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「き」


2006年鑑賞作品

記憶の棘BIRTH
2004年 100分 アメリカ カラー
監督:ジョナサン・グレイザー 脚本:ジャン=クロード・カリエール/マイロ・アディカ/ジョナサン・グレイザー
撮影:ハリス・サヴィデス 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:二コール・キッドマン/キャメロン・ブライト/ダニー・ヒューストン/ローレン・バコ−ル/アリソン・エリオット/アーリス・ハワード/マイケル・デソーテルズ/アン・ヘッシュ


2006/10/22/日 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
非現実感をそそる、透明で清明な、冬の日のおとぎばなし。
宗教や超自然的なものではなく、誰かを愛している気持ち、目に見えないそれが、目に見えないままどこかを飛び越えるというのが、ごくナチュラルにあるかもしれないと思う。
ヒロインは、結婚式を五月に控えている。その明るい春の日のハッピーデイを劇中の誰もが頭においているから、余計に現実と非現実が際立つ。この冬の日の、不思議な出来事が。

ニコール・キッドマンびいきの私はとりあえず言わなきゃ気がすまないのだが、当然言うまでもない、ニコールが素晴らしいんである。
改めて思うことだけれど、彼女は凄く、アンテナを張っている人なんだね。自分が演じるべき役を、ちゃんとその手に持ってくる。映画の大小じゃなくて、演じるべき役を。
最初は大女優、ニコールをキャスティングするなんて、全然構想になかったのだという。しかし彼女の興味と熱意が、結果的に他の人が演じた場合を考えられないほどの出来にしてしまうのだから!

そして、ニコールはいつでも現時点が美しい。どんどん美しくなる。ちょっと恐ろしくなるほどの美しさ。
今回、カラーを脱ぎ去るために(でも彼女はいつだって、そのたぐい稀なる演技力で染まるから、特定のカラーなどつきようもないんだけど)バッサリとベリーショートに髪を切った。これがまた、なんとまあお似合いなこと!
そして、そのヘアスタイルが、彼女のスレンダーなバツグンのスタイルを、その細さを、脆さに見せる。まるで棒っきれのように危なっかしく、倒れそうな。
劇中の彼女も、それを自覚している。死んだ夫を忘れられない自分を、自身で支えられない弱さに怯えている。
そんな風にまず外見で完璧に入り込むだけで、既に内面が見えまくっているのだから!

そして今回、ニコール以上にキャスティングの成功のカギを握るのが、相手役となる10歳の少年、ショーンである。彼はニコール演じるアナの死んだ夫の生まれ変わりだと自称してくるんだから、つまり10歳といえどもニコールとのラブストーリーの相手となるのだもの。その内面が、彼女が10年たっても心の中から消し去ることの出来ない愛する夫、つまり成熟した男性、更に生まれ変わりというミステリアスをリアルに信じさせなければいけないという、計り知れないほど難解な役どころ。
彼、健康な少年らしいムチムチがちょっと気になるところなのだが、大女優ニコールに対して真っ直ぐな視線を外さず、「愛している」という言葉を100パーセントを込めて放ち、その心の動揺や揺らぎもひどくヴィヴィットで、アナ同様に、彼に“男”を感じずにはいられないのだ。

なあんで!ニコールの半分以下の身長の、ムチムチ少年なのに!ブリーフなんてフガフガなのに!そのまなざしに吸い込まれてしまう。大人の女の心のどこかにある、ショタコン的な気分も突いてくるからなのかもしれない。
肉体で結ばれることが出来ない、しかしかつては肉体でも結ばれていたという、重層的な含みを持つ完璧なプラトニック・ラブで、何の打算もないのに至上に官能的で、こんなの出されちゃ、フツーの男が太刀打ちできるわけがない。
そうだ、女はこういう愛を、究極のものとして、待っているのかもしれない。
でも、それは成就するにはあまりに脆く、崩れ去ってしまうのだけれど。

そもそもこの生まれ変わりという題材を、どこまで押して描いてくるのかに興味があった。そりゃいくらなんでも信じられないけれど、世の中には科学では説明のつかないこうした事柄が、現実に起きているのだから。
その生まれ変わりとなる、アナの死んでしまった夫は、自分は科学者だから、生前はこうした生まれ変わりなど信じない、と公言していた。
でも一方で、もし愛する妻が死んだ翌日、窓辺に来た小鳥が妻だと名乗ったら、それを信じて生涯を共にするだろうとも語っていた。
これが、人間の正直な気持ちなのだ。アナだってあの少年を本当に、100パーセント、夫の生まれ変わりだと果たして信じていただろうか。もし信じていたら、彼がその言を翻したとしても、「君を愛しているから、僕は彼じゃない」という台詞に、何かの引っ掛かりを感じたんじゃないだろうか。
ただ信じることって、何のよりどころもないから、本当に難しいことなんだ。
そう考えると、アナは彼女を愛する少年、ショーンの気持ちに負けたことになるのかもしれない。

ちょっと、いろいろ考えて先走ってしまった。物語を追っていこう。冒頭、アナの夫、ショーンが冬の公園をジョギングしている様を長回しで追うシーンから始まる。寒々としたモノクロのような、冬の風景の中を走る男を長回し、もうそれだけで不穏で不安な空気に満たされる。それが的中して、彼は低いトンネル状の入り口でうずくまってしまう。心臓発作で急逝してしまった。
カットが変わって10年後、夫の墓参りをすませたアナが、車で待っているジョゼフの助手席に座り、「OK」と言う。
もういいわ、行きましょうという意味だろうけど、そこにはそれ以上の含みを感じさせる。10年間、ジョゼフはアナが夫を亡くした哀しみを癒して、自分との結婚を決意するのを待っていてくれた。これから二人の婚約披露パーティー。「OK」には、長い間ごめんなさい、もう大丈夫、という意味も感じられる。

……んだけど、大丈夫、じゃなかったのだ。突然、見知らぬ10歳の少年が彼女に、自分は君の夫、ショーンだ。君を愛している。ジョゼフと結婚するな、と言うのだもの。
通常の神経なら何をからかっているのか、と一笑に伏すところだけれど、アナはその最初から動揺した。ショーン少年が押せ押せで手紙を寄越したり、父親から戒められてもどうしても従おうとしない強固な姿勢に、表面上は冷静に対処しながらも、心は揺れに揺れていた。
しかし、彼女は表面さえもつくろえなくなった。ショーン少年が彼女の拒絶に、膝から崩れ落ちて、気絶してしまった姿が、目に焼きついて離れなかったから。
本当に、夫かもしれない。と思ったのは、やはり、死んだ時の夫を思い出したからなのだろうか。

このショーン少年にどの程度、言ってみれば「生まれ変わり度」を入れているのかが、重要なトコなんである。ショーン少年はまず、肉体的には10歳の少年であることは間違いないのだし、生まれてから今までの彼自身のアイデンティティも皆無じゃないはず。
でも彼が、自分の中にアナの夫であるショーンの人格(というか、記憶)に気づいた時、彼はアナへの愛のためにそれを捨てた。「もう母さんの子供じゃない」とまで言って。
最終的にはアナを愛するがゆえに、元の10歳の子供に戻るしかなかった彼にとって、それってかなりキツイことだよね。
だって、彼は自分を一度捨ててしまったのだ。だから表面上は平常に戻ったように見えても、その中身はゴミ箱に捨てられてしまってて、ただただ空虚なのだもの。

あう。また話を先走ってしまった。そう……ショーン少年は思いがけない事実を突きつけられて、アナから身を引くんだよね。でもそれは、それこそが真のアイデンティティだったのかもしれない。生まれ変わりとか、多重人格とか、記憶の入り込みじゃなくて、アナを愛しているただ一人の彼として。
と、いうのはね……アナの夫、ショーンは浮気をしてたんだよね。それもかなりディープな。
アナの婚約披露パーティーに出席した、ショーンの親友クリフォードとその妻クララ。クララこそがその相手だった。
クララはそのパーティーで、ショーンが自分に直接渡してくれていたアナからの手紙を突きつけようとしていたんだけど、臆してしまって、藪の中に入り込んで埋めてしまった。
そんな彼女を、ショーン少年は後をつけてじっと見ていた。

そもそも彼がクララを気にしてその後をつけたのは、彼女のことが頭のどこかで引っかかっていたからに他ならない。
でも、基本的にはショーン少年は、クララのことはハッキリと記憶にないらしいのだ。ただ親友、クリフォードのことは覚えている。覚えているというか……彼を見たとたん、助けを求めるように衝突するように彼に抱きつくのだ。
クララは、ショーン少年が本当にショーンの生まれ変わりなのだとしたら、真っ先に自分の所に来る筈だと思っていた。いや、信じていた。
彼が、自分だけを愛していると言ったから。アナからの手紙は封も切らずに自分に渡してくれたし、アナと別れられないまま死んでしまった彼のことを、クララもまた忘れられずにいたのだ。
「あなたを見たとたん、ショーンじゃないと判った」クララは自信たっぷりに言い切る。いや……自信たっぷりにでも見せかけなくては、あまりにも哀れだもの。

ショーン少年が動揺するのは、やはり彼が10歳の少年に他ならないことを示している。
アナだけを愛している存在として、不倫や浮気の上での言葉だとはいえ、妻と別れるとか、愛してるとか言ったオリジナルショーンのことは肯定できないんだろう。
そこんところが、10歳の子供としてのアイデンティティ。彼にはまだ判らない。男はそういうもんなんだってことがさ。妻への愛とは別に、恋人を同時に愛せちゃうイキモノだってことが。時々、その順位を踏み越えてしまうこともある。でも死んだ彼が選択していたのは、妻の方への気持ちだった。

やはりショーンの生まれ変わりだと仮定してみれば……。妻であるアナを愛している気持ちが、優先順位の第一位。まあこれもちょっとヒドイ言い方ではあるんだけど、でもそういうことなのだ。
生まれ変わりとして戻ってきた時、一位の他はもう、ないわけ。そんな余裕、というか贅沢は許されないわけ。それに外側は10歳の少年のピュアが更に優先しているわけだし……。
でもこの恋人のことも、頭のどこかには引っかかっていたと思う。だから、「アナには内緒だ」と言ってクララの話を聞こうとしたんじゃないかなあ。

でもクララも、そしてアナも、生まれ変わりなんだとしたら100パーセント元のショーンだと当然思うから、それにこの10年間、喪失感と悲哀で苦しんでいたんだから、ショーン少年の精神と肉体、それ以上の様々な複雑な葛藤などに思いをはせる余裕などあるわけがない。
それでも。ショーン少年がクララの存在に苦悩するまでは、彼はアナを愛する自身に疑いなどしなかったし、だからこそアナも段々と彼に惹かれていった。
だって、愛する夫がいない、その事実をようやく受け止められるようになったから、愛してくれるジョゼフと結婚しようと決心したのだ。でも形は違えたとしても、愛する夫が甦ってきたのなら……そう考えても、仕方がない。

そうなるとジョゼフが可哀想ってのは当然あるんだけど……そもそも彼は、夫を亡くしたアナという女性を愛したのだ。10年間待ち続けるほどに。喪失感を持つ女性の深さと美しさを、アナはたたえていた。仮にアナが何も亡くさない、ショーンとも切り離された状態でジョゼフに会っていたら、彼はアナを愛さなかったかもしれない。
でもそれでも、やはりこんな事態になってしまったら、ジョゼフは取り乱さずにいられない。普段は落ち着いた大人の男だけれど、ショーン少年にハッキリと心を移していくアナを目の当たりにして、しかもショーン少年が彼を挑発するもんだから、逆上してつかみかかってしまう。それは小さな男の子に大人気なく当たるって図でしかなく、ジョゼフはあまりにミジメなんだけど……。でも一方で、やはり無力な子供でしかないショーン少年もまたミジメだということを、彼は自覚できていただろうか。

ショーン少年が、自分の中にある夫ショーンの記憶を、どの程度、というかどんな感覚で受け入れているのかっていうのも、判らないだけに……。
例えばね、科学者としての夫ショーンが、原子核についての講演をやった、と証言する場面などが出てくるのね。その内容とか、彼の中で租借されているのかなあ、とか思うし。もしそうなら、それまで受けた教育とか入っているのかなあ、とかさ。記憶と知識は違うのなら、その講演のことを覚えているのも、どういう感覚で覚えているのかなあとか。
それもこれも、生まれ変わり、を肯定した上で出てくる疑問ではあるんだけれど……。

しかも、こんな会話も出てくる。アナが少年ショーンに、「私の求めに応じられるの?」と問う。それに対して彼は、「君の言いたいことは判るよ」と言うものの、それだけに留まる。判るけど応えられない、ということなんだろうけれど、今の彼の中では精神的な気持ちのみだろうし、判る、というのも漠然とした記憶に頼っている、というだけのことなんだろうか。
彼は、自分が本当にアナの夫のショーンであることを証明するために、彼女の姉の夫のボブに、全てを話して記録させる。その中で、「あんたのうちのグリーンのソファでヤッた」なんてことまで言う。そういう肉体的な記憶をどこまで感覚として判って言ってるのかなっていうのがね、この目の座った少年を見ていると、なんだか怖くなってきちゃって。

このアナの義兄に当たる医者のボブは、ただ一人、この現象に純粋に興味を持って、ショーン少年に協力してくれる人物。こういう公平なキャラは、重要なトコである。大女優ローレン・バコール演じるアナの母親も泰然自若としていて魅力的だけれど、あくまで見守るという感じだし、アナの姉のローラは、ただただアナを非道徳者として糾弾するばかりだものなあ。
それに、このローラは妊娠している状態で登場し、劇中で無事女の子を出産するんである。アナは子供を授からないうちに夫に死に別れた。ジョゼフと結婚すれば、いわばギリギリのチャンス、でも夫の生まれ変わりだというショーン少年に走れば、それは絶望的である。そういうエグい要素もチラリと感じさせるあたりが、痛い。

しかも、上流階級であるアナと、プロレタリアのショーン少年の家庭はレベルがあまりに違い過ぎる。
当事者二人はそんなことは全く見えていないけれど、ジョゼフは自分たちのアパートへ家庭教師に来ているショーン少年の父親に、かなりの上から目線で忠告するし、この父親も、「金持ちの連中だ」と、なぜ彼らが自分たちに関わることになってしまうのか、困惑している風である。
でも、母親はちょっと違う。女ゆえの繊細な直感で、息子の変化がただならぬものであるのを感じ取っているのか、父親のように頭ごなしに叱りつけたりはしない。でもひどく心配そうに見守っている。
近しい年の女性として、そんな母親の心配が感じられてしまうのか、アナは彼女に大丈夫、心配ない、私が彼の目を覚まさせるから、と言うのだけれど……。

ショーン少年が、アナの入っている風呂に黙って入ってくるシーンは衝撃、である。
うー、むちむちの、白いブリーフの子供なのに!
親子ほど年の差がある彼女と風呂に入ったって、問題はないはずなのに!
この子、きっちり役に入ってるから、その中に夫のショーンを見てしまうから、もう心臓爆裂しそうなんだもん!!
かがんで彼の顔を覗き込んだアナの頬をはさんで、キスをする、なんてシーンもある。
こんな姿勢なのに、彼こそがすっごいリードしてるのはナゼなの!
確実に、確実に、愛する妻へのキスだよー!!!

でも……果たして本当に生まれ変わりだ、という決着だったのだろうか。
あるいは、完全な生まれ変わりはない、こんな風に自分が望む部分だけ魂に入り込む、程度のことなら現実味があるという着地点なのだろうか。
もしそうなら、不倫の恋人だったクララはあまりに哀れだ。
本当に愛しているのは自分だと思っていたのに、生まれ変わった彼は自分のことを覚えてないんだもの。
だから、あなたは彼なんかじゃない、ということにしなければ、彼を愛していた自分があまりに惨め。
一方で、アナは当然、夫の浮気を知っていたんでしょ?クリフォードとクララに「あなたたちには迷惑をかけた」って言うぐらいだもの。クララが持ってたアナの手紙は、それを憂えて夫に書き綴った手紙なんだろうし。
でも少年ショーンはアナがそれを知ってたってこと知らなかったから、こんな切ない別れになってしまったんだ。

「11年後、21歳になったら結婚しましょう。その時あなたはどんな男性になっているかしら」全てを決心してそうショーン少年に言うアナに彼は、
「君を愛しているから、僕は彼じゃない」そう応えて、これまでの全てさえも否定してしまう。別の人も同時に愛しているなんて、潔癖なショーン少年には許せなかったんだ。
その時点で、もう生まれ変わり論は崩壊しているのかもしれない。少年ショーンは、彼自身として、アナを愛している。でもそう自覚したからこそ、死んだ夫として自分を見ているアナに、こんな台詞を言ってしまわずにはいられなかった。自分自身として愛してほしかったから、なのか。
どっちにしても、男はアホやね!でもアナにとっては、いや女にとっては、年相応の大人の、自分を愛してくれる人と結婚した方が、やっぱり幸せなのかなあ……。

アナとショーンの出会いはビーチだった。そして、今は風薫る5月。アナがジョゼフと再婚の式を挙げているのも、海岸に程近い場所。最初はにこやかに写真撮影なぞしていたアナだけど、突然硬い表情になり、そして海岸へ出て行く。
波打ち際に入り込む。純白のウエディングドレスの裾が、波に洗われて褐色に染み渡る。ジョゼフが驚いてアナを支える。彼女の目は彼を見ていない。どこか遠くを、うつろに眺めている。そして、ジョゼフに連れられて、おぼつかない足取りで波打ち際を歩いていく……。

一方、アナから手紙をもらったショーン少年がそれに応える形でのナレーションに、生徒たちが順繰りに証明写真を撮っている場面が重ね合わされる。
画面の前の椅子に座り込んだショーンは、一瞬だけ、少年らしいあどけない笑顔を作る。
彼からの手紙の返事には、どこか無難に、当りさわりのない書き方がなされている。彼が本当にショーンの生まれ変わりだったのか、彼自身の主観的な表現は一切、なされていない。母親は成長期のせいだと言い、かかっているセラピストはただただお喋りなだけであると。
彼はそれを、否定も肯定もしない。生まれ変わりだと言ってしまえば、アナだけを愛しているショーンを否定することになるし、生まれ変わりではないと言えば、10歳の子供である自分がアナを愛する資格さえも失われてしまう。

一見、アナこそが切ない愛に苦しんでいるように見えながらも、絡み合った複雑を負わされたショーン少年こそが、最も苦しかったんじゃないかと思う。
ひょっとしたら、彼は11年後に……などと、ふと思ってしまって、ドキドキとする。まさかね。★★★☆☆


喜劇 爬虫類
1968年 91分 日本 カラー
監督:渡辺祐介 脚本:田坂啓
撮影:荒野諒一 音楽:八木正生
出演:渥美清 西村晃 大坂志郎 小沢昭一 T・エンジェル 伴淳三郎

2006/8/10/木 劇場(銀座 東劇/渥美清特集)
このタイトルに惹かれて思わず足を運んだんだけど、この映画ってどの程度有名なのかしら。検索すると最近発売したDVDの情報ばかりにヒットするのは……この特集自体、DVD発売の宣伝的なものだったのかしらね。まあいいけど。これって、喜劇ナントカシリーズとか、そういう訳でもないんだよね?
寅さん以外の渥美清を観られる機会としても、この作品は実にイイわけだが、追随して行動するあと二人の強烈さがまた凄いの!
西村晃と大坂志郎、こんな濃い顔の役者、今じゃいないよなあ。西村晃なんてもともと悪役俳優だとはいえ、後に黄門様をやるなんてとても考えられない狡猾な悪人ヅラ!いや狡猾だけど単純なトコが、この映画の愛しいところだけど。

渥美清が先生と呼ばれるリーダー、西村晃がソロモンと呼ばれる用心棒、大坂志郎がメリケンと呼ばれるアメリカ大好きの、まあ世話係といったところかしらん。もう一人、坊やと呼ばれる年若いナマイキな男の子もいるんだけど、メインとなるのはこの三人の丁々発止である。
んで、彼らはメリィ・ハーローなる金髪のアメリカ女を看板スターに、全国あちこちでヌード興行を打ち立てるのね。時には警察に睨まれ、時には地元のヤクザに脅され、果てはこの看板スターを連れ去られそうになって殺人未遂をおかし!
この三人はちっともお互いを信頼していなくて、時にお互い同士を殺そうとさえもくろむんだけど、結局三人でしかいられないの。

もう、当然と言おうかなんといおうか、渥美清の達者さに驚くしかないんだけどね!
ここでは寅さんで観られたような、アドリブの入り込むような制約の自由さはなく、あくまでこの先生でいるしかないんだけれども、世間や仲間を上手く握って立ち回っているように見えながら、実は一人ではいられない寂しがり屋で不器用な男を、時々哀愁を感じさせつつ演じる。
いや、哀愁なんてほんのカスッた程度で、基本的にはとにかく大笑いさせてくれるんだけどさ!

何たってサイコーなのは、ケンカや言い合いになるとその容姿について言われることで、それは当然、先生というキャラクターには関係なく、渥美清自身のことだから、その遊び心の逸脱が実に面白いんだよなあ。
だって、こうよ。「カバがゲタ飲み込んだような顔しやがって」!!!あるいは、「その目は開いてんのか閉じてんのか、どっちだ!」これは事態がちゃんと見えているのかという意味を含んでたんだけど、これを渥美清にぶつけられると、当然その小さな目がしばたたかれるもんだから爆笑しちまうのよ。だってそれに返して彼、ふてくされたようにこうよ。「すいませんね、これでせいいっぱい開いてるんです」もおー!(爆笑っ)

ところでこの看板スター、メリィ・ハーローっつーのがクセモノなんである。「ペンシルバニア大学の現役学生で、論文研究のために日本にやってきたが、帰りの旅費が足りなくてここでアルバイト」という触れ込みは当然ウソ、つまり金髪ピチピチ女の、しかも素人の新鮮なヌードを見られまっせ!ということなんだけど、「年は20と1歳」ウソウソウソ!あのハラのたるみ具合は私といい勝負って……いやいや!私より数段ヒドイぞ!デッカイ尻のだらしなさもキビしいし……。
この触れ込みは違う土地に行くとビミョウに変化していって、ハリウッドから声をかけられ、マリリン・モンローと並び賞されただのとゴタクを並べるんだけど、いやいや……顔も決して美人じゃないしさあ。
まあ当然、21歳のピチピチ素人なわけもなく、真相はベトナム戦争に米兵のダンナが行っている間の、オヒマな奥様の暇つぶしってなところなんである。

彼らがどこでこのメリィさんを拾ってきたのかは判らないんだけど(なんかどっかで言ってたけど、台詞が早くて聞き取れんかった)、それ以前に彼女は日本のある男の囲いものになっていた過去もあるらしい……いや逆か。あの感じでは彼女自身の欲求不満をあの男がなぐさめていたって感じだったし。
という、後半のクライマックス、メリィを連れて行こうとする男がまたキョーレツでね!もうコッテコテのサムい日本人の男なんだけど、なぜか?英語がペラペラで(でもその発音がキザでクサい)、メリィさんとレロレロのディープキスかますし(!!!)それを見せ付けられた先生、ソロモン、メリケンは、もう目を白黒させるばかりなの。だって彼らは暗黙の紳士協定で誰一人として彼女に手をつけたものはいないし、そのデッカイパンツを取り合いするだけでコーフンするような輩だったんだもの。

おっと、ちょっと話が先に行き過ぎた。その間にも様々なトラブルが起こる。まずこの三人は決して仲がいいわけじゃないので、ソロモンがメリケンとケンカして一度はこの一座を抜けたり、なんてこともある。しかし彼、行くところがなくて、「へへへ、先生、久しぶりですね」てなもんで、結局列車の中で合流しちゃう。
ある土地では警察の風紀取り締まりが厳しく、メリィのプロマイドをワイロ替わりにこっそり手渡したりして、興行を打つ。というのも取り締まるという名目でかぶりつきで見ているエロ刑事がいるからねー。
果てはコイツの点数稼ぎに協力するために、馴れ合いの取り調べにつき合わされるなんてことも。この時の先生のやる気のなさが可笑しくて!
だけど結局ワイセツ摘発の危機に瀕し、ヌードではなく、芝居という名目にすればいい、と鞍馬天狗を打つことになるんである。メリィさんに鞍馬天狗のカッコをさせてグダグダの殺陣をつけ、意味もなく脱いでヌードショーへと突入するマヌケさがまたイイっ!
しかもオチは「グラマー天狗」である。ああ、バカバカしくて最高。

次の土地では、山奥の工事人夫が相手。長い間女っ気ナシで山奥に閉じ込められている彼らは、もう欲求不満たまりまくり。「お手つき禁止」の制止など聞いちゃおれんと、かぶりつきから、舞台にじりじりと上がりこんできて、さしものたるんだメリィをも恐怖に陥れるんである。
いや確かにあれはコワイよ……。もう男たち、目ぇギラギラして、完全に襲い掛かる体勢なんだもん。ここで大乱闘になり、この興行を呼んだ工事会社の社長をケガさせちゃったことが、次の土地でヤクザにつけこまれることとなるんである。

ところでね、ここらあたりで先生のズルさが、だんだんと垣間見え始めてくるのよ。先生はこういう危ない場面には絶対立ち会わない。メリィさんを連れてさっさと安全なトコに逃げちゃう。
それに経理は先生が握っていて……まあ先生ぐらいしかそうした管理が出来ないってことも、また事実なんだろうけれどね。それにズルいのよ、お給料のことで彼らがちょっと不満を漏らすと、市場経済のことやらムズカシイ単語を並べ出して、アホな彼らを黙らせちゃうんだもん。
でもその経理はどうやらやっぱり不透明らしい……積み立てと称して保険として貯めてある金を先生は、喘息持ちの子供を空気のいい土地に住まわせるために競輪に投入し、すっかりスッてしまうのである。
そうなの、先生には妻子がいるのよね。
一人、海で妻からの手紙を読んでいる先生。子供のみならず妻にも、自分は参考書のセールスマンをしているとウソをついていることが、この場面で明らかになるんである。

ところでね、先生はメリィさんをスターに仕立て上げる前から、金髪女に執着があったらしいんだよね。
かつて一緒に仕事をしていたヌードダンサーの女は、「ホンモノの金髪女見つけたんやな。昔は私を金髪に染めて青いコンタクト入れさして……」と言ってたし、メリィさんがいなくなった後に見つけたピコちゃんに、「こりゃあ、イケるわ。真っ赤に髪を染めて青いコンタクト入れさせれば、どっから見たって外国人だ」とホクホク顔だったりするんだもの。
一体、どうしてそこまで金髪女に執着するのか……ただ、時代、かもしれないよなあ。だってメリケンはその名のとおり、アメリカなら何でもいいってぐらいのアメリカ礼賛者で、先生の金髪女への執着は、そのたるんだ……いやいや、豊満な体への盲目的な憧れにも映り、アメリカが豊かさの象徴、みたいに思えなくもないんだもの。

それにね、メリィさんが彼らと一緒にいた理由が、「だってこの人たち、私がいないとダメなんだもの。可哀相で」などと言うあたりもまさしくなんだよなあ。つまり哀れみで一緒にいてくれたってスタンスなわけ。
ソロモンはことあるごとに、「毎日ビフテキ食わしたったのに」と言うんだけど、小さなちゃぶ台の前に窮屈そうに正座して、ホントにビフテキ?なんか豚のしょうが焼きじゃないのってな薄い肉のソテーと、給食のコッペパンみたいなのを乗せたちんまりとした食卓は、これが精一杯っていう切なさがあって、彼女の言う「この人たち、可哀相」というのを如実に表わしてるんだよなあ。

しかも時はベトナム戦争である。兵隊にとられた経験があるらしいソロモンは、いつもイヤミたらしく、ベトコンの記事をメリィさんの前で声に出して読む。まあ、メリィさんがこの日本語を理解しているとは思いがたいけど。
んで、メリィさんから英語で激しく叱責されると、異様なまでに拒絶反応を示すんだよね……先生とメリケンの単純なアメリカ礼賛とは対照的な、ソロモンのアメリカ嫌悪が興味深いっつーか……なんか時代のフクザツを感じるなあ。

さて、そんなこんなである土地に流れ着いた時、先述のレロレロキス男が登場、昔馴染みのメリィさんを連れてく、と言うんである。彼女がそうしたがっているからと。
そんなことされちゃ、この生活はオワリである。しかしこのあたりから、ただでさえ仲の悪かった彼らの関係は更に悪化している。先生は前述のように競輪でスッちまうし、ソロモンはその前の土地でケガさせた社長の治療費を高額に吹っかけてきた、この土地のヤクザに震え上がっているし。
で、「コイツらを消せばメリィの分け前は独り占め」とそれぞれが考えて、かわるがわる薬局に「人間にも効果バツグンの農薬」を買いに行くってんだから、ブラックユーモアにもほどがある!(とか言いながらこのベタな繰り返しには爆笑!)

そういやあ、ちょっと興味深かったのは、メリィさんを連れて自分の元に身を寄せれば、今やっている新しい商売にお前を幹部に取り立てて大もうけさせてやる、とこのヤクザの親分さんがソロモンに言ったシーンで、ふすまの向こうでは、いわゆるポルノフィルムを撮影しているのね。
目をむくソロモン。親分さん、男優はいいんだが、女がいいのがいないから、外国女ならうってつけだ、とか……つまり最初からそういう目的でソロモンを脅しにかかった感もある。
こういう闇流通のポルノフィルムの存在なんかも、この時代から出てきたのかな、などと思うと、実に興味深いのよね。

さて、自分たちは一蓮托生、メリィさんを連れ去ろうというこの男を、力を合わせて消してしまおうじゃないかという話になる。言い出しっぺはいつも外側から冷めた目で見ていた坊や。そして、坊やの昔馴染みのピコという女の子も仲間入りしている。
しっかしこの男、睡眠薬がぜんっぜん効かないの!果ては自分からザラザラ眠剤を噛み砕いて、「俺はこういうのが効かない特殊体質でね」なんぞと言うもんだから、ソロモン、ヤケになって自分で睡眠薬入りビール飲んで、この男と一緒にぶっ倒れちゃう。
この時点で、計画はかなり予定の軌道をハズれているのだが、なんとかこのレロレロ男を人気のない線路端まで運んでくる。
しかしまず坊やが逃げ出し、小心者の先生もこの場をメリケンに任せて辞してしまう。眠り込んだ男をヒイヒイ言いながら線路に寝かせて、逃げ出すメリケン。
「はらわたが出て、まるでイカの輪切りだったよ……」と恐ろしげに報告するも、フラフラになったこのレロレロ男が三人の前に現われたもんだから、もう腰を抜かしちゃう!

まあったく、最後の最後までマヌケな三人、お互いをドツキあうものの、そんな彼らの目の前に、坊やに去られてもアッサリしているピコちゃんの豊満なお尻が……。
しかもこの子、今の目から見てもメッチャカワイイ!しかもしかも、「のぞきはアカンで」とペロッとおっぱい見せたりしちゃう!結局メリィさんが劇中で見せるのは下着姿ぐらいまでだったから(つまりスクリーンから見切れる)、この子のこのおっぱい攻撃には彼らじゃなくたってヤラれちゃう!
かくして三人は、このピコちゃんを新しい看板スターに育て上げることで関係修復を図るんである。
んでもってラストシーン、ピコちゃんが舞台から明るく投げ放ったパンツをホクホク顔で受け取った三人、珍道中は果てしなく続くってワケだ。

ところで爬虫類っていうタイトルの由来は、冒頭、先生によるナレーションによって示される。人間は暖かい血の通った哺乳類、いやしかし、冷たい血の爬虫類かもしれない、みたいなね。
でも結局悪人になりきれない、都合よく生ききれないこの三人は、愛すべき哺乳類だよねえ、やっぱり。★★★☆☆


ギターを持った渡り鳥
1959年 77分 日本 カラー
監督:斎藤武市 脚本:山崎巌 原健三郎
撮影:高村倉太郎 音楽:小杉太一郎
出演:小林旭 浅丘ルリ子 中原早苗 渡辺美佐子 金子信雄 青山恭二 宍戸錠 二本柳寛 木浦佑三 鈴木三右衛門 片桐恒男 青木富夫 弘松三郎 野呂圭介 近江大介 水谷謙之 高田保 原恵子 清水千代子 白木マリ

2006/8/6/日 東京国立近代美術館フィルムセンター(日活アクション映画特集)
この渡り鳥シリーズ、ひいては小林旭主演作品は全然観てないんだよなあと、まずシリーズ第一作のコレに足を運んだんだけど、早くもくじけそうだ……。ちょっと、タイクツで途中寝てしまった。
うーん、何でだろう、話は転がっているんだけど、小林旭のキレの悪いアクションでちょっとあらららと思ってしまったし。その長身のせいなのか、あのノンビリじゃ受ける方が待ってる感じ。
ちょっとねー、こうなるとキツいと思う。冒頭、彼が暴れまくるバーでのシーンがね、特にあらららなの。そんなムリして間仕切りの上に立ち上がらなくても、ヤバい、グラついてるじゃーん、とか見ながらハラハラしちゃう。

まあ、本作に置いてのアクションは、身体アクションというよりガンアクションなんだろうけど……でもね、このガンアクションもどうなのかなあ。特にくるくると指で拳銃を回す、というあのお決まりも、全然回ってないんですけど……みたいな。私はこういう現代(つーか、ま、当時においてね)アクションより任侠モノ系の方が好きなのかもしれない。立ち回りとか、美しいし。
でも多分、本作においては主演の小林旭よりも、途中から出てきてまさしくさらってしまう、宍戸錠の存在が重要なんだろうな。
というか、宍戸錠、キザに作りすぎてちょっと気持ち悪いよ!彼が登場してカッコつけると、劇場からもクスクス笑いが広がっていたりして……ってことは、これは確信犯的なのかしらん。笑っていいものかどうか、ちょっと迷ってしまった。

物語は、小林旭演じる滝伸次が干し草の荷台に乗せてもらって、函館と大沼国立公園の境道で下ろされるところから始まる。
へえー、渡り鳥シリーズの最初って、函館だったんだ……。函館山のロープウェイや夜景がこの頃からもうあったのね、と妙な感心をしたりする。
ところで、私はこの渡り鳥シリーズ、「ギターを背負った渡り鳥」だとずっと思ってた頃があったんだけど、「持った」なのよね。でも「持った」っていうのもなんとなく間が抜けているような。
っつーかこのギター、ストラップになってるのが紅白のネジネジ紐で、そのあまりのチープさにええって感じだし。ギターの唐草っぽい装飾もなんつーか……時代を感じるよなあ。

伸次はバーで起こった喧嘩を身体を張って仲裁したことから、街の有力者、秋津に目をつけられるものの、自由を謳歌する彼は断わるのね。次の日、ボートでノンビリ沖に出た彼と偶然知り合った秋津の娘、由紀もまた彼を気に入って父親に引き合わせるも、再び伸次は断わる。
でも伸次が流しで入った飲み屋で、ナワバリを荒らされたと喧嘩を売られたところを秋津が仲裁に入ったことで、伸次は秋津の下で働くことになる。
しかし、この秋津というのがあくどい脅しで地上げをし、土地の者たちを苦しめているトンでもないワルイヤツだったのだ。

伸次は再三、弱い者イジメはイヤだと言ってるんだけど、秋津からそんなんじゃない、もっと大きな仕事だと言われるとアッサリ信じて、彼の言われたとおり働くのよ。これがね……実際は弱い者イジメじゃん、と気づくのがいくらなんでも遅すぎるというか、ニブイっちゅーか、元刑事の割には察しが悪い。
あ、そう。元刑事なの。これはもっと後になって明かされるんだけど、彼は神戸の敏腕刑事だった。愛した女を殺した犯人を撃ってしまったことで刑事を辞めたらしい。この女のことはあまり詳しく言及されないので推測の域を出ないけど。

秋津がアミューズメント施設を建設するために地上げをした漁業会社が、秋津の妹の嫁ぎ先だと知った伸次は、ようやく秋津のウラの顔を知って手を引く。この頃から、何も気づいていないお嬢さんだったような由紀も、父親が本当はどういう人間なのか、うすうす感づいてきていたかもしれない。だって由紀は伸次にホレていたから。
ある日、伸次が仕事の報告に秋津邸を訪れると、由紀がピアノを弾いているのね。あっ、このピアノ、ルビンシュタイン、私の持ってんのとおんなじだあ。今はなき掛川産のピアノ。
「函館でも1、2を争そう腕らしい」と自慢する秋津は、父親としては普通の親バカだったのかもしれない。
しかし伸次は由紀の弾いていた曲を鮮やかに弾き鳴らして、ココが間違いだよ、などと言ったものだから、由紀はふくれながらも、この人はただのチンピラじゃない、何か過去がある、と勘付き、ますます彼に惹かれるのである。「ショパンを知っている人なんて、そうそういないわ」

それにしても小林旭が、絶対、実際に弾いてはいないだろう、後ろ姿だけでジャカジャカジャーンとピアノを弾き鳴らすシーンで、笑いが起きるのはなぜだろう……って私もなんとなく笑っちゃったけど。だって全然イメージじゃないんだもん。
流しでギターをつま弾いて歌っているのも、ビミョウにハズかしい感じはするんだけど、そのろうろうとした美声を哀愁のメロディーに乗せて歌うのが、時代も感じて似合ってるし。

で、このあたりで宍戸錠がご登場である。神戸の田口組のジョージという役どころである。
ジョージ……キザったらしい彼にピッタリの役名。登場からしてキザったらしい。ソファでコートをかぶって寝ている彼、伸次と秋津の会話に目が覚める。大げさにあくびをして、頬にキズのある顔をニヤリとさせて起き上がる。
うっ、ワザとらしく、キザ満天。宍戸錠だわあ、って感じ。

秋津は昔、田口組の親分に世話になっているので、ジョージの麻薬取り引きに手を貸してやることになった。それも、伸次が手を引いた、実妹の嫁いだ漁業会社の担保になっている船を取り上げて。
んで、この船にジョージらと共に伸次も乗り込むことになるんである。ジョージは伸次とどこかで会ったような気がして、それを思い出せないでいた。サイコロ賭博のイカサマを見抜いた伸次に、賭博場で会ったのかとも思ったが、どうやらそうではない。
しかし思い出したのは船の上。たわむれにカモメを撃っていたジョージの仕掛けたカケを、諌めるつもりで放った伸次の威嚇の一発が、全てを思い出させた。自分の舎弟を背中から撃った卑怯な刑事だと。
彼が刑事だと知って船上の組員たちも色めきたつけれど、そこに巡視船がやってきて二人の対決も中断となる。

このあたりからネムネムが襲ってきて私の記憶もイマイチあいまいなのだが、えーと、まず秋津の妹のダンナが秋津に消されたらしい。あ、自殺かと思ったらそうじゃないの。で、まあ葬儀も終わり、なんやかやと色々あったりして(よく覚えてない)。
函館に潜入している刑事が、伸次の元上司で、彼の存在に気づくのね。で、伸次の過去が少しずつ明らかにされる……。
んで、この麻薬取り引き自体、この日は結局中止となるんだけど、再び決行されたのが今度は夜、その闇に乗じて秋津は伸次とジョージの二人を消そうとするのね。伸次は内情を知りすぎたし、そしてジョージを殺すことで利益を独り占めしようとして。
そんなこととは知らず、船の上でまた伸次に対決を申し込むジョージ、しかし秋津の子分がそんな二人に拳銃をぶっ放す。伸次は負傷して海へとダイブ、ジョージも危ないところだったけれどその確かな腕で刺客を倒し、秋津の事務所へ乗り込んでゆく。

と、そこに海へダイブしたはずの伸次が先に到着して、秋津と対峙しているというあたり、どういう時間計算なのかしらと思っちゃうけど。
腕を真っ赤に血に染めて、フラフラと現われ、暴れまくる伸次。しかし秋津は殺し屋を仕掛けたはずの彼が生きていてもさして驚かずに、拳銃を向ける。危うし、伸次。
しかしそこに、不死身のジョージが現われ、拳銃一発、秋津をブッ殺す。
……伸次はこの時秋津に、捕まってこれまでの悪事を吐いてもらうとか何とか言ってたし、元刑事としてはやはりそうしたかっただろうと思うんだよね。どんな悪人でもさ……しかも娘の由紀はまっとうな人間で、彼女を哀しませることもしたくなかったろうし。ま、というあたりはラストで示されるけど。
とりあえずこの場面、ジョージは執拗に伸次に対決を申し込む。ビリヤード場で、二人の放つ銃弾が球に当たって跳ね返ったりするカットは、キザだけどちょっと美学を感じたりする。
んでもって、この勝負は伸次の勝ち。パトカーも到着し、ただ一人事情を知っているジョージは連れてかれちまうんであった。

本当はひっそり、この函館を去る気だった。由紀が自分に好意を寄せてくれているのは判ってるけど、自分のせいで秋津を殺させてしまった。
元上司の沼田刑事は、あの娘はイイ子だから判ってくれる、それにお前も神戸に戻ってこないかと言うんだけど、伸次は静かに首を振る。かつての恋人の墓参りをしに佐渡へ行こうと思う、と告げる。
そして伸次が函館を離れる日、由紀と秋津の妹が見送りに来ていた、のは、沼田が知らせたんだろうな。
涙の別れ。彼は戻ってこない。そのことを私は知っていると、由紀は慰めるおばに肩を抱かれながら、岸壁を離れる船の上の伸次を見つめ、涙ながらにつぶやく。おお、連絡船だ。懐かしいなあ。

まぶしげな目と半開きの口が小林旭って感じだけど、これがまたちょっとニガテなんだよなあ……。スタイルはバツグンだけど。★★☆☆☆


ギミー・ヘブン
2004年 121分 日本 カラー
監督:松浦徹 脚本:坂元裕二
撮影:高間賢治 音楽:nido
出演:江口洋介 安藤政信 宮崎あおい 石田ゆり子 松田龍平 小島聖 鳥肌実 北見敏之

2006/2/2/木 劇場(新宿武蔵野館2)
なんか意味判らんし、突っ込みどころ満載。というか、オープニングクレジットで脚本家の名前を見た時からイヤーな予感はしてたんだよね。「ユーリ」の監督でしょ。まあ古いこと持ち出すようでアレなんだけど、私はあの映画が心底性に合わなかったんで、この名前をやけに覚えてるんである。だから目にした時、あ……と暗い予感が。でもセカチュウの脚本もやってんだ。共同脚本だけど。なるほどあの映画も原作がありながら、突っ込みたくなるところがかなりあった気が……。

うー、やっぱりこれね、脚本のせいだと思うんだよね、いろいろイラつくのは。言葉運びも物語も、一人よがりな気がしてならない。脚本に振り回されてる。
役者は申し分なく揃ってる。江口先生がこういうタイプの映画に出るなんてちょっと意外だったけど彼のチャレンジングを感じたし、宮崎あおいは彼女がその出始めから得意としている、寡黙の中に全てを飲み込んで孤独に耐えている少女を熱演してるし、松田龍平は彼にしかないカリスマ性をいかんなく発揮し、……てな具合。

でもまず、安藤政信でつまづく。
彼は、一緒に仕事をしている江口先生をひたすら慕ってるんだけど、その、ちょっとバカ入ってて、江口先生にベッタリのキャラがマンガチックすぎて見てて寒いんである。この時点で私の悪い予感はザワザワと増幅する。ああ、こういうキャラに満足して勧めていく脚本だとヤバいな、と。
江口先生の兄貴的キャラはピッタリだけど(でもこれも、彼の年齢に比すると少々子供っぽい感じがして若干の違和感)、このキャラもまた至るところで整合性が破綻してるのだ。江口先生がのめりこんでいるだけに、心の中で突っ込むのがツラい。まあそれは物語の展開に従っておいおい……。

始まりは殺人事件。富豪の紳士が殺された。莫大な遺産を相続する娘が第一発見者だった。しかしその娘は養女であり、しかもこれで彼女の養父が死ぬのは三人目だという(三組めだったかな)。
刑事の柴田(石田ゆり子)はその娘に事件の匂いを感じるものの、それぞれの犯人は全く別の理由で逮捕されている。
その殺人現場の絨毯には奇妙なシミが出来ていた。赤ワインで描かれた、偶然とは思えないような形のシミ。
娘、麻里(宮崎あおい)はひと言もしゃべらない。そしてピアノを弾いている……。

この物語のカギは「共感覚」と呼ばれる感覚である。ひとつの感覚が刺激されると、それに別の感覚が伴う。数字に色を感じたり、何かを見ると形が見えたり、味を感じたり。共感覚者の存在はまれであり、しかもそれぞれがまったく別の感覚を持っている。だから彼らは一様に孤独であるという。
と、いうのを江口先生扮する新介のことを心配して病院に連れてきた恋人の不由子(小島聖。色っぺーなー)は医者から説明を受ける。それにしても説明をするだけの医者がやけにセクシー系の女医さんである必要がどこにあるのだろうか……。

宮澤賢治もそうだったというこの共感覚というのは確かに興味をそそられるし、神秘的であるとは思うんだけど、共感覚者、だから孤独だ、だからあのオチといった感じにまるで練られないままの構成でその上に物語を載せてくるからちょっと待ってくれよと思うんである。そのオチを任されるのは、そりゃああおいちゃんだもの、そこは彼女の中での咀嚼で見せてくれるけど、それでもキツい。
まあまだオチの話は早いか……でもこの魅力ある題材、「共感覚」が、上手く作用しているとはどーも思われない。

新介(江口センセ)はヤクザの下請けでインターネットの盗撮サイトを管理している。弟分の貴史(安藤政信)はその手伝い。ある日生中継の契約をしていた部屋の女が行方不明になった。その女を捜しに出る二人は、やはりカメラを設置していた下水道で倒れていた少女を発見する。それが麻里だった。
連れ帰り、看病するも、彼女はひと言も喋らない。不安そうな、不信そうな目をこちらに向けるばかりである。新介は半ばもてあまし、貴史はこの女っ気のない部屋に女の子がいることにはしゃぎ気味である。しかも、「君の目、オレが昔気に入っていたビー玉にソックリなんだよね」などとサムいことを言う。

この生中継の盗撮サイト(ま、契約してるんだから盗撮ではないけど)というのって、最近のハヤリなのかしらね。「デーモンラヴァー」でも「PEEP“TV”SHOW」でも出てくる。
でもここではこれは物語のとっかかりに過ぎず、役目を終えると「サーバーがパンクした!契約者からもクレーム続出で契約解除が相次いでる!」であっさり終了となり、ずっと彼らはこの仕事をしてきたはずなのに、その後全くノータッチなんである。おいおい!そりゃあね、このしわざはピカソのイヤガラセ、というか警告だってのは判るけど、それにしてもだからやーめたってわけにはいかないでしょ、仕事なんだから。しかもヤクザの下請けなんだから。
まあ、ピカソがこのヤクザ屋さんとつながっているから、別にいいのかなあ……でもまるで気にせずに、その他の仕事(スーパーのチラシづくり)とかしれっとやってたりすると、見てるこっちは思いっきり脱力しちゃう。

あ、ピカソっていうのは、サイトの裏世界で囁かれている“死の商人”である。殺人や自殺を生中継してカネを稼いでいるその人物と会ったことがある人は誰もいない。少なくとも生きている人間の中では。
このピカソの手にかかったと思われるのが、あの部屋から行方不明になった女である。彼女は新介達が設置していた歌舞伎町(だよね?)のカメラの映る場所で、真っ赤なスリップ姿ひとつでビルから飛び降りて死んだ。
一人部屋に残されていた麻里は、この“生中継”を見ていた人たちが続々とチャット?に書き込みをしているのを苦渋の表情で見つめてる。
しかしこの書き込みがねえ。掲示板の動きがニブいんだよね。単純な言葉で「ヤラセじゃないの?」だの「凄いね」だの「ご愁傷様」だのと一行単位でしかもゆっっくりと書き込まれていくのには拍子抜けしてしまう。ライブでこんな映像を見たんだよ?もっとガーッと反応してくれなきゃ全然スリリングじゃないじゃん。こういうところには気を使ってほしいなあ。

新介は麻里とこのピカソに関係があると踏んで彼女を詰問するが、麻里は何も喋らない。
しかしだな、なぜ新介は麻里とピカソがつながってると思ったの?
ここが不明確なんだよね……つまり彼らが探した先に麻里が倒れていて、その探していた女がピカソの毒牙にかかったからっていうことなんだけど、あくまで手法が似ているだけでピカソだと断定も出来ないし(まあピカソだったけど)、麻里が倒れていたってだけで彼女がピカソと直接の関係があるとは限らないじゃない。この女のように利用されただけかもしれないし(まあ結局直接の関係があったんだけどさ)。
新介の推測でバンバン話が進んでいくのが、まるで彼が地の文の解説者みたいでさあ……。

麻里は返した方がいい。警察に保護してもらった方が適切な処置だと新介は言う。実際、刑事は共感覚者が麻里の養父の殺し(そしてそれ以前の養父たちの殺しにも)関係していると踏んで、新介の元も訪れていた。
でもそれを聞いた貴史は取り乱し、麻里を見捨てるのかと、麻里を連れて三人でどこか遠くに行って暮らそうとか言い出す。自ら自分をバカだというだけあって、まるでマンガに出てくるような台詞を大真面目で言うこの貴史にまたしても寒さを覚える。
新介は貴史を落ち着かせるために仕方なく、彼の提案をのむことにする。その前にちょっと待て、不由子にしばらく留守にすると言ってくるから、と言うと、貴史は不安そうな顔をして「裏切らないでよ。帰ってきてよ」と何度も新介に言うんである。
あれだけアニキを信じてべったりだったのに、この台詞は明らかにおかしい。それとも何かの予感を感じたのか。

なんつってさ、新介はアッサリ裏切るんだもんなー!というのも会いに行った不由子に、二人の間の赤ちゃんが出来ていたことが貴史の元に帰らなかった理由……って、おかしいだろ!いや、それならそれで貴史に連絡ぐらいすればいいじゃん!
カットが変わるともうベッドで二人抱きあってるシーンだし(妊婦とヤルな!)貴史は貴史で、来ない新介に連絡を取ろうともせず、麻里と二人で出発しちゃうしさあ。「小さい頃持ってたお気に入りのビー玉に似てるんだ。きっと麻里はそのビー玉の生まれ変わりなんだ。オレ、バカだからさ。そのビー玉に命かけるよ」とか言って。ううう、寒いよー。

しかもである。残った新介は別に気にする風でもなく、一人でしれっと仕事を続けているんである。なぜだ!なぜ気にしない!そこにピカソからの接触がある。麻里を帰せ、さもなくば……みたいに二人が今まさにヤクザの紺野に追いつめられている映像を生中継で送ってくる。
この紺野というのは彼らに仕事を依頼していた男。演じる鳥肌実が、彼ならではのすばらしいキャラ作りをしてる。この中では一番面白いキャラだったかもしれないな。ミョーにバリッとした白いスーツ着て、その身長の低さでモデルばりの女を連れてたり、ラッパが無数についてる装飾バリバリのバイクに乗ってたりするもんだから可笑しいの何の。彼の存在がこの映画の救いだったかもしれん。

ピカソは最初から新介を誘い出すために貴史をネラってるんだよね。ピカソと接触するためのオンラインゲームのCDを持ってきたのは彼とつながりのある紺野だった。このゲームをするとハマり、殺人や自殺をしたくなるという噂がまことしやかに囁かれてる。でも最後までいけばピカソに接触できる、とゲームの得意な貴史が挑戦する。
しかしこれもさあ、いくら噂とはいえ、そんな危険だと言われているゲームを貴史に任せて昼寝しちゃう新介ってどーよ。心配どおり貴史はトランス状態になっちゃって手首を切ってしまう。でもそれも、新介が声をかけるとあっさり、あれ、オレ何やってるんだろ、みたいに覚めるのね。おいおい、なんなんだ。しかも傷浅いし!

ピカソは新介が麻里と同じ共感覚者、しかも麻里と全く同様に感じるそれであるということを判ってるからこそ、彼を誘い出そうとしたんだよね。つまり麻里が執着しているから。
でもさ、それを彼はどこの時点で知ったの?麻里が新介をそうだと確信したのは、PCのデスクトップに描かれている抽象画のような絵が、彼女にはミッキーとドナルドとグーフィーに見えたからなわけで、確認するために新介にスプーンはどう見えるのかとか、数字はどうなのかとか聞いたわけだけど、ピカソには判んないじゃない。それとも麻里はピカソと直接の連絡手段をもってたの?そんな描写全然出てこないけど。

んでね、麻里を連れ出した貴史の話に戻るけど……紺野に追いつめられる貴史。自分が生きてるのか死んでるのか悩んでいた貴史に対して、紺野は不敵に「教えてやるよ。お前は今、生きている。だが3分後には死んでいる。友達を殺すのは初めてじゃないから大丈夫だ」などと言って万事休す!
しかし麻里が貴史を援護して紺野を撃ち、それだけで終わってりゃ良かったのに貴史は倒れた紺野に何発も銃弾を撃ち込んで殺してしまうんである。狂ったように笑い「オレ、人殺しになっちゃったよ!」……うん、別に殺す必要は、なかったね。殺す必要性も今ひとつ判らんし。

その場面で、新介はピカソに教えられた貴史のプリペイド式の携帯番号にかけてきて、彼と連絡を取る。ここにきてようやくである。つまり貴史は携帯を持ってなかったのかなあ。持ってたら絶対それまでの間に新介は連絡とろうとするよね……ていうか、貴史が来ない新介に連絡をとらないのもおかしいけど、まそれは麻里にホレた彼が一人で彼女を守ってやろうと思ったんだろうと解釈しとこう。
でも、車をとりに行った貴史、新介と話している間に誰かに撃たれてしまう。息も絶え絶えに新介と会話を交わす貴史。
……新介さあ、「すぐに救急車を呼ぶから!」とか言いながら、ずーっと貴史の会話につきあってんじゃん。だからさっさと救急車呼べっての。この会話がしかも延々と長いんで、「貴史!貴史!」と悲痛に呼び続ける新介に、だから早く救急車呼べって……と心の中で何度も突っ込んでしまう。結局死ぬまで待ってんじゃん。しかもこの期に及んでそんなに涙浮かべるぐらいなら、その前からもっと心配しとこうよ……。

貴史を撃ったのはピカソなのか。新介はついにピカソとの接触に成功する。
新介は彼を恨みに思うというより、殺人現場であの奇妙な形のマーキングを残してきたピカソに会いたかったのだ。その形は音楽を奏でていた。新介にはそれが聞こえた。ということはつまり、ピカソは同じ感覚を持つ共感覚者だということになる。それまで新介はこの感覚が誰にも理解されずに孤独の中に生きていた。友達も恋人も真に彼を理解することが出来なかったから。
でもさあそれって、新介のことを好きでいてくれる周りの人間を、彼が全然信用してないってことじゃないの……。

でも実際会ってみると、ピカソは共感覚者じゃなかった。新介は失望する。もしそうなら、オレがお前を助けられたかもしれない。そしてお前もオレが助けられたかもしれない。この孤独から救われたかもしれない、そう思ったのに。
その時姿を表わしたのが麻里だった。麻里こそが共感覚者であり、貴史を撃ち殺したんだと知って新介は愕然とする。しかもそれまでの一連の殺人事件も、この兄弟がマリオネットでトランス状態になった人間を操って殺させていたんだという。
お兄ちゃんは幼い妹にやっちゃいけないことしちゃった。それを見つけた親を殺してしまった。だから妹は兄がどんなことをしても許せない。兄は償う気持ちもそうだけど、多分妹にいまだによこしまな気分を抱いていて……。彼女の養父母を次々殺してどんどん金持ちにステップアップさせる。でもなんでそう上手く金持ちの養父母が現われるかが判らんのだが……。

麻里が貴史を殺したのは、同じ共感覚者である新介を手に入れるために、新介を慕う彼がジャマだったから。でもその理由だけで殺すのはあまりにもムリがあるよな。それだけ彼女は今まで孤独で、彼以外、もうありえないと、ただ一人の人だと思ったんだろうってことなんだけど。あおいちゃんは確かに熱演なんだけどねえ。
そんな観客の心を見透かすように、「簡単に殺すな!」って江口先生、いや新介がまんま言うもんだから、あまりにまんますぎて思わず笑っちゃったよ。……ホント新介のキャラには整合性がなさすぎるんだよなあ……。
まあ、麻里は貴史を少々うっとうしく思ってた部分もあったかもしれないしね。思いを寄せられれば寄せられるほど、あなたの見ている世界は私とは違うんだと、私のことを本当に知らずに好きだと思うなんて、私を理解もしていないくせにと。しかも私が一番欲しい彼を独り占めにしてるじゃないかと。違うんだけどねー。新介には不由子という恋人がいるんだし。このあたりもちょっとおかしいが。

しかもこの事実を告げられた新介、ウッカリ嬉しそうな顔してるし……ひとつひとつ、彼女と同じ感覚を持っていることを言い合って確認して。雨が降ってくる。大きな雨はガーベラ。とびかう花の中で二人は嬉しそうに笑ってる。まあウッカリ美しいシーンなんだけど……そんなフツーにハッピーエンドみたいな顔されても……。
まあその後、二人は先に責任をひっかぶって自殺したピカソに続いて死んでしまったらしいからね。でもなんで死んじゃったの?自殺?そりゃ皆死んじゃえばハイ終わり、になってラクだけど、この期に及んで二人が死ぬ理由も判らない。

劇中のピアノシーンは、あおいちゃんがホントに弾いてるんだという。それなら手元映してあげればいいじゃん!練習した意味ないじゃん!★★☆☆☆


君とボクの虹色の世界ME AND YOU AND EVERYONE WE KNOW
2005年 90分 アメリカ カラー
監督:ミランダ・ジュライ 脚本:ミランダ・ジュライ
撮影:チャイ・チャベス 音楽:マイケル・アンドリュース
出演:ミランダ・ジュライ/ジョン・ホークス/マイルズ・トンプソン/ブランドン・ラトクリフ/カーリー・ウェスターマン/ヘクター・エリアス/ブラッド・ヘンケ/ナターシャ・スレイトン/ナジャラ・タウンゼント/トレイシー・ライト/ジョネル・ケネディ

2006/5/9/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
ポスト、ソフィア・コッポラだなんて片付けられ方をするにはあまりにもったいないよ。そんな単純な定義などしてはいけない個性だ。むしろソフィアより、この先どんなものを作っちゃうんだろう?というドキドキ。いろんなことやってるマルチアーティストだから映画をまた作ってくれるのは先になるかもしれないけど……。
デジタルを駆使しているのにクリアーなシャープさではなく、フィルム映画のような奥の深い優しさがふんわり漂っている不思議な魅力。キャラクターたちはみんなちょっとずつヘンのようだけど、実はちっともヘンじゃないのかもしれない。これが人間なのかもしれない。
ヒロインであるモダンアーティストを劇中でも演じている彼女の、ユーモラスで個性的な表現がとてもチャーミングなのだ。普通に、女優さんだと思った。私の知らない、チャーミングな女優さんだなあ、なんて。

登場人物はかなりたくさん出てきて、でもそれぞれがつながっているようでいなくて、という絶妙なさじ加減が上手い。色合いはポップで優しいし、皆なんだかちょっとヘンでユーモラスなんだけど、つまるところは皆寂しい、ってことなのかな、って思った。

まずは、ある夫婦が離婚するところから始まる。後から考えればこの奥さんの方が恋人を作ったっぽいんだけど、違うかな……だって親権はダンナさんの方がとってるしさ。
それなのにこの奥さんは、まるでダンナの方に問題があったとばかりに高飛車なのだ。子供たち二人は、恐らくはそれまで父親とコミュニケーションをあまりとっていなかったんじゃないかと思われる……のは、父親との暮らしになって、どーにも戸惑っている様がアリアリだから。
父親もまた、困り果ててる。大体、この奥さんの態度で、自分の方がマトモじゃないんじゃないかと思いかけて、何をとち狂ったんだか、手にオイルをかけて燃やしちゃうなんていう愚行に出るし。
冒頭に示されるこの行為はホント、唐突で面食らうんだけど、これがこの人の愛すべき不器用さと、本当は子供を愛したい、人を愛したいあらわれのように思えて、彼に恋するヒロインに、がんばれ、って言いたくなるんだよね。

なんて、ここでヒロインの話に行きそうになるんだけど……子供たちの方に行っとこう。本作ではこの兄弟が実に大きな魅力になっている。尺的にはどのキャラにも当分の時間を費やしているし、みんな当分にオカシな人たちなんだけど、この兄弟が強い印象に残るのは……なんといってもカワイイからなんだよね。
まずはお兄ちゃんのピーター。監督が筋肉のない、ファニーな感じの男の子を、と探し出してきただけあって、実にそのとおりの、綿あめのような印象を与えるスウィートな男の子である。華奢な体にふわふわのカーリーヘアがよく似合う。近所の女子高校生二人に、強制的にフェラの実験台にさせられるなんていうキョーレツな場面があるにも関わらず、いやこのシーンを少年の当然の欲望や衝動を、さらりと汚くなく見せるところに、彼のそうしたしなやかさが実に活きている。
そして弟のロビーである。この子は天才かもしれない。お兄ちゃんよりはクルクル度の強いヘアスタイルにぷっくりとしたほっぺたがなんともいとおしい5歳児。しかしこの年齢にしてアスキーアートの天才で、チャットでオトナの女を燃えさせるてくだを持っているんである。恐るべき!

そういやあね、別れた奥さんは、漆黒の肌なのね。で、優性遺伝子が色濃く出るから、子供たちは白人のお父さんの方にはちっとも似ていないのだ。
親子の気まずさや隔たりはこのあたりにも原因があるのかもしれないと思う。
今まであまり会話がなかっただろう上に、突然一人の親として子供に接しなければならなくなったお父さんの動揺は、世界中のお父さんの共感を得るであろう。どこでも、どの時代でも、まずはお母さんが子供の心をつかんでいるものだもの。
まあちょっと話がズレたけど……でね、そう、この兄弟はネット好きなのね。ひょっとしたら両親にずっとほっとかれてきたからかもしれない。しかしこんな風にチャットを積極的にやったりしてる割には、アナログ回線(お父さんが電話しても出られない)ってのも凄いけど。でもそのアナログ感がなんかこの映画っぽいのよ。

お兄ちゃんの方は放り投げてしまったチャットを、弟のロビーは続けるんである。彼の表現っていうのは子供だから出てくる天才肌。無邪気と哲学が違和感なく同居しているあたりが。でもそれを子供の目線で作り上げる監督にこそ驚嘆を覚えるわけだけど、更にそれをカンペキに演じきる彼にも驚きを禁じえない。
ホント、発想は無邪気な子供のものなのよ。それが不思議にエロティックなものになるのは、大人の欲するエロティックな欲望が、案外こういう純粋なところから発生しているからなのかなあ。
「僕のウンコを彼女のお尻にして、彼女のウンコを僕のお尻にするんだ。入れたり出したり、同じウンコを……永遠に」
「永遠に」なんていうロマンチックな言葉が不意に飛び出したりするあたりも、孤独なオトナをくすぐるのだ。
ブラインドタッチなんてまだまだ出来ないロビーだけど、コピー&ペーストを巧みに使って、短い言葉で相手を燃え上がらせちゃう。世の男たちはこのあたり学ぶべきものがあるかもしれない。

その相手は、現代美術館でキュレーターしてるナンシー。本当に、大人の女性だった。お兄ちゃんのピーターは、女を装った男だと予想して戦線離脱していたのに。
二人が公園のベンチで会う場面は最高である。
彼女はさすがにこんな幼児がまさか、と思ってるからしばらく気付かない。二人の横でまるで関係ない気功オヤジが太極拳してるのが、なんとも笑えるんである。
しかし、ロビーはこの人だと確信しているから、彼女に向かって横向きに正座して、熱視線を送る。5歳児なのに、なんか妙になまめかしい!彼女の髪をかきわけ、耳にかけてやる。うわー!なんか、本当に恋人同士に見える!さすがに気付いた彼女、でもバカにしたりなんかしないで、彼をそっと抱きしめ、キスする。うっわ、ドキドキした……それは子供にするような感じじゃないの、本当に情感あふれる恋人みたいなキスシーン!
そして去っていく彼女。一言も言葉を交わさなかった。チャット上ではあんなにダイタンな会話をしていたのに。

このナンシーに作品を売り込んでいたのがヒロインのクリスティーンである。はあ、やっとヒロインにたどりついたわ。
彼女は、アーティストを志しているんだけど、生計は高齢タクシーのドライバーである。あ、ヤバい。また横に話がそれそうだ……高齢タクシーっていうのはね、高齢者専門のタクシードライバー。通りを流しているんじゃなくて、お得意さんに電話で呼ばれて駆けつけるわけである。
お得意さんっつっても出てくるのは一人しかいない。70歳になって運命の女性に出会ったマイケルである。その相手は、もはや鼻にチューブをつないでいる状態のエレン。
「50年前に彼女に出会えたら良かった。でも70年生きてやっと彼女にふさわしい男になれたからかもしれない」と言う彼の台詞は心に染み入る。

クリスティーンがマイケルを乗せて走る登場シーン、車の屋根にビニール袋に入った金魚を置き忘れて走り始めた車を発見する。
注意して、減速しても金魚は落ちてしまう。つまりは、見守るしかない。永久に同じ速度で走り続けるしか金魚の生きる道はないけれど、それだって、太陽にさらされて死んでしまうだろう。クリスティーンは、「あなたは愛されて天国に行くわ。それを見守っていてあげる」とつぶやく。
金魚相手に大げさだな、と笑いどころのように思えるけれど……なぜか、なんだか笑えない。こんな風にコミカルに示しているけれど、マイケルにこれから訪れる、エレンのサヨナラの暗示なんだと、何となく、気付いちゃったから。
死期を知ったエレンは、マイケルに別れを告げる。はたから見てたら、もうすぐ死ぬからという理由で何もわざわざ別れなくてもいいのに、看取ってもらえればいいのにとも思う。でもエレンを愛する彼には、彼女の気持ちが判ったんだ。だから受け入れた。彼女は去ってゆく。一緒に行くことは出来ない。死ぬ時は一人。誰しも一人。愛する人がいてもいなくても。

それが、テーマだったように思う。それをちゃんと判ってる上で、人は誰かを愛するんだ。
あー、だから寄り道しちゃった。ヒロインの話よ。彼女はモダンアーティストになることを夢見ている。自作自演のビデオ作品を、くだんの現代美術館のキュレーター、ナンシーに手渡そうとするも、彼女は「紛失するから郵送して」と冷たい。
このビデオ、言われたとおりに郵送したんだけど、あああの女、みたいに早々にお蔵入りにされそうになる。しかし、パフォーマンスのあとに入れられたモノローグがナンシーの心を打つのだ。
今あなたはこれを大豪邸で家族とともに、犬なんかもいて見てるかも……と。いや、どうせこの作品は途中で切られて、ましてやこんなオマケ部分なんか見てないよねと、ヤケ気味にふざけて、たわむれに自分の電話番号を出し、ここにかけて「マカロニ」と言って切って、なんて言うわけ。
まさか、実行するとは思わないよ。有名美術館の有能キュレーターの彼女が、そんな誘いにのるほど孤独だなんて思いもしない。そう孤独だったんだ。孤独じゃなかったら、こんなことに、絶対にノらない。

クリスティーンが作品として作った部分より、ナンシーはこのフリートークに心引かれた。
ナンシーも孤独だったんだね。あの時小さな男の子であるロビーを軽くあしらわなかったのは、彼もまた、こんなちっちゃくても孤独と戦っているってことを、きっと感じたからなんだ。お兄ちゃんといても、お父さんといても、お母さんといても……チャットの中でなら、こんな小さな自分でも誰かと対等に関係を持てる。だから実際に会ったのが大人の女性でも、あんなに大人の目をして見つめていたんだ。
で、クリスティーンに対しても、多分同じようなことを、感じた。
ナンシーはね、靴を探しに行った時、進められたストラップつきの靴に、「こんな子供みたいな靴。私は大人の女性なのに」とごちていたのだ。
なのになぜ、子供のようにひとりぼっちが寂しいの。

あー!この話から続くキャラ、どっち行こう!なかなかヒロインの恋物語にいかないなあ……まあいいや。
このデパートの靴売り場に、ナンシーと一緒に来た彼女の娘はシルヴィー。まだ小学生なかば程度って感じ、下腹部がぷっくり出ている幼児体形がいかにも幼い彼女は、隣りのピーター&ロビー兄弟が気になって仕方がない。特にお兄ちゃんのピーターが。彼がイケイケの(実際はそうじゃないんだけど)女子高生に声をかけられているのがもうなんとも、気になっちゃってるのだ。
彼女は、デパートのチラシから商品のスクラップを作るのがすっごく楽しみなんである。それもピンクの台紙にきちっと貼り付けているのが、なんともいえずカワイイ。
自分の嫁入り道具を作る、それが目的。バスタオル、フェイスタオル、ハンドタオルと、丁寧にアイロンをかけて、大きな嫁入り道具箱に丁寧にしまっている。その中には彼女が吟味した、“定番の家電商品”がギッシリとつまっている。セールを狙ってキッチリと買い込んでいる、シッカリモノなのだ。

でも“未来の夫と娘(勝手に娘と決めてるあたり……)のために”という前提自体、今の時代には驚くほど女の子らしい発想だよなあ。
デパートの店員に、彼女は聞くのね。
「これは定番?つまり、20年後も同じかってこと」
「定番商品だけど、20年は長すぎるわね。そのころはコンピューターよ」
「それは無理だわ。スープはコンピューターにならない。液体だもの」
そういやあ、昔は、未来にはどんなものもコンピューターになると思ってたっけ。確かにいろんなものがコンピューターになったけど、案外ならないものも多かった。女の子は価値観の変わらない大切なものを捜してる。それをモノとして集めてはいるけど、それは心とか愛情とか、そういう形のないモノを象徴しているようにも思えるのよね。

やっと、ヒロインの話に行けるかなあ。彼女が恋したのは、ここまで来たらもう言うまでもなく、あのバツイチ、二人の子持ちのリチャードである。
彼女がお得意様であるおじいちゃん、マイケルの買い物に付き合って訪れたデパートの靴売り場、そこにいたリチャードに恋しちゃったのであった。
何が、きっかけっていうか、琴線だったのかなあ。合わない靴をはいているべきではないと、くるぶしが当たって痛いと言う彼女にすすめたたピンクのバレエシューズ、でもそれはね、彼女が今はいている靴と色が違うだけのおんなじデザインの靴だったのよ。
でもそのピンクの靴があまりにもラブリーだったせいなのか、彼女は彼にドキドキを感じちゃうの。

クリスティーン、とりあえず気になっていた、リチャードの手に巻かれている包帯のワケを聞いてみる。リチャード、長い理由と短い理由、どっちがいい?と問いかけ、長い理由をと言われて話したのも、大して長くない。人生を救おうとして失敗した、と。なら、短い理由は?と思わずクリスティーンが問い掛けると、彼はひと言、火傷した、と。
この短いやりとりで、多分彼女には既に、ピンとくるものがあったんだと思う。
クリスティーン、リチャードの帰りを待ち伏せる。車の駐車場所までのわずかな時間だけど、そのまっすぐな一本道を人生に例えて交わした会話は、イイ雰囲気である。クリスティーンはリチャードと相性がいいか、自分の感性を判ってくれるかどうか、試したのかもしれないなあ。

ほんの数分の会話、この短い一本道を人生に例え、ここまでは出会って半年とか、道が別れるところでは死が訪れたとか言ってみて、それに彼がどう反応するか。好感触を得たと判断した彼女、別れた後、彼の車を走って追いかけて「死後の世界だから仕方ないわ」と助手席に乗り込むんだけど、彼は、急に臆するというか、怒るわけ。
あんなにイイ雰囲気だったのに、なんでよ!彼女と別れて車に乗り込むまで、思い出してニヤニヤしてたじゃん!と観てるこっちは思うんだけど……でも、これぞ、恋、なんだよね。
怖かったんだろうなあ。だってリチャードったら、自分はおかしいのかもしれないって思ってたんだもん。妻の目はそんな視線だった。それをわざわざ体現するかのように手を燃やして自分を追い込んだ。彼の風貌はそんな紙一重を確かに感じさせるというか……本当はそんなこと、全然ないのに。

お願いだから、ハッピーエンドにしてね、と祈って見てた。あの気まずい別れから、彼女が意を決して靴売り場に向かったら、彼が元妻と話しているのを見かけちゃって、なんたってクリスティーンは映像アーティストだから勝手に頭の中に想像の映像を膨らませてヤキモチ焼いちゃうのよ。で、彼と話もせずその場を去って、フロントガラスに「FUCK」と殴り書き!
でも、彼から電話が来る。名刺を渡してから、待ちに待った電話。
「もう電話をくれないかと思った」とクリスティーン。 「僕の子供たちに会ってくれないか」とリチャード。オオッ!
「今、これからはどう?」

慌てて部屋を片付けるリチャード。ロビーがラクガキした小鳥の写真をどこに置こうかと迷って、額縁を持ったまま外に出てウロウロしているところを、到着したクリスティーンに見つかってしまう。
さすがはアーティストのクリスティーン、この写真のいるべきアウトドアを即座に見つけた。
「ここがいいわ」
写真の中の小鳥が本当の木の枝に止まっているように、枝に写真をたてかけた。思わず見入るリチャードに、後ろからそっと手を重ねるクリスティーン。うわあ……すっごくジーンとするシーン。これまでの誤解が氷解するときめきもあるけど、なんか、これだけで本当に、全てが理解できちゃうようなさ。

えーと、書き残していること、あったかな?あ、そうそう、ピーターを襲った?女子高生二人さ。登場シーン、片方の少女、ヘザーが、もう一方のレベッカに、メイクをほどこしてるのね。いかにも実験台って感じで。色白のレベッカ、顔半分ベッタリとファンデーションを塗られちゃって、ブラックジャックかよ!って突っ込みたくなる滑稽さ。
そこを通りかかったリチャードの同僚。オデブであからさまに不細工な男である。
でもだからこそ、と声をかける二人。そんな、イケてない二人じゃない。フツーにカワイイ。なのになんか……自信がないみたいなんだよね。でもその中に、若い女の子ゆえのリクツヌキのプライドも強烈にあるんだけど。

二人に声をかけられた彼は、「レズの姉妹」というオタクな趣味があるらしく、彼女たちにそれをなぞらえ、窓に次々とヒワイな卑猥な文句を貼って挑発するのね。
しかも二人は、眉をひそめながらも、それをわざわざ見に行くのよ。
果ては、初体験を彼に決めるんである。
「ボーイフレンドとしたかったけど、失敗するかもしれないじゃない」
ここにもなんだか、こんなこと思わなくてもいいのに、って孤独感を感じるのだ。
まるで、芝居のメイクみたいに顔半分ベッタリと塗られたファンデーションからも、舞台役者のように放り出される孤独を感じるしさ。
窓に張られた卑猥な文句は不快なはずなのに、わざわざ見に行くなんて、そこにこそ、自分が存在している価値がある、って言ってるみたいだし。

しかも、初体験を彼に決めるのがね、ボーイフレンドとして、失敗したら相手に見限られる。つまり一人に、孤独になってしまう。今の子供たちはそこまで見据えてて、孤独がイヤで、自分の気持ちにウソをついてまで、人生で重要なことを見過ごすことさえしてしまうのだ。
初体験をこのオデブですませようと決心したヘザーはこう言った。「あんたがいるから安心だわ」
人生において、いかに、一人でなしとげることが、難しい事か、と。

そしてもうひとつ。アスキーアートの天才であるあの5歳児、ロビー。そらで、スペース、スペース、ドット、ドット、などとお兄ちゃんに指示してた。でも、それに影響されたお兄ちゃんが作ったアスキーアートは、弟の緻密な計算によって作られた具体的な形じゃなくて、抽象画のような……「空から見た小さくて弱くて愚かな、でも一生懸命に生きている人間」の図だった。
「・」やら「;」やらを駆使して作られてて、これがオレ、これがお前、寝そべってる人がこれで……などと解説するピーター、一見イタそうにも思えるけど、これって、まさにモダンアートなんだよね。
アスキーアートはネット時代の産物。これがアートになるのかどうかは、もう早い者勝ちよ。ピーターが作った作品の、一生懸命な人間たちは神が見ている目線のようだ。個性はおろか、差異さえも判らないくらい、点やらドットやらだけど、一生懸命で、とてつもなくいとおしい。

見た目がふんわりしてるだけに、油断してるとヤラれる!あのね人生は確かに、こんな風に見た目はふわんと包みたいよ。人間は生涯、地獄のそこまで見栄っ張りだから。でも本当の本当は……ね。皆判ってるんだよね。★★★★☆


嫌われ松子の一生
2006年 130分 日本 カラー
監督:中島哲也 脚本:中島哲也
撮影:阿藤正一 音楽:ガブリエル・ロベルト 渋谷毅
出演:中谷美紀 瑛太 伊勢谷友介 香川照之 市川実日子 黒沢あすか 柄本明 木村カエラ 蒼井そら 柴咲コウ 片平なぎさ 本田博太郎 奥ノ矢佳奈 ゴリ(ガレッジセール) 榊英雄 マギー 竹山隆範(カンニング) 谷原章介 甲本雅裕 キムラ緑子 角野卓造 阿井莉沙 宮藤官九郎 谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ) 劇団ひとり 大久保佳代子(オアシズ) BONNIE PINK 濱田マリ 武田真治 木野花 荒川良々 渡辺哲 山本浩司 土屋アンナ AI 山下容莉枝 山田花子 あき竹城 嶋田久作 木下ほうか

2006/7/7/金 劇場(歌舞伎町新宿ジョイシネマ2)
原作と全然違うというのは先に聞いてて、悩みつつも原作を先に読み始めた。既にすっごい話題になってて、公開当初はコミコミでとても足を運べそうにもなかったし。
で、あまりにしっぽり、ドシリアスな原作に落ちていったので、予告編の段階で明らかに違うことは判ってた映画に行くのはかなり怖かったんだけど、弾き飛ばされちまった。

いやあ……これほど「映画は別物」ということをポジティブに感じたことはない。いつだってネガティブな意味として、仕方なくって感じで言うことがほとんどだったのに。
原作とは180度どころか、宇宙レベルでベクトルが違う。でもその双方が傑作。何も、欠けあうことがない。

映画をいきなり観てたら判りづらかっただろうなーと思うところも、読んでたせいで助かったりもする。まあだから、その部分は後から引っかかった部分でもある。そして原作読んじゃってたから、唯一削ってる部分と唯一プラスされている部分に納得がいかなかったりもする。でもそこが、監督が松子の中に読み込んだ本質なんだろうとも思う(後述)。

そう、本質、ということをとても強く感じたんだよね。
原作を読んでいる時には、松子のことは決して好きにはなれなかった。後先のことを考えず、自分をかわいそがり、金を盗んだことや人を殺したことさえ、その自分主義でアッサリ忘れてしまう。
それが彼女のタフさなんだと、映画では感じることが出来るんだけど、読んでる時は“ドシリアスにどっぷり”だから、そんな風にポジティブに考えるなんて到底出来なかった。

監督が原作を読んだ感想が、「あまりに悲惨すぎて笑ってしまった」というところからこの映画の方向性が始まったのが、そう言われるとものすごくナットクなんだよね。
ギャグってのは、現実にありえないほどのハズれた部分に可笑しさを感じる。そのギャップが大きければ大きいほどね。
松子の悲惨さは、既にそこまで行ってる。そこまでの悲惨さを体現出来るだけのタフさがあるから、エンタメにしても充分耐えうる。耐えうるどころかぶっ飛ばす。
そんな強さが松子にあるなんて、原作を読んでる時には思いもしなかった。

小説って読み手によって時間が決まるから、なかなかそこに気づかないんだよね。でも映画は、ジェットコースター。作り手によって時間が決まる。重さも価値も決まる。悔しいけど、松子の思いの強さや潔さが、カッコ良く思える。
それにこのタイトル、そうしたハスに構えたギャグを感じさせるしな。

松子のキャラクターは、狂言回しとなる甥の笙の、最初のリアクションで決まってしまう。
彼は父親に、伯母の松子がどういう人間だったか聞く。すると、こういう答えが返ってくる。
「あいつは、トルコ嬢になって、人殺しまでしたんだ」
それに対して、笙の答えはこうだ。
「すっげー!」

これで、この映画における、松子の位置は決まった。彼はこの時完全に、クール!伯母さん、やるじゃん!って思ってるんだもん。
この時点で、原作での彼の入り方とまず違ってくる。無論、松子の過去を知るに従って、そんなんじゃすまされない過酷な人生だと彼にも判ってくるんだけど。
ちなみに、この笙は、原作のお気楽な大学生というキャラから、ミュージシャンになるという夢を追って上京し、今やその夢に挫折しかかっている青年という具合にシフトしている。夢さえもないままに、愛を求めて落ちて行った松子とより対照的に映る。
でも、彼をネガティブに描写するだけで配置するなら、恋人の明日香の存在はいらなかったかも。笙にアイソを尽かすだけで、スター、柴咲コウを出してくるまでもないんじゃない?
海外青年協力隊でウズベキスタンとかも、彼女のキャラが語られないなら大して意味ない。ギャラのむだ使いじゃないのおー。

そんでもって、これだけの長さの原作、松子と恋愛関係で関わる男は六人にも及ぶのだが、実にそのひとりも落とさずにガンガン語っていくんである。
単純化と並列化によって一人の男も落とすことなく進んでいくと、小説の深刻さにヤラれるばかりだったのが、逆に本質が見えてくる。
松子は不幸な女だったんじゃない。毎回「私の人生はこれで終わったと思った」と人生をリセットし、新しい恋を始めることの出来る、何度も充実した人生を味わうことの出来た、タフな女性だったんだ。

笙が伯母の過去を追っていく背景のそこここにテレビがチラチラと映り、火サスチックなサスペンスドラマを演じている片平なぎさがシニカルに配置されてる。長い原作を映画の尺に収めれたこの話は所詮……みたいな自嘲を感じながらも、でもそうじゃない。自嘲に見せることによって、逆に監督の自信を強く感じる。

正直、プロローグと言うべき修学旅行事件のあたりは、ギャグっぽさもこなれてなくてぎこちなく(まあ、順撮りとは限らないから、単に受け手が慣れてないせいかもしれないけど)、松子を演じる中谷美紀も懸命に作っているという感じなのだが、松子が女として生きていくに従って、女のリアルに肉薄してくる。
カラフルでにぎやかなミュージカルに乗せようが、カキワリチックなファンタジーの画面にはめこまれようが、中谷美紀の顔がどんどん、ギャグから松子そのものに切迫していって、こんなニギヤカ映画なのに、思わず胸をつかれるのだ。

中谷美紀、彼女を初めて見たのは利重監督の「ベルリン」だった。あの時は知らなかったけど、当時まだ彼女はデビュー2年目で、監督や共演の永瀬がいくら「キョーコっすよね」と(つまりヒロインそのものと)褒めそやしても、全然ピンとこなかった。
そしてあの時から私は彼女を見るたび、「キョーコだったか?」と思い続けてきた。なんか彼女の魅力が判んなかった。
そして去年の「約三十の嘘」でようやく、ん?と思ったのだ。そして彼女が「松子を演じるために女優を続けてきたのかもしれない」と言わしめたこの役で、ガンコな私もようやく納得した。今年の女優賞は彼女があらいざらいとりまくるに違いない。

んでもって、ね。ちょっと話がトンだけど、つまりは映画は、原作に漂うシリアスさを拒絶したのよね。シリアスに作るとしたら、当然映画の長さじゃ追いつかない。そして多分、どこか一点に重きをおくだろう。当然、キッカケであり終わりであった龍洋一に。
実は、ここんとこがやっぱりネックだったのよね。唯一削った部分、シャブの要素だった。
シャブに関しては、最後から三番目の男、トルコ嬢となった松子とコンビを組むヒモの小野寺が、彼女に教え込む。原作では、トルコ嬢として育て上げてくれた「白夜」の先輩、綾乃がシャブ中の男に殺されたことで、松子はシャブをやめる決心をする。
そのことをめぐって小野寺の裏切りもあり、結局彼を殺してしまうこととなるんだけど、この時点からシャブの要素はすっかり消し去られている。

中学教師だった松子が転落するキッカケとなったのが、教え子の龍洋一が修学旅行で引き起こした事件にあるわけだから、それだけで他の男たちとは比重が全然違うから、シャブをのぞいても彼の存在は確かにゆるぎない。
でも大人になってからの彼と松子の関係を語る時にシャブを抜かしちゃうと、松子にとっての最初の男(同僚の佐伯はデートすらしなかったからのぞく)である八女川と、さして変わらない印象になっちゃうんだよね。

ちなみに八女川とゆーのは、太宰の生まれ変わりだと自称する、文学くずれの男。これを演じているのがクドカンというのが面白い。彼の柔和なイメージと違い、暴力的な男を一直線に演じてる。
欲を言えば、この八女川も暴力ばかりではなく、自己嫌悪に陥って松子に優しくする時があるから彼女は彼を支えようと頑張っているわけだ。でもその部分もソックリ削られてるから、彼女がなぜそこまで彼に入れ込んでいるのか判りづらいウラミはあるのだけど。

で、かつての教え子の龍も、シャブという要素を削られると同じウラミが出てくるんだよね。松子が、いや女が男から離れられない、この男を守りたいと思う感情が愛にプラスされた時、いや愛よりもそっちの方が大きく働くんだもの。
シャブの要素が削られることで、松子を取り立ててくれた先輩トルコ嬢の綾乃との関係も、バッサリ削られたのも残念だった。ま、仕方ないんだけど。尺を考えれば確かに、シリアスに陥りやすいシャブを削るというのは一番判りやすい選択だから。
でもねえ……確かにシャブの要素を切ると、深刻な方に偏らずスムーズにいくのかもしれないけど。光GENJIをプラスするぐらいだったら、多少偏っても入れてほしかったなあ。

あ、もう言っちゃった。先の話になるけど、そうなの。唯一削られたのがシャブで、唯一プラスされたのが、光GENJIなのだ。
全ての男たちから捨てられ希望を失い、ブクブクに太ったキ印寸前のオバサンとなった松子が、光GENJIの内海君に入れこむというエピソードが映画では追加されているのよ。よりによってつけくわえた唯一のものがなんでコレ?
映画が終わった後、後ろにいたカップルのお兄さんの方が、「光GENJIはいらないよなあ」とつぶやいていたのには、「映画を観た後、しばらくは感想言うな運動」を推進してる私も、思わず振り返って、そうだよねと言いそうになっちゃったわ。
それまでの松子の人生に沿って、アポロの月面着陸だの、美空ひばりの死去だのと、時代背景が描かれた延長線上も含め、こんな状況でも彼女はタフだったという強調なのかもしれんが、それまでは自分勝手なりに相手をふんづかまえての恋愛をしていた松子が、少々おかしくなったとはいえ、光GENJIはないと思うんだよね……やっぱり。

またまた話は飛ぶが……あー、時間軸を追って書けばよかったな。
男に捨てられたのがキッカケで、松子がフーゾクの世界に飛び込んでトルコ嬢になり、トップになる。しかし時代の波で素人っぽい女の子がウケるようになり、積み上げてきたキャリアがみるみる落ちていく。……という一連の流れはミュージカル仕立てになってるんだけど、ここは一番判りづらかった。
ミュージカルはストーリーを歌で綴ると思われがちだけど、実は違うんだよね。綴るのは、その人物の心情だからさ。
それに関しては、ある程度展開も入れながらも、彼女のウキウキの気持ちを織り込んだ「Happy Wednesday」が秀逸だった。この歌が、この映画のカラーを100パーセント出してる感じがする。
オープニングがね、「STARRING MIKI NAKATANI」で始まるでしょ。ゴーカな字体で。で、最後もハリウッド映画のラブストーリーがごとく、同じゴーカな字体でのTHE END。その感じがこの「Happy Wednesday」とピタリなんだよなあ。

ちなみに、あまたの男たちの中で、この「Happy Wednesday」で描かれる岡野を演じる劇団ひとりが、私は一番好きなのだ。彼は松子の不倫相手となる男。
中途半端に文学やってる逆タマ男で、自分のプライドのためだけに松子を愛人にし、その体におぼれた、という、エリートのハンパ崩れ、みたいなあたりが、彼の端正になりそうでなれなかったような微妙な風貌にピタリとはまる……って、ホメてんのよ。いやー、この人は得難い役者だと思うよ。凄く、可能性を感じるんだよなあ。

でね、またしても少々話がトンだけど……先輩トルコ嬢の綾乃ね。演じているのがBONNIE PINKで、思いっきりはしょられたトルコ時代の歌を、彼女が「LOVE IS BUBBLE」と歌ってる。
泡とはかなさのバブルをかけたのは上手いし、BONNIE PINKの歌声とビッグバンドの存在感は圧倒的なだけに、あまりに駆け足すぎてもったいないよなあ。ま、そんなこと言ってたら、じゃあどこを縮めるのかって話になっちゃうんだけどさ。
BONNIE PINKがなかなかアダっぽかっただけに、彼女のキャラがシャブを削られたことで大幅に縮小されたのが、なんか残念で。
それに、シャブを削ったことで、せっかく武田真治が演じたヒモもかるーく流されちゃうのももったいないんだよなあ。松子が彼を殺す程のやりとりも当然、薄められちゃうから、ムリが出てくるし。ここは話の流れを優先したと思わざるを得ない……それは最初から判ってるんだけどね。

あー、ヤダなあ。私、この映画が原作にとらわれない傑作だと思ってるのに、こんなグチャグチャ言っちゃうのは、やっぱり原作を読んじゃったせいなのね。
それだけ贅沢な作りになっているってことなのよね。

松子にとっての最も重要な“男性”は、恋愛関係に陥った男ではなく、やはり父親だったのだと思う。
恋愛関係に陥った男たちは、結局は捨てられても、その関係にある時は彼女のことを見てくれた。でも父親は見てくれなかった。
あるいは、振り向いてくれない父親、のことがあったから、松子は男に捨てられても捨てられても、自分の方だけを向いてくれる“恋人”に執着したのかもしれない。
松子の部屋を片付けている時に笙が見つけた、成人式の振り袖姿の松子の写真。目をむいて口を突き出したおどけた表情はセピア色に変わっていて、これがまず松子として出てきたから、ああ、原作とは違うんだなと失望にも似た心構えを余儀なくされた。
でも、確かにギャグ的要素は強いんだけど、父親、それを演じる柄本明に振り向いてもらうことは並大抵の努力じゃいかないんだ。それが映画のラストには深く迫ってくる。

柄本明にはそういうアンビバレンツを感じる。厳格な父。でも情は深い。
でも多分、それは特定の相手に対してだけで、ストレートに愛情を示せる相手以外には、愛していてもとても不器用で……それが松子と妹の久美とで違ってきちゃったんだろうな。それが、柄本明のパーソナリティからにじみ出る。松子を愛していた、それは絶対に本当だよね。
父親は、松子が出て行った日から、日記の最後の最後の一行はいつも同じだった。
「今日も松子からの連絡はなし」

笙は、伯母の過去をさかのぼり、松子を最後まで気遣ってくれた友人、めぐみと、そして最後の男、龍に出会う。
めぐみを演じる黒沢あすか、カッコ良かったな。AV業界の女王である彼女、笙も彼女の主演ビデオを借りてたりする小ネタが効いている。
めぐみは松子の死の真相を知ろうと、笙に接触する。気心が知れた最後には、“大人のキス”のレロレロキッスで笙をメロメロにするあたり、いいわあ。

彼女のこの台詞が、全てを語るのだ。
「あの時のまっちゃんがあんまりキレイだったから」
この“あの時”っていうのは、龍洋一に暴力をふるわれた松子を心配しためぐみから、彼との付き合いを止めるべきだと言われた松子が、「私は彼と一緒に地獄までだってついていく」と言い返した場面である。
このシーンは、めぐみが訪ねる視点と、後に松子の部屋からの視点でもう一度示される。確かに、松子は壮絶にキレイだ。中谷美紀は、もう、カンペキに、1,000パーセント、松子を掴んでる。鳥肌が立つ。

回想シーンでの、松子とめぐみのこんなシーンも良かった。美容室アカネでの再会から、酒を飲んで二人はしゃぎまくる。初めてのAV撮影に強がっていたのを松子に見抜かれ、彼女に手を握られながら嗚咽するめぐみ。中谷美紀と黒沢あすかの魂が響く演技に胸を打たれる。確かに心が通い合っていた親友だったのに。
松子が、こういう幼さを克服できてれば、本当に親友になれたんだろうな。松子は、やっぱり幼さがあったよね。
めぐみとは親友にはなれない、そう思ったのは、彼女が安らげる相手を見つけていたから。
松子はいくら恋愛する相手を見つけても、そういう存在にはなれないと本能的に判っていた。でもそれで友人を遠ざけてしまうのが、松子の悲しさであり、先々待ち受ける運命を避けられない本質なんだ。

龍洋一は、再度の刑務所で神と出会う。その前に出所した時、待っていてくれた松子の愛のまぶしさを拒絶して、人を殺して、また刑務所に入ってしまった。聖書に出会い、神に出会い、全てを許してくれる神の存在を、松子だと感じる。
これは映画のオリジナル。龍の起こした殺人事件は、原作では全てのきっかけの昔々にさかのぼるんだけれど、映画ではそれは避けられ、松子の愛に応えられない自分のもどかしさが、いきあたりばったりの殺人になったと処理されている。そこでいったん、龍の贖罪が薄められたように感じたのは事実。
でも、原作での「ふりだしに戻ったドロドロの不幸」を取り除いたことで、シリアスに陥りそうなところを避けて見えてきた、本質だったんじゃないかと思う。
龍は、全てを超越して自分を許し、愛してくれる松子を神だと思った。そして松子は、ずっと疎ましく思っていた久美が自分にとって、全てを許してくれる神だということに気づいた。
“ふりだしに戻った”原作を読んだ時には気づかなかったことだ。

その、久美である。松子の妹。最終的には、松子にとって最も重要な人物である。父親より、愛した男たちより、最後の運命の男、松子が死んだ後でも彼女のことを愛し続けてくれた龍洋一よりも。
病弱な妹の久美。父親に無条件に愛されている妹を、松子は疎ましく思ってた。でも、久美はどんなことがあっても、お姉ちゃんが帰ってくることをずっと待ってた。お姉ちゃんが大好きだった。
久美が死んだことを弟から聞かされた時、松子は父親の死を知った時より号泣した。この時の中谷美紀にも凄く……胸が詰まった。無条件で、なんのしがらみもなく愛してくれた唯一の人。
演じる市川実日子が、凄く凄く、イイのだ。原作とは違うテイストだけど、原作よりイイ。

そして、松子があっちの世界に行った時、久美が「お帰り」と出迎えてくれた原作のラストが、凄く幸せだった。だから映画でもそれを踏襲してくれたのが嬉しかった。
しかも、松子が死ぬ直前の幻想の中、久美のボサボサの髪を自慢の腕でととのえたオシャレなボブカットのいでたちで。そして松子は中学教師をしていた、久美となんのしがらみもなく仲が良かった頃の姿で。久美の待つ二階への階段を登って、「ただいま」と言うのだ。
いや、二階じゃない。それは天上への階段だ。松子は、まっすぐに登ってゆく。長い長い階段だけれど、とても幸福そうに登ってゆく。その先には自分を無条件に受け入れてくれる人がいる。これが天国。全てが許されるのだ。

ところでね。笙なんだけど、松子が死んだ川の土手で気づくんだよね。「荒川は筑後川に似てるんだよ」そう、父親に電話する。
「松子伯母さんに、一度会いたかったな」すると父親、「お前は一度会ってるんだよ」と。
松子が龍に去られた後、一度故郷に帰る回想シーンがある。そこで久美が死んだことを聞かされた。父親が死んだと聞かされた時より、松子は号泣したあの場面で、笙はこのキレイな女の人が自分の伯母だとも知らず、その小さな手を父親に引かれていた。
そしてあてどなく電車に乗った松子は、故郷の川に似た荒川を見つけ、結局ここが終のすみかになったのだ。
……ここでせっかく泣きそうだったのに、光GENJIに行くんだもんなー。

今更ながら中島監督のフィルモグラフィーに驚いたりする。デビューのオムニバス、「バカヤロー!」も見てるし、「夏時間の大人たち」も「Beautiful Sunday」も観てたけど、全然ピンと来てなかった。
シャレたウィットが懲りすぎてて、なんだかサッパリ判んなかったし、「Beautiful Sunday」あたりには、そのもどかしさに憤りさえ感じてたぐらい。
その後、数年もの時を経て、「下妻物語」でいきなりハジけた。あまりにハジけてたから、その前に監督作品を観ていたことさえ気づかなかった。

カラフルで現実感のない画面は「下妻」もそうなのだけど、本作はもっと徹底的。“こんな自分勝手な女”松子の主観で全てが構築されているから。
監督のゆるぎなさを感じる。撮影中に中谷氏との激しいバトルがあったということだけど、これがこんな濃密に結実したなら、何も言うことはないよなあ……。
「曲げて、伸ばして。お星様を……」幼い松子が歌っていた、疑いなく夢見ていた少女の夢の、テーマソングともいえるこの歌を、最後にはすべての男たちが歌っているのが、グググッ!!!と来た。

これは外に持っていきたい!無難で観客にゆだねることが第一のキラキラなばかりの近頃の韓国映画あたりに、ドーン!と突きつけたい!日本映画が負けるわけがないのだッ!★★★★★


キンキーブーツKINKY BOOTS
2006年 104分 イギリス カラー
監督:ジュリアン・ジャロルド 脚本:ティム・ファース/ジェフ・ディーン
撮影:エイジル・ブリルド 音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:ジョエル・エドガートン/キウェテル・イジョフォー/サラ=ジェーン・ボッツ/ユアン・フーパー/リンダ・バセット/ニック・フロスト/ジャミア・ルーパー

2006/9/10/日 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
イギリスはほおんとに労働者の映画が上手いよなー。今の日本やアメリカじゃ絶対作れない。
なんでだろうと考える……役者の顔じゃないかと思われる。アメリカにしても日本にしても、やはりスターの顔をしている役者が多いのよ。オーラにしても、本当に、普通に、働いている人間をリアリティを持って演じられる役者が少ない。
というか、映画界に出ている役者の中には少ない。その点、イギリス映画には労働者の顔をした役者がちゃんといる。そんな感じがする。
だって、この主人公のお兄ちゃんだって、ぱっと顔を見た時は正直、えっ、と思っちゃったもんね。えー、このお顔で主人公、大丈夫なのって……なんて失礼な。
でも大丈夫なんだよね。最後には結構カッコ良く見えるんだもん。

役者はリアリティのある労働者の顔をしていても、物語はなかなかにユーモアに満ちているんである。しかもこれが事実に基づいたお話だっていうんだから!
田舎町ノーサンプトンで経営危機に陥った紳士靴のプライス社が、起死回生を図ってニッチ市場を狙った、それはドラァグクイーン御用達のキンキーブーツ!
つまり、女王様ブーツと呼ばれているアレである。ハデなエナメル素材にスーパーヒールの、セクシーなロングブーツ。
実際、ノーサンプトンは靴の工場がひしめく、靴の街であり、靴の聖地なんだって。そして海外から安い靴が輸入される現代、小さな工場たちは多かれ少なかれこういう危機に瀕しているんだという。だからこそこの物語が実際に生まれたのだ。

さて、主人公のチャーリーが工場の危機を知るのは、本当に突然。
彼も小さな頃から靴を愛していた。世界で一番美しいものだと思っていた。でもまだまだ若輩者の彼は、工場の仲間たちにも職人としての才覚ナシ!なんて軽く見られているぐらいだし、婚約者と一緒にロンドンに旅立ったばかりだったのだ。
社長である父親が突然死んだ、との知らせが入る。突然、若社長に持ち上げられるチャーリー。

しかしその内情を知ってビックリ。不良在庫がたんまりある上に、それを職人たちには言わず、そのまま生産を続けさせていたのだ。
このままでは、工場は遠からず倒れてしまう。チャーリーはロンドンに飛んで取引先を当たったり、何とか打開策をひねり出そうとするんだけど、にっちもさっちも行かなくて、断腸の思いで15人の職人のリストラを図る。
その最後の一人、若い女子工員のローレン(ショートヘアがキュート!)が言い放った言葉が、チャーリーに光を見い出させたのだ。
「何が出来る?って、一体何をしたの?他の工場は登山靴とかニッチな市場を見い出して、活路を開いてる。あなたは何もしていないじゃない」
そのコトバが頭にこびりついていたチャーリー、ロンドンのソーホーでの出会いがそのニッチな市場を見い出すことになるのだ。
ドラァグクイーンのローラ!

つまり、労働者たちのひしめくこの物語の中で、ローラだけがスターだっていうこと。それが大事なのよね。
かなりたくましいアフリカ系の“美女”、圧倒的な存在感で舞台で歌い踊るローラには、まさしくディーバの称号がよく似合う。
ローラと出会ったのは、“彼女”がチンピラたちに絡まれていると思ったから。しかし、助けるつもりが助けられた。もう腕っぷし強い強い(笑)。
ローラはこの時点で多分チャーリーにひと目惚れよね。あ、ドラァグクイーンだっていう言い方しかされてないけど、多分ローラは同性愛者だろうと思われるし。
チャーリーはローラが女性用の靴を苦労して履いているのを見て、胸元からさっと靴道具を取り出し(笑)、靴ベラを渡す。
このあたり、チャーリーへの靴への愛をすっごく感じて、なんかだんだんこの頼りない主人公のこと、ローラ同様好きになってっちゃうんである。

それはね、一方でチャーリーの靴への愛情を判っていない、婚約者の存在もあってのことなんだけどね。
キャリアウーマンである婚約者のニコラは、最初からこの靴工場に関してはいい感情を持ってないの。それは多分、チャーリーがその工場に心をとらわれているというのもあるんだろう。二人一緒にロンドンに住むことになった時、「靴のことも忘れて」とやけに嬉しそうだったもん。
工場が傾きかけていることを知った彼女は、売却すべきだと彼に執拗に勧める。結婚式だって豪華にやりたい。あなたのお父さんだって実は売却の話を進めていたんだから、あなたが恥ずかしがることないのよ、なんてさ。

判ってないんだよねー。チャーリーがこの工場を売りたくないのは、見得からじゃない。それこそ見得は、彼のお父さんの方が存分にあったのだ。表面上は人格者として、職人たちに慕われていたお父さんの方が。
チャーリーは、本当に靴を愛しているんだもの。そして一緒に仲間として働いてきた職人たちのことも、大事に思ってる。自分の才覚のなさから15人の職人を切らざるを得なかった時、「人生最悪の経験」とひどく落ち込んでた。
ニコラは金が全て、金持ちの男との結婚が全ての女。だって結局、彼女の望む選択をしないチャーリーを捨てて、金持ち青年の元に走ってしまうんだもん。
うー、こういう、いかにもな女性の造形はちょっとな……凄いステロタイプ。まあ、だからこそローラや、そしてチャーリーと真の意味でパートナーになるローレンの存在が立つわけだけどさ。

ちょっと話が先走ってしまったが。んでね、チャーリーはキッカケをくれたニコラを呼び戻し、自分のアイディアを相談するのね。そしてローラの舞台を見せ、とにかくローラの靴を一足作ってみようじゃないかという話になる。
まずはローラに事情を相談である。「体重はいくつ?」あからさまに苦い顔をするローラ。「失礼ね」「違うよ。君は女性の靴をはいているんだろ。男性の体重で女性の靴に力がかかると壊れてしまう。それで困っているんじゃないのか?」
ローラのサイズを採りながら、ニコラ、ふと気づいてチャーリーに耳打ち。
「振り返ってみて。ニッチな市場よ」あまたのドラァグクイーンたちが、彼らの作業を食い入るように注目してる、凄い迫力!半分ビビリ気味でチャーリー「意外と大きい市場かも……」

でも、チャーリーが最初に作った試作品は、ローラにケチョンケチョンにけなされるのだ。しかもローラは、この田舎町に単身乗り込んできた。チャーリーが自ら届けると言ったのに。
突然乗り込んできた“美女”に、保守的な街の住人である彼らは、もう目が点である。
しかもこの試作品へのミソが、工場内にマイクを通してビンビンに響き渡るんである。
「こんな、ウクライナのおばあちゃんが履くような靴は履きたくないの!」
その靴は、上品なスエードに渋めの赤で、かかとは低く、ガッチリとしている。つまりチャーリーは、あくまで男性の体重を支えることを念頭に、そして上品な女性を無意識に意識して作ったんであろうと思われる。

「赤よ!セックスの色よ!そしてヒールが命なのよ!」もー、ローラのこんなセキララな言葉が、工場の皆に聞こえまくり。でもね、この時点で多分、女たちは心の中でうなづいていたんだろうなあと思われるわけ。
だってね、女性工員たちの方が、ローラをすんなりと受け入れるんだもん。やはり同じ「女」だからかな。女の気持ちが判ることを感じたんじゃないのかな。
それにローラのデザインする「特殊な男」の履く靴は、当然、女の目から見てもため息が出るほどセクシーで美しいんだもの。ローラのにはちゃんとムチ付きだし!

チャーリーは、ローラの主張と彼女がさらさらと描いたデザイン画に、この華奢なヒールじゃ男の体重を支えられないと思うんだけど、そばで見ていたベテラン職人であるジョージは、連続した金属の芯を入れればいい、とつぶやく。
そう、彼は職人魂を触発されちゃったのだ。思えば今まで、長年紳士靴ばかりをルーティンワークで作ってきた。腕は確かだけど、その決まりきった工程に埋没しちゃっていた。きっともう、久々にワクワクしたのだ。長年靴を作り続けてきたからこそ、どんな靴だって作れる!っていう自信。
一方で、この“特殊な男”に反発を隠しきれないのは、働き盛りの男たちの一団。ローラの出現はつまり、男の価値観が根底から崩されるってことであり、心中穏やかではないのだ。
だって女たちは、女心の判るローラの方が男として魅力的だと言わんばかりだし、どんなに揶揄してもローラは堂々としているんだもの。

いや……この工場に“出勤”してきた当初、ローラは小さくなってた。バッチリメイクにドレスを着れば、どんなに大勢の前でも堂々としていられるのに、ジーンズをはいてただの男になったら、まったく逆になってしまう。そして“男子トイレ”に閉じこもってしまう。
そんなローラに、チャーリーは昔語りをする。自分も本当の自分と、社長としてまつり上げられた自分のギャップに苦しんでいると。それは社長の息子として育ってきた子供の頃から同じ、そう、君と同じなんだと。
ローラはチャーリーに真に心を許し、胸を張って堂々とこの工場の中を闊歩するようになるんである。

んでもって、この男たち、ことにマッチョを自慢にしているドンもローラを認めるようになったのは、売り言葉に買い言葉で対決することになった腕相撲。
ドンはここ数年、この町の腕相撲チャンピオンなんである。
黒山の人だかりの中、互角の勝負が続き、しかしドンがローラの腕を組み伏して勝利した。
でもドンは気づいてた。ローラが力を抜いたこと。
なぜだ、と問うドンに、ローラはにっこりと笑ってこう言うのだ。「軽蔑されるところを見たくなかったの。あれはキツイものよ」
辛酸をなめてきた彼女だからこそイヤミにならず、真実味を持って言える台詞。ドンは思わず考え込んでしまう。
その時から、ローラをからかうようなことはしなくなった。そしてチャーリーがピンチの時に、心配りをしてくれさえするのだ。

そのピンチというのは、ミラノの国際見本市に出品する靴が、残業をしてもらわなければ間に合わない、という事態でのこと。
完璧なものを出して、ミラノでインパクトを与えて、一気に工場を再生したい。そのためにベテラン職人に厳しい注文を繰り返したチャーリー、「ミラノ、ミラノって、行ったこともなくて判らないくせに!」と彼らからキレられちゃうんである。
「あなたのお父さんは人間ができていたわ」「僕は父とは違う人間だ」「本当にそうね」あうー……最悪。
だって、このお父さんはそういう、できた人間の表面しか職人たちに見せてなかったんだからさあ。

でもチャーリーは、それは彼らに一切もらさない。エライ!父親の片腕だったジョージだけは知ってたことだけど。
だってさ、前社長が外見だけいいように見せていたなんて、社員が傷つくから言えないもの。
満足のいく商品が出来ないまま、職人たちは皆帰路についてしまう。もう工場の借金はにっちもさっちもいかなくなって、チャーリーは自宅を担保に入れていたのだ。まさに背水の陣。
それを責めるニコラとも大ゲンカ。工場でまたしてもマイクのスイッチ入っちゃって、一人残っていたドンに一切合財聞かれてしまう。「こんなポルノ用品を作ってまで!」と涙ながらにチャーリーを責めるニコラ。
「ニコラはチャーリーのことが理解できないんだ!」チャーリーはそんな、第三者的な言い方で斬って返す。

でも、ニコラだって、靴は好きなはずなのに。ウィンドウに飾られたシャレた赤い靴に執心してた。でも彼の工場の靴には確かに興味がなかったのか……紳士靴だったし。
で、まあドンはこのやりとりを聞いていて、チャーリーの真剣な思いが判ったから、皆を招集してくれるのだ。
工場に明かりがついているのを見てビックリのチャーリー、ローレンに、君が集めてくれたのか、と問うと彼女はニッコリ、「あなたが動かしたのよ」
おごそかにブーツを差し出す職人たち。チャーリーのチェックを息を呑んで見守っている。そして……。
「ミラノの男のOKが出たわよ!」
後はミラノに乗り込んで、ローラたちのショーをブチかましてやるだけ!のハズが……。

もー、チャーリーはバカなんだから。ローラとケンカしちゃうのだ。
というのも、ニコラがあの金持ち青年の元に行っちゃって、動揺したことが原因。同じレストランで待ち合わせていたニコラは慌てて、シンデレラがごとくあの赤い靴の片割れを落としていってしまったのだ。
そこに、久しぶりにドレスでめかしこんだローラが現われる。ミラノに行く前の景気づけにと誘ったのは彼女の方だった。もしかしたら、ローラもまた武者震いしていたのかもしれない。
でもチャーリーは、これはもう八つ当たりだよね。だめだよー、あんなこと言っちゃ。
「君はただ、ドレスを着た男だ。『どちらの性のいいところも楽しみたいの』だって?どちらかに決めるのが怖いだけだろ!」
ローラはチャーリーをいつだって奮い立たせてくれたから、こんなこと言われたって威勢良くぶっ飛ばしてくれるのかと思ったら……凄く傷ついた顔をするんだもん。
そして、ミラノの直前だというのに、もう出発だというのに、そのまま別れてしまう二人。

チャーリーがこんなこと言っちゃったのは、自分自身にこそ、急激に自信がなくなっちゃったからなんだよね。ニコラが、彼の価値観にどうしても合わせられないと言って、去ってしまったから。
チャーリー自身がそうしたいと思って、仲間とともに頑張ってきたのに。でも、ミラノでの成功もまだ見えなくて、だから、自分が信じてやってきたことはひょっとしたら間違いだったんじゃないかって、この自信のないバカは思っちゃったに違いないのだ。
でもさ、ニコラの価値観とは合わせられないの、判ってたのに、彼女がその理由で去ると、取り乱してしまうなんて、ホント、バカよ。あんたにはローラと、仲間と、そして何よりあんたにホレてるローレンがいるのに!!!

まあ、まてまて、焦るなっちゅーに。心配ないのさ。これ以上ない、ドラマチックなクライマックスが用意されているんだから!
ローレンはこんな事態になってるなんて思いもよらないから、ローラは途中から合流すると思っている。展示会では、飾ると折れてしまうブーツは思うように目立たないんだけど、「ショーで人が履けば判るわ」となんたってあのローラがダンサーを引き連れてくるんだから、と自信満々。
いたたまれなくなったチャーリーは、コトの次第を白状する。ローレン、激怒。「またあなたは、『何が出来る?』と言うの?」
チャーリーはローラの携帯に電話してみるも、留守電。ついに彼は一大決心。ま、まさか……。
同行してきたジョージは心配しきり。「若様は大丈夫なのか?」
ローレン、ニッコリと、「いい感じにセクシーよ」
まっ、まさかっ!

そのまさか。チャーリーは社長自らセクシーなキンキー・ブーツを履いて、ステージに出ようってんである!
進行係の男性が心配顔で、チャーリーを舞台ソデまで連れてきてくれるのがなんとも可笑しい。
スーツの上着はそのままで、パンツ一丁、その足に赤いキンキー・ブーツ!うわあ、なんでスーツのままなの。セクシーっつーか、これじゃヘンタイっぽい!
しかも、壊滅的にヘッピリ腰なの。フラフラでバランスが取れない。チャーリーが最初に作った、「ウクライナのおばあちゃんの履く」安定したブーツを、ここで思い出したりしちゃうのだ。そう、このヒールが命。女と“特殊な男”は、その命のヒールで颯爽と歩くのだ。
チャーリーはさ、あれだけ世界一美しいものは靴だと言っていたのに、そんな美しい紳士靴は履かず、いつも汚いシューズはいてたんだよね。
それは、やっぱりそんな美しい靴を作ることが自分に出来ない、そんな器じゃないというコンプレックスだったと思う。
それが、この真っ赤なセクシーブーツを履くことになろうとは!

んでもってチャーリー、もんどりうって転倒までしてしまう。失笑がこぼれ、ローレンも思わず顔を覆う。
でもねでもね、このチャーリーのこっけいな姿とコケがあるからこそ、その後、お約束で登場したローラたちのステージが心躍り、感動するのだっ。

あー、やっとご登場だよ、ローラ一団!チャーリーが必死の思いで入れた留守電のメッセージに応える形で、駆けつけてくれたの。コケてはいつくばったままのチャーリーをまたぎまくって(笑)、ゴージャスな歌とダンスで拍手喝采っ!インパクト充分!
あのね、この映画は、ローラの少年?時代からスタートしてるのよ。厳格な父親は、男らしく“息子”を育てたかった。でもローラはどうしてもそれがイヤで、キレイな靴を履いて楽しそうに桟橋で踊ってた。
そう、この姿こそ、ローラの生きる姿そのものなのだ。何も、迷う必要も、恥じる必要もないのだ。
心配顔から笑顔に変わったローレンを客席に見つけたローラ、舞台に上げてやる。「彼のところに行ってあげなさい」同じ女として、同じ男にホレてる彼女の気持ちを見抜いていたんだろうなあ。
チャーリーを抱き起こし、キスを交わす二人に会場は更に拍手喝采!しかし画面から見切れてるとはいえ、チャーリーがキンキー・ブーツを履いたままだと思うと凄く可笑しいんだけど(笑)。ローラはどこか寂しそうな、でも満足そうな顔で二人のキスシーンを見守ってる。

ラストは工場の皆でロンドンの、ローラの店で彼女のステージを見に来てる。もう皆すっかり仲間だし、そこで働き続けることを決めたローラもまた、自分と仲間たちを誇りに思ってる。ドラァグクイーンたちの間では、キンキー工場は尊敬の的なんだもんね。
しかもしかも、職人の男性陣、ことにあのマッチョなドンがキンキー・ブーツをしっかり履いてきてるのがイイのよー(笑)。
皆で踊りまくるラストは、笑顔が満載で、ハッピーこの上なし!

ローラがチャーリーに最初に教えた、「何があっても「大丈夫だよ、ローラ」と言わなきゃダメよ」って台詞が、凄く印象的だった。
昨今はこういう、大きくかまえられる男がいなさすぎるわけ。チャーリーの口癖だった「何が出来る?」というネガティブな言葉が象徴するようにね。たとえ大丈夫じゃなくても、大丈夫とまず言っちゃって、そこから自力で大丈夫にしていけばいい。
そう、チャーリーは、「もう、『何が出来る?』は言わない」と宣言した。それこそが社長の器なのさ!職人としては使えなくても、社長としては先代より向いてたんだよね。父親の後始末をし、さらに未来へ飛躍する個性のある工場へと育て上げたんだもん。グッジョブだよ、チャーリー!★★★☆☆


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