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「そ」


2008年鑑賞作品

その日のまえに
2008年 139分 日本 カラー
監督:大林宣彦 脚本:市川森一 撮影台本:大林宣彦 南柱根
撮影:谷川創平 音楽:山下康介 學草太郎
出演:南原清隆 永作博美 筧利夫 今井雅之 勝野雅奈恵 原田夏希 柴田理恵 風間杜夫 宝生舞 寺島咲 厚木拓郎 森田直幸 斉藤健一 窪塚俊介 伊勢未知花 大谷燿司 小杉彩人 高橋かおり 並樹史朗 大久保運 三浦景虎 油井昌由樹 小林かおり 吉行由実 笹公人 柴山智加 鈴木聖奈 村田雄浩 山田辰夫 左時枝小日向文世 根岸季衣 入江若葉 峰岸徹


2008/11/17/火 劇場(シネカノン有楽町2丁目)
大林監督が少女を描かないなんて、随分久方ぶりな気がする。夫婦メインでどちらが主人公という訳でもないけれど、やはり今絶好調の女優、永作博美あっての作品。
そういえば原作モノに戻ってきたのも久しぶり。この頃ずっと、大林監督のオリジナルな、思い入れたっぷりの作品が続いていたから。
とはいえ、そして脚本も他の人に委ねているとはいえ(「異人たちとの夏」の最強タッグ!)“撮影台本”として大林監督の名前が連ねられているのを見ると、恐らく相当、元の脚本が解体されているんじゃないだろうかと想像してしまう。
それぐらい大林風味が隅から隅まで行き渡る。過去へのノスタルジー、思い出が時空を越えて夫婦の目の前を交錯していくなんて、まさにまさに大林ワールド。
これが他の監督たちによって映画化がゾクゾクとなされている作家、重松清の原作があるなんて、ちょっと信じられないほど。

それにしてもナンチャンである。予告編で彼が大林作品のいわば主人公の一翼を担っていると知った時にはビックリしたけど、でもなんだか、凄く判る気がした。
大林監督はイイ演技をする役者とかそういうんじゃなくて、人との縁を大事にし、その人の人間そのものを映し出そうとする人。
というのはそれこそ「異人たちとの夏」で、役者として大きく飛躍した片岡鶴太郎の撮影時のエピソードにも顕われている。
ボクシングのプロテストのために顔をケガしても、その時は後ろ姿から撮ればいい、そこにキミの人間が映し出されるからと、監督は言ったっていう……。監督らしいな、と思った。

ナンチャンは、決して演技が上手い人じゃない。ことに映像という、ナチュラルさを求められる場では尚更である。 永作博美という芸達者を相手にすると彼はどうしても分が悪いのだけれど、それでも彼を抜擢した大林監督の意図が、充分に当たったキャスティングだった。
ナンチャンはね、年をとるほどに、粋で素敵になってきたよね。正直、泥臭さのあった若い頃とは違って、とてもイイ男になった。それは彼の中にある温かさであり、誠実さであり、大林監督と同じく、人との縁を大事にするところだと思う。
それが劇中の、小さなデザイン会社を率いて社員全員から慕われている様子に、にじみ出ていた。愛する妻が直面した運命にも、苦しみながらもまっすぐに向き合おうとする姿は、彼のそんな人間性にピタリと一致したのだ。

しかし、ウッチャンは悔しかったんじゃないかと思うけどねー。だって双方ともに大林信者とはいえ、その度合いは絶対、映画バカのウッチャンの方が重いと思うもん。
でもナンチャンは「水の旅人」でもチラリと大林映画に出ているし、監督にとって波長が合うのはナンチャンの方なんだろうな。切ないねえ、なんか(笑)。

ところで物語というのは……余命を宣告された妻が、“その日のまえに”後悔しないよう、ひとつひとつ人生の片付け物をしていく、といった趣だろうか。
愛する夫と、若き日に貧しくも幸せな日々を過ごした思い出の小さな街を訪ね、自分の荷物を整理し、手紙を書き、自分が死んだ後に届く季節のフルーツまでも手配する。
そう、その“手紙”っていうのが、一番大きな要素っていうところには、いかにも小説が原作になっているなって気はするものの、本当に大林ワールドに満ち満ちているのだ……ことに、思い出の街を訪ねるくだりなどは。

あ、でもこの感じって「あした」にも似てる気がする。メインは夫婦だけど、色んな人たちのエピソードが乱れ打ちってところが。
思い出の街への旅で出会った、DV夫に悩まされている妻と彼女を支える恋人、妻と同じように余命いくばくかの身体を抱えて、幼い頃過ごしたこの街を訪ねてきた男……ことにこの男、シュンを演じる筧俊夫は、カッコから雰囲気から、「22才の別れ」の彼ソックリで、これはぜえったい、あの作品からの彼をつれてきたと思った。確かにそんな思いを引きずっちゃうぐらい、あの彼は哀愁に満ち満ちていて、素敵だったものなあ。
そしてそこでヒロインを演じた鈴木聖奈嬢や、「ふたり」「青春デンデケデケデケ」の胸キュンガール柴山智加嬢など、大林監督にとって可愛くて仕方ないであろう女優たちが贅沢すぎるチラリ出演である。

宮沢賢治が大きな存在感を示すのが、東北育ちの人間として大きな影響を受けたこっちとしては、感慨深いものがあるんである。
妻、とし子の出身は賢治のふるさと岩手で、彼女は彼の詩集を胸に東京に出てきた。
「あめゆじゆ、とてちてけんじゃ」という、あの美しくも哀しい詩、そこに歌われた、若くして死んでしまった賢治の妹と同じ名前のとし子。
名付け親は父親だった。後に瀕死のとし子の病床に駆けつけた彼に、孫であるとし子の子供たちから、「だからお母さんは死んでしまうの?」と言われた時の、黙り込むしか出来なかった父親の痛ましさが、グサリと突き刺さる。

とし子が選択した“その日”まで子供たちに自分の姿を見せないことは、正しかったのだろうか。いや、正しいとか正しくないとかいう答えなんて、そんなのないのぐらいは判っているけれど。彼女は自分が苦しんで、弱っていく姿を見せるのを嫌がった。
「お母さんは、与えられた命を最後まで、強く、美しく全うした、そうカッコ良く思われたいじゃん」 そう、冗談交じりに夫の健大に訴えかけた。
健大はそんな妻を何度も説得しようとしたけれど、彼女の意思は頑として変わらなかったから、ついにこんなギリギリになってしまったのだ。いや、そのギリギリだって、意識の朦朧とし出した妻に「もう、いいよな」となかば強制的に許しを得たようなものだった。この時点で彼女の意識がハッキリしていたら、やはり否と言ったかもしれない……。

でも……これって、逆に考えると、弱みは夫にだけ見せていた、究極のラブストーリーだったのかもしれない、と思う。
あ、でもそれも微妙に違うかも……。彼女は夫にさえ、本当の弱みは見せなかった、いや、見せたくなかったんだもの。
それは冒頭、彼がダダダと裏階段を下り、ドアの中に駆け込んで、搾り出すように苦しい叫び声を発する場面がまず用意されていて、だけどそれは、彼が何に対してのリアクションだったのか、その時点では明かにされないのね。
でも最後の最後、もうとし子が死んでしまった後になって、回想のようにその場面が示されるのだ。
デート気分で化粧をしたとし子に、検査もあるし、化粧はダメだって言われたろ、と健大が言うと、その時は、あ、忘れてたぐらいにあの愛らしい笑顔で返して、愛人がいたら今のうちに言っておいてね、だって子供たちのママになるんだから、なんてことまで冗談とも本気ともつかないことを軽−く言ったりして。
でも、ふととし子の部屋を覗いた健大が見たのは、嗚咽を止めようもなくグチャグチャにしゃくりあげながら、クレンジングクリームを顔に塗りたくっている妻の姿だったのだ。

彼があの時受けたショックは、妻が本当に死んでしまうんだ、彼女自身もそれを覚悟しているんだということを突きつけられたことによるものだとは思うけど、一方でひょっとしたら、自分に対して百パーセントさらけだしていないと思った気持ちもあったのかもしれない、と思う。
とし子が泣いたのはあの時だけ。そして健大も、彼女が死んでも、そして葬儀でも(これは後に子供たちの台詞によって判ることだけど)泣かなかった。
なぜ?と子供たちに問われて、彼はあいまいな答えを返すけれども、自分の前でさえ弱さを押さえ込んでいた妻に対する、精一杯の尊重の気持ちだったのかもしれない。
そう考えると、何でも話し合える、全てを分かち合える夫婦が最良という訳ではないのかなと思う。だって少なくとも彼女の方は、夫に泣き顔を見られたとは思っていないんだし……。
騙したつもりで、騙されている。それは双方とも同じ罪の度合い。それがこんな風に哀しいほどにピタリと一致するのが、理想の夫婦、なのかもしれない。そんな場面を考えたくなんか、ないんだけど。

健大はね、凄く気に病んでいたんだよね。小さな窓から見える飛行機雲に見とれて、鉛筆を落として、しかもそれを足で拾おうとしたこと。部屋に入ってきたとし子がふいとそれを拾い上げ、ニッコリと彼に手渡した。
その直後だった、彼女の病気が発覚し、余命いくばくもないと告げられたのは。健大は、自分の不心得がそんな悲劇を引き寄せたのだと苦悩する。
そんな価値観が共有出来ている二人が、若い頃から苦労を苦労とも思わず、共に寄り添っていたことは即座に想像出来る。

それを補うにあまりある、二人が新婚時代を演じる思い出の浜風町での回想シーン。ディスカウントの家具屋で買った食器棚を、えっちらおっちらボロアパートに運んでいった、甘酸っぱい記憶。
改めて訪れたその小さな街は、今やすっかり変わってしまった。。あの頃いつも、駅のホームで「出発進行!」と叫んでいるガクラン姿の少年、“駅長君”は当然、もういない。「もう30過ぎか。家族を持って、幸せになってるよ」と健大は励ますように言った。駅前にあった雑多なマーケットはキレイに排除されていた。とし子は、その中のひとつひとつの店の、オッチャンやオバチャンを思い出す。
皆、幸せになってるよね、とし子は繰り返しそうつぶやく。その横顔を、健大は見つめていた。

その頃、まだまだ健大は売れないイラストレーター、殆んどとし子のヒモ状態だった。二人の結婚に反対した彼女の実家からは絶縁状態だった。
健大のイラストが初めて売れた時の喜びを、とし子は再三思い出す。出窓に飾ってあったマリゴールドの鉢植えを掲げて、やったー!と叫んだその破顔を、彼はスケッチに留めていた。
その思い出の部屋に同棲しているカップルに向けて、彼女はメモを書き残すのだ。ここでの幸せな思い出、そして出窓には鉢植えを置いた方がいいですよ、と。

「あなたが仕事をしている様子を、猫みたいに丸まって見ているのが、私の幸せ」とし子はそう言って、健大がスケッチに没頭しているテーブルの下からイタズラっぽく微笑んだ。
そして、リビングと仕事場がつながっているその空間の壁を、青空みたいに塗りたくった。でもそれも途中で、彼女は病に倒れてしまう。
青空、は、彼女の澄み切った笑顔のような魅力だったように思う。そして、そこに飛行機雲を横切らせたいと彼が思ったことは、不穏な予感を象徴していたのかも知れない。
だって、だってね、「窓から見えるひこうき雲」だなんて、まるでユーミンのあの曲そのものの世界じゃない。

少女の替わりにこの作品に君臨しているのは、原田夏希、だったかもしれない。永作博美と同じぐらい、監督は彼女に入れ込んだんじゃないだろうかと思うのは、その割いた尺の長さで判る。
まあ少々、それが長すぎ、しつこすぎな感じはしたんだけど(爆)。この物語のテーマというべき、賢治が死に行く妹に向けて書いた「永訣の朝」の詩、それに粛々としたメロディをクラムボンがつけて、それを劇中、“くらむぼん”として彼女がチェロを弾きながら歌うんである。

勿論、“クラムボン”は賢治の作品には欠かせない、イマージュ溢れるモティーフであるし、とし子の父がその由来を孫たちに語って聞かせるシーンも出てくる。そりゃ、とし子と名づけているくらいだから当然である。
でもそれをミュージシャン、クラムボンにつなげ、更に大林監督好みの女の子、原田夏希に体現させるとなると、もうこの時点で既にこれが“大林映画”になっていることは必定なんである。
彼女はもう少女なんて年ではないけど、明らかに大林映画に必要な少女のピンチヒッターとしてそこにいる。
目深にかぶった帽子の中に豊かな長い黒髪を隠しているってこと自体、中性的気分を残した少女の気分が充分だし。なんかね、彼女の風貌には、ひょっとしたら彼が一番愛した少女女優かもしれない、石田ひかりの趣を感じるんだよね。

正直、この“くらむぼん”のくだりは長いような気はしたかなあ……。大林監督は自分の信じた世界を妥協なく描く人だから、サクッと商業的な尺に収めるなんてことをする人ではないのは知っているけれど、それにしても、「あめゆじゆ……」の繰り返しは長すぎた……気がする。そりゃ勿論、とても美しい詩だし、繰り返すだけの大きな意味合いはあったとは思うんだけど。
原田夏希への思い入れゆえの、バランスの悪さ?なんて、勝手に想像しちゃいけないけど。でも、それが「22才の別れ」や、それこそ石田ひかりをヒロインに迎えた二作のように、少女にこそ没頭できるのなら、そういう時こそ、ステキなヒロイン映画、少女映画になるんだと思うからさ。

でも、そう、これは夫婦の物語なのだ。おそらく、初だよね、大林監督にとって。まあ「北京的西瓜」なんていうのもあったけど主題はまた別のところにあったし、少年少女の親たちとして登場する夫婦に味わい深い人たちはたくさんいたけど、彼ら自身を真正面からとらえることは、なかった。
それに対して、周囲の人間のエピソードが多くなったのは、自分たち自身で精一杯の少年少女とは違って、人間との関わりが大人になるまでの人生で欠かべからざるものである、それが大人になるということなのだということを差しているのだと思う。

勘当同然だった田舎の両親にさえ、自分の余命を“それとなく”知らせ、出会ったばかりの前途多難なカップルにも、自分の人生に関与した、その重さを感じる。
宝生舞は大林ヒロインで当然だけど、連続登板の斉藤健一=ヒロシは、よっぽど気に入られたんだなあ。実際、一途なカメラマン青年が好感度大。
宝生舞演じる睦美がDVを受けているのを「裸を見れば判ります!」なんてハズかしいことを、それと気付かずに口にしちゃうあたりのウブさが意外に似合うのが、大林監督お気に入りの秘訣だったりして。
やっぱり大林監督は“人間”が好きなんだよね。その人がまとってるキャラという鎧じゃなくて。

正直、ノスタルジーに固執しすぎな気がしたし、それに固執しすぎなゆえに繰り返し出てくる“駅長君”の異様さがちょっと怖かったし(……決してカッコ良くないと思うし、大人になった彼が出てこない以上、“幸せになっている”と信じることは出来ない……)素直に幸福な大林ワールドに浸ることは出来なかったけど、監督が迷うことなく信じている世界がまるで揺るぎないことを感じることが出来たのは、嬉しかった、かもしれない。★★★☆☆


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