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「に」


2007年鑑賞作品

22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語
2006年 119分 日本 カラー
監督:大林宣彦 脚本:南柱根 大林宣彦
撮影:加藤雄大 音楽:山下康介 學草太郎
出演:筧利夫 鈴木聖奈 中村美玲 窪塚俊介 寺尾由布樹 細山田隆人 峰岸徹 三浦友和 村田雄浩 長門裕之 清水美砂


2007/8/29/水 劇場(テアトル新宿)
ああ、やっぱり大林監督は私の神様だ、私の神様が帰ってくてくれた!などと不遜なことを思ってしまうことを許してほしい。やっぱり私は大林教の信者なんだもの。
完璧な映画って、そのプロローグで予感がする。あ、これは完璧な映画だ、って、ピンとアンテナが立つのだ。ザワザワとした予感が全身を駆け巡るのだ。そしてそれが、良かった間違ってなかった。完璧な映画はまさに完璧なままでエピローグを迎えた。粋なオマケまで用意して!

少女映画のマエストロである大林監督だけど、それにしても一体、どこからこんな女の子を見つけ出してくるんだろう。まさに運命の少女、花鈴を演じる鈴木聖奈。全身が何かの予感に満ち満ちているような少女。ボサボサの髪が色白の頬にまとわりつく。なんだかそれだけで、胸がザワザワする。
それは「ふたり」の石田ひかりをスクリーンに見つけた時のような、そんな未完成の完成形を思わせる。ダボダボのファッションにズリさげたメガネは決してイケてる美少女じゃないあたりも、やはり美人のお姉ちゃんに遅れを取りまくってたグズな石田ひかりを思い出すのだ。
ああ、そうか。私はあの頃の大林作品にこそ、完璧を見い出していたんだなあ。そしてあの頃少女だった大林作品は、主人公を大人の男にシフトすることによって、相手の少女もほんの少しだけ大人になった。「22才の別れ」をモティーフとする本作は、22才の誕生日を控える、21歳の女の子。オジサンにつきあってお酒も飲む。そう、もう少女ではないのだ。

で、その聖奈嬢、いきなり小説家として注目された存在だというんだからビックリする。うう、たまらん。私はそういう若い才能に弱いのだ。
でもやはり、大林映画の少女たちは、皆そうなんだけど、本当にここだけの少女なのだよね。ここでの聖奈嬢も、花鈴だけのための彼女。いわゆるプロフィール写真や舞台挨拶の様子を撮影した彼女を見ると、別人かと思うほどに違う。いわば普通の印象。
大林監督は彼女に、なるべく棒読みにして、ささやくように台詞を言ってくれ、と指示したという。
だからこそ花鈴が出来上がったのだ。

その予感に満ちたプロローグ。ところは福岡県福岡市。上海勤務を告げられたばかりの44歳、川野である。どしゃぶりの雨の中、コンビニに立ち寄る。そこで耳にする「22才の別れ」。歌っていたのはレジカウンターにいるバイトの女の子だった。
「今でも流行っているのかい、そんな古い歌」「父がよく歌っていたんです」色めき立つ予感。沢庵だのチュッパチャップスだのといった、独身男の買い物にクスリと笑みをもらす彼女。「君みたいな子でも、歌うのか」「歌いますよ、そりゃ」その笑顔が彼の頭を駆け巡る。
高級マンションの、エレベーターを使わずに、階段を駆け上がる。踊り場を何度もターンしながら、ぐるぐると駆け上がる。なんということだ、なんということだ。そうつぶやいて。もうこの始まったばかりで、彼女に感じた漠然とした予感は確信に変わってゆく。それは観客だけじゃなくて、彼の中にも。こんなことがあるのだ。まさに奇蹟に近い偶然。

彼が17才から22才までを共に過ごした、葉子という少女。いや、別れた時にはもう22才、少女ではなかった。22才の誕生日、共に東京へ進学していた彼女は、都会の喧騒にすりきれてしまいそうだと言った。
「俊ちゃん、津久見に帰ろうよ。私、田舎がいいよ。“いっそ、嫁に来るか、俺のところへ”そう俊ちゃんが言ってくれるのを夢見てた……」しかし、川野は何を言うことも出来なかった。殊更に東京に夢を抱いていたわけでもない。でも、葉子とは結局キスひとつしないままの関係だった。それが彼を尻込みさせたのか。
葉子は彼の部屋を訪れた日、自分の22才の誕生日のこの日、最初から別れの手紙を用意してた。でもその手紙を置いてくることにならなければいいと願ってた。この晩に、“花鈴”の命が灯ればいいと、願ってた。

でも、やはり川野は、葉子がキスよりも欲しかったたった一つの言葉も、言えなかった。葉子は二人で撮った一枚の写真を、彼のアルバムからそっと抜き取った。
その夜、葉子を見送ったのが、最後だった。津久見に帰り、隣市の臼杵で結婚した彼女は、最初の娘を産んだ時、一緒に死んでしまった。
葉子が常に言っていたこと、それは、女の子を一人だけ産むこと。その名前は花という字に鈴でかりんと読むこと。そして、その父親は、川野君、あなた。
川野がコンビニで出会った少女は、そのコンビニをクビになり、マンション前の公園でろうそくをいっぱいに点して彼を待っていた。「私とエンコウしてください」そう、彼女は言い、自分は田口花鈴、臼杵から出てきた、と言った。

「なんということだ」

“あの頃”の大林映画を完璧とするせいなのか、妙に符号を感じる部分を多々見つけてしまう。一回目観終わった後(既に二回観てしまった……)即座に思ったのは、「はるか、ノスタルジィ」みたいだな、ってこと。
少女が、大人の男にカマをかけてくる。何か事情があるらしい。実はそのお母さんと彼とがつながっている……という。石田ひかりの脱少女な雰囲気も、なんだかそんな感じだった。
と、思うと「ふたり」にしろ「はるか、ノスタルジィ」にしろ、親子二代、あるいは姉妹で、同じ人を好きになるという話なのだ。その他にも、同じようなモティーフが頻発していることに思い至る。思えば私が大林作品との出会いで、即刻恋に落ち、同時に映画道に迷い込むこととなった「さびしんぼう」だって、息子が母親の思春期の頃の幻想(分身?)に出会う話だった。
大林映画には、恋愛にも血のつながりの温かさがある。だから、好きなのだ。それに本作で出てくる女の子の自転車のチェーンを直しているシーンは、「さびしんぼう」にも出てくるのだ!

しかし、この花鈴の父親が、川野のはずはない。葉子との5年間、キスひとつしなかったのだ。それに冒頭、川野が無精子症だということもしっかりと示されている。
しかし、この広い日本で、福岡という地方都市で二人が出会うことは、二人が親子であると同じぐらいに奇跡的な邂逅。まさに、葉子が二人を出会わせたとしか思えない。
しかし、何の問題もないと思われた二人の関係だったけれど、川野は花鈴に運命を感じて「一緒になろうと思ってる」と何の疑念もなく思ったけれど、上海に連れて行こうと思ったけれど……。コトはそう単純ではなかった。

花鈴には、一緒に暮らしている男がいた。それはでも……川野に対する裏切りというには彼女がカワイソすぎる。だってその同居している彼、浩之との間には何もなかった。浩之とは高校の同級生。まさに、まさにあの頃の川野と葉子のままの関係だったのだ。
お互いに好きなのに言えなかったこと。特に、彼の方が、彼女が遠くに行きそうで怖くて言えなかったこと……それは自分に自信がなかったからだということ……。
これが平成の世なのかと思うほどの、ビックリするほどのボロアパートで、浩之は腹をすかせて倒れる寸前。川野はライバルの筈なのに、「あなたのことは花鈴から聞いています。そりゃ少しは寂しいけど、あいつには幸せになってほしいから……」などと言い、涙を流して勧められた焼き鳥を食べる。そんな彼を、川野は放っておくわけにはいかなくなった。

で、その、少女から大人の男に主人公がシフトした筧利夫である。驚いた。何が驚いたって、彼がステキだということである。色気があって、孤独に包まれていて、もうビリビリするほどにイイ男。
ビックリした。だって、彼ってそういうイメージじゃないじゃない。どっちかというと、コミカルなイメージ。え?私だけか……そんな先入観持ってるの。スリムな黒のロングコートを翻し、孤独を噛み締めている様が、もう心かきむしられるほどカッコイイんだもの。
彼は職場に、長年イイ仲を続けてきた女がいて、その彼女から思いを寄せられてて、なのに花鈴と出会った途端、「一緒になろうと思ってる」などと言うから、その彼女の思いにドンカンかと思いきや、実は判っている。判っているからこそ、応えられないことに申し訳なく感じている、情けなく感じている男の悲哀。ああ、ビックリした。筧利夫がこんなにステキなんて、誰もが思いも寄らなかったんじゃないの!?(いやだから……私だけだってば)。

劇中、花鈴から、「(エンコウ相手として)ハゲてないし、ハンサムだし」と言われるにしても、そんなこと、誰も思ってなかった、なんて失礼かな……でもそういうキャラじゃなかったからさあ。大林監督から、ハンフリー・ボガードになれと言われたというのも納得の、このストイックな男の色気にクラクラくる。
そう、色気なのだ。自室ではシャツの胸元をはだけて、シルバーのネックレスなんてしちゃってさあ。もう色気大全開なんだもん!
そういやあ、今までは意味なく少女たちをハダカにしてきた大林監督、なかなかそうもいかない時代になったのか、本作では筧利夫を裸にしたのね、などとちょっと笑ってしまった。シャワーを浴びるシーンはもとより、風呂に潜ってぷはあ!と気持ち良さそうに、やけにキレイに並んだ歯並びを見せて笑うところだけは、あらら、筧利夫だわね、などと思ったり(笑)。

でもあのシーン、その長年思いを寄せている女性である、有美(清水美砂)と行ってるんだよね。ホテルだか温泉旅館だか判んないけど、次のショットでは、二人タオルをかけてマッサージ椅子に座ってる。有美は「応援する。のろけたくなったら、話聞いてあげるから」などと言い、突然激しく動き出したマッサージ椅子に、いたたたた、とタオルからにょきりとあらわな太ももを出して彼を蹴りまくる。このあたり、ヘタな露出よりドキっとするし、こんなところに一緒に来る二人の関係が、それでも恋人ではない二人の関係が、やけに微妙に匂わせてて、ドキリとさせるんである。

いや、恋人じゃなかった、という訳ではない筈。だって、冒頭は、川野が医者から非閉塞性無精子症だと告げられる場面なんだもの。
「ということは……これからは遊び放題ってことですね」と口の端だけ引き上げてニコリとする彼は、有美のためにこの検査を受けたに違いないのだ。それがとりもなおさず花鈴が川野の娘である筈がない、そのことを葉子も知らずに死んでしまったのだという切ない示唆になるにしたって、その重みは有美に対してこそ示されているのだ。
その後に有美が川野と一緒に行った焼き鳥屋で「公園オバサン計画」(子供との公園デビューってことね)を店のオヤジさん(長門裕之。さすが名演。)に披露するにしても、その話は川野にもずっと話してきたことの筈なんだし。川野は有美の夢をかなえてやりたかったに違いない。

有美はひたすら、いじらしいんだよね。バブルの洗礼やノストラダムスの洗脳によって、結婚に夢を見いだせず、かといって仕事でも下から突き上げられ上から押さえつけられて、何となくここまできてしまった世代。その価値観を同じくするからこそ、川野とも上手くやってきた。
でも、川野を好きなこと、結婚したいこと、彼の子供が産みたいことはホントだったんだもの。それを、自分では君の子供の父親にはなれないから、と川野から告白されて、しかも彼は若い女の子と出会って恋に落ちた模様を目の前で見せ付けられる。
公園オバサン計画を嬉々として話してしまった以上、子供を生みたいことでつなぎとめているような今の状態で、彼に何を言うことも出来ない。他の男に目を向けようとしたけどやっぱりダメで、それは子供が欲しいんじゃなくて、彼の子供が欲しいんだってことに気付いて……。

何よりね、この場面が切ないわけ。花鈴に同居している男がいるのを突き止めた有美、「ジェラシーじゃなくて、あなたたちに問題解決してほしいだけ」と強がり、しかし「やだ……なんで泣けるんだろ」とふと涙ぐんでしまう。「私、言わなかったっけ?あなたに……言ったつもりでいただけだったんだっけ?」
大人の恋愛は、どこかあうんの呼吸で、殊更に好きだとか愛してるとか確認することもなく、それが時に悲劇を生む、のかもしれない。川野に好きだ、愛してる、結婚してほしいとキチンと言っていなかったらしいことに、有美は今更ながらに気づいた。でも言えないのだ、今更、言えない。
でも、全てが落着して、つまり川野が親子二代に失恋した時、有美はどこかヤケ気味に酔っ払って、「有美!お前の気持ちは判ってるよ。いっそのこと嫁に来るか、俺のところへ、とかさ!」と客観的を装って川野に思いをぶつける。川野はその晩、ただ黙ったっきりで、ひと言も喋らなくて……。

この時の、筧利夫のかすかな笑みを浮かべたまま黙りこくるストイックっぷりが、またイイのよー。今、この時点で有美に何かを言ってあげるのは、確かに、やっぱりまだ、正解じゃないんだもの。でもそんな彼に寄りかかるように酔いつぶれて寝てしまう有美が、可愛くも切なくてたまらない。
有美が、たとえ川野の子供が産めなくても、「愛があれば、ねっ!」と胸のところでぎゅっと両手を抱きしめる乙女のような仕草をするのも、こんなことやらねーよとどこか苦笑しつつも、なんだか切ない可愛らしさがあるのだ。
思えば清水美砂がこんなにいじらしい大人の女を演じるのも、ちょっと意外である。いや、大林監督ならやっぱりアリなのだ。大林監督はあのキリスト様のような笑顔で、役者のイメージを簡単に覆してしまうのだ。川野と花鈴が二人でいるところを見つけて地団駄踏む有美、なんて、清水美砂のオトナなキャラじゃ考えられない。それで言ったら川野の上司の峰岸徹が煮え切らない川野に、もおーっ!とイラつく子供っぽい言い方をするのも実に大林監督テイストで、それを役者たちがすっかりカワイくなってやっちゃってるのが、嬉しくなっちゃうんである。

で、またしてもなんだか、オチまで突っ走ってしまった模様だが……。その、有美との間ではかわされなかった「愛してる」という言葉は、ふるさとの臼杵に送り届けた花鈴に贈られた。
川野は、自分の上海行きのために会社のリストラ要員にされた杉田部長のことを、ずっと気にしてた。彼がこの福岡支社に来たばかりの頃に、励まし、育ててくれた恩義があったから。上海に行くということに、それが出世のためだと判っていても、どこかに割り切れない思いを感じていたのか。
花鈴を後から呼び寄せる、そんな夢を抱いてみる。花鈴を英語学校に通わせてみる。でも花鈴が浩之と、かつての自分たちと同じ過ちを繰り返そうとしていることを知った時、川野は会社を辞め、花鈴に言った。
これでもう、何も価値のないオジサンだと。浩之君とは同じ過ちを犯すんじゃないと。
そして初めて、自分が花鈴の母、葉子の好きだった相手だと告げるんである。
浩之が花鈴のためを思って家を出たり、色々あったけれども、焼き鳥屋のオヤジさんが彼を引き取ってくれることになって、有美曰く「終わり良ければすべて良し」となって、花鈴はまず臼杵に帰ることになったんである。

で、そう、臼杵で、花鈴と別れる時に、川野はまず、「もう一度、君の歌を聞きたかったな。『22才の別れ』」と言ってみた。花鈴は笑みを浮かべて「歌いませんよ。別れの思い出なんてつまらないじゃないですか」と返した。
そういえば、花鈴が川野と別れ、ついてきた有美に「私今日、さよならばかり言っています」と寂しげにつぶやいた言葉がひどく心に残ってた。さよならが、きっと花鈴は嫌いなのだ。それは……母親から受け継いだ血がそう感じさせるのかもしれない。彼女は川野と出会いの思い出しかいらないのだ。これが別れだとも思ってない。でも川野は……。
そして、花鈴から二歩、三歩と離れて振り返った川野は「愛してるよ」と言ったのだ。
その言葉にうわっと突き刺されて、座席からずり落ちた私だけれども(単純)、それを受けた花鈴は、穏やかな笑みを浮かべて、「判ってる。お母さんに……よね」と受け止めた。
それに対して川野はなんと言うこともなかった。肯定も否定もしない。ただ、「……さよなら」と言って、彼女に背を向けた。

花鈴のお母さん、愛していた葉子には確かに言えなかったこと。でも後から有美に言われる「親子二代に失恋したからって」という言葉が示しているように、確かに花鈴に彼は、恋をしていたに違いないのだ。
その後ろに、かつての恋人を見ていたとしても。いや、だからこそ、か。それこそが大林映画のモティーフ。それが本作で完璧な形で結実している。まさに、完璧な形で。
男は多分、女よりも昔の恋人を引きずる生き物だと思う。それが悪いことだとは思わない。美しいと思う。時には、かつての恋人に似た女性を好きになることもあるだろう。
それが最も理想の形で現われたのが、花鈴だったのだ。いや、外見や雰囲気は全く似ていない。しとやかなお嬢様風だった葉子と比べて、ズボラで全然女っぽくない花鈴。しいて共通点を言えば……なんだかほっとけない感じがするところ、だろうか。

まさに葉みず花みずだったのだ。この作品が完璧たらしめるモティーフ。葉子が好きだった、リコリス=曼珠沙華。その赤い色を映したマフラーを、川野に編んでくれた。それは17才の頃。
葉子からもらったそのマフラーを、彼は部屋で嬉しげに巻いてみる。母親がからかい気味におやつを持って入って来て、その赤いマフラーを一緒にまいて「恋の季節」を歌う場面が印象的。親子の仲の良さが伺われて。この母親も、今はもういない。
そして彼の部屋は駅に面していて、いきなり駅のホームが丸見えに見えるのだ。
川野は鉄道マニアでね、高級マンションのがらんとした部屋に明かりをつけると、模型の電車が動き出す。家の電話も電車型で、ベルは電車の蒸気音である。そんな彼を見て花鈴は「おじさんって、子供みたい、カワイイってこと」と言った。

それだけじゃなく、作品中には電車が、汽車が、新幹線が、ことあるごとに登場する。登場人物が行き来するバックに、ゴオーッと走り去るのだ。
これが、非常に強い印象を残す。
だって、ひなびた商店街の踏み切りに、新幹線?(みたいに見えたけど、まさかね。それぐらいスゴイ列車)がゴオーッと走りすぎたりするんだもん。高架上に走りそうなスゴイ車体がいきなり目の前を横切るもんだから、ビックリする。
そして花鈴と浩之が暮らしているさびれたアパート町からも、やけにカラフルな電車が行き交っているのが見える。
そしてそして極めつけは、川野が上司に辞表を提出するベランダから、飛んでいく飛行機が間近に見えることなのだ。
これは、上海行きを断わった彼を皮肉っているようにも見えるけど、やはりここまで鉄道にこだわった、その延長線上に思えるのだ。
鉄道は、地上をくまなくつなげる。でも、気持ちは鉄道のようにはつながらない。と思ったら、思いがけず、時空を越えてつながっていたりする。
そんな、比ゆなのかもしれない。

で、だから葉みず花みずなんだってば。それは子供を作れないリコリスのこと。中国原産のこの花は、大陸が地続きだったころ、1年で1センチしか進めないスピードで、日本に入ってきた。1億年もかけて。
そこにもまた、鉄道と同じつながりを感じるんである。
葉子は、女の子を1人産むと言った。絶対に女の子。それは決まっているんだと。そしてその父親はあなた、なのだと。
言の葉の“葉”。だからこの名前が気に入ってるの、と葉子は言った。言の葉を信じている者は、いつか現実に裏切られる。それが怖いのだ、とも言った。
確かに彼女は、彼の子供は産めなかった……。
結果的に彼は無精子症だったわけだし、あのまま葉子と続いても子供は出来なかった。そして葉子は都会に疲れて田舎に帰り、見合いをして結婚して花鈴をもうけ、同時に死んだ。

それでも、やっぱり花鈴は川野の娘だと思うのだ。あの時、葉子と二人で過ごした永遠の時間で誓い合った、娘だと思うのだ。
物理的には、なんら血のつながりのない川野と花鈴は、恋愛したって問題ない。昔の恋人の忘れ形見。ただ、それだけ。 でも、やっぱり彼にとっては娘なんだ。そうに違いない。
花鈴は、葉子にとっての葉みず花みずの子供。それを葉子は、お互い自立して生きる。でも根っこは同じ、と表現したけれど、リコリスと同じように彼女は子供をマトモにみることも出来ずに死んだ。
哀しいまでに、完璧なのだ。リコリス、葉みず花みず、親子、血のつながりのありなし、その上に成り立つ恋愛とも思慕ともつかない、でも強固な思いが、ここに完璧に結実してる。

一方で、新妻のことをまるで知ることもないまま亡くしてしまった、花鈴の実の父親を演じる村田雄浩氏は、実に切ないんである。
以前の私なら、こういう部分に憤りを感じただろうと思う。それこそこのシリーズの前作「なごり雪」では憤りまくった。いや、以前の私、というより、本作が完璧なゆえんだと思うのだけれど。
花鈴のお父さん、「許せない思いばかりが、じいんと残っています」と言う。何に対して許せないのか、具体的に言うことはない。でも彼の気持ち、判る気がするのだ……何となく。それが、昔の恋人を今でも思ってるなどと断じた「なごり雪」とは違って。

そりゃ彼は、今、目の前にいる葉子の昔の恋人、川野のことなど知らなかったからなのかもしれないけど、でもそれを殊更に追及することなく、自分の思い通りにいかなかったこと、それは……彼は何も言わなかったけど、もしかしたら自分自身に何か至らぬ部分があったのかもしれないこと、そのことで、花鈴に辛い思いをさせてしまったことを、哀しく思っているに違いないのだ。そのことが、許せない思い、なのだと思うのだ。
花鈴が、父親に大見得切って飛び出してきたから帰れない、と言ったのも、彼が娘の様子を見に行ったのも、お互いに愛があるからに違いないんだもの。
それを村田氏は、筧氏とは違うストイックで見せてくれるんだよなあ!

そしてここに、この父と娘の切ない符号を見る。
花鈴は亡くなったお母さん、葉子のことをいつも、“あの人”と呼んでいた。自分のために、自分のためなんかに死んでしまった人。「あの人が死んじゃうからいけないの、死んじゃうから……」そうつぶやく花鈴の姿がひどく心に痛かった。自分が今いる意味が判らない。だってお母さんだっていう実感がないし、自分は愛する人との間の子供ですらないのだ。
そして、この父親は、先妻である葉子を、“あれ”と呼ぶんだよね。「あれのことをまるで知りませんでした」とか。
それはこの父と娘の共通認識という感じで……お互いがつながる唯一の存在なのに、二人とも葉子のことをまるで知らなくて、つかまえられなくて、そんなはかない切ない、“あれ”であり、“あの人”って感じで。
それは死んでしまった葉子にとっても、とても哀しく切ないことなのだけれど、だからこそ川野が葉子と呼び、君のお母さんと呼ぶのが、深い響きを放つ。

この世代だから若い頃から慣れ親しんでいたというギターで、死んだ母親の好きだった歌を娘に聞かせて育ててきたお父さん。
それだけで、父親として満点合格だよ。
そして、娘が22才になったら譲り渡そうととっておいた、母親の形見。
それは、あのリコリスの色の赤いマフラー、そして葉子が好きだった歌集。そこに挟まれた川野との写真一葉。「キレイな人はよりキレイに、そうでない人はそれなりに写ります」と、当時の流行り文句を言って自動シャッターで写した写真。
これがまた、泣かせるのだ。
彼は言う。どうして母さんがそんなにもこの歌が好きだったのか、聞けなかった、と。
それを聞いて花鈴は言うのだ。それは、いつか私が話してあげるよ、と。
それがラストシーン。ううう、なんてカンペキなんだ!!!

「なごり雪」の舞台となった臼杵。で、本作で花鈴の故郷が臼杵だと言うから、え、また臼杵!?と思った。そして物語の始まり、葉子と川野とはその隣の津久見で始まった。
きっと大林監督は、「なごり雪」で臼杵と出会って、その縁がこの映画も作り出したんじゃないかと思う。
改めて見ると、臼杵は尾道に良く似てる。古い家屋が残されているところ、海を臨むところ、そして何より、その曲がりくねった狭い道と坂道。
尾道は、昔のような太陽が失われてしまったと、監督は言っていた。尾道で青春を撮り続けてきた監督にとって、それは本当に、悲しいことだったんだと思う。
臼杵は、太陽のきらめきって感じではない。それは「なごり雪」の時からそうだった。ひっそりと時の経過を閉じ込めている町、そんな気がした。

そしてなにより、街中に灯がともる、竹宵の美しさ!
「なごり雪」でもちらりと示されたけれども、本作では、もうたっぷりとその美しさが活写される。もう、ほんっとに、こんなの、見たことなかった。呆然とする美しさ。浩之が「街中にバースデーケーキのろうそくが灯っていると思ってくださいよ」と言うのもうなづける。
やっぱり、「なごり雪」で臼杵に出会ったことが、本作につながっていると思うんだよなあ。
だってさ、花鈴を臼杵に送ってって、車を止めたところ、あれ、「なごり雪」で雪子が紙ふぶきを飛ばしたところじゃない?違う?
そして、鉄道マニアでしょ。隣町の津久見は、トンネルを隔てて向こう。花鈴を届ける時は車で行くけれども、彼が高校時代住んでいた実家は駅に面していたのだし、やはり鉄道でつながれている感は強かったに違いない。
そして、花鈴を連れて行く時、山焼きの炎が彼らが行く道路を焼き尽くしているのも、ひどく印象的なんである。

花鈴が、川野と焼き鳥屋で飲んでいる時、花屋とか喫茶店をやりたい、と語る一方で「セレブな主婦になる」のが夢だと言う。焼き鳥屋のオヤジさんは、「昔からの女の子の夢だよ」とニッコリとする。
なんかね、不思議とすっと入ってくる。こういうの、私はイヤな筈なんだけど。何のてらいもない暖かな女系のえにしが、ひどくステキに思えるんだもの。

「なごり雪」から続く本作は、伊勢正三名曲シリーズかと思いきや、大分三部作の二作目なんだという。トンネルひとつで隔てられた津久見と臼杵は、監督曰く「わが古里の山をセメントに変えて、日本のために尽くした古里(津久見)と、お金も物もいらないと言って緑を守った古里(臼杵)を、美玲ちゃん(葉子)と聖奈ちゃん(花鈴)のそれぞれの古里として分けてもらいました」と語るとおり、とても対照的な姿を持つんだけれど、どちらに肩入れするということもない。花鈴は「色んな生き方があるんだね」と言い、川野は「僕は津久見の町が好きだよ。だって、ふるさとだからね」と言う。
そして三部作目は、何の曲の、大分のどこを描くことになるんだろう。

ラストクレジットが流れ、終わりかと思いきや、「僕はこんなシーンを夢見ていた」と現われるのは、一面のリコリスの中、川野が花鈴を抱き寄せる。
「ありえないことだ」川野のモノローグはしかし、どこか明るい。ささやかで切ない、でもなんだか幸せになる素敵なオマケ。

ところで、若き日の川野を演じている寺尾由布樹、寺尾の息子だとはビックリ!えっ、寺尾が14の時の子供??と思ったら、奥様の連れ子だそうなのね。ていうか、彼のこと、「歌舞伎町案内人」とかで観てるはずなのに、全然知らなかった。
本名は福薗のはず。寺尾の四股名、つまり寺尾の亡き母、おばあちゃんの旧姓を引きついたんだ……感動。★★★★★


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