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2009年鑑賞作品

BABY BABY BABY! -ベイビィ ベイビィ ベイビィ-
2009年 119分 日本 カラー
監督:両沢和幸 脚本:両沢和幸
撮影:上野彰吾 音楽:鴨宮諒
出演:観月ありさ 松下由樹 谷原章介 神田うの 伊藤かずえ 岡田浩暉 野波麻帆 山本ひかる 忍成修吾 藤木直人 斉藤由貴 吉行和子


2009/5/26/火 劇場(渋谷TOEI@)
私は「ナースのお仕事」を観ていた訳ではなかったので、そのスタッフ&キャスト集結!という触れ込み事態に魅力を感じてた訳じゃなかったんだけど、予告編のテンション上がりまくりにはやはり鼓舞されるものがあったりして??
まあ……同じ年頃の女とはいえ、出産とは縁遠い生活をしてはいるけど、それだけに社会に貢献出来ていないイミネー女、みたいな意識はあるしなあ。
その一方で、女だけが子供を産めるんだ、という誇りだけはあるあたりが、女の始末に終えないところよねえ、やっぱり(爆)。

でも、主人公の陽子だって、そういう気持ちがやはりどこかに残っていたからこそ、産む決意をしたんだろうと思われる。
正直ね、この設定はベタベタよ。バリバリのキャリアウーマンで、赤ちゃんを産むなんてことツユほども考えていない。なのにお腹に赤ちゃんが出来てみると、夢だった編集長のチャンスやキャリアを捨ててまでも、この子を産みたいと思う。どんな女にも母性本能がある。それが女の心理だ、なんてさ。

だからね、正直、最初のうちは、陽子がキャリアを捨てることがちょっと納得がいかないというか……ああ、やっぱりこういうベタな解釈になるのかな、という思いはあった。
ただそれは、私がそういう経験をしてないから判らないのだ、という気持ちもあったし、何より社会に出ている女の大多数は淡々とした生活を送っている訳で、こんな華々しいキャリアウーマンじゃないんだもん。
勿論、そんな女性が妊娠したら、というギャップを見せていると判ってはいても、こんなキャリアがあってもアッサリと捨ててしまうのか、赤ちゃん産んで復帰する道を自ら断ってしまうほどのことなのだと、女が出産することに縛ってしまっているような気がして、何となく納得がいかなかったのが事実。
勿論その後、陽子はその経験を糧にしてエッセイを出版する道筋を作ってはいるけれど、そんなことだって、フツーには出来ないじゃない。

ただ、確かに彼女がスーパーキャリアウーマンだから、より判りやすくは示しているんだけどさ。
副編集長として旅の雑誌を実質さばいている陽子、バブルじゃあるまいし、今時あんなファッションモデルのようなカッコでハイヒールはいて、さっそうと出勤ってね……。同僚の男を叱り飛ばし、夜は同じくキャリアウーマンの友達と高級バーで飲み明かすなんて女、ちょっとリアリティに欠ける、というか、確信犯的に、どこかギャグ気味にやっている気すらする。
だからこそ、そんな自信マンマンの彼女だからこそ、若くして早々に編集長に抜擢されたのに、妊娠したというだけで「女の幸せ」を獲得したと勝手に解釈されてそのポストを外されてしまうという理不尽、その凋落の激しさが、判りやすいんだよね。
私のよーな(爆)、地味な事務仕事の会社員はさ、同じような疎外感を感じさせられても、外からは判りにくいよね……むしろ、地味だからこそ、キミがいなくなっても困らないよ、という態度をとられそうな気がする……その方がショックが大きいような気がする……いや、経験はないけど(爆)。

そもそも陽子のお相手が、結婚相手でもなければ、なんと恋人でもないってあたりが、現代事情??
いやいや、なんつーか、彼女はちょっとバブル期のキャリアウーマンの造形な気がするんだよなあ、正直。取材先のベトナムの解放感についついハメを外して、カメラマンの男性と一発、いや二発、ヤッちゃったなんてさ(爆)。
この言い様は彼女が彼を伴って産婦人科を訪れた時に明かされるんだけど……「勢いで一発ヤッちゃっただけです!」「一発?」「正確には二発です」とニカッと笑って言ったのはそのカメラマンの哲也。産婦人科の女医さんは落ち着き払って「一発ヤッちゃって出来る、そんなもんなんですよ」と彼女に諭すもんだから、彼女、黙りこくっちゃうのよね。

結婚相手でもなければ恋人でもない、それでもこの物語の進行中に二人は赤ちゃんの両親として距離を縮めては行くけれど、だからと言って最終的に夫婦となって大団円、になる訳ではないあたりが、確かに現代事情、なんである。
恋愛して、結婚して、子供が出来て、というのがいわゆる“フツー”の幸せだとされたことに、多分多くの男女が苦しめられてきたに違いないんだよね。子供の親としての信頼関係は、恋愛や結婚を経なくても得られる。それはまさに、多くの経験を経て得られた境地なんじゃないかなあ。

それを物語るように、本作には実に多くの、様々な事情を持った妊婦たちが登場する。
ヒロインと対照的なのが、これで4人目の妊娠という大ベテラン、春江。夫も出産に協力的で、父親学級で鼻高々に赤ちゃんの入浴技術を見せたりする。子供たちにとってもお母さんの出産は一大イベントで、いかにも理想の家庭に見えるんだけど……でも彼女だってここまで来るには多くの困難があったであろうことは、言葉の端々に見てとれるんだよね。
哲也にお金の心配をするなと言った陽子を叱って「男は実感がないんだから、うんと頼っちゃえばいいのよ。そうすると意外に嬉しそうなんだから」というのは、当然、そうした衝突も過去にあったであろうから言えること、に違いない。

ひょっとしたら春江も過去はキャリアウウーマンで、そんな葛藤があったのかもしれない……などと夢想するのは、彼女がやたらと妊婦たちのリーダーシップを見事に牽引するからなんだよなあ。
陽子はャリアウーマンとして会社という舞台でバリバリ牽引していたけれど、春江は妊婦たちを半ば強引にマタニティ社会へと牽引していく。ただ黙って出産を待つなと。自分が妊婦だと主張し、社会を変えろと。まあ、そこまで直截には言っていないにしても、でもそういうことだと思うんだよなあ。
だってそもそも日本って、妊婦に対して配慮が足りない社会だと言われて久しく、それはいまだ男性社会だということをハッキリと浮き彫りにしている。私みたいに出産と縁どおい女として生活していたって男社会の理不尽さに憤ることは多々あるのに。
妊娠した途端、それだけを理由にそれまでの努力もキャリアも全てご破算にされてしまう理不尽を、まだまだ日本という男社会は判っていない訳で、ここさえも判ってもらっていなければ、フツーの女会社員が報われるところまでおりてこないもんなあ。

社会人としての女だけじゃなく、本当にさまざまな女、そしてその相手となる男たちが登場するのね。神田うのが演じるセレブ女のレイナは、不倫相手の政治家との間の赤ちゃんを妊娠して、相手から慰謝料をふんだくろうとするも、DNA鑑定がシロと出て、どうやら捨てられたダンサーとの間の子供らしいことが判明する。
神田うのはセルフパロディっぽいキャラを実に堂々と演じていて、こういうところが彼女の強みだと思うし、イヤミがあるキャラなのにイヤミがないあたりがスゴイと思う。
彼女のことを親身になって心配しているマネージャーが「僕が父親がわりになります!」と宣言するのが泣けるんだよなあ。しかもそれを演じるのが森下能幸ってのが、また実にラシいんだよね!

この時代を一番象徴しているのは、10代であろうと思われる出会い系カップル、だろうなあ。それをね、凄く肯定的に描いているのがイイわけ。まあ、登場場面では男の方がいかにもザ・フリーターで、コイツ、絶対父親なんてムリだろうと観客に思わせておいて、実は……てなトコが上手いのよね。
まあ、それを演じているのが忍成君だから、そんな薄情なキャラではないだろうとは思っていた。彼女と一緒に病院にも来ていたし、ヨガにも父親学級にも顔を出していたから。そういう伏線はきっちりしているのよ。
ただいつもそっけない風だったのがなぜだったかといえば……赤ちゃんが出来てから、彼女がそのことにばかりかかりっきりで、自分に冷たかったから寂しかった、というのだ。
彼が携帯をいつも眺めていたのが、彼女と出会った頃、2年前のラブラブメールだったっていうのが、何とも純粋で泣かせるのよね。

一番現代を象徴していたのは、彼女たち妊婦グループとは直接には関わらない不妊治療カップル、かなあ。恐らくシリアス度においていえば、彼らが一番だと思うんだけど、そこもシリアスにさせないところはある意味、徹底している。
マンガみたいな黒縁メガネをかけた伊藤かずえと、いかにもマッチョな考えで固まってそうなダンナ、というカップル。
彼女が前回のセックスを「12月24日の夜9時30分頃」とやたら詳細に覚えているのが、彼女のマジメさと、そしてダンナにないがしろにされている切なさを共に感じさせて、実にグッとくるのだよなあ。
精液を採取するために差し出されたのが、太ったオバサンの熟女ビデオだというのには笑ったけど、次にちゃんと「新しいのを用意しています」っていう女医さんの心意気(笑)。

このダンナが「コイツは出来にくい体質なんですよ」と決め付けているのにはカチンときたけど(しかも結局はコイツの方の原因だったのに!)、なんだかんだ言って不妊治療に協力するようになるのがイイのよね。
まあ、最初から最後まで理想的に協力的な男なんて、キモチワルイかもしれないなあ。いろいろぶつかって、ケンカして、だから愛情も絆も深まる。「それが夫婦ってもんじゃない」と春江が言っていた、それこそがこの作品のテーマかもしれない。

そうそう、この女医さん、みさお先生を演じる斉藤由貴が、すごく素敵なんだよね。主人公の観月ありさや相棒の松下由樹をさしおいて?、彼女がある意味、真の主人公だったかもしれない。
劇中では子供を産むこともないまま、妊婦たちの救世主として孤軍奮闘する彼女だけど、現実ではベテランママ。だからこそのふくよかな信頼性があたたかくこの作品を包んでくれる。
もはや自分の娘も判らなくなった認知症の母親を抱えながら一人、この産院を切り盛りする彼女は、「私にも娘がいるんですよ」と娘に向かってムジャキに話しかける母親に「私も子供を産みたかったんですけどね……」とつぶやく。
……そこにはこの物語では語りきれなかったバックグラウンドがあると思われ、斉藤由貴のあたたかな存在感がそれを無言で裏付けているのがステキなのだ。

そしてこの母親は、クライマックスの修羅場で、産婦人科医として突然正気に戻るんである!これこそが、キャリアウーマンと出産という意味での、一番の見せ場だったと思う。
妊婦が産気づくと言い伝えられる満月の夜、実に6人もの妊婦が次々に運び込まれた産院で、壮絶なクライマックスを迎える。他の病院からの応援もことごとく断わられ、しかも逆子で出てきてパニくっちゃったみさお先生に、大先生が冷静に対処するカッコよさ!
一仕事終えて、「男には出来ない仕事だろ!」と誇らしげに言い放った後は、まるであのひと時が夢だったように、また元のように、ボーッとした状態に戻っちゃうのね。あれは……満月の夜が見せてくれた奇跡、だったのかなあ。

この産院にもともとかかっていた妊婦以外に、救急車で運ばれてきたベトナム女性のエピソードがなかなか秀逸だったかなあ。哲也が通訳に当たるのが、感動的なんだよね。
そもそも出産に関して男は何もやることナシってなスタンスがここでも貫かれていて、手を握って励まそうとしたり、ビデオで出産シーンを収めようとする夫に、それどころじゃない妻たちは、邪険に振り払っちゃう訳でさ、なんかカワイソウなのよ。
そこにこのベトナム女性が運び込まれて、誰もその言葉が判んないところに、陽子が、彼女が痛い、痛い!と訴えていることに気づいて、哲也を呼ぶのだ。
こんなせっぱつまった状態で言葉が通じない不安は想像するだに凄まじく、ああきっと今の時代、こういうことってきっとあるんだろうなあと思うのね。

彼女を運んできた救急隊員の田中要次が、やたら彼女に感情移入しちゃって手とかずーっと握っちゃったりして、そして次の場面、この時出産した女たちとその伴侶が一同に会して写真に収まるシーンで、彼女と寄り添っているのが彼だっていうのが、あらら!と嬉しいオドロキでさ。
つまりそれってさ、恐らくこの時彼女は認知されない赤ちゃんを出産したってことだと思うんだよね。で、この時そばにいた救急隊員が運命の相手になった、と。
ベトナムから来たばかり、という設定は、かの国で孕んだのではなく、恐らく日本で……しかも恐らく仕事上のことだったんじゃないのかなあ。それもまた、見逃せない日本の社会の、これからもっともっと出てくると思われる、対処の仕様によっては悲劇にしかならないケース、なんだよね。
この収束の仕方は、あまりといえばあまりに楽天的に過ぎるのかもしれないけど、でもそういうケースで妊娠したとしても、天から授けられた子供だという思いを、社会自体が持たなければいけない、というか、それが当然だという認識でいなければ、妊娠した女に対して、あるいは時には相手の男に対しても、理不尽な対処ばかりがなされるんだろうと思うんだよなあ。

正直ね、映画っぽさ(という言い方自体、狭いと思うんだけど)はなくって、2時間スペシャルドラマでいいんちゃう、と思っちゃったんだけど、ただ、意味、そして意義は、大いにあったとは思うんだよなあ。
何たって「ナースのお仕事」のメンメンでしょ。ま、観月ありさのちっちゃい顔の隣の松下由樹の顔のデカさにヒエッと思ったりもしたけどさあ(いや、彼女がフツーで、観月ありさの顔がちっちゃ過ぎるんだとは思うんだけどね(汗))。
でも、確かに出産はエンタテイメント。この作品が「出産エンタテイメント」とわざわざ惹句にしなくても、そして満月の夜に何人もの妊婦にアンアン言わせなくても、出産はそれだけで最大のエンタテイメントだもんね!だって鼻からスイカなんでしょ!?(絶対ムリ……)★★★☆☆


へそくり社長
1956年 82分 日本 モノクロ
監督:千葉泰樹 脚本:笠原良三
撮影:中井朝一 音楽:松井八郎
出演:森繁久彌 越路吹雪 小林桂樹 八千草薫 三好栄子 司葉子 井上大助 沢村貞子 上原謙 太刀川洋一 三木のり平 藤間紫 一の宮あつ子 河美智子 小泉澄子

2009/7/27/月 劇場(銀座シネパトス/日本映画レトロスペクティブ)
ラストの「第一部 終」にアゼン!ちょちょちょちょちょ、ちょっとお!終わってないじゃないのお!
つまりこれは、「続へそくり社長」に文字通り引き継がれる訳であって、そ、それならそれとの二本立てにしてほしかったわあ……あ、でももし「続」から観ちゃったら話がつながらなくなるか……まあいいや。

私としては超ラブ森繁が観られただけで満足。イヤー、オトコのウワキのお手本を見せてくれるのが森繁であり、これがウワキなら許せちゃうんだよなあ。
だってつまり、彼が手を出すのは(本作では)ちゃんとした?玄人であり、双方それを判ってての恋(とカネ)の駆け引き、丁々発止なのだもの。
その一方で奥さんのことはちゃんと愛してて、というか尻に敷かれてて(それこそが愛の形なのよ)それこそがオトコの幸せってのがさあ、もうたまんないわけ。
しかも彼は奥さんや玄人の女性のみならず、全ての女の子に対してヨワいのよ。もう手のひらに乗せられまくっちゃってるのよ。真性スケベなくせに、だからこそ、愛しいのだよなあ!

……とか言ってると話が始まらないから(笑)。
確かに彼は社長。しかし前社長の縁戚の娘と結婚したからこその地位。
しかも大阪に暮らしている先代社長の未亡人のキビしさには平身低頭(まさに遠隔操作(笑))。奥さんの妹、未知子が大阪から上京してくると、そのチャキチャキっぷりに振り回されっぱなし。もうここまでくると、女難の相が出ているんじゃないかと思われるぐらいなんである(笑)。
役立たずのヘボ社長と陰口を叩かれている彼は、株主総会での立場も弱いったらない。
そもそも未知子が上京してきたのも、四面楚歌の彼の唯一の味方になってくれるが故なんである。だってウラではメインの株主が株を買い占めて、このヘボ社長を蹴落とす計画が進んでいるんだから(……恐らくそれが展開するのが「続」なんであろう……)。
しかしそんな彼だけれど、もともと社員からの成り上がりだから、経営陣や株主の利益よりも社員のそれを重んじて、家族手当や賞与を引き上げるために株主総会で闘うんだから、社員からはなにげに好かれているっていうのが、ステキなのよね。

ところでこの日は森繁二本立てで、どちらも社長モノだったのだが……そのどちらもお寝坊さんの彼を愛妻が起こしに来るっていう図だってのが、もうその一発で彼の立ち位置が察せられてさあ(笑)。
だってね、そもそもモノクロのこの時代なのにベッドだっていうハイカラなのもそうなんだけど(まあ社長だからってのはあるけどさ)その寝姿、枕に添えられた左手の薬指に結婚指輪がしっかりとはめられているのを、カメラがキッチリとらえるアングルになっていることだけでも、彼が尻に敷かれていようと(だからそれが愛の形なんだからね)愛妻家だってのを如実に示しているんだよなあ。
んでね、奥さんに起こされて、まだ眠いから寝たい、寝不足なのが何でなのか、お前が一番良く判ってるだろう、なんつってさ、奥さん、バカ……なんてポンと夫を叩いたりなんかしてさ、おおおおい!朝から色っぺーじゃねーかよー!

ほおんと、こーゆーの、似合うんだよなあ、森繁は。妻役の越路吹雪がまた、そういう雰囲気を醸しだ出す色っぽさでさ、でもそんなたおやかな美人でいながら、メッチャダンナを支配しているのよね。
それは朝食の場面からまず始まる。こんがり焼けたトーストにゆで玉子、一見おいしそうだけれど彼はゲンナリ。というのも、先代社長(つまり彼女の父親)の習慣にのっとって、決して米を食べない食生活に縛られているから、なんである。
その理由ってのがね「日本人が短命なのは米食だから」ええっ!「米を主食にしていると胃がんになりやすいって、昨日もテレビドクターが言っていたわ」ええええっ!
いやいやいやいや……パン食の方がなるだろう、絶対……百歩譲ってそれは米食のせいじゃなくて、和食の塩辛さのせいとかじゃないの?当時はそんな価値感が横行してたりしたのかなあ……。

そんなわけで、彼はもうご飯が食べたくて食べたくて仕方ないわけ。奥さんはシッカリ社長秘書にも命じて、昼食に米を食べたりしないように見張らせているんである。
奥さんの愛犬は贅沢にもエサに供されたゴハンを残していたりして、それを恨めしげに眺めるしかない彼は……ウッカワイソすぎる……。
奥さんの妹の未知子が上京して、ねだられてお座敷遊びなんぞした後にね、彼女の所望によって寿司屋でシメるんだけど、彼はもうここぞとばかりに食べまくるわけ。んで、未知子に口止めするんだけど……
「寿司屋に入ったけど、お義兄さんはひと口も口にしなかったわ!」そ、それは口止めっていうのかい……。
案の定、「それならお腹がすいたでしょ」とサンドイッチが山盛りに運ばれてきて、もう彼は目をシロクロ。奥さんが電話に出ている間にクッションの間に隠して、なんとか隠しおおせるんだけれども……。

この電話の相手というのが、彼が恐れてやまない先代社長の未亡人。不肖の跡継ぎがまたしてもお座敷で下品なドジョウすくいなぞ披露したことを知って激怒、小粋な芸の一つも身につけさせなさいと、小唄を習わせるように促がすんである。
おしゃまな未知子によって探し出された小唄の師匠は、まーこれが、ムダに色っぽくて、森繁が速攻で恋に落ちることは必定(笑)。
んでもって、こんな色っぽいねーさんから「店を出したいから、お金を貸してほしい。イヤな相手から、いくらでも貸すと言われている」などと持ちかけられたら、もーアッサリ、アッサリ過ぎるほど落ちちゃう。
しかもね、期待とナニカを膨らませて彼女についていった昼日中の旅館で、「あとでお背中流しに行きますから」と期待を持たされて浴室に入ったものの、いつまでたっても彼女は来なくて(当たり前だ)、結局ソデにされちまうアホウ(笑)。

でね、彼女を待ち続けてのぼせちゃってさあ、こともあろうにデート中の社長秘書を呼び出すのよ。この秘書君だって一世一代のデート中なのにさあ。まったくメーワクな社長だよねえ、ホントにさあ。
もう血圧も上がっちゃって、5、6時間安静にしてなきゃいけないって言われて、どんだけ期待してのぼせてたのよって(笑)。
洗い場までフラフラ上がっていって、ちょっとだけお尻の割れ目見せてぶっ倒れるセクシーショットが(笑)。いやー、森繁、アホカワ過ぎる(笑)。

こんな具合だから、何とも憎めないっつーか、カワイイなんて思っちゃうのよね。真性スケベなのにさ(笑)。
そもそもね、この師匠の出店資金を捻出するために秘書から伝授された“へそくり法”なるものがタイトルになってるのよね。
いわく、出張旅費をごまかす、財布を掏られたとウソをつく、上着にナイショのポケットを作る、ボーナスの支払伝票を偽造する、などなど……まー、感心しちゃうぐらいのウラワザがあって、その最後の方法、偽造伝票を使って師匠の出店費用を捻出しようと思ってたんだけど……。

で、だからさ!本作は終わらないのよ!「第一部・終」になっちゃうのよ!
先代社長の未亡人が毛嫌いするドジョウすくいを、社員慰労会の席上でついつい持ち上げられて披露しちゃって、その現場を抑えられちゃって。このラストの場面はもうサイコーったらないのよ。
大体さ、奥さんからあんな下品なマネは絶対にさせないでとか命じられている秘書が、そしてその命に従って抵抗しながら、チャッカリ小道具のちょび髭を用意しているのがまず可笑しいし、社長の相方として絶妙な女房役を見せる部長の三木のり平のシナ作った柳腰が可笑しすぎるし。
ていうか、大体がね、社長の森繁自体がもうノリノリ過ぎで、そのそろりとした足の運びの本格的さが、そしてウッカリ?女房役の三木のり平とチューしちゃう、悪ノリだけとは思えない艶っぽさが(間がミョーに出来てるんだもん(爆笑))可笑しくてたまんないんだもん!
で、そんでそこに先代未亡人が乗り込んできてカットアウトなんだもん!第一部・終なんだもん!アゼンとするほかないでしょ!

あ、そうそう、未知子役の八千草薫のコケティッシュさはちょっと萌えたなあ。
いや、コケティシュまでは行かない、清楚とコケティッシュの間ぐらい。その微妙な加減は、今も変わらぬぽってりとした唇の艶めかしさによって決定付けられる。
そしてその清楚さが今と変わらないってのが、凄いんである。声も喋り方も、変わんないんだよね。でもなんか、今は可愛らしさだけが残っている彼女が、その唇だけでミョーにエロを感じさせちゃうのがドキドキしちゃったなあ。
しかも役柄的には一見世間知らずのお嬢様で、清楚さは保ってるんだけど、それを“一見”だってことを本人が誰より判ってて、オジサマや秘書の小森君にカワイくワガママを投げかけるのが何とも小悪魔的、そう、コケティッシュなのよね。

先代社長の「仕事に惚れろ、金に惚れろ、女房に惚れろ」を日々拝む彼の目に、にっちもさっちもいかなくなった時、“惚れろ”が“恐れろ”に見えたのにはちょっと、噴き出しちゃったなあ。
なんかね、惚れろから恐れろ、それが同意義だってのが森繁であり、日本のサラリーマンであり、それこそが日本の発展なんだなってことがさ(笑)。 ★★★☆☆
TEAM NACS FILMS N43° 部屋クリーン
2009年 分 日本 カラー
監督:戸次重幸 脚本:戸次重幸
撮影:音楽:
出演:戸次重幸 音尾琢真


2009/2/26/木 劇場(シネリーブル池袋)
それぞれがやりたいことをやる、という趣旨の元では、彼の選んだアニメーションというアイディアは一番個性的だったと思うんだけど、うーむ、それだけに、途中かなーりタイクツしてしまったのは残念だった。
これって、この尺だとちょっともたないよね……10分くらいのショートショートフィルムだったらいいと思うんだけど。

そして、これを言ってしまったらナックスフィルムという前提も成り立たなくなるんだけど……シゲちゃんと音尾さんの登場をなくして、全編アニメーションの方が良かったのにな、という気もしている。冗長に感じ始めたのは、彼ら二人が登場してからなんだもん(爆)。
まあ、この設定、散らかしさんと片づけさんというキャラ自体が、少々の気恥ずかしさを感じるのも事実なのだが……。
ていったら、部屋が片付いたりキレイになったりっていうアニメーションだけで終わってる方が面白かった、と言っているみたいでアレなんだけど、でもぶっちゃけ、そうかも(爆)。

あの、手描きストップモーションのざっくり感こそが面白かったんだよね。ま、ああいう手法はあるにはあるけど、その魅力をとても追及していたから。
あのヒゲヅラでもっさりした男、鼻をかんだティッシュからカップラーメンの空き容器から雑誌から何から、床に散らかし放題の様子が、白に黒のエンピツでザクザク描かれているのが、実写やフルカラーではホントに汚らしく見えるだろうところを、ドライなユーモアに感じさせるのが上手いと思った。
正直、散らかしさんと片付けさんよりも、このもっさり男の方がキャラが立っていたかも(爆)。

ストーリーはあるようなないような。このひきこもりチックなもっさり男、ただただ怠惰に日々を過ごしてる。彼のやってる“誠意”をぶつけて相手を倒すゲームはちょっと笑ってしまった。
んで、彼が散らかし放題の部屋に戻ってみると、スッカリ部屋がキレイになっていて愕然とする。
知り合いに電話をしてみても心当たりはない、と言われているらしい。らしい、というのは、この物語にはおよそマトモな台詞は用意されておらず、ま、そのあたりもネライなのだろうが。このもっさり男ももっさりもっさりうごめく声を発するぐらいなんである。

その、突然キレイになったのはなぜか……そこでシゲちゃん扮する片付けさんの登場である。
ひしゃげた落花生みたいな形の着ぐるみも、顔も、タイツの色も、全部緑色の彼は、尻尾の先についたハタキ状ののものでせっせと部屋を片づける。

しかし、片付けさんがいれば散らかしさんがいる。こちらは同じ形状でややワルそうな雰囲気を醸し出す、全身紫色の音尾さん。紫のせいか、彼の目がやけに赤黄色に見えるのがミョーに気持ち悪い。
二人の戦いは宇宙の創成期から続いていた、などと壮大な?世界観が語られ、二人の台詞は字幕で、なんかロシア語?チックな聞き取れない言葉で喋ってる。……ていうのも、やっぱりちょっとオタク少年チックな発想でちょっとハズかしい(爆)。

二人の戦いは壮絶を極め、ついには片付けさんが倒れてしまう。
一度はしてやったりの笑顔を浮かべた散らかしさんも、散らかしても散らかしてもカタルシスを感じなくなる……彼は自問自答する。俺の存在はなんなんだと。片づけがいてこそのちらかしだと。
くるくる回る台座の上で(下でくるくるさんが回してる……)自問自答を繰り返し、そして、彼は片付けさんのために、苦しみながら自分の散らかした部屋を片付け始める……。

片付けさんが苦悶し、散らかしさんが自問自答するあたりでもはや、どーにも尻がムズムズと落ち着かなくなる気分……。
まあ、それ以前から、実に嬉しそうにニコニコと片付けさんを演じるシゲちゃんと、彼の演出のもと、紫の腕をうねうね動かしながらヘンな歩き方をする音尾さん、という着ぐるみコンビが、なんつーか、そのお、文化祭的なノリでさ。
しかもそんな、妙な動きの彼らの散らかし&片付けの描写に結構な尺を割くもんだから(まあ、この尺を埋めるには、ここを長くするしかないんだけどね)だんだんと……見てられなくなっちゃうのよね(ゴメン!)

散らかしさんが身を削って部屋を片付けたおかげで、片付けさんも瀕死の状態から復活、彼もまた散らかしさんがいてこその自分を痛感し、滂沱の涙を流す(シゲちゃん、やり過ぎだよ……)。
そして、二人が共存する解決法、部屋をナナメに二分割し、片方は散らかし、片方は片付ける(ということは、交互に散らかしたり片づけたりするってことかなあ)ことで平和的解決を試みる。

二人が線を越えて近づこうとした瞬間、グシャリともっさり男の足が二人を踏んづける。「ん?なんだこの線」と彼は足をあげて見ると、哀れにも緑と紫のひしゃげた残骸が……。
このオチも実にいかにもだわねー。こういう短篇アニメで凄くありそう(爆)。何が起こっていてもスパッと終われるエンディング。

北海道らしさ、というのもこのショートフィルムのルールのひとつで、彼曰く、それは、部屋の中のアイテムにあるという。
めまぐるしく散らかされ、片付けられるのでなかなか確認が難しいけど、「試されろ大地」という雑誌や、「なまらミルク」という牛乳ビン、あと無数のCDもひとつひとつそうした細かいネタを仕込んであるみたいなんだけど、なかなか……これはDVDを買えってことかい?★★★☆☆


ベンジャミン・バトン 数奇な人生/THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON
2008年 167分 アメリカ カラー
監督:デビッド・フィンチャー 脚本:エリック・ロス
撮影:クラウディオ・ミランダ 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/タラジ・P・ヘンソン/ジュリア・オーモンド/ジェイソン・フレミング/イライアス・コーティーズ/ティルダ・スウィントン/ジャレッド・ハリス/エル・ファニング/マハーシャラルハズバズ・アリ

2009/2/16/月 劇場(丸の内ピカデリー)
生まれた時は80歳の体、シワクチャで、関節も動かなくて、その赤ちゃんを命をかけて産んだ女性は死んでしまった。
時は戦争終結の夜、アメリカは勝利の美酒にわいていた。愛する妻が我が子を産む、人生最大の喜びだった筈なのに、生まれた子供は“怪物”だった。妻の最期の言葉、この子を頼むと言われたにもかかわらず、動揺した彼は、街の喧騒にまぎれて赤ちゃんを捨ててしまう。
そこは、人生最後の時を迎える老人施設だった。そこに勤める、恋人はいるものの赤ちゃんが出来ないクイニーが、神様のおぼしめしだと、彼をとりあげた。
その時から、ベンジャミンの数奇な人生が始まる。

シワクチャの老人として生まれ、しばらくは歩くことも出来ない。周囲のお年寄りたちは、外見は似ているけれども自分とは違って、何もかもを知っていて、そして何もかもを失っていた。
自分とは違って肌の黒い“母親”とその恋人は自分を可愛がってくれたし、ソウルフルな神様に祈って自分を歩けるようにもしてくれた。
でも、そのカップルに子供が出来ると、自分が“異物”であることを意識せざるを得なくなる。肌の色のみならず、自分はあんな、つやつやに張り切った肌を今まで持ったことがないのだ。

そんな彼の前に、自分の中の“子供”を見抜いた唯一の人間が現われた。
それは、彼の生涯の恋人となるデイジー。“幼い”頃は邪気なく遊んでいたけれど、いくら中身が同じ子供でも、外見の差異がジャマをした。
離れている間に彼女は美しいバレエダンサーになり、彼の方も施設を離れて船乗りとなる。
船長は彼の境遇をイマイチ判っていないながらも、生真面目なベンジャミンを気に入ってくれる。全身イレズミの “アーティスト”である船長によって、酒や女を経験するベンジャミン。……ガイケンはちっちゃいおじいちゃんだけど、恐らく小学生やそこらだよなあ……。
そんな時、一度はベンジャミンを捨てた父親も、自分の正体を明かさずに密かに接触してきたりする。
中身は子供で、そして間違いなく自分の子供なのに、外見がおじいちゃんだから、お酒を飲み合ったりする。なんだかフシギな関係……。

船乗りの最中、人妻との激しくも切ない、刹那の関係を築いたり(これがデイジー以外での唯一の恋愛体験だよね……)、“ジャップの真珠湾攻撃”(キツイ……)によって、単なる船乗りが軍事の兵士になって、恩のある船長はじめ、多くの仲間を失ったりと、激動の人生を送った先で、スッカリ若返ったベンジャミンが再会した、“初恋の相手 ”デイジーは、におうような大人の美女になっていた。
ベンジャミンが18歳(外見はプラス50ぐらい?)で施設を出た時、彼女はまだほんの少女で、でも彼も中身はコドモだったから、手紙を書くよと純粋に約束したのだ。
しばらくはその約束も守られて、デイジーもバレエ学校で頑張っていたけど、ベンジャミンが人妻と恋に落ちたことを告げたハガキから、連絡も途絶えてしまっていた。
しかし、ベンジャミンは施設に帰ってくる。すっかり“若返って”。そこに、彼とは逆に、大人の女になったデイジーが訪ねてきたのだ。

と、めずらしく筋をずらずらずらっと、並べてしまったけど。

例えばね、「親子ほどの年の差の恋愛」なんていう映画があると、それは当然、年上は男の方だから、これは男女逆にしたら成立しないよな、と思ってしまう。それってズルイよな、と。
あ、そういや例外的になのもあったけど、それは明らかにコドモの男の子の身体に、死んだ夫が生まれ変わっているというものだった(爆)。つまり、それぐらいファンタジーにならなければ、そんな恋愛は成立しないのだ。
で、本作はそんな物語ではなく、実にオリジナリティにあふれた斬新なアイディアに基づいてはいるんだけど、それでも、この主人公、生まれた時はおじいちゃんで、どんどん若返って最後には赤ちゃんになってしまうというベンジャミン・バトンという“数奇な人生”を送った男性を、果たして女に置きかえたら成立するだろうかと思った。

勿論これは、彼の“人生”を追っていく物語なのだから、それが女性であればまた違ったモノになるのだろう。でもやはり、恋愛部分はこうはいかないだろうと思うのは……外見はおじいちゃんのベンジャミンにデイジーが屈託なく接したようにはいかないだろうと思うから。
この時から彼女は、外見はおじいちゃんでも中身は自分と同じ子供であるベンジャミンに、秘密を共有する、つまりは恋を感じていたに違いなく、そこらへんが女の子のオシャマなところなんだけど、もしこれがおばあちゃんVS男の子だったらそうはいかない。男の子は決して、外見がおばあちゃんの女の子に恋はしないだろう。

いや別に、自分が女だから女を持ち上げている訳じゃなくてさ、男性をバカにしている訳でも勿論ないのよ。
むしろ逆。男は外見的に年をとっても、女にとっての男性的魅力に大して影響しないのだ。こう言うと信じてもらえなかったりもするけど、ホントそうなんだもの。
だからこそ“親子ほどの年の差の恋愛”が成立するのだし。でもその逆が成立しないのは……やはりそれって、究極的に言えば、人間の生殖の本能に基づくのかな、などと思っちゃう。

いや、そこまで言うのも大げさかな……でも、昔から、魔法使いのおばあさんは、恐怖の対象だったじゃない。老醜の恐ろしさは、女性のそれに限定されている。魔法使いのおじいさんが怖い、だなんて聞いたことがない。
それこそフランケンシュタインやドラキュラといった男性系怪物だって、セクシーだと数えられるぐらいなんだもの。
でも、女の老いは、老醜なのだ。なぜかって、女の(男にとっての)魅力は、イコール美、特に、若さの美だからさ(まー、それも全ての女が獲得できるワケじゃないけど……(爆))。
それは、デイジーが、いたいけな美少女でまず登場して、ラブなクライマックスは美しきバレエダンサーの姿だってことが、あまりにベタに象徴してるじゃないの。
それだけにそこからの凋落が、男の支配下、というか、愛する男の世話をすることに幸せを見い出すってのが、アレだけどさ……。

だから、この男女逆の設定は成立しない。成立しないけど、それ以上にデイジーは思い知らされることになるのだ。
最初は外見がおじいちゃんのベンジャミンに若い女の子の自分、という立場で、無論自分はその中に同じコドモである共有感を得ていたけれど、それはずっと変わらない筈だったのに、彼がどんどん若返り、つまりは男性的魅力を外見的にも得て、美しくセクシーになるのに、自分は反対にどんどん老いていって……。
両方が男と女としてピタリと合致した季節はほんの一瞬で、それ以降は、それこそ彼女は、女の老醜の恐ろしさに、彼の光り輝く美しさに、ただただ怯えるばかりになるのだ。

それは……デイジーがバレエダンサーとして輝いていた時があったから、尚更なんだよね。その時はまだ、外見的年齢で彼女は彼より若くて、美しくて、周囲にチヤホヤされていた。
自分の思い通りにならないベンジャミンを、どこか疎ましくさえ思っていたのかもしれないのに、彼女は事故にあい、美しいプリマドンナには二度と戻れなくなってしまった。
デイジーは一時、ベンジャミンを遠ざける。それは今が一番美しかった筈の自分、今までずっと、彼のマドンナであり続けた自分が、ここから逆転してしまうことが許せなくて、恥ずかしくて、……そんな思いだったんじゃないのか。
それでも一度は彼との蜜月を迎える。僕が子供になっておねしょしても、私がしわくちゃのおばあちゃんになっても、それでもお互い愛しあおうと、誓い合った。
彼女の方が条件としては不利だったのに、それを投げ出したのは、これからただただ若く美しくなるばかりの彼の方だったのだ。

ああ……でもね、ブログで指摘されちゃったのだ。男女逆で成り立つのかとかナマイキに書いてしまったら、逆の設定もあったと。しかも日本発。小説であり映画化もされた、「飛ぶ夢をしばらく見ない」(PONEさん、ありがとう)当時観ていたのに、すっかり忘れてた。
少なくとも映画では(小説は未読)、おばあちゃんの段階の彼女の、その声だけで彼は欲情する(つまり、テレフォンセックスのようなもん)であり、翌朝、老婆である外見を見て愕然とするんだからやはり……。
まあそれこそ、セックスだけに焦点を当てているんだからアレなんだけど、でもそういうことなんだと思うんだよな。いや、否定的に言っているんじゃなくて、若返っていく相手との恋愛というテーマなら、その焦点はどうしてもセックスになり、その場合、男と女の重点の置き所は、やはり違ってくるのだ。

そしてそれは……セックスだけが重点って、ファンタジーなんだよね。恋愛に置いての、もっともコアな部分。お互いだけを見て、甘美な快感だけをその身に感じればいいんだもの。
それが純愛だと言ってしまうことも出来るけれども、それこそもしそれを、おばあちゃんから若返っていく彼女の視点で語らせたら、違ったように思う。
そう、少なくとも映画バージョンでは、あくまで男性側の視点で、老婆の外見だけに目を背けた以外は、彼は彼女を愛し続けた。感動的だったと思う。
でもその、“老婆の外見に目を背けた”たった一点なんだけど、私が本作で“逆で成立するのか”とギモンに思ったトコをまさに裏づけしててさ、そう、女にとっては最も引っかかる部分だと思うんだけど……。
この逆バージョンの映画を観た当時は、私もムダに若くて何にも知らずに何にも考えずに、なんかわっかんねーなー、ぐらいにしか思わず、ボーッと観てたから、そんなこと思いもしなかったけど……。
ムダに年とるのって、なんかただツライだけかもしれん……。

でね、本作に話を戻しますと……正直、私は女だから、ベンジャミンが“子供になっていくから父親になれない”という理由でデイジーの元を去るのが、イマイチ理解できない。
だって出会いの頃、少女だったデイジーは、ちゃんと彼の中に自分と同じ子供だってことを見抜いて、秘密の関係を共有したのに、どうして中身が大人になったアンタがそれをやれないのかと思っちゃう。
それじゃ外見と共に、中身も後退したようなもんじゃないの。若返るのは外見だけじゃなかったのか。
しかもズルイと思うのは、それを光り輝く若い美しさを取り戻したブラッド・ピットが苦悩の表情で演じるっつーことなのよ。こんなの反則だよ。
この時点で女の方は。老醜にじわじわ踏み込まれていくことに恐怖を感じているのにさあ。彼の方は、悩みなんて感じるだけ罪だっていうぐらいの美しさを手にしているんだもの。

正直、この、“若いブラッド・ピット”にはビックリした。生まれた時にはしわくちゃの老人で、どんどん若返っていくというこの役どころ、どこからかブラッド・ピットになって、どこかの時点で老けメイクも脱ぎ捨てた現在のブラッド・ピットになって、それ以降は時間軸がザクッと変わって若い役者に交代するものとばかり思っていたから。
それが、恐らく20代前半か10代後半と思しき青少年の場面も、彼が演じているんだもの。私はまばたきを何度も繰り返して、これは若い頃のブラピのそっくりさんとかが演じている訳じゃないよね?とまじまじと見つめ続けてしまったよ。
「リバー・ランズ・スルー・イット」の頃のような、若き日のジミー・ディーンのような光り輝く美しさで、こちらは老けメイクを施したケイト・ブランシェットでなくたって、スクリーンのこちら側のアラフォー女だって、身を隠したくなっちゃうってもんだわさ。なんでもこれはメイクじゃなくて、CGでシワとかを消したんだと言うけれども、それにしても……!

しかしその後、デイジーは長らく彼と会わず、再会した時にはすっかり子供の様相で、しかし中身は末期的老人なもんだから、認知症も進んだ、という状態のベンジャミンを演じる子役が、あまりにもブラピと似ても似つかない平凡な外見なもんだから、ちょっとガクッとくるというか、それまでつながってきた気持ちが切れちゃうのがアレなんだけど……演技力で選んだんだろうか?
そうなの、それまでは、どこでブラピに切り替わったか判んなかった位なんだよね。しわくちゃで関節もガチガチの、老人の状態で生まれた赤ん坊から始まって、シミだらけの肌、ハゲ頭に歩くことも出来ない車椅子状態の“幼少の頃”のベンジャミンでも、ブラピの顔を受け継いでたんだもん。
でもいくらCGが発達してても、背丈の問題もあるし、あの時代もブラピが演じていたわけじゃさすがにないよね……うーん、どうなんだろう……。

あ、でもそれで言えば、赤ちゃんの時は勿論、幼少時代も、姿は老人でも背丈は子供なんだよね。で、施設を訪れた、世界中を旅しているピグミー族の青年(つまり、背丈はベンジャミンと似たり寄ったり)と仲良くなったりして、酒や女を知ったりするわけで。
でもその後、背丈的には順調に伸びていって(なんたってブラピが演じるんだから)、小さいおじいちゃんから、セクシーな美青年へと変遷をとげるんだけど、その後、子供へ、赤ちゃんへ戻っていくのに、ちゃんと骨格も小さくなっていくっていうのがね……。
まあ、大きな背丈のおじいちゃんで産まれてたら、その時点で怪奇映画になっちまうけど(爆)、そしてこの設定自体でファンタジーだっていうのも判っているつもりなんだけど、かなりリアリティを追及しているから、なんかそんな、瑣末なことが気になってしまう。

でもやっぱりズルイと思うんだよなー。外見は子供の状態で、でも中身は老人の認知症を伴って保護されたベンジャミン、持ち物からデイジーに連絡がいって、赤ちゃんになる最期までを彼女が看取ることになる。
これって、これってさ、もうこうなっちゃうとさ、究極の、男性の究極の夢じゃん。つまりは彼は彼女に、初恋の相手と大恋愛の恋人と母親と、全てを求めて、というか、させた訳でしょ。最期を看取るなんて、本当ならば母親の仕事じゃない、そうだとしたらこれ以上ない親不孝だけど、なんたって外見が赤ちゃんなんだから……。
この時点で、このアイディアが実に秀逸だったことに思い至る。つまり、人間は(人によるけど)最初と最後、同じようにオムツをして、言葉も何も判らなくて、神様の元から来たのと同じように、帰って行く。
ベンジャミンは一見不幸な生い立ちだけど、命を賭して産んでくれた母親によって生を得て、生涯の恋人が母親のように腕に抱いてくれて最期を迎えるなんて、バチあたりなぐらい幸せな男だよね。だけどその生と死に立ち会った女は、彼によって正直人生メチャクチャにされたわけだけどさ……。

この物語は、ベンジャミンが残した日記が元になっている。もう余命いくばくもない、それでも充分に生き延びたと思われる老婦人が、病床で我が娘に隠し通していた秘密を、その日記によって告白する形をとっているんである。
つまり、この時点で彼女は既に女の老醜をさらしているんであり(いや、荘厳で美しいけど、一応今までの論に従って、敢えてそう言うね)、若き日の美しい恋人、どんどん美しくなるばかりの恋人を偲んでいるというのは、正直見ていてツライものがある。
だって彼女には、ベンジャミンが去った後に支えてくれた心優しい夫がいて、子供たちも夫こそを父親だと慕って育ってきた筈なのだから。
それなのに死に際、母親は若き日の、というか、幼い頃からの運命的な恋人のことだけを朦朧としながらも娘に語り続けるっていうんだから……夫がむくわれない、と思っちゃうのはいけないのだろうか?
果たしてこの夫に彼女は、全てを打ち明けたのか?……してないだろうなあ……一度出て行ったベンジャミンが輝く美しい青年の姿で彼女の元を訪れた時、夫は彼の存在を知らなかったんだもん……。

女にしか老醜がない、と言ってしまうと、この物語が、その老醜の状態で(いや!決してそんなことないんだけど!)ベッドに横たわって最期の時を待っているばかりの彼女によって、娘に語られる形態だというのがツラくてさあ……。
なんか、だから、全ての面で、ズルイ、ズルイ、ズルイ!いーや、私は老醜なんて、怖くないさ。カギ鼻の魔女になるまで生きてやるっつーの!

とか言いつつも……若く美しい男に対する、自身の老醜の恥。うー、想像するだに恐ろしい……。
ベンジャミンが外見的に老いていた時には、中身はコドモだったし、デイジーはそんなこと気にしなかったから……。
でもさ、生まれた時に80歳の肉体と判ってたら、最初から死ぬ年が決まってるんだよね。ある意味……もう80年の長生きが保証されているようなもんだから、不安な人生からは解放されているのかもしれない。
しかしホントに、二人の真に幸せな時間があまりに一瞬だったことを思い返すと、それがいかに光り輝いていたかにも思い当たる。
二人で暮らす小さな家は、お互いイチャイチャしながらだからいつまでたっても片付かない。小さな丸いテレビから流行のビートルズが映し出されている、それを二人、寄り添いながら見ている場面が鮮やかに甦る。
でもきっと、全ての恋愛が、こんな風に、真に輝いていた時間は、きっと、ほんの一瞬なのだよね。

私は最後、赤ちゃんとなって、誰に抱かれたいだろう?
いや、ただ塵となって、消えていきたい。
それが、女の意地だ。★★★☆☆


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