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「へ」


2007年鑑賞作品

ヘアスプレー/HAIRSPRAY
2007年 117分 アメリカ カラー
監督:アダム・シャンクマン 脚本:レスリー・ディクソン
撮影:ボジャン・バゼリ 音楽:ケニー・ヴァンス
出演:ニッキー・ブロンスキー/ジョン・トラボルタ/アマンダ・バインズ/クリストファー・ウォーケン/ザック・エフロン/イライジャ・ケリー/クイーン・ラティファ/ミシェル・ファイファー/ブリタニー・スノウ/ジェームズ・マースデン


2007/11/26/月 劇場(銀座シネパトス)
そもそもは、ジョン・ウォーターズの映画かあ!うう、観てないのが悔しいけど、映画ファンとしては、なんか溜飲が下がる気持ち。ミュージカル舞台が元じゃなくて、その前に、ジョン・ウォーターズの映画だってことが、嬉しい。だってやっぱり、映画より舞台だ、とか言われると時々悔しくなるんだもん(笑)。なるほど、ジョン・ウォーターズだもの、キッチリ出来上がってる訳だっ。
恐らく、彼がその時に真に社会に言いたかったことが、どっかバブル的なその当時よりも今の方が受け入れられる、切実な時代になったってことなのかも。

まあ、で私にしてはあまり観そうもない映画、何で足を運んだって、いや別にホントに柳原可奈子に似ているのかしらと興味を惹かれたわけでもないんだけど。いやね、ミュージカル映画は大好きなんだわ。実際のミュージカルの舞台なんて観たことないのに(いや、1回あったかな?)ミュージカル映画、が好きなのだ。それもいわゆる往年の、ジーン・ケリーだのが活躍していた時期の、古きよき時代のミュージカル映画。
現代、なぜかミュージカル映画が復権してきて、しかも「プロデューサーズ」といい、そうしたちょっと古きよき時代にオマージュをこめたようなミュージカルが映画になっているという傾向って、つまりどういうことなのかな。
まあミュージカル映画黄金期にしたって、更に古きよき時代を懐かしがっている感じはあり、そこを「ウエストサイド物語」が鮮烈に切り裂いたわけで、でもその時点でミュージカルの黄金期はスッパリ終わってしまった感もあったのかな。だからなんだか、この往年を舞台にしたミュージカル映画の復権って、なんとなく皮肉なような気がしないでもないのよね。

とはいえ、この物語はそれこそ「プロデューサーズ」のように、ある意味ノーテンキにハッピーなわけではない。深刻な人種差別問題を根底に、というか大きなテーマに抱えており、社会派映画をミュージカルの華やかさに包んだ、という趣さえある。
ちょっとこれは意外だった。柳原可奈子似のヒロイン、ってことしか頭になかったから(爆)、まるでそんな前知識を頭に入れずに行ったもんだから、これが現代に通じるシリアスなテーマを内包しているなんて思ってもみなかった。
そうなのだ、現代でも決してそのテーマは完璧には解決されていない。劇中で理想とされる、白人と黒人が差別なくミックスされて作られる番組=映画がどれだけあるだろうか。

かつてスパイク・リーが、いまだ白人至上主義の横行するハリウッドに業を煮やして、どこか意地になって作り続けた感のあるブラック映画も、やはりなんか続き切れない感じがあった。
それは劇中、番組に週に一度設けられる「ブラック・デー」のよう。とてもクールでイカしているけれど、そして支持する人が確実にいるとしても、やっぱりなんだか、続かないものなのだ。
日本みたいな(ほぼ)単体民族の世界にいるとなかなか判りにくいけど、肌の色でハッキリと違う人たちが混在しているアメリカのような国だと、そうしたバランスというのは本当に難しいんだろうと思う。
大体、字幕ではブラック・デーとしてるけど、実際はニグロ・デーって言ってる。もうこの時点で差別意識マンマン。この辺はちゃんと示しておいた方が良かったんじゃないのかなあ。

だから、ニッキー・ブロンスキー演じるトレーシーは、主人公のようでいて主人公ではない。あくまで彼女は番組の中の、そしてアメリカ社会、更には世界にはびこる人種差別をあぶり出すための狂言回しに過ぎないんである。
そのための人物の選択というのは実に難しくて、それが成功したからこそ、この作品が支持され、映画化にまでなったのだろうと思う。
つまり彼女は、白人で、若い女の子で、ふとっちょで、ブラックカルチャー(音楽やダンス)に心酔している女の子。
まず、人種差別をあぶり出すためには、不満を持っている側からの言葉はどうしても身内びいきになりがちで、究極のところで突破口が開かない。言いたかないけど、スパイク・リーの世界が結局はどんづまり感があるのは、そういう理由だと思われる。劇中の「ブラック・デー」が阻まれたように。

でも白人から連想される、冷たく、排除的で、インテリ、では当然、ダメ。頭ではなく身体で、本能で理解する若い感性が必要。そして、女だから、女のくせにと、生まれついての差別に苦しんでいる女の子であれば、尚ベターなのは言わずもがなであり、ふとっちょであるということは、その容姿のためにからかわれながらも、美味しいものを食べるハッピーさを捨てたりしないポジティブを持っていて、しかも一番大事なトコ、ブラックカルチャーにゾッコンだとくれば、もうこれは完璧も完璧、よくここまで完璧なキャラを思いついたもんだ!てなもん。
ついついそのふとっちょなビジュアルにばかり気を取られるけれど、それもまた計算づく。意外に動けるおでぶちゃんである彼女に感心させることで引き込み、彼女の好きなもの、情熱を傾けるものにどんどん共感させていく手法は実に見事なんだよなあ。
そして圧巻のクライマックス、その時点では彼女よりも美しきブラックな人たちの見事なダンスと歌に心酔していることに気づくんである。心酔どころか、涙涙。もう、すっかり年取っちゃって。

そう、動けるおでぶちゃん。これは実にビジュアル的にインパクトがある!トレーシーは強力ヘアスプレー会社がスポンサーをしている、地元ボルチモアの音楽番組「コニー・コリンズ・ショー」の大ファンで、このヘアスプレーで大きく膨らませた髪をビシッと定着させてるヘアスタイルが大の自慢。いつかはこの番組の華が選ばれる、ミス・ヘアスプレーになることが夢なんである。
しかし、そんなことは一介の女子高生である彼女にとっては夢のまた夢。しかしそんなトレーシーに思わぬチャンスが。妊娠したレギュラーの女の子の替わりにと、番組がオーディションを企画したのだ。
母親の猛反対に合うも、意外や父親の後押しによって息巻いてオーディションに参加するトレーシー。しかし、その容姿をせせら笑われてあえなく退散、彼女は深く傷つく。
しかし居残り教室でブラック・デーに出演している連中に出会い、彼女の才能が開花。トレーシーが恋い焦がれていた白人レギュラーのリンクが偶然覗き見ていて彼女のダンスにホレこみ、番組のパーティーへと招待、たちまちホストのコニーの目に止まり、見事彼女はレギュラーの、しかもセンターの位置を獲得するのだ!

中盤まではトレーシーはブラックたちにとって、「白人にしては、動けるじゃん」という理解者であり、ホワイトたちにとっては、「いまいましいアカ」であるんだけど、リンクにとっては、自分の意志を貫く、才能豊かな女の子として気になる存在なんである。微妙な立ち位置だし、ある意味中途半端であるとも言える。
両親、特に母親は娘がブラックカルチャーにのめりこみ、ブラックたちが番組から排除されたことに抗議するデモまで企画し、参加することを心配して、止めようとする。ま、このあたりが白人の平均的な対応であると思われる。しかしその母親を演じているのが、こともあろうにジョン・トラボルタだからさあ(笑)。
このキャスティングを聞いた時には、それはやはり「サタデー・ナイト・フィーバー」を踏まえたギャグであり(でもそれ、一度「パルプ・フィクション」でやられてるけど)、さらにおデブな母親というのは、かつてのスリムな体形を維持できなかった彼への皮肉であろうと思われ(でもこれも、「パルプ・フィクション」でやったことだけどね)、私はいつ彼が、片手を天に向かって突き上げるあのポーズをするのかと、ワクワクドキドキだったんだけど、やらなかったなあ(笑)。
しかし彼の、あまりにものオデブ特殊メイクは、いくらワザとらしさが身上の?ミュージカルにしたって、ちょっとやり過ぎな気がしたけど……なんか彼だけクリーチャーなんだもん。

というのは、彼、じゃなかった、彼女、妻である彼女にフェティシズムっぽく心酔している夫の存在があるからだけど。
夫にはこれもビックリ、クリストファー・ウォーケン。しかもなんかオタクなキャラだし。クリストファー・ウォーケンはトラボルタの推薦なんだという。舞台出身(知らなかった!)で、監督曰く「信じられないほど、ダンスが上手い」彼が、しかしそれほどダンスを見せる場面があるわけではないのはちょっと残念だけど、このオデブにしてもやりすぎな奥さんを深く深く愛しているのが、異彩を放つ個性を持つ彼ならではって感じなんだよなあ。
この家庭の経済は恐らく奥さんのクリーニング稼業?によってまかなわれていると思われる。夫は昔からの夢であるジョークオモチャの店を開いてて、ハッキリ言って繁盛しているとは思いがたいこの店を、しかしこれまた深く愛してる。しっかしジョークオモチャって……一歩間違えれば大人のオモチャって感じだけどさ(爆)。

彼はだから、弱々しいオタク夫に見えたんだけど、要所要所で意外なほどのマッチョを発揮するんだよね。そう、見た目はこの重量級の奥さんの尻に敷かれていそうなもんなのに、娘の勝手放題に頭を抱える奥さんに代わって説教……と思いきや、夢に向かっていく娘を後押しするし。
トレーシーを番組からおろそうと画策したミシェル・ファイファーの色香にも、きょとんといった感じでまるで動じない。それは彼がふとっちょの妻こそがタイプの女性であり、一度はケンカした二人が、ヘタな歌でラブラブなミュージカルナンバーを聞かせる場面は聞いてるこっちが赤面しちゃうしさあ。
んでもってクライマックス、ミス・ヘアスプレーコンテストから締め出されたトレーシーを中に入れるべく、気色悪い女装して(!!!クリストファー・ウォーケンにこんなことさせるなんて!)おとりになり、見事娘を生本番に送り出すことに成功するんである。

この時点でトレーシーは、あれほどこだわっていた膨らんだ髪型をやめて、ストレートになっている。そういうヘアスタイルでもスプレーは必要ではあるだろうけれど、スポンサーにおもねることや、番組におもねること、プロデューサーにおもねることを、彼女はやめたんである。
ここには、視聴者によって作り上げられる番組、つまり民主主義の凝縮された形がある。しかも最終的にミス・ヘアスプレーになったのは、このヘアスプレーを使っているかどうかも疑わしい、フツーに髪をお団子にまとめた14歳のブラックガールであり、視聴者からの電話が殺到したのは、彼女の愛らしさと、ダンスの素晴らしさだからなんである。
だから最後に栄冠を勝ち取るのは、ヒロインであるトレーシーではないわけで、それっていわゆる大型ミュージカルとしてはかなり意外な展開なのだけれど……まあ、その印象を薄めるために、その後色んな人たちが乱入はしてくるにしても……、やはりここで、トレーシーは主人公ではなく、狂言回し、語り部、きっかけであった、と再認識することになるのだよね。
栄冠を勝ち取った少女はヒロインより更に若く、家族の期待どころか、“ファミリー”の期待を一心に浴びている。真の期待のスターなのだ。

実際、ブラックたちの天性のエンターティナーぶりには、トレーシーやリンクは勿論、観客であるこちらも判っていながらも、ドギモを抜かれるんである。
ことに、白人レギュラーと同じナンバーを歌ってしまっては、その差は如実である。いや、なんたってエンタメの国、アメリカだから、白人の女の子たちだって、キュートでポップで実に素晴らしいんだけど、腰の一ふり、締まった足首、投げる流し目、そして何よりビートの効きまくった、深く力強くしかも緩急の効いた歌声が、もう違い過ぎるわけ。
そりゃ、人種差別主義で、自分の娘を(超無能なのに)レギュラーにして、ミス・ヘアスプレーにまでしようとする女帝、ベルマ(ミシェル・ファイファー)が戦々恐々として、番組から引かせようとするのも判るってなもんである。
確かに当時は、そんな個人的横行がまかり通った時代だったんだろう。たとえ棒立ちでダンスなんて全然出来ない娘でも、“人気がある”“女神”だとあがめられて、それをウッカリ信じちゃうような。それって、つまりは洗脳だよね。新興宗教みたいなもんで。

でも、素晴らしきは生放送。今の時代はむしろ生といったら、何ごとも起こらないようにと、どこか保守的にまとめてしまう傾向がある気がするけど、これぞ生放送の醍醐味。もう、やっちゃうのだ。素晴らしき生放送なのだ!
いくらベルマが自分の娘をトップにするべく投票用紙を盗んでみたりしたって、締め出した筈のトレーシーが視聴者の期待が頂点に達したところで現われ、しかも番組のスターであるリンクとカップルでゴキゲンなダンスを繰り出したら、彼をスカウトしようと来ていたエージェントを、こりゃ二人をセットで……てな目線に変えるのも(そんな展開は示されてはいないけど、あの感じはそういうことでしょ!)トーゼンなのだ。
そしてこの番組のニュースターとなるブラックガールが視聴者トップのミス・ヘアスプレーになり、悪者の悪事がお父ちゃんのカメラ(勝手に動かしてるし!)によって明らかにされ(ベルマったら、あまりに自分で喋りすぎだけどねえ)、ミックスカルチャーに向かって、全てが大団円!

そりゃま、上手くいきすぎだ、興醒めだと、言えないこともないんだけど、やっぱりそこはミュージカルだから、ダンスの素晴らしさに、ことあるごとに“騙されて”しまうのよねー。それは勿論、いい意味で。
そもそもトレーシーが何の疑いもなく彼らのダンスに心酔し、つまりは純粋な友情ともいえる心で、彼らと一緒にやりたいから、それが出来ないなんておかしいから!という気持ちだけで、世間(彼女にとっては学校。ティーンにとってはそこが充分に、世間、なんだよね)から後ろ指差されることも、まるでいとわず、むしろ誇りを持って立ち向かっていくのよね。で、次第にそんな彼女の志こそがメインになって、ブラックの人たちがメインになって、人種差別問題を浮き彫りにするのがメインになっていく。

ただそこはアメリカで、実力至上主義だから成し得たともいえる。これがここまでパワフルな文化を持たない民族だったら、これが成し遂げ得たのか?なんてね。
アジア、そう、日本なんて奥ゆかしいだの、間だのに重きを置く文化だからさ、今の日本ブームがなんか不思議なぐらいで、それもなんか、違う方向って感じもするし……これはやはりインターネット社会だからなのだろうか。
ま、だからこの作品はある種の完成形であり、理想系なんだけど、あくまでこれが出発点で、差別されてしまう対象も、差別してしまう対象もまだまだいくらもあるってことなんだ。

色々楽しい脇キャラの中でも、トレーシーの親友で、ブラックの男の子とひと目で恋に落ちてしまうベニーが可愛かった。彼女の母親は恐らくキリスト=白人と思い込んでいるような超差別的右翼。
このお母さんはホント超強烈。娘がコニーショーを見るだけでトサカをたて、デモで警察と対立したトレーシーをかくまったと知った時には、娘の方をしばりあげるという鋼鉄の女っぷり。
まさにここにミックスの理想がある、二人の恋愛模様は実に萌えるんだよなあ。
そしてそれを生放送のテレビで見せられた母親が卒倒するのも、痛快!

あ、それとね、トレーシーと母親がLサイズショップのイメージモデルになるシーンが何気に好きなのね。これはきっと、世のふとっちょたちの夢であろうと思われる。しかもてんこもりに盛られたドーナツをまず差し出されるあたりも好き(食ってるし)。
トラボルタが、ああトラボルタが、キンキラキンのラメドレスをまとって試着室から出てきた時の衝撃(笑)。この母親が隣にいれば、確かにトレーシーは可愛く見えてしまうかも(爆)。

しかしさ、このトレーシー役に千人のオーディションを勝ち抜いて大抜擢されたニッキー・ブロンスキー嬢、でも千人って……微妙だよね。ハリウッドにしては、少ない気がする。条件が狭まっていたから?
しかし、うーむうーむ、どう見ても19歳(劇中は18歳ぐらい?)とは思えない。28歳ぐらいに見える……。超タレ目で、目が寄ってるのが可愛い……ような気もする。

で、もともとハリウッド映画をちゃんとチェックしてないので、この名前、覚えないなあ……と思った監督さん、なんとジュリアード音楽院出身!しかも映画業界でダンサーやパフォーマーとして活躍してからの監督業。うーむ、ハリウッドには色んな才能がいるもんだ。
でも確かにミュージカル映画を作る人はダンスを知っていなきゃ、というか、知っていた方がいいに決まってるんだろうな。そうだ、ジーン・ケリーのようにね!★★★☆☆


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