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「む」


2007年鑑賞作品

蟲師
2007年 131分 日本 カラー
監督:大友克洋 脚本:大友克洋 村井さだゆき
撮影:柴主高秀 さのてつろう 音楽:`島邦明
出演:オダギリジョー 江角マキコ 大森南朋 蒼井優 りりィ 李麗仙 クノ真季子 守山玲愛 稲田英幸 沼田爆


2007/4/18/金 劇場(有楽町 丸の内TOEI2)
あ、ホントにこういう漢字、あるんだ。造字かと思った。ということは「陰陽師」とおんなじように、こういう職業?もあったということか。いやいや、無知なもんだからついつい疑ってしまった。
蟲というのが、「精霊でも幽霊でも物の怪でもない妖しい生き物」と解説される。“生き物”っていうトコが重要ってことだろう。
この物語自体、ほんの100年前が舞台で、そう昔ではない。
実際、劇中に「こんなところにまで電気が来ている。そのうち日本中が夜でも昼のように明るくなる」という台詞も出てくる。
そして今そのとおり、夜でも昼のように明るい日本に、その蟲はいなくなってしまった。

しかし、ハッキリ言って、判りづらい。
まあ、監督が天才さんだから仕方ないのかもしれんが、それにしたって、判りづらい。
それに、脚本協力には、職人肌のお人の名前も見えるのに、なぜこーも判りづらいのだろう。
最も判りづらいのは、彼の名前の由来となったギンコとトコヤミとの関係である。
あ、トコヤミというのは、この物語中最もエポックメイキングとなる謎の蟲ね。有能な蟲師であるギンコでさえ知らず、抑え切れない強力な蟲。
しかし、このトコヤミがどういう影響を及ぼすのか、そのトコヤミを抑えることが出来る「ギンコ」という蟲は、じゃあいい蟲ということなのか。しかし内にギンコを抱えるギンコ自身が(ややこしいな)年老いたぬえを訪ねた時、あんなにも怯えたのはなぜか。ぬえ自身がトコヤミになってしまったからなのか。
そもそも、蟲自体にいいとか悪いとかいう区別はないんだろうとは思うんだけど……蟲師たちは蟲を退治するのではなく、共存する道を選ぶんだもの。

あ、ちなみにぬえっていうのは、突然天涯孤独となってしまった幼いギンコに、蟲師としての道をつけた女蟲師である。
でね、最初のうちね、現時点でのギンコの旅と、幼いギンコとぬえの出会いが並行して描かれるでしょ。同じ時間軸の話なのかと思って、この二組がどっかで出会うのかなと思ってたから、余計コンランしたのよね。
それはやはり私の頭が悪いせいなのか……。

でもさ、台詞も場面によって凄く聞き取りづらいところがあるのよね。ひどい時にはその場面まんま、何を言っているのか判らなかったりとか。
特に、ギンコが途中立ち寄る、虹郎と出会う場所、皆ニギヤカに談笑しているんだけど何を言っているのか全然判らず、そこに集っている人たちもただ昔からの知己なのかな、ぐらいにしか思わなかった。
あれ皆、蟲師たちだったのかあ。判らんて。蟲師同士の、いわばギョーカイだって判ってれば、交わしてる専門言葉が判らないのも納得したけど、彼らがギンコと同じ蟲師で、ここは彼らの集う場所だってことも、判んないんだから、まるまる意味不明なんだもん。

まあここは、これから共に旅をすることになる虹郎との出会いの場所ってだけで、いいのかなあ。
虹郎を演じているのは大森南朋。小さな頃に見た、ヘビのようにくねる虹を追いかけている。
ギンコとの旅の最後に、彼はそれを見ることが叶うのだけれど、それ自体が蟲だなんてことも、見ている時にはピンとこないんである。
それが判ってれば、この虹郎もまた、今はともかく子供の頃にはギンコと同じように蟲が見えて、蟲師としての才能があったのかもしれない、などということにも思いが及んだのになあ。
いや、実際、子供の頃は皆、蟲が見えていたのかもしれない。
そういやあ、西欧諸国でも、子供は妖精が見えるとか言うもんなあ。

話のメインとなるのは、ギンコの蟲師であるアイデンティティに関わる部分をひも解いていく中盤以降なんだけれど、彼の、蟲師としての存在や仕事ぶりを表わすために示される、プロローグの方が心惹かれるんである。
雪深い山道で、ギンコは一夜の宿を頼む。彼が蟲師だと判ると、片耳が聞こえなくなってしまった者たちを看てやってほしい、と言われるんである。
音を食う、阿という蟲が、その中に巣食っていた。
一切の音を消し去る雪に追われて山から降りてきた阿が、人の耳の中に住み着いたと思われる。それをギンコは治してやる。
その手際を見た宿の女主人は、もう一人看てほしい患者がいると打ち明ける。
それは逆に、止まらない騒音にずっと悩まされ続けている幼い女の子だった。阿の出口となる吽という蟲が原因らしいのだが、それは耳の中に住みつく蟲ではない。そして、彼女の額にはツノが生えている……。

この女の子の面相が非常に独特でね。見えないものが見える子供、というお顔をしているのよね。
そしてそれは、母親から受け継いだものなんである。彼女の母親は、自分の声が聞こえないぐらいの蟲の声に悩まされて、衰弱して死んでいった。
その遺体からぽろりと零れ落ちたツノを、この子は拾い上げ、額に当ててみた。
その時から音が止まらなくなった。
彼女の頭の中に、母親の「お母さんの声を忘れないで」という声がこだまし、次第にそれは騒音となり、この子を苦しめることとなるんである。
つまり、彼女自身の問題であることを、ギンコは突き止める。

蟲、目に見えないもの。その音。それもまた、目に見えないもの。
蟲が見える蟲師やこの女の子の視界で、目に見えない音とともに蟲が眼前に広がる描写は圧倒的である。そしてそれが見えない人、それは観客も含まれるのだけど、に合わせた、やけに静かな場面もまた、そっと差し出されるように挿入されてくる。
蟲を避けるために蚊帳を吊った中、二人が対峙する場面、あるいは木のむろに隠れているこの子を見つけて「意外に広いな」とするりと彼が入ってくる場面。
画面にいるギンコとこの女の子、二人には蟲の姿も声も聞こえているハズなのに、場面自体はやけに静かなのだ。
それは当然、不気味なんだけど、妙に心地よくもある。
それは、私たちには見えないものを、ギンコが冷静に見据えているからだろうか。

そして、虹郎と出会い、彼が向かったのは淡幽という少女の住むお屋敷。この家は代々、蟲の記録を集めている。彼女は日本一の蟲の知識がある少女である。そして、その蟲を文字によって封じ込めている。
演じるのが蒼井優だから少女としか見えないけれど、彼女はどこか高貴な雰囲気で、ギンコに対しても目上口調で、使えている女や、そしてギンコにも淡幽様、と呼ばれるんだよね。
で、ギンコが淡幽を訪ねたのは、急遽来るようにとの文が届いていたからなんだけど、到着してみると彼女は蟲に侵されて、息も絶え絶えに苦しんでいるのね。
本来、淡幽は蟲を愛玩物として共に暮らしているんであって、その蟲が主人である彼女に牙を向くなんて考えられない。そしてそうなってしまうと、どう対処していいのか判らない。
しかしどうやら、そこには謎の蟲の存在があるらしいんである。数日前、淡幽にある蟲の話をしに訪れた老婆の存在。
その老婆が口にしたのは、ギンコという言葉。しかしそれは蟲の名前で、ギンコはその老婆に覚えがないし、老婆もギンコという男など知らない、と言った。
しかし、淡幽の今の状態は、ギンコと何か関係があるらしい。
ギンコはその蟲と、そして内なる蟲と対峙することになる(ってことなんだと思う、多分……)

ところで、この淡幽を演じる蒼井優の、凄まじい美少女っぷりにはただただ、ため息をつくばかりなんである。
おっとりと和服を身につけている様といい、文机の脇息にもたれかかっている風情といい、蟲に蝕まれて首筋にかかる汗にぬれた黒髪といい、風呂の中で血を流しながらうめく様といい(あ、これは身体の中から蟲を追い出すためね)、もう全てが萌え萌えで死にそう。
しかもそんな彼女が、あのオダジョーに「好きと言えない」などと思われているとは!(後述)
このスケベ男(偏見)が本気を出した時を考えたら、もうコワすぎるんだけど!
彼女はオーディションでこの役を勝ち取った(!)と言うけど、私にとっては彼女がいなければ、正直この映画に価値は見い出せない。

この謎の蟲を解き明かすために、蟲の記録がぎっしりと詰まった倉庫に入るギンコ。巻き物の字を眺めながら、「キレイな字だな」とつぶやく。「当たり前です!」と怒るおつきのおたまに、「淡幽らしいキレイな字だと思ったんだよ」とギンコは笑う。
こんなところにも、なんだかちょっと、彼女への愛を感じてしまうんである。
しかしその巻き物の字は段々とにじみ、黒い煙のようにたち登り、そこら中の巻き物を侵食していく(多分)。

淡幽がなんとか蟲から脱出した替わりに、ギンコ自身が全身を蝕まれてしまう。
その彼の元に駆けつけ、彼の中から字をとりだして、巻き物に戻していく淡幽。
ギンコがどういう状態になったのか、これもよう判らんのだが、倉庫中に充満している字を長い杖で絡めとっては巻き物の中に戻していくという作業は、見たこともない構図なだけに、しかもそれが、額に汗する蒼井優嬢であるだけに、なんだか見とれてしまうんである。
しかも、淡幽自身が書いた字を、っていうのは、なんか、ちょっと、エロティックかも。 ギンコの中に入り込んでいるのが彼女の記した蟲の記録だとしたら、それによって彼が息も絶え絶えで、その彼の体の中から自分の字を、淡幽もまた、息も絶え絶えになりながら、元の場所に戻していくって考えると……なんか、やっぱり、すっごい、エロじゃない!?
妄想しすぎかなあ……。でもこの文学的で哲学的で伝承的な中で、素直じゃない二人がねじれまくってこうなっているのは、やっぱりやっぱり、エロだよ!(やっと楽しくなってきた)

何とか息を吹き返したギンコだけど、目はうつろで、ろくに言葉も発しない。まるで正気を失ってしまったような状態が続いた。
淡幽もそれをどうすることも出来ず、あるいは淡幽自身がそうであったように、それは彼にしか解決できない問題ということなのか……ギンコはまた旅の空に出る。虹郎がギンコを支えるようにして共となる。
道行の中で、病める者を治すことで少しずつ正気を取り戻していくギンコ。
それまでの道行きでも、そうやって蟲師としての存在意義を自分の身に再確認していたのだろう。
そう考えると、いつも綱渡りで、孤独な存在。基本、旅は一人きり。だから今回、虹郎が同行し、しかも彼に支えられたことで、彼はうろたえた。
自分のせいで他人に迷惑がかかるのが心苦しい、と。
他人に関わるのが慣れていないのだ。旅の宿をとるぐらいは慣れているけど、その換わりにこうして、蟲師の仕事で返してもいたんだろう。全くの無償で助けてもらうなんて、慣れていないんだ。
だからこそ、こんなに優秀な蟲師なのに、好きな人に好きとも言えないんだ。

そうなの。心を許した虹郎に、段々正気を取り戻していったギンコは、そんなことも口にするのだ。
虹郎がね、淡幽がギンコを助けるために一生懸命だったと言うと、ギンコはどこか寂しそうに笑って、「淡幽はいつも一生懸命だ。だからオレは好きだと言えないんだ」と。
彼女とのささやかな回想が彼の頭をよぎる。
いつも家の中にこもっている淡幽が、ギンコと一緒に外に出ている。柔らかな陽の光を浴びている。嬉しそうな笑顔。
「これは道行きだぞ、ギンコ」
ああーん、蒼井嬢が年上のオダジョーに目上口調!萌えるわー。
「ひとつの場所にしかいられない淡幽様と、ひとつのところにはいられないギンコの道行きですか。さて、どこに行くんでしょうか」
そのおどけた言い回しはテレ隠しのようにも思えたけど、確かに当たっているんだ……。二人が交わるのはほんの一瞬の点に過ぎない。
でも、だからこそなのか、その一瞬の時に向かって、淡幽は座したまま、ギンコは流動しながら、全力で生きている。
蟲という運命に手綱を握られて。そここそが共通しているなら、同じ運命ではないか。
しかしこの場面、回想のように思えたけど、ギンコの中の幻想だったのかもしれない……なんかこの辺りも判りづらいんだよなあ。

虹郎が焦がれていた虹も見ることが出来た。郷に帰って親父のやっていた橋大工の道を目指そうと思う、と虹郎は言った。そして、ギンコと虹郎はここで別れることとなる。
この後ギンコは、自身の中にある蟲と対峙することになるんだけど、どこかでそれを予感していたのだろうか。いつか俺の郷に訪れてくれ、と言う虹郎にギンコは、「それまで俺が生きていたらな」と薄く笑う。虹郎はなんと言うことも出来ないのだ。
しかし道が別れ、それぞれに歩き出し、しばらく行って虹郎は振り返り、小さくなってゆくギンコの背中に向かって言う。
「ギンコさんは淡幽さんと一緒に、オレの郷を訪ねて来るんだ!オレには判る!」
実際は大森南朋の方が年が上なのに、オダジョーに向かって目下口調がそそられる。彼はこういう母性本能くすぐりキャラが似合うのよね。
ナマで見ると、彼もまた色気のある男なのだが。

トコヤミという蟲が発生した原因、そしてそれを封じ込めるための旅。それはまた、ギンコ自身の過去へと向かう旅でもあった。
このあたりでようやく、並列で描かれていたヤキという幼い男の子と女蟲師、ぬえの道行きが、過去のギンコの物語だということが飲み込めてくる。
彼は、たった一人の母親を、鉄砲水による土砂崩れで失った。生き残った彼を拾ってくれたのが、片目を長い前髪で隠したぬえだった。
彼女が住む深い森の中、その沼には、一つ目の魚しかいない。
トコヤミに飲まれて、片目の光を失う運命なのだという。なぜ両目じゃないのか、と彼は問うたけれども、ぬえは答えなかった。
その両目を失う時、その命も消えるんだということを、彼は後に知ることになる。

そして今、現時点でのギンコもまた、あの頃のぬえのように、銀髪の前髪が片目を隠している。それを虹郎に、片目はガラス玉なんだと語ってた。ただ、なぜそうなったのかは覚えていないと。子供の頃の記憶がないんだと。
しかしそれも、明らかになる。彼の片目は、蟲に飲み込まれてゆくぬえを助けようとした彼女自身によって、潰された。
彼女がなぜそんなことをしたのか、自分のことを忘れてほしくなかったのか。自分の痕跡を残したかったのか。
確かにギンコはぬえのことをずっと忘れていた。ぬえのことというより、子供の頃の記憶を忘れていた。
なぜ自分が、ギンコなどという奇妙な名前なのかも。

すっかり老婆となって、トコヤミに全身を食い尽くされたような状態のぬえと出会い、ギンコはようやく全ての過去を思い出す。
ぬえなのか、と問うギンコ。しかしぬえは、ヤキ、ヤキが戻ってきた、とつぶやくばかり。彼女にとって彼は、ギンコという名は持たない。愛しい息子の替わりに現われた少年なのだ。
ぬえは、夫と息子をトコヤミに飲まれた過去を持っていた。もう世を捨てていて、蟲に食われることをどこか心待ちにしているようなふらりとした風情のまま生きていて、その時に出会ったのが幼き日のギンコだったのだ。
映画に出ているのは実に久しぶりに見る江角マキコが、さすがの存在感。すらりと背の高い、浮き世離れした女蟲師がゾクリとくるぐらい素敵である。

しかしなんつーか、どう終わったのかも判らないぐらい、唐突に終わってしまったような気がするんだけど、これで何かの決着が得られたのだろーか……。
大体、ここまで何とかストーリーを追ってきたけど、それ自体合っていたのかも、ヒジョーに疑わしい。
判りづらいんだもおん。
ただ、画は凄く惹かれる。これが大友監督の新作ということもあるけど、フィルムマーケットからひっぱりだこになるのも判る気がする。確かに最新VFXがウリなんだろうけど、それを殆んど感じさせないぐらい、リアルなあやかしの世界に酔わせる。
それを助けているのが、あやかしの世界の住人になりきった、没頭傾向である役者さんたち。

どんな映画でも非常に画になるオダジョーだが、一つ間違えるとマンガチックになりそうな銀髪の蟲師のギンコを、いつもは大放出の色気も抑え気味に演じてる。
そうなのだ、色気を抑えても、さすがオダジョーは画になる男なのね。まさか彼の口から、好きな人に好きと言えない、などという台詞が出てくるとは驚きなのだが、子供の頃の記憶がないこと、どこか崇めるように彼女のことを思っていること、がそんな臆した気分を感じさせるのがこのギンコというキャラなんである。
それが似合ってしまうのが、実に意外。
お医者さんが萌えるように、蟲師もまた人を癒す存在だから、萌えるのね、きっと。

「ここ何年も新種の蟲の報告は聞かないわ」と言っていたおたまの台詞が、蟲さえも生きられなくなってゆく日本という国の、現代の虚しさを感じもする。
ギンコが対峙したトコヤミ、そして彼自身の内にあったギンコという蟲が、人間と共に生きてきた蟲たちの、その最後の寂しいあがきだったのかもしれない。★★★☆☆


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