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「ふ」


2006年鑑賞作品

ふ・た・ま・た (悶絶ふたまた 流れ出る愛液)
2005年 65分 日本 カラー
監督:坂本礼 脚本:尾上史高
撮影:鏡早智 音楽:
出演:夏目今日子 石川祐一 藍山みなみ 佐野和宏 あ子 岸田雅子 山崎麻紗実 伊藤猛 吉岡睦雄 伊藤清美


2006/5/28/日 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.1/レイト)
くしゃみしたハズミでうっかり射精しちゃう男、それがキモになっているっつーのがまずケッサク。そして彼の瀕死の叔母と、その友人たちのあっけらかんとした明るさの矛盾した可笑しさ。そんな具合に不条理なギャグをちりばめてるから、笑っちゃう場面が結構あるものの、これが案外シリアスな展開とテーマ性があったりするんである。
だってまず、ヒロインと大学教授の不倫の関係は、息苦しいほどのやりきれなさだし。この関係が無為だってことは判ってるのに、どうしても別れられない二人が、このコメディにも見える物語の中で浮いて見えるほどに深刻なんだもの。
しかしそんな多少の違和感を感じながらも、クライマックスの大波には押し切られちゃう。結婚式の日に叔母が死に、その直後にヒロインに陣痛が起きて赤ちゃんが産まれるという、畳み掛けるような大きなうねりを、笑いと共に感動的に仕上げてくるんだもん。この場面につきる、よね、この映画は。

この“うっかり射精男”は亮介。冒頭、夏目漱石の「それから」を読んでいる恋人の美紀から「眠くなっちゃうだろ」と文庫本を取り上げる彼。そのとおり、彼女は彼の愛撫の途中にスヤスヤと寝入ってしまう。その寝顔を苦笑しながら眺めている亮介、くしゃみのハズみで彼女の中に出してしまう!
という前にね、「ちょっとだけナマで」などとゆーたわごとをおっしゃるコイツに、「ダメ、ちゃんとつけて」と彼女はゴムを手渡すんだけれど、装着を確認しないまま眠りに落ちちゃう。で、こんな事態になっちまうわけだけど……。
この正規の恋人に対してはそんな風にきちっと線引きをしているのに、不倫相手の大学教授、田中とはそんなこと全然考えず、本能のままにむしゃぶりついているのよ。それが何とも切ないというか、いや、刹那というか……彼女の行き場のない思いを感じずにはいられない。
だからこそこの恋人の亮介に対して、セックスの途中に寝ちゃうような、つまりはやすらぎってヤツを感じているんだろうとは思う。
で、この文庫本というのがクセモノ。彼女の持っている本の最後のページにはことごとく「田中」の印鑑が押されていて、そのことに亮介はずっと後になってから気づくのだが……。

次のシーンは、二人が亮介の叔母の見舞いに行くんである。なかなか目を覚まさない、大往生一歩手前って感じの叔母。その叔母を囲みながら縁起でもない話をケラケラと笑い飛ばしている二人は、亮介の母と、もう一人の叔母だろうな。彼女たちが、不倫だなんだとジットリと展開しそうな物語を、空高く蹴り上げているんである。
まず亮介の持ってきたメロンにケチをつける。「年をとって贅沢になっちゃった私たちが悪いのよねー」とか言いながら、それでもバクバク食べる。しかしそこに訪ねてきた亮介の兄は、最高級メロンを持参しているのである。「やっぱりメロンは値段よねー」と匂いをかぎまくるおばちゃんたち。

亮介の母は、頼りない息子を支えてくれそうな美紀をスッカリ気に入ったらしい。美紀は、また来ます、と頭を下げて先に辞した。この彼女の“用事”というのが、不倫相手の田中と逢うことだったんじゃないかと思われるんである。
しっかしこのシーンはスリリングである。というか、病室でのユーモラスと雰囲気がガラッと変わる。電車が音高く走ってゆく高架のすぐ下、ハタからは会話が覗いしれないところに佇んでいる二人を、カメラがズームで寄ってゆく。
カットが切り替わる。田中の別れ話に呆然とし、彼にすがって離れようとしない美紀にカメラが肉薄して行き来する。これを皮切りとして本作はとにかくカメラがスリリング。後半に亮介と美紀の場面で、非常に緊張感のある集中した演技のままのワンシーン・ワンカットもあり、かなり挑戦的にイッてるのがひしひしと伝わる。

美紀は田中を引きずり込みトイレでヤッちゃう。こんな時でも理性を取り戻して外出しする田中を、美紀があえいだ息が整わないまま乱れた髪でキッと振り返る。ジトッと恨みがましいような、何ともいえない目をして彼を見つめるその表情が、ゾッとするものを感じさせるんである。
……実は私、この夏目今日子という女優さん、お顔はなんだか間延びしているし、というかフケ顔だし、本作では肌荒れもすごいし化粧のノリも良くなくて粉っぽいし、どうもピンと来ないんだけど、この田中との場面は鬼気迫るものがあったなあ。田中を演じる佐野和宏の牽引力のせいもあると思うけど。彼は本当に、ヒロインにマイナスをもたらすこういう男が素晴らしくハマるんだもん(ホメ言葉ですっ!)。

田中が別れを切り出したのは、彼の妻が入院し、もう多分長くはないから。
「ねえ、こんな話もしたよね。もし奥さんが死んだら私と……」「それ以上言うな!」
美紀は一瞬黙った後、かみつくのだ。「私のためだなんて言わないで。怖いんでしょ」「そうだよ、怖いよ。このままお前と関係を続けたまま、アイツが死ぬのが怖いんだよ」
ちょっと表現違ったかもしれないけど、こんなようなことを言って、彼はただひたすらうつむくわけ。それまでだって裏切ってきたのに、最後だけいい人になろうとする。でもそれが男の、いや人間の弱さなのだ。
でも美紀はどうしても別れない、と譲らない。「私のこと、憎い?」「憎いよ」「それでいいの」なんて哀しい肯定なの。
なんか凄く……やりきれないけれど、彼女の気持ちが何だか判る。

一方、亮介は後輩のちひろに誘われるまま、ヤバイよ、やっぱり止めようとか言いながら、ズルズルホテルに入ってズルズル脱がされて、ズルズル中に入れられちゃう。お前なーってぐらい、自制心がない。口ではそんな風に、自制しようという言葉をとりあえず吐いているのがズルいんである。
そして彼女に鼻毛を抜かれて、またしてもくしゃみで中出ししちゃう。これはちひろの作戦だったのか、その後彼女は妊娠が発覚するのだ。

つまりは双方で二股をかけているわけだが、亮介の方は考えなしの浮気って程度に軽い感じである。でもちひろの方はどうやら本気モードらしいんだけど、彼女もその浮気シーンではそんな風に軽い感じなので、あまり深刻さはない。でもこのちひろを演じる藍山みなみは、ふっくらもち肌とベビーフェイスがちょいと魅力的な女の子なので、見ていて楽しい。ジーンズに合わせた肩ひもニットのトップスがロリータエロで、その白い二の腕のムチムチがたまらんのよねー。

実は、美紀も妊娠していた。彼女は寝ている間に亮介に中出しされたことを知らないから、どっちの子か判らない、恐らく田中の子ではないかと思ってる。もしかしたら彼女もそれを狙ってたんじゃないかと思う。
ちひろもこの時、もう一人の男と関係を持ってて、どちらの子か判らないという。ちひろはその男と亮介を順々に呼び出して、そのリアクションを見定める。もう一人の男はいかにもイイカゲンな感じで、カンベンしてくれよ、カネか?分割でいい?みたいなノリ。亮介の方は、美紀のことがあるから戸惑うものの、とりあえずちひろの身体を心配してくれる。でもその方が、女にとっては残酷なのかもしれないけど。

亮介は、美紀に他の男がいること、なんとなく察してたのかなあ。だって文庫本に押された田中の印鑑だけじゃ、証拠としては弱いもの。
でも彼が彼女の本棚から文庫本を次々に引っ張り出して印鑑を確認し、それを確信する場面はドキドキする。しかも次にそのワンシーン・ワンカットが。
帰ってきた彼女、窓から投げられた文庫本を拾い上げる。亮介を見上げる。階段を上って中に入り、散らばった文庫本を片付ける。
「ちっとも判んねえよ」「だったら読まなきゃいいじゃない」そんな会話から始まって、亮介が美紀の不倫を問いただし、彼女が大学時代からの長い付き合いだと知って呆然とする。
「もう、俺たちオワリだな」「そうね」
そして彼は部屋を出て行く。うなだれる彼女、そして窓の外を見ると亮介が見上げて、えーっとここで美紀に対してなんていう捨て台詞を言ったんだか忘れたけど(汗)、とにかくここまで一切カットを割らずに見せる。カメラの揺れも二人の心の揺れのように思えてスリリングである。

ちひろが美紀を訪ねてくる。亮介はちひろのところに転がり込んでるんだけど、彼の中から美紀が消せないのを敏感に感じ取ったから。
「この世で一番イヤな女はどういうもんか、見に来たの」「どうだった、そのイヤな女は」「想像どおり」
そう言いながらも二人は双方、どちらの子か判らない赤ちゃんをお腹に宿してて、そして優しい亮介を求めてて。
でもそれは自分にとって都合のいい彼を利用しているような気もしてて……対照的な二人だけど、どこかでそんな部分を共有しているのを、ベンチの両側に離れて座った二人を正面からとらえたツーショットが何とも言えず表わしてる。

彼らの関係はどうなるんだろう……と思って見ていると、まずちひろが、美紀を忘れられない亮介を解放する形で追い出すのね。
追い出された亮介は……ああここはいいシーンだったな。美紀の勤める会社のある高層ビル、がらんとした一室でひとりぽつねんと座っている彼女、そこに、窓ガラス清掃のゴンドラに乗って彼がゆっくりと降りてくるの!
亮介はフリーターという設定だし、多分それは彼の仕事なんだろう。たった一人、フツーのカッコにヘルメットだけかぶって、すーっと降りてきて、美紀のいる窓でピタリと止まる。
気づいた美紀、窓に駆け寄って彼を見つめながら、必死の表情でガラスをガンガン叩いて……当然声は聞こえない。でも窓に押し付けられた彼女の左手に、亮介が外からそっと、自分の手を重ねる。見つめ合う。うーん、言葉では表わせない気持ちを感じさせるいいシーンだ。

そして、二人の結婚式!もうお腹の大きい美紀と亮介が永遠の愛を誓い合ったその時、出席していたあの叔母が昏倒!病院に運ばれる。危篤状態の彼女を見守りながら、亮介の母ともう一人の叔母が「よっちゃーん、何もこんな時に……」と哀しむ一方で「(礼服)これで間に合うかしら」って、合理的過ぎだろ!
そしてもういきなり霊安室だもなー、おいおいおいーと思ってると、駆けつけた美紀がその側で陣痛!さっきまで哀しみにくれていたオバチャン二人、「よっちゃん、ごめんね、ちょっとどいて」と遺体を床にどけて美紀を替わりに乗せちゃうし!もおー、めまぐるしくバチあたりなシーンが、考える間もなく畳み掛けられて、笑うのさえ忘れてしまうぐらい?

そして美紀は、無事女の子を出産。かなりリアルな出産シーン&赤ちゃんである。
そこに、霊安室の床にじかに寝させられた叔母さんの画がさくっと入ってきてまた笑わせる。縁起でもないが……でも生と死、幸せと哀しみの紙一重がこんな風にコミカルにとんとんとんっとやられるともうお手上げ。

小さな船に亮介、美紀、亮介の母ともう一人の叔母、亮介の兄が乗り込み、亡くなった叔母の遺灰を撒く。美紀の腕には小さな赤ちゃんが抱かれている。
並んだ彼らをフィックスでとらえた絵になるラストシーンに、なんかこう、人生や生命のめまぐるしさがここで一瞬、ふっと止まったような感覚に陥るのだ。★★★☆☆


二人日和
2005年 111分 日本 カラー
監督:野村惠一 脚本:野村恵一 小笠原恭子 山田力志 山田哲夫
撮影:林健作 音楽:門奈紀生
出演:藤村志保 栗塚旭 賀集利樹 山内明日 池坊美佳 きたやまおさむ 市田ひろみ

2006/2/7/火 劇場(神保町岩波ホール)
この監督の作品は「ザ・ハリウッド」しか観てなくて、そういえばあの作品も、老人と若者の交流をテーマにした物語だったなあと思い出す。
本作はそこから一歩踏み込んで、その老人の、夫婦の、終末のあり方を、そして難病との戦いを活写した。
正直な印象としては、優しさや美しさの方が先に立ってちいさなしまって、しょうめんkその切実みきさや壮絶さは薄つきあいだとまってしまはいてい判らないと言うるのったような「」いk気がするんだけれど……。

ただ、確かに美しい。京の町。観光としてのそれじゃなくて、生活が積み重なって伝統となった誇り高き美しさ。
そしてこの映画の“ヒロイン”である老婦人、藤村志保の美しさは、「若い頃は」なんて言わなくったって、いま、そこにいる彼女がしっかり美人。言い方ヘンかもしれないけど、年相応の、その最高レベルの美しさ。若作りとかのイヤミが全然ない。
彼女は関東出身なんだそうだけれど、京都で生まれ育った女そのもののたおやかさをしっとりと身につけ、その美しい京言葉に聞き惚れる。

夫は、御所関係や神官達の装束を作る神祇調度の職人。その仕事の、静寂に包まれた誇り高き美しさにも見とれてしまう。皆から尊敬されて、時代に合わないこの仕事を続けてる。若い弟子はなんだかグータラで、この厳しい親方にこっそり舌を出したりしてるんだけどね。
後に語られるんだけど、彼はこの仕事に周りが思うほどのやりがいやこだわりを感じていたわけではなかったんだと。彼が出会った若くて才能のある青年に、好きなことが出来てよろしおすなあ、私はこの仕事しかなかったから……とごちるのは、この人生の晩年において、若き日のさまざまを思い出したからなんだろうか。

妻の千恵はフロアーの天使と言われるような美人だった。物語のそこここで情熱のアルゼンチンタンゴの旋律が流れ、若き日の回想のように、ガランとしたフロアで生のミュージシャンたちの演奏をバックにくるくると踊る二人の男女が描かれる。
今は和服がしっとりと似合う二人、特に老婦人である千恵がアルゼンチンタンゴを踊っていたという設定はずいぶんと意外なんだけれど、すっと背筋の伸びた美しさは、そんな若き日のハイカラも想像できるのだ。
二人の生活は静かで、本当に静かで。
夫は毎日、神社の水をペットボトルで汲みに行く。そしてその水でコーヒーをいれる。しかもサイフォンで。ポコポコと沸騰するコーヒーのいい香りが、スクリーンのこっちまで香ってきそうである。
千恵は、そのいい香りににっこりとし、二人向かい合ってコーヒーをすする。お茶ではなく、サイフォンのコーヒー、そのハイカラさが、恋人同士だったそんな昔をちょっとだけほうふつとさせる。

でも、千恵は難病におかされているのだった。筋肉がだんだん動かなくなるALS。この病気って、若い人がかかっているイメージというか、ドキュメンタリーなんかで見る機会があるせいなんだろうけれど、そこで描かれるような壮絶さはここにはないのが、物足りないというか……。
この映画がそういう目的ではないからだとは思う。それに、年老いてからこの病気にかかったせいもあるのかもしれないけど、その苦しみの、もっともヤマの部分をすっ飛ばして、あれっと思ったら醜さは一切ないまま、美しいまま、死ぬっていうのは、うーん、どうなのかな……。
確かに、ここで壮絶を前面に出したら興醒めなんだろうけれど、この病気のことをサラッと描いているのはやっぱりちょっと、気になる。
千恵は、こんな自分をミジメに思って、「もう人に会いたくない!」とか、果ては夫に「おねがいだから、私を殺して!」とまで言うんだけど……ちょっとそこまでの切実さはないんだよね。美しさの方が先にたってしまって。

あっと、あまりにも先を急ぎすぎた。まずはね、ささやかな描写から始まるの。箸が上手く持てなくなる。夫は昔ながらの寡黙な人だから、そんな妻に気のきいた言葉をかけることができない。無言のまま口元に差し出して、食べさせようとするけれど、それを彼女は頑なに拒む。自分で食べられるからと。そりゃそうだ……いきなりこれはないよ。自尊心っていうのも、人間にとって大切なものなんだから。
しかも、やっと搾り出した言葉が、「ワガママ言うなや」である。それに返した妻の言葉はリターンエース。
「よくいうわ。40年間ずっとワガママ言ってきたくせして」

二人は、駆け落ち同然だったのだという。しかも、心中未遂まで起こした。今の穏やかで静かな二人からは想像も出来ない……いや出来るかもしれない。いつでも二人で向かい合って、妻は夫を、夫は妻を見つめてる。お互いだけを。とても静かだから、そんな夫婦がめったにいないことになかなか気づかないけれど。
身体を動かすのがしんどくなり、家事も夫がやるようになる。千恵はインターフォンを使うのを嫌がり、二階から一階の工房に赤い紐を張って鈴を取り付ける。夫は「オレは猫じゃないんだよ」と言い、若い弟子が「よう鳴るわ。ホンマに猫みたいやわ」とこっそり笑う。でもその鈴が鳴らされるたび、夫はどんなに仕事に集中していても、文句も言わず妻の寝ている二階に上がってゆく。たとえその用事がラジオのボリュームを下げるだけであったとしても。
この鈴が、音色も、そして寝ている千恵の手に届くように長く垂らされた紐が窓からそよぐ風に揺れているさまも、愛らしく、美しく、その用事を控えめに、申し訳なく伝えていて、胸に迫る。

夫は妻のために、ある青年をスカウトした。彼が神社に水を汲む行き帰り目にしていた、マジックをやって子供たちを楽しませている俊介である。
手から先に不自由になってきた妻のリハビリと、何より心が晴れるんじゃないかと思ってのことだろう。俊介は実際は遺伝学を研究している大学生。突然の夫の申し出に戸惑いながらも、恋人の恵から「いいじゃない。アルバイトだと思えば」と言われ、通うようになる。
この青年の来訪が、夫の狙い通り彼女の生活に彩りを添えるようになる。青年の鮮やかな手つきと素直な人柄が、千恵を、そして夫の気持ちを楽にさせてくれる。
真ん中に入れたはずのカードが上にあがってくるタネ明かしを見せてもらった千恵、「カンタンなことなのに、判らないもんおすなあ」と感心しきりである。
どうしても、思ってしまう。病気もマジックみたいに、パチン、と指をならしたら治ってしまえばいいのに、と。

ところで、この夫婦を折々訪ねてくる姪っ子がいるんだけど、コイツがちょっとうっとおしい。
この夫婦に子供がいないから、気にして来てくれてるんだろうけど、俊介にあからさまに色目使うし。まあ、あっけらかんとしたキャラクターがこの物語に違う彩りを加えてはいるんだけどさ。
しかも彼女の母親(つまり夫の姉妹)は、千恵の葬式の時、お決まりに、夫が店をたたむことを、「ここは兄さんだけの家と違う!うちの思い出かて、沢山つまってるんや!」とか泣き伏すし。その後に展開があるわけでもないのにさー、お約束過ぎるっしょ。

まあ、それはおいといて。
千恵の病気はだんだんと進行してきている。ある日、ひな祭りの準備をしていた千恵、訪ねてきた俊介はその手伝いをする。子供が出来なかったから、ずっとしまいっぱなしだった、若き日、夫からプレゼントされたという繊細なつくりの女雛に、「似てるなあ、目元とか、口元とか」と俊介は千恵と見比べながらその美しさにしきりに見とれてる。千恵は照れながらも、若き日の夫とのことを思い出したのか、嬉しそうである。
しかし、そこで突然倒れてしまう千恵。「千恵さん!千恵さん!」俊介は必死に声をかけるも……。
そのまま入院となってしまう千恵。後にね、俊介が誘ってくれたマジックショーを見た帰り、桜並木を俊介に車椅子を押してもらいながら彼女、「ありがとう、あの時名前を呼んでくれて」と言うんだよね。夫はうんとか、ああとか、あごをあげさげするくらいしかしなくて、もう長いこと親からもらった名前を人から呼んでもらうことがなかったって。
この場面、この夫婦と、そして俊介とその恋人の恵が四人連れだって桜並木を歩いてる。この恵という女の子がね、解説では、“女友達”なんて書かれてるけど、ウソウソ絶対恋人でしょ!後のシーンで、千恵から「付き合ってるの?」と問われた俊介、「まあ、そんなとこかな」照れ隠しからかそんな言い方してるけどさ。

ちょっと感じのいい女の子なんだよね。彼女からの借金をなかなか返さない俊介に「またマジックの道具でも買ったんでしょ」と言いながら、彼のステージ衣装を縫ってくれたり、そして何より、この老夫婦と俊介以上に仲良く接して、特に夫はこんな若い女の子と話す機会もこの年じゃめったにないせいか、随分と饒舌になったりする。見事に咲いた桜並木の下を、車椅子の千恵を俊介が押し、夫と恵が並んでそぞろ歩く。
千恵は前を歩く二人を見て微笑む。「あの人、めずらしくよう喋ってるわ。ご機嫌やわ」

夫は、仕事をたたんで千恵につきっきりで看病することを決意する。それというのも、俊介と出会うことで自分の仕事を見直すきっかけとなったからだと思う。時代の流れを当然のように押しつけられることに歯がゆさを感じていた中、やっと到達できた素晴らしい色合いの装束、それをあんな判ってない、合理性だけ押しつける寺に収めたくなかった。
やっと満足の行く仕事が出来たと思った彼は、店をたたむことを決意する。
千恵は、自分のそばにいてくれる夫に戸惑いながらも感謝し、こんなことを言う。「一日でも、一分でも一秒でもいいから、あんたより長生きしようと思てましたんえ。あんたみたいな手のかかる人、他に世話できる人なんていないもの」

夫は、きっと誰にも触らせなかったであろう、彼女の鏡台にひっそりと隠された日記を見つけていた。
恋人時代からの、数々の思い出が綴られた日記。一緒に観た「麗しのサブリナ」、挟まれた古い映画の半券。思いがけずリードしてくれたダンス。「お前にいいところを見せたいと思って練習したんや」夫はつぶやく。
そして流産、子供が出来ないと言われた時のこと。「こんな時にもあの人は何にも言ってくれなかった。責められた方がどんなに楽か。あの人には判らない」
呆然と読みふける夫。
寡黙が美徳とされてきた日本男子へのアンチテーゼ……というのは、今の主題としては少々古い気がするけど、でもいまだにこの世代ではそうかもしれない。

もしかしたら、恋人時代以来だったかもしれない、二人っきりの時を過ごして、千恵は亡くなる。
葬儀の時からもう、夫はまるで生気を失っている。窓の外には雷雨がとどろいている。
心配して彼の側につく恵が話して聞かせた、夢のような話。ぼんやりとした情景の中、彼女に傘を貸してくれた女性というのは、千恵のことだったんだろうか……この語りのくだりはどうもよく判らないな。
愛する妻を荼毘にふした後、どしゃぶりの雨の中、彼は崩れ落ちるように倒れてしまう。
「俺にはお前しかいなかった」

これからはこういう時代になるのかもしれない。いや、もうなっているのかな。子供ができなくて、親族や地域のコミュニティも希薄になってくると、どちらかがどちらかを看取り、そして残された片方は……という、やりきれない時代。
この二人の場合は、若い頃の駆け落ちの末の心中未遂、流産の末、子供が出来ない運命とかロマンチックに彩られてるけど、実は現実的にもっと切実な問題なんだよね。
子供がいないという設定は、二人の絆をより強くするけれど、少々都合いいようにも感じるんだよなあ……。だからこそ俊介の存在が活きて、他人との触れ合いが大切になってはくるんだけど。

その俊介が遺伝子を研究をしている、というのは、志保のような解明されない病に対して未来に希望を託す意味合いがあるんだろう。
彼は、三年間のアメリカ留学が決まっている。恵は、俊介の留学の三年間を待っている自信がないと言う。
「俊介のこと好きだから、その寂しさに耐えられなくて、その穴を埋めようとすると思う」
実にもっともである。だけど恵、かの老夫婦が実に40何年一緒にいることに感銘を受けてたんだよね。
それに対して夫は、それしかなかった、ただあっというまに時が過ぎてしまったと言うけど、その感覚も本当だろうけど、ひとつひとつ難関を乗り越えるたびに、二人の絆は強くなって少しくらいのことじゃビクともしなくなるんだよね。
俊介と恵は最初の難関だから、まだ積み重ねてきたものがないから、自信がないんだと思うけど、きっとこれを乗り越えれば……。ラスト、川べりで、「ここが私たちの場所だよ」と手をつなぐ二人に、そんな希望を感じる。

俊介は夫から形見分けとして、あの女雛を受け取る。夫が棺の中の妻にそっとかぶせた装束の、薄紫の布をまとった美しいお雛様。
夫は一人になっても、いつものように水を汲みに出かけてる。軒先に干された彼の作業着が、どこか寂しく風に揺れている。
あのマジックショーの日、外出許可をもらって久しぶりに家に帰ってきた千恵が、寝たふりしている夫に問わず語りに言っていた。あの世に行って、お義母さんにイジめられたら、戻ってくる。キモノも食べ物もいらないし、いいでしょ、なんて。
神社、木漏れ日、ふとした静けさに夫、何かに気づいたように顔をあげる。「なんや……こんなとこにいたんか」嬉しそうに、まぶしげに顔をあげて。千恵の部屋のあの赤い紐が揺れ、鈴の音があの頃よりも軽やかに聞こえてくる。

エンディングの、クミコの優しい歌声が、この静かで美しい物語を締めくくるのにピタリで聞き惚れてしまう。★★★☆☆


冬の幽霊
2005年 43分 日本 カラー
監督:松田彰 脚本:松田彰
撮影:松田彰 音楽:黒木千波留
出演:村田牧子 多智花孝彰 最上沙和子 加藤大我

2006/7/25/火 劇場(シネマアートン下北沢/レイト)
「お散歩」の、意欲的、実験的と対照的に、劇映画の作り手としての達者さを感じさせるキュートな掌編。
「お散歩」でも安定感のある演技を見せたヒロインの村田牧子嬢が揺れる女心をコミカルかつ確かな説得力で演じているのもイイし、何より友人、丸子(最上沙和子)の存在がイイ。
ヒロインの死んでしまった元カレが、幽霊になって現われるところから始まる物語。無論その彼とヒロインの、かつての恋の感情にどう決着をつけるか、そしてどう成仏するかが焦点になってるわけだけど、丸子の小さな秘密がその中に波紋を投げかける。そしてそれが、この物語を唯一たらしめているんである。

もうすぐ結婚を控えている亜津美。椅子でつんのめった拍子に足をぶつけた彼女、骨折しちゃってギプス生活。足の中がむれて痒いし、これからの結婚のこととか考えて、なんか心にスキが出来ちゃったのがいけなかったのか。
いやいや、本当に、“これからの結婚”のことを、考えていたの?“あの人を心に残したままのこれからの結婚”のことを考えていたんじゃないの?
うだうだと惰眠をむさぼる彼女の隣に突然現われたヤツ、2年前にバイク事故で死んだ、元カレの冬樹なのであった!

コイツ、幽霊のクセに足はあるし、それどころか気持ちよさそうに風呂に入ったり、自分の集めたコレクションがないことに大騒ぎする。
およそ、世に未練があって出てきた幽霊っぽくはない。本人も「オレ、ひょっとして死んでる?」と、生きているわけではないことは本能的に判っているみたいだけど、さりとてなぜ幽霊として出てきちゃったのかも判らない。
何たって彼女は結婚を控えているわけだし、彼としても彼女の幸せをかき乱したくはない。
でも彼が現われたのには、彼ではなく彼女たちに理由があったようなのだ。

そう、彼女たち。そのもう一人は亜津美の友人の丸子。
突然現われた冬樹に腰を抜かした亜津美、自分が見ているのが現実なのかを確かめるために、丸子を呼ぶんである。
ハダカの男が亜津美の部屋にいることに眉をひそめる丸子、「アンタ、結婚前にあれは感心しないよ」「丸ちゃん、コンタクトしてる?メガネは?」「あるけど……」
そんでもって、「ギャー!!!!」
そう、丸子にも見えちゃった。だって三人で仲良かったんだもん。
……いやでも、その後冬樹の母親に会いに行っても、この母親にも見えないのに?そしてそして、亜津美のフィアンセにも見えないのに?

亜津美は確かに冬樹に思いを残している。突然逝ってしまった冬樹に、愛しさと恨みがましさがないまぜになったような気持ちが、確かに奥底にあった。でも丸ちゃんは?
そうなの、彼女も冬樹のこと、好きだったんだよね。それを冬樹自身も、そして亜津美も気づいてた。丸子は二人に気づかれていることも、感じていたんじゃないかと思う。
そして、冬樹が事故にあった日、三人で焼き肉パーティーしてた。丸ちゃんは夜通し冬樹に悩みを聞いてもらっていた。
だから……大好きな冬樹を大好きな親友から引き離してしまったこと、凄く凄く自責の念に駆られてた。その思いは亜津美の彼への喪失感と変わらないほど、大きなものだったに違いない。

なんてことを、その秘密が明かされるまで、この丸ちゃんがちっとも感じさせないトコがいいんである。
基本的に、ユーモラスな空気が漂ってるのね。だって冬樹はおよそ幽霊らしくなく、靴がないからと亜津美のピンクのサンダルをつっかけている有り様だし、亜津美はギプスの中のかゆさに耐えかねて丸ちゃんに掻いてもらっては、ヒーヒーあられもない悲鳴?あげてるし、メガネをかけてそんな二人にツッコミまくる丸ちゃんは、さながら女漫才師のようだし。
三人の間に流れる空気は、多分冬樹の生きている時もそうであったであろうと想像される、楽しげな雰囲気に満たされているの。

でも、二人に見えているんだから、当然冬樹のお母さんにも見えるはず、と向かった冬樹の実家で、このお母さんは久しぶりの亜津美と丸ちゃんをにこやかに迎えながらも冬樹の存在に気づくことはなかった。
やっと一人で生きていくふんぎりがついた、最近は一人で暮らすことにも慣れて、お客様にお出しできるお菓子も置いてないのよ、と言うこのお母さんはどこか……何だか危なっかしくて、亜津美と丸ちゃんはそっと目配せしあうのだけれど、でも冬樹が見えていない、ということは、やはり彼女の中でもう整理がついているということなのか。

「お袋、肩が凝っているんだ。丸ちゃん、もんであげて」
離れたところから見つめていた冬樹が、そう声をかける。彼の言うとおりにもみ出す丸子。
「やだ、丸ちゃん。冬樹に教わったのね」お母さん、気持ち良さげに目を細めながらも、「ごめんなさい、もういいわ。とても気持ちいいけど、おばさん、泣いちゃうから」
死んだ息子を思い出すことを拒否するともとれる発言、やはり二人との違いはここにあったのだ。

そして問題は、亜津美のフィアンセである。冬樹がこの彼に会いたいと言い出した。いや、別にひと悶着起こそうというんではない。冬樹は自分が甦った意味が判らない。いや、成仏の時は近づいているようには思う。だから亜津美が結婚する相手に会ってみたいというわけである。
一方、この亜津美にラブラブなフィアンセの杉野君、彼女の元カレの幽霊と聞かされてすっかり及び腰。しかし何も見えない彼、逆に亜津美と丸ちゃんを疑い出す。
「もうこんな芝居は止めてくれ!」と叫ぶ彼。タチの悪い冗談に付き合わされた、何かたくらみがあるのかと、あんなに及び腰だったのに、彼の態度はだんだんと傲慢になってゆく。信じてくれないどころじゃない。彼をなだめ、ミジメになるハメになってしまった亜津美はもう泣き顔。丸ちゃんはオロオロ。

冬樹が静かに二人に語りかけるのね。彼の言うとおりだと。見えないんだから、いないんだよと。
どういう意味なのかと二人、顔をあげる。見えない空間に向かって会話を続ける二人に、杉野はいいかげんにしてくれと繰り返すのだけど、冬樹は……そう多分、最後の時を感じてた。
見えないんだから、いないんだ。もう、去る時。
というかね、その前にそろそろだと冬樹は思ってて、でも杉野を呼び寄せていたこともあって亜津美に止められてたのね。また突然いなくならないでよと。……そう、それが彼女の本音だったんだ。

冬樹は、じゃあ今度はちゃんと、さよならと言って玄関から出て行くから、と約束していた。
この世界にいるということは、生きている人からエネルギーをもらっているんだ、と冬樹は言うのね。だから体がだるいだろと。まだいなくなってほしくない亜津美は慌てて栄養ドリンクを買って来る。ちょうど到着した丸ちゃんと杉野君にも飲ませる。いなくなってほしくない気持ちが、どんな方向に行くのよ、ってあたりが切なく可笑しい。

冬樹は丸ちゃんに、亜津美と二人だけにしてくれないか、と言う。うう、丸ちゃん、切ない。でもその前に丸ちゃんは冬樹と二人で話せてたし(この時亜津美は気を効かせて外してくれたんだろう……友達だよなあ)、丸ちゃんはこれが別れだと予感しつつ、頷く。
冬樹はそっと、杉野の手に握手するように触れたもんだから、杉野はとびあがらんばかりに驚き、「なんか触った、ホント?ホントにいるの?」とうろたえまくり。丸ちゃんは苦笑し「出来るんなら最初からやってよ」と冬樹に友達としてのコトバをかけて、杉野を連れて出て行く。
……でもこの場面で一番切ないのは、ひょっとしたらやっぱりというか、杉野君かもしれんのだけどね。

夕方の気配が忍び込む亜津美の部屋での、今度こそ最後の別れのシーンは、まるで初めての失恋の時みたいに、切なさと愛しさがこみあげる。
「俺に甦る理由があったんじゃなくて、亜津美にあったんだよ」でも、そうだとしても、好きなのに、好きだったのに。
キスするわけでもなく、抱き合うわけでもなく、手を触れ合うことさえなく、……冬樹がそうしたのは、それは今の亜津美に未来への時間があるからなのかな。ただ見つめて、「じゃあ、さよなら」「さよなら」約束どおり、玄関へと向かう冬樹。
ぽつんと残される亜津美。丸ちゃんと杉野君が入ってくる。
「行ったんだ」「うん」
ぽっかりとあいた、でも優しくて暖かな空間。

監督の言う、「少女マンガのような話を作りたかった」は成功してると思う。特に丸ちゃんの存在は、女の子に共感を呼ぶよなあ。★★★☆☆


フライトプランFLIGHTPLAN
2005年 98分 アメリカ カラー
監督:ロベルト・シュヴェンケ 脚本:ピーター・A・ダウリング/ビリー・レイ
撮影:フロリアン・バルハウス 音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ジョディ・フォスター/ショーン・ビーン/ピーター・サースガード/エリカ・クリステンセン/ケイト・ビーハン/マーリーン・ローストン/マイケル・アービー

2006/2/14/火 劇場(渋谷ピカデリー)
なんか正直、ちょっと引くなあ……と思いつつ見てた。ジョディ・フォスターがね、強すぎるんだもん。母親は子供を思うのが当然。うん。そのためならなんでもするのも当然。うん。判るんだけど、あまりにもゴリ押しが強すぎて引いちゃう。
そりゃ悪いのは犯人、それは他ならないんだけど、母親なんだから心配して当然、あなたたちは自分の子供だから判らないのよ、皆協力すべきよっ、みたいにここまでワンマンでやられたらそりゃあ……引くよなあ。
いや多分それはジョディ・フォスターの熱演によるものなんだろうけど、いや、なんか演技もキャラも押せ押せドンドンで、微妙な引きどころというのがないというのか……。

飛行機の中で、幼い娘のジュリアが消えた。必死に探し回る母親。しかしどこにも娘はいなくて、それどころか乗客名簿にも乗っておらず、さらにあなたの娘は死んだんだとまで言われる。
何かの陰謀がある。絶対に娘は死んでなんかいない。そう確信した母親は、乗務員の静止を振り切り、貨物室や機械部分の裏にまで入り込んで探しまくる。
彼女はこの飛行機の設計技師で、子供一人を隠すスペースなんていくらでもあることを知っているのだ。

なんか、入り口は似たような映画、あったよね。舞台もなんも、全然違うけど。思わず同じオチだったらどうしようかと思っちゃった(笑)。だってあのオチはあんまりだったもん。
えーと、あ、そうそう、「フォーガットン」だ。これは子供が死んだ記憶があるんだけど、それはそう思い込まされているだけで、実は生きているんだという展開だった。
本作は、途中で子供は死んだんだと思い込まされそうになるけど、最後まで自分の記憶を信じてる。どっちのお母さんももちろん子供を愛してて、いなくなったことを心から哀しんでいるんだけど、つまり本作のジョディ・フォスターの方が強いお母さん、的な雰囲気なわけね。

普通はあれだけ追い込まれたら、ひょっとしたら自分がおかしいのかも、と思うよ。普通だったら、ね。
それだけ彼女が強い精神力の持ち主、あるいはそれこそ、“お母さん”だからってことなんだろうけど、それで全てを片付けられるのもちょっとなー。
子供のためならどんなことも乗り越えられる、みたいな。まあそうなんだろうけど……こういう母の力礼賛モノって、あんまり好きじゃない。私が母親の立場じゃないからだと思うけど、こうまで出来なきゃ母親失格、って言われてるみたいでさー。

この飛行機には実に都合よく、エアマーシャル(航空捜査官、みたいなこと言ってた)の肩書きを名乗るカーソンという男が乗っていて、乗客の安全を乱すのは許さない、と彼女をピッタリとマークしている。
中盤までは、この男の立場の方が判るなー、などと思って観てるのね。だってそれぐらい、ジョディ・フォスターの腕っ節も鼻っ柱も強すぎて、乗客には協力してもらって当然、乗務員は自分の仕事をほっぽり出して捜索すべきだ、なーんて態度で、もうちょっと言い方とか態度とかあるんじゃないかと、ついムカついちゃうんだもん。
そりゃまあ、子供がいなくなったら取り乱してこんな態度になるのかもしれんが、いや、っていうか、取り乱してないよな、取り乱してるように見えるけど、やるべきことをイチから指示出してるもん。
「あの子はたった6歳なのよ!」と繰り返す彼女についつい、あー、うっとーしーとか思ってしまうのは……私が冷たい人間だからなのかなあ……。

いやでもね、それはもしかしたら、この映画の計算上に入っているのかもしれないわ。つまり、このカーソンの立場の方にこそ大変ねえ、などと共感しそうになってたら、彼こそが犯人だったんだもん。
実際、彼女だって、彼は唯一自分の味方になってくれるんじゃないか、って思って、必死に助けを請うてたしさ。
でも、そんな彼女を冷たい目で見やる彼にあれっと思う。そして中盤から彼は正体を現わし始めるのだ。

彼女の夫は数日前に死んでいる。転落事故。自殺にも見えかねない事故だった。そこから既に、計画は始まっていた。事故でも自殺でもない。彼は、殺されたのだ。
そしてこの飛行機。彼女は設計者だからその中を熟知してる。
そのことを逆手にとった誘拐劇だった。つまり彼女ならこの飛行機のどこにでも何でも隠せることを知ってる。つまり、彼女ならそれをやれる、と周囲に思わせることが出来る。爆弾を仕掛けて、狂言誘拐で騒ぎ立てて、大金をせしめようとしている、という設定に彼女を陥れたのだ。
彼女の子供が死んだという記録を偽造してまで。だからまず、子供を死んだ事実を受け止められないんだ、みたいな哀れむ目で娘を探そうとする彼女を囲い込んでしまう。そして心理的に、彼女にその虚偽をさえ思い込ませようと画策する。
まああれだけ大騒ぎすれば、容疑者の前に要注意人物になっちまうのは仕方ないところだったけど、被害者のはずが、いつのまにか彼女は容疑者になっているのだ。

夫が死んだのは、自殺だったのかもしれない、と彼女も思わないわけではなかったと思う。
断片的な回想で現われる夫婦のシーンは、ドイツの冬の暗い雰囲気の中で展開されるから、余計そんなムードが漂うんである。
お互い、意思の疎通が上手くいってなかったんじゃないかとか、仕事で悩んでいたんじゃないかとか、そんな風に問い詰められればそうかなと思ってしまう……いやしまいそうになるところを、やっぱりこの強いかーちゃん、ジョディ・フォスターはそう押し切られないんだな。

確かに、飛行機って究極の密室だ。でもその内部を詳しく知る者にとっては、決して不可能な密室じゃないわけで。
それでもその余剰を大きくするために、実在しない、豪華客船かよ、ってな飛行機にする。ないだろ、こんな飛行機。二階建てでらせん階段があったり、カウンターバーがあったり。まあ近未来的にはそういうのも出来るのかもしれないけど、その見えようが妙にSFファンタジックっぽくも映って、逆に緊迫感が薄れるというか……。

彼女が急に全速力で走り出し、アラブ系の男につかみかからんばかりにして、「あの男よ!昨日窓の外から娘を見てたわ!」とか言い出す。
確かに前日、娘を寝かしつけていた彼女が窓の外に二人の男の影を見てはいる。観客にはよく顔が見えなかったけど、この男がそうなのかと思い、どんな陰謀が隠されているんだろ、どう展開されるんだろとか思ってると、なんとこの男たちは全然関係なかったんだもん。おいおい。
カーソンが共犯のスッチーに、「彼女が騒いだおかげで、乗客たちはあのアラブ人を疑ってる」なんていう程度にしか作用しないし。彼女が騒ぎ立てた時、人種問題があるから……なんてたしなめてた割には、案外アッサリ、アラブ人=アヤシイみたいな発言してんじゃん。
まあ、それだけアメリカ人が単純に差別するってことを皮肉ってるのかもしれないけど、そこまで強い主張も感じられないしなあ。
第一、彼女は窓の外に誰を見たの?

あまりにも彼女が暴れまくるんで、もう手錠とかかけられちゃって、カーソン監視のもとムリヤリ椅子に座らされる。しかし諦めない彼女、トイレに行きたい、とお決まりの手を使い、手錠を外してもらって、トイレの屋根を外して捜索を開始するのだ。
しかも、配電盤?で客室の電源を切ってまで!しかも酸素吸入器まで降ってくるし!おいおい、そこまでするかよ。迷惑かえりみないなー。こういうトコが引いちゃうのよ、もう。
夫の棺が乗せてある貨物室までたどり着く。ここかもしれない、と棺を開ける。まさか夫がその中に入っていることを忘れていたわけでもなかろうが、開けて、夫の死に顔にハッとする。うーん、なんか、悪趣味。
でも、娘が死んだのなら、棺が夫の分しかないのはおかしい、という彼女の主張はまあ、なるほどといえばなるほどである。
そうこうしているうちに、カーソンは彼女をまんまと狂言誘拐の爆弾犯人に仕立て上げ、大金をせしめ、緊急着陸させて彼女を犯人として引き渡そうとするんだけど、彼女はそう仕立て上げられた立場を利用して彼と共犯のスッチー以外の全員をおろし、直接対決に挑むわけ。

この共犯のスッチーは、子供を思う母親の気持ちに女としてシンクロしてしまって、陥落してしまうんだよね。なのでただ一人の極悪人がカーソンということになる。
で、彼女は見事娘を探し出し、追ってきたカーソンを爆弾のあるところに誘い込んで、スイッチを押してしまう。
“ただ一人の極悪人”に仕立て上げたから、こういう結末なんだろうけど、何も殺さんでも……しかも爆弾で吹っ飛ばすなんて。彼には動機とか経過とかいろいろ聞くべきじゃないの。なあんか後味の悪い勧善懲悪だなあ。それにあれじゃ、夫の入った棺も一緒に吹っ飛ばされたんじゃないの……気の毒に。

そして彼女は娘を抱いて降りてくる。乗客は、彼女のこと、完全に妄想の世界に行ってると思ってたから、本当に娘が隠されていたことに驚く。
そして、まるでこんなところに正義の味方がいたんだ、みたいに、尊敬のまなざしで見送るのだ。「凄い母親だ」って。凄い女だ、じゃないんだね。ちょっとフクザツ。女が母親という価値観でしか語られてない気がして。
そして機長は、「私はあなたに謝らなければならない」と頭を下げる。彼女の言うことを信じなかったから。まあ、あなたはそんな悪くないと思うけどねえ。
彼女は見送る乗客の中に、あのアラブの男を見つけるんだけど、なんともいえない目で見つめあいながらも、彼女は声をかけることもなく、娘を抱いて迎えの車で走り去る。
どうなのかねえ。機長が謝ったくらいなんだから、彼女もあらぬ疑いをかけちゃったこのアラブさんに謝るのかなと思ったのに。

なんか、解せないのはね、根本的な部分なんだよね。この子供を誘拐するくだりよ。彼女が子供を別の空席に移して寝かせる、なんてどうして推測できたの。そうじゃなきゃ、子供を奪うなんて出来ないじゃん。
しかもそれはまあいいとして、この眠っている子供を起こさずに、しかも周囲の誰からも気づかれずにどうして移動できたのかなあ。
共犯がスッチー一人じゃ、ムリがあり過ぎない?それこそ乗務員、乗客全てが容疑者、っていう設定が泣くじゃん。

「あなた、子供はいるの?」
「姪じゃだめですか」
なーんていう彼女とスッチーとの会話が妙に耳に残ってるのは、女は子供ぐらい産んどかなきゃダメよ、と言われているみたいなひがみ根性かしらん。
なんか、ジュリアン・ムーアにしても、ジョディ・フォスターにしても、このぐらいの年齢になると女優は、子供のために必死になる母親役をとりあえずやっとかなきゃいけないのかなあ……。★★☆☆☆


フラガール
2006年 120分 日本 カラー
監督:李相日 脚本:李相日 羽原大介
撮影:山本英夫 音楽:ジェイク・シマブクロ
出演:松雪泰子 豊川悦司 蒼井優 山崎静代 池津祥子 徳永えり 三宅弘城 寺島進 志賀勝 高橋克実 岸部一徳 富司純子

2006/10/9/月・祝 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
なんつっても私が子供時代を過ごし、今は実家のある福島のお話だからねえ。だけど私は行ったことない(家族の中で私だけが行ってない!ちくしょー)常磐ハワイアンセンター設立の話。え?今は違う名前になってるの?私が子供の頃はキッチリ常磐ハワイアンセンターだったのにい。
それこそ子供の頃は、「常磐!ハワイアンセンター!」ドコドコドコドン!(←ダンサーが踊ってるバックの音楽)とゆーテレビCMも見慣れていたので、ホント身近というか、私たち子供はギャグっぽくマネしたりもしてたしなあ。うーん、懐かしい。

それ以上に、本作は予告編がすっごく秀逸だったの。あ、あれは特報スポットっていうの?公開間近になったら、フツーの予告編になってたもんなあ。
一番最初出回ってた、ジャージ姿のしずちゃんがクネクネとセクシー?というかブキミに踊る、それだけの予告特報で、もー、これが大爆笑だったんだもん。全然ワキなのに、まるでヒロイン扱いで(笑)。この時点では常磐ハワイアンセンターの話だと知らんかった。でもあのショート特報は正しかったよ。その後出回るマトモな予告編より、余程インパクト&観たい気持ちをそそられたもんなあ。
実際、後述するけどしずちゃんは素晴らしい。「ラブ★コン」でも充分それを立証していたけれど、演技デビューであるという本作で更に素晴らしいんだから、これは本物に違いない。

さて、いくら涙もろい私でも、かなり予想以上に号泣して鼻水ダラダラだったのでちょっとビックリしたんだが。ちょっとね、この監督さんの作品は、評価の高かったPFFの受賞作品とスカラシップ作品も観てなかったのでアレなんだけど、その後の二作がかなり意味不明で、ちょっと引いてたんだよね。だから今回、監督の名前を観た時には足を運ぶのも躊躇したぐらいだったんだけど。
まあ、などと後から思うと、つつきたい箇所もないわけではない。
ただねー、こうも泣いちゃうと、もうそれも言う気もなくなるわけね(いや多分、言うけど)。
こういう、ゴールにそれまでの成果を見せるステージや試合や、が用意されている映画は、もうそこで涙が出るのは8割方決まってはいる。しかしそれが、そのクライマックスに至る前にウッカリ涙が出ちゃうと、もうそっからはバカみてーに止まらねーのさ。もー、自分でもビックリするぐらい号泣。すっかりハンカチおばさんなんである。

とゆーのは、やはりヒロインの親友、早苗の別離である。そもそも、彼女から全てが始まった。この炭鉱の町にいきなりふってわいたハワイアンセンター、そしてフラダンサーの募集に真っ先に反応したのが彼女で、親友の紀美子を誘った。
いつも尻込み気味の紀美子と違って、早苗は本当に最初から最後まで純粋にやりたい!って気持ちが溢れてて、なのになんでそんな子が、こんな運命を辿ってしまうのか。
町の大人たちは軒並みハワイアンセンター建設には反対なのだ。それは大事なお山をつぶすこと。石炭の需要がどんどん少なくなって、どんどん閉山が決まって、この町は皆代々、石炭の仕事しか知らないのに、自分たちを裏切るのか!って、怒ってるのだ。

石炭のために建てられたズラリの長屋、真っ黒な顔をして働く大人たち。父子家庭で小さな弟妹たちの面倒を見ている早苗は自分の手を見つめながら、「爪の間の炭が取れない。こんな真っ黒な手をした女子高生ってどう思う?」と嘆くんである。
このチャンスをモノにしなければ、一生ここから出て行けない。彼女は半ば本能的にそう感じとって、このダンサー募集に賭けた。
でも早苗の父親もまた仕事を失い、それがハワイアンセンターのせいだと思ってる(まあ少しはそうなんだけど……)父親はフラダンスの衣装を着て浮かれている(ように彼には見えるんだろう)娘を見て逆上、殴り倒してしまう。
そのことに怒ったまどか先生が、銭湯に乗り込む場面はちょっと笑っちゃうのだが、でもこの時点で紀美子はもう、夢を諦めなければならないことを悟ったのであった。

父親の再就職先は、夕張炭鉱。小さい弟妹たちの面倒は自分でなければ見られない。
夕張も、いずれ炭鉱の町じゃなくなるのに。今や映画祭もなくなっちゃったし……。
早苗こそが勇気を出して紀美子の手を引っ張ってどんどん連れてきてくれた。紀美子はそれに引きずられた形、というカクレミノの影にいつも逃げていた。紀美子だってどんどん夢中になっていったのに。
というのを、親友だから早苗だってちゃんと判ってて。つまり二人はそういう役回りだからこそ気が合っていたんだろうし、ここを去らなければいけない早苗も後を託せると思ったんだろうし。

「私もダンス辞めるよ」と言いだす紀美子に、早苗は怒る。
「本気で言ってるの?だとしたら、親友の縁切るよ」
そして、「あんたがフラダンスのスターになるんだよ。そして私は一緒に雑誌に載ったんだよって自慢する。それがこれからの夢なんだ」あうーもうこの辺から涙腺が怪しくなってくるのだ。
どうしようもないことってある。子供だとなおさら。でも彼女は子供の無力さもあるけど、弟妹たちを育てるのは彼女しか出来ない。それは彼女の中にある大人の強さ。
そして、夕張へと旅立つ彼女を、仲間たちが泣きながら見送る。何も言えず、黙って彼女を抱きしめてやるまどか先生。もう、嗚咽が止まらん……。
先生からかけてもらった餞別のサングラスの奥から、早苗の目も涙で揺れている。「ありがとう、先生……」あううう、もう号泣。こっからラストまで、私ゃずーっと泣いてるんである。

あらら私、始まりも設定も言わんと、どんどん話をはしょって進めてる気もするが、まあ気にせず行く。
で、この友達との別れに、ただただうつむいて何も言えずに泣いている姿が、なんともいじらしくて可愛かったしずちゃん。そう、彼女。初めての映画でこんな開眼しちゃうとは!監督がそこまで予想していたかは判らない、話題づくりなだけだったかもしれないけど、それだけに嬉しい誤算!
ひょっとしたらこの映画で、ヒロインの蒼井嬢よりも(主演は松雪泰子ってことになってるらしいが、誰が見たって蒼井嬢だと思うのだが……)、誰よりも、一番に良かったんではないかと思わせる。今はまだ彼女自身の計算のなさがそうさせているのかもしれないけど、だとしたら彼女は本当に、天性の女優ではないの。

「ウチの娘は踊りが好きで」と稽古場にお父さんに連れられて来た、そのぬうっとした登場シーンから、もちろんインパクトを与えまくり。そして、スクリーンの端っこやカットの〆で、きっちりと笑わせてくれるのだ。本番前に緊張しすぎて壁に向かってブツブツ言ってたり、きゃしゃなダンスシューズが入らなくて格闘してたりって姿がね。
その大きな身体で懸命だから可笑しくて、でもそれが積み重なってくると、この純真な女の子がたまらなく可愛くなってくるのよー。
彼女のキャラ設定には、この心優しいお父さんの存在が大きく影響している。このお父さんだけが、フラダンサーになる子供に最初から理解のあった唯一の大人だったんだもん。

そのお父さん、落盤事故に遭ってしまう。その日、彼女たちはハワイアンセンターの宣伝のためのキャラバンツアーに出ていた。
お父さんが危篤状態と聞かされて、動揺して号泣しながらも、「躍らせてください。それを父ちゃんも望んでいると思う」と必死に訴える小百合(あ、しずちゃんね)に、もうボロボロにもらい泣き。
誰よりも純粋で、そして誰よりも強い。女優として泣かせてくる。 もー、しずちゃん、ひっぱりだこだべさ!
「父ちゃんも望んでいる」と言うだけあって、この親子は本当に判り合っているっていうのが、提示されるのはほんの少しのシーンしかないんだけど、判るんだよなあ。
だってお父さんの読みどおり、小百合はフラダンスに夢中になるんだもの。

あー、ダメだ。思いっきり話飛んでるな。いやだからね、そもそもこれは松雪さんが主演だそうなので、地元の少女たちにフラダンスを教えるために招聘された、SKDのスターだったという触れ込みの平山まどか先生の登場から、物語は本格的に回り始めるわけよ。
彼女にとってみれば信じられないほどのド田舎に、かなりヤケ酒気味で乗り込んでくる。
後に借金取りが彼女を追いかけてくるのだが、解説では、「実はまどか自身が母親の借金を背負い」となってるんだけど、そんなこと言ってたっけ?
まあ、それはともかく、彼女は自分の居場所がなくなって、この町に逃げてきた。田舎っぷりに眉をひそめながらも、自分が必要とされるという真の居場所を、段々と感じ始めるようになっていったんだろうな。

少女たちとも、最初はかなり衝突があるんだもん。早苗みたいに素直に先生を尊敬することの出来ない、少々意地っ張りな少女である紀美子は特に、なかなかまどか先生に心を開かない。
本当は、先生のソロダンスを窓から覗き見て、一番衝撃を受けていたのは紀美子だったのに。
後に、紀美子がフラガールのリーダーとなって、あの時窓から食い入るように見ていた先生のソロダンスを、ステージで披露することになるのだっ。

うーん、こう考えてみると、やはり主演は松雪さん、と言えど、彼女はどっちかっつーと、そうやって少女たちの気持ちや立場をあぶり出す、狂言回し的な価値の方が強いような。でもそれも時々、少々のほころびを見せてる。
先述の、小百合のお父さんが落盤事故に遭ったと聞かされるシーンね、それまではプロダンサーの厳しさを叩き込んでいたまどか先生が、「親の死に目にも会えないのがプロのダンサー……と今までの私なら言ったでしょうね」と彼女たちを帰そうとする場面なんか、ちょっとアレッと思うんだよね。

こんな台詞をわざわざ用意して、小百合の決意と対比させるのは、なんか陳腐だと思うんだな。
親の死に目にも会えないのがプロのダンサーだ、と本当は言いたくても、言えなくて、それを小百合自身の決心で突破するのが本当じゃないのかなあ。
このまどか先生のキャラっていうのは、松雪泰子がさすがの熱演で演じているからあんまり気づかないけど、そんな風に案外、底が浅い気がしちゃう。
事情があってこんな北国に流れてきた、というそれだけでもありがちな設定なのに、更にありがちな、思いっきりまんまな借金取りが押しかけてきたりするのも、考えてみればちょっとなあ、と思ったりもするしさ。

まっ、だから、主役は少女たちなわけよ!これってつまり、なんとか柴咲コウをメインにしようとしたセカチュウのようなもんでさ、主役はあくまでそこで闘っている少女なわけよ!
最初は四人しかいなかったフラガール、次第に父親が仕事を失った娘ッコたちがゾクゾクとつめかけてくる。
最初の説明会では「あんな風にケツ振れねえ」「ヘソ丸見えでねえか」とストリップダンサーのように思っていた彼女たち、「おっぱいは小さいけど、死ぬ気でやる」なんて言っちゃって、もう完全にストリップだとカン違いしてるあたりが(笑)。
でもそれだけに、清水の舞台から飛び降りる気持ちの、必死な少女たちがいじらしいのよね。

そんな風に少女たちが頑張っているのに、大人たちはなかなか判ってくれないんだよなあ。
そもそも、最初の裏切り者とされ、ハワイアンセンターの設立に奔走、まどか先生を招聘してダンサーを育てようとしている吉本部長(岸部一徳)は、散々矢面に立たされる。でもね彼、いつだってまどか先生や少女たちのことを気遣ってて、そんな辛さは彼女たちには絶対見せないのよね。
紀美子はまず母親とぶつかる。母親は紀美子がフラダンサーになるのは猛反対。まどか先生にも敵意むき出して食ってかかる。
彼女にとって代々男たちが闘ってきたこの炭鉱が、たった一つの誇りなのだもの。「天皇陛下までご視察にいらしたヤマだぞ」と繰り返し言っていた。
その台詞、現代の目から見ると、もうこのお山の役目が終わったことを暗に示してもいて皮肉なんだけど……。

紀美子は、なぜ自分の生き方を自分で決められないんだ、と青春期に感じるしごく真っ当なギモンを母親にぶつけて大ゲンカ、家を飛び出して稽古場で寝泊まりするようになる。
でもこの母親、心の中では次第に変化があったのかもしれない。それが確実に変わったのが見えたのが、娘の元に早苗からの小包みを届けに行き、一心不乱に躍る姿を見た時である。
この時、彼女が踊っていたのは、かつてまどか先生が踊っているのを覗き見ていた、あの激しいタヒチアンダンス。

何も言葉は交わさないんだけど、母親が来ているのを気づきながらもダンスを続行する娘と、それを見つめる母親、二人の間には何かが通じているのがハッキリと見える。
その後、センターのヤシの木を寒さから守るために、組合に必死に頭を下げていた男たちを見た母親は、町中からストーブを集めて周る。
婦人会のあんたが、裏切り者の肩を持つようなことをなぜするんだ、と猛反発の男たちに彼女は必死に、しかし凛として訴える。
「今までは、真っ黒になって、耐えて耐えて働くのが当然だと思ってた。でもこれからは笑顔でお客を楽しませる仕事が可能なのかもしれない。娘ッコたちにはそれが出来るかもしれない。その夢を潰したくない」

彼女には年の離れた兄がいて、これが豊川悦司。彼が東北弁を喋るっていうのは、実に新鮮なのね。
彼は結局、最後まで、炭鉱の男でしかいられない。でも、母親より先に大事な妹の固い決意に、少しずつ揺らいでいく兄心が絶妙である。
親、夫、子供と三世代を炭鉱の男として見送ってきた母親、頑なで保守的な彼女でさえ、娘の姿に考えを変えたのに、揺れながらもやはり最後まで炭鉱の男なんである。
お兄ちゃん、ハワイアンセンターに職を決めた同僚に、裏切り者!と殴りかかる。でも同僚のこの言葉でひるんでしまうんだ。
「食べていかなきゃなんねっぺよ!」
でもね、この言葉も、哀しいよね。男は結局、食べていくためとか、家族のためとかでしか生き方、考え方を変えられないんだってことだもの。
前途洋々の娘のみならず、この母親までも考え方を変えることが出来るのにさ。
確かに、それはとても勇気のいること。それが、強いということなのだ。

早苗がいなくなり、心のよりどころがなくなってしまった紀美子が、ちょっと先生とケンカなぞして、こっそりと家に帰ってこようとした時、兄ちゃんに見つかってしまう。兄は母親に見つからないように彼女を酒場に連れてゆく。温まるためにひと口だけ、とすすめたのにグイッと一気飲みする紀美子、コラコラ!
「お前がこうと決めた道なんだから、先生を信じてとことんまでやってみろ」
今までのお兄ちゃんなら、そんなこと、言わなかったかもしれない。
「兄ちゃん。稼いだら、なんか好きなもん買ってやろうか」
ホームシックになったのかと思いきや、そんなたくましいこと言い出す妹に兄ちゃん、苦笑い。
「女ってのは、強えな」
ホントだね!

さて、クライマックスを迎える前に、またひとくさり涙を搾り取るのが、まどか先生がセンターのオープンを前にひっそりと帰ろうとした場面である。
ホームに走りこんできた彼女たち、夜汽車に乗り込んだ先生を見つけ。「先生!先生!」口々に呼びかける。まどか先生、決まり悪げに、「カッコ悪いことしないでよ……」と向かいの席に移ってしまう。
列車に乗り込もうとする彼女たち、紀美子だけはその位置から動かない。じっと先生を見つめて……。

フラが手話の要素を持っていると教えてくれたのは、まどか先生だった。瞳に思いを込めて、フラの振りで先生に訴えかける。彼女たちも皆ならって、先生に、泣きながら……と、こっちも一緒になってだーだー泣いていたのだが……、
おいおい、先生!それを口で解説するな!こーゆー、ちょっとしたところでヤボなのよー、もう。
意味なんて、判らなくていいの。彼女たちの思いは、見てて充分伝わるんだもん。気持ちよく泣いてたのにー(とか言いつつ泣き続ける私)。
先生もひとしきり泣いて、で、列車が動き出す。えー!行っちゃうの!と思ったら、すぐに止まって、先生、降りてくる。涙でぐしゃぐしゃになりながら、「バッカじゃないの」照れ隠しにそんなこと言ってさ!
このセンセは初代のフラガールを送り出した後も、現在に至るまでこの地に残って指導し続けてるっていうんだから、こんなとこで行かれちゃ困るのだ!

で、ついに号泣のラストシーン、ハワイアンセンターオープンの日である。
もう、これは本当に圧巻と言うしかない。蒼井嬢が撮り直しを希望して、それが叶った甲斐もあった(情熱大陸でやってた)、彼女のみならずフラガール全員の感情があふれ出る、素晴らしすぎるステージ。クライマックス&ラストは、お約束の涙場面というこちらの浅はかな心構えを、軽くジャンプしてゆく!
まさにこのシーンのために、この映画があったと言っても、過言ではないよね。

圧倒的なステージダンシングもそうだけれど、ソロとして釘付けにさせる蒼井嬢のなんという素晴らしさ。いやあ……「花とアリス」で可憐なバレエを見せてくれたし、ミュージカル出身でもあるから出来るのは判っていても、想像をはるかに越えた。
そう、彼女はもともとバレエの基礎が出来てるから、最初、フラダンスを始める「全くの素人」場面では、ウッカリ柔軟な身体を見せたりは出来なかったりするのだが(バーレッスンは彼女だけ見切れてた)、全てが出来上がったこの場面ではもう、見せまくっちゃりー!だよねえ。
やはりここまでの道のりとここまでの完成度がなければ、ここまでの感動はないんだよなあ。
ここまで見せてくれちゃったら、キャラバンツアーでのちっとも見てくれない観客、っつーお約束すぎる少々の陳腐さも、もう許しちゃう。

それにしてもこの激しいタヒチアンダンスは、ホント、フラダンスのイメージが変わる。セクシーでカッコよく、フラダンスからイメージする穏やかな感じじゃなくて、情熱的。
福島の映画として非常に誇らしい。私って都合いいわ、ふるさとがいっぱいあるんだもん。まあ本当のふるさとがないってことだけど(寂しい……)でもこーゆー時は思う存分誇りにしちゃうのさ。
いやー、みんなハワイアンセンター、もとい、スパリゾートハワイアンズ、押し掛けちゃうんじゃない?★★★★☆


BLACK KISS
2005年 111分 日本 カラー
監督:手塚眞 脚本:手塚眞 森吉治予 田中浩司
撮影:白尾一博 音楽:高木完
出演:橋本麗香 川村カオリ 松岡俊介 安藤政信 奥田瑛二 草刈正雄 小島聖 あんじ オダギリジョー 岩堀せり SAWAKO 岡田真善 MiO  牧野里砂 朱里 金内喜久夫 矢島健一 光石研 榊英雄 大城英司 佐藤貢三 並樹史朗 村田充 利重剛 森下能幸 鈴木しのぶ 佐藤佐吉 辻本好二 TERU 荒井紀人 加藤隆之 田島絵里香 久保田芳之 中山夢歩 川屋せっちん MOKU WAI 植岡喜晴 本多章一 綾野剛 PETER DAVIS 長曽我部蓉子 ALASTAIR PRENTICE ANNA GAY NOELLE GAY EDWARD VEEN DENIS VINCENT BENEJIM MOFOR 鈴木一真 桐島ローランド DJ TSUYOSHI

2006/2/17/金 劇場(渋谷Q−AXシネマ)
一方でお父様の仕事を次代に伝えるための正統的な作品も残しながら、やっぱり手塚眞としての作品、っていうのはこっちなんだよねえ。そんなに作品を残しているわけじゃないけど。いや、というか、私が観てないだけか。つまり映画作品、がそれほどないってことだ。
昔、思わず大枚はたいて買っちゃった「Sph」を思い出しちゃうなあ。ま、あれは中川勝彦様を見たいがためだけに買ったんだけど。チョイしか出てなかったけどさ。美しかった……はあ。内容はよく判らんかったけど(爆)。
でもその頃も、そして今も、彼は美しくてまがまがしいものが好きなんだな、と思う。ご尊父の作品にしたって「ブラックジャック」を手がけているのは、そういう部分があるからじゃないかとも思ったりする。

しかしこれって、結局犯人特定されてないのッ!?と思わずラストカットでビックリ。つーか、安藤政信が決死の思いで突き落としたあのスパイダーマンみたいなヤツはどこ行ったの?死んだんじゃないの?ええー!?
なんて言っとらんで順番に行こう……。始まりは女の子二人の同居である。住むところのない新人モデルのアスカに、ベテランモデルの葵(小島聖)がカスミ(川村カオリ)を紹介してくれる。ついせんだって、彼女と同居していたマリが出て行ったばかりで、ルームメイトを探していたというのだ。
しかし紹介されたカスミはけんもほろろで、ついてきたアスカもマンションの玄関で追い払うんだけど、結局行くところのない彼女を入れてくれて、アスカもこのパンクなカスミをなぜか気に入ってそのまま同居を始めるんである。

川村カオリ、あれ?と思ったら、やっぱり元川村かおり、なのね。名前は知ってた。この映画出演を機に、カオリに改名したんだという。
ロシア人とのハーフという彼女自身のアイデンティティが、アメリカ人とのハーフであるパンクな姉ちゃんというここでのキャラに生かされてて……うーん、まあでも、彼女がアメリカの父親と英語で捨て台詞を叩きつけるトコは少々サムいものもあったけど……それを言ったらこの作品自体、キザなところはあるしねえ。
でも、そう、この画面のスタイリッシュなデザイン性溢れる色使いといい、マスコミ、それもモデル業界という、一般の目から見てフィクショナルな空気の濃い世界感の構築は、そうした美しく、まがまがしいものが好きな“ビジュアリスト”手塚眞の真骨頂である。
その中で行われる芸術的な殺人事件もまた、残酷であればあるほど、まがまがしい美しさが際立つ。まさに神の手で行なわれているような気さえする。

この二人の女の子の同居生活、しかも片方はカリスマ性溢れるパンクなカッコの姉ちゃん、ということでこのカスミは(何たって川村カオリなんだから)ギターをつま弾いたりもするし、なんか「NANA」な雰囲気なんだよねー。それこそ、こういう色使いのこういう世界観でNANAが映画化されてたらカッコよかったのに、と思う。イメージとしてはこっちの方が近いよなあ。

んで、アスカはカスミの部屋から殺人事件を目撃してしまうんである。腰を抜かしながら警察に通報する。駆けつけた警官たちが見たものは、それはそれは残虐な殺人現場であった。
生きながらにして解剖された遺体は、高い医療技術を持ったものによる犯行と断定された。しかもその後も次々と同じ犯人によると思われる殺人事件が頻発する。
時に剥製にされ、時にぬいぐるみに腕だけ縫いつけられ、時に恋人のベッドに足だけ放り込まれ、時に回り続けるターンテーブルの上に生首が置かれ……そしてその被害者の誰もが、カスミと何らかの関わりを持った人間たちだったのだ。

と、いうわけで、警察は彼女になにがしかの疑いをかけるんだけど、それを否定するのが、生活保護課にいた時、カスミを何度かしょっぴいた白木刑事である。彼は思い込みが激しく、上司の刑事、峰崎(奥田瑛二)にそこを見込まれてる。
この白木刑事を演じるのは松岡俊介で、これが案外、イイのだ。案外って、失礼だけど。彼は最近、気になるんだよねー。割とフツーにハンサムなんだけど、目のあたりが“思い込みが激しく”っていうヤバさがあるのがなんともスリリングなんである。
「UNLOVED」あたりから気になりだした。「愛してよ」でも彼はそういうヤバさを、強いんだか弱いんだか判らないような揺れる瞳に託してドキドキさせた。
キャリアは長いし、ずっと見ているけど、ヘタにフツーにハンサムなだけに突出してなかったけど、最近急に気になりだした役者なのだ。

で、ベテラン刑事、峰崎を演じる奥田瑛二はねー、この人はもういわずもがな。というか、元々私は彼が目当てでこの作品に足を運んだようなものだから。
ちょっとこの髪型はヘンだと思うけどねー。ビミョウな短さでビミョウな七三。今のボウズ状態の方が枯れたセクシーには似合ってる。
けど、なんか彼、すっかりあんな感じになっちゃったな。なっちゃったというか、似合ってるけど、台詞を言う前にぁあ〜みたいな、ちょっと古畑任三郎入ってる。
でもやはり、彼一人、役者としての力というか、存在感を放ってるのはさすがだよなあ。

あ、もう一人かなり存在感放ってる人がいた。これが意外に?草刈正雄。峰崎が白木刑事を派遣する、怪しげなサブカルに詳しい“紙一重”な元刑事である。
プロファイリングの達人である彼、鷹山はこの犯罪や犯人の正体よりも、そこに潜む人間の心そのものに興味があるらしく、しかも白木刑事がどこかのめり込み気味になっていることに最も興味を惹かれているようなのだ。
白木刑事は、カスミやアスカのために何とか真犯人を上げたいと思っているうちに、このまがまがしい犯罪の特異性そのものにおぼれていく。そして、この鷹山こそが犯人であると勝手に断定するんだけど、鷹山は驚いた風もなく、彼の心がそこまで追いつめられているのを冷静に、そして面白そうに見つめている。

この人、正統派の美中年なのに、だからこそマニアックな方向に行くと、その独特の間と生真面目さがあいまって、非常に面白い。もうちょっと若手でいえば、阿部寛的な面白さ。そんな彼が、没頭気味の松岡俊介とコラボするんだから、観てるこっちはホントスリリングなんである。
それは、この作品でもノリノリに演じてるオダギリジョーなんかと比べると一目瞭然っていうか。
彼はカスミのとりまきの一人で、最終的にターンテーブルに生首乗せられちゃう運命の、イッちゃってるDJをもうカッコからバリバリ入って演じてるんだけど、これが、出たー!「俺って上手いだろ」なノリのオダギリジョー!てな感じなの。この人せっかく達者な人なのに、こういうノリのキャラ演じると、(「あずみ」とか、「夢の中へ」とか、「スクラップ・ヘブン」とかさ)これが案外どれも同じ印象なんだよね。楽しそうに演じてはいるけど……。

白木刑事がそんな風に思い込んでしまったのには理由がある。それは、以前カスミにストーキングしてて、今はアスカにまとわりついているパパラッチカメラマン、タツオの写真を見たから。
アスカが最初に通報した殺人事件、その現場にカスミとアスカが呼ばれて刑事が話を聞いている、その二人の写真をタツオが写してて、その中に、後に剥製として発見されるマリ(つまり、この時点では死んでいるはず)と、鷹山の姿が映っていたから。
鷹山がこの現場にいたのは、最初からこの事件を手伝ってもらおうと峰崎が呼んでいたからなんだけど、没頭系の白木刑事なら鷹山と会って何かを探り出すんではないかと思った峰崎は、そのことを伏せて二人を引き合わせていたのだ。
カワイソウにマジメに没頭系の白木はぶんむくれるんだけど、でも被害者が全てカスミと密接に関わっていた人物であり、いまだ殺人は続いていることに今更ながら気づき、アスカが危ない、と駆け出してゆく。

そういやあさあ、この時点で気づいても良かったんだよなあ。タツオが怪しいって。いや、結局ラストシーンに至るまで彼が関わっているのかさえナゾに包まれているんだけど、“カスミと密接に関わり”“彼女に不利益を与える”という観点で行けば、タツオが標的にされていたって不思議はないんだもん。
それどころか、なぜ彼は標的にされていないの?てなぐらいである。しかも親しくなったアスカとの会話で、自分の身の上話す時にわざわざ「医大行ってたんだけど……」なんて言ってる。疑ってくれって言ってるようなもんなのに、展開上では彼は容疑者の一人にさえあがんないしさ。

“殺人現場を目撃した美人モデル”としてアスカの写真を週刊誌に売ったタツオを、彼女は毛嫌いしていたんだけど、皮肉なことにそのことで彼女は急速に仕事が入るようになり、売れっ子になってゆく。
そしてタツオはアスカだけを撮りたい、ゆくゆくは、ジャーナリストとしての写真を撮るようになりたい、とパパラッチをやめ、そんな彼にアスカも惹かれていくんだけど、彼の部屋にカスミの写真を見つけたことで彼がカスミを、そして自分をストーキングしていたことを知り、罵声を浴びせて彼の元を去ってしまうのね。

でも、部屋に帰ったアスカ、シャワールームから入り込んだスパイダーマンみたいな覆面人間に悲鳴を上げる。そこにタツオが飛び込んできて、彼女の替わりに殴られちゃう。続いて白木刑事も飛び込んできて、タツオを助けるんだけど……。
これも、アスカの信頼を取り戻してる、とも思え、あとから考えりゃ怪しいよなあ。他の人たちはあんなに残虐に殺されてるのに、タツオだけは殴られて終わりなんて。
一方カスミは、自分の周囲の人間が殺されているのが、アメリカにいる父親の差し金だと思っていた。カスミの父親は、彼女が帰ってくるように、彼女が執着する人間を消していったんだ、と彼女は言うのね。
でも、それって、カスミが父親に、尋常じゃない形で愛されてた、ってことだよね……。

でもそれが、本当なのかは判らないのだ。白木刑事はカスミの過去を調べてた。アメリカに住んでいた時、ある事件があった。カスミとソックリの女の子二人の写真。殺されたのは妹のルーシー。カスミがモデル時代使っていた芸名だった。そしてカスミの本名はキャシー。
この殺人事件についても詳細は判らないんだけど、カスミは父親におびえにも近い拒否反応を示していて……。

で、このスパイダーマンみたいな顔を見せない刺客に、今度はアスカが狙われていると悟ったカスミは、アスカから離れることで敵の目を欺こうとするんだけど、アスカはカスミを一人にさせない、と離れようとしない。
しかしアスカも、なんか突然カスミに対して傲慢にふるまったりしてワケ判らんのだけどね。自分の知らない過去があったり、彼女と同居していることで周囲からやいやい言われたりすることで、そうなっちゃったのかなあ。
まあ、彼女はおびえてもいたんだよね。昔から、偶然が恐ろしいことを引き寄せてた。そして、目撃すると不吉なことが起こるという数字の9におびえてた。子供の頃、友達からもらった人形を捨てたら、その人形も、その友達も車に轢かれて死んでしまったとか。
でもそんな偶然がもたらす恐怖も、またまやかしなのだ。殺しの芸術家、ブラックキスは、そんな人間の恐怖の心をもてあそぶ。当初関係あるだろうと思われていたブードゥー教の文様も、まやかしだった。鷹山は最初からそれを見抜いてた。彼らから見れば、仏教もまた奇妙な宗教だろうと。

しかしアスカはまたいきなり素直に反省して、大好きなカスミから離れない、と。すると刺客は当然彼女を狙ってくるわけで。
カスミはワザとアスカを殴り倒したりして敵の目をさらに欺こうとするんだけど、なかなか諦めてくれず、間一髪、助けてくれたのは、飛び込んできたタツオだった。自分の腰に命綱のロープを結び、このスパイダーマンに体当たりする形で屋上から突き飛ばす。

そうして事件は一件落着したように見えたんだけど、あの問題のラストシーンがあるわけだ。
カスミは逃げ続けてきた過去を見つめなおすため、父親に会いにアメリカに行く。それに付き添う白木刑事、なんだか二人はイイ雰囲気である。
それを見送るアスカとタツオ。一度田舎に戻ってゆっくり考える、と言うアスカに、タツオはまた戻ってこいよ、と言い、こちらもイイ雰囲気である。
でも本当のラストシーンは、モデルの一人だったはずの小島聖が、スッチーのカッコして、彼とアスカの横をすれ違う。その彼女のアップなんである。
思わせぶりに足からパーンアップしていくなんて、しかも二人とすれ違わせてなんて、決着ついてないって言ってるのと同じってことでしょ。

第一あのスパイダーマンがどうなったのか触れられてないし。姿形は自在に変えられるブラックキス、つまり彼女がそうだったってこと?それにしても、どんな人物にも化けられるだなんてルパンじゃあるまいしねえ。
そういやあ、カスミの同居人にアスカを紹介した、つまり物語の冒頭は彼女から始まったわけだし。
これって、続編とか視野に入れてるってこと?

最大の武器は恐怖、っていう惹句から、ホラー映画かと思ったけど、違ったなあ。ちょっと思わせぶりなピカレスク・ロマンといった趣。奥田瑛二、松岡俊介、草刈正雄といった役者が気を吐く中で、主人公の橋本麗香が今ひとつピンとこなくてもったいなかったような。手塚監督、なぜか彼女を好んで使うけどね。★★★☆☆


ブレイブ ストーリー
2006年 112分 日本 カラー
監督:千明孝一 脚本:大河内一楼
撮影:吉岡宏夫 音楽:JUNO REACTOR
声の出演:松たか子 大泉洋 常盤貴子 ウエンツ瑛士 今井美樹 田中好子 高橋克実 柴田理恵 石田太郎 伊東四朗 樹木希林

2006/7/14/金 劇場(有楽町サロンパスルーブル丸の内)
映像も、声のキャスティングも、色々と凄いんだけど、どことなく、なんとなくビミョウな気がするのはなんだろう?ターゲットというか、結論というか、そのあたりが。
当然、原作を語りきれているわけではないんだろうし、だから原作を読めばそんな違和感ないんだろうけど。
映像はね、そりゃ、世界に打って出られる日本のアニメだから。これを言葉を尽くして凄い凄いというのは、既に無力な作業である。
制作したフジテレビとしては、恐らくジブリに対抗する気持ちはアリアリなんだろうし。ジブリに対抗できるだけの幻想世界を持った原作に出会って、よしこれだ!と思ったんだろう。

主人公ワタルが親世代に訴える素直な少年に設定されているせいもあるけど、人気を集めるであろうキャラは、反面教師として描かれるミツルの方だよなあ。あるいは、反面教師として描かれているからこそでもある。人はアウトローに惹かれるものだもん。
しかもなぜか、主人公ワタルより繊細な筆づかいで描かれていたりする。どっちかというと単純な精神構造のワタルと比して、内面の複雑さがオモテに出ているという感じでもある。髪とかサラサラだし。
このミツルを最終的には封じ込めてしまう“運命論”の結論が、うーんと首をひねらせる原因なんである。

今回、プロの声優陣はわずかで、ほとんどを著名人で固めてる。あからさまに客寄せだけど、例えば「新選組」で感じたような聞き分けづらさ、聞き取りづらさはなく、それぞれのキャラにきちっと合ったキャスティング。
私は普段、声に気をつけて聞いていないので、え?この人こんな声だっけ?と驚いたりする。ワタルのお父さん役の高橋克実氏とか、シリアスなイメージがないせいか、後で知って、かなり驚く。あー、やっぱり役者なんだとか、失礼なことを(笑)。 今回、ちゃんと判ったのは常盤貴子くらい。彼女は判りやすかったな。

んでもって、我らが大泉大先生は、聞くたびに声優としての力量が上がっていっていることにおこがましくも、驚くんである。凄く、表情豊かだよね。ひいき目じゃなく、声優としての彼の才能に声がかかるのもうなづけるのさ。
今回のトカゲみたいなキ・キーマは、「茄子」での普遍的な魅力と、「千と千尋」の作った感じが双方進化して絡み合ったような趣。
本人が語るとおり、「自由にやらせてもらった」結果、北海道弁の「なまら」を連発したり(流行らそうとしているのか?)少々悪ノリが彼自身のパーソナリティーの方向に踏み出しそうになりつつギリギリで踏みとどまり、この愛すべき相棒に命を吹き込むことに成功してる。
実際、これだけ個性的なキャラがバンバン出てきて、このキ・キーマは出ずっぱりでもないし見せ場が多いというわけではないのに、凄く印象に残るよね。

でもそれ以上に感心したのは主人公、ワタルを演じたさすがの松たか子の上手さなんである。さすが、舞台の人だよなあ。大人の女の声を微塵も感じさせず、純粋な少年そのもの。
声優ではない役者さんがアニメの声を当てる時、キャラの過剰なまでの豊かな表情に声がついていけず、違和感を感じることがあったりするんだけど、そんなことを感じることもなく、彼女は完璧である。
で、そのワタルの影ともいえるキャラ、ミツルを演じるウエンツ君。そんなに声を作ってないと思うけど、ウエンツ君自身のイメージとは違う暗い美少年が、そのギャップもあって萌え萌え。ミツルはホント、惹かれるキャラだよね。ファンクラブ作りたくなっちゃう。
ミツルも、以前はワタルと同じ、純粋な少年だった。回想シーンで出てくる昔のミツルが、ワタルみたいな単純な髪質であんなサラサラしてないあたり、ワタルの単純さをここでも示しているみたいでちょっとワロタけど、観客はもちろん、ワタル自身も彼をほっておけない心惹かれる美少年というキャラには、当然、意味があるわけで。

で、まあこの辺でストーリーをざっと追ってみますと、主人公ワタルはごく普通の小学生だったわけね。でもある日、友達と幽霊ビルの探索に出かけたら、空に浮かぶドアが目の前に現われたのだった。
そして、ミツルという謎の転校生の存在。暗い影を宿している彼が、この不思議な現象のカギらしい。
コワい上級生たちにも怖じ気づかず、凛としているミツルにワタルは憧れる。
そんな中、ワタルの家庭に思いもよらぬ不幸が襲ってくる。父親が外に女を作り、この家を出て行くというんである。その心労で母親が倒れてしまう。幸福だった家族があっというまにガラガラと崩れてゆく。

そのことをミツルに訴えると彼は言う。「会いたい時に会えるだけ幸せじゃないか」と。
どうやらミツルにはワタル以上に想像を絶する過去があるらしい。そしてその運命を変えるために、あの扉の向こうに行くんだという。
勇気があるのなら、運命を変えたいのなら、あの扉の向こうに行けばいい。
ワタルもまた決心して、扉の向こうの世界、「幻界」に飛び込むんである。

で、まあ、この世界と、ワタルが遭遇する様々な冒険譚は解説の「砂漠に群れをなすねじオオカミ、空を翔るファイアドラゴン、幻想的な技を繰り出すサーカス団、濡れ衣を着せられての逮捕、巨大なモンスターの出現、そしてイリュージョンの罠……驚きの連続と、胸躍る出会い、次から次へと降りかかるスリルとバトル。願いを叶えるために手に入れるべき宝玉は5つ」で端的に語られるぐらいなもんで。
願いをかなえるというより、運命を変えるためといった方が正しい。で、宝玉を手に入れなければ運命の女神に会えないし、運命を変えるためには直接頼み込むしかないのである。

ワタルは勇気も体力もイマイチの、見習い勇者と判定された。でも一足先にこの世界に足を踏み入れたミツルは、強大な力を持つ魔導士としてワタルの一歩先を行き、ビジョンと呼ばれる世界を壊してゆくんである。
で、トカゲのような容姿のキ・キーマと猫みたいなミーナが、ミツルと行動を共にする。ハイランダーと呼ばれる正義の戦士たちも、ミツルの潜在能力と正義を信じる素直な心根を見込んで、行く先々で彼を助けてくれる。
そしてワタルは、宝玉を手に入れるために世界を壊すことも厭わないミツルと、敵対していくことになるんである……。

ワタルの体験する「扉の向こうの世界」っていうのは、大人に話せば、ただ夢を見たんだと片づけられるファンタジー。それこそ「千と千尋」もそうだし、ファンタジー世界へいざなう入り口としては王道だ。
異世界へ誘うのが謎の転校生ってあたりは、筒井康隆っぽかったりして。その地域でずっと生まれ育ってきた子供にとっては、数少ない、異世界からのアクセスが転校生。
本当は転入生なんだけどね。転校っていう方が、その本人自身が感じてる疎外感を強調してて、よりエイリアン(宇宙人じゃないよ)っぽい。

この転校生、ミツルが変えたい運命とは何か。ワタルの家庭の事情を聞いても、会いたい時に会えるならいいじゃん、と言ったその過酷な運命。それは、お父さんが、お母さんとその浮気相手を殺し、自らも自殺したという過去。
最悪の状況だ。親を理解したり許したりする以前に、責めることさえ出来ない。
親は自身が道を踏み外した時、子供から責められる義務を負う。でもそこから親は逃げて、無力な子供を運命論で縛りつけた。
と、思ってしまうから、この結論づけに疑問を感じてしまうのかもしれない。

あ、ちょっと結論を急いじゃうんだけど……ワタルは運命の女神と対峙することが出来たのに、自分の運命を変えることよりも、この世界を救うことを選んだのよね。
で、その前に、最後の宝玉を目の前にしたミツルは、自らの影に打ち勝つことが出来ず、果ててしまっている。
ワタルの選択は、ミツルのそれを否定することである。クールに見えるミツルの方が、子供らしい欲望を貫いていたのだ。家族を取り戻す。そのためならなんでもする。それが間違っていると、誰が彼に言えるの。
それがね、少々説教くさいというか、宗教くさいように感じちゃったんだよね。罪を憎んで人を憎まず、みたいな。その思想は貴いと思う。それが私も理想だと常々思ってる。でもここではちょっと違うと思うんだ。
子供は子供のリクツで苦しみ、主張する権利があると思うからさあ……。

運命からは逃れられない。それを受け止めて、未来を自分の手で切り開く。そうワタルは言った。
でもよーく考えてみると、ヘンなんだよね、これも。だって運命論で言うんなら、運命は生まれてから死ぬまで全部決まってるんだもん。ここまでが決まってて、ここからは自分の手で作れるってわけじゃない。
だから、逆に言えばこの結論って、大人が子供を納得させるために都合がいい論理。だからなんだか、釈然としなかったんだ。
つまり、大人が子供を養育している期間は、大人の言うとおりにせいと。それが運命だと。その後はお前が切り開けと。そこには未来だけがある、だなんてさ。都合よすぎるもん。

途中差し挟まれるワタルの父親の、大人としての本性が恐ろしい。
ずっと家族のために、自分を殺して生きてきた。なぜ自分のために生きてはいけないんだと、ワタルにキバを向く。
化けの皮をはがしたのは、「子供を苦しめるなら、僕は大人になんかなりたくない」というワタルの台詞だった。
これってさ……子供の矛盾なきワガママこそが大人を苦しめているんだという自己弁護に感じて、それこそが今の大人の愚かな本性ってことなんだけど、ちょっと寒くなる。

「お前は何をしに幻界に来たんだ?ヴィジョンのヤツらと仲良くなるためか?」このミツルの台詞こそが、ストレートにそのものなんだよね。
運命に苦しんだ人間が他人の優しさによって更生する、ってそりゃ大人が子供に示したい道だろうけど、そんなカンタンなもんじゃないと、大人自身が判ってる。
だってこんな風に、大人は子供を思うようにしたいんだもん。
だからこそ、ミツルの苦しみが染みるわけなんだけど。そして死んだはずの彼が生まれ変わって、まっさらの状態でワタルの目の前に現われるラストに、感動するわけだけど。

多分そのあたりを、原作は納得いくまでじっくり書いているんだとは思うのだが。エンタメは難しい。
でも、エンタメ故の描写……アニメならではの冒険世界に尺を割かざるを得なかったせいも、やっぱりあるのかなあ。決められた尺に対するバランスが難しいってことかなあ。
そもそもね、ワタルが宝玉をひとつひとつ集めていく過程が、判りづらいんだよね。
思うままに向かった先で、いつの間にか剣にはめられているような都合のよさ。んでもって、いつの間にかパワーアップしているようなさ。
ま、それはワタルの素直な心が呼び寄せる仲間の力によって、てことではあるんだけど。

ミツルに惚れ込む猫のミーナや、ミツルに口説かれる公女様はちょっと惹かれる可愛らしいキャラ。子供向けに見えながら、ロリ趣味アリ?★★★☆☆


ブレス・レス
2005年 112分 日本 カラー
監督:渡辺寿 脚本:渡辺寿
撮影:三好和宏 音楽:上田薫
出演:筒井道隆 清水美那 遠藤憲一 高橋理奈 忍成修吾 本田博太郎 不破万作 夏八木勲 忍足亜希子 金久美子 菜葉菜 内山怜也 小倉一郎 中村育ニ

2006/5/12/金 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
なんか前半、話が判りづらい上に、原作(未読だけど)にはない追加キャラとそのエピソードの意味するところが不明で、うーん、うーん……と首を傾げているうちに終わってしまった。
前半の判りづらさは、盗難に遭ったヒロインがなぜ被害届を出さなかったのか、ということなんだけど、結局は明かされることなんだからこんな中盤まで引っぱらなければ、悩む頭を引きずったまま、つまりは集中できないまま観なくてすんだのになあ……なんてウラミごとを言いたくなってしまう、のは、まあ単に私のアタマが悪いからなんだけどね。
というか、ホントに、つまりはどういう話ってわけなんだろう。どこに照準を絞ればいいんだろう。惹句はオトナの青春物語?うーん……ホレた相手にしつこくつきまとって、不倫して、押し入って殺人して、ブルースハープ吹いて?どこらへんがそうなんだろう……。

ただ、筒井道隆&本田博太郎の親子は、とっても魅力的だった。それは良かった。二人の上手さや本田博太郎の、まあこの人は元々独特なものを持ってる人だけど、それにしてもこのキャラは思いがけずしかしピッタリの、なんか奇妙な感じが凄く魅力的なのね。そしてどこかヒネッてるというか、二人ともヒネクレ者同士の会話が、なんともシャレてて面白いの。それはこの二人がその洒落た会話をこなす上手さがあるからなんだけど。
本田博太郎は、作家という設定なのかなあ。息子は勝手にこの親父さんのことを女好きとか言ってるけど、案外ストイックなんじゃないかと思わせる。ムダにおしゃべりなあたりとかはソックリだけど、親父さんの言うことの方が、なんか深いような気がするんだなあ……。
まあ大半は忘れたけど、「お前の父親なんだから、素直なわけがないだろう」とか、「お前のDNAの半分はオレのものだ。だからオレの所有物だ」なんて言い草は、親子の絆を端的に表現してるし、それを言う本田博太郎の口調が実に秀逸だったのよね。

で、その息子である筒井道隆が主人公なんだけど、冒頭、おまわりさんだった彼が念願の刑事になるというので、勤めていた収監所の前で囚人相手にブルースバンド演奏をし、「オレに手錠をかけさせるなよ!」などと咆哮するシーンから始まるんである。
……うーん、微妙にサムいなと思いつつ、まあでも、サムイなどと思ったのはこの冒頭シーンぐらいだったけど、コンナ具合でこの主人公、橘はとにかく始終くっちゃべっている男。そして独身寮に入っていて、ベテラン刑事の下田(不破万作)、交番勤務の巡査で大学の二部学生である中野(忍成修吾)と共に暮らしているんである。

もう、忘れないうちに書いちゃうけど、この中野というのが原作にはないんだというキャラである。で、彼が私、一番解せなかったのね。忍成君は難しい役に対してすっごく意欲的だし、頑張ってるのはとっても伝わるんだけど、このキャラやその行動がこの劇中で咀嚼されているとは、私にはどうしても思えなかったのだ。
彼は街中でいつも見ていた女の子がいるのね。何度かあとをつけて家を突き止め、おまわりさんの訪問だと言って部屋の中に入り、彼女を殺してしまう。部屋の中で何が起こって、彼を凶行に駆り立てたのかは示されない。
これは、1978年に実際に都内で起きた事件に基づいているんだという。監督は、「今の時代に通じるような、とても不可解な事件」だと言い、「当人にも答えが判らないことが多いのではないかと思うんですよ。人間には狂気の部分が誰にでもあって、ふとしたきっかけでそれが火花を散らしてしまうのかもしれない」と語っている。

言っていることは判るけど、“当人にも答えが判らない”ことをそのままスクリーンに丸投げされてしまうと、困っちゃうんだもん。じゃあ、“ふとしたきっかけ”って何よ?とか。その場合、それこそが重要なんじゃないのとか。たとえ推測でもいいから、彼がどういう精神状態でそういう事件を起こしたのか描かなければ、映画に組み込む意味があるとは思えないんだよね。つまり、監督がどう思っているのかを。こんな事件があった、現代にもありそうで不可解だよねで終わられちゃ、そうですねとしか言えない。新聞記事読み流してるのと一緒じゃない?

その場しのぎの言い繕いをしている中野のウソを真っ先に見破った橘は、「お前、自首しろ。第一発見者を疑えっていうのが鉄則だろ」と諭す。そんな橘には抵抗していた中野だけれど、しかしやはり捕らえられ、留置所に入れられてしまう。
訪ねた橘に、「オレ、どうしてこんなことやっちゃったんでしょうね」とうなだれる中野。この台詞はね、先述の理由で、そんなことカンタンにこっちに投げかけられても困るよ、って感じしか持てない。つーか、そんなん、知るか!ってのが正直なところだもの。あんたが判んないのにこっちが判るわけないし、判んないで済ましてほしくもないじゃない。

コーヒーを淹れるのにこだわりがあった中野に、橘も下田もコーヒーを差し入れる。
「お前の淹れるコーヒーには遠く及ばないけどな」というのは、橘も下田も同じ台詞を繰り返している。小説ならいいけど、映画だと二度続くとちょっとクドい。
これは、橘と恵美子でも、しかも時間と空間を隔ててこの繰り返しがあるんである。二回はクドいし、しかもその台詞がね、芥川龍之介の著作のことで、「龍之介の「仙人」知ってますか。芥川龍之介」って言うのよ。芥川龍之介は、まず「芥川」って言うんじゃないのお?まず龍之介、とは言わないと思うけどな。「うる星やつら」じゃないんだから。しかも二人の人物ともが、時空を隔ててだなんて、ありえなさすぎるよ。ちょっと、こういうあたりにゲンメツしちゃうんだよなあ。

ま、ちょっと話が飛んじゃったので軌道修正。
中野が、つけまわしてた彼女のことを好きだと思っている感情さえ、あまりこちらには伝わらないのだ。正直、ただ見てるだけって感じにしか映らないのも厳しい。
その点では、恵美子に対する橘のラブラブ攻撃はうっとうしいぐらい判りやすい。
そもそも、彼らが張ってた強盗犯人と思われる青年の出したゴミの中から、彼女の名刺が出てきたことがコトの発端だった。彼女はハンドバッグごと盗難に遭っている。なのにそのことを警察に届け出ていない。その理由を、彼女は大したものが入ってなかったし、みたいにウヤムヤにごまかすんだけれど、どうも釈然としないんである。
なぜ盗難届けを出さなかったかというのが後に明かされるところによると、彼女が警察官の、それも本署のエリートと不倫関係にあったからだという。それが理由になるのがなぜなのか今ひとつピンとこないけど……アドレス帳に彼の連絡先とかがあったからかなあ。

というか、このヒロインがヒロインとしての力に弱いのが大問題なんだよなあ。強い印象を、与えてくれない。思いっきりワキ役の、恵美子が求人を見て面接で対決する、ろうあの女性の忍足さんの方がずっと強い存在感だったりするのは、ちょっと問題である。
そう、忍足さんはこのシーンだけの出演だったのに、とても強い印象を与えるのね。恵美子は当然手話など出来ないから彼女と筆談で会話するんだけど、普段手話で会話している時も、その表情や視線の強さも交えて言葉を補っているろうあ者の、そして女優である忍足さんの存在感はピカイチで、圧倒的に彼女がリードしてるわけ。ヒロイン、完全に負けてるのよ。
ここはシーンとしてはだからスリリングでとても面白いんだけど、筋書きとして恵美子の熱意に負ける、っていうのには、説得力が薄いんだよなあ。

そもそも恵美子がなぜ元の仕事を辞めようと思ったかっていうと……多分待遇的には元の仕事の方が良さそうな感じだったんだよね。いかにもハイレベルな、繊細なマンションの図面とか引いちゃって。残業していた彼女、戻ってきた先輩に、自分の描いた抽象画を見せる。こういうのがやりたいんだ……と先輩はしばし沈黙する。彼女の絵に対していいとか悪いとか、オリジナリティを認めるとかいう発言はしない。
どうもよく判らないのはこのあたりもそうで、恵美子はこの職場の単調さにゲンメツしたのか、自分の絵の才能のなさにゲンメツしたのか、判んないんだよね。面接で、私は絵描きじゃない、と再三強調していたから絵のことは諦めたのかなと思うけど、なら前の職場を辞める理由が、明快に伝わらないんだよなあ。

だって、彼女は自分の絵のことがあるから、その仕事に無為を感じてたわけでしょ。自分は絵描きじゃないというスタンスに立ってしまったら、仕事を変える理由にはならないんじゃないの?
まあ、そこんところは、絵も含めて、そして不倫という不毛な関係を全て清算する意味で、何もかもを変えたかったんだろうけど、前半のナゾをずっとひきずっているせいか、どうもそのあたりが判りづらいんだよなあ。
でも、彼女の不倫相手となるエンケンは、そのスタイルのいいセクシーさが全面に発揮されてて、やけにステキだった。顔だけ見てるとビミョーなんだけど(!)彼の手足の長いスタイルの良さを全身で収めると、なんともいえず色っぽい人なのよね。彼女を抱き寄せるだけで、やったらセクシーなのさ!ああッ!ドキドキするーっ!

で、橘は、恵美子に恋をしてしまい、職務を離れたところでストーカー行為に近いほどに、彼女に迫りまくる。
まずは、電車の中で口説きまくる。イヤがって次々席を移っていく彼女を執拗に追いかける。もうこの時点で迷惑条例で捕まりそうな勢いである。
その次は、恵美子がエンケン演じる服部との、ちょっとこじゃれた居酒屋デートに、離れた場所から聞き耳をたて、ガマンしきれずに乗り込んでくる。これはいくらなんでも犯罪スレスレである。
しかし、このデートつーのもね、まあ単に私の好き嫌いだけど、区切られたプチ個室にこもって、男性の方がこれおいしいよとか言って料理を切り分けたりするのって、なんか生理的にダメなのよね。鳥肌が立っちゃう。

ちなみに、恵美子は携帯電話を持っていない。
最初に刑事たちから話を聞かれた時、携帯を持ってなきゃいけないですか、とかみついた彼女、「まるでケイタイメール教ですね。電車の中でもみんなメール画面を見つめて」と言うのは、実際携帯を持ってない私としては、案外共感できるんである。
しかも劇中、ケイタイメールをやりながら歩いていた女の子が張り込み中の車の後ろにどん、とぶつかる描写があったりして、なんかそれ、あまりに無防備でゾンビみたいで結構コワイし。
演じる清水美那嬢は、ケイタイメール教という言葉を言いたくなかったらしいけどね。

そんでね、恵美子は服部の前から姿を消すわけ。
もともと、引っ越しを勧められてはいた。不倫の関係がバレないようにするために、これまでも何度か引っ越したことがあるらしいのだ。
それに応じて引っ越したような形だったけど……、彼に知らせたのはニセの住所で、携帯も持っていない彼女に、服部は連絡がとれなくなるのだ。
あのデートの時、引っ越しをうながされた彼女はこんなうらみごとを言った。
「いっそ、23区を出る?……ゴメン。私だんだんヤな女になる」
それに対して、彼は何を言うことも出来なかった。それが決定打だったのかもしれない。
人一人の前から姿を消すことは、こんな情報網の発達した、狭い東京でさえカンタンなのだ。
みんなが頼り切っている携帯がないだけで、容易に行方がくらませる。
彼女が彼に連絡をとるのは、いつも公衆電話だったから。
服部は橘に会って彼女の残した手紙のことを言う。「22回ありがとうって書いてあるんだ。22回だぞ」

この22回っていうのは、恵美子の会った性同一性障害の女の子(体は男の子)とのエピソードが元になっている。
自分のことを家族に、特に父親に認めてもらえなくて、家を飛び出してきた彼女と恵美子は出会い、公園で語り合い、突然降ってきた雨でシャンプーしたりする(この描写はなんかちょっとワザとらしい……)。
この子を家に送り届ける時、父親になんて言えばいいのか怯える彼女に、「22回、ただいまって言えばいいんだよ」と恵美子が言う。その前に、この子が22回、この父親に何か言ったか言われたかっていうことがあったんだけど、ごめん、忘れた。
しかし、このエピソードの挿入も微妙なのよね。「22回」は効いてるし、この女の子のキャラも魅力的だけど、それがこの物語やヒロインにそれほど影響を与えてるのかなあ……みたいな。

なんか、なにげにキャラが盛沢山で、それがどこか散漫な印象を与えている気がする。橘に妹が訪ねてくるエピソードなんかもあるし。この妹役は菜葉菜。あいかわらず年齢不肖なあやうい色香をふりまいて、ここでもお兄ちゃん相手に近親相姦スレスレの、エレベーターで突然熱烈に抱きつく、なんていうエッチな場面を繰り広げてくれるんである。
離婚した母親の方に引き取られた妹で、多分あまり会う機会のない妹であるから、なんか生々しいんである。
彼女が訪ねてきたのは、父親から誕生日プレゼントをもらったかららしい。そのことを、息子である彼に父親は一言も言わなかった。
それをね、こんな会話で言うわけ。「20年前、あんたに娘が産まれたのを覚えているか?何か送ったのか」「バレたか。女に贈るものをお前に相談してもな」

その時、橘は、(多分)失恋していた。
私の目からは、下田先輩(不破さんね)が射止めた、先輩刑事の裕子(高橋理奈)の方にこそ気があったんじゃないかと思ってたからさ。
二人の結婚式の後、橘は父親の元に転がり込んで、クダを巻いているうちに泣き出して、「こんなところで目ん玉洗うな。迷惑だ」と父親に言われる。この言い草も秀逸だね!
下田先輩は、知らない間にこの署内のマドンナを落として、しかも、「子供が出来たらワゴンだろ」って、出来ちゃった結婚かよ!
先輩から結婚して寮を出るということを聞かされた橘は、まさか相手が署のマドンナだとは思わないから、「よく覚悟決めましたね……いや、先輩のお相手が」などと軽口を叩いてたんだけど、その相手を知って、んな具合に絶句するわけね。

ラストは、おしゃべりな刑事さんである橘が、でも、本当に大事なことは言葉では伝わらないという前提をことわりつつ、でも今思っていることを言わなきゃいけないという立場に立ち、更に、「真摯に己を見つめる人は、年を重ねるほど判らないことが増えるのに気づくはずだ」と哲学的な言葉を披露する。
んでもって、得意のブルースハープでストリートのジャズサックス奏者とセッションをかまして終わる。
なんとなく、どことなく、収まりのつかない気分な気がするんだなあ……どうにも。★★★☆☆


ブロークバック・マウンテンBROKEBACK MOUNTAIN
2005年 134分 アメリカ カラー
監督:アン・リー 脚本:ラリー・マクマートリー/ダイアナ・オサナ
撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:ヒース・レジャー/ジェイク・ギレンホール/ミシェル・ウィリアムズ/ランディ・クエイド/ヴァレリー・プランチェ/デヴィッド・トリンブル/ビクター・レイス/ラクラン・マッキントッシュ/ミシェル・ウィリアムズ

2006/3/14/火 劇場(渋谷シネマライズ)
もう、もう本当にドキドキしたー!こんなドキドキするキスシーンは久しぶり……いや今まで観た様々な名キスシーンを思い返しても、こんなに心臓バクバクするほどドキドキしたキスシーンはなかった。きっとナンバーワンのドキドキだ。うわー、うわー、と心の中で叫びながら、胸を抑えて、見てた。
四年ぶりに二人が再会するそのキスシーンから、事態は大きく変わり始めた。二人がお互いの気持ちが判った瞬間、そして二人だけの問題だったはずが、周囲の人を大きく巻き込む瞬間でもあった。
あの保守的なアカデミー賞で、最多のノミネート、そして制覇はできなくても、監督賞を取れたのはすごい!しかもアジア人初でしょ!やられた、アン・リー!
しかしそれを最初に成し遂げるとしたら、やはり彼だよね。彼はハリウッドに行っても、ちっとも変わらなかった。彼の思いをスクリーンにきちんと焼きつけてきたのだ。その当然の結果だ。

二人が出会ったのは、まだ青年の頃。ある期間だけのアルバイト的な仕事。ブロークバックマウンテンに羊を引き連れてゆき、宿営地と行き来しながら羊の面倒を見る。
コヨーテなどに襲われないよう、昼夜見張りながら。宿営地と羊たちを放牧しているところまでの距離はあるし、熊も出るし、食料はありきたりのカンヅメなんかだし、結構キツい仕事だ。
ひとなつっこそうなジャックと、なんとなくガードしている感じのイニス。でも、イニスのそのガードは、世間とかそういうものに対して向けられているもので(今にして思えば)、この二人きりの山肌では、ジャックの無邪気さにその垣根が取り払われてしまった。

でもね、私、二人がどうやって恋に落ちるのかと思ってたの。だってこの時点では、二人とも同性愛者じゃないような感じがしたんだもん。どうなのかなあ、そのあたりは。同性愛を扱う映画だと、BBSなんかではもっぱら同性愛者、異性愛者としての視点からの意見になってたけど……。
二人ともその後にはきちんと家庭を持つ、つまり女性とつき合える性の志向を持ってたわけだし。
ただ、ジャックの方は、最初からゲイの志向はあったようには思うけれど。関係の始まり、“行為”の誘い水を仕掛けたのは彼だし、イニスと別れて、彼と会えない寂しさを紛らすために男娼を買ったりするから。
でもイニスの方は、最初から婚約者も決まっていたし、わりと女に揺れるし、基本的に異性愛者じゃないかと思われるふしもある……それともブロークバックマウンテン以外では、彼は社会から身を守るために自分自身を否定していた、のだろうか。

で、そうなの。どうやって恋に落ちる、どころか、いきなり行為からなんだもんなー!ちょっと、ドギモを抜かれる。
ちょっとした誘い水に反応して、イニスはいきなりジャックに突っ込んだ。この山奥で、女っ気がなく、でも二人ともまだまっさかりの青年二人で、もうこうなるしかないみたいな雰囲気だった。だから忘れようとした。欲望を満たすだけだったのだと。
でもその翌日、今度は優しげにキスから入ってしまったんだよね。ああ、このキスシーンも良かったなあ。ごめん、という感じでイニスの唇を求めるジャックに、躊躇しながらも引き寄せられてしまうイニス。もうこれで感情が入ってしまった。同じ年頃、似たような境遇。親友と恋人の気持ちを兼ねられる、生涯でそう出会うチャンスもないであろう運命の相手。

どちらも全然女っぽいところがないのだ。二人ともとても男くさいカウボーイ。メイクラブのシーンでさえ、どちらも男としてぶつかる。時には激しく、時には相手を慈しむように。
これは新鮮だった。今までならどちらかが女性っぽさを持ったキャラだったり(ぶっちゃけネコとタチが分かれてる、みたいな)、あるいは萩尾望都的な美少年のカップルだったりしたもんだけど、でもここでは、そういうなんか、いさぎよさっていうか、生身の男同士でぶつかり合ってるから、感情のぶつけあいが、魂を揺さぶられて、胸が熱くなっちゃうの。

イニスが基本的には異性愛者だったのか、それとも世間に対して、そして自分にもひたすら同性愛者だということを隠し通して生きていたのかは判らないけど、男の恋人はあとにも先にもジャックだけだった。それだけ本当に運命の相手だった。性的志向を超えた、生涯たった一人の相手。
それが重要なんだ。ゲイかストレートかという部分で論じてしまったら、違うところに行ってしまうような気がする。それを重要な問題として提示した作品は他にある。この作品にそれを課するのは、違うんじゃないかと思う。
運命の相手をあえて同性同士にする意味は、別のところにあるんじゃないかって、思うんだ。最初からそうした志向があるなら、対処の仕方とか考えるところがあるだろう。でも運命の相手、であるだけだ。それが同性だっただけ。そういう状態で世間に対峙した時、人はどうなるのか。

その点、ジャックは基本、同性愛者という感じはやはりある。だから、ジャックからは同性愛の立場の、イニスからは、異性愛者の基本で男性を愛してしまった立場のという、この絶妙なバランスで描いていくのが、上手い。
むしろ、ジャックは、男だ女だ、異性愛、同性愛、ということを意識せずに人に接していたと思う。
彼の妻に対しても、ちゃんと愛していたと思う。イニスは運命の、別格の相手だから別にしても。
イニスは、凄く気にしていたんだ。その違いを。誰かを愛するという以前に。
それは小さな頃の、あのトラウマがあったからだとも思うけど。

イニスが少年の頃、男同士で暮らしていたカウボーイがいた。周囲の好奇と嘲笑の視線にも負けなかった。
でもそのうちの片方が殺されてしまう。しかも殺したのはイニスの父親だった。見せしめとして、ペニスをつぶされた残酷な遺体を見せに、父親はイニスたち兄弟を連れて行った。彼の父親にとって、同性愛者は忌むべき存在。いやもっと下だったかもしれない。生きているのも汚らわしい、ような。だから躊躇なんてなかった。子供たちに、お前たちも判っとけよ、みたいにわざわざそれを見せた。
心の中に同性愛の気持ちを持っていたかもしれない少年のイニスにとって、その衝撃は計り知れない。もしかしてこの“事件”で彼の心の奥にそんな志向はしまわれてしまったのかもしれない、とも思う。

だから、運命の相手、ジャックに出会っても、ブロークバックマウンテンの仕事が終わって別れる時、もうこれで終わりだと、来年の仕事には行かないし、婚約者と結婚して普通の生活を送るんだと彼は心に決めてしまう。どんなに夢見たって、ジャックとの生活になど踏み切れない。人生には、仕方なく諦めるべき部分があるのだと思っている。
でも、ジャックと別れて彼の車を見送った後、イニスは路肩にひざまずいて号泣するのだ。胸を衝かれた。そんなに彼を愛しているのに。胸も張り裂けるほどなのに。
でも、この仕事が最初の予定より早く切り上げられたことで、恐らく二人は気づいてた。雇い主のアギーレが二人の関係に気づいたこと。
そのことを、イニスは、きっとジャック以上に恐れていたんだ。

二人の再会は四年後。お互いに結婚し、子供も出来て、イニスの元に突然ジャックから、会いに来る、と手紙が来る。
そう、あの鮮烈な再会シーンである。私はね、もう本当に、あのキスが数日間頭から離れなかった。思い出すたびに、呼吸困難に陥りそうなぐらい、ドキドキした。
ジャックが来るという日、イニスは朝からビールをがぶがぶ飲んで、来るかどうかも判らないけどな、なんてうそぶいてた。あのハガキがきた時から心の震えが止まらなかったのに。どこか怖かったんだ。自分でその気持ちを否定していたし、ジャックはただの友達として会いに来る、あの時のことなど忘れて、ただ懐かしい旧友に会いたいだけに来るんだ、なんて考えたりして。

でもジャックの車が止まる音が聞こえて、弾かれたように椅子から立ち上がるイニス。階段の上からジャックを見下ろしたイニスは、どうしようか、一瞬だけ迷って、友達なんだからと思い直したかのように、笑顔で降りていって、抱き合った……その瞬間、もう理性がすっとんじゃった。
お互いが同じ思いでいたことを、その強い抱擁で判っちゃったんだもん。もうあとは、お互いにつかみかからんごとくキス、キス、いくら奪い合っても止まらない。ああ、もう……あんなに感情のほとばしるキスシーンがあるなんて。胸の動悸が収まらない。
あまりにも夢中だった二人だから、陰に隠れることさえ、忘れてた。だからイニスの奥さん、アルマがそれを窓から見てしまったことも、知らなかった。おいおい、もうバレちゃうのかよ!二人とも我を忘れすぎだよ!なんか微笑ましいけど……。

なんかそれ以降、アルマはただただかわいそうなんだよね……。
うーん、でも、どうなのかなあ。彼女はその時見てしまったことを、結局ダンナにぶつけることは出来なかった。イニスがジャックと再会してからは、夫婦関係が悪化の一途をたどり、離婚してしまう。そして彼女に新しい恋人が出来てから、腹立ちまぎれにその思いをやっとぶつけてきた。
イニスの方はさらにひどくて、ジャックとの関係はそりゃ言えないけれども、それ以降、奥さんに対してはあからさまに冷たくなっちゃうんだもん。結局、彼は最悪の形になってしまった。ジャックへの思いを優先して、奥さんをどんどんないがしろにしてしまった。俺の子を産めないならお前を抱かない、とまで言った。うっ……サイアク。

でも、離婚はジャックと暮らすためではなかった。奥さんがイニスと一緒にいるのが耐えられなかったためで、親権も奥さんにとられてしまったし。
イニスが離婚したという報を聞いて、ジャックは喜びいさんで飛んでくる。彼はイニスがそのために離婚したと思ってた。でもその時イニスは娘二人を連れていた。その日は一ヶ月に一度の面会日。ジャックとはそれ以上に会えない……せいぜいニ、三ヶ月に一度の逢瀬なのに、娘との時間をイニスは優先したのだ。
判ってくれというイニスに無言でうなづき、彼は来た時の喜びからどん底に突き落とされて、引き返す。涙を流しながらハンドルを握る。多分彼にとってはイニスが一番。でもイニスは離婚しても、家族を、いや社会の視線を優先するのだ。

ジャックにも家庭生活はあったけど、資産家の娘をヨメにしたから、後継ぎの息子が産まれてしまえば、この子は家のもの、みたいにとられて、ジャックはもはやクズ扱いだった。ヨメさんもそんなジャックの置かれた立場に、時々は眉をひそめるものの、特に強く異議を挟むわけでもなかった。お嬢さんだから、仕方なかったのかもしれない。イニスとの関係も、まるで疑わなかった。
だからイニスが決断してくれさえすれば、彼はこの家族を捨てる覚悟だったのだ。でもイニスは離婚しても、家族を優先した。しかもその後も、養育費を稼ぐことを理由に、ジャックと会える回数は、相変わらず少ないのだ。

その数少ない逢瀬、次に会えるのは11月だ、とイニスはジャックに言った。養育費を稼ぐための仕事がたてこんで、半年以上も会えなくなる。
ジャックはさすがにキレてしまう。そしてこんなことをブチまけてしまう。俺は寂しさを紛らすためにメキシコに行った、と。それを聞いた途端、イニスは逆上する。ジャックに掴みかかり、何をしていたかは言うな。聞いたらオレはお前を殺す。本気だ、と。
そんなに嫉妬するぐらいなら、どうしてジャックをつかまえておけないの。いや判ってる。イニスだって苦しんでるんだけど、だけど……。
お前のいない渇きを癒して、なぜ責められるんだとジャックはひるまず、まるで挑発するように言う。と、それを聞いてイニスは殴りかかるも……泣き崩れるのだ。
バカ、イニスはバカだよっ!ジャックをつかまえておけばいい。ただそれだけなのに、なんで、なんで……。
そんなイニスを、暴れて抵抗する彼を、悪かったと、愛してると、抱きしめるジャック。こんな切なさって、あるだろうか……。

ジャックの方は、ホント違ってたんだよね。それは彼が突然死んでしまったことで明らかになることなんだけど……そう、突然、死んでしまうのだ。いつものように彼に会おうと出したハガキが、死亡、のハンコを押されて戻ってきたもんだから、驚いて電話をかけるイニス。電話さえ、かけたことがなかった。関係が表に出るのを、彼はとにかく恐れていたから。
電話に出た奥さんは、ああ、釣り仲間の方ね、と。ジャックが車の整備中に突然爆発したタイヤによって死んでしまったことを告げる。
あまりのことに、言葉も出ないイニス。
奥さんは、遺灰は、私のところと彼の両親とで分配した、と言う。ジャックは自分に何かあったら遺灰をブロークバックマウンテンにまいてほしいと言っていたんだけれど、私にはその場所が判らない。彼がまるで理想郷のように言うから、彼の中だけの幻想の山なのかと思ってた、と言う。
イニスは、それは僕たちが若い頃、一緒に仕事をした山なんです、というのが精一杯。

イニスは、ジャックの実家へと赴く。両親が望むなら、ジャックの遺灰を思い出のブロークバックマウンテンにまいてやりたいと。
そこでイニスは彼の両親から話を聞いた。彼の両親は、イニスのことも、ブロークバックマウンテンのことも知っていた。いつかイニスを連れてここで農場をやると宣言してた。
でもイニスにそれを否定され、イニスの知らない名前の男を連れてくるとも言った。でもそのどちらも実現しなかった。
その男とは、あるパーティーで出会った、陽気な奥さんのダンナ。ジャックに声をかけてきた。きっと彼も、同じ苦しみを抱いていると見抜いたんだろう、でもイニスと同じように、捨て切れなかった。時々、なぐさめられればいいと思ってたのかもしれない。
息子のことをそう淡々と語る父親は、だからきっと、全てを知ってたんだ。

この期に及んで、イニスは、ジャックがいかに大切な、愛する人だったかを知る。
今さらそれに気づいた彼を、無言で責めるかのような彼の父親の視線。
だから父親は、遺灰をイニスに渡さなかった。ブロークバックマウンテンにはまかない。家族の墓に入れる、と言ったんだ。
それが息子を思う父親の、せいいっぱいの気持ちだった。息子が愛した君は、その気持ちを受け止めてやれなかったじゃないかと。息子は君に全てを捧げる覚悟だったのにと。そんな風に言っているように……思えたんだ。

ゲイというだけで、命の危険がある時代。いやアメリカでは、いまだにそういう傾向があるという。
日本では考えられないことだから、二人の愛に美しさと切なさを感じるばかりだけれど、事態はもっと、切実なんだ。愛すること、自分に正直であることも命がけなんだ。
ジャックはそれを押してまで、貫いた。 彼の父親はそんな息子を誇りに思っていたんじゃないのかな。だから、死んでから現われたその相手、イニスに遺灰を渡すことは、それだけは譲れなかったんじゃないかって……。ささやかな、父親の意地で。

イニスはジャックの部屋を見せてもらう。
彼の気配を吸い込むかのように、ゆっくりと見て回る。
片隅にひっそりとかけられた血染めのシャツ。ジャックはよくそのシャツを着ていた、見覚えのあるデニム。多分、死んだ時に着ていたものがそのまま残されているのだろう。
イニスはそのシャツを万感の思いで抱きしめる。そしてそれを手に階下に降りてくる。ジャックの母親は無言でそれを紙袋に入れてくれる。せめてもの形見分け。

二人の思い出の場所は、ブロークバックマウンテンしかなかった。山肌一面の羊。映画ならではの壮大なシーンを、思い出す。
そんな山肌を眼下に見つめて、今、イニスは暮らしている。
一人で、いや、二人で。あの血だらけのシャツに、「永遠に、一緒だよ」と語りかけて。

イニスと娘たち、特に長女との関係が印象的だった。
彼女は両親が離婚しても父親になついていて、そして母親が再婚し、義父との間に子供が生まれると、母親と義父に冷たく当たられるようになったという。
彼女が、もう一人の娘より、元父親であるイニスと仲良くしたがっているからかもしれない。でもイニスは娘から一緒に暮らそうと言われても、仕事であけがちになるから出来ない、と言う。娘は寂しげに、判ってる、いいの、と言う……。
これがね、まるでジャックとイニスの会話とそっくりじゃないかと思ったの。ジャックも同じ理由で断わられた。でもジャックに対しては一緒に暮らせない別の理由があったけど、娘に対してそれじゃ、本末転倒じゃない。養育費のために仕事して、一緒に暮らしたいという娘と暮らせない、なんて。
なんか、イニスは逃げ続けて、そして罰を受けてしまったような気がして、ならないんだ。

今、ブロークバックマウンテンで一人暮らすイニスのもとに、その長女がやってくる。結婚の報告に。パパも出席してほしい、という。大事な娘の結婚式だ、仕事を誰かに替わってもらって必ず行くよ、と彼は言う。
ひとつだけ、とイニスは娘に問う。そいつはお前を愛しているのかと。
ええ、と彼女は答える。そうか……とイニスは感慨深げな顔をする。
愛していると、結局イニスはジャックに言えないままだったように思う。この20年間、ほんの数十日しか一緒にいられなかった恋人に。彼はそれをいつだってイニスに示していたのに。

やはりあまり、同性愛者、異性愛者、という視点では語りたくない。語らざるを得ないけれど、その視点に偏れば偏るほど、この作品の重要な意味を取りこぼしてしまうように思ってしまうから。
明朝体でデカい字幕が妙に気になってしまった。なぜあの見慣れた手書き字の字幕じゃなかったんだろう……気分がそがれるなあ。★★★★☆


ブロークン・フラワーズBROKEN FLOWERS
2005年 134分 アメリカ カラー
監督:ジム・ジャームッシュ 脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:ムラトゥ・アスタトゥケ
出演:ビル・マーレイ/ジェフリー・ライト/シャロン・ストーン/フランセス・コンロイ/ジェシカ・ラング/ティルダ・スウィントン/ジュリー・デルピー/マーク・ウェバー/クロエ・セヴィニー

2006/5/8/月 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
思えばジャームッシュの映画を観るのって、久しぶりの気がするなあ。「ゴースト・ドッグ」は大好きだけど、ジャームッシュって意識して観てなかったし。
なんかね、初めてジャームッシュの映画を観た時のことを思い出して、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」だったかなあ、思えば旭川時代、「ミステリー・トレイン」の公開と抱き合わせだった。そうそうこんな感じ!なんて思ってしまった。

で、ビル・マーレイ。私は彼がジャームッシュと初めて組んだ「コーヒー&シガレッツ」を観てなかったので、彼がこんなにもジャームッシュのオフ・ビートにカンペキにハマっていることに遅まきながら驚くんである。
元々はバリバリのハリウッド映画に出てたような売れっ子コメディアンの彼が、「ロスト・イン・トランスレーション」ですっかりトボけた味わいになったなあとは思ったけど、ついにはオフビートの最右翼であるジャームッシュをカンペキに体現するまでになっちゃったとはね!

彼が演じるのは、若い頃はあまたの女たちを泣かせてきた名うてのプレイボーイだった、らしい、ドン・ジョンストンである。劇中で再三ドン・ジョンソンと聞き間違えられ、いやTが入るんだ、と言うのは笑いどころなんだろうけれど、一般的な日本人にとっては、プレイボーイの代名詞、ドン・ファンとのリンクの方がピンとくる。
でもねー、とてもかつてのドン・ファンとは思えない。ダッサいジャージがあまりにしっくりきてるし、その無表情は腹話術の人形みたい。
しかも、今まさに彼は最後の恋人に出て行かれ、さらには突然届いた、差出人の書かれていないピンクの手紙によって、息子の存在を告げられるんである。

この手紙が本当のものだったのか、真実はついに明かされない。最後の最後にドンが疑ったように、隣人のウィンストンによるダマしだったのかもしれない。ウィンストンの指示によって訪ね歩く女たちには、今思えばあまりにあからさまにそうかもと思わせるような、小道具や仕草や言葉が含まれていたから、ただ単にニセの手紙だけではなく、そこまで周到にウィンストンが仕組んで一芝居打ったのかもしれないとさえ思う。
というのもね、ウィンストンがドンのことを本当に心配しているからなんだ。
ドンはコンピューターでひと財産を築いたんだけど、リタイアしたらしい今はすっかり何をする気も失って、電気もつけない部屋の中でソファに寝そべり、ぼーっと古い映画を見ているばかりなんである(テレビ番組ですらないのが、現実と向き合っていない後ろ向きさを感じさせる)。
恋人に去られた今となっては、三度の食事でさえ、隣のウィンストン家に頼っているありさま。そんなドンをウィンストンはとても放っておけなかったに違いない。

あるいはやはりドンがにらんだように、出て行った恋人のシェリーが一枚かんでいるのかもしれないしね。そういやあ彼女、出て行く時、届いていたピンクの手紙を執拗にドンに渡そうとしていたしなあ。
シェリーはドンと結婚したかった。彼の子供を作りたかった。でもドンはその気がなくて……彼にとって女はいつでも恋人で、家族になるということに実感が持てなかったのかもしれない。隣のウィンストン家がにぎやかな家族を構成していることもあって、シェリーは自分は一体彼にとってなんなのか、一生愛人なのかと思ったらしくって。

確かに、ウィンストン家は実にパワフルである。一体何人子供がいるのか、あちこちからぞろぞろ子供が顔を出す。しかし夫妻はそれに手を焼くこともなく泰然としていて、なんか昔の大家族みたいなタフなステキさがある。
家族を作るってことは相手を愛しているということ以上に、生きていこうとするためのエネルギーが必要なんだよな。ドンにはそれを望むべくもないわけで、だからシェリーは出て行ってしまった。
ウィンストンは、友達であるドンにもその幸せを味わってほしいと思ってる。でも偶然隣同士ってだけで、ドンの方は友達だとは思ってないのかも……いや、これほどありがたい友達はないと思うけど。ひょっとしたらネット大好きなウィンストンは、コンピューターで財をなしたドンを尊敬しているのかなあ。
でもウィンストンを見てると、友達っていう定義が、別に双方そう思ってなくてもいいんだ、相手を大切に思う気持ちがあればいいんだって気になる。そこがまた、ウィンストンのイイところなんだよなあ。

で、ウィンストン、手紙に書かれている息子というのが、誰との間の子なのか突き止めるべきだと主張するんである。そのためには20年前にソウイウコトをした関係だった女たちをリストアップし、訪ね歩いて探りをいれろと。
しかしこれをドンがウィンストンに相談するというのも、彼の計算のうちだったんだろうな。つまり多分、今のドンには他にこういうことを話す相手もいないというわけで……ああアワレ。
つーか、何も昔の彼女を訪ね歩く必要はないんだよね。手紙に、息子が会いに行くかもしれないと書いてるんだから、来たらその彼に聞けばいいだけの話だし、来なければ手紙自体がイタズラってことだし。ということは、やはりウィンストンのしわざかなあ。ドンに家族がいる、家族がほしいという気分を味合わせるための。
思えば、アポもなしに突然訪ねたのに、全員にちゃんと会えるというのも出来すぎだもんなあ。

まあ、とにかくウィンストンはノリノリで、ツーリスト並みに完璧に旅を用意するんである。彼ったら三つも仕事してて(そりゃあれだけ子供いればねえ……何人いるんだよ)忙しいのに、しかも頼まれもしないことをキッチリ作ってくるあたりが可笑しいけど、やっぱりアヤシイ。
しかしそんなウィンストンの指示を、ドンが口では抵抗しながら、全部従っちゃっているあたりがカワイイのよね。20年前の恋人リストだってぶつくさ言いながら作っちゃうしさ。しかも当時の住所つきで。
旅の途中にもいろいろあって、ドンはウィンストンからの電話に、もうヤだ、俺は帰ると言ったりするんだけど、結局ウィンストンの言うとおり最後まで全うするんだもん。なんか切ないカワイさがあるんだよなあ。

ちなみに、このウィンストンはエチオピア人という設定である。ドンがしんみり聞いていたクラシック(オペラだったかな)も否応なしに切られて、彼の編集したエチオピアミュージックのCDがかけられてしまう。ちなみに旅にもあらたに焼いたCDがついてくる。それをドンが素直にカーステレオで聞くあたりがやっぱりカワイイんである。
しっかし、出会う女出会う女、皆少しずつどーもネジの締め具合がおかしくて、しかもしかも、一人として傾向の同じうする女がいない。いくら名うてのプレイボーイっつったって、あまりに節操がなさすぎるっての。
まあ、順番を追っていくと……。

あ、ちなみに、ドンはウィンストンに言われて、必ずピンクの花束を持って女たちを訪れているのね。ピンクの封筒と便箋が最初の手がかり。彼女はピンクが好きに違いないというわけである。
でも、その定義なら、ドンが当時の彼女たちの趣味を思い出せばいいことなのでは……思い出せないぐらい沢山の女とつきあってきたということか。
ま、とにかく、律儀にドンは毎回ピンクの花束を携えてゆく。間に合わない時は、野に咲く花を摘んでまで。ほんっとに素直に従うんだもんなあ。

最初の女はローラ。手がかりはピンク、が、彼女のところにはあまりにもあからさまにピンクがあふれているんである。しかも、なんかヤラしい感じで(笑)。
超ミニのバスローブ、ガーリーを強調した娘の携帯、極めつけにワインまでロゼだっつーんだから徹底している(ロゼって最近あまり見ないよな……一時期流行ったけど)。
彼が訪ねた時ローラは留守で、応対した娘のロリータがキョーレツなんである。お母さんの古い友人、というドンに興味シンシン、彼の前でヘーキでオールヌードで練り歩く(って感じよ、ホント)んである。ありえねー!翌日、彼を見送る時もビキニの下着なんだから!
そう、ここでドンは宿をとってしまったのよね。この最初の彼女だけが歓迎ムードだった。この元カノとは一緒に夜も過ごしちゃうし。まあ、これから始まるほろ苦い再会の前の景気づけって感じだけど。ローラを演じるシャロン・ストーン、頬骨とその下のたてジワがスゴすぎるわ、なんかコワい。

二番目はドーラ。瀟洒なモデルハウスに夫とともに住んでいる彼女はいかにもお固くて、表面上は愛想よくするものの、ドンに対してヤッカイモノが来た、てな態度を崩さない。
二人で気まずげにお茶を飲んでいる最中、夫が帰ってくるんだけど、この夫というのが彼女にベタ惚れでさ、“古い友人”のドンに対してまるで警戒心なく、彼女にベタベタしてのろけまくりなの。でも二人が住んでいるのが、不動産業を営む彼らの管理する無味乾燥なモデルハウスで、居間に飾ってる絵もこの家の外観を描いたものでね、しかしパースの狂ったドヘタな絵なのよ。それが、この夫婦の歯車のかみ合ってない感じを思わせるんだよなあ。
この夫婦には子供がいない。夫の方は欲しかったのに、妻は自信がなくて……みたいにお茶を濁した。それがちょっと意味深なのよね。ひょっとして夫に言っていないドンとの息子がいるんじゃないのと思わせる節もあるというか……。だって、夫が自慢げに見せる妻の若き日の写真もドンが撮ったものなんだよ!
三人がテーブルを囲んでの、あのよそよそしい夕食シーンは出色だよなあ。トマトの乗ってるライスの固まりのなんとマズそうなこと……。しかしこの気まずげな中で、帰ってほしいなんていうそぶりを見せながらも、夫が見てない隙を盗んで彼と視線をからめる彼女は、やっぱりちょっとアヤしい!

そして三番目の女。動物とのコミュニケーターをしているというカルメンである。このいかにもアヤシイ肩書き!
もともとは弁護士を目指していたはずの彼女に、なんだこれは、霊媒師なのかとか突っ込むドン。しかし彼女は動物行動学の博士号をとったからだと言う。でも、「ある時突然、動物の言っていることが判るようになった」などと言うんだから、やっぱりイッちゃってる感じがする。
演じるのがジェシカ・ラングでね、彼女、鋼鉄の女、って感じじゃない。だからそうだと信じて突き進む彼女を止められない怖さを感じるんだよなあ。それがもしかしたら、別れた彼との間に出来た子供を育てる決意からきているのかも、しれないじゃない?
カルメンてばね、ドンと診療所の外では決してコミュニケーションをとろうとしないのよ。呑みにいこうと誘われても、それがムリならお茶でもと譲歩しても、絶対、ダメ。つまり、プライベートを見せようとしないのだ。
受付嬢もやたら彼を遠ざけようとする気がアリアリなのよね。この受付嬢を演じるクロエ・セヴィニー、超ミニのタイトスカートで脚を組み替えたりしちゃってさ、ローラの娘といい、脇がミョーにセクシームードを醸し出しているのが気になる。
カルメンは結婚の経験はある。娘もいる。そこまでの話はしたけど「これで私の人生全部話したわ」と聞かれもしないのにわざわざ言うのはアヤシイかもしれない。

そして四番目の女はペニー。これが証拠的には一番アリっぽいんだよね。手紙はタイプライターで打たれてたから、ウィンストンはとにかくタイプライターを探せとドンに言ってた。で、ここで外に放り投げられたタイプライターがあるわけ。しかもピンクの!そんなタイプライター自体、あんのかよ!って感じ。それってあまりに出来すぎで返ってアヤシ過ぎるよなあ。いかにも用意しましたって感じして不自然だし……。
ただこの時点では、ドンのウィンストンに対する疑惑が示されてないので、観客の方としては(というかバカな私だけかしらん)ついに出たー!って思ったんだけど。
で、このペニーってのが、なんかすっごいワイルド系で、バイク野郎たちと一緒に生活してんのよ。だからドンは彼らの厳しい監視の目を気にしながら探りを入れるんだけど、息子がいるのかと聞かれただけでペニーは激しく動揺して部屋に引っ込んじゃったもんだから、ドンはこのバイク野郎から顔面パンチをくらっちまう。
しかしいきなり顔面パンチなんて、昔の恋人らしき男が訪ねてきたリアクションにしたって、過敏な反応過ぎる気がするよね。彼女が子供が出来ない身体だとかいう理由も考えられるけど。うーん、あまりにこの彼女!ってタネがまかれすぎてて逆に違うかなあ……。
うー、でもこうやって考えて見ると、どれもこれもあまりにワザとらしすぎるもん、やっぱり全てがウィンストン、そしてシェリーもかんだ計画だって考えた方が自然な気がするんだよなあ。

20年前付き合っていた女たち、もう一人いた。5年前に事故で死んでしまったというペペ。この墓参りにまで、ドンは律儀にピンクの花束を持ってゆく。
思いっきり勘ぐって考えれば、このペペとの子供というのだってアリだよね。子供が母親を装って手紙を出したとすればさ。
だから全ての可能性が考えられるんだけど……、一人旅をしているというそれらしき青年とひと悶着起こしたりもするんだけど、結局は全てが闇の中である。あの青年は……多分違うと思うんだよな。わざとらしいピンクのリボンがあやしすぎる。これさえウィンストンの仕掛けたワナじゃないの?
彼と再会したかつての恋人たちはみんな、彼が訪ねてきたのには絶対理由があると、隠していることがあると見抜いている。それも返ってアヤシイ気がするといえばするし……あー、もう、判んない。

ピンクの花束、ピンクのファンタジー、このリアルなんてどーでもいいってな浮遊感、がなんともイイ。だからそれだけでいいのかもしれない。
ドンが飛行機に乗ってる場面が可笑しいの。恐ろしく狭いエコノミークラスの端っこの席で、斜めになった窓側に窮屈にその大きな体を折り込んでて。
ホント、とてもかつてのドン・ファンとは思えないんだなあ。
どんなに多くの華やかな恋愛をしても、それが結実しなければ意味ないのかもしれない。かつての恋人たちはそれを捨てた今の人生を歩んでいるんだもん。
だから多くの恋愛をすればするほど、その先の結果がなければ、返って虚しいことなのかもしれないと思う。いやそれは、多くの恋愛もその先の結実もないワレへの慰めかしらん。★★★☆☆


プロデューサーズTHE PRODUCERS
2005年 134分 アメリカ カラー
監督:スーザン・ストローマン 脚本:メル・ブルックス/トーマス・ミーハン
撮影:ジョン・ベイリー/チャールズ・ミンスキー 音楽:メル・ブルックス
出演:ネイサン・レイン/マシュー・ブロデリック/ユマ・サーマン/ゲイリー・ビーチ/ロジャー・バート/ウィル・フェレル

2006/4/22/土 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
何だって私はこうもついてないのよー。一回目観た時は土曜日で満席、隣りの席の女性はどうやら舞台版を観たことがあるらしく、連れのお隣りさんに始終耳打ち解説しては、全てのシーンで待ってましたとばかりに先んじて引きつったように笑うもんだから、ダメなのよー、こういうの。ダメじゃない?私、神経質すぎるのかなあ。
そして二回目、平日の早い回に頑張って行って、やった!すいてる!と思いっきり堪能して、はー、楽しかったとエレベーターに乗ったら前に立ってたカップルが、「もう、寝ちゃったよ、俺」「あの歌のヘタさは許せないよね。ここぞというところぐらいはちゃんとやってって感じ」
ナニー!!!ええー、ダレのこと言ってるの?もしかして判りやすくウィル・フェレル?いや、そーにしたってアレは計算づくのヘタさでしょう!なんかそれまでの高揚した気分がすっかりケチョンとなっちゃった。
ああ、私、これからはどんなにつまんないと思った映画でも、映画館のエレベーターで悪口なんて絶対言わない!(まあ、いつでも一人だから、そんな独り言なんて言わないけどさあ)それも映画のマナーにしてほしいよー。

でも、メゲないもんね。二度目に足を運んだぐらい、のめりこんでるんだもんね。誰がなんと言おうと、私は大好きだって声を拡声器で大にして言いたいもん!
あー、なんか、ホントに、単純に、ワクワクとしちゃった。「雨に唄えば」や、「パリのアメリカ人」を初めて観た時の、何コレ、楽しいー!!ってあの感覚がよみがえった。しかもそれをスクリーンで観ることが出来る、この映画を製作してくれてアリガト!って感じ。
そうそう、オリジナル映画の監督で、舞台版の製作もしているメル・ブルックスが今回の映画化に際して、ストローマン監督をなぜ抜擢したかというと、「雨に唄えば」のようなものを作りたいと言ったから、もうそれで即決!だったという。
ホントにね、それが判るんだよー。だって、だって、だって、マシュー・ブロデリックの軽やかなダンスに、タップに、ああまるで、ジーン・ケリーを見てるみたいだ!って本気で思ったもん。

ブロードウェイのオリジナルキャストでもあるというネイサン・レインとマシュー・ブロデリックの両主演、という形なんだけど、私は何より、そうポスターにマシューの姿を見つけてから、ずっと楽しみにしていた。だって、「レディホーク」や「トーチソングトリロジー」に出てた頃のマシュー、ホントに好きだったんだもん。
でも、彼、あんまり映画に出なくなった……とか思ってたけど、いや、フィルモグラフィ観てみると、ぼちぼちは出てはいるんだよな。私もぼちぼちは観てる。でも、なんかこんなのに出るの?みたいな、まあ意欲作もあったけど、正直、あの演技力とチャーミングで将来を嘱望されたほどの作品には出てなかった感じだった。
そしたら、いつのまにやら、ミスター・ブロードウェイと呼ばれていたなんて、全然知らなかった!(ちなみにネイサンはキング・オブ・ブロードウェイ。うう、なんとゆー、強力タッグ!)
というか、もともと舞台の人だったんだもんなあ、と思い出す。あの出世作の「トーチソング……」だって、舞台版からの映画化だったんだもんね。

マシューには本当にときめいたなあ……この人のチャーミングさが20年前とちっとも変わらずに失われていないことに驚嘆する。あー、これよ、こういうマシューが見たかったのよ!と私はすべてのシーンで彼を目で追いかけてしまう。ううう、なんてカワイイんだ。もうたまらん!!
しかも、先述したけど、この軽やかなダンス!特に、ツマラナイ会計事務所で、アンハッピー……と繰り返すシーンから、キャビネットの引き出しを開けると、バツグンのスタイルの美しきコーラスガールたちが次々と出てきて、キャビネットの引き出しは階段になり、きらびやかなステージへと踊り出る、「I Wanna Be A Producer」の素晴らしさときたら!
スレンダーな美女たちは彼より皆スラリと背が高いんだけど、またそれがマシューをチャーミングに見せてて、そしてその粋なステップに、私は呼吸困難でもう死にそうだよ!
そういやあ、ヒロインのユマ・サーマンもマシュー、そしてネイサン・レインもしのぐ長身美人で、で、ユマとマシューは恋に落ちるんだけど、こんな逆転の身長差と、ユマの美女っぷり、そしてマシューのこのチャーミングで、ツーショットの画だけでなんともはやキュートでユーモラスな魅力にあふれてるのよね。ああ、ユマがうらやましいー!!

なんて暴走してるとどこまでも行ってしまうので基本情報から行こう。かつてはヒット作を飛ばしたブロードウェイの有名プロデューサー、しかしいまや落ち目のマックス・ビアリストックの元に、会計士のレオ・ブルームがやってくる。
マックスのファンで、ブロードウェイのプロデューサーになるのが夢のレオ、憧れの人との出会いであるこのシーンで、まずたっぷりと笑わせてくれる。
子供の頃から持ち歩いているブルーの毛布のきれっぱしをいつもポケットに入れて、パニックに陥りそうになるとそれにスリスリするのだ。しかし思いっきりここでパニックに陥るのだが……そのマシューが最高!
マシューも、そしてさすがのネイサン・レインもそうなんだけど、表情に微妙さというものがかけらもないの。ミュージカルの映画化、しかもその魅力をパーフェクトに映し出そうとする意図もあるんだろう、彼らの表情は……そのほとんどがトホホ系なんだけど、そのトホホを何パターンにも渡って、100パーセント全開に出してくるもんだから、さっすが、ミスター&キング・オブ・ブロードウェイ!
どのシーンもすっごく楽しくて完璧だけど、マシューとネイサンのツーショットのシーンが一番スリリングで超楽しいのだっ!

えーと、で、何だっけ。どうも脱線するな。で、会計士のレオが、時としてショウはコケた時の方がもうかる、という法則を発見する。つまりは粉飾決済。出資者に配当金を払わずに済むように一晩でコケる舞台をお膳立てすれば、濡れ手で粟の大金が転がり込むというのだ。その話にピンときたマックスがぜひやろう!とレオを誘い込む。
まず最初の、二人のツーショットミュージカルシーンの傑作場面である「We Can Do it」
タクシーにすべりこんで逃げようとしたレオを追っかけて一緒に乗り込み、君と僕ならできる!とマックスは口説き続ける。さっすが長いこと舞台でこの役を一緒にやってきただけあって、奇跡的なまでの息の合い方。
タクシーの中のシーンなんて、まさに往年のハリウッドミュージカル映画よね。そういえば冒頭、マックスの芝居がコケて、着飾った観客たちが続々と出てきて歌いながら悪態をつく場面、その衣装の色合いといいメイクの感じといい、実に往年のミュージカル映画!って感じなのよ。これもまた、微妙さがかけらもないのよ。素晴らしくあの頃、なのよね。

いくら誘っても、小心者のレオはどうしてもイエスと言わない。セントラルパークで別れた二人、しかしレオはあの会計事務所での夢のようなシーンで目覚めて、マックスの元に帰ってくる……ってオイオイ!こんな夜になってもマックス、セントラルパークで待ってたってかい!すっかり暗くなってるぞ、オイ!このあたりの細かいギャグが何とも好きなのよね。
レオは昔からの夢、ブロードウェイのプロデューサーをかなえられるんだ!と希望に燃えているんだけど、一晩でコケる芝居でもいいって思ってる(っていうか、判ってんのかなっていうか)のがシニカルでイイのよね〜。

そして、まずはサイテー脚本。マックスの笑いが止まらないほどの最低、サイアクの脚本は、ナチオタクのフランツによって書かれた「春の日のヒトラー」
演じるウィル・フェレルは相変わらずB級男を演じさせたらピカイチで、そうよ彼は確かに破滅的に歌はヘタだけど、このバカな男にはそういう要素が必要なのよ。彼が可愛がっている鳩たちがいかにもツクリモノでチープなのは残念だったけど、でもこれもそのチープさが往年を思わせていいのかも、と好きになっちゃうと何でもポジティブに考えちゃうもんね。
契約書にサインしてもらうために、フランツの言うがままにナチの奇妙な踊りとか散々やらされる二人。「深みにはまってしまいます」とマックスに訴えるレオに、「こんなのは深みじゃない」とマックス。ノリノリのフランツの奇妙なダンスに散々どつかれまくり、しまいにはでんぐりがえるレオ=マシューのキュートさにはしびれる!(結局それしか見てない(笑))
ヒトラーのミドルネームはエリザベス、なぜなら英国女王と縁戚関係だからだ、などというたわごとまで言い出すフランツに心底ウンザリしつつも何とかサインさせて辞し、次に向かったのは「サイテーの演出家」ロジャー。

フランツどころの騒ぎじゃない、すさまじいオカマさんたちの登場に、いかにもそうした向きに気に入られそうなマシューの貞操、危うし!?
ここでは実に様々なタイプのゲイさんたちが次々に登場してくるのね。まず応対に出た、演出家のパートナーとおぼしきカルメンが一番マトモだったかな。後から考えるとカッコも普通だったし。登場シーンですでに強烈で(スーーーーを伸ばしすぎ!)、どうしようかと思ったけど、こんなんで驚いてる場合じゃなかったんだもん。
演出家は「クライスラービルディングみたいな」ドレスを着て現われ、その後も次々と、革パンSM系、パープルのスーツに色眼鏡のおすピー系、股間のモッコリがあまりにもやりすぎな(マシュー釘づけ!もー、爆笑ッ!)ナルシスト系、チェックのシャツを首まできっちり止めたマザコン系、とこれでもかこれでもかとバリエーションを変えてお見舞いしてくるのだっ。
しっかしさあ、ナチズムのオタクだの、ナルシズム全開のゲイたち、と一歩間違えれば大クレーム必死の強烈キャラたち、いいのか!?って感じだよねえ。観てるこっちが心配になっちゃう。だって、一歩間違えるどころか、どっぷりつかって、完全にヤバイって!

それを言っちゃあ、ヒロインのウーラが外国人で英語がマトモに話せず、しかし白人セクシー&おツムが弱そうなキャラで押し切っちゃう、というのも結構キケンよね。
ユマ自身にスウェーデンの血が流れている、ということから今回のオリジナリティが生まれたみたいで、判っていなさそうで実は全てが判ってて一番したたかなのかもしれない、というウーラを演じるユマは、他のキョーレツ&ヘンキャラを抑えて、スロットル全開!
いきなり事務所に現われた登場シーン、バカそう&だからセクシーなダンスは、これぞチラリズム。ああ、その、美脚の奥がチラリ、チラリするのが気になって仕方ない!
「下半身がスタンディングオベイション」してしまった二人は、「プロデューサーのカノジョには役がつくだろ」というマックスの主張により、ウーラを採用、秘書としても雇うことになる。
二人がいない間に事務所をペンキで真っ白に塗り上げ(金庫のダイヤルまで(笑))、マックスがいなくなったとたんにレオに色目を使うウーラ。んでもって、ウーラとレオがその距離を縮めていくダンスシーンの、ああなんて、ドキドキすることといったら!なんかね、実にクラシックにソシアルダンスなわけよ。凄いステキなの。ソファに隠れてのメイクラブシーンも実に粋に処理されてて、はああ、もうタメイキばかりなんだよなあ。

マックスが“街中のおばあちゃんと寝て”(ウーラの言い様よ)、当座資金を用意する。このシーンも実に痛快。いや、まさかおばあちゃんと寝るシーンはないわよ(笑)。でもマックスが声をかけると、腰の曲がったおばあちゃんたちが、一様に歩行補助器で行列作って彼の後を歩き、その歩行補助器でタップを踏んで、おみ足見せて、素晴らしいアウトロケーションダンスを見せるのだ。
マックスが彼女たちが捧げた小切手を次々と受け取ってゆくと……電気にしびれたように、アーンアーンと言いながらおばあちゃんたちが腰砕けになっていく。こういうちょこっとエゲつない大人のユーモア、大好きよ。

でまあ、そんなこんなあって、ついに本番当日。初日の決まり文句「脚を折れ!」をそのままヤッちゃったヒトラー役のフランツ(さすが、バカだ)、上演前の中止でチケット払い戻しの危機を救ったのは、演出家のロジャーだった。いやこれは、正確には危機を救ったことにはならなかった。一日でショーがコケることを望んでいたマックスとレオにとっては。
最初は上手くいきそうだった。あまりに悪趣味な芝居に、客たちは席を立ち始めていた。が、主人公であるロジャーが出てきたとたん、そのクネクネとしたヒトラーに観客は大爆笑、立ち去ろうとしていた客たちは次々と戻ってきて、思いがけずショーは大成功!

しっかし、さあ、ほおんと、皮肉だよね。だってロジャーはパートナーのカルメンに「一見ノンケのミュージカルスターとして認められるのよ!」と励まされて急遽の代役を引き受けたのに、出てきたとたん、ノンケどころじゃない、お前、ぜってーオカマだろ!って、皆判っちゃったんだもん。だからウケちゃったんだもん。そうだよねえ?
それによって思いがけず「挑戦的な傑作」ととらえられちゃって大評判。最悪の脚本と最悪の演出家と最悪のキャストのはずだったのにさあ。それが化学変化を起こしてよもやの大ヒット。時としてスパイスはたったひとつだけでいい時があるのよね。
マックス&レオは粉飾決済がバレると青ざめまくり、ナチオタクのフランツはヒトラーをバカにした内容だと怒りまくって銃をぶっ放し、あっというまに修羅場に突入!

しかしなんかいろいろ偶然が重なって、連れてかれたのはマックスだけだった。ドアの影に隠れてコートとともにハンガーに吊るされてたレオ(うー、マシュー、こういうの似合いすぎ、カワイすぎ!)は、ウーラの提案でマックスを置いてリオに高飛びすることを決める。つーか、彼女さ、二重帳簿の存在もちゃっかり知ってるしさ、やあっぱりオツムの弱そうなのはキッチリ芝居よねえ。
で、マックスは絶体絶命、初めて出来た友達だと思ってたのに、裏切られた……と鉄格子の中で意気消沈。でも裁判所で「限りなく有罪」確定の場に、ちょっと待ったー!とばかりにレオと、そしてウーラも入ってくる。思いっきりトロピカルなカッコで(笑)。そこで聞かせるマックスを弁護するレオの歌声が、染み入るんだよなあ。

だけどね、自分を弁護するために来てくれたレオに、感謝の面持ちながらマックスが言う台詞がコレなの。
「君は歌が上手いんだな!プロ級だ」
思わぬ言葉に困惑したレオ、「君のために歌ったんだ」
オイオイ!だってミュージカルって、歌ったりダンスしたりが非日常だってことが前提であり、劇中でそれに言及しないのがお約束なのに、フツーにこんなこと言うなんて!ああ、隙がないなあ、もう、一筋縄ではいかなすぎるわ。
そのレオの気持ちに応える歌声をマックスも聞かせる。マックスを心配してかけつけたおばあちゃんたちが応援するコーラスがうるさすぎて、たしなめるあたりの小技もキイてる。
そして二人は結局同じ刑務所に収監されるんだけど、メゲない。囚人たちから、看守からも資金を集めて芝居を作り、しかもそれによって恩赦、釈放を勝ち取るのだっ。

そして今度こそ、真のブロードウェイでの成功である。ずっとマックスからのお許しが出なかった、プロデューサーの証であるシルクハットをレオがかぶり、そしてマックスとレオの二人でタキシードにそのシルクハット、ステッキでのダンスの、ううう、ステキなこと!ああー、もうこれが観られるだけでいいよ。
その後、二人が生み出すヒット作のタイトルがネオンとともにバンバン出てきて、それがことごとく実際のヒットタイトルをパロってるのもお約束だけど、そんなのものさえ目に入らないぐらい、二人の正装でのダンスがステキなんだもん!!

こういう映画をやられると、ハリウッドにかなうわけない。ラストクレジットがまた、そんな雰囲気をかもし出しててステキでさあ。メインキャストを、その登場シーンとともに紹介するのね、そしてラストクレジットが全て終わったあとで更に(このラストクレジットもひとひねりあるんだけど!)、面白かったら口コミしてね、サイテーだと思ったら口をつぐめ!とレオとマックスが言った後で……
“真珠だけのコスチューム”である美しきコーラスガールに囲まれた、この人がいなければ始まらないメル・ブルックスが、実に粋にカッチョ良くシメるわけ!イイネ!イイネ、ってなんだか横山剣になってるって?

あー、もう、とにかくマシューがいいのよ。キュート&チャーミング&カワイイ&カワイイ!!ああ、やっぱりこの人のチャームは得がたいなあ。年をとったから、やっぱりそうなんだと確信できる。彼は現代のジーン・ケリー(プラス、ミルクたっぷり)よ。それだけで充分見る価値あるって!

この舞台、あの同時多発テロの二日後には上演再開しだんだという。
「ショウ・マスト・ゴー・オン」!いやー、素晴らしいね。★★★★★


PROMISE/無極/THE PROMISE
2005年 121分 中国 カラー
監督:チェン・カイコー 脚本:チェン・カイコー
撮影:ピーター・パウ 音楽:クラウス・バデルト
出演:真田広之/チャン・ドンゴン/セシリア・チャン/ニコラス・ツェー/リウ・イェ/チェン・ホン

2006/3/17/金 劇場(有楽町 サロンパス丸の内ルーブル)
それにしてもヘンな名前の劇場になっちゃったなあ……別にいいけどね。ところで、つい先だってあまりにも素晴らしい「ブロークバック・マウンテン」を観たせいで思い出したんだけど、思えば「グリーン・デスティニー」から始まったじゃない、こうしたワイヤーワークを使った、アジアのスターを起用しての時代物ファンタジー。まあ「グリーン……」の次にチャン・イーモウが二匹目のドジョウをニ回もネラったって感じだったけど。
でも本作を含め、そのどれもが、見た目の壮麗さと比べて中身の練りが今ひとつお粗末で、何もかもがホンモノだった「グリーン・デスティニー」を越える作品は結局出なかったよなあ、などと思う。うん、やっぱりアン・リーは凄いのよね。
チェン・カイコーは大好きなんだけどね……近年では「北京ヴァイオリン」なんかもう、私の生涯のベストに入るもん。でもこれは……。

本作、ホント各国からスターを取り揃えているし、なんたってわれらが真田広之が出てるし、そういう意味で「グリーン……」を超えてほしかった作品ではあるんだけど、超えなかったねえ……それどころか、多分一番下、……のように思える。
その一番の原因は、チャン・ドンゴンのキャラクター設定。いや、チャン・ドンゴンに罪はないんだけど、彼が演じる昆崙がすっごく足が早いという、その設定がね、もうギャグにしか見えないんだもん。
特に俯瞰のアングル、土煙をたててビヤーッ!走っていく彼の姿は、赤塚不二夫あたりのギャグマンガを思わせ、思わず吹き出してしまう。あれがスペクタクル、ファンタジーとして魅力的に映らないとキビしいよねえ……。

ところで、ラストのタイトルクレジット、真田広之の方が先に名前が出たのが嬉しかったりして(笑)。そういう問題?いやそういう問題よ!チャン・ドンゴンは今やアジアの大スターだし、カリスマ性やオーラも充分だし、知名度としては彼の方が上かなと思っていたから、ちょっと戦々恐々としていたんだよね。
でもやっぱり真田さんな訳よ!彼が世界、というよりはアジアに打って出たという意味で、非常に嬉しいね!
真田さん、ちょっとカンロクついた?(太ったとは決して言わない!)でも相変わらず動きの美しい役者。もうひととおり演技派としての名声もおさめたから、彼にしか出来ないアクションをからめつつ、演技も見せる映画に出始めるようになったのも嬉しいよなあ。
それにそのカンロクは、シブい男になっていくような予感もさせるしね、うんうん。
やあーっぱ、チャン・ドンゴンにはまだまだ追いつけない領域よ。チャン・ドンゴンね、ちょっと奴隷としての切実さがないもん。頬もふっくらしてるしさ。彼がのしあがっていくパワーより、真田さんが落ちていく切なさの方が勝っちゃう。ま、キャリアがモノをいうかしらねっ。
真田さんとはひとまわり(!)違うからなあー。やはりここは意地のカンロク?

まあ、さらっと話を追っとかなくちゃ。
これは運命を司る美しき神“満神”に翻弄された者たちの物語。語られる時点から20年前、少女、傾城は、この神に促がされ、真実の愛の替わりに最も強い男の寵愛を得られる人生を選択した。貧しく身寄りもいなくなった少女にとっては、その方が幸せだと思った。真実の愛の本当の意味なんて、彼女にはまだ判らなかったから。
そしてその時、彼女によって初めて裏切られる経験をしたのが、やはりまだ子供だった無歓(深い役名だ)。ま、裏切られるっつったって、彼女が饅頭を欲しいがために彼の奴隷になる、とその気もないのに言った、ただそれだけの話なんだけど、プライドの高い彼はたったそれだけで、人を愛することが出来なくなった。

そして20年後、舞台は切り立った山の中である。
大将軍、光明は、敵の大軍勢の前に苦戦を強いられている、が、彼は負ける気は全くない。不敵な笑みをたたえ、この場を切り抜けるための、囮にする奴隷を選んでいる。無論、その奴隷には死が待っているんだけど、飢えた彼らは目の前の肉に目がくらみ、敵の放った暴れ牛の大群の中に放り込まれる。
しかし予想外の出来事が。もの凄い俊足の奴隷、昆崙がその牛より早いスピードで突っ切って、逆にこの牛の大群を敵の軍勢のところまで戻しちまったのだ。
もうこの時点で、ギャグにしか見えないチャン・ドンゴンの疾走に、これは笑うところじゃないんだと判っていながらも、笑いをこらえきれない私……みんなこれ、可笑しいと思わないのかなあ……。

その奴隷を見た光明は目を見張る。彼のおかげで敵の大部分を蹴散らすことが出来た。しかし、俯瞰の大群衆の戦闘シーン、俯瞰で見ると、わりとダレてるのが気になるんだけど……あからさまにやる気のない人間がチラホラ……と気づいた瞬間にカメラが俯瞰から戦闘のアップに切り替わり、そんなことなどなかったかのように。いやバレてるって。
無事勝利をおさめ、華鎧の大将軍ここにありと崇め奉られた光明は、この奴隷、昆崙を自分の下につけることを決める。しかしこれが不思議な縁(えにし)の始まり。

光明はとらえられた王を救出に行く命を受ける。しかし刺客によって重傷を負った彼の替わりに昆崙を行かせたのが、運命のいたずらの始まりだった。
しかもこの時、光明は運命の神、満神に、もうあなたは決して勝つことはない。昆崙に助けられたあの勝利が最後だ、と告げられている。
光明の替わりに華鎧を身にまとい、王と、王妃である傾城を救いに馬を駆って現われた昆崙は、しかし王を殺し、傾城を連れ去った。というのも、己の命が惜しくなって王を裏切ろうとした傾城を、王が殺そうとした場面に遭遇したからなんだけど。この騒ぎの元凶、王妃を奪おうとしていた無歓(ニコラス・ツェー)や、控える王の軍勢たち誰もが、傾城の美しさに心奪われ、昆崙もまた例外ではなかったのだ。
かくしてプライドを引き裂かれた無歓と、傾城に恋した昆崙、そしてやはり彼女を愛するようになった光明とが、傾城をめぐっての戦いを繰り広げるんである。

まあ、つっても、昆崙は何たって光明の奴隷だし、身分から言ったって自分が彼女の相手になれるわけがない、と思ってるんだけど、でもその思いはとめられないの。
一方、傾城は自分を助けたのは華鎧の持ち主の光明だと思ってるから(昆崙は仮面をつけてたからね)、光明と愛し合うようになるんだけど、そう、光明は「あの時あなたに恋に落ちた」という彼女の台詞を聞いて、苦悩するのね。
そう考えると光明が、一番複雑な思いを抱えるキャラクターなんだよなあ。やはりここはベテラン、真田広之に任せられるだけのキャラなのね。
奴隷としての身分の違いがあるから愛せない、という昆崙の苦しみより、愛する相手が本当に愛しているのは自分じゃない、それでも彼女はそれが自分だと思い込んでいる、その愛を何とか本物にしたい、とあがく光明の苦しみの方が、切なく胸に迫るんだもん……いやそれは、やはり真田さんの力量かしらん。

ここにもう一人のキャラが参戦する。後から思えば、この人が一番のもうけ役だったかもしれんなあ。無歓の手下である黒衣の男。あからさまなデスメイクで、一見してマトモに生きてる人間ではないことが判る……ちょっと判りやすすぎるけどね。
彼は最初に昆崙と対峙した時、本当は殺さなければならなかったのに彼を見逃した。それは昆崙が自分と同じ、“雪国”の人間であると知ったから。
“雪国”の人間の証しは、そのたぐい稀なる俊足。黒衣の男は、その俊足で時空さえも飛び越えることが出来る。昆崙をその時空の壁の手前まで連れてゆくけれど、突き破ることは出来ない。それが運命というもの。

で、ここで昆崙が見たものは、そう、もともと昆崙は奴隷なんかじゃなかった。なぜ彼がこんな身分に落ちたかというと、無歓によって“雪国”が殲滅させられたからだ。
そこで一人、命を乞うて無歓の手下になったのが、この黒衣の男だった。
しかし、彼は皆の命を救うつもりだったのだ。自分だけが犠牲になって無歓の手下になれば、と思ったのに……彼は火を放たれ、重傷を負い、死にたくなければこの黒衣を着ろと。そうすれば永遠に生きられる。そして自分の下で永遠に生きろと言われたのだ。
彼に選択の余地はなかった。
結果的に、彼は仲間を裏切る形で、無歓の下に入ることになったのだ。

つまり、この黒衣を脱ぎ去ってしまえば、彼は塵となって消えてしまう。だから無歓には逆らえない、はずなんだけど、彼、同郷の昆崙を守るために、黒衣を脱いでしまうのよ。これはちょっとグッとくるわけ。
無歓も想像しなかったことだろう。彼はまたしても、裏切られないと思った相手に裏切られてしまった。
昆崙が今ひとつこっちの共感にシンクロしないのはね、結果的に彼、イイとこ取りなんだもん。光明に仕えながらも、先述のような彼の複雑な気持ちが判っているとは思いにくいし、この黒衣の男に対してだってしかりよ。それにこの黒衣、傾城との愛に生きるために最後、ちょうだいしちゃうわけでしょ?なんかズルいよなー、とか思ってしまう。

ま、そんなオチまでついつい言っちゃったけど……。えーとね、一度は、運命には逆らえないと去りかけた傾城を、追いかけろと言ってくれたのは昆崙だったのね。光明は昆崙の背中に乗り、疾走し(笑えるー)、彼女に追いつき、「本当に戻ってこないつもりか!?」と問い詰める、真田さんがカワイイわー。彼女、たまらず光明に抱きつく。運命に逆らってでもあなたを愛する、と。あなたに救い出された時から、恋に落ちていた、と。
光明が彼女の思い違いを知ったのはその時だった。愕然としながらも、彼は彼女を愛することを誓う。そんな二人を昆崙はじっと見つめている。光明も、昆崙のその視線の意味を判っている。

そして光明は傾城とラブラブの時を過ごしてた。その緩んだところを無歓に陥れられ、光明は捕らえられる。彼女とオソロの薄桃色の着物姿の光明が、まんまと敵の手に落ちてしまう姿は愚かにも見えるけれど、どうしても愛する女を手に入れられない無歓にとっては、いまいましい姿にしか映らない。
傾城もまた捕らえられる。昆崙は彼らを助けようと追いかけ……王殺しの汚名を着せられた光明を助けるためには真実を告げるしかない、と悪魔のささやきが。
傾城への気持ちを抑えきれない昆崙は、その条件を飲む。でも傾城は、それはあくまで光明を助けるための、昆崙の心遣いとしか思っていない。昆崙はこのことで逆に死罪をまぬがれないけれども、死をかけても彼女の気持ちを手に入れたかった。
そのことを、裁きの場で彼女は知らしめられる。真実の愛は手に入らない。手に入ったと思っても、すり抜けてゆく。満神に告げられたその本当の意味が、ここで明かされるのだ。彼女が愛したと思った相手は真の相手ではなく、それが判った途端、その真の相手は死にゆく運命にあると。

でも嫉妬に狂った無歓は、二人ともなぶり殺しにする気なのだ。木の枝に逆さにつるされた昆崙、両手を縛られて階上につるされた光明、その二人の男を、椅子に縛りつけた傾城の目の前にさらす。このシーン、薄絹の衣装をまとった美女が赤い縄で蜘蛛の糸のようにからめとられ、その彼女と絶妙な距離を保ったところに二人の男がつるされているという構図が、やけに嗜虐的に美しいんである。
ここで、光明はカケに出る。命乞いのフリをして縄を解かれ、その刹那、無歓に捨て身の攻撃を仕掛ける。しかし致命傷を負ったのは光明だった。光明の放った剣によって昆崙も縄を解かれ無歓と対峙するも、相討ちになった。
ようやく自由の身になった傾城が駆け寄ったのは、ほんの少し前、真に愛する相手だと判った昆崙の元だった。しかし昆崙は、わが主人、光明のそばに行ってやってくれと言う。一瞬、躊躇するも、倒れた光明のそばに行く傾城。

このシーンで確信したんだけど、彼女も、半分は光明を愛していたよね。あの愛の日々でそれを育てた。つまりは光明と昆崙は、二人で一人だったのだ。
そして彼女はここで、愛する人を“半分”失った。息絶える彼に頬を寄せて泣く彼女の、様々にカットを切ったちょっと懲りすぎのカメラワークは、それを強調してる。

だからやーっぱ、彼女のために死を決意して立ち向かい、散った光明、そう真田さんが、黒衣の男の次に、二番目にもうけ役、カッコイイのよねっ。
だって彼って結局、カン違いの愛を向けられて、それを何とかホンモノの愛にしようとしたけど出来なくて、愛する彼女のために、本当に愛する相手と幸せになってほしいと決断して命を散らしたわけで、コソクにも(と見える)永遠の命を譲り受けた昆崙よりサムライの潔さを感じるんだよなあ。
そう、サムライよ。やっぱり日本人だもん。役は違うけど。

そうなのよー、昆崙もまた致命傷を受けたのに、黒衣を身にまとうことで永遠の命を得ちまうの。まあ、それしか彼女の運命を変える術はないからなんだけどさ……。
あの時運命の神、満神から言われたのは、時をさかのぼって死んだ人間がよみがえり、この川が干上がらなければ……とかなんとか、そんなことで、つまり彼は黒衣によってよみがえり、彼女の真の愛を得て時空を越えるという含みのラストなわけ。

無歓は結局、傾城に裏切られたことによって愛を信じられなくなり、その運命を変えられないまま死んでしまったわけで、彼はもうけ役ではない、悪役だけど、カワイソウね、って気持ちは残る。でもニコラス・ツェー、……うーん、アイドルが芸術映画やりましたっ、ぽすぎるかなあ。
それにしても傾城を演じるセシリア・チャン、顔変わったねー。目が小さくなった?いや、とにかく輪郭がシャープになった。昔はなんか、少女マンガに出てくるような大ぶりの演技で、笑顔をふりまけばオッケーみたいな感じだったのに、目線ひとつで男を狂わす美女をなかなか上手くこなしてる。
チャウ・シンチーに鍛えられた彼女、ジャッキーに鍛えられたマギー・チャンのような軌跡をたどってるじゃない?となるとマギーのように大化けするかも……あんまり興味ある女優じゃなかったけど、ちょっと期待しとこう。
まあでも、それほど美女かなって気もするけど……何より真田広之とラブシーンをするのがうらやましくてしょーがない!

吹き替えにはしなかったんだ。香港では割と普通だけど。でもやはり真田さんの声での中国語が聞けたのは嬉しかったなあ。★★☆☆☆


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