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「せ」


2009年鑑賞作品

青春残酷物語
1960年 96分 日本 カラー
監督:大島渚 脚本:大島渚
撮影:川又昂 音楽:真鍋理一郎
出演:桑野みゆき 川津祐介 久我美子 浜村純 氏家慎子 森島亜紀 田中晋二 富永ユキ 渡辺文雄 俵田裕子 小林トシ子 佐藤慶 林洋介 松崎慎二郎 水島信哉 春日俊二 山茶花究 森川信 田村保 堀恵子 土田桂司 園田健二 宮坂将嘉 佐野浅夫


2009/9/3/木 劇場(銀座シネパトス/日本映画レトロスペクティブ)
大島渚作品を観るのはなんだか怖くって……。孤高で、厳しくて、とても届かないところにある感じ。一度ある作品で完全に跳ね返されてしまって以来、観る機会があってもついつい遠ざかっていたのだけれど……。

これ、この作品、かなり有名、だよね。タイトルは知ってた。思わず観たことがあるかと思って確認したぐらい。でも観てなかった。そして恐る恐る足を運んで……これが有名、だということに少なからずショックを受けた。ヘンな言い方だけれど……。
だって……キツかった。彼らのまるで担保のない、なのに不思議なほど自信に満ちた強さが。
いや、だからこそ彼らは、担保がないからこそ、こっちの思惑通りにあっさりと転落してしまうのだけれど。地獄の底までも転落してしまうのだけれど。

“青春”が“残酷”なのは、何もないのに、拠り所も権力もそしてお金も勿論ないのに、なぜか、自分たちには無限の力と可能性と、そして未来があると信じているところなのだ。
いや……未来に関して言えば、考えてさえないと言った方が正しいかもしれない。実際、直前まで青年の方は考えもしなかった。それがちらと頭をかすめた時、彼はまるでスキを見せたように襲われ、死んでしまったのだ。
少女の方は、彼よりもう少し早くそのことに気づいていた。いやあるいは、最初から気付いていたのかもしれなかった。
でもそんなことどうでもいい、今が楽しければいい。男の子より早く大人になる女の子は、最初から厭世的な気分があったのかもしれない。
男の子は力だけは強くて彼女をレイプまがいに抱くけれども、でもそれさえ、無邪気の象徴のように思えた。
この時から二人は、世間から見れば恋人同士になるけれども……レイプの果てに彼を“好き”だと自分に言い聞かせる彼女に、どうしても哀れな気持ちしか起こらないのは、なりたくもない大人になってしまったから、なのだろうか。

とか言いつつも、彼らの世界は時代が違うということ以上に、私のような凡庸なイナカモノからは遠いところにある気持ちが否めないもんだから、だから臆してしまう気持ちがある、のは、大島作品に対する敷居の高さと似ているかもしれない。
若い頃から都会の雑踏を知っていて、大人の猥雑さの中で育ってきたトーキョーのワカモノ、には、私はいまだに臆する気持ちがある。それが、こんな何十年も昔の映画を観ても思ってしまうなんて……。

何十年も昔とはいえ、今と大して変わらない感じがする。違うのは、携帯電話がないこと、携帯どころか自宅にも電話がなくて友達経由にしているところ。
そして食生活の違い?からか、若者の骨格が明らかに違って、とても大人っぽく見えるところぐらいなんだけど……その大人っぽさが、逆に怖いんだよね。
今はそれこそ……草食系男子な造形だから、そのままキャラに軽薄が移っても、ああ見るからにね、という感じなんだけど、見た目はカッチリした青年たちが、まあ明らかにチンピラめいたカッコをしているにしても、それがオトナとして堂に入っている感じで、軽薄からはかけ離れているだけに……深刻で、逃げられなくて、怖いのだ。
でもそれは、あくまで今の時代の目から見るからであって、当時はそのまま軽薄に見えていたんだろうとも思うしなあ……。

携帯がなかろうが、友達を経由していようが、相手から連絡がないことに憤るのは、今も昔もおんなじなんだよね。ただ、真琴が清にあっという間にそこまで執着するのは……まあ意外とまでは思わないけれど、でもなんか、女の造形は今も昔もあんまり変わらないな、って気がしてちょっと、哀しい気がした。
むしろ、草食系男子なんてものが出現するだけ、今の世は、ある方向では進歩しているような気がした。
そりゃあね、真琴は単純に見れば、アバズレ女子高生である。まあ、アバズレって言葉自体が古いけれども。
好き放題夜遊びして、帰りはテキトーに車の窓を叩いてオジサマに送らせる。ホテルに連れ込まれそうになるまで、それがどれだけ危険な行為か判っていないってあたりが、あるいは時代かもしれない。
だって真琴は処女だったのだ。自分の行為が操の危機(私も大概言い方が古いが)だなんて思いもしないあたりがアマちゃんというか……その一方で、自分の魅力、言ってしまえば若い女の子の、処女の魅力があることも知っていて、したたかにそれを利用していたのだよね。

しかしホントにヤバそうになったところへ、思いがけず助けてくれた青年がいた。運命の出会い、あるいは、地獄行きの切符か。
真琴をホテルに連れ込もうとしたエロジジイを叩きのめした、大学生の清。翌日真琴は彼とデートした。その結末を彼女は予想していたかどうか……。
川でジェットボートを楽しんだ二人、浮かんだいかだの上をはしゃいで飛び歩いているのもつかの間、清が真琴を襲おうとした。逃げる彼女、ついに川に突き落とされた。
泳げない真琴はブクブクと沈んでは浮き、必死に這い上がろうとする。しかしその度に清は、彼女の手を冷酷に足で蹴り落とした。たまらず哀れに助けを請うた真琴を引き上げ、水に浮かんで不安定な、ごつごつした丸太の上で、清は彼女を抱いたのだ。
不自然なぐらい誰もいない、しんと静まりわたった凪いだ川面に空しく響き渡る、彼女のもがく水音。何度も何度も彼女が必死に這い上がろうとした手を、冷たい目で蹴り落とした彼にゾッとする。絶対ヤだ、こんな処女喪失……。

なのに真琴は、これで清を“好き”だと入れ込んじゃって、人妻も手中に収めているような彼と運命を共にしてしまうのだ。
なんでよ、なんでなのよ。だって溺れかけて、死にかけて、何度も何度も手を蹴り落とされて、いわば助ける条件的に引き上げられたのに。それなのに、なんでそれで彼に入れ込んじゃうの。
そりゃ、最初の男は忘れられないとか、セックスしちゃうと情が移っちゃうとか言うにしてもさあ、この状況は明らかに脅しだし、レイプじゃん。
なのに、「私のこと嫌いでしたんじゃないよね。好きだからだよね」だなんて……セックスが優しかったから?ううう、そんなこと、思いたくない。そんなことでほだされるなんて思いたくない。いやこれってそれこそ、ストックホルムシンドロームじゃないの??

私はね、だから、それまではオジサマも手玉にとって家まで送らせてしまうような真琴の、無鉄砲ながらもその強さが好きだった。
なのに清に陵辱された途端、“女”になってしまったことが、彼のもとに押しかけて同棲して、そこから転落の一途をたどってしまったことが、悔しくてたまらなかったのだ。
そりゃね、勿論、最終的には真琴のみならず清も、転落しちゃうんだけど、でも、でもでもね、悔しかったのだ。だって彼女は結局、彼が好きだという弱みのまま、死んでしまうんだもの。

お堅い姉や厳格な父親から反対されても、真琴は清への思いだけで、同棲を強行した。その清が人妻のヒモのような関係を結んでて、アソビの自分のことなど捨てようとしていたことを知ってさえ、その思いは変わらなかったのだ。
時代も時代、それこそ電話もないような真琴一家が住む長屋は、イメージ的に暖かい家庭が築かれそうなものなのに……ベタな発想だよね、それって。だってさ、今は、冷たいコンクリートマンションが基本だから、電話もないような長屋住まいイコール暖かい家庭、みたいなベタな方式が成立しちゃってるんだもの。
確かに時代もあるけれども、その周囲は開発のためか、荒れ果てた空き地だらけで、もくもくと白い煙を出す工場が見えていて、いわば彼女の住まいだけが、なんだか取り残された感じで……でもまだこの時代には、そんな風景があちこちにあるんだよね。

ならばひるがえって清はどうかといえば、彼の家族とかのバックグラウンドは判んないんだけど、テキトーに暮らしている大学生、という雰囲気。
バックグラウンドが判らないということも、学校には殆ど行かずに授業料を滞納して退学寸前という雰囲気だということも、酒とセックス至上主義という感じで、友達にラブホみたいに部屋を時間貸ししてることも、もう明らかな転落人生を感じさせるんである。
狭い表階段から上る部屋はビンボーこの上ないけれども、でもバーさながらの酒棚なんぞがしつらえてあって、いかにも刹那な人生を送ってるってな感じなのだ。

そりゃあね、真琴だって(当時の)イマドキな女の子だし、好きな男の子との同棲生活を満喫していた訳なんだけどさ……。
ファッションやメイクは時代を巡ると言うとおり、彼女のリカちゃん人形みたいな巻き巻きにキメたヘアスタイルや細い眉毛に特徴的なメイクは、今のオシャレ系女の子たちとフシギなぐらい相似系なのだ。
そう、これがフシギな感じだったんだよね。女の子たちは、今の時代にいる感じさえするのに、男の子たちはまるでVシネ系チンピラって感じでさ。
でもこういう恋愛事情に関しては、今も昔も変わらないのかなあ。

あ、でもね、真琴の姉がね、今の子と私たちとは違うよね、ってな立場で登場するんだよね。ひょっとしたら真琴の姉が、監督自身がリアルに感じる世代なのかもしれない。
彼女曰く、私は、その時は存命だった母がまず厳しかったし、時代的にも許されなかった、と妹の奔放さを羨望交じりに糾弾する。しかし真琴が清との同棲を決めて出て行ってからはね、むしろ妹を応援する立場に回るんだよね。
いや、応援するというよりは、自分がこうしたかった、という、まさしく羨望だった。だからこそ真琴が清との行き違いで一度自宅に戻った時は、ガッカリだよ、ていう態度を隠さなかったし、真琴が男と同棲しているというウワサが流れた時には、自ら学校に赴いて妹をかばった。
そしてその時、真琴は知ったのだ。カタブツだと思っていた姉が、学校中がうらやむような大恋愛をしていたこと。

奇しくもその姉の元恋人で、今は貧しい工場街で医者をしている秋本のもとで、真琴は赤ちゃんを堕ろす。
赤ちゃんが出来たと知って、まあ予想はしてたけど、「産む訳にはいかないな」とアッサリ真琴に堕胎を言い渡す清にはヒヤリとした。その言葉に泣き崩れる真琴、というのはベタだと思ったけど……それこそ今の時代ならね、ひとつぶん殴って私は産むさ!ぐらいな描写はアリだったと思う。いや……それも現代の幻想なのかもしれないけれど。

かつて学生運動で理想を追求し、それゆえに離れ離れになった恋人の元へ、妹の恋愛に触発された姉が会いに行く。
そう、姉は妹の姿に、かつての自分の夢を見い出したのだ。だから戸惑う父親をよそに妹をかばい、妹が一度帰ってきた時には罵倒さえした。
でも……まさにそれははかない夢で、貧しい人々のために医師をしている秋本とちょっとやけぼっくいに火がつきそうだったかと思いきや、食いぶちのためにこんなアルバイトもしている、と遺法堕胎を請け負ってて、その患者として妹が横たわっている。そして彼は、看護婦とも惰性の関係を持っているんである。

堕胎した真琴に、清は優しかった。それまでの、刹那的でドライな清とは違ってた。麻酔中の混濁した状態でありながら、涙を流していた真琴にほだされたのか。赤いリンゴと青いリンゴを一つずつ携えて見舞いに来るなんて、なんかやけに象徴的で、見ているこっちがヒヤリとするぐらいだった。
意識の戻らない彼女を見つめながら、リンゴを息をするのももどかしいほどにかじりつき、目覚めた彼女にもうひとつのリンゴを差し出す。世間のこと判ったフリして、結局全然判ってない。それがこの穢れなきリンゴに象徴されているように思った。

まるでおとぎ話のような海へのバカンスの後、彼らは逮捕される……。堕胎の前、清に絶望して真琴が身を委ねた大企業の社長を彼がゆすったことで、足がついたのだ。
遊ぶ金はいつも美人局で稼いでいた。そう、真琴がかつて夜遊びから帰る方法を意図的に使って、エロオヤジたちからカネを巻き上げたのだ。
そんな中、唯一彼女に手を出さず優しく接してくれて、真琴が癒された相手がこの社長だった。
しかし二度目に会った時、それまでのスケベ親父と同じように彼は真琴を抱いたのだ。でも、二度目だったことか、あるいは同じように優しく接せられたからだったのか、真琴にヤラれた感情はなかった。
このあたりは難しいところで、この社長が本当に真琴に対してヨコシマな気持ちがなかったのか、それとも最初から次の機会を狙っていたのかは……。
男が女を慰める方法のひとつにセックスがあるだなんてこと、そんなエロものを肯定するようなことないと思うし、思いたくもないけど……でもここでは、成立してしまった、のかなあ。

もうね、二人は逮捕されてね、そこで終わりかと思ったんだよね。だって清はあの有閑マダムに救い出されちゃってさ。
マダムは清には告げてなかったけど、彼の子供を堕ろした経験がある、って言って……。妊娠を清に告げちゃう真琴のことを、若いのね、って。自分は傷つきたくないから、だからアンタには言わなかったんだって、言うのね。それがさ、真琴はそれを彼に告げてて、だから……嫉妬したんだろうなあ。
ある意味そこが、時代の分かれ目だったのかもしれない。身体を支配された男に好き好き思ってしまう弱さは共通してても、嫌われたくない故に自分で赤ちゃんを始末してしまった女と、それを男に告げてしまった故に、地獄を見てしまった女と……。

ラストはあまりにやるせないけど、そういう意味で言えば、ひょっとしてひょっとしたら、幸せだったのかもしれない。
かねてから因縁をつけられていたチンピラに、真琴を引き渡すように言われて断わり、ボコボコにされた上、ついに息をしなくなった清。
監獄からようよう出てきて、しかし清からお前を守れないからと別れを言い渡され、テキトーな男の車に乗ったものの、清を案じて無謀にも車から飛び降り、……そのまま引きずられて動かなくなってしまった真琴。
その二人が、息をしない二人が、スクリーンに分割されて映し出されて物語は終わる。
ただ、“終”と映し出される。
まさに「青春残酷物語」
ただただ、置き去りにされてしまう観客。

清の友達、真琴の友達も出てきて、同じように恋人同士にもなったりして、そのエピソードもちょっと印象的なんだよね。
ただ彼らの場合は真琴たちよりも時代を引きずっているというか……学生運動の残り香、全学連、それのルーツが真琴の姉でありその恋人でありっていうのが。
当時既に、もはや古い価値感として断ぜられた熱かった時代の学生運動。冷めた時代の恋人同士だけれど、最後には死を遂げてしまう新しい時代の恋人。
今は多分、どちらも出来ずに……なんというか、信じられるものがない、という意識さえ存在せずにいるのだ。

きっとあの時代で既に、そんな現代への危機感があった筈なのに。 ★★★☆☆


精神
2008年 135分 日本=アメリカ カラー
監督:想田和弘 脚本:
撮影:想田和弘 音楽:
出演:山本昌知 山本真也 山本明子 柏木廣子 柏木寿夫 想田政夫 想田宏子

2009/7/3/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
精神、という言葉だけならば、そこには凛とした清らかなイメージの方が先行するように思う。でも精神病、となるだけで、そのイメージは一変する。そのせいか昨今は心の病、などと言い換えられるけれども、そのことでますます“精神病”はタブーへと押しやられてしまったように思う。
勿論そこには、精神病患者たちが理不尽な差別を受け続けた、過去の歴史が作り出した根強いイメージがあるのだけれど、それを払拭する努力も社会はしてこなかったことを意味していると思う。

精神病というだけで、作中でも語られた、“健常者との間のカーテン”がザッと下ろされる。まさに、隔離された、冷たい偏見の目が貼りつく。
いや、“健常者”である側には、それが偏見であるという意識さえなく、むしろ自分たちを“異常者”から守るために、当然のことだとさえ思う。そう、この場合の“健常者”の対義語は、障害者というより“異常者”なのだ。
監督がこの映画に「精神」と名付けたその意図がどこにあるのかは判らないけれど、「病」がつかない「精神」のそれこそ清新なイメージに、この映画は凛々しく立ち向かっていると思ったし、まさに人間は「精神」の生き物なのだと痛感した。
私たち“健常者”は、そこまで自身の「精神」と向き合えているだろうか?

とはいうものの、監督の言うように、“健常者”と“障害者”(この場合は精神病患者)の間に明確な差はないし、この作品に登場する彼らが障害者ならば、健常者として世で生活している人の中に、あまた同様の“障害者”は存在する。いまこうしてそんなことを書いている私だって、そうじゃないとは言い切れない。
勿論、作中に出てきて証言する彼らは、私のような安穏とした人生を送ってきた人間とは違う、過酷な現実に直面し続けている人たちなのだけれど、ふと、え?と思うほど身近な言葉がぽんと飛び出す。
ある女性患者は、それまでの蓄積があって爆発したんだけれどと前置きして、その爆発した言葉を教えてくれた。それは恋人から言われた「足が太い」という言葉。思わずふっと笑ってしまったんだけれど、でもその一瞬後に、いやいやこれは意外に笑えないぞと思った。
確かに溜まりに溜まっている時に、なんでもない一言で引き金が引かれることってある。それを騙し騙し生きていくのが人生ってヤツだと思っていたけれど、それが人生の最初から、どこかでなにがしかの解決がされないままいくと、カーテンが下ろされてしまうのだ。それって“普通”とどこが違うの?

舞台は監督の奥さんの故郷であるという岡山県。精神病患者のための医療施設なんだけれど、とてもアットホームで、待合室なんかまるでどこかの家庭の居間みたいで、昼寝をむさぼっている人さえいる。
実際、後々明らかにされるんだけれど、ここに集まってくる人たちはみんな家族みたいなのだ。患者たちで経営するレストランや牛乳配達でここの経営をなんとか賄っているという形なんだけれど、くしくもそれが、彼らの絆を深めていて、危機には彼ら全員で立ち向かおうとするのね。
危機……それこそ皮肉なのだけれど、小泉政権で可決されてしまった、生活保護者医療費1割負担の法案。外傷と違ってリハビリなんてものも存在せず、先のまったく見えない病との戦いを強いられている彼らにとって、“自立支援法”など、まさに絵に描いたモチである。
政府の助成でギリギリまかなっている施設の運営は、この法案が可決されたことでまさに存亡の危機に陥る。もともとここに従事する医師のボランティア的な薄給で成り立っていたから。スタッフたちは、彼らだって相当に大変な筈なのに「私たちは先生より給料もらっているから」と笑う。

この事実を一体、どう捉えればいいのだろう。赤ひげ的な医者がいなければ成立しない地域医療。それさえ切られる地域医療。
ワイドショーなんかで喧伝されるのは、生活保護を受けながらパチンコに通っている主婦、みたいなくだらない情報ばかりで、でもそれに、恥ずかしくも私たちは踊らされているのだ。行政の審査が甘いのが問題なのに、生活保護を受けている人たち自身に問題があるとか思い違えて……ていうか、そういう風に意識を持っていかれて。
働けない彼らの苦しみを、働ける幸せさえ自覚出来ずにグチばかり言っている私たちが理解出来る訳がないのかもしれない……。

実はこの日、かなり疲れていて、最後のおじさんのエピソードだけすっくり眠りに落ちてしまったので(ごめんなさい……)それはハズさせてもらうんだけれど。
様々に登場する患者さんたちの中で、心に張りついて離れなかった女性がいた。
かなり太り気味の彼女、作中に出てくる患者さんたちは、結構太っていることが多くって、やりきれなさを食に持っていくんだろうとか、自己コントロールの余裕がないからだろうとか思いつつも、やはりどこかヘンケンの目で見ていた。気楽に食ってんじゃン、みたいについつい思ってた。
特に彼女のパンパンに張ったニキビだらけの顔には、ちょっとした嫌悪感さえ感じたのが正直なところ。でもそれは、それはそれは……大人のにきびって、若い時と違って、新陳代謝の象徴なんかじゃないのだ。やっぱりそれは……彼女の心に吹き溜まったまま取れないストレス。
彼女がとつとつと語る、過酷な人生に衝撃を受けた。子供の頃からの話も凄いんだけど、結婚して、生活がすれ違いの夫の協力を得られず育児ノイローゼに突入して「赤ちゃんが虐待で死んでしまった……私が虐待したんです」と、インタビュアー(監督)が言葉につまったのにも気づかないように、顔色ひとつ変えず語り続けるのには、ひどく……衝撃を受けたのだ。

それは、そんなことをすらすら語っちゃうの、ということじゃなく、この“そんなことをすらすら語っちゃう”ことに、自分自身で覚えがあったから。
私は彼女みたいな過酷な経験がある訳じゃないけど……まあ、それなりにイヤな出来事があった時に、自分の中で“他人への説明”のリハーサルを凄く、するのね。それは最終的には実践することはないことが殆んどなんだけど……それに凄く、似ていたから、ウワッと思ったのだ。
それまで何人か登場した“患者”さんたちは、自分と共感するところは正直、なかった。確かに「この症状程度で精神病患者ってされちゃうの?」とは思ったものの、その思い自体が精神病や患者さんたちに対する偏見そのものだと思って、どこか距離をおいて見ていた部分はあると思う。
冒頭、泣きながら医師に「死にたい……」と訴える患者さんや、「親しい友人が次から次へと自殺した」と語る患者さんや、もうとにかくキョーレツな過去を持つ人たちが次から次へと出てくるもんだから、イヤー、これは私にはないな……とか思っていたせいもあって、つまりは安心?しきっていたのもあって、彼女の登場には衝撃を覚えた。

まるで何度も稽古を重ねた舞台役者のように、流暢にこれまでの経過を、表情一つ変えず語る彼女。それを今まで誰かに語った経験があるのか、それとも心の中で何度もリハーサルを繰り返していたからなのかは判らない。ただ……そう、その“リハーサル”に覚えがあったものだから、衝撃だったんだよね。
彼女は自分を正当化することはしない。自分自身がやってしまった罪もまっすぐに提示してくる。でも……“全てが自分のせいだ”とはしていないんだよね。客観的に見ようと必死になっている。
その客観的な中で、第三者に自分の境遇に共感してもらいたい、みたいな気持ちが……100パーセント私と同じだ!って思って……。それは相手(彼女の場合は自分をないがしろにした親、そして何より夫)に原因がありつつも、でもそれだけを言うと責任転嫁みたいに思われちゃうから、自分が悪いんだということを前面に押し出しつつ、でも私は凄く苦しんで苦しんで答えを出したんだってことを判ってほしい、っていうのを、どう語ったら第三者に判ってもらえるかっていうのを考えて、何度も何度も自分の中でリハーサルして、……もう、自分の中ではカンペキなの、カンペキな講演が出来ちゃうんだよね。

でもそれを披露する場は……私は結局、なかった。彼女もひょっとしたら、このチャンスが初めてだったんじゃないかと思う。いや、ワカンナイ、めっちゃ語り慣れているかもしれないけど(爆)。
でもね……リハーサルしてるってことは、自分の中で何度も何度も、その現実に直面しているってことなんだよね。百歩譲って自分を正当化するためなのかもしれないけど、その100倍、思いだしたくもないことを、何度も何度も反芻して……私はここまで、あの人はここまで、って誰に査定される訳もない客観点を必死に見つけようとして。

気になったのは、他の患者さんたちと違って、彼女には殊更に家族の影が見えなかったことだった。勿論、彼女の語る中に家族からの冷たい仕打ちは登場するし、何より夫との関係はサイアクだし。
でもね、死んでしまった赤ちゃんの記憶は、勿論彼女の中では消えないものだけど、でもそれも刑事から「一生背負っていかなければいけない」と言われたことの方が重かったみたいなニュアンスがあるし、その後生まれた子供のことも、第一子の年を思い出す材料ぐらいな感じなんだよね……。
病ゆえに息子から絶縁されている中年女性のエピソードなぞがベタにグッとくるゆえに、彼女のそれが妙に生々しく感じてしまうのだ。
淡々と、作っているみたいに淡々と過去を語り、死んだ父親の声が聞こえて家にいられないからと、宿泊施設を利用した彼女。彼女が幼い頃に家を出て行った父親、あまり記憶にない父親の声で「お前はここに必要ない、出て行け」と聞こえるんだという……。

前半が患者さんたちの状況を示していたとすれば、後半は自立支援法成立に伴って、変化せざるを得ない彼らの今が活写される。彼らのみならず、彼らを支える施設のスタッフたちも揺れ動く。むしろ、スタッフたちの描写の方が大きいようにも思う。
ベテランスタッフの女性が、この施設の常連である女性患者さんと電話で話し、その後語るエピソードが印象的である。非常に親しげで、彼女の家に遊びにいくこともよくあると言う。
そのことを彼女は、本当に友達の家に遊びに行った時のように楽しげに語るんだけど、「○○さんは友達がいないから」と前置きして語るのが、たったひと言なんだけど、グサリときた。
無論、“友達の替わり”になることも重要な仕事なんだろうけれど……思い当たらなくもない、あるいは思い当たらなくもない時期もあった、からだろうなあ、グサッとくるのは……。

そうしたことも含めて、やはり第三者の介在が大きな意味を持っている、のだろうか、と思う。彼らがこの事態に陥ったことについて、第三者を語らない人はいない。家族や友人、あるいはその喪失や皆無が介在する。
そんなことも今はなくても生きていける時代、みたいに語られているだけに、そうじゃないんだということを、非常に端的に示しているように思う。
そう、友達、だったんだよね。いきなり冒頭、泣きながら「自分は必要とされていない」と泣いていた女性が、必要とされたいと思っていた対象は……。
でも彼女のしたたかな強さを感じたのは、この診察室まで来て、カメラの撮影も了承した上で、さらけ出したことだった。ある意味、女優だとさえ感じた。
それを受ける先生の慣れてるヨ、てな淡々とした対応と、泣きながらも次の人の時間が来ると、素直に退出する彼女に、これが日常の、リハビリなのだと強く感じた。

だからこそ全然私らと変わんないし、むしろコントロール出来てるじゃんと思うけど、“むしろコントロール”出来ていることが、社会から排除されてしまうことなのだとすれば……。

「小泉、やりやがった!」

そう叫んだ彼ら。
もちろん、岡山だけじゃなく、全国各地にこの状況はある訳で。
そして彼らは、私たちとなんら変わらない。
ていうか、ウチら自身なのだ。
むしろ、自覚出来ていない、客観の視点を持ち得ないまま、自滅へ向かっている私たちの方が不幸なのかもしれない、かどうかは……。
作中の彼らのほとんどが、一度発症すると、通い続け、クスリを服用し続け、だった。本当に、20年、30年も。
こんなにクスリを飲むんだといって、人間の飲む量じゃないですよねといって、もう身体が慣れちゃったんですと笑っていた。
そうして、作品の最後には、どんな原因かは明らかにされないけれど……追悼された患者さんたちが数名いて……いずれもベテラン患者さんたちだった。

精神病、それは“病気”として隔離すべきものなのか。それはむしろ人間そのものなんじゃないのか。
人間が人間として存在する証しなんじゃないのか。
でもならば、人間が人間として進化したことは、間違っていたのか。いや……むしろそれで病むことが健全な生物としてのあり方なのか。
ずぶとく生き続けている“人間”である私はこの作品の前に、ただぼんやりと立ちすくむしかなかった。 ★★★★☆


制服監禁暴行
1980年 61分 日本 カラー
監督:福岡芳穂 脚本:ガイラ・チャン
撮影:長田勇市 音楽:坂田白鬼
出演:秋本ちえみ 大滝かつ美 萩尾なおみ 浅野恵子 下元史郎 堺勝朗 草加力 小水一男

2009/3/18/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/WE ARE THE PINK SCHOOL!)
ライトコメディで、なおかつハードボイルドである探偵モノ、もう即座に「あぶない刑事」を思わせ、主人公を演じる下元氏も柴田恭平のライトなノリをほうふつとさせたから絶対パロディだと思っていたら、あぶ刑事とは同年で、しかも本作の公開の方が半年早い!
ま、まさか本作の影響であぶ刑事が……まさかね。うーん、それとも「探偵物語」かな?あるいは「刑事コロンボ」に近いような気がする。どこかマヌケな刑事さん、みたいな。で、それを探偵でやったのが本作で、刑事でやったのがあぶ刑事、みたいな。

女子高生の写真の白黒コピーを持って聞きまわっているサングラスの男。ある女の子をつかまえて「君、おニャンコクラブ?」と言ったのは時代を感じて思わず噴き出したが、次のシーンではその彼女と屋上前の窓に寄りかかってバコバコヤッちゃってるんである。
窓から喘いだ彼女が大きくのけぞるのを屋上側からとらえるショットは、この場面のカラミならこれ、みたいなアイディアから入っているみたいで面白い。
しかし彼、彼女にカネを請求されちゃうんである。どうも話がかみ合わない。「お客さんじゃなかったの?だって赤いセーター……」彼とソックリの赤いセーター姿で、人待ち顔でソフトクリームを舐めている男のカットがパッと挿入され、爆笑!
彼は「これ、新調したんだぞ」とブランドの名前を連呼してセーターやら時計やらを自慢するけど、その赤いセーターからしてセンスのかけらもないし(笑)。

彼は探偵のエイジ。彼が探している女子高生のコピー写真に彼女はサラサラとメイクを施す。
「今時、スッピンで外歩いている女の子なんていないわよ」というわけである。……うーむ、それってこの頃からそうだったの?私は当時、地方にいたから判らんわー。うーむ、うーむ、やはり東京はコワイところやのう。

カン違いでもヤッたんだから、と2万円をエイジに貸し付けた彼女は、借用書代わりの名刺をゲット。
このシーンも、ずりずり壁伝いに横移動する彼を追いつめるように同じく横移動する彼女、というショットが、いかにもこのバブリーな時期のライトコメディの軽さを感じさせる。今じゃこんなお約束なショット、ちょっと撮れないよね……と思っちゃうもの。
エイジのボロ事務所に、彼女が訪ねてくるのね。女子大生でありながら娼婦の彼女は、その日もガッツリ仕事を入れてクタクタになりつつもやってくる。
取り立てとか言いながら、彼が寝ている間に勝手にシャワー浴びて、夢でも見てるのか、眠りながら勃起している彼のモノを「カワイイ」とスリスリし、猫のようにベッドにもぐりこんじゃう。

寝ぼけた彼は、彼女がスッピンだってこともあってしばらく認識が出来てないんだけど(メイクした顔と全然違って、中学生みたいなんだもん!)「……君か……」と言った後はお約束のカラミ。しかしその料金も後に請求されちゃうあたりが、ヘタレの探偵さんなんである(笑)。

彼はね、彼女に対して「おかしな子!」と叫ぶように言うのよね。ラストも彼が引きの場面の中、シルエットで自転車をこぎながら、その台詞を叫んで終わる。
その、明るい軽い響きの中に戸惑っているような感じを含む言い様が、なんていうか、なんとも印象的で、チャーミングなんだよなあ。
本作で下元氏はずっとサングラスをかけっぱなしで、その優しい瞳が拝めないのがホント、残念なんだけど、この言い様とか、実にステキなのよね。

そうそう、彼は着やせするタイプだと思うなあ。華奢だと思うぐらい、スーツ着ている時なんか肩も狭いんだけど、脱ぐと凄い(笑)。ピンクはソレのギャップを存分に楽しめるから、いいわね(爆)。
いや、ピンクの華はやはり女優だし、美しい女体、特に美しいおっぱいという天からの贈り物(爆爆)を堪能出来ることに尽きると思うんだけど、本作の主人公はまごうことなくこの探偵さんだし、彼のライトなキャラからは考えられないような、ストイックに締まった身体は、ドッキドキしちゃうんだよなあー。

そういやあ、ふと思ったんだけど、女優が華のピンクの筈だけど、創成期の70年代〜80年代は、主人公的には男性の方が多いような?私の乏しい鑑賞数だけの話ではあるけど、なんかそんな感じがする……。
ピンクじゃなくても映画は、女主人公より男主人公の方がやはり多く、それはいまだにそうなんだよね……。だから男は俳優、役者と呼ばれても、女はいまだに“女優”なんだもの……。
それが変わってきたのはやはりピンク四天王が登場してからだと思うんだけど。本当にね、カラミだけじゃなく物語でも女がメイン、だという風になったのは。下元氏はとってもステキなんだけど、なんかそんな変遷をふっと思っちゃうと、複雑な思いにかられてしまう。

ま、それはおいといて。
エイジは依頼者である女子高生の父親と面会する。そこにはあの女子大生娼婦の彼女も“秘書”として同席し、怪しげなスプレーをかけたお茶を出したりして、ひと口含んだエイジはぶーと吹き出し、「お前、ナニ入れたんだよ」と詰め寄ったり……というあたりもなんとも80年代風バブリーなライト感覚なんだよなあ。
その父親が持参したのは、いわゆる裏ビデオというヤツだった。成人映画のフィクションや、アダルトビデオの緩慢さとは違って、ホンバンを映して密かに流通させる裏ビデオは遺法というスリリングも手伝って、一時代を築いたものだったろうと思う。

そこに映し出されたのは探していた女子高生。シャブを打たれて突っ込まれ、ヨダレをたらして死んでしまうという一部始終が収められていた。
エイジはノンキに「ヤクをやると気持ちいいっていうもんなあー」などと感心しながら見ていて、つまり全然気付いてなくて、横にいる“秘書”の彼女が再三彼を突っついてる訳。この子でしょ、と。
父親は、一体これをどこから入手したのか……まあ、探偵さんの他にも手づるを打っていたってことだろうけど。
そして父親は、もう探索は打ち切っていい、と言うのだ。公けにして、身内の恥をさらす訳にはいかないと。エイジはそれでいいのかと食い下がるのだけれど、父親は彼に、今までの謝礼金を口止め料も含めた分はずんで渡し、去っていった。その時には冷たい父親だと思ったんだけど……。

この父親、自分ひとりで娘への復讐を遂げるために動き出すのね。それを察知したエイジが、彼の後をついて回っては、この鬼畜裏ビデオの黒幕へと迫っていく。
というのも、あの“秘書”が、「このコは知らないけど、彼女とセックスしている男は知っている。この世界では有名な男よ」と証言したから。
巨根を誇示するフザけた通り名を持っている彼は、エイジが見つけ出す前に、父親にボコボコにされていた。
しかしコイツは末端に過ぎない。ビデオ制作スタッフ、そしてその上の黒幕へと迫っていく父親を追いかけるエイジ。
途中、父親は返り討ちに遭って、故郷へ帰る決意をする。なんていうか、この父親は……ちょっと泣かせるんだよなあ。彼は自分が娘とコミュニケーションをとらずにきたことが、こんな結果を招いたことを自覚してて、だから、公けにしなかったんだよね。
身内の恥っていうのは、自分のことだったのだ。彼がせめてもの償いをと、娘の復讐に命をかけて、でもその父親の気持ちを娘には伝わっていないことが、なんとも切ないのだ……。

そう、娘は死んでなんかいなかった。一番の黒幕の手前、SMショーを“趣味で”切り盛りしている妖艶な女にまで辿り着くエイジ。
処女突破を売り物にした緊縛ショーは、四肢を縛られて吊り下げられている女の子が、その縛ったところが痛いんだろうな、何度も苦しげに身じろぎしているのがリアルで、“処女突破”のシーンよりもね。ピンクの女優さんはメンタルは勿論、フィジカルな部分も大変だよなあ……と思うんである。
思えばさ、エイジは劇中、“秘書”の女子大生娼婦ともう一人としかカラミがないんだよね。いかにもカルそうで女の子大好きそうで、この妖艶な女とのカラミだってあったって良さそうなのに、ない。ハードボイルド探偵モノらしく、ちゃんとストイックなんだよなあ。
でも、その“秘書”にはとことんヨワくって、彼女が「ブリーフはサイテー。ペイズリー柄のトランクスじゃなきゃ」と言うのに対し、「あの、オマ、ンコみたいな柄の?」と難色を示すも、次のシーンではちゃんとそのブリーフをはいてるんだから。しかし……ブリーフがイヤっていうのは判る気はするけど、トランクスのペイズリー柄っていうのはさ……それならまだ、ガフガフの白ブリーフの方がマシかも……。

で、その“もう一人のカラミ”は、死んだ筈の女子高生、なんだよね。「今は、あそこまでヤラセしなきゃ売れないんだって」としれっと言う彼女は、自分を心配して探していたという父親のことを聞いて一瞬、曇った表情を見せるものの、本当に一瞬で、そんな、話さないし、どうでもいいわ、みたいな感じなんだよね。
ただ……その一瞬の曇った表情が、彼女の可能性を残していてさ。彼女は地方から出てきて(だから当時はメイクをしてなかったってことだよね)、東京という大都会に触れて、きっとなんか、判っちゃったつもりになってるんだけど、でも一方で、それが“つもり”であることも多分、判っててさ……若いから、若い時にしかこんなムチャできないってことも多分、判っててさ……。この時期はホントバブリーで、こんなカルく金を稼げる時代がいつまでも続くみたいな気分もあったけど、彼女には、それがどこかで終わることが判っているっていうのを感じるんだよね。

で、「オジサン、ヤッてくんでしょ」と言われてエイジ、「そうだよな」とアッサリ了承、場所は風呂場で、もう二人とも一糸まとわぬ姿、挑みかかるんだけど、なんか中途半端に彼、放棄しちゃって、彼女の父親からもらった報酬をそのままあげちゃうのだ。
狂喜した彼女にまた来てね、と言われるけど、行かないだろう……。一度あげたその報酬から「ゴメン、2万円だけ返して」(笑)と言ったのは、あの“秘書”の女子大生娼婦のことが頭にのぼったから。……なんか結構、純愛ストーリー?
彼が彼女に対して連発する「おかしな子!」という台詞も、ここに及ぶとなんか……父性的な愛情も感じられて、温かな気分になるんだよなあ。

まあとにかく、下元氏が素敵なので、本作に関してだけは、女優が華のピンクのはずだけど、彼女たちは添え物な印象かなあ。★★★☆☆


性輪廻 死にたい女
1971年 72分 モノクロ(一部カラー)
監督:若松孝二 脚本:出口出(足立正生)
撮影:伊東英男 音楽:ホルモン・アート
出演:島絵梨子 矢島宏 島たけし 香取環 橘勇二 野沢俊介 伊達順三 真田駄目男 島田清

2009/10/22/木 劇場(銀座シネパトス/若松孝二監督特集)
スクリーン上のタイトルは「死にたい女」だけで、性輪廻、という冠は見当たらない。これは成人映画としての商標としてつけられたのだろうか、などと気になる。

当時起こった三島由紀夫の割腹事件の衝撃が、生々しく描かれる。時はもう既に、学生運動も半ば時代遅れの感を呈してきて、その感覚は同じ時期に作られた作品に同様に感じ取ることが出来るのが興味深いというか……哀しさを覚える。
命を懸けていた筈なのに。いや、それが大げさなら青春を賭けていた筈なのに。
……大げさなら、と言い直してしまわなければならないほど、“時代遅れ”などという日本特有の忘れっぽさで、人々はあっという間に日常に戻っていき、“青春を懸けて”取り残された若者たちは死ぬことも出来ずに今ここに呆然と立ちすくんでいるのだ。

そう、三島由紀夫の割腹。新聞や雑誌に当時の衝撃と驚愕が、扇情的な見出しと、あの有名な、ハチマキをして片手を挙げた写真と共にドン、ドンと画面に踊る。
当時、どれだけ人々に衝撃を与えたかを想像してあまりある。いや……人々に、というか、若者に、いや……スクリーンの中の若いカップルに、である。
カップル?それすら定かではない。次郎は良子に執着していたけれど、良子にとっては“儀式”の中の最後の男に過ぎなかったのかもしれない。そうして二人は仲間たちを“送り出し”、彼らだけが生き残ってしまった。

冒頭、その“儀式”の様子が描かれる。何が行われているのか、それが何の意味を持つのか、最初だけに見ているこっちはポカンとしてしまって、それが彼らの口から語られる中盤まで待たなければ、意味が判らないぐらいなんである。
いや、語られてもイマイチ判らないところもあるんだけれど……。ちなみにこの部分だけパートカラー。しかし古いフィルムのせいか、あるいはこれはそうした処理が最初から施されていたのか、焼けたような赤茶けた色で、それが妙に寂寥感を感じさせる。

凛とした表情の女が、サクッと着物を脱ぐ。ふんどしにハチマキ姿の筋骨たくましい若い男たちがずらりと並んで、次々に彼女の上に覆い被さっては、画面のこちら側に決意の表情で走ってきては見切れて行く。
そして最後に残った男は……走っては来なかった。あれは辞世の句なのか、達筆で書かれた歌が詠まれ、そして……“明瞭なモノクロ”(ヘンな言い方だけれど)となって彼らは現実世界で絡みあっている。
女は男に、私たちは死ねなかった、逃げたのだ、と言う。その表情は決然としていて、決して負け犬のそれではない。
反して男の方は、逃げたのはあいつらだ。だって俺たちはこうして生きているじゃないか、と言いつつも、その表情は明らかに動揺していて、そうだ、自分たちは、逃げたのだ、いや、自分こそが逃げた……その事実を認められない弱い男なのだと思う心を、必死に押さえつけているのが透けて見える。
そんな中の三島由紀夫である。彼のやり方は理解出来ないけど、当時の若者……特に“逃げた”彼にとっては、自分の負け犬っぷりをこれ以上なく突きつけられたに違いない。

場面は唐突にこの女、良子の結婚シーンに突入する。と、言っても静止画でパッパッと挿入されるだけである。女は変わり身が早い。良子はいかにも立派そうな年上の男と結婚し、次郎の元を離れていった。

場面はいきなり雪深い山奥へと変わる。次郎はここに死にに来たのか、どこから調達したのか三島由紀夫が持っていたような刀を携えて旅館に投宿している。
彼が「あの偉いセンセイのように」自殺すると心配した女中が女将に知らせて、彼女が次郎を説得の真っ最中である。
オレは本気だ。死ぬんだ。一度死にそこなったんだ。女将さん、一緒に死んでくれないかと畳み掛ける。
一度は笑い飛ばした女将だけれど、彼女の頬をかすめて刀を襖に突きつけた、血走った目をした次郎に冷たく鋭い視線を向けた。
その胸元には、一目見て刀傷と判る古傷があった。次郎はひるんでしまう。「そう、私も死にそこなったのよ」……女将は男との心中未遂を語りはじめるんである。

奇しくもその心中相手の木原という男こそ、良子の結婚相手だということが後に判るのだけれど、女将が語り始めるその回想シーンが、白っぽい照明で飛ばしてはいるものの、明らかにこの女将であり木原がそのまま若作りで演じているので、笑う訳にも行かず……なんかちょっと困っちまうんである。
女将はその二重あごがそのままだし、木原の方も男くさいマンダムな顔つき(?)なんだもの。

しかし当然、回想の中の二人は真剣で……。当時木原は今の次郎と同じように女に去られて(死なれたんだったかな)死のうとしていた。そしてその木原に、旅館の跡とり娘だった女将はウブな女の子だったのだろう、どうしようもなく恋に落ちてしまった。
彼が失恋した女の替わりに自分と死のうとしていても、それはそれでいいと思った。だって彼は「あの人の思い出を持って、君と出会えて死ねる。幸せだ」と言ってくれたんだもの。
……って、それってヒドイ言い草だけどさ、それがヒドイってことさえ、恋に酔っていた当時の女将は気付いていなかったに違いなく……一面の雪の中、橋の上から川の中に飛び込もうということになる。

しかし木原は、情けなくも怖じ気づく。思わず笑い出してしまう彼女。やっぱりダメだという彼を今度は彼女が引っ張って、もう死ぬしかないのよ、と雪原の中へと歩いていく。
目をつぶって彼が斬りつけるのを待つ彼女。一方の木原はぶるぶる震えて、いかにも情けない呈なんである。
僕もすぐ後から行くよ、とか言いつつ案の定、彼女を斬りつけた木原は、一層の恐怖にかられて逃げ出した。
真っ赤な血で雪原を鮮やかに彩った彼女が、這いずって必死に待ってと声をかけるのを振り切って、逃げた。

……この画は、ちょっとあまりにツラすぎる。一緒に死ぬ甘美の途中で、男が自分だけを殺しかけて逃げるなんて。
しかもそれっきり。10年の長き間二人は会っていなかった。
奇しくもこの橋の上、お互いがお互いの相手に昔話を語るために選んだその場所で、女将と木原は再会したのだ。と、いうことは次郎と良子も。

次郎は当然激昂して、良子を取り戻そうとするも、良子は頑として聞かない。あの女将さんとの昔話なら聞いたわ。それがなんだって言うの、と言うんである。
次郎にしてみれば、ここで良子だけが人生をやり直したら、まさにあの時、木原に置き去りにされた女将のように、自分だけが傷を負って取り残されると思ったに違いない。

しかし意外なことに、というか、当然というか、木原は女将の部屋を訪ねた。
最初こそ敬語でぎこちなく話していたけれども、あの時の話を重ねるうちに涙を流す女将に「なつ」と呼びかけて木原は彼女を抱き寄せた。
そしてまあ……成人映画なのでカラミに突入するのだけれど、女将の、女子プロレスラーもかくやと思われるような、ふくよかというよりはむっちりとたくましい二の腕に目を奪われてしまう。
女将はこれからやり直そう、生きなおすんだという木原に首を振り続けて、いや、私は今でも死にたいんだと言い募るんだけれど、彼女の方がよっぽど生命力がありそうなんである。

死にたい女、というのは、つまり、この女将のことだったのだ。ヒロイン然として出てくるのは良子の方だから、しかし彼女はあっさり玉の輿(は大げさかな)に乗ろうとしているからあれれと思っていたら、そうか、女将の方だったのだ。
それはつまり……集団としての絆の死や、思想を全うしての死(三島ね)に憧れて、それが出来なかったがゆえに男として生きていけなくなったと、勝手に恥辱にまみれている男の情けなさと違って、女将はこんなたくましい身体ながら(失礼)、あの初恋の純情を実に10年間持ち続けて、再会した木原と今でも一緒に死にたいと願っているのだ。
そしてかつての木原のように、まだまだ個としての死(つまり尊厳のある死)を判っていない青臭い青年である次郎に、一度は抱かれようと思ったのも(結局出来ない!とやめちゃうけど)、あの頃の甘美な思いを忘れられなかったからなのかもしれない。

しかも更に意外なのは、その女将の思いを木原が受け止めたことなんである。
いや、意外ではないかもしれない。それこそ木原は今ならば、個としての死というものを理解できるだけの人生を積み重ねたのだから。それをまだ、純情娘の頃から本能的に理解していた女将にようやく並べたということなのかもしれない。
一緒に生きることも一緒に死ぬことも、大した違いはないという究極の理論さえ持てる程に。

ならば一緒に死のうと、しかもその決意を良子と次郎に打ち明けに行く。その表情は女将のみならず、木原までもハレバレとしていて、まるでそれこそ、これから結婚するんだと言わんばかりの晴れがましさなのだ。
次郎たちの前で最後の睦みあいをする二人は白装束で、それは確かに死にに行く格好に他ならないんだけれど、新婚夫婦、あるいは初夜の聖性さえ感じてしまうのだ。

縛り上げた二人を、真冬の凍りそうな川に突き落として、二人の死を見届ける良子と次郎。
「アッサリしてるわね」と良子が笑い、次郎も笑う。なんというか……いきなり、明るいんである。いきなり明るいジャズなんぞがかかりまくり、二人は鼻歌を歌わんばかりの楽しげなドライブをするんである。
なんかその突然の転換が怖くて……若いから、一度思い直してしまえば早いのかとも思うけれど、その明るさがあまりにも今までの彼らと違うから、怖くて。
しかも二人は戯れになのか、あるいはエンストを起こしたのか、踏み切りの上で車が止まり、迫り来る電車を目にしても微笑みあうばかりなんである。

てっきりそのまま二人は死んでしまうのかと思ったら……この寒々しいほどの明るさの中で死んでしまうのかと思ったら、アッサリカットが切り替わり、雪の街の中を車が走り去っていくのだ。相変わらず明るいジャズの中で……なんだか異様にも思えるラストでちょっと、怖かった。
でも思えば、彼らが送り出したふんどし姿の男たち、それはきっと三島のあの現場、決起の場面に行ったようにも見え、つまりそれは三島の死に衝撃を受けた彼らの妄想かもしれなくてさ。
だってモノクロに切り替わるのが、夢からの転換のようにも見えるのだもの。

死というものの深い造詣に降りて行きながらも、どこまでが本当の死なのか、そして生なのかが混沌としていて怖くなる。★★★☆☆


ゼラチンシルバーLOVE
2008年 87分 日本 カラー
監督:繰上和美 脚本:具光然
撮影:繰上和美 千葉史朗 音楽:今堀恒雄
出演:永瀬正敏 宮沢りえ 天海祐希 役所広司 水野絵梨奈 香月さやか

2009/3/19/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
きっと写真界では大御所であるのだろうけれど、私自身はその方面には全く無知なので全然知らなくて。
だからあくまで、初めて映画を撮った人、として、その新鮮な興味として対峙したんだけど……なんていうか……。

こんなことは絶対に言いたくないんだけど、のだめちゃんが千秋先輩の台詞として峰君に言っていたのを思い出してしまった。
「そういうのをオナニープレイっていうんだよ」っていうね……。
(言いたくないとか言いながら言っているあたり……)。
写真家であるということを気にしないとか言いながら、多分私、それを頭の片隅に置いて観ていたんだよなあ。

でもそれもしょうがないというか(言い訳)、予告編ではまさにその魅力が全開だったんだもの。
本編だけに対峙していたら意味不明だったタイトルも(いや、本当はどういう意味なのかは知らないけど(爆))、あの予告編の前衛的でアーティスティックで、しかもセンシティヴな濡れたような美しさは、ああ、確かにゼラチンシルバーLOVEかもしれない、などと意味不明に納得しちゃったもの。

でもその時点で、すでに「オナニープレイ」の危機は露呈していたのかもしれない、とも思う……。予告編で提示しているのは、いわば一瞬の美しさ、なんだよね。流れのある美しさではない。
そしてそれは図らずも、写真という芸術に特化するもので、映画ではないんだよね……。
劇中、謎の女に魅せられるのは落ちぶれた写真家であり、彼はビデオの中の女を、流れの中の女を、しかも映し出されたモニター越しにカメラに収めるんだもの。わざわざ一瞬の中に閉じ込めようとするんだもの。

その時点でこれが「オナニープレイ」になるのは大決定で……まあだからこそ彼は、彼女に殺されてしまうのかもしれない。つまり作者はそんなこと百も承知で、彼を彼女の銃弾の下に倒したのかもしれない。
時間の流れの中に生きている女と、その流れを止めようとする、自身はもう過去の時間の中に止まってしまった男。
でもその自虐的な感覚こそが、まさに自慰的に感じるんだよなあ……。

というか、予告編で感じた先鋭的な美しさを、本編ではなかなか感じ取ることが出来なかったから。
予告編は短く、印象的な部分を拾うという点で、まさに映画と比すると写真的、なのかもしれないんだよね。印象的な場面を切り取っていく、宣材写真の延長線上。でも映画は流れが止まらないから……。
でも、流れの中でも常に刺激的な画を差し出してきた作家はいるわけでさ。どこを切り取っても、一瞬の芸術になる映画作家が。
今パッと思いつくのは寺山修司かなあ(爆。遡りすぎ)。決して一瞬の芸術と時間の中の芸術が相容れないことはないと思うし。

でもね……本作は、それこそ予告編で提示された画以外の部分は、ただただ見せられているような、冗長な感じを受けてしまった。
中盤までまるで物語が動かなくて、男が女を監視し続けるだけなんだけど……それがね、ホント、長すぎる上に、ベタ撮りなもんだから、あれっと思ったんだよね。あの、フェティシズム溢れる予告編の魅力はどうしちゃったのかなと思って。
まるで時間の経過をそのまま観客にも強いるかのように、ビデオテープの巻数がどんどん増えて、積み上げられていくだけ。

そりゃ、その撮る男、永瀬正敏と、撮られる女、宮沢りえはダークなブルーグレイの絵の中にハードボイルドとでも言いたい佇まいで実に美しいんだけど……でもそれも尺的に限界があるしさあ。
ところで、そう、これってつまり、フェティシズムの映画なんだよね。物語の筋でいえば、拍子抜けするほど単純。
女は殺し屋、彼女を監視する男は、女に殺しを依頼した闇の世界の男からの命を受けた、カメラマン崩れの男。

結局、女が殺し屋であるという以上の詳細な素性も、彼女に仕事を依頼した男がどういう存在で、なぜそんな仕事を依頼したのかも、彼女を監視し続けるカメラマン崩れの男が、なぜ落ちぶれ、こんな意味不明な仕事を受けたのかも、何ひとつ明確にされない。
単純というよりも、ちょっと手抜きじゃないのとさえ思う。それを明らかにする尺が足りないという訳じゃない。中盤まではこっちが飽き飽きするほど、彼は彼女を監視し続けるのだから。
そりゃ、物語や設定がカッチリしていることが、映画に置いていいことだなんてほどには単純に思わないけど、でも本作において、それをはぶくことが作品世界を構築する上で重要だとまでは思えないんだもの。

それにね、それこそ写真では修整されるであろう一瞬の美への追及が、ここでは映像だから、アラが見えてしまうのもキツくてさ……。
ありていにいえば、一瞬の美の対象となる、宮沢りえ嬢がツライってこと、なんだよね。
彼女は確かに美しい女性で、見る度に美しくなって、大好きな女優さんだけど……本作では一瞬の美=写真の彼女の美しさにこだわるがゆえに、映像の彼女にはあまり注意が払われていない気がする。

女優にとって、殊にこうした、美しく崇められるキャラとしての役どころの女優にとって、アップってのは非常なる重要事項だと思われる。
しかも本作はとにかくフェティシズム、毎朝半熟ゆで玉子にかぶりつく彼女に欲情する男(セキララに、彼が自分の股間に手を伸ばすカットも何度となく挿入される)、というのが最重要モティーフなのであるから、それを美しく撮らないと意味がない。
彼がビデオ越しにカメラに収める写真に関しては、確かにそれは成功しているんだよね。ぷりっとした白身からぐにゃりと生気味の半熟の黄身が盛り上がり、どろりと流れ出すそれを、真っ赤な口紅を塗った唇から這い出た舌がぺろりと舐めとる。その一連を連写した写真はモノクロだっていうのもあって、実に艶やかに、エロティックに、切り取られてる。

でもね、彼がカメラ越しに眺めるソレは……りえ嬢は美しい女性だけど、メイクをした女をアップにするというのは、それだけで凄いリスクがあるのだ。
肌に乗った化粧の粒子まで生々しく見えちゃうし、ことに彼女は一度急激に痩せたこともあって、口の両側の、いわゆる法令線がアップにするととても目立っちゃって、なんか、痛々しい。

極妻の岩下志麻が後年、過剰なまでの照明を当ててハレーション気味になっていたことは、映画ファンの間では苦笑気味のエピソードだけど、女ざかりの筈のりえ嬢でさえ、無粋に撮られてしまえば、こんな残念な結果になってしまうのだよね……。
ことに、ちょっとアヴァンギャルドに銀のウィッグなどかぶって、きつめのアイメイクをした彼女は、さらにメイク荒れが目立って辛かった。
アップの時はもうちょっと気を使って、引きで魅力的なカットをもうちょっと考えてくれればなあ、などと思ってしまう。りえ嬢ひいき、なだけになんかホント、残念だったんだよなあ。

サイレンサー銃?を華麗に駆使する彼女が、一体何者なのか、結局は明かされないで終わるのだけど、彼女に魅せられた彼は、ついつい彼女の後をつけてみたりする。
その道行きの途中、彼が「美しい」と感じた風景が写真におさめられるシークエンスは、いかにも写真家の矜持を感じるけれども、なんせこんな感じの経緯なもんだから、あんまり感心する気は起こらない。
実際、彼の写真を見た依頼者の男(役所広司)は、「これはカビ?なんでこんなものを撮るんですか」と苦笑し、彼はそれに「僕はそれが美しいと思っているから」と真顔で反論するんである。

……なんかこの時にね、決定的に「オナニープレイ」という言葉が確定しちゃったなあ、と思ったのね。彼のこの言葉が、監督の言葉でもあるんだろう、と思って。
監督は、法令線が出ているりえ嬢も美しいと思ったから撮ったんだろうって。それはある意味では、女性の真の姿を映し出す、素晴らしいことなのかもしれないけど、やっぱり写真対映画という違いを露骨に感じちゃうと、単に手抜きのように思えてならなくなる……。
“僕はそれが美しいと思っている”って、そう言っちゃえば、全部通用してしまうし、観客に対してバリケードを張ってしまうものだよね。お前ら凡人には判んねえだろ、みたいなさ。
そんなことを勝手に感じ取って、引いちゃうのだ。そりゃ凡人には芸術の何たるかなんて判らないのかもしれないけどさあ……。
そういやあ、りえ嬢が部屋の中ででんぐり返し体操?を行っているっつーのも判らんが。これも“真の美しさ”?監視している彼がそれを自分でも真似るのは、彼女への愛の行為?うーん、判んないなあ……。

彼は彼女のゆで玉子のゆで方にも、大いなる感心を寄せる。500ミリリットルのペットボトルの水を小鍋に入れて、そこからキッカリ12分30秒「一秒も狂ってはいけない」と、スーパーの玉子売り場で偶然遭遇した彼女に、熱に浮かされたように訴える。
この場面、売り場に入る前に彼がカートを押したまま白っぽい画面の中を左右に何度も往復するのが、これもゲージュツ?でもこの時点になると、そういうのもうっとうしくってしょうがなかった。

彼はよく名画座に出かける。健さんの網走番外地がかかっているレトロな映画館。彼はそこに、一人きりアウトローな自分を見い出していたんだろうか。
しかし、その彼お気に入りの場所に彼女に仕事を依頼した男が来ているってのも偶然にしても出来すぎだし、彼女をつけてきたにしても、彼女が男を狙撃する場面を彼が目にしてしまうというのも出来過ぎだよね。
まあそれを言っちゃえば、彼が彼女の“仕事”の場、車の中の男を狙撃する場面に遭遇するのも、彼がその新聞記事を読んでいるカフェの目の前に彼女がいて牽制するのも、お互いに意図があったにしても出来すぎだけどさ……。

こんなシーンも気になるし。途中、彼が依頼人にたまったテープを渡す場面。
彼は、依頼人に、「あの女は一体何者なんですか?」と尋ねる。
それを今更聞くか……この場面で聞くか……依頼された時に聞かなかったのか……。
もの凄く、ご都合主義に思えちゃう。そりゃ、彼が彼女に見せられたから発した疑問だと判ってても。

かのゆで玉子の件で、彼が自分のことを観察していることを知った彼女は、彼を始末に乗り込む。やはり来ましたね、と嬉しげに……多分自分が殺されることを予期して言った彼に、その通り、容赦なく銃弾を打ち込んだ後、彼女は部屋中に貼られた、自分のフェティッシュな写真の数々を見るのだ。
この時にね、彼女が驚きと若干の後悔みたいな表情を見せるのが、逆に残念な気がした。確かにそんな表情を見せてくれることを心のどこかで期待していたのはホントなんだけど、でもここはひたすらクールに、なんぼのもんぐらいの感じで一瞥したまま去ってほしかったなあ。去り方は颯爽としていただけに、もったいない気がした。
つまりは、観客側、いや、単に私が、単に色々希望しちゃう気持ちがあっただけなんだろうけれど……。

そういやあね、彼がゲーセンで出会った少女とカラオケに行き、すわエンコウになるか、なんてエピソードも用意されている。あのエピソードの意味はイマイチ判らんかったけど、服を脱ぎだす彼女に、手を出すことが出来ない。あれは、何だったのかなあ……彼がマトモな性欲を持てないという暗示?よく判らないけど、現代社会の一面を映し出したとかいうんだったら、凄いベタな気がするけど。

彼には行きつけのバーがある。彼の他に客がいたことはない。ママは凛とした美しさの天海祐希。そしてバイオリンを弾き続けている女がいる。
彼は問わず語りに話す。砂漠の中一晩中逆立ちした虫が、焦がれ続けた朝露を獲得し、その直後、昇る太陽に一瞬にして焼き尽くされる。自分が死んだことも気付かない。
「そんな風に、幸せの絶頂の中死ねたら最高ですね」
と言ったのは、ママだったのに、それを実行したのは彼の方だった。

印象に残ったといえば、写真が焼かれる時の、火傷がふくれるような痛々しさぐらい、だろうか。
もっと映画を大切に思ってほしい、なんて不遜だけれど……。★★☆☆☆


選挙
2007年 120分 日本
監督:想田和弘 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:想田和弘 音楽:
出演:山内和彦 山内さゆり 浅野文直 石田康博 石原伸晃 荻原健司 川口順子 小泉純一郎 高尾紀久雄 田中和徳 永井はる子 橋本聖子 松川正二郎 持田文男 矢沢博孝 山際大志郎 山田甫夫 川崎市の皆さん 自民党川崎支連の皆さん 各後援会の皆さん ウグイス嬢の皆さん 東大同窓生の皆さん

2009/8/4/火 劇場(渋谷ライズX)
興味深いテーマだとは思いつつ、正直観るつもりは全くなかったのだけれど、この監督の「精神」に深く動かされたのと、その際の舞台トークで本作の主人公、山内氏のことを「ヤマちゃんが……」と親しげに呼びかけていることから、そんなに親しい間柄の相手を対象にした選挙のドキュメンタリーということに素直に心惹かれたからなのだった。
だって、ねえ。正直政治も政治家も興味ないし、政治家が選挙にどんな風に出るか、なんてどーでもいいよという気持ちの方が正直なところ。
でもそれが監督の友達であり、40歳という私と近い年齢であり、そうするとその奥さんも近い年齢なんであって。
2年前に結婚した二人の間には子供がいなくて、そして奥さんも働いていて……などという、一人身の女にも充分過ぎるほどの興味深い要素がてんこもりだったので、予想以上に面白い要素が多々あったのであった。

そうなの、確かに見たことのない選挙の裏側も、確かに面白いことは面白い。選挙で政治家を選ぶということは、決してその人を頼りに、この人に託して、信じて選ぶというんじゃないんだという、薄々感じていたことを改めて強く認識する。
「街頭演説の横を通り過ぎる人たちが耳にするのは、せいぜい3秒。細かく政策を聞いている人はいない」と、とにかく名前を覚えてもらうために連呼すること、それはまあ、新人である彼の活動としては確かに頷けるのだけど、正直バカバカしいとしか思えないしきたりばかりが跋扈しているんである。
“先生”がたの応援をありがたがり、次の選挙ではライバルになる“先生”がたの後援会の人たちに“今回限り”と冗談まじりに、しかし超マジに頼み込む。
目も回るほど忙しい選挙活動中、“先生”がたを待たせたことで「キミの選挙なんだから」とカミナリを落とされ、平身低頭。
一体何のために立候補しているのか、彼のゴールは一体どこなのか、ガラガラ声になって米搗きバッタのように頭を下げる彼を見ていると、何とも哀切な気持ちになってくるんである。

で、その中での奥さん、なのよね。選挙の応援をしてもらう奥さんは“妻”ではなく“家内”、というくだりが出てきた時に、もう不穏な空気は感じていた。
妻と家内でどう違うのか、確かに日本語のニュアンスとしては違いはあるけれど、今回国際映画祭向けに作られたのか、英語字幕がついた上映だったから、その違いが実にハッキリしたのだ。
妻は“ワイフ”であり、家内は“ハウフワイフ”。アメリカの大統領はワイフと言うけれども……などという会話も取り沙汰され、しかし選挙のベテランである劇中の人々は、女性ですら、「妻、は違和感があるよね。選挙では」とさらりと言ってのける。
それは「丁寧にする“お”をつけるとおっかない(怖い)になる」というテッパンジョークの下敷きになっているとはいえ、英訳になるとよりハッキリするこの違いに、一人の社会人として働いている奥さんが爆発するのは無理からぬことなんである。

だってさ、“ハウスワイフ”なんだもん。それってさ、家にいろ、家から一歩も出ずご主人様を立てるのが仕事だって、言ってるようなもんじゃない。
それでも夫の夢を実現させるべく「山内和彦の家内でございます」なんてウグイス嬢までやって頑張ったのに、その上にベテラン後援会のお歴々に、奥さんは仕事を辞めてご主人を支えるべきだ、と言われて、彼女はさすがにキレちゃうんだよね。

今エラい政治家さんになっている人たちは、そこまでに行くにはみんな奥さんに食わせてもらっていた、というやりとりもあったりしてさ、キャリアウーマンの女性が持ち上げられる風もあるわけよ。
でもね、それは“エライ政治家になるまで”なんだよね、あくまで。女性のキャリアを重視するんじゃなくて、いずれエラくなるダンナの食い扶持を稼いでいるに過ぎないのだ。感謝しているようでいて、見下している。“オッカナイ”なんて、結局軽視しているってことなのよ。
そうなんだよね……アメリカの大統領はワイフというけれども……なんだよね。いまだに日本は“家内”であり、夫を陰ながら支えます、であり、人として見られていないぐらいなもんであり……。

特にね、子供がいないとなれば尚更なのよ。彼らはまだ結婚して2年あまり、いなくても不思議じゃないんだけど、それこそ“オッカナイ”を引き合いに出されて奥さんを紹介された時、「選挙で勝つことよりも、彼には子作りを伝授しないと」なんてセクハラギリギリのことを言われたりしてさ、二人とも苦笑いするしかなくってさ……。
でね、奥さん、爆発しちゃう。しかも彼らが闘う選挙区である川崎は、共働きの若い夫婦の多い街。それが選挙を争う重要ポイントなのに、私に仕事を辞めてダンナにつけというのか、しかも当選するかも判らない、今回当選しても、次回当選するかも判らないのに!と彼女はもう、たまりにたまって激昂するのだ。

確かに私は女だから、ついついこういう場面に着目しちゃうけど、でもここは確かに一番盛り上がるところだと思ったなあ。
“先生”や道行く人にアタマを下げて、カメラのこちら側の監督や久しぶりに会う同窓生にも、親しさは垣間見せても動揺は見せなかった彼がさ……。
そんな戦闘モードの奥さんに対して「ハイハイ言ってればいいんだよ」と事なかれ主義の彼はいささかナサケナイとは言えるけれども、確かに彼女の言うことがもっともだってことも判ってて……。

カメラがかなりギリギリまで二人に張り付いているんだよね。正直、彼女の爆発をカメラに収められたこと自体、ちょっとオドロキだったんだけど(……まあ多少は打ち合わせもあったのかなあ……なんて、勝手に言っちゃいけないか)、その後、ぶちまけて何とかクールダウンした彼女が、引っ越ししたての狭いアパートでせんべい布団をしいて、彼と二人、疲れきった身体を投げ出すところまで、引いてはいるけどちゃんとカメラがとらえているのが……ドキュメンタリーであり、“観察映画”というスタンスなのに、すごい、ドラマティックだな、と思ったのだ。

まあ、私が女だから、こういう場面にやたら注目しちゃうけど、無論その殆どは、彼の終わりなき選挙活動、なんである。
……あ、ここから舵を切りなおそうと思ったんだけど……でもね、やっぱりさ、選挙って、いまだ男社会だなと思うのは……、そりゃさ、今の時代だから女性候補者もいるし、むしろ彼なんかよりずっとずっとベテランの女性政治家がライヴァルだったり、応援に駆けつける同胞だったり、するんだけど、彼女たちには“家内”にあたる応援するダンナなぞは、……いないんだよな。それはやはり、妻ではなく家内であるからこその存在であり、夫もダンナもご主人様も、全て同義語なんだもの。

そもそも、この山内氏は、立候補した川崎の出ではない。彼には確かに政治家になりたい野望はあったけど、それは“野望”と言っていいほどのものだったか……。
「もう少し有名になってから、区議かなんかになる、それが器だと思っていた」
その“有名”がどれほどのものなのか判んないけど……まあ、地元で多少名を売る、ぐらいのことなのかもしれないけど、まさか自民党公認で、選挙戦最終日には当時の小泉首相まで駆けつける事態に発展するとは、彼は予想もしていなかったのだ。

知り合いの誘いで補欠戦の公募に応募したら、思いがけず通ってしまった。東大卒ってだけで良かったんだよ、と彼は謙遜とも自嘲ともつかない心情を吐露する。
その東大で本作の監督とも同窓であった訳で、確かに東大など手の届く筈もない凡人にとっては、ああ、東大なら担ぎ出されるのもムリないわ……などとついついひがみっぽく思ってしまう。
けれど、彼自身、その肩書き“のみ”であることがどんなにミジメなのかは身にしみて判っているんであって。

彼の経歴は、あんまり強調されないんだよね。とにかく自民党公認、政治に関わったことはないけれど、その市民感覚で頑張ります、みたいなさ。
しかも地元じゃないし、長年地元密着の政治家を支持してきた市民には、シンラツなことも言われちゃう。そんなことは、彼が一番良く判ってる訳でさ、そうですよねー、みたいな、ちょっとグチめいた内幕をウッカリ話しこんだりしちゃったりさ。

それでも、長年地元で活動し続けてきた野党の政治家を差し置いて、彼は当選してしまう。
自民党という大きな組織のバックアップ、そしてこの当時は、大胆な改革を掲げた小泉首相のキャラのインパクトも手伝って、“改革の自民党”と連呼すれば、ヨソモンのワカモンの新人候補者でも通ってしまう時だったんだよね。
まあ彼はかなりギリギリ……市議会議員とはいえ、補欠選挙でたった1000票しか差をつけられない、ホントにヒヤヒヤだったんだけど、それでもさ、ヨソモンのワカモンの新人候補でも、自民党なら通ってしまうんであり、いかに人ではなく組織であり、政策ではなく、組織であること、を如実に明らかにされちゃったなあ、と思うのだ。

……でもそれは、とっくに判っていたことでもあって、ああそうかと思うばかりではあったんだけど。でもね、興味深かったのは、それが本当に、リアルに現場を映し出すことで明らかにされたこと。
ベテラン議員をずっとサポートし続けている後援会のオバチャンが、公明党後援会員との確執を吐露する場面なんか、ちょっとワイドショー的ではあるんだけど、すっごい、面白かったなあ。
そのオバチャンは普段は、いわゆる不動産業なのね。選挙で顔見知りの公明党後援会員に事務所を貸してしまったことで、党を挙げての大トラブルに発展してしまう。
オバチャンは、自分の仕事として事務所を貸すのは当然と言いつつ、それでも公明党に対する生理的嫌悪はあらわにする。
その辺の、生きていくための生業と、政治的理念、つまりはボランティア的に活動している、自分が誇りに思ってる、言っちゃえば、自分が好きな自分、とのギャップが、はたから見れば明らかなのに、本人は全然それを認識していないっていうか……いや、多分判ってて、したたかに、区別しているんだろうと思うけれども。

主人公の山内氏、監督がヤマちゃんと呼ぶ彼は、確かに最後までヤマちゃんたる風情を崩さないんだよね。確かに「自民党公認の山内和彦、小泉改革を推進してまいります!」の台詞はひたすら連呼し、とにかく勝つぞの姿勢は崩さないんだけど……。
でもね、まあ、これがドキュメンタリーだからだろうな。彼の“やらされてる”感がすんごい、共感を覚えちゃうんだもん。
父兄たちが多数集まる幼稚園の運動会を回って歩いている“先生”に倣って急ぎ駆けつける彼だけど、「そういう場じゃないから」とアッサリたしなめられて(“先生”たちは、そういう場をメッチャ利用してるのに)園児たちとラジオ体操するしかない、みたいなさ。それでも、名を売れて良かった、みたいなさ。

……ホントにね、何のためなんだろうって思っちゃうのだ。
言っちゃ悪いけど、彼はこの川崎のために立ち上がった訳じゃなく、政策は急いで勉強して作り上げたに過ぎず……。
でもね、何より私たち選ぶ側の有権者が、そういう候補者を自ら奉ることも出来ず、結局は自民党の後ろ盾の、選挙のために移り住んできたような人を当選させてしまうんだもの。
確かにこれは、川崎という、東京のベッドタウンの、それもあまり注目が集まらない市議の補欠選挙だからこそ成立したことなのかもしれない。けれども……今の情報化社会、きっとどこでも、成立してしまうことなんだよね、きっと。

ホントにね、監督のなじみの人だからこそ、主人公、山内氏の見せる、隠そうとしているんだけど隠しようのない生々しさが、何よりの強み、なんだよね。こんなにポスター貼られるのもないでしょ、などと写真を撮る様がそれこそ、“市民派”で。
彼は地元で切手コイン商を営む、いわばオタク系自営業。その趣味のルーツは郵便局員だった親によるものであり……図らずもそれが、小泉政権の郵政民営化や、市民の視線の政治といった、プラスマイナス両方の要素に作用してて、それがこの作劇にすんごい面白い要素になってるんだよなあ。

「精神」の舞台トークで監督は、本作のアンコール公開のことを、選挙のたびに(アンコール)公開されると語ってた。おかげで私も観られた訳だけど……。
ここで描かれている日本の選挙活動、あるいは政治活動って、世界的に見てもほおんとに独特で、というか旧式で……立つ人ではなく、党であり、3秒の間に聞こえる名前であり、ウグイス嬢の心地よい声であり、そして慎ましくそばに控える“おっ“家内””なんだよね。
なんつーか……改めて、ガッカリしちゃった気もしたけど、怒った“家内”である山内氏の奥さんの存在が、ちょっと救いになった、かもしれない。 ★★★★☆


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