彼を本当に待っていただろうか?どうやらそうした意見が大半のようなのだけれど、私はそうは思わない。思わなかったから、そういう意見が大半だということに、ちょっとビックリした。私はむしろ……頑なにそんな風に雪子の気持ちが男たちによって決めつけられていることに、彼女が悲しく思っているんじゃないかとさえ、思ったのだ。

大人になってからの雪子が描かれないのは、彼女がずっと少女のまま、男たち二人の中で閉じ込められているから。ダンナである水田でさえ、思い出す彼女はいつでも少女なのだ。それに反発するのが、雪子と水田の一粒種である娘の夏帆。彼女の気持ち、とても良く判るだけに、彼女自身がまだまだ少女であることがオーヴァーラップさせて、余計に切ない。夏帆がまだ少女だから、彼女の意見はどこか空をさまようように男たちには取り込まれないんだけど、幼くたって女である夏帆の方が……そう、彼らが出会った時の雪子の年頃なんだから、女の気持ちがもう判るはずなのだ。

雪子がなぜ、アルバムの祐作の写真をはがしたのか。それは未練を断ち切るというよりも、水田と生きていこうという、それだけの決心があったはずだ。祐作に恋してたとしても、水田のことを絶対に愛してたはず。女だから、判るの!夏帆にだって、漠然とながら、判っていた筈だ。あー、もう、どうしてそれが男には判んないかなあ!女が恋する生き物だと思い込んでいるのは、男の方なんだよ。むしろ、男の方が恋の気持ちだけ、そこだけで止まっちゃってることが、女には歯がゆくて悔しくて、ガマンならないんじゃないのかなあ。そう、むしろ、ずーっと雪子に対して“恋”だった水田の気持ちの方が、彼女にとって残酷だったように思えてならない。そして恋する少年のまま50の歳を迎えた水田は、彼女も恋する少女のままだろうと思って、祐作を呼んじゃった。……残酷だよ。それが男の女に対しての理想だとしたら……見損なわないでって言いたいよ。

あるいは、水田は、祐作のことも雪子に対してと同じくらい、あるいはあの頃の雪子が祐作に対して持っていた気持ちと同じくらい、親友である彼のことが好きだったから、なのかもしれない。雪子が死んでしまって、祐作を駅で見送るラストシーン、去っていく電車を見送りながら、水田が絶叫にも近い号泣をもらすあのシーン。また28年の別れになるかもしれないこの別離にこそ、彼のことが好きだから、それも、雪子がいなくなった別離だから、たまんなくなっちゃったんじゃないかなあ。雪子がいてこその二人だったから。何ていうか……結局さ、雪子の方がこの男二人の絆のつながりとして作用しているような感じで、何かそれこそが雪子にとってはあまりに切ないというか……。雪子はね、恋が終わって、水田にちゃんと愛して欲しかったんじゃないかって思うのだ。あのアルバム、それはそういう意味だったって、どうしても思っちゃうのだ。

ねえ、だって、雪子は水田と一緒になれて、絶対に幸せだったよ。男には判らないかもしれないけれども……愛されることの渇望って、恋することに疲れた女にとってとても大きいんじゃないのかなあ。愛されることによって、愛することが出来るんじゃないのかなあ。憧れや恋と、愛は違うもの。恋に恋するなんてよく言われるけれども、それと愛は違うもの。ああ、だから……この映画で最も感じたのは、男の視点と女の視点があまりに違うこと。そのすれ違い。男があまりにも女を誤解しているその歯がゆさ、かもしれない。これは、少女映画の趣ながら、その点、完全に男性映画なんだよね……。

ところで。そのくだんのヒロイン、雪子を演じる少女、須藤温子のなんと可憐なこと!舞台挨拶の写真などで見ると、ちゃんと現代の女の子なのに、ちゃあんと大林映画の顔してる。ま、大林作品に出ると、皆驚くほど大林映画の顔になるものだけど、それにしてもこの子は素晴らしく可憐で清楚。中学生も無理なくこなし、先述の古い発音、不器用なまでに純粋な発音がよく似合ってる。そして彼女が恋する祐作、細山田君である。彼は作品を重ねるごとにどんどん力をつけてくる若手の急先鋒だけれど、今回は難しかったかな……。さっき、あんなこと書いちゃったけど、とりあえず見え方としては完璧に少女映画だし、古いタイプの男性の型だし。彼自身は大林映画のキャラそのもの、なんだけど。それにしても彼、どんどん感じ変わってくね。青く柔らかい少年だったのが、細身になって、長身になって、かと思ったら骨っぽくなって、大人っぽくなって、男っぽくなった。

その祐作の親友である水田役の反田孝幸。彼は初めて観る役者さんなのだけれど、ベンガルの若い頃、というのをちゃんと彷彿とさせる実にイイ顔とイイ個性を持った役者で嬉しくなる。ひたすら二枚目である祐作とは違って、コメディリリーフを買って出ている彼。特に、校内一の秀才、杉田にケンカをふっかけられるシーンで、勝手に仲裁役を引き受け、なぜか彼までケンカに参加し、双方共にボッコボコにやられる、というのを、ケンカシーンなしでカッティングだけで示し、その時に醸し出される彼の絶妙なユニークさがバツグン。

そして祐作が連れてくる大学での同級生であり、後の妻となるとし子は宝生舞。彼女の女臭さが雪子の可憐さと見事な対照を成している。そんでもって、大林監督は女優を脱がせる天才だから、ここでは宝生舞を脱がせちゃう。彼女、グラビアとかでも脱いだことってなかったんじゃない?こりゃあ、蔵出し、だよね?こんな風にひそかに大林映画で脱いでる女優さんって、ホント多いよねー。

回想の美しさを描きながらも、やはり主題は50になった男たちの物語だから、祐作=三浦友和と水田=ベンガルが最も重要なのである。大林組から老け待ちされたという友和さん、もともと持っていた男性の枯れた色っぽさに更に円熟味が加わって、人生を振り返る男の顔になっていた。……この人は、歳を重ねるごとにイイ男になる。そしてベンガル。圧倒的。雪子の死に際に即、祐作を呼ぼうと考えるほど、常に常に、雪子を通して祐作を見ていた、ある意味純粋すぎるほどのバカな男。バカなだけに……愛しい男性。彼が、祐作を自分の家に残して、火祭の街の中を自転車で雪子のいる病院に向かうシーン、彼がずっとずっとこの街で暮らしてきて、そして今、ずっとずっと連れ添ってきた奥さんを看取るのだというのが伝わってくる美しいシーンで、胸がつまる。この火祭りは、祐作と雪子のデートを回想する場面でも出てきて、そこではちょっとしたスペクタクルで眼下にぽわあっとした明かりがずうっと広がる非常に幻想的なシーンなのだけれど、それよりも、この水田のささやかなシーンの方が、私にはなぜかツーンとくるものがあった。時間、時間かな……積み重ねてきた時間を感じたのかもしれない。

そして、雪、である。この映画の真の主役は、まさしく雪なのだ。でも、その雪は、最も印象的な場面において、本物の雪ではなく、雪子の降らせた枕の中身の発泡ビーズだったりする。雪子は、雪が降るといいことがあるから、と言ったけれど、本作では、そして主題である歌、「なごり雪」においては、そしてそして大林監督の意識下では、雪は、別れの象徴であるのだ。この臼杵の町では、本物の雪なんて本当にめったに降らない。そのめったに降らない雪が降る時……それは切ない別れをもたらす。雪がめったに降らない町で降る、といったら、否応なしに「ふたり」を思い出してしまう。尾道の町に小樽の女が連れてきた雪……それは許されない恋の別れをもたらす前兆だったから。雪が降らない町で降る雪が感じさせる切なさは、尾道生まれの監督の雪へのアコガレなのかもしれない。

“東京(都会)での大学生活”、これは田舎の人間にとっての通過儀礼である。ふるさととの距離、ふるさとに帰ってくるのか、そのまま東京の人間になってしまうのか……。今、こうして東京の人間になってしまったイナカモノの私は、こういう映画に接するたびに、考えてしまう。私はなぜ、今ここにいるんだろう、って。祐作のように、魂の抜けたような東京人になってしまっているんじゃないだろうか、って。この臼杵の町、坂道大好き、階段大好き、あの苔むした小さな駅のホームだって……でもそんな風に思うのが、あの駅のホームに降り立った根っからの都会人、とし子がもらした「こういう田舎って、大好き」と言った、あのどこか侮蔑的な響きと同じような気がして、滅入ってしまう。

映画の始まり方、展開、暗みのあるフィルムの手触り、地元の人へのメッセージ……その全てが大林映画そのもの。私をはじめ大多数のニセモノ東京人が失っていく心を、大林監督は奇跡的に持ち続ける人なんだと、改めて感じ入った。★★★☆☆


ナショナル7NATIONALE SEPT
2000年 90分 フランス カラー
監督:ジャン=ピエール・シナピ 脚本:ジャン=ピエール・シナピ
撮影:ジャン=ポール・ムリス 音楽:
出演:ナディア・カッチ/オリヴィエ・グルメ/リオネル・アベランスキ/シャンタル・ヌーヴィルト/ジェラルド・トマサン/サイード・タグマウイ/ナディーヌ・マルコヴィッチ/ジュリアン・ポワセリエ/イザベル・マザン/ジャン=クロード・フリシュング/フランソワ・シナピ/フランク・デマルー/マニュエラ・グラリー/ジリア・パラス/ジャック・ボンド/ドミニク・ラミュール/ニコラ・ルキュイヨ/カリーヌ・ルパルキエ/ステファン・サンカン/ヴァレリー・クリニエール/コスタンツォ・シナピ

2002/6/19/水 劇場(BOX東中野)
障害者施設で起こった実話を元に、今まで目をつぶってきた視点から障害者の問題を描く、といってもいわゆる福祉映画のように深刻になることなく、常にどこかに明るい微笑みが満ちているような作品。しかし考えてみれば、これまで観てきた障害者の映画、例えばドキュメンタリーの作品などでも、不思議と暗さを感じたことはなかった。それこそ福祉映画、本作で個性的な障害者たちの間で素晴らしい存在感を発揮しているジュリ役のナディア・カッチが出ていた「今日から始まる」など、世界的な不況という社会問題を福祉の点から描いて思いっきり重苦しかったものだが、健常者であるこちらがなかなか知りえない世界である障害者の世界というのは、私たちの持つ、偏見的な重苦しいイメージとはだいぶかけ離れている。不思議と、という方が不思議なのかもしれない。障害者と健常者、という境界線に健常者側に滑り込んでいるこちら側ばかりがこだわり、あるいは慢心し、障害者と呼ばれる人たちに対して妙にシリアスな影ばかりを期待する。障害者の映画を撮りたいと考えるスタッフたちは、そうではないことを知っているからこそ、伝えたいと思って作るのかもしれない。本作にもそういう意志を感じた。

筋ジストロフィーと重い糖尿病でチェアウォーカーとなったルネ。彼が施設に入ってきてから、そのわがままし放題で介護人はヘトヘト、入所者たちの人間関係もグチャグチャ。一見、単なる問題児のように見えるルネだけれど、そう思いかけて、ハッとする。何か、私たちはこうした施設に入らざるを得なくなる重い障害を持つ人びとに対して、もうおとなしくするしかないとか、それが義務だとか、あるいはもっとひどいことには、障害者たちはみんな一生懸命で、純粋無垢で、私たちを反省させるような、癒すような存在、だなんて位置付けまでしていることに気づいてしまうのだ。ルネに対して感じる違和感を感じた瞬間に、それに気づいてしまうのだ。

ルネの願いは、セックスをすること。いや、ルネの願い、というのは適当ではないかもしれない。ルネは単に勇気ある代表者であっただけだ。勇気を出さなければいけない、というのも大問題だ。それこそなぜそれに気づかないでいられたのか……身体的な、あるいは知能的な障害を抱えているからといって、性欲がなくなるとでも考えたのか。いや、問題はもっと重い。先述したように、私たちは障害者に対して、自分たちの目の届かないところでおとなしく生活していてほしい、などと思っているのではないか?性欲を持つなんて分不相応だとでも思っているのではないか?……そう口に出すのも辛くて恥ずかしいけれども、実際のところ、そうなのではないか?体が動かなくなればこんな風に施設に入れられ、まるで伝染病患者のように道を通ることすら嫌がる住民の描写に胸が悪くなりながらも、実際社会はこんな意識で成り立っている。それに対して恥ずかしいと思うべき意識さえ、一体どうして隠してしまえたのだろう。

実を言うと、本作を観ようと思ったのは「I am Sam」で、何か違う、何か足りない、という思いにとらわれたからだった。知的障害と身体障害の違いはあれど、そこには障害者、というひとくくりに対して健常者側が抱いている、一般的なイメージがそのまま放置されていたからだ。確かにあの作品は良心的ではあったけれども、主人公のサムがホームレスの女性に産ませた娘、という前提があったはずなのに、そこの部分は彼女の無責任だった、とでもいうように、逃げるようにあっさりと片付けられており、そうした本能的欲望があったはずのサムが、一生懸命な、純粋な人物として癒しの対象に据えられていることに逆差別的な感覚を抱いたのだ。確かに障害者に対するそうした視線は、これまでの映画でもある意味基本的ラインみたいな形で存在していたのだけれど、近年障害者のドキュメンタリー映画の秀作が次々と世に出ており、それらを観た上だと、そうした健常者の視点の映画に、どうしても何かが違う、何かが足りない、と思ってしまう。

あるいは、サムが妊娠させたのがホームレスの女性、という部分にもひっかかりを感じたのかもしれない。障害者にも性欲があるのは当たり前。しかしそれに目をつぶってきた、あるいは抑圧してきたのは、性犯罪を犯すのではないかという偏見もあったと思う、残念ながら。サムの設定にはそんなことも感じたし。同じ性犯罪でも、健常者のそれと明らかに意味を違えて受け取られてしまうという差別。「静かな生活」で伊丹十三監督も障害者を描いたけれども、彼ほどの監督であっても、その性の問題はちらりとしか触れることが出来なかった。そしてそこに描かれたチラリの描写は、障害者による性犯罪の新聞記事と、大江光氏をモデルにした主人公の青年の勃起したモノを処理してやるというカットバックだったのだ……それを前提にして、主人公の描写はやはり一貫して癒しの存在として描かれていた。本作を観てからそれを思い出すと、あまりに残酷な仕打ちだったのでは、と思い当たる。

ルネの願いを叶えてやろうとするジュリが四面楚歌になり、スタッフの一人の女性が「そんなことしたって少しも私たちのためにならない」と吐き捨てる。一体誰のために、何の仕事をしているんだと憤るシーンだけれど、私たち側から彼らとの間に境界線を引いているのがはっきりと判り、自己嫌悪に滅入るシーンでもある。仕事をしていることが一人前の人間としての資格だとでもカン違いしており、それが人間を傲慢にしているんだということ。そのカン違いが、人間としての資質を失っていく、いわばそれこそ思いやりの欠けた障害者はこっちなのだということ。仕事をしていない人間、子供や引退したお年寄りに対して傲慢になってしまう、あまりに幼稚な“障害を抱えた健常者”である人間。ルネがどんなにワガママし放題でも、不思議と気にならなくなっていくのは、彼によって健常者(ここでは施設のスタッフたち)のそうした傲慢さが打ち砕かれ、一度生身の姿に戻され、人間としての成長を彼によってさせてもらえるからだ。無神経にルネの世話をしていたサンドリーヌが、ルネのわがまま(というか、当然の欲求)に爆発し、怒り、涙を流す。しかしそれこそが同等の人間の対話なのだ。介護する人間が介護される側を、何も出来ない赤ちゃんみたいに扱っていたら、絶対に成立しない関係。犬猿の仲だった二人は、しかしルネだけがサンドリーヌの家庭の問題に気づく。サンドリーヌは二番目のルネの協力者になる。そこには一度欺瞞の衣をはがされ、本当の心をやりとりできるようになった、同じ人間同士の絆があった。

ルネの願望を叶えることになる娼婦のフロレラ。社会の底辺に置かれ、侮蔑の視線にさらされている彼女らもまた、一種の障害を持っているといえる。しかしこのフロレラの描写がとてもいい。彼女はジュリの訴えに心を動かし、“コンドームは客自身がつける”という規則を破り、ルネは彼女に性欲のみならず恋心まで抱く。同じロックスターのファンであると知った入所者の一人のラバは、彼女にカトリックの洗礼の代母になってほしいと願う。それに対して娼婦に代母は許されない、と拒む施設側。入所者たちはデモ運動を展開し、見事勝利を勝ち取るのだが、その最後の場面、洗礼式に黒いスーツ姿で現われるフロレラは、所長が「あれが例の娼婦?」と目を丸くするほど、エレガントで知的で、本当に素敵である。超ミニタイトスカートだけが、かろうじて娼婦であることを物語っているぐらいで。そして所長は彼女をダンスに誘うのだ。すっごく、いいシーン。

ルネはフロレラに恋してから、それまでオナペットとして部屋中にベタベタ貼っていたエッチなポスターを全部はがし、フロレラの写真だけを飾る。性欲もそうだけれど、恋愛感情もまた当然の権利なのだということにも気づかされる。障害者に対する問題として人間愛とか家族愛とか、そうした愛の欠乏にばかり目が行きがちだけど、彼らはそんなに“哀れむべき”存在ではないのだ。通常人として何を普通に欲望するかということなのだ。それが性欲であり、恋愛欲なのだ。と、いうのが出てくる土壌があるあたり、さすがアムールの国、フランスである。愛こそすべて、は是でもあり、非でもあるのだ。人間愛、家族愛を過剰に支持するアメリカ映画では、やはり「I am Sam」どまりになってしまうのだ。これからは、それではもうダメなのだ。思えば、ジャン・ルイが「おでこではなく、唇にキスされたい」と嘆く台詞だって、恋愛欲のある彼らを人間愛で済まそうとするこちら側、という図式が明確に見える。

そして、ルネが「こんなことを頼めるのは君だけだ」と悩みを打ち明けたのがジュリであるのが嬉しかった。ジュリ自身にセックスの相手を求めるのではなく、話せる相手、信頼できる相手として、そしてそれが異性であることが本当に、本当に嬉しかった。女性にとってのストレスは、異性にセックスの、あるいは恋愛の対象としてしか見られないことがその一つにある。異性の友達、親友を持つことは、不可能とさえ言われる。ルネは自身の望みを叶えるばかりでなく、世の女性の願いを叶えてくれたのだ。本当に、嬉しかった。

そもそも私たちは、境界線を作るのが好きだ。境界線を作って、世界を区切り、その中で自分に近い人たちとだけ触れ合っていれば、心も体も乱されることがない。本作で、車椅子の他に、人種や宗教や同性愛、趣味嗜好までもそのカテゴリに入れられて、ガチガチに閉じ込められてしまうラバが、あまりに象徴的だった。この境界線、というのが、ここ最近の映画に連鎖的に感じるキーワードで、そのもっとも極端な例が「UNLOVED」だったのだが。

例えば外国人。言葉が通じない、日本語を話せない相手は、自分にとっての“障害”を持った人。あるいは体が動かなくなったお年寄りが遠い施設に収容されて、自分の目の前から排除されるような現代社会の傾向も同じ原理。その人自身が障害を持っているということよりも、その相手の持っている、自分あるいは自分たちとは違う部分が、障害になっているから境界線を作るという、はなはだ自分勝手なルールだとも言えるのだ。その証拠に、ことに大都会などでは、周りを見渡すと驚くほど同種の人間しかいない。ある一定の年齢幅、自由に動き回れて、同じ言葉を話す……。それは落ち着いて考えてみると、かなり異様なことなのではないか?なぜ、彼らに出会えないのだろう。出会いたい、出会うチャンスを与えて欲しい、と思う。★★★★☆


ナタリー・グランジェNATHALIE GRANGER
1972年 83分 フランス 白黒
監督:マルグリット・デュラス 脚本:マルグリット・デュラス
撮影:ギスラン・クロッケ 音楽:
出演:ルチア・ボゼー/ジャンヌ・モロー/ヴァレリー・マスコロ/ジェラール・ドパルデュー

2002/10/28/月 第15回東京国際女性映画祭(東京ウィメンズプラザ)
いくらジャンヌ・モローがこの作品を推したからって、いくら彼女が大女優だからって、いくら原作、監督のマルグリット・デュラスが才女だからって……やっぱりやっぱり、どーしても逃げ出したくなる気分は否めないんである。しっかし、なぜゆえにこの作品を?わっからないなあ、フランス女史ってのは……いや、ある意味確かに唯一絶対、他には見当たらない作品には違いない。これほど何が言いたいのかわからない映画、他には思いつかないもんね。でもまさかだから推薦したってわけでもなかろうが……この作品を上映する前に司会者が、ジャンヌ・モロー、こんな大女優が食器洗いだのお裁縫だのといった家事を実に優雅にこなしている、だなんて紹介していたんだけど、確かにそんなところしか注目すべきところはないかも……。ホントにね、その手つきときたら憎たらしいほどに優雅なのよ。長い布巾を使って大きなお皿をくるくる回すように拭いたりしてさ。あ、でも信じられないことに、当時フランスでは凄く評価されたんだって!うう、やはりフランスってところは一種レベル高すぎ……。

大きな一軒家に住むのはどうやらポーランドから来たらしいグランジェ一家と、そのグランジェ夫人の友達と思しき女。夫と子供たちが出かけてしまうと、彼女たち二人きりになり、そんな風に家事を優雅にこなしてしまうとあとは何をやることもなく、ヒマを持て余してて、新型洗濯機を売りに来る新人セールスマンを、買いたくもないのに(っつーか、その洗濯機はもう持っているのに)成り行きで招き入れて、だらだらとその説明をビミョウに首を振りながら聞いたりする。そいでもって彼女たちの目下の悩みは下の娘のナタリーが学校で問題児だということ。寄宿学校に入れるべきなのかしらんとか、一応は悩んでいるみたいなんだけど、本当にお前ら悩んどるんかい、という感じのやる気のなさで……。ラジオからはひっきりなしに森に潜む殺人犯のニュースが流れてきており、このタイクツな二人にすっかりウンザリさせられる当方としては、殺人犯がこの家になだれ込んできて、まるっきり表情を変えないマネキン人形みたいなこの彼女らをメチャメチャに叫ばせてくれるのかしら、などと期待するのだけど、そうしたこともついになく、彼女たちはその優雅なマネキンのまま、何を言いたいのか全く判らないまま、この物語を終了してしまうのだ。

しかもどーにも判らないのは、このタイトルが妻イザベルでもなく、その友達(ジャンヌ・モローなのに役名も与えられてない!)でもなく、物語の中では確かに話題には触れられているものの観客にはさしたる大きな印象を与えない、この問題児の女の子、ナタリーの名前を使っているということなんである。それじゃ、この映画はナタリーのことを言いたいのかなあ、と思えばぜっっったいにそんなことはなく、物語はこの物憂い二人を延々とタイクツそうに映すだけなんだから、本当に理解に苦しんじゃう。

キャストの中にジェラール・ドパルデューの名前を見つけたので、せめて彼が出てくるまでは頑張ろうと思って、くじけそうになりながらも下がりそうなまぶたを引き上げながら見続けた。うん。30年前のジェラール・ドパルデューを見られたことが最もこの作品の収穫だったかもね。だって私、ジェラール・ドパルデューってせいぜい15年前ぐらいからしか知らないんだもん。こんな若い頃(二十歳くらい?)から役者として映画に出ていたなんて知らなかった。デカい鼻はやや面影があるけれど、全体にホッソリとしてかなり優男の印象に驚く。うーん、彼にもこんな時があったのね。全く明確な反応を示さない女二人に対して必死に商品の説明をする彼の登場場面は、映画に少しは動きが現われたような気もしたが、絶対に買う気がないのに追い返さない二人と、帰ろうとしない彼にしまいにはイライラが募ってくる。だってこの必死なセールスマンと、そよ風に揺れる赤べこのようによーく見ないと判らないぐらいの微妙さで首を振る無表情の二人の交互のカット、一体どれくらいの時間かけてるわけ?長すぎるんだっちゅーの!

でも、感じているほど長い時間ではなかったのかも。だってこの上映時間自体、決して長いわけではないんだもん。えー?でも本当に83分しかなかったの?しっんじられない。2時間半ぐらいあった気分だったよ。半分過ぎたあたりから我慢も限界で、今終わるか、今終わるかと心の中で祈る気持ちだったんだから。何でこんなにつまんなくてタイクツなのかなあ。二人の表情がほとんどないからかなあ。動きがお前ワザとだろってぐらい緩慢だからかなあ。本当にお前らもうちょっときびきび動けよ!って画面の中に入ってって胸倉をつかみたくなるぐらいゆっっくりなんだもん。あー、でもそんなこといったら、自分のペースに合わせることしか考えていない、いかにもご都合主義な現代人丸出しでヤなんだけどさ。ひょっとして、そういう部分を喚起しているわけ?まさかね。でもそうだとしたら、もんのすごいイジワルな映画じゃない?だって、だってさ、あのジェラール・ドパルデューがいなくなったジャンヌ・モローを屋敷中そろそろと歩きながら探す場面、いくらなんでもあの歩みの遅さとダラダラ加減とそれを飽きもせずにダラダラ追うカメラは、そう、いくらなんでもあまりに確信犯的でしょ?あそこまでいくと観客を試しているとしか思えないよ。も、はっきり言ってゴーモンなんだもん。

あー、でも、確かにあの子はタイトル・ロールだったのかもしれん。この二人の彼女に負けないぐらい、というか、さすがこの二人の元で育った女の子だ、というべきか、見事にブンむくれた顔で、それでももしかしたら内心はすんごく楽しいのかもしれない、と思わせるような一人遊びをえんえんとやっているこのナタリーは、既にマネキンと化した大人の彼女たちより、見てて結構、面白かったな。広大な庭を(ホント、広いわ)打ち捨てられたベビーカーを押してぐるぐると歩き回り、猫を追いかけ捕まえて(彼女の体が小さいから、抱きかかえられる猫がトラ並みに大きく見えてしまうのが妙に可愛い)そのベビーカーに乗せるんだけど、再三逃げられて、ついにはかんしゃくを起こしてベビーカーを再び打ち捨ててしまう……という“かんしゃくを起こして”っていう部分もあくまで感情を出さずに無表情。でもそのクールさが、大人の彼女たちとは違って妙にリアルというか、ナタリー自身の内面の、ちッ!とか思っているさまが何か見えちゃうのよね。

それに母親たちはナタリーが音楽(ピアノ)が好きなんだと思い込んでいるらしいんだけど、そのあたりも結構、アヤしいよね。しょうがないっかあ、って感じでこなしてるんだもん。何度も何度もやる気がなさそうにリフレインされるフレーズが、観てるこっちの神経を逆なでするようにBGMとして映画全編に流れてるってのも、何かそんな感じで象徴的だしさ。あ、そうか!ナタリー自身の心のイラつきを表現している映画だって思えば、このタイトルも大納得だわ。でもそんな映画やっぱり観たいとは思わないけど。

しっかしさあ、このマルグリット・デュラス、これが既に監督四作目で、全部で19もの監督作品を残してるんだってえ!?うっそお、知らなかった。これが全くの初見だから……ま、まさか全作この調子なわけじゃ、ないよねえ?おぞぞぞぞ、そ、それだけはヤメてくれえ。私さ、この作品が映画を全く観たことのない子が初めて観る映画になったら、ぜえったいその子、今後一切映画なんてシロモノ観るもんか!ってことになるんじゃないかと、思ったもんね。うー、でもここまで強烈に思わせるんだから、確かに個性的、なんだろうなあ。さ、さすが文豪のワンマン映画よねー。いや、フランスにはこういう作品を受け入れるだけの成熟した映画社会があるってことなんだわ。だって19も監督作品があるんだっていうんだから(私もしつこいな……)。

それにしても、日本の観客って、えらいよね。ただの一人も会場を出て行こうとしないんだから。まあ、映画際の上映作品だったってのもあるけど……それにしても、これはやっぱりゴーモンだよ。普通だったら途中で出て行くと思うけど……。★☆☆☆☆


ナビゲーター ある鉄道員の物語THE NAVIGATORS
2001年 96分 イギリス=ドイツ=スペインカラー
監督:ケン・ローチ 脚本:ロブ・ドーバー
撮影:バリー・エイクロイド/マイク・エリー 音楽:ジョージ・フェントン
出演:ジョー・ダッティン/トム・クレイグ/ヴェン・トレイシー/スティーヴ・ハイソン/ディーン・アンドリュース/ショーン・グレン/アンディ・スワロー/チャーリー・ブラウン

2002/8/30/金 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
救われない結末だと判っていながら観てしまうケン・ローチ作品。最新作品である本作も、やっぱりラストはあまりにも救われなかった。洒落たjazzで彩られているのが不思議なぐらい。日頃、ラストで救われたり爽快になったりする映画にあまりにも慣れすぎている心には免疫がなさ過ぎて、そのラストにガツンと殴られて、シーンとうつむきながら家路に着いた。

イギリス映画に数多く見られる失業者問題だが、ケン・ローチの今までの作品も含め、これまではその問題に対して、ストレートに描く、ということをしていたように思う。単純に言ってしまえば、この失業者対策、何とかしろよ、と。しかし本作ではもっと根本的な問題にまで切り込む。会社とは?仕事とは?個人とは?その中の何を優先すべきなのか?一方を優先して一方を切り捨てた時、そこに本当に意味はあるのか?……なんていうようなことを。人間が一番大事だと言うのはカンタンだけれど、どんどんどんどん突き詰めて考えていくと、だったらどうすればいいのかが判らなくなっていく。加えて、一番大切なはずの人間としての自信がどんどん失われていき、究極的に、人間なんてどうしようもない生き物だ、だなんて考えまで芽生えてしまうのだ。

民営化されて、会社組織の理不尽なやり方に追いつめられていく熟練の鉄道員たちの物語。いや、理不尽、なのだろうか?最初こそ彼らと同様に、なんて理不尽な話だと思ってはいたんだけれど……。彼らが長年の間築き上げてきた仕事のやり方や信頼関係が、利益優先主義で現場の状況を全く知らない経営者によって“理不尽に”突き崩されていくさまは確かに憤りを感じるのだけれど、それなら、皆が食べていくために、皆に利益を分配するためにはどうしたらいいのか?そもそも国営だったこの組織が民営化されたのは、国自体の経済が困窮しているからに他ならない。失業問題にあえいでいる国を根本から変えていくために取った政策が、あらたな失業者を生み出すというのは皮肉な図式だけれど、これまでは貧しいながらも職はあり、その職に誇りを持つこともでき、食べていくことが出来た彼らだからこそ、この急転直下の事態がよりリアルに切実に迫ってくる。

会社が民営化された時、経営陣と労働者との間に入る事務方の男が、労働者たちから、能力がないから事務に回されたくせに、と罵倒される場面がある。こ、これには……世間的にそう言われがちなことには慣れているはずだったのにやっぱりグサッとくる。事務だって立派な仕事のプロなのにさあ、事務ってそんなに誰にでもできる仕事?と日頃たまっていたグチをブツブツと言いたくなる。でも心のどこかでは、確かに誰にでもできる仕事なのかもしれない、と思っているところもあり、だからこそこうした職工人たちをうらやましく思う部分もあるんだけれど、そんな風に事務方を罵倒し、自分の能力ならばフリーになっても大丈夫だと身動きの取れない会社を辞めていった彼らにも“誰にでもできる仕事”の呪いが襲いかかってくる。誰にでもできる仕事だなんて思っていなかったし、今だって思っていない彼らに、仕事を与える側である経営者は、こんなの誰にでもできる仕事なんだという態度で、素人を現場によこしたり、彼らが現場の危険を訴えてもどんどん人減らしをしたり、なんてことを平気でやる。万全の体制で仕事をやることこそプロだと思っている彼らの主張が退けられるだけではなく、彼ら自身の仕事さえも剥奪されていく。そうこうしているうちに、彼らはいつのまにか仕事を得るためにプロとしての誇りだけではなく、人間としての誇りさえも失い、悲劇的な結末を迎えることとなってしまう。

だから。さっき事務をやる人間としてグチをこぼしたのにこんなこと言うのもヘンなんだけど、事務がそんなグチをこぼす、そのあたりで最低限とどめておかないと、こんな風に取り返しのつかないことになってしまうのだ(あ、もちろん、事務も大事にしてください。激務で倒れたり過労死なんてこと、事務方の人間にもよくあるんだから)。いわば事務方の人間って、仕事を効率的に、有効に展開させるために、自分を押さえて現場の人間をたてるっていう職務上の立場もあるわけだから、ある程度はそんな風にないがしろにされてもしょうがない部分ってあるわけだけど、それが現場の人間にまで波及しちゃったら、もうどうしようも取り返しがつかないんだもの。いわば病根が治療できない部分にまで広がっちゃった状態。彼らは会社の組織体制、組織主義に反発してフリーになったわけだけど、彼らが登録する派遣会社もまた組織体制、組織主義であり、しかも彼らの立場は社員から穴埋めのコマへと落とされてしまうことに気づかないのだ。その保険として給料が高いだけで。

……なんてことを考えると、実際これまで人間が作り上げてきたこの社会というものは、本当にいい方向に向かって作り上げたものだったんだろうかという気持ちにとらわれてしまう。こういう事態になって、何が原因なのか、何を直せばいいのかと追究していくと、どんどんさかのぼって止まらなくなってしまう。それぞれ個人で店を持って仕事をやっていた時代が良かったのか、あるいはもっともっとずーっと昔、もうそれこそ狩猟生活をしていたはるか昔が一番優れていたんじゃないかなんて考えにまでとらわれてしまう。使う、使われるという関係がいったん出来てしまったら、仕事に対する誇り、という言葉が、その関係を言い訳したりなぐさめたりするために作り出されたものなんじゃないかという気すらしてきてしまう。

安全が前提にあるなら考えられない最低条件、たった四人での仕事を、彼らは引き受ける。この仕事を首尾よくこなすことが出来たら、それ以降の仕事を優先的に回そうという仲介者からの提示があったから。しかし仕事は夜間にまで渡り、人数不足で見張りを置けなかったために、1人が電車に轢かれてしまう。すぐに救急車を呼ぼうという者に仲間の一人が制する。見張りを置かずに仕事をしていたことがバレてしまう。そうなったら、もう仕事は回してもらえないぞ、と。こんな時に何を言っているんだ、と言う仲間と言い合いになる。当然正論を言っているのがどちらかというのは明らかなんだけれど、これまでさんざん仕事を得るのに苦労してきた彼らは、徐々にその男の論に屈してしまう。電車ではなく、車に轢き逃げされたことにしようと、ケガをした男をそこまで運んでいく。口論をしていた時間、あるいは怪我人を動かしてしまったこと……そのいずれかが原因になったかどうかは、判らない。でも助かるかもしれなかったその彼は、結局死んでしまう。仲間の三人は口裏を合わせ、真相に口をつぐむ。かつての仲間のベテラン工がその三人の様子に何か気づくところがあったのか、少々さぐりを入れるようなそぶりをするのだが、三人は明かさない。明かさずに去っていく。まさかここで終わっちゃうのでは……という予想が見事に当たって、絶望的な気分のまま迎えるラストクレジット。

仕事ってさあ……一体、何なんだろ?生きていくための糧を得るためにしなければならないこと、そう割り切るだけじゃ、そりゃ人生寂しいし、それだけじゃないとは思うけれど、どうしてもどうしても仕事に人生振り回されちゃう。半ば望んでそうしている部分もあるけど、何かそうしないと人間失格の烙印押されちゃうみたいで、怖くて……。家族も友達も、全部後回しで。何というか、仕事に対してペシミスティックになればなるほど、人間としての合格ライン、みたいな、仕事がないとか仕事ができないと生きてく資格ない、みたいな……。基準を図るモノサシの、そのある一つの種類でしかないお金が、全てを決定してて。別れた妻や娘に対するつながりがお金や生活の豊かさだけで図られている男のエピソードなんか、まさにそんな感じで……。給料ダウンした彼に対して妻が、養育費どうするの、というのはまあまだ判るんだけど、父親が住む部屋のみすぼらしさに対して娘たちが露骨に反応するのがあまりに辛かった。子供たちまでもが……って。

だから今回、ケン・ローチ監督が見つめているのが、そのあまりに根本的な部分だから、いつも以上に(いつもかなりのレベルなのに)絶望感が強くて、参っちゃった。だって、でも、じゃあ、どうすればいいの?と思いながら、でもこれは逆に、本当に逆説的に、ペシミスティックになるな、悲劇に酔ってるな、ということなのかな、なんてようやく思えたというか……人間悲しんでいる方がラクだし、落ち込んで自分を可哀想がっている方が気持ちいいけど、それじゃ人生、何にも、なあんにも変わんないんだもんね。★★★★☆


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