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「ほ」


2002年鑑賞作品

棒 Bastoni/Stick Handlers
2001年 103分 日本 カラー
監督:中村和彦 脚本:望月六郎 中村和彦
撮影:石井浩一 音楽:安川午郎
出演:松岡俊介 田口トモロヲ 中里栄臣 小島由佳 金谷亜未子 北村一輝 日比野克彦 石川均 金山一彦 奥田瑛ニ


2002/3/26/火 劇場(銀座シネパトス/レイト)
望月六郎監督プロデュースによる、望月監督の下で長年助監督をやってきた中村和彦監督のデビュー作だという本作。しかしその企画、そして共同脚本という形でも加わる望月監督のカラーが色濃く出ている作品。中村監督自身もやってみたかったという題材だというのだが……まあ、この辺は類友、かもしれない。

まず、松岡俊介、という段階で望月監督の「極道懺悔録」を思い出し、そうしたらその「極道懺悔録」に出ていた金谷亜未子もヒロインの一人として出ており、そうしてやっぱり生々しいカラみである。本作はAV役者の人生、そしてAV業界を綴った作品だから当然といえば当然なのだが、望月六郎という人は、成人映画も一般映画も全く区別なく撮っているんじゃないか、という気がしてならない。おっと、これは望月監督作品ではないけれど……。あ、そういわれてみれば、カラみシーンは望月監督ほど生々しくないかもしれない。体位とか割と普通だし(!?)カラみシーンでも結構感情的な部分に寄り添っている感じもする。

そういえば、主人公であるAV男優の山口と結婚することになるAVスター女優、夏生との出会いも、双方ともに会ったとたんに何かを感じ、自然にキスもでき、そして山口は感情の方が抑えられなくなって、勃たなくなってしまった、という。その後も、親に自身のトラウマの原因を持つ夏生が、山口とのセックスは他の人とは全然違う。愛していると判るんだと取り乱しそうになりながら母親に訴えるシーンも印象に残る。そして山口はかつての恋人、美由紀と撮影現場で女優として再会し、動揺して勃たなくなってしまう。彼は、好奇心からAV出演したことが彼女にバレたことによって、別れていたのだ。決して、嫌いになったわけじゃない。ずっと忘れたことはなかった。

こうした、セックスと感情のからまりあった関係が実に自然に描出される。勃つことが仕事、チンポを見せてナンボだと言い放つ山口や、先輩男優である松永(田口トモロヲ)の姿勢は、“ただで女とやれる”だけでAV界に入ってきた新人の本山などとは全く違って、本当にプロ意識を感じることが出来る。しかし、結局、二人とも愛する女に去られてしまう。すがっても、別の生き方を、生活の術を得ている彼女たちは振り返らない。

全くのプロ意識に徹している男たちに反して、いわば男性のように勃ったり射精したり、という物理的証拠を持たなくても、いわば入れられて、そして演技が出来れば女優になれる女性側は、そうした技術的な“プロ意識”というよりも、自分というものを見直す手段としてこの業界に身を投じている。少なくとも、本作中では。この人の子供が欲しいと思って、山口とセックスする時だけは避妊具を外した夏生、自分には許せなかった世界で出会った女と結婚した元彼氏を忘れられなくて、彼と再会し、そしてその女に復讐するためにAV界に身を投じた美由紀。

夏生が、仕事でセックスしたのなら、何も気にすることはない、と言い、しかしその後、山口の気持ちの中に美由紀への思いを感じた時、彼女は怒り、そして湖に飛び込んで頭を冷やし、冷静になったところで、彼と決別する。
やはり、セックスと感情の危うい、そして美しくも残酷な関係性をここでもはっきりと示している。
一方で、山口が気持ちを残したままセックスシーンを撮り、そのことで夏生との仲を引き裂いてしてやったりの美由紀にしても、結局はセックスという事実をネタにしてゆすることしか出来ず、山口の夏生への思いを引き戻すことなど出来ない。美由紀への怒りと、そして思いを断ち切るかのような強姦の設定のビデオを回しながら山口が襲ってきても、彼に抱かれること、そのことに幸せそうな笑みを浮かべる美由紀も、悲しい。

愛する妻と娘のため、と無理な注文の仕事もガンガン引き受ける、田口トモロヲ扮する松永も、山口と主人公を分け合っている、と言ってもいいほどのキャラクターである。
三日間、暗闇の中に女と閉じ込められてそれを赤外線カメラで写すという異常な企画とか、インポの男が女医にナメられて治癒するという普通の?企画まで、彼は何でもこなす。田口トモロヲ氏、まさしく大怪演。後者の撮影シーンでなど、「ああ、ドクトール……」なんて、もう大爆笑。
でも、ホント、彼ってば切ないのだ。何一つ不満のない家族生活を送っているはずだった。家に帰り、仕事で使ったパンツ(豹柄とかのハイレグのやつ)を自分専用の洗濯機に放り込んで、娘の弾くピアノを聴きながら晩酌をする、幸せな日々。
でも、やっぱり彼の職業には妻も娘もすんなり受け入れられないものが……当然ながらあったらしい。妻は娘のピアノ教師と恋におち、ある日帰ると、松永専用の洗濯機しか残っておらず、置手紙が残されている。
レストランでの話し合いの場で、必死に反撃する松永に対し、こともあろう娘が「お父さんが頑張れば頑張るほど、つらいんだよ」……そういう趣旨の台詞を言い、言葉に詰まる松永が、つらすぎちゃって……。
皆が去った後、残された彼が、手つかずの食事を意地になって泣きながらほおばるシーンは、泣けちゃって笑えちゃって、トモロヲさんの代表シーンにしたいぐらい。

一人、湖にボートを出し、そして一人、腹ぼての姿で泳いで岸についた夏生に、女の、それも子供を持つ女の圧倒的な力を感じる。引きのカメラで捕えた、呆然と湖に佇む山口と、さっそうと去り行くおなかの大きい夏生のショットは目に染み入る。「この子には父親はいません」……ああ、何て鮮烈な台詞!まさしくそれは、確かに女しか知りようがないことで……。それを言われたら男は沈黙するしかないのだ。一度は言ってみたい台詞!?夏生が嫌がるならAV男優を辞める、と言った山口だが、夏生に去られたことによって、結局続けることになる。水中セックスの、息の続かなくなった松永にバトンタッチされて(なぜか女だけ酸素ボンベ着用(笑))、プールに飛び込む山口のショットで映画は終わる。

その恨みがましい目が相変わらずキョーレツな金谷亜未子。ほっんと、彼女は女のイヤな部分を体現しまくるね。「極道懺悔録」ではその目とともに髪型のアナクロさもキテて、うっわー、こういう女とは絶対友達になりたくない!と思ったもんだが、今回は、外見的にはとりあえず、普通。しかしその“恨みます”的な目は、やはり、かなりお近づきになりたくないのである。ううむ、確かに……そういう意味では個性というか、力をかなり感じさせる女優ではあるのかな。実際はすっごく気さくな女性だったらどうしよう……っていうのもヘンだけどさあ。

パンツ姿で上だけユニホームの上着着て、シュートをする山口とゴールキーパーの夏生(サッカーが趣味という山口は、シュートにおけるヌケる感覚とかは、やっぱりセックスと通じるもんがあるのかねえ)。あるいはバージンロードならぬ“ザーメンロード”(階段上に待つ新郎の元までに、両側AV男優仲間たちが並び、夏生にフェラしてもらった男が発射する精液を顔に浴びながら彼女が進むという……うう、書くだけでもキモい……)そんなかなりバカバカしい場面なんかも結構多くて、しかし、笑うよりも引いちゃった、という方が正直なところかも。何だか最近、AV業界モノが多いなあ、と思いつつ、それは20年の歴史を経てようやく、その業界から日の目を見る人材が育ったということなのか、あるいは、そこで育った人たちが、恩返しをするためなのかな。★★★☆☆


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2001年 64分 日本 カラー
監督:小林貴裕 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:小林貴裕 音楽:加藤昭衝
出演:小林博和 小林貴裕

2002/11/4/月(振休) 劇場(BOX東中野/モーニング)
こんな映像作品の前で、こんなカメラの前で、言葉を発することなど、とても無理だ。言葉なんて、何にも必要じゃない。何も言えない。どうしたらいいのか……と、思い返し、言葉を探り当てようとするほどに自己嫌悪にも似た気分になって、何だか涙まで出てきて、フテ寝のように布団にもぐりこんでしまった。だって、私いつだって、誰も傷つかない言葉を探して、誰にも嫌われたくなくて、そんな自分に気づいてしまう時、自分が心底、心底イヤだって感じるのだ。今回それに気づいてしまって、フテ寝してしまった。どうしようもない。ドキュメンタリーにはかなわない。それも、自分を含めた家族の傷と対峙した作品になど、かなうわけがない。以前、やはり日本映画学校の作品で「ファザーレス 父なき時代」という自分と家族の内面に厳しく肉薄したドキュメンタリーがあったけれども、日本映画学校は、映画は脚本だという概念を打ち砕く教育をしているのかもしれない。だって、言葉を発しようとすると、こんなにも無力なのだもの。この作品の中で発せられている言葉さえ“脚本”の台詞のように、“説得”の言葉があまりに無力で。

チラシに登場していて、なおかつこの日舞台挨拶に来ていたお兄さんに驚いてしまい、驚いてしまう自分を恥じてしまった。この人の強さに、そしてそこまでの結果を共に血を吐く思いで導いた、監督をはじめとする家族の方たちの強さに、またしても自分を振りかえってしまった。この作品の中に出てくるお兄さんは、7年間の引きこもり、その中での家庭内暴力を展開していて、つまり自分の最も見たくない汚点をさらけ出しているのだ。作品は奇跡的な“治療”を発揮して、ラスト、お兄さんが自ら家を出て行くわけだけど、それにしても最も見たくない過去の自分がそこにいるのだ。しかしそれを全部飲み込んで、糧にして、否定することなく、すっきりとしたイイ男の顔でチラシに、そして舞台に立つお兄さんに、その強さに、こうして思い出しながら書いていても私はすっかり自分が恥ずかしくなって、涙が出てしまう。

だって、だって、だって、私に出来る?自分たちに出来る?私はこの人たちのように心の底の本音を言い合ったことがある?引きこもらなかったから、そうならずに済んでいるから、本気で話し合うことなどしていないんじゃないの?お兄さんは、引きこもることになった原因など判らない、と言った。お兄さんの思春期に経験したこと、受験の失敗や父との衝突は、確かに特にあの年頃には過酷なものだけど、それでもそういう経験をしている人は他にもいるはずだし、彼はそれでも結果的に高校にも大学にも一流校に合格している。それでも、彼は引きこもってしまった。原因など、判らない。

ちょっとした心のきっかけ、踏みとどまり、あるいは自分でも気づかなかった積み重ねられた心の傷、でもそんなもの、何が原因だったのかなんて、判らない。つまりは、本当にこれは誰にでも起こり得ることなんだ。誰にだって……。そう、例えば、あとひと息頑張れば、っていうところをごまかして、鶏口牛後だなんていうのは、もしかしたら逃げなのかも、逃げだったのかも。お兄さんは、頑張って、そこを乗り越えてしまって、そしてつまづいてしまった。もし、彼が……ああ、でも本当の本当のどん尻とか、本当の本当のトップだなんていうのは、夢想にしか過ぎないんじゃないかって、思うときがある。時としていつだって人間はどん尻だし、いつだってトップなんだって。

夢を、期待を託されてしまう上の子供。それを嫉妬心を抱いて見てきた下の子供。これもまた、兄弟姉妹のどちらかに生まれついている人ならば、大なり小なり経験があること。妹である私だって、心当たりは大いにある。だから、やっぱり誰にでも起こりうることなんだって思いが強くなる。そして、幸いにも起こらなかった時……いや、それは幸いなだけなのか?本当に思っていることを、私は、そして姉だって家族に言ったこと、あるだろうか……隠したままでいられるから、それで上手くやっていこうと思ってきたんじゃないのか?そりゃ何でもかんでも言わなきゃいけないってものじゃないけれど、でも言いたくてたまらなかったことだって、飲み込んだこと、あったんじゃないか?家族にも言わず、自分にも嘘をついて、そうして、“誰にでも起こりうること”が現実のものになるパーセンテージをどんどん上げている、あるいは、どこかでそうなることを願っている。心で悲鳴を上げていたことだって、あったはず。

兄と父の葛藤の末、その兄に手を焼いて父とこの監督である弟は埼玉へと逃れた。それからろくに家に帰ることもなく、家には超潔癖症で母親に辛く当たる引きこもりの兄と、その兄におびえてうつ病に悩む母親が残された。母屋に別れて住む祖母はそのことを何も知らない。そしてこの祖母は悪性の大腸がんに侵されている。もはやのっぴきならない最悪の状態に、弟は意を決してカメラを携え、家族の立ち直りを試みる。当然のごとくカメラという一種の暴力を持ち込んだこの弟の前に母はうろたえ、兄は激しく拒絶する。最初は絶望的な気分ばかりが続く。心の弱さをカメラでえぐり取ることに傲慢さばかりを感じて気が滅入り、兄におびえて逃げ惑う母の姿に哀しさと共にもどかしさを感じ、食事の時だけ現れてワガママを言い募る威圧的な兄に拒否反応を覚え……でもそんな風に感じる自分こそが、こうはならなかったことにホッとしている自分こそが、最も汚く思えて更に気が滅入る。こんな状態、打破出来るのか、出来るわけがないと、どこかイジワルな気分を覚えつつ、でもあのチラシで、弟と並んで映るお兄さんのすっきりとした姿を思い出したりして、本当に、まさか……と引き込まれる。

カメラがあるだけで構えるのが人間。それを持っているのが他者であれば余計である。“他者のカメラ”で真実を捉えた、だなんて言っているテレビの扇情的な“潜入カメラ”の“ドキュメンタリー”など、この映像の前ではこっぱ微塵に打ち砕かれてしまうだろう。確かにカメラは暴力だ。ここでは家族である弟がカメラを持っていても、彼自身もずっと家を離れてきた人間だし、カメラという第三の目に逃げているし、決して肉薄した家族として中に入り込んでいるわけではない。でも、皮肉なことに、カメラの効果というのもまた劇的なのだ。映画が人を変える、人生を変える、というのは、こんな直接的な意味でこそ可能なのだ。どうしても入れなかった兄の部屋に、カメラを携えてなら、カメラを先になら、入っていける。兄は他者のカメラではなく、あるいは弟自身でもなく、“弟の持つカメラ”になら、少しだけ心の窓を開くことが出来るのだ。もちろんそれには膨大な時間、この映画に使われた何倍もの膨大な時間が必要だったに違いないのだけれど。そしてその膨大な時間は、補償のない賭けなのだ。

兄の暴力的な態度がどう表現していいのか判らない、自分の心すらも判らないゆえの歯がゆさ、一種のテレだったのではないかと思えてくるこの奇跡はどうだろう!母も弟も、そして父も、あんなにも手の施しようがなくて何年も何年も問題は据え置きでそれどころか悪化の一方で、でもそれを一番どうしよう、どうしようと考えていたのは兄自身だったということを、そんな当然のことをやっと気づけたこの奇跡。弟が、最初こそ激しく反発されて思いっきり殴り飛ばされた(であろう……弟自身がカメラを持っているから定かではないけれど)弟が、非礼をわびながらだんだん自然に兄の部屋に(部屋は、心なのだ)入っていく。ずっと貼られているナウシカのポスターに「気に入っているんだよ」とつぶやく兄。個性的なラインナップが並ぶ映画のビデオ。弟は兄が読みたがっていた映画の本を携え、昔使っていたラケットを探し出し、段々と普通の、兄弟の会話が出来るようになる。その会話は、説得を試みようとしていた、どこか脚本みたいな“台詞”とは、まるで違うのだ。ナマの言葉なのだ。

一方、当然のことながら長年この兄におびえきっている母は、そう簡単に心を開けない。兄から逃げて寒い車の中で夜を過ごし、散歩に出かけたまま、兄が怖くて家に帰れない。そんな時の母はそう、非日常で、非日常が日常になっている状態で、「怖いんだよう、怖いんだよう」と細い弦の奏でるような震える声でしぼり出すその言葉は、非日常の“台詞”そのものだ。劇やドラマになってしまうような非日常は、日常になってはいけないのだ。そんなもの、日常になっていたら、心はどんどん病んで、穴が空きっぱなしだ。日常の、何でもない、ささやかな会話を交わすこと、交わせるということは、稀なる日常で……奇跡的な幸福なのだけれど、例え奇跡的でも、それを目指さなければいけない。その日常が、いつか心を隠し合うようなウソの優しさになる可能性があるとしても、まだその方がマシなのだ。

先に入り込んだ弟の介添えで母は兄の部屋に恐る恐る入り、言葉を交わす。「やっぱり母やんが悪かったんだよねえ」そればかりを繰り返して。兄はいきなり態度を一変させることなどは出来ず、その口調はやはり今までの強硬なものだけれど、彼の腕に、足にすがりついてくる母親に、もういいから、もういいから、と繰り返す。ああ、良かった、良かったと安堵する母親。その数日後、兄はこの家を出て行くのだ。恐らく弟も知らない間に、置いておいたビデオに、最後のメッセージを残して。

自分はなんて情けない人間なんだと、血を吐くように告白する彼に胸をつかれ、ちくしょー、ここにいてえよ、でも自分が出て行くのが一番いいと思うから、皆のために一番いいと思うから、と自分に言い聞かせるように吐露し続ける彼に衝撃を受ける。画面から顔は微妙に見切れている。でもカメラの至近距離。それは彼の切羽詰まった心境をあまりにもあまりにも象徴していて、苦しい。自分のためじゃなく、家族のために。他の人間のために、彼は出て行くことを決心する。まさか、そんな結末が用意されていたなんて……私はてっきり、自分のためにいわば“改心”して“決心”して出て行くんだとばかり思っていた。違うんだ。もちろんそれもあるだろうけれど、人間の強靭な優しさ、そうだ優しさっていうのは強さなんだということ、使い古されているこんな言葉をこれほど実感として感じられるなんて、思いもしなかった……。

よく、そうそれこそテレビのドキュメンタリー番組なんかであるじゃない。こういう親や大人に暴力をふるう青年とか、街をたむろしている女子高生とか。そういう行動を現象としてだけなぞってひとくくりにしてっていうのに、すっごく違和感があったんだよね。そんな簡単にひとくくりにしていいの?って。彼らには一人一人心の中で思っていることが絶対にあるはずで、あるいは彼ら自身にもまとめきれないモヤモヤした思いを持て余してるのかもしれなくて。お兄さんが残していった手帳。ぎっしりと書かれた手帳。「クラム」でこういうの、出てきた。神経のこまやかな男性が思いに思いつめて書かれたこんなノートが。あのノートはどんどんぎっしり、どんどん細かくなって、ついにはノートが真っ黒に塗りつぶされるまでになってしまっていたんだ。お兄さんは、そうなる前に間に合った。間に合って本当に良かった……。

山田洋次監督が描く引きこもりなど、もはやファンタジーのように思えてしまう。私、この映画が、この家族がいい方向に行ってくれて本当に本当に良かったと安堵しつつも、何だか怖いことを思ってしまったんだ……それは、あたたかい家庭に生まれ、良いしつけを受け、それなりの挫折を経て健康的に育った人間には、本物の映画など撮れないのかもしれない、だなんてことを。映画の神様は、人生で血の吹き出るような思いをした人にしか宿らないんじゃないかってことを。ぬくぬくと育った人間には、深い深いところを探らなければだなんて切迫した思い、抱くことはないんだもの。そしてこうして突きつけられて、爆弾をくらったような衝撃を受けてしまうんだ。

とても豪奢な家で、それは大きすぎて、何だか広すぎて……兄のいる階段をのぼった部屋は、そう、階段がとても長く思われるほどに、それはもちろん心的作用もあるのだけれど、とてもとても遠くて。誰が言っていたんだったっけな。子供部屋なんていうのは作るべきじゃないって。確かに少子化が進んで、子供一人一人に部屋が与えられた頃から、いろんなことがおかしくなってきた気がする。個性を尊重するということは聞こえがいいけど、まだまだ個性が固まらないうちから、さあお前のとりえは何なんだと責め立てているようで、それって、凄く残酷だって思う。特に自分に劣等感ばかりを感じてしまう思春期の時期には、あまりにも残酷だって思う。

引きこもりから抜け出し、過去の自分をさらけ出した上で、公の場で引きこもりの実態を訴えるお兄さん。それってそうではない他の誰よりも、価値のある経験を積んだ真に強い人だ。もちろん、それを手助けした弟の監督も。この映画以前のこと、それがずっとずっと凄まじかったんだ。そして映画以降もずっとずっと凄まじかったに違いない。そして観客の前に現われたお兄さんは、すっきりと本当にいい顔をしていた。かなわない、と思った。★★★★★


僕はずっと続けて夢を見ている
1999年 20分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影:山田勇男 藤木光次 音楽:
出演:

2002/1/15/火 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
何といっても、タイトルがいい。タイトルに惚れた。しかし映し出される映像は、日常のそれのようにも思える。いや、夢は日常の延長なのか。監督の妹さんが結婚することになった折、奄美大島を訪ねた旅のスケッチが元になっているという。島に渡る船が映る。波が映る。水面(みなも)が映る。その水面に映った影は監督自身なのか。その影が時々二人になったようにも映る。水面が揺れる。映った影の人物が現れることはない。

日常のように思えた映像は、実は旅の映像。路地。生活している人たち。部屋に飾られたトリュフォーの「大人は判ってくれない」のポスター。雲があかね色に染まった空は、何度となく時間を刻んで現れる。人々の日常に、旅人が入り込む。ケの世界に入り込む、ハレの旅人。旅人が感じる“初めて見る日常”は、初めてではあるけれど、日常だから、どこかで見たことがある気分がする。デジャヴ。それこそが夢の手触りではないか。夢を見ているときは、その風景、その手触り、確かに知っている、見たことがあると思う。でも目覚めて思い返してみると、やはり“夢の中を旅している”その感覚は、初めて味わったものだ。夢の中の自分と、目覚めた時の自分が乖離している。夢の中の自分を目覚めた自分が他人として見ている。夢の中の自分は、顔が見えない。自分なのだから、自分の顔が見えないのは当たり前なのだが、それは目覚めてみると、自分が他人のように思われる。水面に映った影。決して顔の映らない影。それは夢の中の、他人である自分のよう。

夢を見ている時間と、現実に生活をしている時間、もし前者の方が長かったら、そちらが現実になるのではないか、と思うことはままある。それでも必ず目覚めてしまう。目覚めたくなくても。“ずっと続けて夢を見ている”ことこそが、夢だ。しかし本作で刻まれる夢は……カットをおっかぶせるように重ねていく夢は、時間を意識的に刻んでいるように思う。夢の時間を、刻む。ずっと続けて夢を見ていられるように。しかし、全てが夢になった時、それは死ではないかと思うと……かすかに怖い。

ラストシーンの、仮面のように表情が動かないスレンダーな女性が、静々と歩きゆくモノクローム。唐突な、“日常ではない夢”、これこそが夢、の映像に、ドキリとした。その画は確かに美しいのだけれど、はっきりと、怖かったのだ、なぜか。……連れ去られるような気がして。★★★☆☆


星とプロペラ
2000年 13分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影:音楽:
出演:

2002/1/18/金 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
ああ、こういうさやさやと美しい映画をずっと観たかった。ストーリーがあるわけじゃない。台詞があるわけじゃない。イメージの羅列といったらそれまでだけど、そういうわけじゃない。触れたくなるような世界。でも触れちゃいけないような世界。一人の少女、少年のような少女。足も手もすんなりと美しく伸びた少女。彼女が小さな一両電車に乗っている。これはまるで路面電車のように見えるけれど……。かぶさるナレーションから想像される青森の地。そして行き着く函館の地。私の好きな二大都市だ。そうなると当然、あがた森魚。あがた森魚ともつながりがあるんだ……なんか、当然のような帰着。

少女のもてあそぶ小さなオモチャのプロペラ、クリスマスツリーのてっぺんに飾ってあるような銀の星、香りを胸いっぱいに吸い込む白い一輪の百合、マッチのともしび、寂しげにふかす煙草、それらのイマージュが繰り返し現れる。プロペラをくるくると巻く少女の手、空にかざす銀の星、座席に長々と横たわった(本当に、すんなりとのびやかなその肢体の妙なる美しさ!)少女の傍らに添えられる百合。少女は床に座り込んでマッチをともし、放り出すように煙草をふかす。一両電車の中を行きつ戻りつする。後部座席の後ろの窓から外を眺める。そのガラスは汚れているのがなんだか哀しい気分がする。どこかぼうとした色合いのモノクロっぽい寂しさが倍化されるような気がして。

でも、心ときめく。なぜだろう。この少女の、電車の中で行く先を失っているような、模索しているような、あるいはただ夢の世界に住んでいるような少女の魅力はなんなのだろう。白い運動靴を履いた足は、頼りなくきゃしゃ。運動靴はすぐにでも汚れてしまいそう。汚れた時が、大人になる時?ちょっとだけ、哀しいな……。それともこの少女はこの夢の中に、誰かの夢の中にあらわれた、夢だけの少女。汚れる直前の、大人になる直前の、少年のように見えさえする、女になる直前の。そしてその直前で永遠に止まっている、ありえない意味での理想の少女なのか。

何かもう、たまらなく、良かった。相変わらず、タイトルもイイし。★★★★★


ホセ・リサールJOSE RIZAL
1998年 178分 フィリピン カラー
監督:マリルー・ディアス=アバヤ 脚本:リッキー・リー/ジュン・ラナ/ピーター・オング・リム
撮影:ロディー・ラッキャプ 音楽:ノノン・ブエンカミノ
出演:セサール・モンタノ/ハイメ・ファブレガス/ジョエル・トーレ/ガルド・ヴェルソーザ

2002/2/1/金 劇場(岩波ホール)
いやー、“プチ拷問”!だったですよ。休憩10分を挟んで3時間以上の歴史大作。岩波ホールのイスの座りごこちはすこぶる悪く、全然知らない人物なので興味もわかず、メリハリ全くない演出でオソロシク眠く、時間の過ぎるのが遅いこと、遅いこと。そうなのよねー、フィリピンがスペイン植民地だったとか、その独立運動の“理論的指導者”だったというこのホセ・リサールって人なんて全然知らなかったのよね。それは同じアジア人として大いなる問題だとは、まあ確かに思うのだが……。しかし、“理論的指導者”ってナニよ?という気がしたのも、事実。いや、確かに判らないわけじゃない。ちゃんと映画の中でも丁寧に説明はされてる。特に二つの小説で、フィリピン人の人々を啓蒙し、祖国の独立を願った、ということで彼は時代に翻弄される破天荒な人生を送るのだが、徹底的な非暴力を説く彼の姿勢はどこかお坊ちゃん的で、指導者としての実感が今ひとつわかないんだなあ。

彼はこの小説によって当局やスペイン聖職者の怒りを買い、逮捕され、流刑され、投獄され、果てにはでっち上げの裁判によって死刑を宣告されて銃殺に処されるという、実に波乱の人生を送る。しかも35歳の若さで死にいたる。なるほど、英雄視されるわけだわと思うのだけど、何たってこのような“理論的指導者”だからして、陣頭指揮をとって民衆を鼓舞するという訳ではなく、映画という映像の主人公としてはよっぽどヴィヴィッドに描かないとチトきついんである。それがヴィヴィッドどころか良く言えば淡々と、悪く、というか正直に言えば盛り上がりがまるでないメリハリナシの演出でトロトロ行くものだから、ツラいツラい。ましてや知らない人物だからね……。フィリピンでは大ヒットしたというのは、彼らの間では周知のヒーローだったからだろうと思うのはイジワルに過ぎ?つまりはフィリピンにおける“国民映画”であり(実際、フィリピン独立100周年記念映画だというんだから、まさしくそうだろう)外国に対しては訴える力が弱いと思わざるを得ないのだ。

しかもである。フィリピンの独立を描いているというよりは、そのリーダーである彼の活躍を描くというよりは、“一人の人間の物語として描いた”ってのがマチガイではないかと思っちゃうんである。だって、それこそガイコクジンである私らは彼がヒーローではないんだから、そんな個人的なことに興味ないんだもん。それこそ子供の頃から始まって銃殺のラストシーンに至るまで、実ーにしんねりと描くのだが、優秀な彼は心理学、文学、医学を修め、各国を放浪して言語をも修める。その描写がねー、まっことお坊ちゃまっつーか……かなりこのお方はそんな風にお育ちが良くって、それで学んだことから非暴力を説くわけだが、これが説得力ないんだなー。確かに非暴力というのはとても立派な思想だけれど、結局、事実としては血を流さなければ勝ち取れなかったわけじゃない?しかも彼は実践の指揮には加わらずに、民衆の苦しみは実感というよりは見て心を痛めている立場だったのだから、民衆のヒーローというよりは、エリートのお坊ちゃまやなーと思うのも仕方ないじゃない?

彼の小説の中の主人公、革命家のイバラがモノクロで時折登場し、時にはリサールと対話をし、物語を進めて行く。これは……うーん、これまたちょっとした自己満足のように聞こえちゃう?だってこのイバラはリサールの分身に他ならず、つまりは彼は自問自答しているのと同じことで、結局は自分の信念を再確認していることにしかならないんだもの。でも、そんなことは言っちゃいけないよねー?だってそれこそこの部分はフィクションなんだから……。でもどんな目にあっても悟りを開いた仏門の人みたいに穏やかな顔しているリサールに対して、何て言うか……ちょっと違和感を感じたんだよね。まあ、映画の中の作られたリサール、なのだから、実際に彼がどんな顔していたかなんて判るはずもないんだけど。でも民衆は怒りをこそエネルギーとしており、怒りをしかエネルギーに出来ないのであり、つまりはリサールはとてもつらい目に、確かにあっているのだけど、こうした民衆の怒りとかけ離れているなあ、と思った時に感じる違和感なのだ。

流刑された地で人生の伴侶と出会い、医学の腕を生かしてつかの間の穏やかな時を過ごすリサール。土地の女であるジョセフィンは無学な女だが、一生懸命にリサールの手助けをし、それを無言で見つめる彼の目も優しい。そうなのよねー、このリサールを演じているセサール・モンタノはわりかしハンサムなのよね。ちょっとホリウチタカオ入ってるけど。この流刑の地から引っ張り出されて裁判にかけられるまでの間投獄されるんだけど、その時にさすがお育ち良くピッシリとした格好をして、弁護士のスペイン人、タビエルとも心を分かち合う。この時のリサールの、つねに穏やかな笑みをたたえ、紳士然と落ち着いた様子は確かに“誰をも魅了する”気品にあふれており、その魅力にこそスペイン側が脅威を抱いたというのも判る気がするのだ。再三言うけれども、実際のリサールがどうだったかは知らんけどね……。

こんな彼にホレたタビエルは彼のために熱心に裁判で戦うんだけど、最初から彼を消すために行われたような裁判だから、実に不条理に、死罪が言い渡される。こッ、この裁判シーンもねー、な、長いー!長すぎるッ!しつこい!他のシーンもそうだけど、ことに裁判シーンにメリハリや臨場感がないとひっじょーにツラい!なーんて思っちゃうのは裁判王国、アメリカの映画に毒されすぎてるから?うーむ、そうかもしれない。裁判シーンはこういうもの、と思い込んでいるのもいけないよね。反省、反省。

まあ、実はこんなにエラそうに言えたギリじゃないのよ。だって、ひょっとして私、トータルで三分の二ぐらいは寝てたかもしれないんだもん!?しかも岩波ホールのあのイスだもんだから、ツラいの何の!★★☆☆☆


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