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おいしい生活/SMALL TIME CROOKS
2000年 95分 アメリカ カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ 音楽:
出演:ウディ・アレン/トレーシー・ウルマン/ヒュー・グラント/エレイン・メイ/トニー・ダロウ/ジョン・ロヴィッツ/マイケル・ラパポート/エレイン・ストリッチ
“自称”天才、キレモノ、のレイが計画した銀行強盗は、何たって“自称”なので上手くゆくはずもない。銀行の隣の隣に貸し出されていた空き店舗を借りて、その下からトンネルを掘って銀行までたどりつこうってことだったんだけど、地図を逆さまに見るぐらいお粗末な強盗チームは、最初の日から水道管にぶつかってあわや溺死!?となるぐらいのマヌケさだから、たどりついたと思った先がブティックだったりして、アホもいいところ。しかしそうこうしている間に、その空き店舗でカクレミノとしてやっていた、レイの女房、フレンチーが出している手作りのクッキー屋が行列が出来るほどの大繁盛!テレビカメラも来ちゃうし、そのカメラの前で少々アタマの足りない売り子のメイが、「地下を掘って店を拡大するの」なんて言っちゃうし、んで、あの強盗はこともあろうに警官に見つかっちゃうし。でもその警官のアドバイス、「フランチャイズ!」のおかげで、このクッキー屋はみるみるまに全国制覇、レイたちはまたたくまに成金、失礼ハイソな世界の住人となる。
このクッキーには化学調味料を使っているとか、重役会議ではトイレの修理を決めたとか、工場で働く人たちのセラピーとして肩もみやってるとか、とにかくコイツらの言ってることと来たら、あけすけな上にとんちんかん。しかし業績はとどまることを知らず、フレンチーははしゃいで成金の悪趣味な住まいの内装をとっかえひっかえし、群がってきた上流社会の人々との交流に舞い上がっている。一方のレイはというと、俺みたいなケチなこそ泥にこんな生活似合わないよ、と最初っからそのいごこちの悪さに困惑気味。ハデなシャツにネクタイのスーツ姿より、ひざ小僧の出たヨレヨレの半ジーパンにポロシャツの方が性に合っているのだ。フレンチーがハンサムな不動産業者、デビッドから「マイ・フェア・レディ」よろしく上流社会の教養を伝授してもらおうとしているのに最初こそ付き合うものの、すぐに知恵熱状態で戦線離脱。そうこうしているうちに、フレンチーはデビッドにすっかり熱を上げ、デビッドはこの成金マダムの財産狙いに照準を合わせ、彼女の陥落作戦に出始める。あわや!
一時期の、面白いんだけど、何かどれ観てもおんなじような話にしか思えなかった、豪華キャスト総出演の作品、の流れは前作で本当にスッカリ鎮静化したらしく、本作は本来ウディ・アレンと言ったら思い浮かべるような、シャレているけれど、ちょっとオマヌケで、だからこそたまらなくチャーミングで可愛らしい物語にまとめ上げられている。「最近のウディの映画のなかじゃ、いちばん年齢的につり合った相手役よね」と言ったというフレンチー役のトレイシー・ウルマンの言はまさしくかくや!で、宣伝でも“ニューヨーク式夫婦漫才”のキャッチで押していたのが、ホントだよなあ、と感心しちゃう。夫のボケに妻の毒舌ツッコミの会話が、お、可笑しすぎる。
デビッドに熱を上げている間、フレンチーはレイの夫婦漫才のお相手を少々お休みするんだけど、その穴を埋める?彼女のいとこであるメイがまた最高で!ぬあんと、このメイ役のエレイン・メイは本業は脚本家であり、マイク・ニコルズ監督の妻ぁ!?し、知らなかった!というのにはもったいないほど(?)この奇妙、絶妙な可笑しさはいかんともしがたい?言ってることのピントがズレている、というだけの可笑しさではなく、その彼女自身のピントがズレている、とでもいったような可笑しさ。フレンチーとさして年の変わらない、まあ言ってみればもはやオバサンの域なんだけど、それが、それすらもチャーミングさに加算しているようなところも凄く、イイ!フレンチーからすっかりソデにされているレイが、一瞬このメイのチャームによろめくのも判る気がする。加えてパーティーで「死んだ妻に似ている」とひと目でメイを気に入る老紳士が、メイの奇妙な言動に更に魅力をおぼえるというのも、うーむ、さすがおじいさま、だてに人生重ねてないわあ、全くうろたえないところが、良すぎるッ!しかも、その時のメイのリアクションがまた最高で、「死んだ妻に似ているって、私ってゾンビに似ているのかしら?」違うだろー!
この場面では、レイは自分の本領を取り戻そうと、パーティーの主催者であるポッター夫人自慢のネックレスを金庫から失敬しようと画策しているんである。すでに前のパーティーの時に下見は済ませており、すりかえるためのニセモノのネックレスも用意して準備万端。しかしなんせ小心者の彼は、それとなく二階に行く、というのだけでビクビクもの。階段のところで何度となくそのチャンスを逸している、というアタフタぶりがすんごく可笑しくて、思わず吹き出しちゃう。何とか二階に上がったものの金庫を開けるのにも苦労して、なぜか聴診器を取り出して、トントン、って何だよ、それ!危うく見つかりそうになったときにメイの仮病を演出するのにこの小道具が活躍したりするんだけどね。首尾よく開けたと思ったところにポッター夫人がやってきて、とっさにすりかえようと思ったニセモノとホンモノを一緒にしちゃったもんだから、あとで開いてみても、どっちがどっちだか判らない。両方を手に持って、こう置いたから、こっちが……というしぐさを繰り返しているレイ=アレンがひたすら可笑しくって、もう涙が出るー。
レイがそんなことをしている間に、実は大変なことになっていた。オマヌケなところはレイと似た者夫婦であるフレンチーは、会社の経営を会計士に任せっきりだったのだけど、こいつが実はとんでもない悪徳なヤツで、会社の金をスッカリ横領して、高飛びしちまったんである。それを知らされたフレンチーは茫然自失。当然会社は倒産、莫大な借金の山も作り、金目当てのデビッドはあっさり去ってしまう。そこへ事実を知ったレイが慌てて彼女のもとに飛んでくる。実はレイはこの家を去った、ハズなのだが、でもやっぱりフレンチーは最高の伴侶だから、彼女の危機を見捨ててはおけないのだ!うーん、いいねえ。そんで、レイは直感でこっちだ!と持ってきたネックレスを見せて、これで大丈夫、と言うのだけれど、フレンチーはすぐにニセモノだと見破り、ガラス製のそれをこなごなにしてみせる。ボーゼンとするレイに、フレンチーが大丈夫、これがあるから、と取り出したものは、デビッドにプレゼントしたはずの、目ん玉飛び出るほど高い、ウィンザー公のシガレットケース!レイとの愛の証しである、金庫破りのテクで奪い返したというんだから、フレンチー、最高!かくしてレイとフレンチーはめでたくもとのさやに戻り、固く抱き合ってのジ・エンド。か、可愛すぎるー。
「ブリジット・ジョーンズの日記」ですっかり今までのいい人キャラをぬぎすてたヒュー・グラントは、ここでもハイソなハンサム男、デビッドを、イヤミなんだけどイヤミなく演じるというハイレベルさでやってのける。ううむ、やるなおぬし。殆どスラップスティックのコメディにこれほどジャズが似合っちゃうというのも新発見?トレイシー・ウルマンの言うように、年相応の相手なのは久しぶりで、でもそれは若い美女を相手にしているより、ずっとずっとぴったりでステキで、ニコニコしちゃうんだあ。そうだよ、映画はもっとオバサンを大事にしてよね!
ところで、アレンのインタビューで彼はこんなことを言っていた。「世の中にはひどい人間と悲惨な人間しかいない」だって!いくらなんでも共感はしかねる……と思ったんだけど、あの人は、どうだろうとか、自分はとか考えると妙にハマって可笑しくて、もう私の座右の銘にしちゃおうかと思うぐらい。それに、そんなことを多分大マジメな顔して言ってるであろうアレンを想像すると、もう、もう……あー、涙が出る、可笑しくて愛しくて。ほおんとに、この人、大好き!★★★★☆
まあ、だから、これは単純に戦国時代の悲運、悲恋を映した大河ロマン、と解すれば、別にいいんである。とはいうものの、展開は原作の半分ほどで終わっていて、本当の意味でのお市の悲運が決定的に描かれるところまで行かないのはちょっと不満だけれど、しかしそうなったら3時間ぐらいかかっちゃいそうだもんなあ。本作で一番大事なのはこのお市と夫である浅井長政の引き裂かれてしまう夫婦のしっとりとした、互いを思う情感であって、男は凛々しく美しく、女はたおやかに美しく、ああ、こんな時代もあったのねとただただ見惚れてしまうんである。本当に、美しい。この同じ物語を今の俳優でやろうったって、できっこない。こういう時代劇顔の、美しさ、所作の美しさ、普段から身についているものが違いすぎるのだ。お市は織田信長の妹御。いまや浅井長政の敵だ。夫と兄の間で心を痛め、そんなお市を浅井はことさらに不憫に思い、自分と一緒に命をなげうとうとする彼女を、お前には母としてのつとめがあろう、と敵である彼女の兄に引き渡すのである。この別離の場面は実に実に美しく悲しい。お市はお付のものの中に、この合戦で愛しい人を失い、即座に後を追った歳若い女房がいたことを涙ながらに話し、自分も、とひたすらに訴えるのだが、浅井は母として子供たちの成人を見届けてくれ、と彼女を説き伏せる。この母として、の盾で生き延びてしまうことになることが、お市の(そして弥市の)悲運の元凶なのだが、本作ではそこまで描かれることはない。
織田信長と浅井長政が敵同士になってしまった原因や、その合戦が行き詰まっていく様子、浅井とその偏狭な父親の確執など、このように追い詰められてしまうことになったいきさつはいろいろにフクザツで、そのことをも語らなければいけないし、しかも大型時代劇という性格上、そのスペクタクルな合戦をも描かなければいけないし、というので、実を言うとこの浅井とお市の感傷的な場面に割く時間はあまり取られてなくて、正直、物足りない気がした。大体、そのいきさつの複雑さや合戦をそんなに丁寧に拾う必要があるのかとも思ったし。と、思うのは、私がこの映画の主軸がこの二人の悲恋だと、思っているからなんだろうけれど。戦国時代劇として観る人は、全く逆の感想を漏らすのかもしれない。でも、タイトルでもうたっているように、これは“お市の方”の物語なのだし、今ひとつ原形をとどめてないとはいえ、谷崎の原作ももっぱら彼女をのみ描写しているのだし、やっぱり、ねえ。
しかしまあ、お市を演じる宮城千賀子の、まさしく上臈の美しさは、素晴らしい。湿度200パーセント、て感じの、しっとりからみつくような哀切さ、重く引きずる着物の分だけ哀しみを背負っているような様、現代においたらもしかしてうっとうしい女かもしれないけれど、この時代のこの物語の中の彼女は、その悲運さえも美しさの要素になるネガな魅力が圧巻である。★★★☆☆
小さい頃からずっとご近所さんで一緒に育ってきた白人の少女、クリムと黒人の少年、ベベ。ベベは子供ができないフランク夫婦の元に姉弟そろって養子に迎えられた。この夫婦がなぜ黒人の子供を養子にしたのかはわからないけれど、孤児に白人は余りいないのかもしれなく、あるいは、後に語られるような、宗教に傾倒した妻の問題があるのかもしれないけど、とにかく、二つの家族はお互いに仲良く、一緒の家族同様に暮らし、クリムとベベはどんなときも一緒に成長してゆく。いつから恋が生まれたのか、いつ愛になったのか、そんなことすらもわからないくらいに、初恋が永遠の愛へと育まれた2人。16歳と18歳になったとき、二人は愛を交わし(このシーンの清らかで美しいこと!)、クリムの両親に結婚の意志を報告に行く。普通ならば早すぎる年齢と思うけれど、二人がお互いにお互いだけを見つめあいながら育ったことを知っている家族は、二人を暖かく応援する。
このシーンといい、クリムが妊娠を報告する場面といい、このクリムの両親のリアクションというか、対応の仕方の愛情あふれるさまが、すんごく良かった。まあ、父親は型どおり動揺する。まだ若すぎるだろと思う。だけどまず母親が女としてわかる部分で、そしてもちろん母親としての愛情ですごく喜んでくれて、夫にも有無をいわさずその喜びを共有させて、そうするとお父さんももちろん娘を愛してるし、ベベのことも昔からよく知っているから、なんていうのかな、喜ばざるを得ないというのも変なんだけど、当然喜ぶべきことなんだということに気づかされるというか、そんな感じで。「いつかは親のもとから羽ばたいていくとはわかってたけれど、それがこんなに早いとは」といって、でもクリムとベベの手を重ねあわせて幸せになるんだぞ、と慈愛のこもった目で二人を見つめるこのおとーさんには、アア!
でも、妊娠報告の場面では、ベベはいないのだ。ベベはあのくそったれ警官によって無実のレイプ犯に仕立て上げられてしまっていた。訴えを起こした女性は、行方知れず。それもまた警官の仕組んだことなのか。冒頭から、このベベが監獄にとらえられていて、そこにクリムが面会に行くところから始まる。クリムはベベに赤ちゃんができたことを報告し、それから長い長い道のりが始まる。クリムのお腹がだんだんと大きくなることで、その月日の長さを知ることができる。自分の子供がいる愛する人のお腹にも、手にすら触れられないベベ。穏やかな彼もだんだんといらだちが募ってくる。自分は何にもできない。一生こんなところにいなければいけないのか、と。
行方知れずになった女性は故郷サラエボに帰ったらしいという。そうした弁護士に払う調査費や、旅費を工面するために、二家族たちは、というか、クリムの家族とベベの父親は必死になって働いている。クリムの父親、ジョエルとベベの父親、フランクは、お互いの子供が愛し合ったこと、そして彼らが直面する悲恋によって、親友になった。お互いの子供のことを思い、生まれてくる孫のことを思う。二人ともしがない、しかしガンコ一徹な職人。労働条件立場改善のために血気盛んに戦った若いころもあったけれど、不況の折、そしてこの年になって職を失う恐れから、ただただ黙って働くことしかできない。でも、それも家族への愛情があってこそなのだ。何も恥じることなんてない。この二人の父親の、子供によって、そして孫によってつちかわれた友情が、なんともはや素敵なのだ。
だから、一方で信じるものは神だけ、とらえられた息子のことを恥じているベベの母親と姉が哀しいのだけれど。でも、彼女らもまた、弱い人間であるだけで、決して愛情がないわけじゃないのだ。ベベがめでたく出所することになり、しかしそれを知らずに家を飛び出てしまったフランク、彼は職場をクビになり、行方をくらましてしまったのだという。そのことに動揺するこの母娘の表情は、これからフランクとベベが帰ってきたときに、何もいわずに抱きしめあってくれるという予感を感じさせる。でもジョエルが見つけたベベはものすごい放心状態で、ちょっと死んでんじゃないのと思うぐらいに……まさか!ジョエルが、ベベが開放されること、自分たちが金の工面のためにやったヤバいことも功を奏した、俺たちは勝ったんだと泣きながらフランクに話し掛けても、フランクはその放心状態の表情が解けないのだ。まさか、まさかだよねえ!
ちょっと話が飛んじゃったんだけど、その前、ベベの無実を晴らすためにその被害者の女性を捜し求めて一人サラエボに発つクリムの母親、マリアンヌのシーンもメチャ良かった。彼女は見るからに、そして実際、ただの普通の、一主婦にしか過ぎない。フランス語しかしゃべれないし、威厳もない自分に、果たしてそんな大役がつとまるのかと不安を覚える彼女。確かに彼女が必死に訴える言葉は、なんていうのか、とっても普通で、凝った言葉で相手を融解させるなんていう術には全然長けてない。被害者の弟にも被害者のラディク夫人にも、最初は拒絶されてしまう。もう思い出したくないのだと。もっともである。しかし何が彼ら姉弟を動かしたのだろう。ラディク夫人が犯人を見ていなかったこと、そしてそれをこの弟が証言してくれることになった。マリアンヌは確かにそんな術には長けていなかったけれど、ただ一点、家族を愛する気持ちと、人と正義を信じる気持ちが、その曇りのない思いが通じたのだ。曇りのない、なんて、若い頃に失ってしまいそうなものを、マリアンヌは、あるいはクリムとベベのおかげで取り返せたのかもしれないし、なんかすごくウブな感覚なんだけど、そんなことを感じてしまう。
この、ラディク夫人。内戦の続くサラエボからフランスに逃げてきたであろう人。そしてそこでもレイプというひどい目にあって、どこまでいっても、どこまで逃げても被害者になってしまう哀しみとそれ以上の大きな憤りが、すごくすごくわかる。彼女はしかも悪徳警察官に利用されていたわけだけれど、もしかしたらそのことも承知で、自分がやっと、加害者になれることで(というのも、おかしないい方なんだけど)なにがしかの復讐を果たしたような気持ちになったのかもしれない。確かに人は誰かの加害者となって生きていかざるを得ない。自分が生きていくためには。だけど、それは人間の間に力関係が働いてしまうからだ。みんな愛し合って生きていくことができれば、加害者にも被害者にもならずに済むのに。もちろんそんなことは、余りにも甘い理想の話。でも、それを夢見て、目指さない限り、幸せなんてやってこないのだ。ラディク夫人、他人の家族の愛に触れたのだもの、幸せに生きていってほしい。
クリムとベベの親や、しっかり者で美人のクリムの姉はもちろんなんだけど、嬉しいのは、全然他人で、すっごく素敵な大人たちが出てくること。このマリアンヌの心細い一人旅の支えになってくれるのは、現地のタクシードライバーで、フランス語ができるからというのでいざとなったら通訳をかって出よう、と申し出て、それは必要なかったのだけれど、傍らでじっと見守っていてくれて、そのたたえられた笑みとかっぷくのいい体格からにじみ出る優しさと頼もしさが実に素敵。そしてもう一人、クリムとベベが新居にと借りる屋根裏部屋の家主、レヴィおじさん。彼は若い二人を、そして彼らの愛をとっても信頼してくれて、ベベが捕らえられてもそれは変わらなくて、彼が出所してくるまでタダで貸すから、と前払いしていた家賃も返してくれる。子供を生むんだから、何かと必要だろう、と。そして大きなお腹を抱えたクリムに、たくさん、子供を生むんだよ、という。……ああ、実際、こんな素敵な大人って、いるのかな、なんて思っちゃいけない……自分がこんな素敵な大人になるように、なれるように努力しなくてはいけないのだ。
黒く輝く肉体が見とれるほどに美しいベベ、彼は彫刻を一生の仕事と定め(まさしく彼こそが生きた彫刻のように美しい)、最初こそは芸術家に、といっていたけれど、捕らえられ、そして自分の親、クリムの親のことを改めて考え、自分もまた、芸術家なんかじゃない、彫刻の職人なのだ、と思うようになる。このくだりもちょっと感動的だった。もちろんベベは芸術家だろう。そしてフランクもジョエルもそうだ。誇り高い職人ということは、一人の芸術家だということなのだ。自分が半人前だと気づいたときには一人前だというのと同じように、自分は芸術家なんかじゃなくて職人なんだと気づいたとき、彼は立派な芸術家なのだ。そしてクリム。アムールの国、フランスにおいても、そのベビーフェイスが確かに16歳という幼さを感じさせつつ、その黒い瞳と黒い髪が、ガンコで深い情熱を感じさせる、幼さと大人っぽさが微妙にブレンドされた少女。これが髪もブロンドで青い瞳で、なんていったら、やはりベベと並んだときに、愛し合っているカップルとしてこれほどの説得力はなかっただろうと思う。確かにその肌の白と黒の対照は印象的なのだけれど、彼女の中にベベに流れているような血が感じられるのだ。お腹が大きくなった彼女をベベがきれいだと讃えるのも、このあたりの不思議な色っぽさで実にうなづけるものがある。
ああ、世界はLOVE&PEACEだな!★★★☆☆
というところで、その「悦楽共犯者」の作品情報を改めて見直してみると、何とまあ、ブラザーズ・クエイが音楽をやっているとはどういうことだあ?あの「ベンヤメンタ学院」の兄弟監督だけど、彼らは音楽もやるのか……それも音楽だけで呼んでいるというのが。でも確かに世界観は通じるところがあるかも。それはさておき、本作は、「悦楽共犯者」ほどには全編アニメーション手法という訳ではない。思ったよりアニメ手法は少ない。というより、時間を経るに従って、クライマックスに近づくに従ってそれがじわじわと増えていく、という感じである。シュヴァンクマイエル監督の用いる、実写映像の中に実写アニメが組み込まれるという手法は、その動きのギャップが頭ん中を引っかき回されるような、独特のドライブ感を生み出す。だから最初からそれがふんだんに盛り込まれているよりも、知らず知らずに増えてきて、知らず知らずに中毒状態になってゆく、という本作の手法はとても効果的で、意外に静かなラストを迎えて黒味のクレジットを目の前に、ふう、とため息をつくような、そんな心地よい疲労感&脱力感を得られるのだ。
オテサーネク、というのは、チェコの民話なのだという。劇中でも、実写アニメとはまた違った手法で、生めかキモい女の子、アルジュビェトカが読んでいる絵本によるそれが、紙芝居アニメとでもいうような趣で展開されていく。赤ん坊の形に似た木の切り株が、本当に動き出して、成長して、その旺盛な食欲が衰えることがなく、どんどん人を食べていき、怪物となって行く話。このオテサーネクが、不妊症の夫婦に授けられた切り株の赤ちゃんとなって蘇る。冒頭、ホラーク夫妻が産婦人科に出かける場面から、もう悪夢は始まっている。夫は窓の外に、まるでいけすの魚を売るかのような赤ちゃん売りを見かけ、切ったスイカの中には赤ちゃんが入っており、そのたびに目をしばたたかせ、頭を振ってその幻想を追い払おうとする。一方の妻は、これはもうすっかり赤ちゃん欲しい欲しい病にかかっており、妊娠がムリだと判っても用意した産着を捨てられない。この妻の、ほとんど脅迫めいた悲劇の状態に追いつめられるようにして、夫は赤ちゃん型の木の切り株を妻にプレゼントするのである。すっかり赤ちゃんモードに入っていた妻には、それがホンモノにしか見えない、という狂気の状態に陥ったのは無理からぬ話だったかもしれない。
ご丁寧に産み月まで徐々に大きなクッションをおなかに入れて偽装妊娠をし、この切り株赤ちゃんを迎え入れるのだという妻。しかしこの妻も頭のどこかではこれがおかしいことだと判っている。だから“生まれた”赤ちゃん、オティークを人には絶対に見せることはない。しかし同じアパートに住むシュタードレル夫妻の娘で、性のことや赤ちゃんのことに興味津々のアルジュビェトカに嗅ぎつかれてしまう。オティークは“生まれた”とたんに泣き声あげ、手足を動かすようになり、どんどん食欲旺盛になり、凶暴になり、猫を手始めに周りの人間も襲うようになる。毎日大量の食糧をへとへとになって買って帰っても、足りない。手におえなくなった夫妻は、オティークを地下室に閉じ込めて餓死を待つことにするが、それを見つけたアルジュビェトカがこれまた妙な母性本能を発揮してオティークに食事を与え、育ててしまうのである。果てはマッチ棒のくじでエサにする人間を決めるところまでいってしまう……。
ほとんど怨念めいた思い込みでオティークに生命を与えてしまった、とでも言うようなホラーク夫人の“赤ちゃんが欲しいのよ!”演技は、昨今の風潮の逆を行っているからこそ、余計に強烈。しかも彼女の演技は切り株相手にママゴトをしている、という雰囲気ではなく、まったくもって真剣そのものなので、余計にコワいのである。この妻にすっかり気おされているホラークの、常に押されっぱなしのキャラの方がどこかフィクショナルに感じるほど。
しかし何と言ってもアルジュビェトカの素晴らしさよ!この子は同じアパートのヨタヨタの老人にいつも好色の目を向けられているんだけど、それも納得でね。それにしてもこのじじいの、アルジュビェトカを見かけるたびにめがねをかけてうへへへ、とばかりに想像の手を動かすキショさよ!まあ、判らないでもないが……特に彼女の、ムチムチのお尻にパンツが食い込んでいるさまなんて、ほとんどR指定モノだもんなあ。せいぜい10歳かそこらなんだろうけど、指輪やピアスも妙に似合って、女の色香を感じさせるほど。眉毛も金髪だから眉毛がないように見え、その細い目といい、妙にコワい顔なのもイイんだよなあ。女王様の資質あり!って感じ。何か肉体が、まさに“肉体”って感じで、なまめかしいのよ、ホント。
全編にわたって示される、吐瀉物のイメージのグロさが凄くって、これがこの作品のテーマ!?じゃないかと思うほど。この吐瀉物への執着は福居ショウジン監督の「ピノキオ√964」なぞを思い出してしまった。シュタードレルの口から垂れるチョコレートのクリームや、ホラーク夫人の偽装つわりに使われる、ピクルスに生クリームをたっぷりのっけたものを食べて、それが口の中でぐちゃぐちゃになったのを洗面所に吐き捨てるという、あの絶妙の色と質感(うげげ)のそれとかはそのまんまだけど、何よりグロくてイイのは、食べ物を接写した時に吐瀉物を想起させるものなのだ。シュタードレル家に出てくる食事は何かいつでもスープかオートミール状のものなんだけど、それの映し方がすっごいグロいのよー。映し方っつっても、接写しているだけなんだけど、それだけであんなにキモいもんなのかという驚きで。あ、でも音もね、グチャッてちゃんとするの。念いってる……。食べ物も吐瀉物も同等、同価値のレベルでとらえているというのが、ひょっとしてすっごく深い?
オティークに食われて、そのオティークが殺された時に物語のオテサーネクと同様、その腹の中から今まで食ったものが出てくるんなら、人間も吐瀉物と変わんないわけで、そしたら、吐瀉物を食ったって変わんないわけで、人間なんてラララー♪じゃないけど、まあ、人間なんてそんなもんで、っていう……。うひゃあ、これって、描写のグロテスクよりももっと上を行った論理上のグロテスク!ヤバいなあ、キちゃってるよ……。あ、でもさ、そういうグチャグチャとしたものっていうのは、割と物質の起原というか、日本でもその昔はナマコとかを神聖視していたわけだし、そういう宗教的、思想的なものも思い出させなくもないんだよね。民話というのも神話と言い換えも出来るしね。何もかもを食らって巨大化していくオティークなんて、ちょっと傍若無人な神みたいじゃない?これって、神様をひたすら聖人視している文化では考え付かないことなんだけど、日本でなら理解できるというか……この作品が作られたチェコではどうなんだろう?
ああ、それにしてもシュヴァンクマイエル!彼は本当の意味で天才といえる、数少ない作家ね!★★★★☆
それになんたって監督は下山天だから!「cute」そして大好きな「イノセントワールド」と惚れまくってきた監督。今回はメジャーの企画もの、いわば雇われ仕事ってことでどう出てくるかな、と思ったら、かなりの遊び心で弾けてきてくれた。「狗神」がフィルムの世界なら、こちらは完全にデジカムの世界。原作がゲームだし、ゲームの専門家である若者がそのテクニックを駆使して切り抜ける展開だし、ま、当然と言えば当然なのだけど、二本セットで同じように宣伝されてるのに注文をつけたくなるほど、「狗神」とは本当に、全く違う。その点思えば「らせん」は、「リング」から逃げ切れなかったことが敗因だったように思うんだけど(でも不思議だよな、別に「リング」を観て作ったわけじゃなく、完全に別々に作ったはずなのに、そんな印象を受けちゃうのは……まあストーリーを引き継いでるから仕方ないんだけど。)。
出演者のカラーからして全然違う。完全に若者!な奥菜恵と斉藤陽一郎というメンツ。そして目をひんむいたのは、キャストに名前があるけど、そしてそうだとしたら確かにあの女の子なんだけど、えええ!あの金髪&ジャラジャラが松尾れい子おお!という驚き。フーセンガムを噛みながらキーボードを叩くパンキッシュな女の子をハツラツと演じてて、松尾れい子、やっぱ最高だなー!その点ヒロインである奥菜恵は、なんかいつ見てもおんなじような印象というか、確かに美少女なんだけど、今ひとつインパクトに欠ける。そういうキャラばかり振られてるせいもあるだろうけど。キャラで冒険させてみたいと感じさせるタイプの女優さんじゃないんだな。
その奥菜恵ふんする奈美が、両親だと思っていたのが実はおじ夫婦で、本当の親は高名な前衛画家だということを知る。今や廃墟となってしまった洋館を探索して幼い頃の記憶を手繰り寄せようとする。いくつもの部屋、開かずの扉、隠し部屋、オルゴールに隠された二人の赤ちゃんが映った写真、ミイラ化した幼児の遺体、猟奇的な油絵に描かれた謎を解く黄色い花……こうしたベタなゲーム的展開を陳腐なものにさせないため、そのふところに飛び込むようなやり方をしてる。もうこれは冒頭から示されているんだけど、この現実をゲームの原作として使っているのであり、最終的なオチとしては現実などではなく全てがゲームのために用意された要素であり、展開であったのではと思わせるつくりである。
最初の刺客としてあらわれる管理人なぞ、明らかにゲーム的キャラクターなので、実際に登場するとクサくなるところを、ゲーム画面で出してくるなど、現実?とそれをもとにしたバーチャルな世界とを非常にバランスよく融合している。だから全ての画面に過剰なほどのデジタル処理が施されていても、それが鼻につくことなく、世界観にマッチしているのだ。ゲームの取材のため奈美の元恋人でゲーム会社の社長である公平(斉藤陽一郎)はビデオカメラを片手に潜入していくのだけれど、この主観的映像がまさしく先行選択型ゲームのそれである。しかしそのビデオに何かが映りこんでいるかもしれない、かすかな声が聞こえたかもしれない、と思わせる微妙な感覚は映画的で面白い。
突如明かされる双子の妹、直子の存在は、実は死んだのでは、実は男の子だった!?という、二段構えで仕掛けてくる。男の子だった、というのは違って(違うよね?)直子をモデルにして絵を描いていた二人の父親である画家、貝沢創一が、彼女を美少年に見立てていたからなのだけれど、半ば虐待のようにして彼女を扱っていた貝沢に対しての、愛憎の感情のきわみが直子をそんな風に混乱させてしまったわけで。しかし髪を無造作に切って、低めの声で男言葉で、でも奈美と同じ白いワンピース姿で……という、こっりゃまあ、実に耽美的な奥菜恵!ソレ系趣味のマニアが喜びそうな(私か!?)キャラである。しかも直子は奈美と同じ歳のはずなのに、その口調といい印象が妙に幼く、精神的な成長を止められてしまった美少年(美少女)の哀しい美しさをも感じさせる。うーん、鼻血ブー!
直子は憎むほどに愛する父親の集大成である遺作を完成させるため、彼から絵の才能を引き継いだ姉である奈美に、自分をモデルに絵の続きを描いてほしい請う。目から血を流した美少年が、炎の中にたたずむ姿……それを再現するために、本当に目をつく直子、血の涙、彼女を包む炎……呆然としながらも、憑かれたように絵の具をキャンパスに塗りたくる奈美。
この作品のキーワードになっている弟切草。弟を、切る、というのは、自分の分身である弟(直子)を切って捨てるということなのか。それともその花言葉になっている“復讐”か。誰が誰に対しての復讐?直子が奈美に対しての、だろうか。自分がモデルの画を姉に完成させたことで、姉に手伝わせて自分だけが父の世界に入っていったことで、父を独り占めすることが出来たという……ずっと、父親の心の中にいた奈美に対する嫉妬心。双子というねじれたアンビバレンツ、自らを肯定するために女である自らを否定するという構図もまたねじれている。この直美は父親に好かれていた頃の、揺れ動いている10代の少女性、少年性を同時に持ち、そして持ち得ていない。直美が存在するためには奈美が必要なのだ。そして今までは父親の中にいた奈美が、父親がいなくなってしまったことで、消えてしまった。直美の目の前に現れた、現実の奈美は、直美にとっての奈美ではない。直美が存在するために、あるいは存在したことを証明するためには、現実の奈美によって、直美にとっての奈美が存在した父親のもとへ送り出してもらうしか、なかったのだ。
虚構の世界をリアルに活写するのではなく、虚構の世界だからこその魅力を大切にしている。二役をなかなか熱演している奥菜恵もそうしたいい意味での虚構性を感じさせる女優だし。ちょっとカルいからくりで遊び感覚もあって、なかなか楽しかった。★★★☆☆
主人公の一人である椎名桔平を除いては、殆ど全てが監督、堤幸彦演出作品の出演経験者、なのだという。彼の主なフィールドはテレビ演出。そのせいなのか、この悪い意味でのテレビっぽさは。テレビっぽさというのがなんなのか、私はこの作品を観てようやく判った気がする。今まではこの言葉を使うのは、映画だから良い、テレビドラマだからつまんない、あるいはその逆、って感じで、ものすごく説得力がないのにただ思い上がっているだけのオタクって感じでヤだったんだけど、テレビっぽいとしか言いようがない時が、あるんである。もちろん、映画っぽいという言い方も出来る。テレビドラマで映画っぽかったり、映画においてテレビっぽかったり、テレビドラマがまんまテレビっぽかったり、映画がまんま映画っぽかったり、といったこともある。それで、テレビっぽいというのはなんなのかというと、それは多分俳優。俳優の意味の置き方。私はカッティングとか、そういうものに関してそう感じるのかなと思ったんだけど、違ったのだ。
それは単純にテレビに出ている俳優が出ているから、というものではない。だって私はテレビドラマは殆ど観ないので、本作に出ている俳優さんたちに関しても、テレビで活躍しているというのは判ってても、映画でしか観たことない人ばかりなんだから。それに例えば三谷幸喜の「ラヂオの時間」なぞは、そうした私でも判るテレビ的俳優のオンパレードなのに、それを感じなかった。その違いがなぜかというと、本作での彼らが“椎名桔平”であり、“窪塚洋介”であり、“仲間由紀恵”であり、という、役というよりも、人気俳優の記号としてそこに存在してしまっているから、なんである。椎名氏のジョー命のオヤジキャラは可笑しいし、窪塚氏の女装癖のある中性的な青年はハマってるし、ただただ美しくクールで、でもどこかハズれてる仲間氏は見とれるほど完璧な美女だし、なんだけど、そこには役に生きている彼らはナゼだか見えないのだ。一人一人が、そうしたトンデモキャラを与えられて、一見ハジけているように見えて、それは椎名桔平が演じる、窪塚洋介が演じる、仲間由紀恵が演じる、それらとして意外性を発揮しているだけなのだ。
それは押しも押されもせぬ銀幕のスター、宍戸錠に至ってはあまりに象徴的である。何せ彼は本人役として出演して、しかも、その登場シーンはテレビの料理番組にゲスト出演する、っていうんだから、あまりにも完璧に宍戸錠の、しかも“テレビっぽい”記号なのだ。皮肉なまでに、私が感じたことを裏打ちしている。野際陽子、彼女はあまりにもあまりにも、テレビ的だ。友情出演だというその役柄、あまりにも……それ以上、何も言うまい。そして、そう、言葉や名前やセット美術、それらのディテールにこだわっている割には、“ノリを大切にして、ライティングを気にせず撮影”というのがどうもなあ……。それって、どっか矛盾じゃない?ディテールにこだわることで満足してしまって、本当に大切に映画を撮っているという感じがしないのだ。
堤監督は、“日本映画でもここまでアホなことができるんだということをちゃんとやりたかった”とインタビューに答えている。何を、言ってるのだ。アホで面白い、それならばサブ監督、矢口史靖監督、松梨智子監督、三原光尋監督、 そして今や押しも押されもしない三池崇史監督らが“ちゃんと”やってるわい!国際的評価も受けてるわい!ほんとに彼は日本映画を観てるのか。それこそエースのジョーの時代の映画しか観てないんじゃないか。こんな大メジャーにかかる映画をやれる立場でなんでそんな無知で無責任なことを言うのか。大体、そこまで言うなら、ほんとに“アホで面白い”映画を作ってよ、もう!それにこの堤監督ならではとか斬新ぽく言われてるカッティングも、そのジャンプカットとか、こんなもん、現代なら洋の東西問わず散々使われてるよ。保守的なハリウッド映画では殆どないけど。ハリウッド映画だけ基準にしてモノを言ってる気がして、ヤダなあ。
あっ、あまりにイカりすぎて、ストーリーを書いとくのを忘れてた。書いとかなきゃ、私すぐ忘れちゃうから。えーと、つまり警察内部で、汚職を行っている刑事(伊武雅刀)の罪を明らかにするために派遣されたハミダシ刑事二人組、椎名氏と窪塚氏。んで、その指揮を取るエリートが仲間氏で、実は彼女の上にさらに全てを操ってる警視正、渡辺謙扮する御代田がいる。潜入捜査先のクラブの経営者、岡部を演じるIZAMや、頭の悪いヤクザ白竜(この設定も意外で面白いはずなのに……)らがとりまき、実はこの御代田による、“計算されつくした偶然”(宣伝コピー)を駆使した皆殺し計画だったことが明らかになる、という筋書き。岡部が脅迫している大手フィルムメイカー、ダイヨーが強要される、人ごみの中での屈辱的な行為も、面白いはずなのに、面白くない。それは例えば、こう。モーニング娘。の「ハッピーサマーウェディング」を雑踏の中で振りつきで歌いながら、ストリップしていくという。幹部たちがその振りを練習してるところとか、モー娘。を「モーコ」と読んじゃったりとか、「なっちの衣装はノースリじゃなくて、そでがついてるんだ!」と怒るオタク社員がいたりとか、そうした時代に目配せした部分があまりにも無粋で、笑えるどころかしらけてしまう。これは、私がモーニング娘。を好きだから、そう思う部分もあるとは思うけど、それだけではない。例えばその披露する曲「ハッピーサマーウェディング」を「ちょっと古いけど」などと言って、撮影時には多分モー娘。の最新の曲だったに違いなく、公開時のことをにらんでそうしたのだろうけど、そんなこと、映画という永遠性のあるソフトには何の意味も持たないのだ。流行モノを入れただけで古びてしまうことを予感させるのに。こういうあたりも悪い意味でテレビ的なんだよなあ。
ゲイやオカマということに対する表現の仕方も、気に入らない。別に過剰に配慮しろというつもりはない。そんなことをしたらコメディそのものが成立しなくなってしまうから。でも、ゲイであるかもしれない、オカマであるかもしれないという、逃げの姿勢でキャラを作っておいて、その実ゲイでありオカマであることを笑いにするというのは気分のいいものではない。そう、過剰に配慮しろとは言わないけど、今の時代最低限の配慮は絶対に必要なのだ。それになんなのあのラストは。あまりにも無粋。食事に出かける三人をカメラが追うと、その手前に「溺れる魚2」の構想を練る人が出てきて、このワザとらしい引っ張り方は、こりゃ、クレジットのあとにもひとくさり入れてくるかな、と思ったら案の定。画面が黒味のままでクランクアップしたあとのヤラセの会話が繰り広げられ、監督?が「(映画)面白かったよね?」と一言。こりゃ、反語的な自信満々さなのだろうけれど、面白くなかったよ!
それと、これから公開の堤監督の映画作品に主演しているという、つまりは堤監督お気に入りらしいIZAM、そんな、入れ込むほどの俳優かあ?少なくとも本作では、演技全般、例えば舌をレロレロしたりするのも(これは本人のアドリブでだいぶカットされたらしいけど)ステロタイプで、アップだとメイク荒れに幻滅するし(ま、それは本人には関係ないけど)、オイシイ役のはずが、予想のラインをリンボーダンスしてるって感じ。でもそれって、あるいは最終的な演出、編集のせいなのかも。だって、キャラは誰か一人突出してるってのが、ないんだもん。先述したゲイ、オカマであるかもしれない、ってのもそうだし、それは多分意図的で、みんなを立たせようとしてるんだろうけど、それが最終的にメリハリのなさにつながってしまった気がする、んだけど。
本当に“映画”を作っている映画作家をさしおいて、こういう作品が、しかもこれで「日本映画への期待を抱いてもらえるような作品にしたい」などと言ってる監督の作品がメジャーにかかって、メジャーの日本映画となってしまうという、この現実。全く違うカラーだけど、「ホワイトアウト」の時にも同じことを感じた。日本映画は世界一素晴らしいのに、世に流通してる日本映画は、……なぜこうなってしまうのだ、それこそが悔しくてたまらない。★☆☆☆☆
というわけで、これはノン・クリスチャン、一般的な映画観客にとっては、キリスト教の映画と言うより、やはりヤクザである人間がカミさんの愛によって人間が生まれ変わる物語、と言った方が正しいように思う。カミさんはクリスチャンな訳だが、別に彼女たちの祈りが神に届いたわけではなく、ただただ祈り続ける=愛しているがゆえの、心痛なる心配が、彼らの心に届いたと、こういうわけなんである。祈る、信仰という行為は、愛を描くための象徴的行為に過ぎない。それは、どうしようもない極道、島をかばって刺され、ハンドバッグに入っていた聖書がクッションになったという、一見すればそれこそ神に助けられた現象だとクリスチャンの人ならば感じてしまうかもしれない場面でも同様である。それは神の奇跡ではなく、愛の奇跡なのだ。血にまみれた聖書を見て涙にくれる島は、神に感謝しているのではなく、明らかに妻の愛に感謝しているのだ。そこを間違えてはいけない。
繰り返して言うけれど、それは事実とは多分違う。原作となった元ヤクザでミッション・バラバの方たちは、真に神の愛に触れ、真にクリスチャンになったのであろうと思う。もちろん奥さんの愛、クリスチャンである奥さんの導きもあったとは思うけれど、それは又、別の意味合いにおいてだ。どちらが上とか下とかいう問題でもない。この真実の物語が私たちの胸を打つのだとしたら、それはどんな人間でも救いたもうキリスト教の素晴らしさとか、神の愛とかそんなことではない。それはキリスト教でも仏教でも、あるいは別の仕事とか、友人とか、それこそカミさんの愛とか、何でもいいのだ……一人の人間が、どうしようもなく絶望の淵にまで落ち込んでしまった人間が、全く違う人間と言っていいくらいにまで、生まれ変われる、そのあくまでも“本人”の、“人間”の底知れぬ力に対してなのだ。
それには、元ヤクザというのが、決定的な説得力を持つ。振り子の幅が大きくてわかりやすいという点であって、一般的なサラリーマンとかに置き換えて考えても、一向に構わない。ことに、組織から捨て駒にされて、見捨てられたというくだりは、確かに他に全くつぶしのきかない極道であるという点において、ヤクザというのはインパクトがあるけれども、いわゆるサラリーマン社会において、昨今しょっちゅう見られる風景である。彼らほどの絶望ではないにしても、同じように会社に捨てられ、途方にくれた人たちは、現代の日本には大勢いるに違いない。いわば、これは現代人に向けられた応援歌であって、ヤクザとかキリスト教とかイエス様というのは記号にしか過ぎない。実に普遍的な物語なのだ。
その“記号”は、しかしやはり魅力的である。重要な記号として、韓国人の妻、というのも出てくる。日本と韓国の至極複雑な歴史的背景を考え、その夫がヤクザであり、精神世界のキリスト教が絡んでくるとなると、これはもう、いかに魅力的な記号をそろえるかが大きな問題となる映画的世界においては、勝利は確実である。ちょっと昼メロっぽい造形の二人の韓国人妻が、しかしその昼メロっぽい泥臭さもまた記号であり、あっさり涙を誘ってくれる。彼女らそれぞれの夫であるヤクザ、渡瀬恒彦にしても、奥田瑛二にしても、もともと役者という、さまざまな方向のベクトルを持つ記号的職業の中でも、それを演じる時、いささかも迷うことない、ハッキリとした記号を指し示すタイプの役者である。もう齢50を越え、かつてはシブい魅力で女を泣かせ続けたにしても、そろそろ年貢の納め時であり、しかもダメ押しに組織から捨てられ……という、社会、人生、男という様々な方向からの記号に満ちたキャラクターを、固めまくって演じている。
ことに、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だなあ……と改めて感じさせる奥田瑛二は、全く違う役柄ながら、やはり同じことを感じた、「少女」に続いて、やりすぎと思えるほどの熱演。この人は本当にスタイルが良くって、いっつもこんなイカツイ表情を作っているから判らないけど、実は笑うとかなりのハンサムで、本当にイイ男なの……。その手足の長い、八頭身の骨格の美しさ、女を抱きしめた時にぎゅっという感じが色っぽく出る、その長く美しい指……あー、あー、あーもう、私は実を言うとこの映画を観ている最中ずーっとずーっと奥田瑛二に見とれ続けてニヤニヤしていたのだ。殆ど本筋なんかどうでもいいぐらい。彼が自分をかばって刺された奥さんの枕もとで、彼女から、十字架を背負って歩いてくださいと言われ、それまでのいかつい顔がどこへやらと飛んでしまい、くしゃくしゃの、子供のような泣き顔で、うん、うん、とうなづく場面には、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だあ……と嬉しくなったのであった。
まあ、彼に見とれ続けていたとはいえ、脇キャストの魅力的なメンメンにも、楽しんでいたのだが。何よりヨイのは、民宿、と呼ばれる、民宿屋のオヤジ、渡辺哲。全身に見事な刺青を施した主人公の勇次に、最初は対抗意識で近づき、彼の話を一晩中聞いてすっかりホレこみ、自らついて歩くことを志願する。十字架に車輪をつけることを思いついたのも彼で、いかにもラシくて、チャーミング。彼の奥さんである宿屋を切り盛りする女将、夏樹陽子も、この人はほおんと、幾つになってもチャーミングで、実は日本のメグ・ライアン風?などと思ったりもするのだが。年相応の色香もありつつ、チャーミングというのは、なかなかすごいと思うんだなあ。
教会でのゴスペルシーンで、陣頭指揮を取っていた女性、絶対柴田理恵さんだと信じて疑わなかったけど、キャストに名前ないし、違うんだ……うっそお、ちょっとドッペルゲンガー並みに本人そのものなのに!★★★☆☆
冒頭場面、熱心にピアノを演奏する女教師である田路(永島暎子)と、学生たちが黒いビニール袋に無数にパンチで穴を開けている場面が交錯する。この田路を襲うために使うビニール袋。その開けた黒光りした穴くずを手のひらに乗せて、風に躍らせる。カメラが引くと、のどかな田んぼの風景。およそそんなことが起こりそうにない風景なのだけど、このカットバックがざわざわとした予感を運んでくる。
一心にピアノを弾く彼女の後ろから襲い掛かる学生たち。悲鳴を上げる彼女の頭にその袋をかぶせ、かわるがわる輪姦する。その場面を覗いているものが二人。男の教師と女の教師が、別々の隙間から覗いている。主犯格の学生が指示をする。その声にハッとする田路。彼女は音楽の教師、生徒の声が誰かを間違えようもない。
田路には結婚を約束している男性教師がいる。塾講師のアルバイトをしながら、いつか大事業を、という野心を持っている男。彼は彼女が警察に告訴すると考えていると言うと、血相を変える。君が恥をかくのは勝手だが、僕にまで迷惑をかけるな、そんなことをしたら、結婚はナシだ、と。この男を筆頭に、学校の金や不良少年の母親をいいように利用して甘い汁を吸っている男性教師や、名誉を傷つけられることを極度に恐れる校長、田路が誘惑したのだと学校中に噂をばら撒く女教師などが取り巻く。唯一真相を暴くべきだと主張する教師もいるのだが、こうした四面楚歌の中、田路はただただ追い詰められてゆく。
田路がレイプされた直後、教員たちによる会議で、処女でなければレイプとは言えないのではないか、などというなんともアホな理屈が述べられてアゼンとするのだが、その場面、多少は笑いに彩られているものの、それがどことなく男性側の偽らざる気持ち、という感じが出ているのが、さらにアゼンとさせられるんである。その中で唯一、そんなことは関係ないと憤るのが、そのただ一人の味方である男性教師。ラストは彼と田路が二人歩いていて、教壇に戻るべきだと彼が諭し、彼女もそう決心する。特に彼と彼女がどうとなる展開ではないところが、イイ。
面白いのが、主犯格の少年、ヒデオが改心するところなのである。これまで何度となく少年院送りになりそうな悪事を働いてきた彼は、その度に彼の母親とデキているあのデバガメ教師に事件をもみ消され、助けられてきた。彼を演じているのが古尾谷雅人で、しかも中学生の設定なんである。……うーむ、彼が中学生というのは……どう見たって高校生だろう。もしかして彼がそんな風に何かをしでかしてばかりいるのは、本当は自分を罰して欲しいんじゃないのかな、って気がするのだ。だって、この子の改心するくだりが、イイんだもの。田路の弟(姉思いの、イイ弟なんだ!)が、コイツを殴り倒しに行くんだけど、彼、その時自分の狂言誘拐を企ててて、その身代金を“慰謝料”として田路先生に、と考えているのだもの。かくしてこの弟、彼の計画に巻き込まれ、金を受け取る役を演じる。しかも、田路を裏切ってあのチクッた女教師とねんごろになっていた男性教師を、その現場を急襲し、女教師をレイプし、思いがけず殺してしまい、さらに男性教師を殴殺してしまう。もう、後戻りできない、行き場がない。ヒデオは母親とデキているデバガメ教師を殺した後に自首しようと決意する。しかし、この教師、恐れてキャーキャーと逃げ回り、ヒデオを轢き殺してしまう。……なんという結末!
これまで“穏便に済ます”ことばかりを考え、そのツケがたまりにたまった感じで次々と起こる問題に、その度に額の汗をぬぐい、「忸怩(じくじ)たる思いです」と繰り返すばかりの校長。……まるで、政治家を見ているようだ。その辺に対する目配せも、あるんだろう。まったく、教師も政治家も、何年経っても、何十年経っても、ちっとも変わらないんだから、ねえ。
ほとんど特別出演みたいな趣で、“組合”の立場から根拠もなく田路を責めまくる二人に樹木希林と蟹江敬三のお二人。二人の間に永島暎子が挟まれ、コミカルな樹木希林、ややシリアス気味の蟹江敬三、思いっきりシリアスな永島暎子、と、ううう、レベル高すぎ!永島暎子、確かに若いんだけど、でもそのどこか陰のあるイイ女っぷりは全然変わらない。若さを感じさせない若さ、なのだよなー。彼女が、女教師であり、ピアノを情熱的に弾き、カーセックスの途中でレイプのことを思い出してむせび泣く、ああうう、イイわあー、完璧ッ!
“女教師”シリーズの第一作であるけれど、83年、風営法の影響で“女教師”の三文字自体が使えなくなっての製作中止になるとは、時代って、ヤツだよなあ。★★★★☆
映画化に当たってこの安倍晴明には、ぜーったいに野村萬斎じゃなくっちゃ!という原作者、夢枕獏氏の強い希望が実現したという。これって、すっごい、すっごい大正解!どんなキャスティング・ディレクターより優秀だよッ!原作は読んでないけど、これ以上の正解キャストはいないだろう、っていう……。年齢不明な感じ(実際、野村氏の年齢を知って、えー?肌とかの感じからしてもっと若く見える!と思うのね)、常にたたえられた口元の笑み、ちょっとイッちゃってるような、キツネ系の瞳、呪を唱える時の、ほっそりとした美しい指と囁くような声のゾクゾクする色っぽさ、そして何より、何より、その平安の衣装が流れる水のように優雅に舞う、その身のこなし!ああ、さすが、本当にさすが、本物の狂言師は違うよなあー。肌にしっくりまとっている感じなんだもん。
平安の世で、時の権力者のかげの力となり、栄華を誇った陰陽師たち。未来を占い、時を制定し、その不思議な魔術で人の生命すら動かすことが出来る。その中でも当代きっての陰陽師である安倍晴明は、しかし陰陽師たちの中では一人、独特の雰囲気で、わが道を行くという感じの人物。そんな彼に助けを請いに行くことで出会うのが、右近衛府中将、源博雅。博雅はウブと言っていいほどの、素直でまっすぐな心の持ち主で、まさに水と油ほども違う二人なのだが、どこか、心の深いところで共鳴して、不思議と仲良くなる。仲良くなる、なんてもんじゃなくて、この二人こそ都の救い人、まさしく運命の出会いだったわけであるが、この時点では博雅はもちろん、晴明すらもそのことは知らない。
博雅を演じる伊藤英明が、いっちばん意外な好演である。意外というのは失礼だが……まあ、この人、「ブリスター!」でもなかなか良かったけど、あの時は頑張ってるなー、という感じで、「LOVE SONG」では可もなく不可もなしという感じ。だから実際に役者としてどうとかというのは正直、よく判んなかったんだけど、この博雅は大正解。ひょっとするとこの博雅が主役じゃないの?というくらいの出番の多さと、もうけ役。しかしあくまでもメインは晴明であり、道尊(真田広之)であるという存在の仕方で、この映画の中でホッと息のつける癒し系?晴明やその周りで起こる不可思議な現象に、まさしく天然な反応を返す、その絶妙な間と素の発声が素晴らしいのよ。もしかして地じゃないかと錯覚するくらいなんだけど……いやいや、これぞ名演!晴明がこのうららかな博雅に惚れ込むっていうのも、すごく良く判る、まさしく「良き男」。晴明の手ほどきを受けた口説きのテクニックに、「そんな恥ずかしいことが言えるか」と言いつつ、すぐ使っちゃうあたりの無邪気さも好きだなあ……。全く邪気がなくて、この人がその口説きの台詞を口にすると、それが打算的なものではなく、本当に素直な愛の言葉になっちゃうんだもんね。いやあ、伊藤英明、すごいよ。この博雅をここまで体現するとは。
だからね、もういきなりクライマックスの話に飛んじゃうけど、博雅が道尊に矢をうがたれ、今まさに息を引き取るというシーンでの晴明と博雅には、くううううッ!と鳥肌立っちゃうんだなあ!「そなただけは失いたくないのだ!」という晴明の台詞に、そして「晴明、お前でも涙を流すのか」と晴明の腕の中で息も絶え絶えの博雅が言うと、クッと顔を横に向ける晴明にキャーキャーと心の中で叫ぶ私。うー、この場面はよッ、良すぎるー!しかも、良かった良かった、青音(小泉今日子)さんが命を与えてくれたおかげで博雅も生き返ったしさ。そんで、道尊に博雅みたいな男になぜ執着するんだと問われた時に、晴明が一拍置いて静かに、ねめつけるかのように言う、「そなたには判らぬ」という台詞にも鳥肌が立つッ!
青音は人魚の肉を食べたことで不老不死の身体を持つ女性なのだが、しかし彼女はずっと、150年前に別れた愛しい人、そして今その魂の封印がとかれ、眠っていた恨みが世をかき乱している早良親王の元に行きたがっていた。この場面もまたクライマックスで、(っつーか、割と全編クライマックス)泣き系のキャラ、萩原聖人(この人はやっぱ上手いよねー)演じる親王と手に手を取って成仏する。めっちゃCG!というこの場面は、観客であるこっちが悟りを開いてなきゃ?なかなかまともに見られないシーンでもあるのだが……。
もちろん、こういう物語だし、CGは必要不可欠。しかし、何でかこういう画面の特殊効果に拒否反応を起こしてしまうんじゃあ……。何かワザとらしい気がする、って、そりゃそうだ、ワザとなんだからと思うんだけど。いわゆる、「ワザとらしいCG」を使いこなすという点で、その画面処理とか、あるいはこれも演出の範疇に入るのかもしれないんだけど、そういう部分、日本映画で満足したことって、ないんだよね……。っつーか、なぜかこれが外国映画だと、同じようなことをやってても普通に観られることの方が不思議なのかもしれない。やっぱり日本映画だと、出ているのが私たちと同じ日本人で、シンクロして見ちゃう部分があるから、その「ワザとらしい」部分がことすら不自然に見えちゃうのかなあ、とも思うし。
でもさ、あの道尊の側にいるカラスもどきとかもさ、ビジュアルデザインの天野喜孝氏が描き起こしたイラストの時点(オフィシャルサイトで拝見)では忌まわしい美しさで凄くイイのに、実際映画に出てくる段になると、くちばしと首ぐらいしか動かない、置物っぽさにガクッと来ちゃったりするし。あるいは望月の君(夏川結衣)が鬼に変身するところなんか、その取ってつけたような黒いキバが、ううッ、見てられない……なんて思っちゃいけない?でも、夏川結衣が相変わらず湿度120%の素晴らしい演技を見せてくれてるのに、何かあのキバでガクッと来ちゃうという印象が否めないのね。このあたりはCGじゃなくって、小道具の領域?CG場面では言いたいところがもう一つある。博雅が晴明を訪ねていくと、晴明が昼寝をしていて、しかしその晴明はまやかしで……という場面が、もう明らかにあの昼寝している晴明は合成だろうっていうのが見たとたんに丸わかりになるっていうのは、あれはまさか、ワザとなの?それとも今ですら、あの程度にしか画面処理って出来ないもんなのかなあ。
それでなくても、実をいうと画面があまりに明るすぎるのが、個人的にはあまり気に入らない、というのもあったりする。それは明らかに個人的趣味の問題なのだけど、でもこの物語は闇の世界にうごめくものたちを描き、この時代ならば夜になれば真っ暗になってしまう、本当の闇が存在した時代。平安のきらびやかさはもちろんだけど、その鮮やかな色彩があまりに鮮やかに見せすぎて、逆にチープに見えてしまうのは私だけ?この作品に限らず、昨今の映画は、キレイに映るという現代のフィルム技術にそのまま寄りかかりすぎちゃってる気がする。
ベテランカメラマンの岡崎宏三氏が、最近の映画は一般のDTPの大量プリントみたいなべったり明るい画面ばかりだ、と言っていたのを読んで、ああ、そう、私の思っていたのって、まさしくこれだあ、と膝を打ったものだった。本作も、そう。本作に関しては個人的にはもっとぐっと色みを抑えてほしかった。そうしたらきっと、すごく風合いと威厳のある画面になった気がするんだけど。そのきらびやかな、鮮やかな平安の装束も、その中にしっとりと溶け込むくらいに。それに野村萬斎氏にしても、真田広之氏にしても、そうした、陰のある部分が魅力的なお人たち。そしてこのキャラも、彼ら陰陽師はまさしく影の部分で動いている人たちなのだし、それにしてはやっぱり明るすぎるんだよね、世界が……。
クライマックスの、玉砂利の上での対決、刀を持った道尊と、素手で立ち向かう晴明。呪を唱え、天高く舞い、まさに呆然とする美しさで繰り広げられる野村萬斎と真田広之の一騎打ちは、何度でも見たいと思わせるほどに、圧巻。舞台での立ち回りが身についているのが実に良く判る、野村氏の流線のごとく優雅な動きに、アクション映画で磨いてきた真田氏の力強い動き、そして双方ともに拮抗するほどのスピーディーさで、今まで思ってもいなかった組み合わせだけど、これ以上の組み合わせはないんじゃないかと思われるぐらい。思えば、真田氏に拮抗するほどの殺陣の相手って、特に同年代では今までいなかったもんなあ……。
期待していなかった分、大いに楽しめた。ああ、野村萬斎の素敵さよ!★★★★☆