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「な」


2007年鑑賞作品

長い散歩
2006年 136分 日本 カラー
監督:奥田瑛ニ 脚本:桃山さくら 山室有紀子
撮影:石井浩一 音楽:稲本響
出演:緒形拳 高岡早紀 杉浦花菜 松田翔太 木内みどり 原田貴和子 大橋智和 山田昌 津川雅彦 奥田瑛ニ


2007/1/7/日 劇場(渋谷Q−AXシネマ)
ホレた頃とは随分違っちゃったけれども(爆)、変わらず愛を注いでいる奥田瑛二だから、それまでも色んな国際映画祭の賞をとってはきたけれども、ついにウィナー!の報を聞いてもう、とても嬉しく、公開を心待ちにしていたのであった。
しっかし、国際映画祭のグランプリを受賞したというのに、キタノや宮崎駿の時の大騒ぎと比べて扱いに差がありすぎだけどねー。まあ、三大映画祭じゃないってのがあるのかなあ。でも、有名な映画祭じゃないのお。
年末年始の忙しさでなかなか足を運べないことにやきもきしながら、あまりにもタイムリーなこのテーマを選んだ、彼の先見の明と重い決意に色々頭をめぐらしながら、この時を迎えた。
そうなの、もう心打たれるに決まっていると、勇んでいたんだけれど……。

正直、今までの2作と同じようには感激できない。幼児虐待。それも自分の子供を、という重いテーマは、まるでブームのようにさえ感じられる程、今現在頻発していて、その予告したようなタイムリーは瞠目するに値するし、それを描写することを選択した気概もハンパじゃないことは判ってる。だけど、だからこそ、こんなんで終わっちゃっていいのかと思う部分がいっぱいある。
あのね……私は、もし子供を持ったら、虐待してしまうんじゃないかという、根拠はないけれど、漠然とした、でも妙に確信に満ちた不安を抱えているのだ。だから一人身でいるってわけでもないけど(ただ単に縁がないだけさ……)、でも、それも要因のひとつかもしれない。今の世の中で、子供を抱える孤独を考えると、恐怖に襲われてしまう。
多分、男の人は、そんなこと、考えもしないんだろう。産んだのは女だから、みたいに思ってる。ハッキリとではなくても、そんな感覚が前提に、絶対、あるもの。

主人公の松太郎にも、そしてそんなつもりはないと思っていても監督にも……その目線を感じてしまうのは、被害妄想なのだろうか。
高校の校長を勤め上げた安田松太郎は、妻を亡くして家を離れ、小さな田舎町の、二階建てボロアパートに引っ越してきた。
葬儀が終わって遺影に手を合わせて、娘に「この家はお前にやる。俺は出て行くから、お前、戻って一人で住むといいだろう」と言った時、娘は冷たく言い放った。「ありがとうとでも言うと思った?この家に住むのが怖いんでしょ……人殺し」
それ以降、何度か出てくるこの娘は、彼のことを決してお父さんと呼ぶことはない。

越してきたアパートの隣に住む横山真由美は、見るからに水商売風の女。アイソがなくて、ヒモを連れ込んでいる。管理人のおばさんは、「前まではちゃんと旦那さんがいたんだけど、これで何人目かねえ」と眉をひそめる。
階段を登りきったところに外を眺める形で、いつもいつも座っている女の子に松太郎は気づく。
まだ5歳そこそこの女の子は、薄汚れたワンピースに手作りの天使の羽を背負っていて、裸足の足は泥で汚れ、内出血をあちこちに起こしていた。
薄い壁を通して聞こえてくるヒステリックな母親の仕打ちは、明らかに虐待。

松太郎は、娘を判ってやれなかった過去をフラッシュバックのように思い出す。万引きをした娘の言い訳も聞いてやらずに殴り倒したこと、心身ともに疲れ切った妻がアルコール依存症になってしまったこと……。
女の子は母親から小銭を投げつけられる。それを這いつくばって拾う。いつもいつもメロンパンとコーヒー牛乳。顔よりも大きいメロンパンを店先で無心にかじってる。
スーパーで品物にイタズラをしまくるのは、物事の善悪を教えられていないせいだろうけれど、それを叱ってくれる大人さえいない。
絵本を万引きしたりもする。そんなものを買ってもらったことはついぞないんだろう。森の中の木陰に、彼女の秘密の場所がある。どこよりも安らげる自分だけの場所。

ある日、女の子は悲鳴をあげて飛び出す。ヒモがいやらしいチョッカイを彼女にしたことに母親が逆上、いやそれは、男に対してじゃなくて、子供に対して。女として嫉妬して、自分の子供の首をギリギリと締めたのだ。
驚いたヒモは、女の子から母親をやっとの思いで引き剥がす。
飛び出した女の子を松太郎は追いかける。今までは息が上がって途中で力尽きてしまったんだけれど、どうにもこの子が気になって仕方なくなってから、彼は身体を鍛えるようになったのだ。
森の中の秘密の場所で、二人は出会う。小さな小鳥の命を見せたり、二人の距離は段々と近づいてゆく。
ついに、松太郎は見るに見かねて、女の子を旅の空に連れ出すのだ。
彼女の名は、サチ。幸せからは程遠い存在だった。

……とまあ、こんな展開。実は、幼児虐待を掘り下げているわけじゃないんだよね。それはとっかかりで、幼い女の子と老いた男との孤独な魂の触れ合いがメインテーマ。
だからなのだろうか、サチの母親がステロタイプ過ぎる。確かにメインテーマを描くためには、その他に重点を置くと、メインがぼやける危険性はあるんだろうと思う。
でも、私はやっぱり女だし。女がどうしても親権を持たざるを得ない世間ってものがあって、もちろんそれを言い訳に子供を虐待するなんて許せないけれど、でも元々そんな風に、子供を育てることに関して女に負荷がかかるように世の中は出来ていて……。それを、ただ無責任な母親、そう安心して糾弾出来るような形にされるのが、納得いかないのだ。

確かに松太郎にも、妻子に対して冷たく接していた回想は挿入される。でもそれは、具体的にどうだったのか、娘があの人は他人だと切り離すだけの非情さまで踏み込んでいるとは到底言えない。
結果的に、彼がサチを救うことによって聖人に生まれ変わった、みたいな見え方にさえ思えて、だったら苦しんで死んでいった奥さんや、親を憎むことしか出来ないまま今もいる娘や、そして人の愛から放り出されているサチの母親だって、どうすればいいんだよって思っちゃうじゃない。

サチの母親に関しては、今起きている事件の犯人である母親たちに対するイメージが、あまりにもそのまま当てはまってしまっている。まさかそれを予測していたわけでもないだろうけれど、怖いぐらいの一致である。
逆に、世間のそうしたステロタイプな見方へのアンチテーゼなのだというとらえ方も、出来なくもないのかもしれない。
でも、だとしたら高岡早紀は、あまりにもそのまんま演じすぎている。もう、サムシングも何もない。出てくると黒いスリップ姿だったりするのも、2時間ドラマあたりで見飽きているような造形。

子供に食い扶持の小銭を投げつけたり、ヒモに暴力を振るわれたり、そのヒモが子供に性的虐待をしかけたり、松太郎に対して色仕掛けでカネをせびりとろうとしたり……そのどれもがあまりにもあまりにもお約束過ぎて、こうして羅列してみると笑っちゃうぐらい判りやすい。
それを何の疑問もなくそのまんま演じてしまう高岡早紀が、なんだかそのまんま鈴香容疑者とかに見えてしまって、それはあまりに単純すぎるワイドショー的な見え方なんだよね。映画にまでするなら見たいのはそんな部分じゃないのに、って思っちゃうんだよね。
彼女が本当はどう考えているのかが知りたい。このキャラじゃ、まるでマネキンで、子供に対する憎しみさえも、感じられない。

サチがいなくなって二日たって、母親はようやく警察に届け出た。松太郎に殴られたヒモは、自分が疑われると思ってその事実を黙っていた。子供への愛情がないのかと呆れ気味の刑事を目の前にし、「私の子供だよ。警察ならさっさと捜しなさいよ。この給料ドロボー」と言い放つ。
うう、なんてお約束な台詞……。
この母親から事情が聞きたい刑事は、彼女と二人で会ってみたりする。昼間の甘味屋で平然とビールを頼んで、まるで子供を心配するそぶりもない彼女は、「産みっぱなしの放りっぱなしで育てられたから、私もそうやってサチを育てている」と言い放つ。
これもあまりに単純すぎるんでない?

むしろ、反面教師に傾きそうなもんじゃないのと思ってしまったりする。大体、子供への虐待がこんなにも表面化したのは、そんな単純な理由じゃないと思う。さらに言うと、女の内面がそんな単純なものだと思われても困る。
それこそ秋田の事件の容疑者たちは、魔性の女とか必ず男がらみで語られてて、それは第一要因ではあったんだろうけど、だからといってすべての女がそんな理由で子供を虐待するわけでもないでしょ。
本作がそう断定しているわけじゃないんだけど、正直、そんな危険性を感じる。高岡早紀の造形があまりに悩まなすぎるんだもん。

あのね、「愛を乞うひと」とか思い出しちゃった。私、あの映画は決して好きじゃないんだけど、その点で原田美枝子はステロタイプになりそうな中で、説明のつかない葛藤を渦巻かせてたから。
あの作品はそれこそがメインテーマだったからだろうけど……女の目からすると、贖罪を請う老いた男の気持ちなんて、全然響かないのよ。だってそれまで何も悩まずにきたんじゃない。
まるでさ、その時代の男は、そういう無神経さも仕方ない、それが男の生き方だったみたいな、言い訳じみた雰囲気があるわけ。

だからこそ、彼を糾弾する生き証人である娘に、もっと語ってほしかった。そのあまりにも冷たい態度は、話を聞こうとする刑事、そして観客に対して、孤独な父親に対して冷たい娘としか映らず、彼女の苦悩に共感するだけの材料があまりにもなさすぎる。
これは、ズルいと思う。大体、そんなにまで父親を憎んでいる娘が、でも父親からの手紙を捨てずにおいてるなんて、男の勝手なロマンティシズムだよ。
女は本当に憎んだら、親だろうが熱愛の相手だろうが、その思い出のかけらになるようなものも、さっさと捨てて自分の人生をリセットする選択をするよ。

そう、松太郎は旅の途中、娘に手紙を書いていた。差出人を書かずとも、その独特な字体ですぐに判る。
サチはなかなか心を開かなかった。まず、表情が変わらない。顔より大きいメロンパン、そしてコーヒー牛乳。それしか美味しいものを知らなくて、ファミレスで好きなものを選ぶことも出来なかった。連れて行ってもらったことも、そうした料理を作ってもらったこともないんだろう。
やむなく松太郎はハンバーグを選んでやるも、知識がない。鉄板の上でジュージュー焼かれているのに恐れて、「痛い!」と松太郎の方に押しやってしまう。うわっ、緒形さんのオマタにジュージューの鉄板ハンバーグがっ!あれは熱そうだ……。
熱いことを痛いと表現するのは、そうした虐待を受けていることを暗に示唆してる。

サチという名前も、なかなか口にしなかった。松太郎は何度も名前を問うたのだけれど、「ガキ!」と叫ぶだけだった。そうとしか呼ばれていなかったから、本当に忘れていたのかもしれない。かつては呼ばれていた本当の名前を。
サチの母親は、夫が去ってから変わってしまった。それを感じさせる回想が挿入される。穏やかだった頃が描かれるわけじゃない。電話での夫婦喧嘩と、発表会当日の別れ、それだけだけど……それまではきっと、サチと呼んでくれてた。だから、松太郎から優しくされて、サチはその記憶を思い出したのだ、きっと。
だから、だから、そのはざまの記憶である発表会のお遊戯を繰り返し繰り返し、松太郎に見せていたんだ。「天使のパンツ」っていうお遊戯。母親にちぎってもらった新聞紙を張り付けた天使の羽。それをずっと背中に背負い続けていた。
母親は、風呂をうながすことさえしなかった。でも松太郎に風呂に入れさせられて、新しい服を与えられても、やっぱりぼろぼろの羽は背負ってた。
最後の、幸せな記憶。いや……幸せな記憶ではない。両親が別れる記憶。父親の最後の記憶を、サチは忘れたくなかったのかもしれない。

道中、一人の青年に出会う。バックパックを背負った気ままな一人旅とおぼしきワタル。この彼がいい存在になりそうだったのに。「帰国子女で言葉がヘン」などと言わせといて全然ヘンじゃない。なら言わせるな、と思う。
彼は何を苦しんでいたのか、表面上はそんなワケアリにも見えなかった。人を殴ったこともない、などと言い、どことなく親のことに対して口ごもるような風はあったけど、そこらへんもさっくり通り過ぎてた。
サチでいっぱいいっぱいの松太郎が、彼の事情を気にすることもなかった。そう、例え彼が拳銃を持っていたとしても……。
そして些細ないさかいの後、ワタルは一人で出て行って、川辺で自らのこめかみを撃ち抜いてしまう。サチと松太郎の目の前で、笑みを浮かべながら。

この自死はなあ……正直、ロマンティシズムの延長線上としか思えない。ワタルは自分の苦悩をほんの片鱗しか見せていない。幼い女の子をついつい怯えさせてしまうような自己コントロールのなさは、親からちゃんと育てられていない感じは与えるけれど、彼が死を選ぶまでの苦悩は描かれることはない。
それは確かに、ここで描く余裕はないし、はしょったらバランスも悪くなる。でも、ならば、彼を登場させるだけの重さを保つために、どこかを切るぐらいの決断はほしかったと思う。老人だけが聖人に生まれ変わって、死んだ妻も娘も、サチの母親もヒモも、そしてワタルも、単純すぎるコマにしかなってない気がしてならない。なんか、説教くさいし。

松太郎はサチに、青い空を見に行こうと言って、この旅に連れ出していた。サチが住んでいた街は工業地帯で、煙が立ち込めていた。いつもいつも空を眺めていたサチは、本当に青い空を見たことがなかった。
でも、山奥へと向かう彼らの道中はいつも雨が降り続く。新聞紙を貼って作った天使の羽はボロボロになる。なかなか青い空が見えない。
そのうちに松太郎は誘拐犯として、全国に指名手配されてしまう。松太郎は警察に電話を入れる。あと二日待ってくれないかと。
緊急配備を何とかくぐりぬけ、松太郎は家族と過ごした思い出の山へと、サチの手を握って登っていった。そこには、息を呑むほどの本物の青い空があった。駆け出すサチ。ぼろぼろの天使の羽が彼女の背中からはずれ、サチの身体がふわりと宙に浮く……。

二人を追っていた刑事(奥田氏ね)は、「天使の羽をつけた女の子と逃げているのを見た時、このままそっとしてやりたいと思った」とつぶやく。
この台詞が、全てを象徴している気がするんだよな。これはね、女の気持ちも、女の子の未来も考えてない、男のロマンティシズムだけの視線だよ。男は癒されるのかもしれないけど、誰に対しても何の救いもない。
だって、松太郎はこの時を終えて、サチをどう救えたっていうの。この時だけでも救えたというんなら、バカ言わないでと言いたい。
しかもこの刑事、こんな台詞も言う。「皆、安田のような存在が必要なんだ」誰も必要じゃないよ……少なくとも私は絶対、いらない。

サチはまた、放り出されるのだ。あの母親の元に戻されるのか、施設に入れられるのか、どっちにしろ、たった一人で闘って生きていかなきゃいけない。
ここでサチが取り戻したのは、笑顔と物ごとの善悪と、自分と同じように小さく必死に生きている命。小鳥や金魚への慈しみ。確かにそれは大きいけれど。
弱った金魚や小鳥の死で、お墓や念仏といった概念をサチは学ぶ。そしてワタルが死んだ時、どん底に落ち込む松太郎を励まそうとしたのか、「お兄ちゃん、死んじゃったから、お墓を作ってあげる。これ(ドングリ)お兄ちゃん」と小さなお墓を作る。
もうちょっとショック受けてほしい……松太郎はショック受けてるけど。ワタルが死んだ意味が、どれだけサチにあるのかがね、なんか金魚や小鳥と大差ない気がするんだもん。

それにね、もうひとつ気になったのが、サチの「おいてかないで」というたった一つの、でも心からの懇願の約束を、松太郎が二度も破るってことなんである。それも、特に考えもせずにアッサリと。
一度目はお祭りではぐれる。二度目は駅に彼女を一人残してパンを買いに行く。松太郎ってば、またおいてったよ!と心の中で突っ込んでしまう。当然、その度にエポックメイキングなことが起こる。それなら最初からそんな約束させるなと思う。これだけサチを不憫に思ってるなら、そんなカンタンに約束を忘れないでしょ。

結局ね、最後は刑務所から出てくる松太郎が、サチが待っていてくれる幻想を見るって結末なのよ。彼だけが救いを求めてる目線でしかないんだよ。ああこれが、これを、描いたのか、結局はそうなのかと思って、なんだかガックリきちゃうの、正直。
どんなにメロドラマでも臭くてもステロタイプでもいいから、サチの母親が子供への愛に目覚める一瞬の画が欲しかった。
それさえもないなんて、じゃあ皆、最初から男が子供を引き取って育てればいいじゃない!さぞかし愛情たっぷりに育ててくれるんでしょ!サチは天使の羽を背負ったあの姿から、一日も成長させてもらってない。

てらいのない演技とは言えもするが、サチ役のコはこの重い役を任せるには内面的なものを持ってなさすぎる。そんなカンタンに天才子役って肩書きを乱用しないでほしい。
子供としての無邪気さはあるけれど、それだけ。それが武器とも言えるが……見ててハラハラする。言われたとおり、って感じがして。

サチの母親のヒモがね、覆面の松太郎に殴られたのを「忍者に襲われた」って言って刑事に呆れられるシーンとかあるでしょ。このあたりのバカバカしいユーモアがもっと笑えれば良かったな。凄くワザとらしいんだよな、この役者の演技もさあ。

今回、過去二作の脚本に名を連ねていた成島出の名前がない。
奥田監督の企画原案のアンテナは、凄いと思う。だからこそ、それを的確にシナリオにする才能が映画の成否を決定すると思うのだけれど……。
今回、二人とも脚本家、女性だよね。女性が書いてこうなっちゃうなんて。
でも、モントリオールを制したのだし、私だけがぐちゃぐちゃ思ってるだけなのかなあ……。★★☆☆☆


NARA:奈良美智との旅の記録
2007年 93分 日本 カラー
監督:坂部康二 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:坂部康二 小宮山充 佐々木秀夫 音楽:伊藤圭一
出演:奈良美智 graf AtoZチーム

2007/2/27/火 劇場(渋谷シネマライズ)
奈良美智。この名前を美術に疎い私でも知っているぐらいだから、現代美術の中で一番有名な人なんだろう。
誰もが目にしたことのある、睨むような上目遣いの女の子の絵、それを初めて目にして、彼の名前も知ったのは、「ロッタちゃん はじめてのおつかい」にイメージ画として使われていた時だった。もう既に、吉本ばななとのコラボなどで一般的な知名度も確立していた時だったけれど、私は知らなかった。本当にいつでも映画は私にとって全ての世界へ通じる扉であり、教科書なんだなあとつくづく思う。

本作は、彼のアーティストとしての人となり、その作品創作の過程という基本的な部分もなぞりつつ、その大きな目的は、去年大成功を収めた地元弘前での大回顧展、「A to Z」をゴールとした、近年の彼の展示形態である、小屋での展覧会を追いかける。
国内のみならず、世界中を回り、それぞれの場所でそれぞれ違う小屋を、その場所に到着してからインスパイアされた形で作り出す。そこはまるで彼の部屋に入ったような、あるいは覗き見るような、親密でいて、共犯関係をもたらすようなスリリングな場所。

最初に訪れたのは韓国。ここで出会う幼い女の子、セヒとのエピソードが、まるで劇映画のように、心打たれる。
韓国であんなに人気があって、ファンミーティングまで開いちゃって、若い女の子たちにアイドル的に迎えられていることには驚いたけど、彼の心をとらえたのは、この幼い女の子だけだった。
でも、彼がこんな風にキャーキャー言われるのも判る気はするのよ。何よりその作品はとても魅力的だし、質疑応答で「カッコイイ」と言われてテレまくる彼は、女心、母性本能あたりをくすぐりまくる。実際、カッコイイと思うしなあ。
でも普段、そんなこと考えもせずに、一人、自分自身に向かって創作に没頭している彼にとって、「なんか違う」と思ってしまうのは、そりゃ当然ってなもんなのだ。

そりゃ、嬉しいという気持ちはあるに違いない。見てくれる人があってこそのアーティストだから、カメラのフラッシュを雨アラレと浴びせるファンに、フレンドリーにも接する。だけど、ホテルへと帰る車の中で、
「あの中で、俺のことを判ってくれていたのは、あの女の子だけだな」と漏らすのは、さもありなんである。しかもその泊まってる部屋の、確信犯とも思えるような狭くビンボーなこと!
実際、スクリーンのこちら側の目にも、そうだよなと思う。だって「なぜ結婚しないのか」とか、芸能人にするような質問ばかりだったし。
ただ、私もああいう風にミーハー的にキャーキャー言うタイプだから、結構フクザツな思いだったりして。あのファンたちには彼のこの言葉は聞かせられないよなあ……本作は韓国で上映されちゃうんだろうか。

セヒは彼のことを奈良おじさん、と呼んでいるという。それぐらい、彼女の中で大きな存在。でも彼と会って殊更にはしゃぐわけでもない。後に母親から彼の元に届いた手紙でも、普段から彼の絵が好きなことを声高に主張したりはしないという。
でも、セヒは画家になりたかった。そしてこの都会で暮らしていることを窮屈に思っていた。
ファンミーティングの帰り道、彼女はお母さんに、私は画家になりたい、と初めて告げたという。
娘の絵の才能には気づいていたけれど、アーティストの生活が大変なことを知っていたから、それを否定するような方向に導いてきた。そのことを、セヒは幼いながらもアーティストの繊細な感覚で敏感に察していたんだろう。

母親からの手紙のナレーションにかぶさる、彼女たち家族の風景は、本当にドキュメンタリーとは思えないほどドラマティック。
こんな小さな子供の声に耳を傾けてくださって、本当に感謝しています、という母親の手紙はとても感動的だし、実際、彼自身もセヒの存在に大きな影響を受けるのだ。彼は絵を描く原動力にセヒの描いた絵をかたわらに置いているんだもの。
そして、それは後に展覧会の展示物のひとつになり、韓国から訪れたセヒが、目にすることになる。「私の絵だ!」と。彼の親密な世界のひとつとして、支えているのだ。
なんという、ドラマティック!
セヒが10年後、いや20年後、刺激的なアーティストとなって彼の前に現われることを夢想してしまう。

そして後半はとにかく、類を見ない大規模な展覧会、弘前の赤レンガ倉庫で3ヶ月に渡って行われた「A to Z」を終着点とした、世界中を回った小屋型展覧会を追う。
「A to Z」のことは、「日曜美術館」の催し物コーナーかなんかで知って、これは見たい!と思ったのを覚えてる。でも、そもそも美術や美術館、展覧会とは縁遠い生活をしているから、そのままスルーしてしまった。いや、そもそもその告知は最終地、弘前でのそれだったから余計にムリだったけれど、これは本当に、彼のファンでもそうでなくても、駆けつけたいと思うような、実に刺激的な大イベント。
ホント、この映画を観ちゃったら、どうして行かなかったのか!人生のすんごい損をしたって気がしてしまう。この同じ時代を生きて、こんなチャンスがあったのに!って。

本作では、全国、いや全世界で行なわれる、小屋の中に彼の作品を展示するという旅をずっと追っていく。それでもやはり、彼の地元である弘前でのそれはずっと意味合いが大きいし、規模も全然違う。
何たって「A to Z」アルファベットの数だけ、いやそれ以上の小屋や覗き部屋が、巨大な赤レンガ倉庫の中に建てられ、その中にギッシリと彼の世界が詰まっているのだから!
きっと、全世界からファンや美術関係者が集結したんだろうな。

この、他に類を見ない、それぞれの場所でそれぞれの小屋を建てるところから始まる展覧会は、生活環境をデザインするユニットであるという、grafの豊嶋氏の存在がなければあり得なかった。展覧会のタイトルにも、奈良美智の名前と共に刻まれている。
世界中、どこへでも奈良氏と共に出かけていって、彼のアイディアを形にしていく。職人であり翻訳者であり、何より大事な親友だ。
奈良氏は彼のことを、「初めて友達が出来た時の感覚」と語る。すっごい。一番純粋な形じゃないの、それって!
まあいわば、今回の展覧会ツアーの企画のパートナーではあるけれど、それ以上の信頼関係がなければ、こんな大規模なことはなし得る訳もない。

関西弁の豊嶋氏と津軽訛りの奈良氏が、深い信頼関係で結ばれて喋り(話す、というよりやっぱりこっちだな。津軽弁としても)、アイディアをどんどん形にしていくのを聞いているのは、それだけでやけにスリリング。
ツーカーの呼吸で、奈良氏の数少ない言葉の全てを理解する豊嶋氏。
ホテルの部屋にカメラだけを仕掛けて、二人の忌憚のない関係を覗き見するようなシーンまで用意されてる。それはなんだか恋人の部屋を覗いているみたいでドキドキする。
豊嶋氏が用意したグラスはついに機能せず、二人してワインをラッパ飲みしたり、なんかもう、うらやましいことこの上ない。
そして、関西人の豊嶋氏は、この仕事の集大成のため、彼の故郷、雪の弘前に降り立つのだ。
それはまるで、二人の関係を彼の親にでも認めてもらうためのような、実際それぐらいの覚悟がいる、一大イベントなのだ。

この展覧会で一番のメインとなる絵が、凄かった。
弘前の赤レンガの前に、巨大なそれが人々を迎えている。
昔の少女マンガのように、顔の半分ぐらいの大きな瞳を持つ少女。
その瞳は、それこそ少女マンガのようにキラキラと輝き……そのまろやかな顔の輪郭とあいまって、優しさと孤独をその全体でもって、ドーン!と体当たりしてくる。
あるいは、覗き穴から狭い空間を覗くと、そこにはのんびりとした白い犬が沢山並んでいる。「なんか白いのがいる!」先を争って中を覗こうとする子供たち。
どうして子供は。あんなにも素直に驚きや楽しさの表情を顔いっぱいに浮かべるのだろう!

あるいは、いつも正面から描かれている女の子の顔が、横顔で描かれていたりする遊び心もある。それを見て微笑む、彼のファンであろう女性の横顔が同じ角度から映される、これまた遊び心。
そして、その展覧会の成功を見つつ、彼らスタッフは共に岩木山に登り、その山頂、断崖絶壁から、弘前を眼下に見下ろした。
「作業が終わったら、皆で登ろうと決めていた」んだという。あの巨大な看板は、その場所からでさえ見えるほどに大きく、存在感があった。

奈良氏が青森出身であるということを知った時には、心踊ったのを覚えている。ああ、やっぱり青森は天才を生み出す場所なんだ!そう思って。
その考えは、あながちハズれてはいないんじゃないかと思う。少なくとも、やはり彼は天才だ。私は絵のことは全然判んないけど、天才というのは作品そのものだけではなく、まず基本、それを生み出す本人がまずそうだということなのだと思うから。
数年前、テレビで何度か彼の喋る姿を見た時、その津軽訛りにドキドキしたけど、本作の中で、打ち合わせしたり、カメラのこちら側にいる監督に答えたりする彼の発音からは、その訛りはだいぶ、薄れていた。かすかに残ってはいたけど、それがハッキリ津軽訛りだと判った以前とでは、大分印象が違う。

しかし本作には、なんたってゴールが弘前での展覧会なのだから、地元に帰る様子が何度となく挿入される。
その一番最初、弘前でのボランティアを募る為、地元のラジオ番組に出演し、その番組のパーソナリティーで長年の友人でもある人物と喋る。そして、番組から離れて家に戻ってからの場面も用意されており、当たり前だけどもうバリバリのネイティブ津軽弁。これがもう、しびれまくった。
彼は自身、喋るのは苦手だと言い、実際、かなり寡黙なアーティストである。それこそ、一般的なイメージにのぼるような青森の男、という感じである。慎重に、言葉を選んで喋る。
だからこそ、その言葉がとても凝縮されたものだというのも言えるのだけれど、津軽弁の彼は、とても饒舌だった。とっても、お喋りだった。そしてその内容は、考え込まれた末に出てきた言葉と同じように、濃厚だった。

昔からの彼を知っている友人は、自分の評価がかつての何倍にもなって、それはどういう気持ちなのかと聞いてみる。かつての何十倍にもなった、と彼は訂正し、確かにそれはラッキーだったのだと。ゴッホなんて死んでから認められて絵が高く売れて、でも生きている時のゴッホは貧乏で、俺は不幸だと思っていたんだろうから、と語る。
でも、奈良氏はそれで満足はしてなかった。自分はもっと出来る、こんなもんじゃない。それは他人が認めることじゃなくて、自分自身が納得する形でなんだと、「だっきゃ」「はんで」と津軽弁の語尾をまくしたてるようにつけながら、熱く語る。

実際、これほど有名で、絵や出版物も数多く世に出ているのに、奈良氏からは何不自由ない暮らし、という匂いは全くしない。そんなことには完全に頓着がないように見える。
彼の中で、知名度や金はプレッシャーにはなっても、望むものではないのだ。それは多分、あらゆるアーティストに共通する気持ちなのかもしれないけど、大きな方に流れてしまう人が圧倒的に多いのも事実。ベタかもしれないけど、それが天才である要素であるように思う。

奈良氏が英語のインタビューを受ける場面もあって、ドイツへの留学時代や、その時の気持ちを語ってるんだけど、そこでも彼は非常に慎ましく英単語を選び、結論を言うのに時間がかかった。
ドイツの北国感が、彼の子供時代を思い出させ、子供の絵のスタイルが生まれたのだから、重要な期間だった。寒々しく、孤独な。
ドイツの美術学校で先生から影響を受けたかと聞かれると、彼は「4年間で8回しか会っていない」と、本当なのかもしれないけど、聞きようによってはちょっとウィットに富んだ応えもする。だけど、インタビュアーは彼の答えまでの“間”を待ちきれずに、食い気味でキーワードを投げつけてきた。
彼は、そこでもやはり、喋るのはニガテだと言い、だから本を書いたんでそれを読んでほしいと語っていた。

つまりは、地元の友人に語る以外は、英語も標準語も、同じ外国語のように自分を語るのに適したものじゃないからなのかな、とこの時はちょっと思ったんだけど、それも違うみたいだ。
世界中を回って、彼が心を許した仲間や、新しく出会う人々と一緒に、一から小屋を作って信頼関係を築いていくメインの展開に至っていくと、彼は標準語でも英語でも、英語が共通語ではない国でだって、地元のオバチャンとだってさえ、凄くリラックスしまくって、饒舌になっていくんだよね。

特に、タイでの場面で凄くそれを感じた。やたら奈良氏にまとわりついている、やせた猫の描写も魅力的だった。
普段はロックな音楽を流し、厳しい顔して画に向かっている奈良氏が、タイの民族音楽がノンビリと流れる中、スケッチしてる。カメラのこちら側の監督は、こういう音楽で描くことはどうですか、と聞いてみる。監督も、そして観客も、アーティストである彼がチャレンジしているっていう気持ちを予測していたら、「楽しんでます」という応えが返ってくる。実際、とても楽しそうだ。
ああ、そういうことなんだなあ。なんか上手く言えないけど、凄く判る感じがした。
その変化を象徴的な場面としてとらえたのは、凄いことなのかもしれない。
だって、彼は本当に厳しく描いていたんだもの。

孤独なドイツの留学から日本に帰ってきた奈良氏は、自分が思ったよりも知られていることに驚いたという。
それは嬉しかったけれど、段々とプレッシャーになっていった。
彼の少ない言葉から察するしかないんだけど、自分の価値が、絵の値段やマスコミに出る頻度で図られるのが、怖かったんじゃないだろうか。
奈良氏は、この展覧会の旅で確かに変わった。これまで、創作は一人での作業だった。今回、その孤独な創作の様子も出てくる。そりゃ、ディレクターなりカメラマンがいるんだから厳密に一人なわけじゃないんだけど、こんなポップで可愛い女の子の画が、まるで厳しい大工の棟梁のような雰囲気の中から出てくるというのはオドロキであり、非常なスリリングである。

迷彩柄のカーゴパンツによれよれのTシャツ、絵の具で汚れたゴツいシューズ、ボサボサの天パをあめ色に汚れたタオルで無造作に巻き、タバコをひっきりなしにふかしながら、壁に貼られた絵に向かい、絵筆を武器に対決姿勢の奈良氏は、まるで修行を積んだカンフーマスターのようだ。
カメラがなかったら、きっともっともっと、追いつめられた獣のような彼を見ることが出来るんだろう。ちょっと怖いけど、それも見たいような気がする。
常に、ガンガンにロックな音楽をかけて、自分を追いつめて、「何かが違うんだよな……なんだろう」とつぶやき、塗りつぶし、迷い、最初からは思いもしない形へと変化していく。実に、骨太でアグレッシブだ。
だから、この作品のナレーションをまかされているあおいちゃんの声が、正直、かなり違和感があった。彼の絵にはあおいちゃんのキュートな声はピッタリだと思ったんだけど、実際の彼自身はシャイだけど凄くストイックだし、自らを追いつめているから、彼女の声はあまりにスウィートすぎるのだ。

このツアーを通して、奈良氏は確実に変わってゆく。
実際、最初に提示された彼の絵は、確かに可愛いけど、毒があった。子供たちはどこかイジワルな顔をして、武器を持ったり、強い言葉を放ったりしてた。社会風刺のような、あるいは自分の内面との葛藤のような。
後に彼は、今はそういう、昔描いていたような絵は描けないと述懐し、それがいわば代償のようにも言うけれど、そういう絵っていうのは割とありがちなモティーフでもあるよね、と思う。素人的な印象だけど。
今描いている絵は、昔は描けなかった絵。昔の絵が今描けないとしても、何も変わらないよりもいい、と、彼はネガの中にポジを見つけ出す。
今の彼の絵は、言ってしまえば素直ということなのかもしれない。それはでも、若い時にそういう傾向で描いていたら、今のような深さは獲得できていないんだろう。
そうなの、なんていうか……言いようがない深さを感じる。
可愛いんだけど、目の前にナマのこれが来たら、泣いてしまいそうな。

物語の中盤、長らく過ごしたアトリエから引っ越すことを決めた奈良氏は、寡黙な中から考え考え、こんな言葉を口にする。それは、彼の“間”を辛抱強く待っている、このドキュメンタリーの作り手だからこそ引き出せる、真骨頂の場面。

ここを離れるのが名残惜しいと感じるのは、引っ越しを前にして部屋からどんどん荷物が運び出されて、最初の状態、ここに来た時の絞り込まれた状態に戻っていくから。
今の自分は、あの頃に比べて、柔らかくなっている。それは、あまりいい意味ではなくて。
たった一人で創作をしてきた。誰がどう思うなんて考えずに。今、こうしていろんな人に出会って関わって、人を受け入れるようになったことは、いい言い方をすれば大人になったということなんだと思う。だけど、悪い言い方をすれば、人のことを考えすぎているのかなと。もっと自分にワガママになっていいのかなと。

そう、語るのだ。

あまり強い言葉にならないようにと気を使いながらも、ウソの言葉を出すまいとしているのが伝わってくる。
一般人ならば、「いい言い方」のところで留まって、それが成長だと、ポジティブな方向にだけ考えれば済むことなのに、アーティストとしては、それはポジなだけでは済まされない。だってそれは妥協であり、自分に甘くなっているということだから。「いい意味ではなく、柔らかくなっている」というのはそういう意味なんだろうな。

勿論、ここでは、この巡回展覧会においては、他人と関わることによって生じる化学変化は、100パーセントいい意味でとらえられている。
でも、奈良氏は、ここで留まることはないだろう。実際、こんな大規模な展覧会は一生に一度だと語ってる。これで死んでも悔いがないぐらいのことだと。
クリエイションのために、時には幸せな人間関係さえ自ら捨てなければいけないとは、芸術家というのはなんと厳しい世界なのか……。
ここで、「結婚はしないんですか」とノーテンキな質問をしてた、韓国のファンミが思い出されるんだよな。こんなストイックを持ってたら、結婚なんて要素はそりゃ、入り込めるわけもないだろう……。
しかし、そんな彼の作品や、何より彼自身を、一度関わった人なら判るのだから、彼は決して孤独ではない。
きっと誰より、幸せな人なのだ。

ドキュメンタリーって、社会派のものが難しくて高尚だと思われがちだけど、実際は、こうして一人のアーティストに密着するのが一番難しいように思う。
だって、彼らは基本、こんな風に一人で戦っているのだし、それをなかなかさらしてはくれないんじゃないか。
いや、さらしてくれても、それが赤裸々に真実だとも限らない。テレビでちょこっと取り上げられる映像なんかは、そういう表面上のものがいくらでもある。
でも、映画として残る、一個の作品として作り上げるには、そういうわけにはいかないのだ。

奈良美智は、この「A to Z」のためにと、本作の被写体になることを引き受けた。
やはりそれほど、覚悟と意味のあることだったのだ。★★★★★


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