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「い」


2009年鑑賞作品

生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
1985年 105分 日本 カラー
監督:森崎東 脚本:近藤昭二 森崎東 大原清秀
撮影:浜田毅 音楽:宇崎竜童
出演:倍賞美津子 原田芳雄 平田満 片石隆弘 竹本幸恵 久野真平 上原由恵 泉谷しげる 梅宮辰夫 河原さぶ 小林稔侍 唐沢民賢 左とん平 水上功治 小林トシエ 乱孝寿 辻伊萬里 ジュビー・シバリオス 片岡五郎 伊藤公子 久本念 明石麻弥子 重松収 新間正次 大塚尚児 殿山泰司


2009/1/23/金(渋谷シネマヴェーラ)
そういえばこのタイトルは聞いたことはあるけれど、まさかこんな重い話だとは……ビックリした。私、ダメだな、森崎監督というと釣りバカのイメージしかないんだもの(爆。一本しか撮ってないのに)。こんな、挑戦的な映画を撮る人だなんて、知らなかった。ビックリした……。まさしくATG。

テーマは原発。その危険を、恐ろしさを、その中で翻弄される貧しく弱い人たちを、そしてそれらをまとめて隠蔽しようとする国や自治体や組織という大きな力を、凄まじい腰の据わり方で描いてる。
私も福島という原発のある県で育ったので(すんでる場所はかなり遠かったけど)、劇中にも福島の地名は出てくるし、何だかちょっとゾクリとくるものがあった。ていうか、こんな映画を作れること自体が凄いと思うけど……だって、これって、こんなことはしていない、言われなき中傷だと非難されたらおしまいじゃない。

でも確かに、そう言わせないだけの力というか……どこか、荒唐無稽に思わせるベクトルはあるかもしれない。無論、荒唐無稽だの、ファンタジーだのと思ってこんな凄い映画を作れる筈もないんだけど、あまりに凄まじすぎて一種のお伽噺と言われたらそうかもしれない、なんていうのは皮肉なのだろうか?
でも劇中、墓の中から死んだ筈の人間がヒョッコリ現われるシーンなんて、勿論そうなった経緯を考えればファンタジーどころじゃないんだけど、でもなんだかやっぱり夢のようで、……彼らが幸せを求めて、楽園を求めて、海岸を逃亡中に殺されてしまうのさえ、哀しきお伽噺のように思えて。

なんて、つらつらと言っていると、またまたどんな話なのかさっぱり判らないワケだが(爆)。でもね私、まさか最初はこんな話だなんて思いも寄らなかった。原発が出てくるなんてね。
冒頭は、不良高校生たちの、修学旅行積立金強奪のシークエンスなのよ。その人質として捕らえられたのが、彼らの担任の野呂教諭で、演じているのが愛しき平田満。
彼はほおんと、今でも、そしてこの頃から、なんとも癒し系である。それがこんな風に弱々しさを前提にして出てくると、最初は情けないなーなんて思うんだけど、それはそれだけじゃなく、彼の中の優しさや確固とした愛情から出てくるんだと判ってくると、もう無性に愛しくなってしまうのだ。

野呂教諭はこの事件で、学校側から不良学生ともども始末されてしまって、そう、つまりは彼も共謀したんだとされて、解雇されてしまう。
彼を人質にしたのはつまり、不良学生たちもこの弱っちい担任を、彼だけは自分たちのことを考えてくれていると思ったからなのに……もう既にここで、大きな力にどう抗おうとも下位の人間は否応なしに潰されてしまうという現実が示されているんだよね。

この不良学生のうちの一人はバーバラ(倍賞美津子)の弟の正で、もう一人のタマ枝は、旅回りのストリッパーであるバーバラが拠点としている、名古屋の飲み屋を経営しているタケ子の娘である。
次のシークエンスは、バーバラが旅から帰ってきて、もう踊り子はヤメた。もう今度こそやめるの、とタケ子相手に宣言している場面。しかし彼女の恋人、宮里と親友のアイコはいなかった。
宮里っていうのは、後に判ることなんだけど、彼こそが原発を象徴する存在なんだよね。バーバラが旅回りのストリッパーなら、自分は原発を渡り歩くジプシーになると、各地の原発で働きながら彼女と落ち合い、激しい愛を重ねてきた。
その話を、後に彼女にホレてしまった野呂教諭が聞き、その赤裸々さに身を縮こまらせる。ってあたりがいかにも平田満で、ますます愛しくなっちゃうんである。で、その赤裸々もまた、いかにも原田芳雄と倍賞美津子で、もー、ドキドキしちゃうんだよね。

原田芳雄は、他の同期の役者たちが多かれ少なかれその時代の、今の目から見るとアナクロに見えるファッションなり髪型なり雰囲気なり、をまとっているのに対して、彼は今も昔も原田芳雄ナリ!てのが素晴らしい、凄いなー、と思って。
原田芳雄のこの野性味、男臭さ、でもその中になんか愛すべき落としどころがあるような雰囲気は、今も昔も変わらないんだよね。
で、対する倍賞美津子は、これまた今も昔も変わらぬセクシーなハスキーボイスと、さすがに今は見ることの出来ないダイナマイトなボディーを惜しげもなく見せてくれる。
彼女の声はホント、独特なんだよなー。それだけで、姐さん!て感じ。妹なのに(爆)。
アネゴ肌なんだよね、ホント。色っぽいだけじゃなくて、厳しいだけじゃなくて、情にもろくて、ムチャをしちゃう。それは、彼女の親友の、恐らくちょっと頭がヨワイらしいアイコに対してもそうだし、そのアイコが大きな力によって無残に殺された後は、アイコと同じように娼婦として生きるしかなかったフィリピン人のマリアに対しても……自分は幸せをつかむことが出来なかったのに。

宮里は一方でヤクザでもあり、美浜で娼婦をやっていたアイコを足抜けさせて名古屋に連れてきていたんだけど、アイコはそのまま美浜に帰ってしまう。なもんでバーバラは、アイコを売り渡したと思い込み怒るんだけど、アイコはそこに、愛する男がいたんだよね。
それが、“一度は死んだ男”安次であり、これを演じるのがなんとビックリ、泉谷しげるである。
原発工場で事故に遭い、被爆した彼は、その事故を隠蔽する“大きな力”から逃れるために死んだことになり、実際墓場に入ったんであった。アイコが安次と結婚するんだと墓場に花嫁衣裳を携えて訪れた時は、かわいそうに、いよいよ頭がイカれてしまったと思った。
バーバラと野呂教諭が仲人になってやる、と、まあアイコの妄想に付き合ってあげるぐらいの気持ちで行ったら、その墓の中から声が聞こえて、ボコッと男の手が出てきた時にはビックリ仰天、腰砕け!
ここは思わず噴き出してしまう。野呂教諭=平田満の「本日はお日柄もよく……」などというオマヌケなお約束な台詞もおかしいしさあ。でもこれは……本当に大きな重大なことが、ここに全てふくまれていたんだよね。

ところでこの野呂教諭、学校から解雇されて、バーバラも宮里と結婚するつもりがアイコの件でケンカ別れして、成り行きで野呂教諭をかばん持ちにして一緒に旅することになって、この美浜に流れ着いたのだ。
職業柄、男からはいつもソウイウ視線でしか見られたことがなかったバーバラは、野呂教諭にひと筋の安らぎを見い出す。だって彼ったら、廊下で寝ようとするもんだからバーバラが「先生、布団で寝たら」と中に招きよせ、それでもバーバラと一緒の布団の中で、身体を小さく縮こまらせているんだもの……こんな男にグッと来ないわけにはいかないじゃないのお。
でもそれは、あくまで、バーバラがホレている宮里とあまりにも違うからこそ、なんだよね。バーバラは宮里にホレきってて、だから彼が彼女から離れた時、一人になった時、彼の存在を否定出来る、彼とは正反対の野呂教諭に価値を見い出そうとする。それが……切ないんだ。

野呂教諭も原発の工場に入り込み、そのヒドさを目の当たりにする。宮里のような原発ジプシーたちが使い捨てにされるさまを。
ひょっとして、ひょっとしたら……これって本当に、現実の、ことだったのだろうか?今原発に対して妙に国や報道でさえも慎重になっているのは、だからなのだろうか?
日本は資源がない国だから、原発はコストパフォーマンスとして非常に魅力的な方法であるということは……それこそ福島で育った私はよく耳にした。それにはこんな過去が実は本当に、ひっそりと存在していたのか……?

なんて、お伽噺のようだとさえ一方で思いながらもそう感じてしまうのは、今問題になっている、使い捨てにされている派遣労働者とあまりにも重なってしまうからなのだ。
被爆という壮絶な危険と同じに語るのはアレかもしれないけど……でも国や自治体や企業にとっての、“その場しのぎで自由に使える労働者”たちが、思いがけない急激な不況で、人間とも思っていなかった彼らが思いがけず権利を主張しだしたことへの困惑が、あまりにソックリで……。
そう、こんなことにならなければ、大きな力にとっては彼らは人間ですらないのだ。タイムスケジュールに刻印される、工場の部品程度。そう思っているのがあからさまに見えてしまうところが、あまりにソックリで。

被爆事故に遭った時の描写が凄まじい。事故はひたすら隠蔽されるから、被爆者はほっておかれる。仲間たちが傷を亀の子タワシでゴシゴシ洗ってくれる。キズに放射能が入らないようにと。想像しただけで背中に悪寒が走るようなシーン。
そんな方法で被爆から逃れられる訳もないのだが、そのせめて、という思いがあまりに生々しくてゾッとする。
そんな具合で宮里の身体もボロボロだった。しかもアイコの(安次はもう死んだことになっているから……)殺しの罪を着せられそうになった。つまりは……ヤクザも警察も、大きな力につながっているから。

一方でバーバラは、せめてマリアを助け出したいと思う。しかしアイコの母は、あんたは単なる踊り子、そのことをわきまえないとアカン、とキツく言い渡す。この場面は辛くて……だって、アイコを助けたいと思っていた思いが無残に打ち砕かれた直後だったんだもの。
しかもマリアは、いわばこの大きな問題の一端に過ぎない。フィリピンからの不法就労者、バーバラにとってだって、フィリピンからの出稼ぎ芸人たちはやたら安い賃金で働くもんだから、食い扶持をそがれてイイ迷惑なんだよね。
それでもバーバラは……バーバラを慕うマリアを、言葉も判らずについてまわる彼女をむげに出来ない。アイコの母親は、「あの子はカップラーメンを食べてさえいれば幸せなんや」とバーバラの“おせっかい”を牽制するんだけど、そんなことを聞いてしまったら、余計にほっておけなくなる。
この言葉の通じない日本で、心細い思いをしている彼女が、感覚だけで慕っている自分を慕っているのを、ほっておける訳がない、と。

で、バーバラはタケ子に岡惚れしている船長(殿山泰司!)に頼んで、フィリピンへと密航させようとする訳で……。
殿山泰司はほおんと、この重い物語の中の一服の清涼剤だよねー。女手ひとつでタマ枝を育て上げた、つまりは男に捨てられたタケ子を、どうやらずっと口説き続けていたらしい。時には一緒に逃げようとかき口説いたことさえあるらしい(!)。だけど、それを娘とのケンカの材料として皆の前で暴露される切なさでさ。
彼女の手をさりげなーくナデナデしても、当の本人は勿論、周囲も、いやー、船長にはムリだよな、って思われている雰囲気が濃厚なのがさ(笑)。
この当時、殿山泰司も当然いい年で、ていうかまんまおじいちゃんでさ、それでも恋に生きているのがなんともグッときちゃうのよねー。

ここは名古屋の中の沖縄集落で、まるでこの物語のテーマソンングみたいに「私があなたにホレたのは、ちょうど19のときでした〜♪」とサンシンで常に歌われるんだよね。
バーバラと宮里の出会いは、この歌に歌われる沖縄の、コザという地での暴動がきっかけで、まさにバーバラはその時19だったから、この歌にとても思い入れがあるみたいで……。
クライマックス、マリアを密航させる港で、宮里が自分を見限った警察との銃撃戦でも、この歌が印象的に使われる。
どこから手に入れたのかマシンガンを手にして、バーバラとの愛の巣である飲み屋の二階に現われた宮里。美浜で野呂とバーバラの“未遂”場面でも息をひそめていた彼は、野呂とは妙に同志みたいな気分を持っていたのか、バーバラにホレた彼に、牽制とも忠告ともつかない、バーバラとの愛の日々を聞かせるんだよね。
でもさ、それはやっぱり……野呂にバーバラを託したんじゃないかなあ?

追って来た刑事(くるくるパーマの小林稔侍!)を撃ち殺し、もういよいよ進退窮まった宮里は、警察によって抹殺され……。だけどその場面、バーバラは彼の替わりに……マシンガンをぶっ放し続けるのだ。何人も何人も。
ついに人殺しになってしまった宮里に、会えなくなると憂いていた彼女とは思えない行動に出るのだ。でも恐らく、いや絶対、こんな事態を隠蔽していた“上”は、彼女を犯罪人として引きずり出すことなどできないのだろう。だとしたら宮里は、そしてアイコや安次は犬死にだったのか……。

ラストは、結局は密航に失敗して帰ってきてしまった船長のボロ船、マリアは“不法就労による強制送還”という形で国に帰される。
マリアに向かって大きく手を振るバーバラ、マリアも大きく手を振る。
大団円とは思えないけれど、ほろ苦さを残すラストだけど、この恐るべき物語が作られた意味を、限りある資源の中でゼータクに生きている私たち日本人は、かみしめなければいけないのだろう。★★★☆☆


今、僕は
2008年 87分 日本 カラー
監督:竹馬靖具 脚本:竹馬靖具
撮影:宗田英立大 音楽:
出演:竹馬靖具 藤澤よしはる 弁 志賀正人

2009/4/7/金(渋谷UPLINK X)
この日、監督が挨拶と質疑応答のために来場していた。おそらく公開中、連日来ているのだろうと思われた。それほど熱のこもった作品だったし、国際的に注目が集まっているのも判る気がした。
監督が言うように、私はこの映画をニート・引きこもりの映画だと思って足を運んだし、監督の言うように、否定的なことを思っていてもその場では言わずに「いかにも現代的に、ネットに書き込んだりする」訳で、どうにも書き辛い気持ちは否めないんだけど……。

そう、私はニート・引きこもりの映画だと思って足を運んだ。そこには確かに、俗な興味も働いていたと思う。
そして、主人公の青年は確かにそういう境遇にあるけれども、その生態を描くことに主眼を置いている訳ではなかった。監督自身もそのことは言われ慣れているらしく、「ニート・引きこもりを描こうと思った訳じゃない」と言った。
……でも、ならばなぜ、このキャラ設定だったのか。それならば、どうしたって、そのリアルな生態を描くんじゃないのかって思われてしまうんじゃないのか。

と、思ったのは多分、引きこもりの兄を見守り続け、ついには外に引っ張り出した秀逸なドキュメンタリー、「home」の存在が頭にあったからだと思う。本作の存在を知った時から、あの作品を超えるものが出るんじゃないかと、心のどこかで期待していた。勝手にドキュメンタリー作品だと思っていたぐらい。
でも、違った。
やけにリアルには見えるけど、完全な、ある意味完璧なフィクションだったし、だからこそ、ドラマチックな展開が次から次へと押し寄せる。
実際に、二ート・引きこもりの人たちには、こんな展開は望むべくもないだろう。あるいは彼らはこんなドラマチックな展開を待っていて、それを本作が替わりに叶えてくれているのかもしれないと思うほど。

そもそも、“ニート・引きこもり”と一緒くたにネーミングするのも、ちょっと違和感があった。ここで私自身が書いているのにアレなんだけど、監督自身も何度も“ニート・引きこもり”と口にしていた。

その二つは確かに切り離せないものなのかもしれないし、ひょっとしたら同じと言っていいものなのかもしれない。
でも……なんだか違和感を感じるのだ。その感覚の時点で違うような気がしてしまうのだ。それは、私自身の勝手な解釈かもしれない。
ニートには、職業への意識の有無が強く介在するイメージがある。それ以外は普通(というのもどういう定義かって言うのが難しいんだけど)に生活しているイメージというか。
引きこもりは、精神的というか、心の問題が大きい感覚がある。職業意識がどうとかは関係なくて、外(社会)に出て行けるか否か、という葛藤である。……やはり、この二つは大きく違うんじゃないかと思うのだ。
まあ、そりゃ、親や庇護者に生活を依存しているという点では同じだけれど、でもそこが同じだから同じものだとして語るのが、なんか、イヤな気がしたんだよね……。

主人公の悟は母親と二人暮し。詳しい来歴は語られないけれど、劇中、コンビニで中学の同級生と遭遇して交わす会話などから、高校もまともに行かずに引きこもったと思われる。
母親が準備する食事には手をつけず、スナックやペットボトルの水で生き長らえている状況。心配する母親には露骨に「うるせえなあ」とぶつけ、部屋の中でひたすらゲームを続ける日々。まさに、無為な人生を送ってる。
しかしある日、まるで突然に、悟は外に連れ出される。息子を心配した母親が彼女の仕事仲間だった青年、藤澤に頼んで、彼の勤めるワイナリーでのバイトを始めることになったのだ。

この主人公、悟を演じるのが監督自身というのはオドロキである。まるで中学生かと思うほどの幼さ、ぽよぽよとした色白、常に下を向いて人と視線を合わせられない悟は、それこそまるでドキュメンタリーかと思うほどのリアルさである。
それだけに、彼に訪れる展開のドラマチックさが、観ている側には戸惑いの連続であるのも事実である。何の社会経験もない彼を、彼の母親に世話になったからというだけの理由で仕事を世話する青年の登場。仕事だけじゃなく日曜日の草野球までにまで連れ出すっていうのもメロドラマ過ぎてビックリする。

人とマトモに付き合ってこなかった悟は挨拶さえもままならないし、案の定使い物にならずに仕事を逃げ出し、再び引きこもってしまう。
それは当然の成り行きだと思うんだけど、その悟を藤澤がそれでも気にかけ追いかけ、そのせいで交通事故にまで遭って、最後の最後まで、希望の光が見えかけるラストまでかまい続けるというのが……悟の造形がやけにリアリティがあったからこそ、あまりにフィクショナルに感じたんだよね。こんなわざとらしいまでの救世主、ないでしょ、と思って。

でも藤澤のやり方は、そう、監督自身が言うように、決して正解ではなく、むしろ、危険なのだ、というのは、同感である。とりあえず外に連れ出してしまおう、とりあえず仕事をさせてみよう、カンタンな仕事ならば大丈夫だろう、というのは、あまりにランボーな考えで、成功率はとても低いだろうと思う。
ならばなぜ、これが良くないやり方だと知っていて、なぜ監督はそれを採用したのか。だからこそ、“これはニート・引きこもりを描いているわけではない”ということなのか。

確かに、悟と藤澤は、判りやすい対照にあるとは思う。影と光。藤澤は、生きていれば悟と同じ年だった若くして死んでしまった弟の存在を彼に重ね合わせていたこともあったし、悟ほどではなかったのかもしれないけど、聞き分けのない若かりし頃、悟の母親に面倒を見てもらったってこともあるのだろう。
そして、悟の母親が死んでしまったことで、藤澤はますます、自分の境遇に悟を重ねて不憫に思ったのかもしれない。
けれど、やはり藤澤の存在は極端だと思うし、悟に対して良くないやりかただと思うし。
ていうか、悟じゃなくても、藤澤のことは、偽善者だと思ってしまうだろう。ほっといてくれと。自分の何が判るというのかと、思ってしまうだろう。
そう、私が悟だったとしても、絶対そう思う。だからラスト、追いかけてきた藤澤の前で悟がガマンしきれずに泣いた時、私にはそれが、彼の敗北だとしか思えなかったのだ。

そう、悟の母親は死んでしまうんである。あまりに唐突に。あれは交通事故だったのだろうか、まさか自殺、じゃないよね?
あれだけ社会と没交渉な悟が、電話のベルに即座に受話器をあげるから、あれ、と思ったら、恐らくいつもの時間に母親が家にいないから、母親を不安に思っていたんだよね。
警察からの電話だったと思われる。病院の母親はもはや虫の息だった。「ごめんね、悟……」と搾り出す母親に、彼はどんな言葉も返してやることが出来なかった。そして次に電話が来て駆けつけた時には、母親の顔には白い布がかかっていた。

悟は、母親にだけは、強い態度で出られたんだよね。コンビニで偶然遭遇した中学の同級生や、悟を強引に社会に連れ出した藤澤やその職場の人間たちには、目を合わせることさえ出来ず、ただただ受け身になるばかりだったのに、母親に対してはひたすら無視を繰り返し、「オレはお前のせいでこうなったんだ!」と暴力さえ働くんである。
そんな造形にムカつくのは、無論、私自身がそんなことを理解できないような、幸せな境遇にいるからだと思うけど……でも、この造形は、ちょっとステロタイプかなとも思ってしまう。
外と内との態度が、判りやすいほどに180度違うっていう……内では暴君なのに、外ではアリ並の弱者だっていう……。
判りやすいけど、この題材でこんな明確な判りやすさは良くないような気がして。
マジで“リアル”なら、内に対しても、無関心になってしまうんじゃないかと思ったりする。でもそれは本当に末期的症状に至ってからなのかなあ。だからこそ本作には希望の光があるってことなのかもしれないけど……。

母親に叩きつける“お前のせいでこうなったんだ!”という理由は、でも、明かされないんだよね。
悟が引きこもった理由、そして母子家庭の理由、あるいは母親が死んだのが本当に単純な交通事故ととかだったのか……交通事故なんて勝手な推測で、悟が駆けつけた病院で、母親がベッドに包帯だらけで横たわっていただけなんだもの。
……もしかしたら、自殺だったのかもしれない。
だから、息子に「ごめんね」と言ったのかもしれない。
それを明らかにしない選択っていうのはさ、悟がおかれた状況を、あるいはそこまで彼を追いつめた社会の残虐さをあえて明らかにしないってことにも思えて、あまり良くない気がしたんだよなあ……どこまでもアイマイに思えて。
しかも悟はその後、藤澤青年に助けられる余韻で終わる訳でしょ。なんか甘い気がしたんだよなあ。

アイマイだと思ったのは、母親が死んだ後、悟に具体的に降りかかるであろうと思われた“社会的”なことが、何ひとつなかったことである。
この家庭の唯一の稼ぎ頭である母親がいなくなってしまったら、家賃光熱費その他、たちまち行き詰まる筈。悟の部屋のみならず、食べっぱなしのインスタント食品やらペットボトルやらでどんどんゴミだらけになる状況は、容赦ない時間の経過を感じさせ、彼がそのゴミの中からもはや残高のない預金通帳を拾い上げる描写もあるのに、具体的にその催促などには直面しない。
まあ、そんなことを期待すること自体、ベタだよなとは思うんだけど……古い私の頭には、借金返せのビラがベタベタ貼られたドアやら、借金取りの容赦ないノックや、水道局の人間が止めにくるトコとか、もうあまりにもベタな場面ばかりが浮かんじゃってさ(爆)。それを見透かされての、このストイックな描写って気がして、悔しい気もするんだけどさあ……。

ニートや引きこもりに対する社会の冷たい目は、最も判りやすい部分で、彼らが経済的に親(に代表される庇護者)に経済的に支えられている点にある。
だからこそ本作でも、悟がひたすら部屋にこもってゲームばかりやって、冷蔵庫に磁石でとめてある封筒の中のお金を引き出してコンビニでジャンクフードを買ったりする描写に、“ニートや引きこもりではない人々”は同情心よりも反発心を覚えるんだよね。
監督が彼らの生態の、つまりは報われなさを描かなかったと確信したのはこの部分にある。結局悟に対して、要領よく世の中を渡っている“社会人”たちは、共感どころか同情さえも覚えることは出来ないから。
でもならば、監督は何を描きたかったのか。社会の縮図を描きたかったのか。
悟が、唯一強い態度に出られるのが母親だけっていうのが、一番哀しかったし、その母親が死んでしまったことが、悟にとって一番の制裁だと思った。
だからこれって、実はとても、残酷な物語だったのかもしれない。

藤澤が連れていく、悟の“職場”のワイナリーは、確かに監督の言うとおり、とても映画的開放感に満ちている。
藤澤が「キレイな景色だろう」と、自身が癒される場所として悟を連れていく高台の絶景は、確かに癒されるし、監督が悟を連れ出す場所としてここを設定したのが凄くよく判る。
このロケーションの意図は、本当によく伝わっていると思った。それだけに哀しいけど……。
それだけに、悟がそんな景色も、それ以前に仕事の充実感も得られないのがツライ。
澱を一定にするためのボトルを回転させる作業とか、本当に地味な仕事だけれど、その重要性を判ることが出来たら、仕事というのは本当に充実するものなのだ。
この辺は上手いと思う。こういう設定だから、仕事=食い扶持を稼ぐって定義しがちだし、悟もそういう負い目があるから結局はその考えから抜け出せなかったと思うんだけど、でも、違うんだよね。

ラスト、藤澤に初めて弱い自分をさらけだした悟。追いかけ続けた藤澤に根負けする形で、泣き崩れた。
彼はこれから、どんな人生を送っていくんだろうか。★★★☆☆


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